第66話 何も決まっていない日だから、やりたいことを一つずつ選びます
翌朝、目を覚まして最初に感じたのは、窓の外から差し込んでくる光の強さだった。昨夜のうちに雲がほとんど消えたらしく、カーテンの隙間から伸びた朝日が床の上に細長い帯を作っている。
身体を起こして肩や腕を軽く動かしてみても、どこにも痛みはなく、以前イザークと一本勝負をした時の疲労も完全に残っていなかった。昨日は剣を振らず、放課後もベルナルト先生との研究だけだったため、身体を動かしたいという気持ちは自然に湧いてくる。
(今日は少し振りたいな。放課後の予定は今のところないけど、朝にやったからって午後もやる必要はないし、二十分くらいでいいか)
着替えを済ませると、俺は屋敷の練習場所へ向かった。
朝の空気には少し冷たさがあり、剣の柄へ触れた指先にもひんやりとした感触が伝わってくる。最初から速く動こうとはせず、身体を温めてから基本の構えを確認し、足運びと素振りを繰り返した。
意識したのは、イザークとの一本勝負でも使った二歩目だった。
俺は一歩目を自分で思っているより小さく取り、二歩目で距離を大きく伸ばす癖がある。ただ、それ自体を悪い動きとして消す必要はなく、実際にイザークとの勝負では、伸ばす時と伸ばさない時を選ぶことで相手の予測を外せた。
(直すんじゃなくて、分かって使う)
一歩目を小さく踏み込み、そのまま二歩目も短く収める。次は同じ一歩目から二歩目だけを長くし、その次には最初から少し広めに入って、二歩目をほとんど使わずに剣の届く位置を変えた。
速さを求めるのではなく、自分がどこへ足を置いたのかを確かめながら何度か繰り返していると、同じ構えからでも距離の取り方がかなり変わることが分かる。
(面白いな)
もう少し試したい気持ちはあったものの、壁際の時計へ目を向ければ、始めてから十八分ほど経っていた。あと二分だけ基本の素振りへ戻して身体の動きを整え、決めていた二十分になったところで剣を収める。
まだ動けるし、疲れてもいない。
それでも今日はここまでで十分だった。
◇
朝食へ向かう途中、階段の近くでリビアと会った。
俺が剣を振ったことはすぐに分かったらしく、彼女は近づいてくるなり俺の髪を見て、それから服装へ視線を落とした。
「今日は剣やったんだね」
「二十分だけ。昨日はやらなかったから、今日は振りたくなって」
「足の練習?」
「それも少し。イザークとやった時の二歩目を、伸ばすのと伸ばさないのを試してた」
以前なら「癖を直す練習」と答えていたかもしれない。しかし今は、自分の動きを一つの形へ矯正したいわけではなく、使える選択肢を増やしている感覚の方が近かった。
「でも、そればっかりはやってないよ。最後は普通の素振りに戻して終わった」
「二十分で?」
「うん」
リビアは少しだけ俺の顔を見つめたあと、満足そうに頷いた。
「じゃあ今日は、私から何も言うことないね」
「最近、言われる前に終われるから」
「それが普通になってきたものね」
「うん」
自分でもそう思う。
以前は、止めることそのものに理由が必要だった。今は「今日はここまで」と思えば、それで剣を置ける。
並んで階段を下り始めたところで、昨日の夜の会話が頭をよぎった。
キスをしたいと言ったあとでもやめていいこと。
俺から「今日したい」と言ってもいいこと。
互いにしたいと思っていても、その日しないことを選んでいいこと。
思い出しただけで少し胸が速くなるものの、朝から確認する必要はない。
リビアも同じことを考えていたのか、一度だけこちらを見て頬をわずかに赤くしたが、口にしたのはまったく別の話だった。
「今日、何か予定ある?」
「今のところ何もない。リビアは?」
「私も放課後はないよ。委員会は昨日やったから」
「じゃあ久しぶりに何も決まってないね」
「うん。どうする?」
「学校行ってから決めようか」
そう答えると、リビアはすぐに頷いた。
予定がないなら予定を埋めなければならない、とはもう思わない。何かしたくなればその時に決めればいいし、何もしたくなければそのまま帰ればいい。
◇
教室へ入ってしばらくすると、イザークが俺の机へやってきた。
「セス、今日放課後空いてるか?」
「今のところは。どうしたの?」
「この前の続きやらねえ?」
何のことかはすぐに分かった。
「一本勝負?」
「そう。今度こそ取る」
イザークはもうやる気になっているらしく、腰へ手を当てながら笑っている。俺もまた勝負をしたい気持ちはあるが、今朝はすでに二十分剣を振っていた。
「今日はやめとく」
「予定あるのか?」
「ないけど、朝に二十分やったから」
イザークが一瞬だけ黙った。
「……それだけ?」
「それだけ」
「疲れてんのか?」
「全然」
「じゃあ出来るだろ」
「出来るけど、今日やらなくてもいいでしょ」
自分で口にしてみると、本当にそれだけの話だった。
出来ることと、今日やることは同じではない。
イザークは少し考えてから、肩をすくめる。
「まあ、逃げるわけじゃねえならいいけど」
「逃げないよ。俺もまたやりたいし」
「じゃあいつ?」
「まだ決めない」
「そこもかよ」
「別の予定入るかもしれないから」
イザークが呆れたような顔をしたところで、近くにいたミリアナが笑った。
「イザーク君、最近のクルセス君を誘うなら、もっと早く予約しないと駄目なんじゃない?」
「剣の勝負に予約って何だよ」
「人気者ですから」
ナナリーまで楽しそうに加わると、イザークはますます不満そうな顔になる。
「じゃあ明日は?」
「明日のことは明日決める」
「お前、前より面倒くさくなってねえ?」
「そうかな」
「私は逆だと思いますよ」
ナナリーが穏やかに言いながら席へ鞄を置いた。
「前のクルセス様だったら、出来るなら全部やってしまいそうでしたから。今は今日はやらないって普通に言えるので、分かりやすいです」
「それは分かりやすいのか?」
「少なくとも、周りが止める必要は減りました」
「それはそうだな」
イザークが納得してしまった。
「でも次はやるぞ」
「うん。俺もやりたい」
約束だけ残して、日程は決めない。
それで困ることはなかった。
◇
午前の魔術理論では、属性変換そのものではなく、術式へ流す魔力量を一定に保つ方法が扱われた。
黒板には一つの術式へ対して供給量が上下した場合の簡単な図が描かれ、教師が安定した出力と瞬間的な最大出力の違いを説明している。俺はノートを取りながら、以前エレナ先生の確認で水属性と土属性の出力を上げてから下げた時、わずかに違う崩れ方をしたことを思い出した。
(似てるようで、今日の授業とは少し違うな)
授業で扱っているのは、一つの属性、一つの術式へ流す量を一定に保つ話だ。
俺が確認されたのは、指定された出力まで上げ、そこから下げ、停止する過程だった。さらに俺の場合は、今後もう一つの属性へ低出力で切り替える確認が入る可能性もある。
関連はある。
でも、同じではない。
授業内容を勝手に自分の追加評価へ置き換えず、そのままノートへまとめた。
授業が終わると、前方にいたサザリーがこちらへ振り返った。
「今の授業、君の追加確認に近い部分があったな」
「俺も思った。でも完全に同じじゃないよ」
「だろうな。あちらは停止まで含むんだったか」
「今の案ではね。まだ最終決定じゃないけど」
「属性切り替えも?」
「入る可能性があるってだけ」
そこは何度話しても変わらない。
エレナ先生から示されているのは、あくまで現在の案だ。指定された一属性を低出力から中程度まで上げ、維持し、下げ、停止する。その日の状態がよければ、別の指定属性へ一度だけ低出力で切り替える可能性がある。
五属性全部を試すわけでも、切り替え速度を測るわけでもない。
「昨日の研究と混ざりそうじゃないか?」
サザリーの質問に、俺は少し笑った。
「ちょっとだけ。でも混ぜない」
「測定器の方は属性変化を見ていた可能性だったな」
「うん。でもまだ仮説。実技確認は俺の制御を見るものだから、古代測定器の研究とは別」
「君は最近、『別』という言葉をよく使うようになったな」
「そう?」
「似ているものを似ていると認めた上で、同じにはしないという意味で」
言われてみると、そうかもしれない。
古代の測定器とリビアの結界。
剣の足運びと領地運営の判断。
授業の出力維持と俺の追加確認。
関係がある可能性と、同じものだという断定は違う。
「その方が後で間違えにくいから」
「研究者らしくなったな」
「俺、研究者なの?」
「少なくとも、ベルナルト先生の資料室へ呼ばれて嬉しそうにしている時点で、普通の学生よりは近いだろう」
否定しようとして、やめた。
研究が好きなのはもう分かっている。
◇
昼休み、いつものようにリビアたちと食事を取っていると、アルフォルド殿下が俺の朝の練習について聞いてきた。
「イザークから聞いたが、再戦を断ったそうだな」
「今日だけです」
「理由は?」
「朝に剣を振ったので」
殿下は少し意外そうに眉を上げたが、すぐに納得したように頷いた。
「体力的に出来ないわけではないのだろう?」
「出来ると思います。でも、今日は二回やりたいほどじゃなかったので」
「なるほど」
向かい側で聞いていたカイゼル殿下が、面白そうに笑う。
「前だったら『出来るならやります』って言ってなかった?」
「言ってたかもしれません」
「変わったねえ」
「悪い意味ですか?」
「まさか。クルセスが普通の十五歳っぽくなってきて、僕は感動してる」
「剣を一日一回にしただけですよ」
「そこを感動されるの、セスくらいだと思う」
リビアが呆れたように笑った。
その表情を見ていると、俺までおかしくなってくる。
「それで、今日は放課後どうするんだ?」
アルフォルド殿下に聞かれ、俺はまだ決めていないと答えた。
「リビアも予定ないみたいなので、その時やりたいことがあれば何かします」
「デート?」
カイゼル殿下がすぐに口を挟む。
「まだ何も決めてません」
「決めてないデートもいいじゃない」
「散歩するかもしれないし、図書室行くかもしれないし、そのまま帰るかもしれません」
「全部デートに出来るよ」
「そうなんですか?」
「クルセス、その質問はオリビア嬢の前でするものではないと思うぞ」
アルフォルド殿下に言われてリビアを見ると、彼女は少し頬を赤くしながらも、困ったように笑っていた。
「私は、セスと一緒なら散歩でも図書室でも嬉しいよ」
「じゃあデートなの?」
「……そう呼びたいなら」
「呼びたい?」
「セスは?」
突然こちらへ戻ってきた。
少し考える。
デートという言葉に、以前ほど大げさなものは感じなくなっている。
「俺は、リビアと二人で過ごすならデートって呼んでもいいと思う」
リビアの頬がさらに赤くなる。
カイゼル殿下は満足そうに頷き、アルフォルド殿下は何も言わずに飲み物へ口をつけた。サザリーはわずかに口元を緩め、イザークは「それなら俺との勝負断るのも仕方ねえか」と勝手に納得している。
「だから、まだ何するか決めてないって」
「でもデートはするんだろ?」
「……たぶん」
「セス」
リビアが小さく呼ぶ。
「何?」
「私も、したい」
周囲に友人たちがいるため声は控えめだったが、俺には十分聞こえた。
「じゃあ放課後、何かしよう」
「うん」
何をするかは、まだ決めない。
◇
午後は特別な出来事もなく、通常の授業が続いた。
最後の授業が終わって教師が教室を出ると、生徒たちが一斉に帰り支度を始める。椅子を引く音や鞄を閉じる音が重なる中、俺は教科書を片づけながら、少し離れた席のリビアへ目を向けた。
彼女もこちらを見ていた。
目が合うと、どちらからともなく笑う。
昼にデートと呼んだせいなのか、それだけで少しだけいつもと違って感じる。
「じゃあ俺たち先行くぞ」
イザークが鞄を肩へ掛けながら声をかけてくる。
「うん。また明日」
「次の勝負忘れんなよ」
「忘れない」
「日程は?」
「まだ決めない」
「分かったよ!」
笑いながら去っていくイザークの後ろを、ミリアナとナナリーもついていく。サザリーも一度こちらへ軽く手を上げ、別方向へ歩いていった。
教室の人が少なくなってから、リビアが俺のところへ来る。
「どうする?」
「リビア、何かしたいことある?」
「セスは?」
「俺は……外歩きたいかな」
「じゃあ歩こう」
「リビアはそれでいい?」
「私も今日は外がいいと思ってた」
行き先までは決めず、俺たちは校舎を出た。
◇
昨日までの雨で湿っていた地面も、今日の日差しですっかり乾いている。
正門へ向かわず、校舎の脇から庭園側へ回った。授業を終えた生徒が何組か同じように歩いているものの、広い敷地なので混雑するほどではない。
木々の葉は少しずつ季節の色を変え始めていた。
「昨日より暖かいね」
リビアが空を見上げる。
「朝はちょっと冷たかったけどね」
「もうすぐ朝の剣、寒くなりそう」
「冬でもやると思う」
「雪の日も?」
「外で出来るくらいなら」
「滑る日は駄目だよ」
「それはやらない」
「本当に?」
「転んで怪我するために剣振るわけじゃないから」
リビアが少し驚いたように俺を見る。
「何?」
「セスが自分からそういうこと言うようになったなって」
「最近そればっかり言われる」
「だって本当に変わったもの」
「前が変だった?」
「かなり」
即答された。
「そんなに?」
「自分が怪我する可能性だけ、いつも計算から抜けてた」
「……そうだったかも」
「今は入ってる?」
「入ってるよ」
自分の身体も、守る対象の中に入れる。
言葉にすると当たり前なのに、それが当たり前になるまで随分時間がかかった。
「俺が怪我したらリビアも嫌でしょ」
「すごく嫌」
「グレイヴも怒るし」
「怒るより心配すると思う」
「旦那様も心配する」
「うん」
「友達との予定も出来なくなる」
「そうだね」
「研究も行けないかもしれない」
そこまで数えてから、少し笑う。
「今は、怪我すると困ること多いな」
「前から多かったんだよ」
「俺が気づいてなかっただけ?」
「そう」
リビアは笑っているが、声には少しだけ昔を思い出したような柔らかさが混じっていた。
俺たちは並んだまま庭園の奥へ進む。
しばらくすると、道の先に低い石造りの東屋が見えてきた。屋根はあるものの壁はなく、四方から庭を眺められる小さな休憩場所で、今は誰も使っていない。
「座る?」
「うん」
石段を上がり、並んで長椅子へ腰を下ろす。
午後の日差しが柱の間から差し込み、床へ木々の影を揺らしていた。
◇
最初に話したのは、昨日の研究のことだった。
リビアは「緩衝の刻み」という言葉が気になっているらしく、自分の古代結界資料にも似た表現がなかったか考えていた。
「でも、似た言葉があっても同じ仕組みとは限らないよね」
「ベルナルト先生にも言われた」
「私の先生にも確認してからじゃないと駄目かな」
「うん。俺たちだけで繋げると危ないと思う」
「じゃあ今度、結界の資料を読む時に『刻み』とか『段階』に近い言葉があるかだけ見てみる。見つかったら先生に聞くね」
「それがいいと思う」
研究の話が一段落すると、風が吹き抜けた。
リビアの銀青色の髪が頬へかかり、彼女は片手でそれを耳へ掛ける。その仕草を何となく見ていると、視線に気づかれた。
「どうしたの?」
「リビア見てた」
「それは分かるけど……どうして?」
「綺麗だなって思ったから」
言ったあとで、自分でも少し恥ずかしくなる。
リビアはそれ以上に赤くなった。
「セス、最近そういうこと普通に言うようになったよね」
「言わない方がいい?」
「言って」
「じゃあ言う」
「でも、ちょっと待って」
「どっち?」
「心の準備がいるの」
思わず笑うと、リビアも照れながら笑った。
笑い声が途切れたあとも、距離は自然に近いままだった。
肩が触れるほどではない。
でも、手を伸ばせば届く。
俺は石の長椅子に置かれた彼女の手を見る。
(触りたいな)
昨日なら、手を繋ぐことに特別な確認は必要なかった。
今日も同じだ。
「手、繋いでいい?」
「うん」
俺が手を差し出すと、リビアが重ねる。
指を絡めるほど強く握らず、互いの手のひらが触れるくらいの繋ぎ方だった。
「デートっぽい?」
俺が聞くと、リビアが笑う。
「さっきまで研究の話してたけどね」
「研究の話するデートもあるんじゃない?」
「私たちらしいかも」
「じゃあデートでいい?」
「うん。今日はデート」
言葉にすると、少し嬉しくなる。
何か特別な場所へ出かけたわけでもない。
贈り物もない。
ただ学園の庭を歩いて、東屋で話している。
それでも、俺たちがそう呼びたいなら、これはデートなのだと思う。
◇
少し離れた庭園の道を、数人の生徒が歩いていった。
その中の一人がこちらに気づき、何気なく視線を向けてから、隣の友人へ何かを囁いている。以前なら、公爵令嬢と元平民の執事が二人でいることをどう思われているのか気になったかもしれない。
今も、まったく気にならないわけではない。
ただ、手を離そうとは思わなかった。
(見られてるな。でも、俺はリビアと手を繋ぎたい)
それだけで、今は十分だった。
隣を見ると、リビアも生徒たちの存在には気づいている。
「離す?」
念のため聞くと、彼女は首を横へ振った。
「このままがいい」
「俺も」
通り過ぎていく生徒たちの声が遠ざかる。
その中に悪意があったのか、ただ婚約者同士が手を繋いでいるのを珍しく思っただけなのかは分からない。
分からないことを、悪い意味だと決める必要もなかった。
◇
しばらく庭を眺めていると、リビアが繋いだ手を少し動かした。
「セス」
「何?」
「昨日の夜のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ」
「どこまで?」
「キスしたいって言ったあとでも、やめていいこと。リビアだけじゃなくて俺からも、今日したいって言っていいこと」
「うん」
「途中でもやめていい」
「そこまで覚えてるなら大丈夫」
リビアは前を向いたまま、少しだけ深く息を吸った。
俺の心臓が速くなる。
昨日の話を今ここで持ち出した意味を考えてしまう。
でも、勝手に続きを決めたくはない。
俺は彼女の言葉を待った。
「今日ね」
リビアがそこで一度言葉を止める。
繋いだ手から、少し力が伝わってきた。
「今は、昨日よりしたいって思ってる」
胸が大きく鳴った。
風が東屋を抜け、木の葉が擦れる音が聞こえる。
「俺もしたい」
自分の声が少し低くなったのが分かった。
リビアがこちらを見る。
頬は赤い。
でも、目を逸らさなかった。
「怖い?」
俺が聞くと、彼女は少し考える。
「怖くない、って言ったら嘘になる」
「うん」
「でも、前みたいな怖さじゃないの」
「どう違う?」
「分からないことが怖いというより……緊張してる感じ」
リビアは胸元へ空いている手を当てた。
「すごくどきどきしてる」
「俺も」
「セスも?」
「うん。かなり」
「そう見えない」
「リビアにも言われたことある気がする」
「だって落ち着いて見えるんだもの」
「今は全然落ち着いてないよ」
手を繋いでいるから、俺の指にも少し力が入っているのが自分で分かる。
それを感じたのか、リビアが小さく笑った。
「本当だ」
「分かる?」
「うん」
また少し沈黙する。
昨日決めた。
俺から言ってもいい。
したいと思ったなら、その気持ちを隠して待つだけではなく、伝えていい。
だから俺は、一度息を整えてからリビアを見る。
「リビア」
「うん」
「俺、今日したい」
彼女の目が少し大きくなる。
それから、ゆっくりと表情が柔らかくなった。
「……うん」
「リビアは?」
「私も、今日したい」
互いに言った。
それでも、まだ動かない。
ここから先も確認出来る。
「今、していい?」
俺が聞くと、リビアの唇がわずかに開いた。
返事が来るまでの数秒が、とても長く感じる。
彼女は一度だけ周囲へ目を向けた。
庭園の道には今、誰もいない。
東屋にも俺たちしかいない。
それを確認したあと、もう一度俺を見る。
「……してほしい」
胸の奥が熱くなった。
◇
すぐには近づかなかった。
昨日、言ったあとでもやめていいと二人で決めた。
だから、俺は繋いでいない方の手をゆっくり持ち上げる。
「触っていい?」
「どこ?」
「頬」
「……うん」
指先でリビアの頬へ触れる。
温かい。
彼女の肩がわずかに揺れたものの、離れようとはしなかった。
「大丈夫?」
「うん」
返事を聞いてから、少しだけ距離を縮める。
リビアもこちらを見ている。
近づくほど、彼女の呼吸が分かる。
俺の呼吸もきっと同じくらい乱れている。
あと少し。
その時、リビアの指が俺の手を強く握った。
俺は止まった。
「リビア?」
「……待って」
「うん」
すぐに身体を少し戻す。
頬へ触れていた手も離した。
「やめる?」
リビアはすぐには答えず、俯いたまま何度かゆっくり呼吸した。
俺も何も言わずに待つ。
少しして、彼女が顔を上げた。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
「したいの」
「うん」
「本当にしたいんだけど、近くなったら急に……」
「緊張した?」
「うん」
目元が少し困ったように下がる。
昨日までなら、ここで「やっぱりまだ無理」と思ったかもしれない。
でも今は違う。
「じゃあ今日はやめる?」
「……分からない」
「分からないなら、今決めなくていいよ」
「でもセス、したいって」
「したいよ」
「残念じゃない?」
「今やめたら残念。でも、リビアが怖いままする方が嫌だよ」
リビアは黙った。
繋いだ手だけは離れていない。
「それに昨日決めたでしょ。したいって言ったあとでもやめていいって」
「うん」
「今、そのために決めたこと使ってるだけだよ」
言うと、リビアが少しだけ笑った。
「本当に使うことになると思わなかった」
「俺も」
「セス、止まるの早かったね」
「待ってって言われたから」
「すぐ離れた」
「嫌だった?」
「逆」
リビアは首を横へ振った。
「安心した」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中にあった少しの残念さより、もっと大きな安心が広がった。
「ならよかった」
「うん」
俺たちはそのまま手を繋いで座る。
キスはまだしていない。
でも、さっきより距離が遠くなったとは思わなかった。
◇
しばらくすると、リビアの呼吸も落ち着いた。
俺は庭を眺めながら、彼女が何か言うまで待っていた。
数分ほど経った頃、リビアが小さく俺の肩へ寄りかかる。
「セス」
「うん?」
「もう一回、近くなってみてもいい?」
予想していなかった言葉に、今度は俺が少し驚いた。
「キスするって決めないで?」
「うん。ただ、さっきくらい近くなって、それで怖くないか確かめたい」
俺は少し考える。
無理に慣れるための練習にしてしまうのは違う気がする。
「怖かったらすぐやめる?」
「うん」
「今日しなきゃって思ってない?」
「思ってない」
「じゃあ、いいよ」
俺たちは一度手を離し、身体の向きを少し変えた。
正面から向き合う。
今度は頬へ触れない。
ただ、ゆっくり顔を近づける。
リビアの表情を見ながら、少しずつ。
彼女も目を逸らさない。
さっき止まった距離に近づく。
そこで俺は止まった。
「大丈夫?」
「……うん」
リビアの声は小さいが、さっきほど硬くない。
「もう少し?」
聞くと、彼女が頷く。
ほんの少しだけ近づく。
互いの息が触れそうな距離。
俺の心臓もかなり速い。
(近い)
リビアの瞳が揺れる。
でも、今度は「待って」とは言わなかった。
代わりに、彼女が小さく笑った。
「セスも緊張してる顔してる」
「今さら?」
「近くで見たら分かった」
「リビアもすごいよ」
「うん」
そのまま二人で笑ってしまった。
緊張が少しほどける。
俺は距離を戻そうとした。
その時だった。
「待って」
今度の声は、さっきとは違った。
俺は止まる。
リビアが一度目を閉じ、それから開く。
「今なら……したい」
胸が強く鳴る。
「本当に?」
「うん」
「していい?」
「うん」
今度は、彼女の返事に迷いがなかった。
それでも急がない。
少しだけ距離を縮める。
リビアも逃げない。
彼女の目がゆっくり閉じる。
俺も目を閉じた。
そして、唇が触れた。
ほんの短い時間だった。
押しつけることも、深く重ねることもしない。
ただ触れて、互いの温度が分かったところで離れる。
目を開ける。
リビアも目を開けた。
近い距離のまま、二人とも何も言えなかった。
頬が熱い。
胸がうるさい。
でも、嫌ではない。
リビアの頬は真っ赤だった。
「……した」
「うん」
「キス、したね」
「した」
それ以上の言葉がすぐに出てこない。
俺たちは顔を見合わせたまま、どちらからともなく少し笑った。
「どうだった?」
聞いてから、変な質問だったかもしれないと思う。
でもリビアは怒らなかった。
「……思ってたより、普通だった」
「俺も」
「でも、すごくどきどきする」
「それも同じ」
「何か全部変わると思ってた」
「変わった?」
リビアは少し考えてから、首を横へ振る。
「セスはセスのまま」
「リビアもリビアだよ」
「でも、ちょっとだけ違う」
「何が?」
「分からない」
それなら無理に言葉にしなくていい。
俺も同じだった。
世界が変わったわけではない。
庭園も東屋も、さっきと同じ場所にある。
遠くから生徒の声が聞こえ、木の葉が風で揺れている。
それでも、さっきまで知らなかったリビアとの距離を一つ知った。
それだけで、胸の奥に新しいものが増えたような気がした。
◇
少ししてから、リビアがまた俺の手を取った。
「セス」
「うん」
「止まってくれてありがとう」
「さっきの?」
「うん。最初に怖くなった時」
「当然でしょ」
「私には、あれが大きかったの」
リビアは繋いだ手を見つめる。
「したいって言ったあとでも、本当にやめていいんだって分かったから。そのあと、もう一回近くなってみたいって自分から言えた」
「そっか」
「もし最初にそのままされたら、たぶん嫌いにはならなかったと思う。でも、怖かったことの方が残ったかもしれない」
俺はその言葉を聞きながら、さっきの瞬間を思い出す。
手を強く握られて、「待って」と言われた。
あの時止まることに迷いはなかった。
「俺も、止まってよかった」
「うん」
「最初じゃなくて、二回目が俺たちの初めてでよかったと思う」
リビアの目が柔らかくなる。
「私も」
それから彼女は少し恥ずかしそうに唇へ指先を近づけ、途中でやめた。
「何?」
「何でもない」
「気になる」
「……もう一回したいって思っただけ」
心臓がまた跳ねる。
「俺も思った」
「本当?」
「うん」
リビアはさらに赤くなる。
「でも、今日はどうする?」
俺が聞くと、彼女は少し悩んだ。
「今日は一回でいい」
「分かった」
「セスは?」
「俺はもう一回したいけど、一回でいい」
「また今度?」
「うん。また二人でしたい時に」
「約束?」
「約束」
初めて出来たからといって、これから毎回しなければならないわけではない。
したい時にする。
したくない日はしない。
たぶん、それでいい。
◇
東屋を出る頃には、日がかなり傾いていた。
帰り道では、手を繋がなかった。
嫌になったわけではない。
二人とも少し熱くなった顔を冷ましたかっただけだ。
校舎の近くまで戻ると、向こうから数人の生徒が歩いてくる。その中にナナリーとミリアナがいた。
「あれ、まだいたんですか?」
ナナリーが声をかけてくる。
「散歩してた」
「デートですか?」
「うん」
俺が普通に答えると、リビアが隣で少しだけ肩を揺らした。
ミリアナは俺とリビアを交互に見る。
「二人とも、顔赤くない?」
「歩いてたから」
リビアが答える。
「そんなに暑くないけど」
「ミリアナ」
「はいはい、聞かない」
何か気づいたのかもしれない。
でも、俺たちが話していないことまで知っているわけではない。
ナナリーも深く追及せず、柔らかく笑った。
「楽しかったならよかったです」
「うん。楽しかった」
俺が答えると、リビアも小さく頷いた。
初めてキスしたことは、今は二人だけが知っている。
それでいいと思った。
◇
帰りの馬車では、最初の数分、二人とも妙に静かだった。
いつもなら学校であったことをすぐ話し始めるのに、今日は向かい合って座りながら、時々目が合っては逸らしてしまう。
先に耐えられなくなったのはリビアだった。
「セス」
「うん」
「何か話して」
「何かって?」
「普通の話」
「普通……」
考える。
「今日の昼、イザークにまた勝負誘われた」
「それ、朝にも聞いたよ」
「じゃあ魔術理論の話」
「それも少し聞いた」
「難しいな」
リビアが笑った。
その笑顔を見て、俺も少し力が抜ける。
「じゃあ、キスの話する?」
「普通の話って言ったのに!」
「今一番頭にあるから」
「私もだけど……」
結局、二人とも同じだった。
「嫌じゃなかった?」
改めて聞くと、リビアは首を横へ振る。
「嫌じゃない。嬉しかった」
「俺も」
「セスの唇、思ったより……」
そこで止まる。
「思ったより?」
「言わない」
「気になる」
「絶対言わない」
顔を赤くして窓の外へ向く。
俺は追及しないことにした。
「じゃあ俺の感想言う?」
「聞きたいけど、怖い」
「何で?」
「変なこと言いそうだから」
「変なこと?」
「セス、時々すごく直接言うもの」
少し考える。
「柔らかかった」
「ほら!」
リビアが両手で顔を覆う。
「聞きたいって言ったのに」
「聞きたかったけど、実際聞くと恥ずかしいの!」
「難しいね」
「セスが平気そうなのがずるい」
「平気じゃないよ」
「本当に?」
「さっきからずっと思い出してる」
顔を覆っていた指の隙間から、リビアがこちらを見る。
「……私も」
それからしばらく、また二人で黙った。
でも今度の沈黙は気まずくなかった。
◇
屋敷へ戻ると、玄関近くでグレイヴと会った。
「お帰りなさいませ、お嬢様。セス」
「ただいま、グレイヴ」
「ただいま」
いつものように挨拶を返す。
グレイヴの視線が一度俺へ向き、それからリビアへ移った。
「本日はお二人とも、少々顔が赤いようですが」
心臓が跳ねる。
「歩いてきたから」
リビアがすぐに答える。
「馬車でお帰りになったはずですが」
「学園で歩いたの!」
「左様でございますか」
グレイヴはそれ以上聞かなかった。
でも、何となく全部見透かされているような気がする。
俺は咳払いして話題を変えた。
「今日は朝に剣二十分。放課後は練習してない。体調問題なし」
「承知しました」
「イザークに再戦誘われたけど、今日は断った」
「理由を伺っても?」
「朝に振ったから。出来るとは思ったけど、二回やりたいほどじゃなかった」
グレイヴの表情が少しだけ柔らかくなる。
「よい判断かと存じます」
「うん」
「明日の予定は現時点ではございません。ただし、旦那様より婚約者としての学びについて、近いうちに一度お話をしたいとのことでした」
「授業始まるの?」
「まだその段階ではございません。何を学ぶべきか、セス自身の希望も含めて整理したいとのことです」
「分かった」
具体的な内容はまだ決まっていない。
それなら、今は待てばいい。
「日程決まったら教えて」
「承知しました」
グレイヴは軽く一礼し、その場を離れた。
隣を見ると、リビアがほっと息を吐いている。
「ばれたと思った」
「何が?」
「……言わせるの?」
「言わなくていい」
俺も少し安心した。
いつか話すことがあるかもしれない。
でも、今日すぐに報告することではないと思う。
◇
夕食後、今日は長く一緒に過ごさなかった。
昼から放課後まで十分に二人でいたし、俺は朝に剣も振っている。リビアも「今日は自分の部屋で少し本を読む」と言ったので、それぞれの時間を過ごすことにした。
自室へ戻った俺は、ベルナルト先生との研究ノートを開きかけてやめた。
(昨日整理したから、今日はいいや)
代わりに物語の本を手に取る。
数ページ読んだところで、内容とは関係なく昼間の東屋を思い出してしまう。
リビアが「待って」と言ったこと。
俺が止まったこと。
もう一度近づきたいと、今度は彼女から言ってくれたこと。
そして、初めて唇が触れたこと。
(キスしたんだな)
思い出すと、また顔が熱くなる。
恋愛小説なら、初めてのキスはもっと劇的に書かれるのかもしれない。
でも実際は、最初に一度止まった。
緊張して、確認して、少し笑って。
それからようやく触れた。
完璧ではなかったと思う。
でも俺は、あれでよかった。
◇
本を閉じて少し休んでいると、扉が控えめに叩かれた。
「セス、起きてる?」
リビアの声だった。
「起きてるよ」
扉を開けると、寝る前らしい軽い室内着の上へ薄い羽織を着たリビアが立っていた。
「どうしたの?」
「おやすみ言いに来ただけ」
「さっきも言わなかった?」
「夕食のあとに別れた時は、またあとでって言ったもん」
「そうだっけ」
「そうだよ」
廊下には誰もいない。
リビアは少しだけ俺の部屋の中を見るが、入ろうとはしなかった。
「本読んでた?」
「うん。でもあんまり頭に入らなかった」
「どうして?」
聞いた瞬間、リビアの表情で気づく。
「同じ?」
「たぶん」
俺たちは少し笑った。
「セス」
「うん」
「今日、嬉しかった」
「俺も」
「最初に止まったことも、二回目に出来たことも」
「うん」
「次は、今日みたいに怖くならないかもしれない」
「そうかもね」
「でも、また怖くなるかもしれない」
「その時は止まるよ」
「うん」
リビアが安心したように笑う。
「それだけ言いたかった」
「分かった」
「おやすみ」
「おやすみ、リビア」
彼女は一歩だけ離れ、それから何かを思い出したように振り返る。
「セス」
「何?」
「もう一回したいって言ったの、忘れないでね」
心臓が大きく鳴る。
「忘れないよ」
「でも明日って意味じゃないからね」
「分かってる」
「じゃあ今度こそ、おやすみ」
「うん。おやすみ」
リビアは今度こそ廊下を歩いていった。
その後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで見送り、俺は静かに扉を閉めた。
◇
ベッドへ横になると、今日一日の出来事がゆっくり頭へ浮かんだ。
朝は、自分が剣を振りたいと思ったから二十分だけ振った。イザークから再戦に誘われても、出来るかどうかではなく、今日二回やりたいかどうかで断った。
授業では、俺の魔術確認に似た内容が出た。
似ていても、同じものではない。
古代測定器の研究も、リビアの結界研究も同じだ。
繋がる可能性を考えることと、答えを一つにしてしまうことは違う。
そして放課後は、何も決めていなかったからこそ、リビアと何をしたいかをその時に選んだ。
歩きたい。
手を繋ぎたい。
キスしたい。
最初は止まりたい。
もう一度近づきたい。
今度はしていい。
今日は一回でいい。
どれも、その時に決めた。
(最初から全部決めなくてもいいんだ)
婚約者としての勉強もそうなのかもしれない。
旦那様とグレイヴが全部決めたものを俺が覚えるだけではなく、俺自身が何を知りたいのか、どういう夫になりたいのかも含めて考える。
まだ、その答えははっきりしていない。
でも、今日の俺なら以前とは違う答えを出せる気がする。
リビアの隣にいるために、自分の好きなものを全部捨てる必要はない。
剣も、魔術も、研究も、友達との時間も大切にしていい。
リビアにも、結界研究や委員会や友達との時間がある。
それぞれ別のことをして、それでも会いたい時には会いたいと言える。
触れたい時には触れたいと言えて、怖くなったら止まれる。
(俺は、そういうふうにリビアの隣にいたい)
公爵令嬢の婚約者として、それが正しい答えなのかはまだ知らない。
でも、俺自身がどんな婚約者になりたいのかという問いには、少しずつ答えが出来始めている。
そして今日、もう一つだけ確かなことが増えた。
初めてのキスをしたからといって、俺とリビアの関係が突然別のものへ変わったわけではない。
リビアは今日もリビアだった。
俺も俺だった。
ただ、互いに知っている距離が一つ増えた。
次にいつキスするのかは決めていない。
明日の予定も決めていない。
イザークとの再戦も、研究の続きも、婚約者としての学びも日程はまだない。
それでも、不安にはならなかった。
何も決まっていない日には、その日にやりたいことを選べばいい。
今日みたいに一つずつ選んでいけば、きっとその積み重ねが、俺がリビアの隣で生きていく形になっていくのだと思う。
そう考えながら目を閉じると、最後に浮かんだのは東屋で真っ赤になっていたリビアの顔だった。
(……次は、俺ももう少し落ち着けるかな)
たぶん無理だろうと思いながら、俺は少しだけ笑って眠りについた。




