第64話 予定がない放課後に、したいことを決めます
翌朝、目を覚ましてから身体の状態を確かめても、どこにも気になる痛みや張りは残っていなかった。
昨日の魔術実技では水属性と土属性の出力を上げてから下げる確認をしたものの、使った魔力量そのものは大きくない。身体に疲労が残るような内容でもなく、睡眠もしっかり取れているため、体調だけを考えれば朝から剣を振っても問題はなさそうだった。
(今日は剣、どうしようかな)
ベッドから降りて窓を開けると、朝の少し冷たい空気が部屋へ入ってくる。
昨日は剣を振っていない。その前の日もサザリーとの共同課題だったから、イザークと一本勝負をしてから剣には触れていなかった。
だから今日は振りたい。
義務ではなく、身体を動かしたいという気持ちが自然に出てくる。
「じゃあ、少しだけやろう」
そう決めて身支度を整え、屋敷の練習場へ向かった。
朝の練習場にはまだ人が少なく、東側の壁を越えて差し込む陽光が地面の一部だけを明るくしている。俺は木剣を一本借りると、最初に軽く身体をほぐしてから、基本の構えを取った。
今日は迅雷撃破を使わない。
魔術も使わない。
イザークとの一本勝負で見つかった二歩目の癖を細かく調べるつもりもない。
ただ、剣を振りたいから振る。
素振りを始めると、木剣が朝の空気を切る音が規則的に続いた。
一振りごとに足を運び、身体の軸が崩れていないかだけを確かめる。二歩目が少し伸びる感覚には気づいたものの、そこで動きを止めて分析を始めることはせず、今日は基本の動作へ戻した。
(今度イザークとやる時か、先生に見てもらえる時でいい)
気になることを見つけても、その場ですべて解決する必要はない。
十五分ほど動いたところで、木剣を下ろした。
まだ振れる。
もう少しやりたい気持ちもある。
だからこそ、今日はここまでにした。
「セス?」
聞き慣れた声に振り返る。
練習場の入口にリビアが立っていた。
「おはよう」
「おはよう。今日は剣やってたんだね」
「うん。振りたくなったから」
リビアがこちらへ歩いてくる。
「どこか痛くない?」
「ないよ。十五分だけ」
「もう終わり?」
「終わり」
「まだ朝食まで時間あるよ?」
「あるけど、今日はこれで十分」
答えると、リビアは俺の顔をじっと見た。
「何?」
「ううん」
「何か言いたそう」
「前なら『時間があるならもう少し』って言ってたかなって」
「俺が?」
「うん」
確かにそうだったかもしれない。
練習出来る時間がある。
身体も動く。
なら、その時間を全部使わなければもったいない。
以前なら、そんな考え方をしていた気がする。
「今日は剣を振りたかっただけだから」
「満足した?」
「うん」
「じゃあよかった」
リビアが笑う。
俺は木剣を片づけてから彼女の隣へ戻った。
「リビアは何してたの?」
「少し早く起きたから散歩してたの。部屋で本を読もうかと思ったんだけど、外が気持ちよさそうだったから」
「一人で?」
「うん」
「楽しかった?」
「楽しいっていうより、気持ちよかったかな」
「そっか」
俺は剣。
リビアは散歩。
朝から一緒にいなかったけれど、それぞれ好きなことをして、今ここで会えた。
以前二人で話した将来の生活を、ほんの少しだけ先に試しているような気がした。
「朝食、一緒に行く?」
「うん」
今度は並んで屋敷へ戻った。
◇
朝食の席では、旦那様が届いた手紙へ目を通していた。
俺とリビアが座って少しすると、その手紙を畳んでテーブルの脇へ置く。
「セス」
「はい」
「今週末、シルフィール家へ戻る予定はあるか?」
「今のところありません」
「グレイヴ」
「私も屋敷を離れる予定はございません」
旦那様が頷く。
「なら問題ないな。来週以降になると思うが、以前話した婚約後の学びについて、一度具体的な項目を整理したい」
俺はパンへ伸ばしかけていた手を止めた。
「婚約者としての勉強ですか?」
「そうだ。ただし、前にも言った通り、急に大量の授業を増やすつもりはない」
隣で給仕していたグレイヴも静かに頷く。
「現在の学園生活を崩してまで詰め込む必要はありません。旦那様とも相談しておりますが、まずはクルセスがすでに身につけているものと、今後必要になる可能性が高いものを分ける予定です」
「俺が今やってる授業も関係します?」
「当然します」
「領地運営とか法務とか」
「それらを一から別に学び直す意味は薄いでしょう」
少し安心した。
婚約者として学ぶといっても、今までやってきたことが全部無関係になるわけではない。
「リビアも一緒ですか?」
「内容による」
旦那様が答える。
「二人で知るべきこともあれば、セス個人が知るべきこと、オリビア個人が知るべきこともある。何でも二人一緒に受ければよいわけではない」
「はい」
「ただし、将来の生活そのものに関わる部分は二人で考えてもらう」
以前の話と変わっていない。
俺だけが公爵家に合わせるための勉強ではない。
リビアも、自分の望みを俺と話す。
「日程が決まったら教えてください」
「ああ」
それで話は終わった。
来週以降。
まだ具体的な日は決まっていない。
(じゃあ、それまでに何か勉強しておいた方が……)
一瞬だけ考えたところで、自分で止める。
何を学ぶのか整理するための話なのに、その前に勝手に予習内容を作ったら意味がない。
グレイヴを見る。
目が合った。
「何でしょう」
「いや……何でもない」
「そうですか」
絶対に何か気づいている顔だった。
リビアも隣で笑いを堪えている。
「セス、今何か考えたでしょう?」
「ちょっとだけ」
「予習?」
「……ちょっとだけ」
「まだ何を勉強するかも決まってないよ?」
「分かってる。だからやらない」
「うん」
リビアが満足そうに頷いた。
旦那様は呆れたように紅茶を飲んでいる。
◇
学園へ着いて最初の授業は法務基礎だった。
今日の内容は、貴族家同士の私的な約束と、法的な拘束力を持つ契約の違いについて。
婚約という言葉が出るたびに以前より少し意識してしまうけれど、授業で扱っているのは家同士の契約や財産、領地に関わる一般論だ。
俺とリビアの婚約そのものを当てはめて考える必要はない。
「口頭の合意がすべて無効というわけではない」
教師が黒板へ文字を書きながら説明する。
「ただし、家同士の財産や継承、領地運営へ影響する約束ほど、後から認識の相違が起きないよう文書化が求められる。特に婚姻に伴う財産移動や家名、継承権については――」
ノートへ書き写していると、少し離れた席のディーン・ロズベルが手を挙げた。
「先生、本人同士の意思と家同士の契約内容が食い違った場合は、どちらが優先されますか?」
「内容による」
教師はすぐに答える。
「婚姻そのものに本人の意思が必要であることと、婚姻によって生じる財産上の処理は別問題だ。本人同士が結婚を望んだからといって、領地や爵位の継承まで自由に決められるわけではない」
「では、本人同士の意思だけでも、家同士の契約だけでも足りない場合がある?」
「その通りだ」
俺はその言葉をノートへ書き留める。
少し前、旦那様が言っていたことに近い。
好きだから何でも決められるわけではない。
でも、家の事情だけで俺たちの生活が全部決まるわけでもない。
(俺とリビアの場合は、これから考えることが多いんだな)
不安というより、今はそういうものとして受け止められる。
授業後、教科書を閉じているとディーンがこちらへ来た。
「クルセス」
「何?」
「さっきの質問、君たちのことを意識して聞いたわけじゃないからな」
一瞬何のことか分からなかった。
「ああ、婚姻の話?」
「そうだ」
「別に気にしてないよ」
「ならいい」
ディーンは少し安心したように息を吐いた。
以前、俺とリビアの婚約について噂を信じかけていたことを気にしているのかもしれない。
「でも、俺も参考になった」
「そうなのか?」
「将来、家のことも考えなきゃいけないから」
「……君、本当に婚約を嫌がっていたという噂とは正反対だな」
「今はね」
「今は、か」
「昔は本当に無理だと思ってたから」
ディーンは少し考え、それから頷いた。
「考えが変わることもあるか」
「あるよ」
「そうだな」
それ以上、彼は踏み込まなかった。
ただ、自分の席へ戻る前に少し笑う。
「今の君を見ていると、少なくとも嫌々には見えない」
「嫌じゃないよ」
「知ってる」
短いやり取りを終え、俺も次の授業の準備を始めた。
◇
昼休み。
いつものように集まったところで、カイゼルが俺を見るなり口元を上げた。
「セス、今日は朝から機嫌がいいね」
「普通だけど」
「普通の人は婚約者を見るたびに顔が少し緩んだりしないよ」
「そんなことない」
「あるぞ」
アルフォルドまで同意する。
「殿下まで」
「以前より分かりやすくなったのは確かだ」
リビアが隣で赤くなる。
「私もですか?」
「オリビアは以前から分かりやすい」
「アルフォルド様!?」
カイゼルが声を立てて笑った。
ナナリーも口元を押さえている。
「何の話してるの?」
遅れてきたミリアナが尋ねる。
「二人が分かりやすいって話」
「今さら?」
「ミリアナまで……」
リビアが少しだけ俺の方へ寄る。
その反応を見たカイゼルがさらに楽しそうにするので、俺は話題を変えることにした。
「そういえば、今日放課後みんな何かある?」
「露骨に変えたね」
「カイゼルは?」
「僕は少し用事がある」
「俺も王宮から連絡が来ている」
アルフォルドも予定あり。
サザリーは今日は特にないらしい。
イザークは剣術場へ行く予定だという。
「今日やるの?」
「軽くだけな。お前は?」
「朝十五分振ったから、今日はもういいかな」
「じゃあ次はまた今度だな」
「うん」
自然にそう答えられる。
次の勝負の日程をその場で決めようとはしなかった。
「クルセス様とオリビア様は、今日は何をされるんですか?」
ナナリーに聞かれる。
俺とリビアは顔を見合わせた。
「まだ決めてない」
「朝も決めなかったよね」
「放課後になってから決めようって」
ミリアナが少し驚いた顔をする。
「二人とも予定ないのに?」
「うん」
「珍しいわね」
「そう?」
「前なら図書室とか、読書とか、何か決めてなかった?」
リビアも考える。
「そうかも」
「今日はまだ分からない」
俺が答えると、カイゼルが面白そうに目を細めた。
「なるほど。婚約者同士になったからこそ、毎回予定を作らなくても平気になったわけだ」
「そういう言い方されると何か違う」
「違うの?」
「たぶん……」
否定しきれない。
以前は、一緒にいるための理由を探していた。
本を読む。
昼食を取る。
魔術を教わる。
剣を合わせる。
どれも本当にやりたいことだったけれど、「何をするか」が先にあったことも多い。
今は、一緒にいたいから会うことも出来る。
別々に過ごしたいなら、それも出来る。
「まあ、いいんじゃないか」
アルフォルドが穏やかに言う。
「予定がないなら、予定がない時間を使えばいい」
「殿下が言うと説得力あるような、ないような……」
「どういう意味だ、イザーク」
「王子って予定だらけそうだから」
「だからこそだ」
アルフォルドが苦笑する。
「何もない時間は意外と貴重だぞ」
その言葉には、少しだけ実感がこもっていた。
俺は頷きながら、自分の昼食へ戻った。
◇
午後の授業が終わる。
今日は本当に何もない。
ベルナルト先生から呼び出しはない。
エレナ先生から昨日の出力下降について追加確認もない。
委員会もない。
俺は鞄へ教科書をしまい、リビアの方を見る。
彼女も荷物をまとめ終えたところだった。
「どうする?」
「どうしようか」
二人で教室を出る。
廊下を歩いていても、すぐには答えが出ない。
「図書室行く?」
俺が聞く。
「行ってもいいけど、今すごく読みたい本があるわけじゃないかな」
「俺も」
「訓練場?」
「朝剣振ったし、今日はいい」
「私も今日は結界やらなくていいかな」
「じゃあ帰る?」
「それでもいいけど……」
リビアが窓の外を見る。
午後の日差しはまだ明るい。
雲は少なく、風も強くない。
「少し歩かない?」
「学園の中?」
「うん。普段あんまり行かないところ」
「いいね」
予定が決まった。
大げさなことではない。
ただ散歩するだけ。
◇
俺たちは昇降口とは反対側へ向かった。
学園の西側には、授業棟と訓練施設の間を結ぶ石畳の道がある。普段使う教室から少し離れているため、俺たちが通る機会は少ない。
道の両側には低い植え込みが続き、その向こうには小さな芝生と、学生が休める木製の長椅子がいくつか置かれている。
「こんなところあったんだ」
「セス、知らなかった?」
「通ったことはあると思うけど、ちゃんと見たことなかった」
「私も授業の移動でしか来ないかな」
何人かの生徒が長椅子で本を読んだり、話したりしている。
俺たちもその間をゆっくり歩いた。
目的地はない。
「セス」
「何?」
「朝、剣楽しかった?」
「楽しかったよ」
「イザーク君との勝負のこと考えた?」
「少しだけ。二歩目が伸びるの気づいたけど、今日は調べなかった」
「気にならなかった?」
「気になった」
「でもやめたの?」
「今日は剣振りたくてやっただけだから」
リビアが少し驚いたように俺を見る。
「そういう分け方も出来るようになったんだね」
「前は出来てなかった?」
「剣を振ったら、気になること見つけて、そのまま調べ始めそうだった」
「否定出来ない」
俺たちは笑う。
しばらく歩くと、石畳の先に小さな庭が見えた。
中央には円形の花壇があり、秋に咲く淡い紫色の花が並んでいる。その周囲を低い石壁が囲み、少し離れたところに二人掛けの長椅子があった。
「座る?」
「うん」
並んで腰を下ろす。
風が花壇を通り抜け、甘いというより少し青さのある草花の匂いを運んでくる。
しばらく、何も話さなかった。
でも気まずくない。
リビアは花壇を見ている。
俺も同じ方向を見る。
(何もしないで一緒にいるの、前より普通になったな)
以前にも、目的を決めずに一緒に過ごしたことはある。
あの時は「何もしなくていい」ということ自体を意識していた。
今日は、それすらあまり考えない。
「ねえ、セス」
「うん?」
「将来も、こういう時間あるかな」
「散歩?」
「それもだけど」
リビアは膝の上で指を組む。
「何も決めないで、一緒にどこか歩いたり、座ったりする時間」
「あるんじゃない?」
「公爵家って忙しいよ?」
「リビアが?」
「たぶんセスも」
俺が将来何をするかはまだ決まっていない。
執事を続けるのか。
公爵家の一員として別の役割を持つのか。
シルフィール伯爵家との関わりをどうするのか。
分からないことは多い。
「忙しくても、毎日全部埋まってるわけじゃないと思う」
「そうかな」
「旦那様だって朝食一緒に食べてるし」
「確かに」
「グレイヴも忙しいけど、俺の話聞いてくれる」
「うん」
「だったら、俺たちも作れるんじゃない?」
「時間を?」
「うん」
リビアは少し考えてから笑った。
「作りたいね」
「俺も」
それだけ決めれば十分だった。
何曜日の何時に散歩するなんて、今から決める必要はない。
◇
少しして、俺たちはまた歩き始めた。
西側の庭を抜けると、古い校舎棟へ続く道が見える。現在も一部は資料保管や少人数授業に使われているらしいが、俺たちの通常授業で使うことはほとんどない。
「あっちは行ったことある?」
リビアが尋ねる。
「ない。ベルナルト先生の資料室とは別だよね?」
「別だよ。古い校舎だけど、立入禁止じゃないところまでは行けるはず」
「行ってみる?」
「うん」
ただし、研究目的ではない。
古い建物だからといって、古代魔術の何かがあると決めつけるつもりもない。
入口近くまで行くと、壁の色が現在の校舎とは少し違うことに気づいた。新しい校舎は明るい灰白色の石材が多いのに対し、こちらは少し黄味を帯びている。
扉の横には使用可能な部屋と立入制限区域を示す案内板があった。
「二階の一部は閉鎖中だって」
「老朽化かな」
「たぶん。書いてあるのは建物管理上の制限だけ」
「じゃあ一階だけ見よう」
中へ入る。
廊下は静かだった。
授業中ではないため人影も少ない。
壁には歴代の学園行事を描いた絵や、昔の卒業生から寄贈された品が飾られている。
「これ、昔の制服かな」
リビアが一枚の絵の前で止まる。
描かれている学生たちは、今より襟の高い制服を着ていた。
「動きにくそう」
「セスはそこ見るんだ」
「リビアは?」
「女の子のスカート。今より長い」
「本当だ」
「剣術実技どうしてたんだろう」
「着替えたんじゃない?」
「そうかも」
古い学園だからといって、必ずしも魔術の秘密が置かれているわけではない。
昔の制服。
卒業生の絵。
行事の記録。
そういう普通の歴史もある。
それが少し新鮮だった。
廊下の先で、数人の上級生が資料を運んでいる。
俺たちが道を空けると、そのうちの一人が会釈した。
「ありがとうございます」
「いえ」
それだけのやり取り。
特別なことは起きない。
俺はそれが嫌ではなかった。
◇
校舎を出る頃には、少し日が傾き始めていた。
「そろそろ帰る?」
「うん」
昇降口へ向かって歩き出す。
途中でリビアの手が俺の手の近くへ来た。
触れそうで触れない。
俺は一度彼女を見る。
リビアも俺を見る。
「手、繋ぐ?」
「うん」
俺から手を差し出すと、リビアが重ねた。
指が触れ、自然に握る。
周囲には他の生徒もいる。
以前ほど、その視線が気にならなくなった。
全く意識しないわけではない。
公爵令嬢のリビアと、元平民で執事見習いの俺。
俺たちの婚約を珍しく思う人はいる。
噂を聞いたディーンのように、事情を知らない人だっている。
それでも今は、手を離そうとは思わなかった。
「セス」
「何?」
「今日、楽しかった」
「俺も」
「何もしてないけど」
「散歩したよ」
「それだけでしょう?」
「古い制服も見た」
「それも見ただけ」
「じゃあ何かしたことにする?」
「しなくていい」
リビアが俺の手を少し強く握る。
「何もしなくても楽しかったから」
「うん」
その答えが一番しっくりきた。
◇
帰りの馬車では、最初のうちは今日見た古い校舎の話をしていた。
リビアは昔の制服が気になったらしく、今度図書室で学園史の本を探してみようかなと言う。
「研究するの?」
「そこまでじゃないよ。ただ見たいだけ」
「俺も見てみたい」
「じゃあ今度一緒に見る?」
「うん」
約束はする。
でも日付までは決めない。
「そういえば」
リビアが俺の方を向く。
「朝、婚約者としての勉強の話が出たでしょう?」
「うん」
「セス、どう思った?」
「楽しみっていうと変かな」
「嫌じゃない?」
「嫌じゃないよ」
少し前の俺なら、必要な勉強の話をされた時点で「足りないものを全部埋めなければ」と考えたかもしれない。
今は違う。
「知らないことがあるのは分かってるから、教えてもらえるなら助かる」
「不安は?」
「あるよ」
「どんな?」
「俺が公爵家の婚約者としてどこまで出来るのかとか、今の執事の仕事と将来どうするのかとか」
「うん」
「でも、それを知るために話すんでしょ?」
「そうだね」
「だったら、今から答え出さなくていいかなって」
リビアが嬉しそうに笑う。
「私も一緒に考えるからね」
「うん」
「セス一人の勉強じゃないところは、一緒に」
「ありがとう」
「あと、私も知らないことあると思う」
「リビアでも?」
「あるよ。私、まだ十五歳だよ?」
「そうだった」
「忘れてたの?」
「たまに完璧だから」
「完璧じゃないよ」
「知ってる」
「どっち?」
「どっちも」
公爵令嬢としてのリビアはすごい。
でも、昨日の結界実技では右側の調整が少し遅れた。
委員会では先輩や先生と相談している。
キスをしたい気持ちはあるのに、少し怖いとも言う。
全部がリビアだ。
「俺、完璧じゃないリビアも好きだよ」
口にした瞬間、彼女の顔が赤くなる。
「急に何?」
「今思ったから」
「……セスって、前よりずるくなった」
「何が?」
「そういうこと普通に言うところ」
「言わない方がいい?」
「それは嫌」
やっぱりそこは即答だった。
◇
屋敷へ戻ってからは、それぞれの部屋へ戻った。
散歩で少し歩いたこともあり、俺は夕食まで机へ向かう気にはならなかった。
ベッド脇の椅子へ座り、読みかけの冒険小説を開く。
魔術の本ではない。
領地運営でもない。
法務でもない。
古代測定器でもない。
主人公が山越えの途中で盗賊に追われる話だ。
(この主人公、昨日の旅物語の主人公より危ないことしてるな)
物語が違うのだから比べても仕方ない。
それでも少し笑ってしまう。
しばらく読み、夕食前には本を閉じた。
勉強をしていないことへの焦りはなかった。
◇
夕食後、旦那様に呼び止められた。
「セス、少しいいか」
「はい」
リビアも一緒に足を止める。
旦那様は俺たち二人を見てから言った。
「今朝の件だが、一つだけ先に伝えておく」
「婚約者としての勉強ですか?」
「ああ。グレイヴとも話したが、最初に扱うなら社交上の判断がいいだろうと考えている」
「社交上の判断……」
「礼儀作法そのものではない。お前は基本的な作法ならすでに身につけている」
グレイヴが執事長であり、俺はその養子でもある。
公爵家で執事見習いをしている以上、基本的な礼儀作法はこれまでも教わってきた。
「では何を?」
「例えば、オリビアの婚約者として招待を受けた場合、その場で返事をしてよいものと、家へ持ち帰るべきものの違いだ」
「ああ……」
それなら確かに、俺は知らないことが多い。
「誰かから相談を持ちかけられた場合、個人として答えてよい範囲。パウリー家の意思と受け取られる可能性がある発言。婚約者として同席した場で、どこまで約束してよいか」
「それ、かなり大事ですね」
「だからこそ先に知っておいた方がいい」
「はい」
「ただし、日程はまだ決めていない。今夜から勉強を始める必要もない」
先回りされた。
リビアが隣で笑う。
「旦那様、セスのこと分かってますね」
「長い付き合いだからな」
「俺、今日は何もしませんよ」
「そうか。それなら結構だ」
信用されているのか、警戒されているのか分からない。
たぶん両方だ。
「オリビアも一部は同席してもらう」
「私も?」
「セスがどこまで答えてよいかを知るなら、お前もセスへどこまで任せたいか考える必要がある」
「分かりました」
旦那様はそこで話を終えた。
具体的な日程は未定。
最初の候補が社交上の判断。
それだけ。
(気になるけど……今日はやらない)
自分の中で確認し、俺たちは旦那様と別れた。
◇
「談話室行く?」
廊下へ出たところで、リビアが尋ねる。
「今日はどうしよう」
「疲れた?」
「疲れてないけど、昼から結構一緒にいたよね」
「うん」
「リビアはまだ一緒にいたい?」
聞くと、彼女は少し考えた。
「少しだけ」
「俺も」
「じゃあ少しだけ行こう」
小さな談話室へ入り、今日は本も持ってこなかった。
向かいではなく、長椅子へ並んで座る。
昼間の散歩のこと。
古い校舎のこと。
朝の剣のこと。
旦那様が言っていた社交上の判断のこと。
話題は何度も変わった。
「セスなら、その場で勝手に約束しなさそうだけど」
リビアが言う。
「今ならね」
「昔でもしないと思うよ?」
「リビアのためって思ったらするかも」
「……ありそう」
「でしょ?」
「自分で言うんだ」
「今は分かるから」
誰かが困っている。
俺が動けば解決出来る。
なら自分がやる。
以前はそれを良いことだと思っていた。
今でも、助けること自体が悪いとは思わない。
ただ、自分の立場で勝手に約束していいことと、そうでないことがある。
「学園の共同課題でも似たところあったな」
「住民への説明?」
「それもだけど、自分だけで全部決めるんじゃなくて、サザリーと話したこと」
「うん」
「公爵家のことなら、リビアや旦那様に聞けばいいんだよね」
「そうだよ」
「グレイヴにも」
「うん」
「じゃあ覚えることより、持ち帰るべき時に持ち帰る方が大事なのかな」
「それは旦那様に聞いてみないと分からないけど、私はそうしてほしい」
「分かった」
まだ授業は始まっていない。
だからここで結論にはしない。
リビアがそう望んでいることだけ覚えておく。
しばらくして、会話が途切れた。
リビアの肩が俺の肩へ軽く触れている。
どちらも離れない。
「セス」
「うん?」
「昨日、私が言ったこと覚えてる?」
何のことか、すぐ分かった。
「キス?」
「……すぐ言う」
「違った?」
「合ってる」
リビアは自分の膝へ視線を落とす。
指先が少しだけ動いている。
「昨日、少ししたいかもって言ったでしょう?」
「うん」
「今日も思った」
胸の奥が熱くなる。
それでも俺は彼女の続きを待った。
「散歩してた時も、馬車でも、ちょっとだけ」
「そっか」
「でもね」
「うん」
「まだ、今すぐしたいってところまではいかないの」
「分かった」
リビアが顔を上げる。
「セスは?」
「したいよ」
「今も?」
「うん」
「……そっか」
頬が赤くなる。
俺もたぶん赤い。
「でも今日はしない?」
「リビアがまだなら」
「セスは、それで本当に平気?」
昨日も似たことを聞かれた。
でも、今日は少し意味が違う気がした。
俺は自分の気持ちを確かめてから答える。
「平気っていうか、待ってるのもリビアと一緒にしてることだと思ってる」
「待ってるのが?」
「うん。俺だけが待たされてるんじゃなくて、二人でいつにするか決めてる途中だから」
リビアが目を見開く。
「それなら、嫌じゃない」
「……セス」
「何?」
「抱きしめてもいい?」
「俺からでもいい?」
聞き返すと、リビアが一瞬止まったあと、小さく笑った。
「うん」
俺から身体を寄せる。
腕を彼女の背中へ回し、ゆっくり抱きしめる。
リビアもすぐに腕を回してくれた。
髪が頬に触れる。
温かい。
抱きしめることは、もう「キスの前段階」ではない。
これ自体がしたいことだった。
「セス」
「うん」
「私ね、キスしたら何か変わるのが怖かったけど」
「うん」
「変わってもいいのかもしれないって、少し思うようになった」
腕の中から聞こえる声は小さい。
「でも、変わらなくてもいい?」
「いいよ」
「次の日に急に何かしなくても?」
「しなくていい」
「今日みたいに散歩するだけでも?」
「うん」
「別々に本読んでも?」
「もちろん」
リビアの身体から少し力が抜ける。
「じゃあ、もう少しで大丈夫かも」
「うん」
「いつか分からないけど」
「分からなくていいよ」
今度は、俺がそう言えた。
◇
抱擁を解いたあとも、すぐには立ち上がらなかった。
隣に座ったまま、互いの肩が軽く触れている。
リビアが自分の手を膝の上へ置き、そのすぐ隣に俺の手がある。
どちらからともなく指先が触れた。
「今日、何も予定なかったね」
「うん」
「でも結構いろいろした」
「朝は別々だったけどね」
「セスは剣で、私は散歩」
「放課後は一緒に散歩」
「帰ってからは別々」
「今は一緒」
リビアが笑う。
「こういうの、好きかも」
「俺も」
ずっと一緒でもない。
ずっと別でもない。
その時にしたいことを、自分で選んでいる。
「将来もこうだといいね」
「うん」
「忙しい日は?」
「忙しい」
「会えない日は?」
「会いたいって言う」
「それだけ?」
「会える日を探す」
「じゃあ、一人になりたい日は?」
「一人になる」
「私が寂しかったら?」
「言って」
「セスが寂しかったら?」
少し前なら、そこで答えに詰まったかもしれない。
今は違う。
「俺も言う」
リビアの目が柔らかく細くなる。
「約束?」
「うん」
「じゃあ、覚えておく」
指先が重なり、そのまま手を握った。
◇
自室へ戻ったあと、俺は机へ向かわず、そのまま窓際に立った。
外はもう暗い。
庭の灯りが点々と見える。
今日一日を振り返る。
朝、剣を振りたいから振った。
十五分で満足したから終わった。
学園では普通に授業を受けた。
放課後は予定がなかった。
だからリビアと相談して、散歩した。
古い校舎を見た。
帰ってからは別々に過ごした。
夜は少しだけ一緒にいた。
(何も大きなこと起きてないな)
でも、不思議なくらい満足している。
古代測定器の研究は進んでいない。
昨日の魔術実技で見つかった出力下降の違いも、そのままだ。
実技確認の正式な内容も決まっていない。
イザークとの次の勝負も未定。
婚約者としての勉強も、最初の候補が少し見えただけ。
リビアとの初めてのキスも、まだしていない。
決まっていないものはたくさんある。
それでも、今日という一日は空白ではなかった。
(予定がないからって、何もないわけじゃないんだな)
当たり前のことかもしれない。
けれど、以前の俺は空いている時間を見ると、何か役に立つことを入れようとしていた。
剣。
魔術。
勉強。
仕事。
誰かの手伝い。
そうしないと、自分が怠けているような気がしていたのかもしれない。
今は、剣を振りたいから振ることも出来る。
散歩したいから歩くことも出来る。
リビアと何もしないで座ることも出来る。
そして、何かをしたくないなら、しなくてもいい。
(これも、俺がこれから考える生活の一部なのかな)
旦那様からは、婚約者としての学びについて、最初に社交上の判断を扱う可能性があると聞いた。
きっとこれから、知らなければならないことは増える。
公爵家の婚約者として。
シルフィール伯爵家の養子として。
学生として。
魔術を使う者として。
リビアの隣にいたい一人の人間として。
全部を同時に完璧にすることは出来ない。
だから、その時に必要なことを一つずつ知ればいい。
窓を閉める。
明日の放課後に何をするかは、まだ決めていない。
予定が入るかもしれない。
何も入らないかもしれない。
どちらでもいい。
そして、リビアとのキスがいつになるのかも、まだ分からない。
でも今日、彼女は「変わってもいいのかもしれない」と言った。
俺はそれだけで嬉しかった。
(急がなくていい)
キスをしたい気持ちは消えていない。
むしろ、彼女の顔が近くなるたびに前より意識する。
それでも、その気持ちを理由に先へ進まなければならないわけではない。
待つことも、俺たち二人で選んでいる時間だ。
灯りを落とし、ベッドへ入る。
明日何をするのか。
次に何を知るのか。
いつ何が変わるのか。
全部決めてから眠る必要はない。
俺は目を閉じた。
予定が決まっていない明日を、そのまま明日まで残しておけることが、今は少し心地よかった。




