↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
67/85

第67話 婚約者として学ぶ前に、俺が知りたいこと



 翌朝、目を覚ました俺は、しばらく天井を眺めたまま動かなかった。


 身体が重いわけでも、眠気が残っているわけでもない。昨日の朝は二十分だけ剣を振ったものの、その後に身体へ大きな負荷をかけるようなことはしていないため、腕にも脚にも疲労は残っていなかった。


 それでも、すぐに起き上がらなかった理由は別にある。


(昨日、キスしたんだよな)


 思い出した瞬間、東屋で向かい合ったリビアの顔が鮮明に浮かんだ。


 最初は近づいたところで彼女が「待って」と言い、俺は止まった。そのあとでリビア自身がもう一度近づきたいと言ってくれて、互いに確認しながら距離を縮め、ようやく唇が触れた。


 短いキスだった。


 それなのに、一晩眠っても感触まで思い出せる。


(……朝から考えることじゃないな)


 そう思って身体を起こしたものの、昨日の出来事そのものを恥ずかしがる必要はない。嬉しかったことまでなかったことにする方が、今の俺には不自然だった。


 窓辺へ歩き、カーテンを開ける。


 今日も空は晴れている。


 剣を振ろうと思えば振れるが、昨日は朝に二十分練習しているし、イザークとの再戦を断った理由も「今日は二回やりたいほどではない」だった。今朝になって急に昨日の分まで動かなければならない理由もない。


(今日はいいか)


 軽く身体を伸ばすだけにして、朝食へ向かう準備を始めた。


     ◇


 部屋を出て廊下を進むと、階段へ差しかかる少し前でリビアと会った。


「おはよう、セス」


「おはよう」


 いつもと同じ挨拶だった。


 ただ、目が合った直後、二人ともほんの少しだけ止まる。


 リビアの頬が薄く赤くなり、たぶん俺の顔も同じようになっていた。


「……昨日のこと、思い出した?」


 小さな声で聞かれる。


「うん。リビアも?」


「起きた時に」


「同じだね」


「うん」


 それだけで、また少し恥ずかしくなる。


 けれど、昨日のキスについて朝から長く話すことはしなかった。並んで階段を下り始めると、リビアが俺の服装を見て首を傾げる。


「今日は剣やってない?」


「うん。昨日やったから今日はいいかなって」


「身体は大丈夫?」


「問題ないよ。やろうと思えば出来るけど、今日はいい」


「そっか」


 リビアはそれ以上確認しなかった。


 最近はこのやり取り自体も短くなっている。


 俺が「大丈夫」と言うだけで無条件に信じるというより、日頃から自分で負荷を調整していることが積み重なった結果、毎朝細かく確認する必要がなくなってきたのだと思う。


「今日、放課後どうする?」


 俺が尋ねると、リビアは少し考えてから首を横へ振った。


「まだ何もないよ。セスは?」


「俺も今のところない」


「じゃあ今日も一緒に何かする?」


「そうしようか」


 答えたところで、昨日グレイヴから聞いたことを思い出す。


「でも、旦那様から婚約者としての勉強について近いうちに話したいって言われてるから、連絡来るかも」


「あ、それ私も昨日、お父様から少しだけ聞いた」


「何て?」


「まだ授業を始めるんじゃなくて、セスが何を知っておく必要があるかだけじゃなくて、何を知りたいかも聞きたいって」


 俺は足を少し緩めた。


「俺が知りたいこと?」


「うん。お父様、それを大事にしたいみたい」


 昨日グレイヴからも「セス自身の希望を含めて整理したい」と聞いていた。


 でも、改めてリビアから聞くと、その意味が少し具体的になる。


(何を知りたいか、か)


 公爵令嬢の婚約者として必要なことなら、礼儀や社交、家の運営、領地、警備、貴族同士の関係など、いくらでもありそうだ。


 けれど「必要だから学ぶもの」と「俺が知りたいもの」は、同じとは限らない。


「考えておく?」


 リビアに聞かれ、俺は少し迷ってから首を横へ振った。


「学校行ってからでいいかな」


「今すぐ答えを作らない?」


「うん。まだ話す日も決まってないし」


「分かった」


 リビアが笑う。


 そのまま朝食へ向かいながら、俺は答えを急いで作らないことにした。


     ◇


 学園へ到着して教室へ入ると、イザークはまだ来ていなかった。


 先にいたサザリーへ挨拶をして席へ着き、授業の準備をしていると、少ししてナナリーとミリアナが一緒に入ってくる。


「おはようございます、クルセス様」


「おはよう」


「今日はオリビア様と普通ですね」


 ミリアナが唐突に言った。


「普通?」


「昨日、帰る前は二人とも顔が赤かったから」


 手にしていた教科書を落としそうになる。


「ミリアナ」


 ナナリーがたしなめるように名前を呼ぶが、本人は悪びれずに笑っている。


「だって気になるじゃない」


「聞かないって昨日言ってたでしょ」


「だから何があったかは聞いてないよ。今日は普通だねって言っただけ」


「それを聞いてるのとほとんど同じでは?」


 サザリーが静かに指摘すると、ミリアナは少し考えたあとで肩をすくめた。


「じゃあやめとく」


 俺は少し離れた席のリビアを見る。


 彼女もこちらの会話が聞こえていたらしく、教科書で口元を隠していた。


 目が合う。


 昨日のことを話すつもりはない。


 でも、隠さなければならない悪いことをしたわけでもない。


「楽しかったよ」


 それだけ答える。


 ミリアナが目を細める。


「それ以上は?」


「二人のことだから言わない」


「分かった。そこまで言われたら聞かない」


 今度は本当に引いてくれた。


 ナナリーも安心したように微笑む。


「では、楽しいデートだったということだけ覚えておきます」


「うん」


 その程度なら構わない。


 初めてのキスは、今のところ俺とリビアだけが知っていればいい。


     ◇


 午前の授業は、領地運営の基礎だった。


 今日扱われたのは、領主家が直接管理する支出と、現場の管理者へ判断を委ねる支出の違いについてだった。教師は黒板へいくつかの例を書きながら、金額の大小だけではなく、緊急性や現場でしか分からない事情も考慮しなければならないと説明している。


 以前サザリーと行った共同課題では、井戸、穀物倉庫、橋という三つの問題へ限られた予算を配分した。


 途中で新しい情報が入り、橋の補強案を捨てて迂回路へ切り替えた。


 ただ、今日の授業はその課題の答え合わせではない。


 俺は教師の説明をそのまま聞きながら、自分なら何を現場へ任せ、何を上へ報告させるかを考えた。


(全部自分で決めるのは無理だよな)


 人口三千人程度の仮想地域でさえ、井戸や橋や倉庫を一人で見て回ることは出来ない。


 公爵家なら、もっと広い。


 旦那様が全部を直接判断しているはずもない。


 そう考えたところで、朝のリビアとの会話が浮かんだ。


 婚約者として、俺は何を知りたいのか。


(旦那様が何をしてるのか、俺、意外と知らないな)


 屋敷での旦那様はよく知っている。


 リビアの父親としての顔も知っている。


 俺のことを家族として扱い、婚約を認めてくれた人でもある。


 でも、公爵として一日に何を判断し、何を家臣へ任せ、どんな報告を受けているのか。


 そこはほとんど知らない。


 ノートの端へ、授業内容とは分けて一行だけ書く。


『公爵としての旦那様の仕事を知りたい』


 書いたあと、すぐに答えを増やそうとはしなかった。


 今は一つだけでいい。


     ◇


 授業が終わると、サザリーが俺のノートの端へ視線を向けた。


「何か思いついたのか?」


「婚約者として何を知りたいか聞かれるかもしれなくて」


「それで公爵の仕事?」


「うん。俺、屋敷で旦那様が何してるかは知ってるけど、公爵として何してるかはちゃんと知らないなって」


 サザリーは少し考える。


「それは知っておいて損はないだろうな」


「サザリーは宰相の仕事、知ってる?」


「全部ではない。父も機密に関わることは話さないし、私が今知る必要のないこともある。ただ、どういう種類の案件を扱い、何を自分で決め、何を各部署へ任せるのかくらいは聞いている」


「そっか」


「君の場合、公爵家へ入るからといって、公爵本人と同じ仕事をするとは限らないだろう?」


「うん。それもまだ決まってない」


「ならなおさら、仕事を知ることと、その仕事を自分が引き受けることは分けた方がいい」


 俺は頷いた。


 知る。


 出来る。


 やる。


 それぞれ別だ。


「ありがとう」


「礼を言われるほどではない。それより、君はまた全部覚えようとしそうだから気をつけろ」


「しないよ」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは断言してくれ」


 サザリーが珍しく少し呆れた顔をしたので、俺は笑った。


     ◇


 昼休みになると、リビアへ朝から考えたことを話した。


 いつものようにナナリー、ミリアナ、イザーク、サザリーも近くにいるが、婚約者としての学びが始まる可能性自体は隠すような話ではない。


「お父様の仕事?」


 リビアが少し意外そうに聞き返す。


「うん。リビアは知ってる?」


「ある程度は。将来私が関わることになるから、小さい頃から少しずつ教えてもらってるよ。でも、全部じゃない」


「何するの?」


「領地からの報告を確認したり、予算や人事について家臣と話したり、王都で会議に出たり、他家との調整をしたり……本当に色々」


「やっぱり色々あるんだ」


「お父様が直接決めないこともたくさんあるよ」


 今日の授業と繋がる。


「それを知りたい」


「セスが?」


「うん。俺が全部やりたいって意味じゃなくて、リビアが将来どういうことを背負うのか知りたい」


 言ったところで、リビアの動きが止まった。


 手にしていたカップが、口元へ届く少し前で静止している。


「リビア?」


「……もう一回言って」


「何を?」


「今の」


 周囲を見る。


 ナナリーたちも聞いている。


 でも、言えない内容ではない。


「リビアが将来どういうことを背負うのか、俺は知りたい」


 リビアはゆっくりカップを置いた。


「私のため?」


「俺のためでもあるよ。結婚したら一緒に暮らすんだから、リビアが何してるか全然知らないのは嫌だし」


 それに、彼女が忙しい時に「どうして会えないのか」すら分からない夫にはなりたくない。


 助けられることがあるなら助けたい。


 でも、助けることと奪うことは違う。


「俺が代わりに全部やるってことじゃないよ。何を手伝えて、何はリビアが自分でやりたいのかも、そのうち知りたい」


 リビアはしばらく何も言わなかった。


 頬が少し赤くなっている。


「……セス」


「うん?」


「私、今すごく嬉しい」


「そっか」


「だって、前のセスなら『公爵令嬢の婚約者として必要なことを全部覚えます』って言いそうだったもの」


「言いそう」


「しかも自分が全部出来るようになろうとする」


「それも……やりそう」


 周囲から笑い声が上がる。


「今も出来そうなのが怖いんだよな」


 イザークが呟く。


「クルセス様なら、公爵家の仕事を一通り覚えようと本気でやりかねませんからね」


 ナナリーまで同意する。


「でも、今は違うの?」


 ミリアナが尋ねる。


 俺は少し考える。


「全部出来る必要はないと思ってる。知らないと困ることは知りたいけど、リビアが得意なことまで俺が取る必要ないし」


「それなら安心」


 リビアが柔らかく笑う。


「私もセスが将来何をしたいのか知りたいよ。執事の仕事を続けたいのか、研究をもっとしたいのか、剣や魔術をどうしたいのか」


「まだ全部は分からない」


「うん。今すぐ決めなくていいよ」


 俺たちは互いにまだ決まっていないものを持っている。


 それを、無理に相手へ合わせて一つにする必要はない。


     ◇


 昼食が終わる頃、教室の入口から俺を呼ぶ声がした。


「クルセス・シルフィール君」


 振り向くと、見覚えのある学園職員が立っている。


「はい」


「パウリー公爵家から君宛てに連絡が届いている。受付で預かっているので、昼休み中か放課後に確認してくれ」


「分かりました。ありがとうございます」


 職員が去る。


 リビアと顔を見合わせる。


「お父様かな?」


「たぶん」


「一緒に行く?」


「リビアにも来てるかもしれないし、行こう」


 まだ昼休みには時間がある。


 ナナリーたちへ一言告げ、俺たちは受付へ向かった。


     ◇


 受付で渡されたのは、パウリー家の紋章が入った小さな封書だった。


 宛名は俺とリビアの連名になっている。


 近くの休憩場所へ移動し、二人で封を開く。


 中には旦那様からの短い手紙が入っていた。


『今夜、夕食後に時間が取れるようであれば、先日話した今後の学びについて少し相談したい。授業開始の決定ではなく、二人の希望を聞くための話である。学園で予定がある場合は別日で構わない』


 読み終えて、リビアを見る。


「今日だね」


「うん」


「放課後の予定どうする?」


「お父様は夕食後って書いてるから、少しくらいなら一緒にいられるけど」


「今日は普通に帰る?」


 リビアが少し考える。


「そうしようか。昨日は長く一緒にいたし、今日は帰ってから少し休みたい」


「俺も」


 無理にデートを続ける必要はない。


 今日は夜に大事な話もある。


「じゃあ、帰ろう」


「うん」


 封書を丁寧に畳み直し、俺たちは教室へ戻った。


     ◇


 午後の授業を終えると、予定どおり寄り道せず屋敷へ帰った。


 馬車の中では、今夜何を話すかを細かく打ち合わせることはしなかった。


 俺は俺が知りたいことを話す。


 リビアはリビアが望むことを話す。


 同じ答えに合わせる必要はない。


「セス」


 窓の外を眺めていたリビアがこちらを見る。


「何?」


「さっきのお父様の仕事を知りたいって話、今夜も言う?」


「言うよ」


「そっか」


「変だった?」


「全然。嬉しかった」


 リビアは膝の上で手を組み、少しだけ視線を落とした。


「私ね、セスが婚約者の勉強をしたいって言った時、少しだけ心配してたの」


「何を?」


「また私のために、セスがセスじゃなくなるくらい全部変えようとするんじゃないかって」


「……そっか」


「でも今は、そんな感じしない」


「俺も、全部変わりたいわけじゃないよ」


「うん」


 俺は剣が好きだ。


 魔術も好きだ。


 古い測定器の研究も面白い。


 サザリーと考えるのも、イザークと剣を交えるのも楽しい。


 執事の仕事だって嫌いではない。


「リビアの婚約者になるために、全部やめたら俺じゃなくなるもんね」


「そうだよ」


「でも、知らないことは知りたい」


「それなら私も一緒に知りたい」


 リビアの表情から、最後に残っていた心配が少し薄れたように見えた。


     ◇


 屋敷へ戻ると、グレイヴが玄関で迎えてくれた。


「お帰りなさいませ」


「ただいま」


「ただいま、グレイヴ」


「旦那様よりお話は届きましたでしょうか」


「うん。今日の夕食後」


「ご都合はいかがでしょう」


「大丈夫。今日は寄り道しないで帰ってきたから」


「承知しました。それでは夕食後、旦那様の書斎へお願いいたします」


 そこで俺は少し気になった。


「グレイヴもいる?」


「旦那様より同席を求められております」


「そっか」


「何か問題が?」


「ううん。グレイヴにも聞きたいことあるかもしれないから、その方がいい」


 俺の将来の仕事を考えるなら、現役の執事長であり、同時に俺の義父でもあるグレイヴの話は必要になるだろう。


「授業を始めるわけじゃないんだよね?」


「はい。本日はあくまで、今後何を学ぶべきか、そしてお二人が何を望んでいるかを確認するための場と伺っております」


「分かった」


 答えを用意し切っていなくてもいい。


 それなら今のままで話せる。


     ◇


 夕食後、俺とリビアは並んで旦那様の書斎へ向かった。


 扉を叩くと、中から旦那様の声が返ってくる。


「入りなさい」


「失礼します」


 中へ入ると、旦那様は執務机ではなく、窓際の応接用長椅子へ座っていた。グレイヴも向かい側に控えているが、机の上に教本や書類が山積みになっているわけではない。


 やはり今日は授業ではないらしい。


「来たか。二人とも座りなさい」


「はい」


 リビアと並んで腰を下ろす。


 旦那様は俺たちを見渡したあと、少し笑った。


「そんなに構えなくていい。今日は試験ではない」


「分かってます」


「セスの顔が試験を受ける者の顔になっているが」


「なってます?」


「少しな」


 隣でリビアが笑う。


 俺は肩の力を抜いた。


「先に確認しておくが、今日ここで今後の教育内容をすべて決めるつもりはない。以前も話したように、セスがオリビアの婚約者だからといって、パウリー公爵家の型へ一方的に押し込むつもりもない」


 旦那様の声は穏やかだった。


「将来どこに住むのか、セスがどの仕事を続けるのか、オリビアが公爵家の中でどこまで役割を担うのか。それらもまだ決まっていない。決まっていないものを前提に、必要な教育を固定することは出来ん」


「はい」


「ただし、知らなければ選ぶことすら出来ない分野はある。そこで今日は、こちらから必要だと思うものを押しつける前に、セス自身が何を知りたいのか聞いておきたい」


 朝から考えていた問いが、旦那様の口から改めて出る。


「何かあるか?」


「一つあります」


「聞こう」


「旦那様が、公爵として何をしているのか知りたいです」


 旦那様の眉が少し上がった。


 グレイヴもこちらを見る。


「私の仕事か」


「はい」


「なぜだ?」


 理由を問われ、俺は昼にリビアへ話したことを思い出す。


 同じように答えればいい。


「リビアが将来どういうことをするのか知りたいからです」


 旦那様は何も言わず、続きを待つ。


「俺が全部代わりにやりたいって意味じゃありません。リビアが将来どんな仕事をして、何を自分で決めて、何を人に任せるのか。それを知らないまま結婚するのは嫌だなって思いました」


 言葉にしながら、自分でも少しずつ考えが整理されていく。


「それと、旦那様が全部自分でやってるわけじゃないことも、今日の授業で考えました。領地のことも屋敷のことも、一人じゃ無理ですよね」


「無理だな」


「だから、何を知っておく必要があって、何は専門の人に任せるのかも知りたいです」


 旦那様はしばらく俺を見ていた。


「セス」


「はい」


「以前の君なら、何と答えたと思う?」


 少し考える。


「公爵令嬢の婚約者に必要なことを全部教えてください、って言ったと思います」


「私もそう思う」


 隣でリビアが小さく頷く。


 旦那様は笑った。


「今の答えの方が、私は好きだ」


 胸の奥が少し温かくなる。


「全部を学ぶ必要はない。むしろ、すべてを自分で出来るようになろうとする者は、公爵家の運営には向かん場合すらある」


「どうしてですか?」


「人に任せられないからだ」


 旦那様は背もたれへ少し身体を預けた。


「領地には農業を知る者がいる。水利を知る者、道路を知る者、税を扱う者、法律を扱う者、警備を担う者もいる。私が彼ら全員より詳しくなることは不可能だし、なる必要もない」


「じゃあ旦那様は、何をするんですか?」


「誰の報告を信頼し、どこまで任せ、どの判断を自分が引き受けるべきか決める。そのために、報告の意味を理解出来るだけの基礎知識を持つ。そして、決めた結果について最終的な責任を負う」


 今日の授業より、さらに具体的だった。


「責任……」


「そうだ。任せることは、責任まで捨てることではない」


 俺はその言葉を覚えておこうと思った。


 何でも自分でやることと、責任を持つことは違う。


「それ、学びたいです」


「分かった。ただし、いきなり領地の全報告書を渡したりはしないぞ」


「はい」


「少し残念そうだな」


「ちょっとだけ」


 旦那様が笑い、リビアも隣で肩を揺らした。


     ◇


「オリビアはどうだ?」


 今度は旦那様が娘を見る。


「セスに何を知ってほしい?」


 リビアはすぐには答えなかった。


 膝の上で手を重ね、少し考えてから口を開く。


「私が、公爵家の娘だから出来ることと、やらなきゃいけないことを知ってほしい」


「違いがあるのか?」


「あると思う」


 旦那様の問いに、リビアは真剣な表情で答える。


「例えば、領地の人たちの生活を考えるのはやらなきゃいけないこと。でも、私が結界魔法を研究するのは、私がやりたいこと」


「なるほど」


「でも、結界研究がいつか領地の役に立つかもしれない。だから完全に別でもない」


 俺は黙って聞く。


「セスに、私が公爵令嬢だから全部我慢してるって思ってほしくないの。私は自分でやりたいこともあるし、公爵家だから出来ることも好きなことがある」


「うん」


「逆に、嫌でもやらなきゃいけないこともあると思う」


「それも知りたい」


 リビアがこちらを見る。


「その時、代わってほしいこともあるかもしれないし、ただ話を聞いてほしいだけかもしれない」


「聞く」


「まだ決まってないよ?」


「その時聞けばいいでしょ」


 リビアの表情が柔らかくなる。


「うん」


 旦那様は俺たちのやり取りを静かに見ていた。


     ◇


 それからグレイヴが話に加わった。


「セスには、家政と使用人組織についても、執事として知っているものとは別の視点が必要になるでしょう」


「別の視点?」


「現在のお前は、命令を受け、現場を整える側だ。しかし将来、お嬢様と家庭を築くのであれば、雇用する側として判断を求められる可能性もある」


「俺が使用人を雇う?」


「可能性の話だ」


 まだ住む場所すら決まっていない。


 それでも、将来独立した住居を持つなら、使用人を雇うこともある。


「給金、勤務時間、休暇、配置、教育、事故時の責任。執事として働く知識と、使用人を雇う立場の知識は同じではない」


「……それも知らない」


「今知らないことは問題ではない」


 グレイヴは落ち着いた声で続ける。


「知る必要が生じた時、誰へ尋ねるべきか理解していることも重要だ」


 俺は少し考える。


「グレイヴに聞けばいい?」


「私が答えられる範囲ならば」


「じゃあ聞く」


「ただし、すべてを一度に聞こうとするな」


「分かってる」


「本当に?」


「今日みんなそれ言うな……」


 思わず漏らすと、旦那様とリビアが笑った。


 グレイヴの口元もほんの少し緩んでいる。


「信用がないわけではない。過去の実績が豊富なだけだ」


「それ、信用ないのと同じじゃない?」


「今後の実績で変えていけばよい」


「はい」


 反論出来なかった。


     ◇


 話は、社交や礼儀にも及んだ。


 俺はシルフィール伯爵家の養子となった時から、最低限の貴族教育を受けている。正式な場での挨拶や食事作法、身分ごとの基本的な呼称、簡単なダンスなど、まったく知らないわけではない。


 ただ、公爵令嬢の夫となる可能性を考えれば、それだけでは足りない場面も出てくる。


「社交そのものより、誰が誰とどういう関係にあるかを知る必要がある」


 旦那様が説明する。


「王家、主要な公爵家、侯爵家、領地が隣接する家、商業上の関係が深い家。すべての貴族を暗記する必要はないが、重要な関係を知らずに発言すれば、意図せず問題を起こすことがある」


「それは学んだ方がよさそうです」


「ただし、学園の友人関係へ政治を持ち込みすぎる必要もない」


「アルフォルド殿下とかカイゼル殿下も?」


「彼らが王族であることを忘れてよいという意味ではない。しかし、君たちが学園で築いた関係には、政治的利害だけではない部分があるだろう」


「はい」


「それをすべて将来の利益へ変換しようとする必要はない」


 俺は少し安心した。


 アルフォルド殿下は友達で、剣の好敵手だ。


 カイゼル殿下にはよくからかわれる。


 サザリーも、イザークも、ナナリーも、ミリアナもいる。


 将来のために友達になったわけではない。


「友達は友達のままでいい?」


「もちろんだ。ただし、立場が関係する場面では、その時に考えればいい」


「分かりました」


 また一つ、全部を同じにしなくていいものが増えた。


     ◇


 話し始めてからかなり時間が経ったところで、旦那様が一度区切りをつけた。


「今日はこのくらいにしよう」


 机の上には、最初から最後まで教本が置かれることはなかった。


 授業ではなく、本当に話し合いだけだった。


「現時点で考えているのは、領地と公爵家の仕事、使用人を雇う側の基礎、必要最低限の社交関係、それから安全管理だ」


「安全管理?」


 聞き返すと、グレイヴが答える。


「お嬢様の夫となるならば、護衛を自分で務めることではなく、適切な護衛体制を判断する知識が必要になります」


「俺が守るんじゃなくて?」


「お前がその場で守るべき時もあるだろう。しかし、常に自分一人で守ることを前提にしてはならない」


 以前にも似た話をした。


 俺自身が全部を背負わず、警備を担当する者へ任せること。


「護衛の人数、移動経路、事前確認、緊急時の連絡。そういうこと?」


「その通りだ」


「それなら学びたい」


「分かった」


 旦那様が頷く。


「だが、今言った四分野を明日から毎日詰め込むつもりはない。学園生活が優先だ」


「はい」


「まずは月に数回程度、屋敷で短い時間から始める案を考えている。正式な頻度や担当者はこれから決める」


「まだ決定じゃない?」


「そうだ」


「分かりました」


 ここを間違えない。


 月に数回というのも現段階では案だ。


「それと」


 旦那様が俺を見る。


「セスが今続けている剣、魔術、古代測定法の研究を、婚約者教育のためにやめる必要はない」


「はい」


「オリビアとの時間もだ」


 そこで少しだけ反応に困る。


 リビアも同じだったらしく、頬が赤くなった。


「お父様」


「何だ?」


「そこまで言わなくても分かってるから」


「そうか。ならいい」


 旦那様は何も知らない顔をしている。


 昨日のキスのことは当然知らない。


 それでも妙に恥ずかしくなり、俺は視線を少し逸らした。


     ◇


 書斎を出たあと、俺とリビアは廊下をゆっくり歩いた。


「思ってたのと違った」


 俺が言うと、リビアがこちらを見る。


「どう違った?」


「もっと礼儀とか、社交とか、覚えるもの一覧を渡されると思ってた」


「私も少し思ってた」


「でも、最初に旦那様の仕事知りたいって言えてよかった」


「うん」


 窓の外はすでに暗い。


 廊下の魔導灯が一定の間隔で灯り、床へ淡い光を落としている。


「セス」


「何?」


「今日の話、嫌じゃなかった?」


「全然。むしろ楽しみ」


「やっぱり」


「何で?」


「領地とか家の仕組みとか、セス好きそうだもの」


「好きかも」


 サザリーとの共同課題も楽しかった。


 実際の公爵家がどう動いているのか知るのも面白そうだ。


「でも、勉強ばっかりにならないようにする」


「自分で言えるようになったね」


「うん」


 少し歩いたところで、俺は立ち止まる。


 リビアも止まった。


「どうしたの?」


「今日、もう一つ分かった」


「何?」


「俺、リビアのために勉強したいんじゃなくて、リビアと暮らすために知りたいんだと思う」


 言ってから、その違いを自分でも確かめる。


 似ているけれど、少し違う。


 リビアのためなら、俺だけが頑張ればいい。


 リビアと暮らすためなら、彼女が何をしたいのかも知らなければならないし、俺自身が何をしたいのかも残しておく必要がある。


「それ、私も好き」


 リビアが静かに答えた。


「言い方?」


「考え方も」


「そっか」


「セスが私のために何かしてくれるのは嬉しいよ。でも、全部私のためにされると、たぶん少し寂しい」


「どうして?」


「セス自身がいなくなっちゃいそうだから」


 その言葉を聞き、胸の奥へゆっくり落ちていくものがあった。


「じゃあ、俺のためでもあるようにする」


「うん」


「俺が知りたいから学ぶ。リビアと暮らしたいから知る」


「それがいい」


 リビアが笑う。


 俺も笑った。


     ◇


 彼女の部屋へ向かう分かれ道まで来たところで、昨日のことがまた頭をよぎる。


 初めてキスをした翌日。


 朝から何度も思い出した。


 でも、今日は一度もキスをしていない。


 それで何か足りないとは思わなかった。


「リビア」


「うん?」


「今日はキスしない?」


 自分から言っていいと決めたから、隠さず聞いてみる。


 リビアは驚いたように瞬きをしたあと、少し考えた。


「今日はしない」


「分かった」


「……残念?」


「ちょっと。でも今日は旦那様との話で頭いっぱいだから、俺も絶対したいってほどじゃない」


「私も同じ」


 リビアは安心したように笑う。


「聞かれるの、嫌じゃない?」


「全然。セスから言っていいって私が言ったんだもの」


「じゃあまた聞くことあると思う」


「うん。私からも言う」


 昨日一度出来たからといって、毎日するものにはしない。


 したいかどうかを、その時に選ぶ。


 昨日決めたことは、今日もちゃんと続いていた。


「じゃあ今日は?」


 リビアが少し考える。


「手、繋ぎたい」


「うん」


 廊下の端へ少し寄り、短い時間だけ手を繋ぐ。


 指先から伝わる温度は、昨日キスをする前にも知っていたものだった。


 それでも今日は、それがちょうどよかった。


     ◇


 自室へ戻ると、俺は机へ向かった。


 勉強を始めるためではない。


 忘れないうちに、今日の話で自分が知りたいと思ったことだけを整理しておきたかった。


 一枚の紙へ四つ書く。


『公爵としての旦那様の仕事と、任せ方』


『リビアが将来担うことと、本人がやりたいことの違い』


『使用人として働く側ではなく、雇う側の責任』


『護衛を自分だけでやらず、体制として考える方法』


 その下に、もう一つだけ付け足した。


『重要な家同士の関係。ただし友達を利益だけで見ない』


 書き終えて眺める。


 覚えることの一覧ではない。


 今の俺が知りたいことの一覧だ。


(これなら、ちょっと楽しみだな)


 以前の俺なら、旦那様から四分野を示された時点で、それぞれの教本を探そうとしたかもしれない。


 今はしない。


 担当者も頻度も正式には決まっていない。


 月に数回という案が出ただけだ。


 始まってから必要なものを使えばいい。


 紙を引き出しへしまい、机から離れた。


     ◇


 その頃、書斎ではまだ灯りが消えていなかった。


 アルセスは先ほどまでセスとオリビアが座っていた長椅子へ目を向けたあと、向かいに立つグレイヴへ静かに問いかけた。


「どう見た?」


「以前より、自分とお嬢様を分けて考えられるようになったかと」


「私もそう思う」


 アルセスは執務机へ戻り、先ほどの会話を簡単に書き留めた紙へ視線を落とす。


 セスが最初に求めたのは、礼儀でも社交でもなかった。


 公爵として何をしているのか知りたい。


 その理由は、自分が公爵家に相応しい人間になるためではなく、将来オリビアが何を背負うのか知りたいからだった。


「少し前なら、あの子は自分一人でオリビアを守れるようになる方法を求めただろうな」


「おそらくは」


「今日はこちらが安全管理の話をした時も、護衛を配置するという考えを抵抗なく受け入れた」


「それは大きな変化です」


 グレイヴの声には、執事長としてだけではなく、父親としての安堵もわずかに混じっていた。


「ただ、興味を持てば深く入り込む性質そのものは変わっておりません」


「そこは変える必要もないだろう」


「はい。止めるべきは興味ではなく、限度を失うことですので」


 アルセスは頷いた。


「教育は急がない。学園で学べることも多い。まずは私の仕事を一度見せるところからでもいいかもしれんな」


「実務の見学でしょうか」


「機密を除いた簡単なものだけだ。領地報告をどう分類し、誰に確認を求め、どの段階で私が判断するのか。セスが知りたいと言ったものを、最初に見せる」


「良いかと存じます」


「ただし、まだ決定ではない。本人たちの予定も確認しよう」


「承知しました」


 グレイヴが一礼する。


 アルセスは再び紙へ視線を落とし、少しだけ笑った。


「それにしても、『リビアが将来何を背負うのか知りたい』か」


「旦那様」


「何だ?」


「お嬢様がお聞きになれば、また顔を赤くなさるかと」


「もう本人の前で言っていたではないか」


「そうでしたな」


 二人の間に小さな笑いが落ちる。


 それ以上、二人の私生活へ踏み込むことはなかった。


     ◇


 俺はそんな会話が書斎で続いていることを知らないまま、寝る準備を終えていた。


 ベッドへ入って目を閉じる。


 今日は研究の新しい資料も出ていない。


 魔術の追加確認も進んでいない。


 イザークとの再戦もしていない。


 リビアともキスをしなかった。


 それでも、何も進まなかった日ではない。


(婚約者として何を知りたいか、か)


 以前なら、何を知らなければならないかだけを考えていた。


 知らないものがあれば、自分は足りない。


 足りないなら全部覚えなければならない。


 たぶん、そう考えていた。


 今は少し違う。


 俺はリビアの隣にいるために、自分を別の誰かへ作り変えたいわけではない。


 リビアがどんな生活をして、何を背負い、何を好きで続けたいのか知りたい。


 俺自身の剣や魔術や研究も続けたい。


 執事の仕事を将来どうするかは、まだ分からない。


 それでも、知らないから婚約者でいられないとはもう思わない。


(知らないなら、知ればいい。全部じゃなくて、必要なことを)


 その時、昼に旦那様から聞いた言葉を思い出す。


 人に任せることは、責任まで捨てることではない。


 俺は今まで、責任を持つことと、自分で全部やることをかなり近いものとして考えていたのかもしれない。


 それが違うなら、婚約者として学ぶことも、俺が全部出来るようになるためのものではない。


 誰に頼るのか。


 何を任せるのか。


 何だけは自分で決めるのか。


 分からない時、誰に聞くのか。


 そういうことも含めて学ぶのだと思う。


 リビアと結婚したい。


 その気持ちは変わらない。


 でも、結婚したあとの俺がどんな人間になるのかは、まだ決まっていない。


 それでいい。


 決まっていないからこそ、知ってから選べる。


(ちょっと楽しみだな)


 公爵家の仕事を学ぶことを、怖いとも、重いとも思わなかった。


 もちろん、簡単ではないだろう。


 俺の知らないものはたくさんある。


 でも、今日は「足りないものを埋めなければ」とは思わなかった。


 ただ知りたいと思った。


 その違いを感じながら目を閉じる。


 明日、何か新しい予定が入るかもしれない。


 入らないかもしれない。


 どちらでもいい。


 婚約者として学ぶことも、リビアとの関係も、剣も、魔術も、研究も、一日で完成させる必要はない。


 一つずつ知って、一つずつ選んでいけばいい。


 そうして積み重ねた先で、いつか俺自身の言葉で、どんな婚約者になりたいのかをもっとはっきり答えられればいいと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。