第65話 別々の場所で過ごしたあとに、会いたいと思うのは同じでした
翌朝は、剣を振らなかった。
昨日は朝に十五分だけ基本の練習をしているし、身体に痛みや疲労があるわけではないものの、二日続けて振りたいほどの気分でもなかった。窓を開けて外の空気を入れながら身体を伸ばしたところで、それだけで十分だと思えた。
(今日は何があるかな)
昨日の夜まで、今日の放課後に予定は入っていなかった。
ベルナルト先生から古代の魔力測定方法について連絡が来る可能性はある。
エレナ先生から、出力を上げてから下げた時に水属性と土属性で違う崩れ方をした件について、追加確認を指定される可能性もある。
旦那様とグレイヴが整理している婚約者としての学びについても、具体的な日程はまだ決まっていない。
どれも、来るかもしれない。
でも、来ないかもしれない。
「行こう」
まだ起きていないことを考え続けるのをやめ、俺は部屋を出た。
◇
今日は廊下でリビアと会った。
階段へ向かう途中、向こうから歩いてくる銀青色の髪を見つけた瞬間、自然に足が少し速くなる。
リビアも俺に気づき、表情を明るくした。
「おはよう、セス」
「おはよう」
「今日は剣やらなかったの?」
「うん。昨日やったから今日はいいかなって」
「身体は?」
「問題なし」
「じゃあ、休んだんじゃなくて、やらなかっただけ?」
「そう」
以前なら、この違いを説明する必要があったのかもしれない。
体調が悪いから休む。
怪我をしているから休む。
誰かに止められたから休む。
今朝はどれでもない。
単純に、今日はやらなくていいと思った。
「リビアは?」
「少し本を読んでた」
「昨日見た昔の制服の本?」
「違うよ。普通の物語」
「そっか」
「学園史の本も気になるけど、まだ図書室で探してないの」
「今度でいいもんね」
「うん」
並んで歩き始める。
階段へ差しかかったところで、リビアが少しだけこちらを見る。
「昨日のこと、覚えてる?」
「どれ?」
「……いっぱいあるみたいに言わないで」
「散歩もしたし、古い校舎も見たし、旦那様から婚約者の勉強の話も聞いたし」
「そのあとのこと」
そこまで言われれば分かる。
「キスの話?」
「朝の廊下で普通に言わないで」
周囲を確認すると、少し離れたところを使用人が一人通っているだけだった。
「ごめん」
「いいけど……」
リビアの頬が赤い。
「覚えてるよ」
「うん」
「リビアが、変わってもいいのかもしれないって思えるようになったって」
「覚えてた」
「忘れないよ」
彼女はしばらく黙っていたが、階段を下り始める時には小さく笑っていた。
「今日はまだ、何も決めてないからね」
「分かってる」
「確認しただけ」
「うん」
それ以上は話さない。
朝食前の廊下で続きを決めるようなことでもない。
◇
学園へ到着して教室へ入ると、俺の机の上に一枚の小さな紙が置かれていた。
「何だろう」
手に取る。
学園の教員が生徒を呼ぶ時に使う簡単な連絡票だった。
差出人はベルナルト先生。
『本日の授業終了後、時間が取れるなら第三資料室へ。以前の資料について確認したい点がある。都合が悪ければ別日で構わない』
読み終えた瞬間、胸の奥が少し弾む。
(来た)
古代の魔力測定方法。
薄い中継板。
古い記録にある灰透晶と、現代の薄灰晶石が対応する可能性。
別資料に出てきた響晶や響晶薄片。
同時代の技術思想として見つかった、常に最大の力を流し続けるのではなく、必要な変化へ応じるという考え方。
まだ分からないことは多い。
だからこそ、続きを見たい。
「嬉しそうだな」
声をかけられて顔を上げると、サザリーがいた。
「ベルナルト先生から呼ばれた」
「古い測定方法の研究か?」
「うん」
「なるほど。それならその顔にもなるか」
「どんな顔?」
「昨日の共同課題が始まる前と似ている」
「そんなに?」
「分かりやすいぞ」
サザリーが自分の席へ向かう。
そこへイザークも来た。
「今日、剣どうする?」
「今日は研究行く」
「決まったのか?」
「今連絡来た」
「じゃあまた今度だな」
「うん」
それで終わる。
次の剣術練習を無理に別の日へ入れ直すことはしない。
剣は逃げない。
研究も、今日出来る範囲でやればいい。
◇
午前の授業が終わり、昼休みになる。
いつもの場所へ向かう途中でリビアに連絡票を見せると、彼女もすぐに内容を理解した。
「ベルナルト先生から来たんだ」
「うん。放課後行ってくる」
「楽しみ?」
「かなり」
「顔見れば分かる」
「サザリーにも言われた」
リビアが笑う。
「私は今日、委員会あるよ」
「色札の確認?」
「うん。マリエッタ先輩が仮の札を作ってくれたから、実際に第二予備教室へ置いてみるの。それと、一方通行の案も確認する予定」
「じゃあ今日は別々だね」
「そうだね」
少しだけ寂しい。
昨日は放課後を一緒に散歩した。
今日は別々。
でも、どちらかが相手に合わせて予定をやめる必要はない。
「終わったらどうする?」
リビアが聞く。
「待ち合わせする?」
俺も少し考えた。
ベルナルト先生との研究が何時に終わるか分からない。
委員会も同じだ。
「昨日みたいに、決めないでいいんじゃない?」
「先に終わったら帰る?」
「うん。屋敷で会えるし」
「分かった」
リビアが頷く。
その表情に不満はなかった。
「でも」
「何?」
「会えたら嬉しい」
そう付け加えると、リビアの目が少し丸くなる。
「私も」
それで十分だった。
◇
昼食では、ベルナルト先生から連絡が来たことを話した。
「古代の測定器って、あの薄い板が入ってるやつ?」
イザークが聞く。
「そう。正確には、入ってた可能性があるやつ」
「まだ決まってねえのか」
「決まってない」
「長いな」
「研究ってそういうものじゃない?」
「俺には無理だ」
「イザーク君は答えが出る前に板を叩きそうだものね」
ミリアナの言葉に、イザークが眉を寄せる。
「叩かねえよ!」
「剣で?」
「もっとやらねえよ!」
ナナリーが笑う。
サザリーは俺の方を見た。
「今日は何を確認するか、連絡票には書かれていなかったのか?」
「以前の資料について確認したい点がある、だけ」
「予想は?」
一瞬考える。
「しない」
答えると、サザリーが少し笑った。
「そう言うと思った」
「気になるけどね」
「灰透晶かもしれないし、響晶かもしれない。三角の印かもしれない」
「うん。だから行ってから聞く」
以前なら、昼休みのうちに候補を全部書き出していたかもしれない。
今も考えればいくらでも考えられる。
でも、それは先生から資料を見せてもらってからでいい。
「リビアは委員会?」
ナナリーが尋ねる。
「うん。今日は色札の試し置き」
「色で分けるやつ?」
「そう。実技開始順の組と同じ色にして、待機する教室を間違えにくく出来るか見るの」
「文字も書くんですか?」
「書く予定。色だけだと見分けにくい人もいるかもしれないから」
「その方がよさそうですね」
俺は口を挟まず聞いていた。
リビアの仕事だ。
必要なら彼女が考える。
聞かれたら俺も意見を言えばいい。
それでいい。
◇
午後の授業を終えると、俺とリビアは教室前で別れた。
「じゃあ行ってくる」
「うん。私も」
「頑張って」
「セスも。無理に全部調べないでね」
「先生がいるから大丈夫」
「先生がいなかったら?」
「そもそも研究しないよ」
「正解」
リビアが笑って委員会室の方向へ歩いていく。
俺も第三資料室へ向かった。
◇
第三資料室へ入ると、ベルナルト先生は窓際の机へ何冊かの本を並べていた。
細身の身体を少し屈め、長い茶髪を後ろで結んだいつもの姿だ。
「失礼します」
「ああ、来たか」
「連絡ありがとうございます」
「座ってくれ」
指定された椅子へ座る。
机の上には、以前見た資料とは別の本が三冊置かれている。
「今日は何が分かったんですか?」
「結論を急ぐな」
「すみません」
「まあ、聞きたくなるのは分かる」
ベルナルト先生は一冊の本をこちらへ向けた。
「以前、灰透晶という古い材料名と、現在の薄灰晶石が対応する可能性について話したな」
「はい。性質の記録が似ているけど、同じ物だとはまだ確定していない」
「その認識でいい」
先生はページを開く。
古い書体で細かな文字が並んでいる。
「これは同時代より少し後の、工房向け材料目録だ。ここに興味深い記述があった」
指で示された部分を読む。
『灰透晶。薄片として用いる時、急激なる魔力の変化をそのまま通すべからず。前後に緩衝の刻みを置くこと』
「緩衝の刻み……」
「意味はまだ確定していない」
「三角の印と関係あります?」
「それも分からない」
すぐに否定ではなく、保留が返ってくる。
「ただし、以前の部分図にあった中継板らしき部位の前後には、細かな記号があった」
「三角の印とは別ですか?」
「別だ」
先生が以前の写しを取り出した。
薄い板らしき部分。
そこから伸びる線。
俺たちが気にしていた三角形の印は少し離れた位置にある。
けれど板のすぐ前後にも、短い線が何本か描かれていた。
「これ、前は傷かもしれないって言ってませんでした?」
「言った。今も断定は出来ない。ただ、材料目録に『前後に緩衝の刻み』という表現がある以上、意図的な記号だった可能性は以前より上がった」
「でも、同じ装置のことを書いてるとは限らない」
「そうだ」
俺はノートへ書く。
灰透晶。
薄片使用時。
急激な魔力変化をそのまま通さない。
前後に「緩衝の刻み」。
部分図の中継板前後に短線あり。
関連可能性上昇。
確定ではない。
「先生」
「何だ」
「急激な変化をそのまま通さないって、測定器側の反応を遅らせる可能性あります?」
「ある」
即答だった。
「ただし」
「昔の記録にある属性切り替えの遅れが、全部装置のせいとは言えない」
「その通り」
以前から残っている問題だ。
古い記録では、二属性を扱う術者が属性を切り替えた時、測定結果にわずかな遅れがあるように読める。
俺自身は五属性を切り替える時、体感上ほとんど遅れを感じない。
だから、古代の術者と俺の違いなのか。
測定器の応答速度なのか。
両方なのか。
まだ分からない。
「むしろ今回の記述で、装置側に意図的な緩衝機構があった可能性は少し高くなった」
「何のために?」
「そこが問題だ」
ベルナルト先生は別の資料を開く。
「測定値を安定させるためかもしれない。材料の破損を防ぐためかもしれない。急激な魔力変化による誤反応を減らすためかもしれない」
「全部候補?」
「全部候補だ」
「じゃあまだ絞れないですね」
「そういうことだ」
少し残念なのに、同時に面白い。
答えが出なかった。
でも、分からない部分の形が少し変わった。
◇
「もう一つある」
先生が二冊目を開く。
「こちらは測定器ではなく、魔導具全般の保守記録だ」
「同じ時代ですか?」
「おおむね同時代。ただし地域は異なる」
そこは重要だ。
同じ時代だからといって、同じ技術体系とは限らない。
「ここでは、魔力の変化が大きい装置について、『受けた変化を一度に返さず、段階を分ける』という記述がある」
「段階を分ける……」
俺は少し考える。
以前、リビアの古代結界研究でも、常に外側を満たし続けるのではなく、失われた分を戻すような記述が出ていた。
同じ時代の技術に、必要な分だけ応答する考え方があった可能性。
ベルナルト先生とも話したことがある。
「リビアの結界研究と同じ技術ってことですか?」
「違う」
先生の返事ははっきりしていた。
「現時点ではそこまで結びつけられない。同じ時代に、魔力を常時最大で流し続ける以外の制御思想が複数存在した可能性を考える材料にはなる。だが、測定器と結界が同じ仕組みだった証拠にはならない」
「はい」
そこは間違えないよう、ノートへ線を引く。
「ただ」
先生が続ける。
「君が以前言っていた『変化そのものを見ていたのではないか』という仮説は、少し検討しやすくなった」
「本当ですか?」
「あくまで仮説としてだ」
「分かってます」
「本当に?」
「分かってますよ」
先生が疑うようにこちらを見る。
俺はノートを見せた。
そこには大きく、
『変化検出の可能性が少し上昇。確定ではない』
と書いてある。
「……以前より慎重になったな」
「最近みんなにそれ言われます」
「悪い変化ではない」
また同じことを言われた。
俺は少し笑って、ノートを戻した。
◇
最後の一冊は材料名の地域差に関する記録だった。
灰透晶と薄灰晶石が本当に同じものなのか。
そこに直接答えを出す記述はなかった。
ただ、古い北東地域の材料名一覧に、灰透晶と似た性質を持つ「淡灰晶」という別名が出ている。
「また名前増えた……」
思わず呟く。
「研究とはそういうものだ」
「減らないんですか?」
「調べれば調べるほど候補が増える時期もある」
「大変ですね」
「今さら気づいたか」
先生が少し笑う。
淡灰晶。
灰透晶。
薄灰晶石。
響晶。
響晶薄片。
名前だけ並べると混乱しそうになる。
「整理します」
「ああ」
「灰透晶と淡灰晶は、同じ材料の地域別名称の可能性がある」
「可能性だ」
「薄灰晶石は現代の対応候補。でも確定してない」
「そうだ」
「響晶は別資料で中継や応答に関係する可能性があるけど、灰透晶と同じものではない」
「現時点では別材料として扱え」
「はい」
ノートへそれぞれ分けて書く。
勝手に一つへまとめない。
「次はどうします?」
「淡灰晶という名称が使われていた地域の工房記録を探す」
「俺も?」
「次回、必要なら呼ぶ」
「分かりました」
「今日はここまでだ」
机の上の資料を見る。
まだ読みたい。
特に「緩衝の刻み」が気になる。
短い線が本当にその刻みなのか。
形に規則性はあるのか。
他の装置にも同じものがあるのか。
「先生」
「何だ」
「この資料、今日借りるのは?」
「駄目だ」
「ですよね」
「古い原本だ。持ち出し禁止だ」
「写しは?」
「今日は作らない」
「分かりました」
「不満そうだな」
「気になるので」
「次がある」
ベルナルト先生は資料を閉じる。
「研究は、気になった時に全部やるものではない」
「はい」
「特に君はな」
「はい……」
そこまで言われると反論出来ない。
俺はノートだけを鞄へしまった。
◇
資料室を出ると、廊下はすでにかなり静かになっていた。
窓の外を見る。
日が傾いている。
(リビア、もう帰ったかな)
委員会がどのくらいかかるかは聞いていない。
待ち合わせもしないと決めた。
だから、そのまま昇降口へ向かう。
途中で委員会室の近くを通る道もあるけれど、わざわざ様子を見には行かなかった。
まだ活動中なら邪魔になる。
先に終わって帰っているなら、屋敷で会える。
そう思いながら階段を下りた。
昇降口へ近づいたところで、外から何人かの生徒が入ってくる。
その中に、見覚えのある女子生徒がいた。
マリエッタ・クロード先輩だ。
以前リビアから聞いた、委員会で記録整理を担当している上級生。
彼女の手には、赤、青、黄、緑の札が何枚か重ねられている。
(色札、試したんだ)
俺が道を空けると、マリエッタ先輩がこちらへ気づいた。
「あら、クルセス君」
「こんにちは」
「オリビアなら、まだ第二予備教室よ」
「え?」
「探しているのかと思って」
「あ、いえ。今日は待ち合わせしてないので」
「そうなの?」
「はい。俺も研究だったので、終わる時間分からなくて」
マリエッタ先輩は一瞬だけ意外そうな顔をしたあと、柔らかく笑った。
「そう。では余計なことを言ってしまったわね」
「いえ」
「こちらはもうすぐ終わると思うけれど、急がせるほどではないわ」
「分かりました」
俺はそのまま昇降口へ向かおうとする。
でも、数歩進んだところで足が止まった。
(まだいるんだ)
待ち合わせはしていない。
待たなくてもいい。
でも。
(会いたいな)
そう思った。
義務ではない。
リビアを一人で帰らせてはいけないわけでもない。
婚約者だから待つべきだという話でもない。
俺が会いたい。
ただそれだけ。
振り返ると、マリエッタ先輩はまだ近くにいた。
「先輩」
「何?」
「第二予備教室って、あとどのくらいかかりそうですか?」
「十分か十五分くらいじゃないかしら」
「じゃあ、少し待ちます」
マリエッタ先輩が目を細める。
「待ち合わせではないのに?」
「はい」
「なるほど」
何が「なるほど」なのかは分からない。
でも、先輩は楽しそうだった。
「では、本人には言わないでおくわ」
「何でですか?」
「その方が喜びそうだから」
「そうですか?」
「たぶんね」
先輩は色札を抱え直し、そのまま職員室の方向へ歩いていった。
◇
俺は昇降口近くの長椅子へ座った。
鞄から本は出さない。
研究ノートも開かない。
ただ窓の外を見ながら待つ。
十分くらいなら、何かを始めなくてもいい。
何人かの生徒が帰っていく。
知っている顔には軽く挨拶をする。
そのうち、廊下の奥から複数の声が聞こえた。
委員会の生徒たちだ。
先頭近くにリビアがいる。
彼女は隣の上級生と話しながら歩いていたが、昇降口へ入ったところでこちらを見た。
足が止まる。
「セス?」
「お疲れ」
立ち上がる。
「どうしているの?」
「研究終わったから」
「帰らなかったの?」
「帰ろうと思ったんだけど、マリエッタ先輩にリビアがもうすぐ終わるって聞いたから」
「待っててくれたの?」
「うん」
「待ち合わせしないって言ったのに」
「待たなきゃいけないとは思ってないよ」
「じゃあ、どうして?」
俺は少し考える。
でも、答えはもう分かっている。
「会いたかったから」
リビアの顔が一気に赤くなった。
後ろにいた委員会の生徒が何人か足を緩める。
一人の女子生徒が、聞いてはいけないものを聞いたように視線を逸らした。
別の男子生徒は口元を押さえている。
「セ、セス……」
「何?」
「ここ、学園」
「うん」
「みんな、いる」
周囲を見る。
「いるね」
「……もう」
リビアが顔を伏せる。
その時、少し後ろからマリエッタ先輩が歩いてきた。
「私は何も聞いていないことにするわ」
「先輩!」
「お疲れさま、オリビア」
楽しそうに笑いながら通り過ぎていく。
俺は少し考えてからリビアを見る。
「言わない方がよかった?」
「違うの」
「じゃあ?」
「嬉しいけど、恥ずかしいの」
「そっか」
「セスは恥ずかしくないの?」
「ちょっとは」
「全然そう見えない」
それでも、リビアは嬉しそうだった。
◇
帰りの馬車では、まず互いの放課後について話した。
「色札どうだった?」
「思ったより分かりやすかったよ。赤、青、黄、緑の四種類を使ったの」
「文字も入れた?」
「うん。色だけじゃなくて、開始順の数字も大きく書いた。先生役の人が入口で説明しなくても、ほとんど間違えなかったよ」
「じゃあ採用?」
「まだ仮採用。次は実際の人数に近い数で確認する予定」
「一方通行は?」
「中庭側から校舎側へ向かう案で進めることになった。先生たちが幅を確認して、逆向きより実技後の生徒とぶつかりにくいって」
「それはもう決定?」
「運用方針としては決まったよ。でも実施前の確認は残ってる」
「なるほど」
少しずつ決まっている。
全部一度に完成するわけではない。
「セスは?」
「新しい記録見つかった」
今度は俺が説明する。
灰透晶を薄片として使う時、急激な魔力変化をそのまま通さず、前後に「緩衝の刻み」を置くという古い材料目録。
部分図の中継板らしき場所の前後にあった短い線。
それが単なる傷ではなく、何らかの意図的な構造だった可能性が少し高くなったこと。
同時代の別地域では、魔力変化を一度に返さず段階的に扱う技術思想らしき記録も見つかったこと。
ただし、リビアが調べている古代結界と同じ技術だという証拠ではないこと。
「そこ、ちゃんとベルナルト先生に言われた?」
「言われた」
「やっぱり」
「俺も聞いたよ。リビアの結界と同じ仕組みですかって」
「聞いたんだ」
「違うって即答された」
リビアが笑う。
「でも、同じ時代に似た考え方があったかもしれないんだね」
「うん。ただ、似てるってだけ」
「私の方でも、何か同じ時代の資料が出たら先生に相談してみる」
「勝手に一つにまとめない?」
「しないよ」
「俺も」
研究の話をしていると、時間が早く過ぎる。
でも今日はそれだけではなかった。
話が途切れたあと、リビアが俺を見る。
「セス」
「何?」
「さっきの」
「会いたかったってやつ?」
「自分から言い直さないで」
「ごめん」
「……でも、本当に?」
「何が?」
「私に会いたかったから待ってたの?」
「うん」
「婚約者だからじゃなくて?」
「うん」
「一緒に帰らなきゃいけないと思ったからでもなくて?」
「違うよ」
俺は少し笑う。
「帰ろうと思ってた。でも、リビアがあと十分くらいで終わるって聞いたら、会いたくなった」
リビアの視線が膝へ落ちる。
「私もね」
「うん?」
「委員会が終わる少し前、セスもう帰ったかなって考えてた」
「そうなの?」
「うん。でも待ち合わせしてないし、研究が早く終わったなら帰ってるよねって思ってた」
「じゃあ会いたかった?」
「……うん」
小さな声。
俺の胸の奥が温かくなる。
「同じだったんだ」
「うん」
別々の場所で、それぞれ自分のやりたいことをしていた。
俺は研究。
リビアは委員会。
相手がいないから不安だったわけではない。
それでも終わった時に会いたいと思った。
そのことが嬉しかった。
◇
屋敷へ戻ってから、夕食までは別々に過ごした。
俺は研究ノートを一度だけ整理する。
今日増えた内容は、きちんと確定していることと仮説を分けた。
灰透晶の薄片使用時に「緩衝の刻み」という記述が存在することは確定。
部分図の短線がその刻みであるかは未確定。
装置側に急激な魔力変化を緩和する機構が存在した可能性は上昇。
古い測定記録に見える遅れが装置由来である可能性も上昇したが、術者側の切り替え速度との差は未解決。
灰透晶と淡灰晶が地域別名称である可能性。
薄灰晶石が現代の対応材料である可能性。
どちらも未確定。
響晶は別材料候補のまま。
古代結界との技術的同一性は証拠なし。
「これでいいかな」
書き終えたところでノートを閉じる。
続きを調べるのは次回。
今日はもうやらない。
◇
夕食後、リビアとは談話室で会った。
今日は最初から何かをする予定ではない。
俺が先に長椅子へ座り、少ししてリビアが隣へ来る。
「研究ノート、整理した?」
「うん。一回だけ」
「一回だけって自分で言うところがセスらしい」
「二回目はやってないよ」
「疑ってないよ」
肩が軽く触れる。
そのまま少し黙る。
昼間の学園とは違い、屋敷の夜は静かだった。
窓の外は暗く、廊下から時々使用人の足音が聞こえる。
「セス」
「うん?」
「今日、待っててくれて嬉しかった」
「俺も会えて嬉しかった」
「みんなの前で言われたのは恥ずかしかったけど」
「次から気をつける?」
「……気をつけなくていい」
「いいの?」
「恥ずかしいけど、嫌じゃなかったから」
「分かった」
リビアが俺の方を向く。
俺も向く。
近い。
昨日までなら、ここで互いにキスのことを意識して、それから言葉にして確認していた。
今日も意識する。
リビアの唇が視界に入る。
胸が少し速くなる。
(キスしたい)
気持ちは変わっていない。
でも、俺から近づかない。
リビアもすぐには動かなかった。
数秒。
そのまま見つめ合う。
やがて、彼女が小さく息を吸った。
「セス」
「うん」
「今日は……」
声が止まる。
俺は待つ。
リビアの指が、自分のスカートの上で少しだけ握られた。
「抱きしめてほしい」
「うん」
俺から腕を広げる。
リビアが近づいてきて、胸元へ身体を預ける。
背中へ腕を回す。
彼女も俺の服を軽く掴んだ。
「これがいい?」
「うん」
「分かった」
抱きしめる。
それだけ。
キスではない。
でも、足りないとは思わない。
しばらくすると、リビアが胸元から小さく話し始めた。
「今日ね、委員会してる時は全然キスのこと考えてなかったの」
「うん」
「色札置いて、みんなで歩いて、間違える場所を確認してたから」
「忙しかった?」
「結構。でも楽しかった」
「うん」
「それで終わった時に、セスに会いたいなって思った」
腕の中で、リビアが少しだけ顔を上げる。
「その時、キスしたいとは思わなかったの」
「うん」
「ただ会いたかった」
「俺も同じ」
「でも、昇降口にセスがいて、会いたかったって言われて……馬車で話して……今こうしてると」
言葉がまた止まる。
リビアの頬が赤くなっている。
「今は?」
急かさないように聞く。
「……少し、したい」
胸が大きく鳴る。
昨日の「したいかも」より、少しだけ言葉が変わった。
「そっか」
「セスは?」
「したい」
「うん」
リビアは俺から離れない。
でも、まだ顔を近づけてはこない。
「怖い?」
聞くと、少し考えてから答えた。
「前よりずっと怖くない」
「でも少しは?」
「少し」
「じゃあ今日は?」
リビアが黙る。
俺は答えを待つ。
したいと言ってくれた。
だからといって、今すぐしなければならないわけではない。
しばらくして、リビアは小さく首を横へ振った。
「今日は、まだしない」
「分かった」
「……残念?」
「うん」
正直に答える。
リビアが少しだけ笑った。
「やっぱり言うんだ」
「したいから」
「私も少し残念」
「じゃあ同じだね」
「うん」
互いにしたい。
しなかったことを少し残念に思う。
それでも今日はしない。
全部同時にあっていい。
◇
抱擁を解く。
けれど、リビアはいつものようにすぐ距離を取らなかった。
長椅子の上で、俺のすぐ隣にいる。
肩が触れる。
膝も少し近い。
「セス」
「何?」
「一つ聞いていい?」
「うん」
「もし私が『今日したい』って言ったら、どうする?」
心臓が一度強く鳴った。
でも、想像だけで先へ進まないようにする。
「リビアに確認する」
「何を?」
「本当に今したいのか」
「それから?」
「俺もしたいって言う」
「それから?」
そこまで聞かれて、俺の顔も熱くなってきた。
「……していいか聞く」
「そこでも聞くの?」
「聞くよ」
「私がしたいって言ったのに?」
「言ったあとで気持ち変わるかもしれないし」
リビアが目を瞬く。
「直前でやっぱり怖いって思うかもしれないでしょ」
「その時は?」
「やめる」
「残念でも?」
「残念でも」
リビアはしばらく俺を見ていた。
その表情から、少しずつ緊張が抜けていく。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、言っても大丈夫なんだ」
「何を?」
「したいって」
「今までだって言ってたでしょ?」
「そうだけど」
リビアは自分の指先を見る。
「『したい』って言ったら、もう止められない気が少ししてたの」
「止められるよ」
「いつでも?」
「うん」
「セスも?」
「俺も」
もし俺がしたいと言って、そのあとやっぱり今日はやめたいと思ったなら、やめていい。
リビアも同じだ。
「分かった」
彼女が小さく頷く。
「それなら……たぶん、もう本当にあと少し」
胸がまた速くなる。
「うん」
「でも、いつって聞かないで」
「聞かない」
「明日かもしれないし、もっと先かもしれない」
「分かった」
「セスから言ってもいいからね」
「何を?」
「今日したいって」
「俺から?」
「うん」
今までは、俺がしたい気持ちを伝えながらも、リビアが怖くなくなるまで待つと言っていた。
そのリビアが今、自分だけが決めるのではなく、俺からも言ってほしいと言っている。
「じゃあ、俺も言う」
「うん」
「その時、リビアが嫌なら嫌って言って」
「言う」
「怖かったら怖いって」
「言う」
「途中でやめたくなっても」
「言う」
俺たちは顔を見合わせた。
リビアが少し笑う。
「なんか、すごく確認したね」
「大事だから」
「うん」
そこで会話が途切れる。
キスはしなかった。
でも、昨日までとは少し違う。
俺がただ待つだけではなくなった。
リビアだけが「準備出来た」と言うのを待つのでもない。
どちらからでも、その日にしたいと思ったら言う。
そして、言ったあとでもやめられる。
そのことを二人で決めた。
◇
リビアの部屋へ向かう廊下まで一緒に歩いた。
扉の前で立ち止まる。
「おやすみ、セス」
「おやすみ、リビア」
「明日も予定、まだないね」
「今のところ」
「何か入るかもしれないけど」
「入らないかもしれない」
「その時決めようか」
「うん」
リビアが扉へ手をかける。
けれど、すぐには開けなかった。
振り返る。
「セス」
「何?」
「今日、待っててくれてありがとう」
「俺が待ちたかっただけだよ」
「それが嬉しいの」
「そっか」
「うん」
彼女は今度こそ扉を開ける。
「また明日」
「また明日」
扉が閉じるまで見送ってから、自室へ戻った。
◇
ベッドへ横になって目を閉じると、今日増えたものが頭へ浮かぶ。
研究では、「緩衝の刻み」という新しい記述が見つかった。
でも、それが部分図の短線と同じものなのかは分からない。
古い測定器が、魔力の急激な変化を意図的に緩和していた可能性は少し高くなった。
でも、過去の記録にある切り替えの遅れが装置のせいだったとは決まっていない。
灰透晶と淡灰晶。
薄灰晶石。
響晶。
名前は増えたのに、答えはまだ一つにならない。
(でも、前より分かってる)
答えが出ていないことと、何も進んでいないことは同じではない。
委員会の方もそうだ。
リビアたちは色札を試した。
運用方針も少しずつ固まっている。
それでも、本番前の確認は残っている。
俺たちのことも。
(今日もしなかったな)
初めてのキスはまだだ。
けれど、昨日までと同じではない。
リビアは「少ししたい」と言った。
したいと言ったあとでも、やめていいと分かった。
俺から「今日したい」と言ってもいいと言ってくれた。
待つことが、俺だけの役割ではなくなった。
どちらかが一方を連れていくのではなく、二人でその時を決める。
それが嬉しい。
そしてもう一つ。
(会いたかった)
研究をしている間は研究が楽しかった。
リビアがいないから寂しくて集中出来ないなんてことはなかった。
たぶんリビアも、委員会をちゃんと楽しんでいた。
それでも、終わったあとには会いたかった。
別々に過ごせることと、会いたいと思うことは反対じゃない。
離れている時間があるからこそ、終わったあとに話したいことが出来る。
今日見つけたものを伝えたい。
相手が何をしていたのか聞きたい。
顔を見たい。
(将来も、こうならいいな)
朝は別々のことをする日がある。
昼はそれぞれ仕事や研究をする。
夜になったら会って、今日あったことを話す。
忙しい日には会えないかもしれない。
その時は会いたいと言う。
昨日話した未来が、少しだけ具体的になった気がする。
婚約者として何を学ぶのか。
俺が将来どんな仕事をするのか。
どこで暮らすのか。
まだ決まっていない。
でも、肩書きより先に、どんな毎日を送りたいのかは少しずつ見えてきている。
俺はリビアとずっと一緒にいたい。
だからといって、二人とも自分の好きなことを捨てたいわけではない。
別々の時間を持って。
また会って。
話して。
触れたい時には触れて。
会いたい時には、会いたいと言う。
(それなら、俺にも出来そうだ)
公爵令嬢の婚約者として完璧に振る舞えるかと聞かれたら、まだ分からない。
でも、リビアの隣でどう暮らしたいかなら、以前より答えられる。
目を閉じる。
明日何が起きるかは決めていない。
研究の次回も未定。
魔術実技の追加確認も未定。
婚約者としての学びの日程も未定。
初めてのキスも未定。
それでも今日は、確かに昨日より先へ進んだ。
決まっていないものを無理に決めなくても、二人で過ごした時間の分だけ変わっていくものがある。
俺はその変化を、急いで終わらせるのではなく、これからもリビアと一緒に知っていきたいと思った。




