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第63話 魔力を弱めるだけなら簡単だと思っていました



 翌朝、目を覚まして最初に身体を確かめた時、昨日まで脚に残っていたわずかな張りはほとんど消えていた。


 右腕にも違和感はなく、睡眠不足もない。今日は放課後の予定も入っていないため、以前なら「それなら朝に少しくらい剣を振ってもいいか」と考えたところだけれど、ベッドから降りた俺は窓の外を眺めながら少し考え、それから首を横へ振った。


(今日は実技があるんだよな)


 時間割には魔術実技が入っている。


 通常授業だから特別に高い出力を使うわけではないし、剣術と魔術では身体への負担も違う。それでも、昨日はサザリーとの共同課題で長く頭を使い、その前の日にはイザークと剣を合わせている。


 わざわざ朝から予定を足す理由はなかった。


「今日はこれでいいか」


 誰に聞かせるでもなく呟き、身支度を整える。


 机の上には昨日の共同課題で整理した紙が置かれていた。


 ――相手と意見が一致した時ほど、反対側を一度考える。


 ――新しい情報が入れば、過去の判断に固執しない。


 昨日の夜に書いた内容が目に入ったものの、読み返すだけにして鞄へは入れなかった。


 課題は終わっている。


 今日の授業へ無理に結びつける必要はない。


     ◇


 朝食へ向かう途中、今日は廊下ではリビアに会わなかった。


 少しだけ残念に思いながら食堂へ入ると、すでに彼女は席についていた。


「あ、セス。おはよう」


「おはよう」


「今日は廊下で会わなかったね」


「俺も今それ思ってた」


「会いたかった?」


「うん」


 椅子へ座りながら普通に答えると、リビアの手が止まった。


「……そういうの、本当にすぐ言うようになったね」


「駄目?」


「駄目じゃないけど、朝から言われるとまだ慣れない」


「じゃあ控える?」


「それは嫌」


 返事が早い。


 俺が笑うと、リビアは少し頬を赤くしながらパンへ手を伸ばした。


「セスは今日、魔術実技だよね?」


「リビアも同じでしょ」


「そうだけど。セスは実技確認の内容もあるから」


「今日は普通の授業じゃない?」


「昨日、エレナ先生が委員会室へ来た時に、今日の授業で何人か出力調整を見るって言ってたよ」


「そうなの?」


「詳しい内容までは聞いてないよ」


 俺は少しだけ姿勢を正した。


 エレナ先生から、俺向けの実技確認案については以前から説明を受けている。


 指定された単一属性を低出力から中程度まで調整し、維持、精度、停止を確認する。状態に問題がなければ、低出力のまま別の指定属性へ一度だけ切り替える案もある。


 迅雷撃破は禁止。


 複合魔術も基本的には扱わない。


 古代測定器の研究とも切り離す。


 ただし、それはまだ正式決定ではなかった。


「今日何かやるとしても、先生に言われた範囲だけだね」


「うん」


「昨日の魔術理論で、出力を下げる時にも乱れることがあるって習ったから、ちょっと気にはなるけど」


「自分で試さないでね」


「試さないよ」


「言う前に答えた」


「リビアが何言うか分かったから」


 そこへグレイヴが静かに紅茶を置く。


「分かっているなら結構だ」


「グレイヴまで」


「私は何も言っていない」


「今言ったよ」


「確認しただけだ」


 グレイヴは表情をほとんど変えずに離れていく。


 向かいに座っていた旦那様が、新聞から顔を上げた。


「随分と先回りして会話をするようになったな」


「前からです」


「以前は、止められる前に動く方の先回りが多かった気がするが」


「旦那様まで言うんですか?」


 リビアが吹き出した。


「セス、今日はもう諦めた方がいいと思う」


「何を?」


「みんなに言われるの」


「何もしてないのに……」


 俺が肩を落とすと、食卓に穏やかな笑いが広がった。


     ◇


 学園へ着くと、教室ではイザークが自分の右脚を伸ばしていた。


「まだ張ってる?」


「ほんのちょっとな。痛くはねえ」


「俺はほとんど消えた」


「回復早くね?」


「昨日は剣振ってないからじゃない?」


「俺も振ってねえよ!」


「じゃあ何したの?」


「普通に帰って、飯食って、寝た!」


 何もおかしくない答えなのに、なぜか本人が悔しそうだ。


 その声を聞いたミリアナが振り返る。


「回復速度でまで競わなくていいでしょう」


「競ってねえ!」


「今の顔は競ってたよ」


「クルセスまで言うな!」


 朝からいつもの調子だった。


 サザリーも少し遅れて教室へ入ってきた。


「おはよう」


「おはよう。昨日疲れ残った?」


「頭の方は寝たら戻った。身体は何もしていないから問題ない」


「俺も」


「君は一昨日剣を振っているだろう」


「もう大丈夫」


 サザリーは頷き、自分の席へ荷物を置いた。


「昨日の内容を今朝になって考え直したくなったが、課題は終わったからやめた」


「俺も紙見たけど、読み返しただけ」


「そうか」


 そこで二人とも少し笑う。


「やっぱり似てるね」


「そこはあまり喜ぶところではない気がする」


「何で?」


「二人で際限なく考え続ける可能性が証明されつつある」


「でも止まったよ」


「だから今のところは問題ない」


 サザリーがそう言ったところで、始業を知らせる鐘が鳴った。


     ◇


 午前の授業が進み、魔術実技は三時間目だった。


 場所は第二魔術訓練場。


 以前、追加評価や出力制御の確認でも使った場所だ。


 高い天井と厚い防護壁に囲まれた広い室内には、複数の射撃区画と制御練習用の台が並んでいる。壁際には緊急停止用の術具が配置され、床には立ち位置を示す線が引かれていた。


 クラス全員が集まったところで、エレナ先生が前へ出る。


「今日は、実技確認に向けた基礎練習を行います」


 周囲の生徒たちの空気が少し変わった。


 実技確認は来月。


 まだ先ではあるものの、具体的な練習が始まれば意識する生徒も増える。


「ただし、今日の結果がそのまま本番の評価になるわけではありません。苦手な部分を見つけるための練習です。失敗して構いませんし、出来ないものを無理に続ける必要もありません」


 エレナ先生は一度全員を見渡した。


「特に、周囲の生徒と出力を比べないこと。魔力量が多ければ高評価になる授業ではありません」


 その瞬間、何人かの視線がこちらへ向いた。


「何で俺見るの?」


 小声で呟くと、隣のイザークが笑う。


「そりゃ見るだろ」


「見ないでよ」


「無理だろ」


 前方のエレナ先生が咳払いした。


 俺たちは口を閉じる。


「今日は二つ確認します。一つ目は、指定出力まで上げて一定時間維持し、合図で完全停止すること。二つ目は、指定出力まで上げたあと、一段階低い出力へ落として維持することです」


(下げる方もやるんだ)


 昨日の理論授業で扱った内容に近い。


「属性は各自の得意属性を基本とします。複数属性適性者については、こちらから指定します。勝手な切り替えは行わないこと」


 また何人かが俺を見る。


「だから何で見るの?」


「今回は完全にお前だろ」


 イザークの返事には反論出来なかった。


     ◇


 最初は全員で基本的な停止練習を行った。


 俺に指定されたのは水属性だった。


 訓練台の上へ拳ほどの水球を作り、低出力で十秒維持する。エレナ先生の合図があった瞬間に魔力供給を止め、術式そのものも解除する。


「開始」


 身体の中を流れる魔力の一部を水属性へ変換し、術式へ送る。


 水球が浮かぶ。


 大きさを変えず、揺れを抑える。


 難しくはない。


「停止!」


 声が響く。


 すぐに供給を切り、術式を解除する。


 水球が崩れ、訓練台へ落ちた水は下部の排水溝へ流れていった。


「クルセス、問題なし」


「はい」


 他の生徒たちも順番に確認される。


 イザークは火属性。


 ミリアナは風属性。


 ナナリーは水属性。


 サザリーは土属性。


 リビアは無属性の小型結界を使っていた。


 リビアの前には薄い透明な膜が浮かび、停止の合図と同時に音もなく消える。


(やっぱり綺麗だな)


 結界そのものもそうだし、それを扱っているリビアも。


 視線を向けていたら、解除を終えたリビアと目が合った。


 彼女が首を傾げる。


 俺は何となく笑ってみせた。


 するとリビアも笑う。


「クルセス」


「はい!」


 エレナ先生に呼ばれ、慌てて前を向く。


「余裕があるのは結構ですが、授業中です」


「すみません」


 後ろからイザークの笑いを堪える声が聞こえた。


     ◇


「次は出力下降です」


 停止練習が一巡したところで、エレナ先生が説明を始めた。


「最初から低い出力を維持することと、一度上げた出力を途中で下げて維持することは同じではありません。術式へ流れている魔力量、属性変換、形成済みの魔術そのものを同時に調整する必要があります」


 昨日の授業で習った通りだ。


「今日の練習では、低出力から中程度まで上げ、五秒維持したあと、合図で低出力へ戻します。そこからさらに五秒維持して停止です」


 実演役としてエレナ先生自身が火球を作る。


 最初は小さな火。


 そこから拳二つ分ほどまで大きくなり、合図を受けた想定で再び小さくなる。


 炎は一瞬も消えない。


「重要なのは、下降時に術式を壊さないことです。出力を落としすぎて消えること自体は、今日の練習では失敗として記録するだけです。慌てて追加の魔力を大量に流さないように」


 その注意は俺にも関係する。


 出力が落ちすぎたからといって、反射的に戻そうとすれば余計に乱れる可能性がある。


「クルセス」


「はい」


「あなたは最初、水属性で行います」


「分かりました」


「一度目は他の生徒と同じ条件です。追加の属性切り替えは私が指示するまで行いません」


「はい」


 はっきり答える。


 自分で増やさない。


     ◇


 順番が回ってきた。


 訓練台の前へ立つ。


 さっきと同じ水属性。


「低出力、開始」


 水球を作る。


「中出力へ」


 魔力量を増やす。


 水球が大きくなる。


 形を保つ。


 五秒。


「低出力へ」


 供給を減らす。


 その瞬間だった。


「……あれ?」


 水球の表面が揺れた。


 大きさは小さくなったものの、最初の低出力時より形がわずかに歪んでいる。


 崩壊するほどではない。


 でも、明らかに最初とは違う。


(魔力量は合ってるはずなのに)


 そう考えた直後、昨日の理論授業を思い出す。


 術式側。


 属性変換。


 形成済みの魔術。


 調整するものは一つではない。


「そのまま」


 エレナ先生の声。


 直したくなる。


 けれど指示は、そのまま。


 俺は追加操作をしない。


 歪んだ水球を五秒維持する。


「停止」


 供給を切る。


 水球が崩れた。


「今の感覚は?」


「出力自体は下げられました。でも、形が最初の低出力より崩れました」


「原因は?」


「まだ分かりません」


「それでいいです」


 エレナ先生は記録用紙へ何かを書いた。


「一度下がってください」


「はい」


 もう一度試したい気持ちはある。


 今度は変換側を少し調整したらどうなるのか。


 術式の維持へ回す量を――。


(いや、先生が一度下がれって言った)


 そのまま列へ戻る。


 リビアとすれ違った時、彼女が小さく笑った。


「ちゃんと戻ってきた」


「戻るよ」


「前なら、もう一回やりたそうな顔のまま先生を見てた」


「今もやりたいけど」


「顔に出てる」


「そんなに?」


「私には」


 朝の会話を返された。


「あとで先生に聞く」


「うん」


 リビアは満足そうに頷き、自分の順番へ向かった。


     ◇


 リビアの課題は結界だった。


 最初は手のひら二枚分ほどの小さな無属性結界を形成し、その強度を中程度まで上げる。


 見た目では変化が分かりにくい。


 それでも、俺には魔力感知で違いが分かった。


 中程度まで上がった時、膜の表面を巡る魔力が少し密になる。


「低出力へ」


 エレナ先生の合図。


 リビアが調整する。


 結界がわずかに揺れた。


 ほんの一瞬。


 すぐ安定する。


「停止」


 結界が消える。


「オリビア、下降直後に右側の維持が少し遅れましたね」


「はい。全体を一度に弱めようとして、右端の調整が遅れました」


「自覚出来ているなら結構です。次回は一度に全体を動かす必要があるかも含めて考えましょう」


「はい」


 リビアでも完全ではない。


 それが意外というより、少し嬉しかった。


 失敗してほしいわけではない。


 ただ、何でも最初から出来るわけではなく、リビアも授業で試して、気づいて、次へ進んでいる。


(俺だけじゃないんだな)


 当然のことなのに、改めてそう思った。


     ◇


 全員が一巡したあと、エレナ先生が数人を残した。


 俺もその一人だった。


「クルセス、オリビア、サザリー、こちらへ」


 三人で前へ出る。


 他の生徒は別の教師の指示で基礎制御練習へ移る。


「三人とも、下降時に異なる種類の乱れが出ています」


 エレナ先生は記録用紙を見せる。


「サザリーは土壁の厚みを減らした際、下部の形成が残りすぎました。オリビアは結界全体の強度を下げる際、右側の調整がわずかに遅れました。クルセスは水球全体の出力は落ちていますが、形状維持の均一性が低下しています」


 サザリーが自分の記録を見る。


「単純に魔力量を減らしただけではない、ということですね」


「そうです。三人とも、最終的な出力値だけなら大きな問題はありません。しかし途中経過が違う」


 先生は俺を見る。


「クルセス。あなたは五属性を扱えるため、特に『魔力量を下げた結果が同じなら操作も同じ』と決めつけないように」


「はい」


「水で起きたことが火でも起きるとは限りません。逆に、水だけの問題ともまだ言えません」


「分かりました」


 今の一回だけでは何も確定しない。


 共通変換の仮説とも、古代測定器とも結びつけられない。


「今日はもう一度だけ行います」


「水属性で?」


「いいえ」


 先生が記録用紙へ視線を落とす。


「次は土属性を指定します。低出力から中程度、再び低出力。先ほどと同じ手順です。ただし、水属性との差を探そうとして操作を変えないこと。同じ指示へ、普段通り対応してください」


「はい」


 少し緊張する。


 でも面白い。


 自分で勝手に試すのではなく、先生が見ている中で確認出来る。


     ◇


 土属性では、小さな円柱を形成することになった。


 低出力。


 中程度。


 そして低出力へ戻す。


「開始」


 床の指定台へ土の円柱を作る。


 高さは手のひらほど。


「中出力」


 魔力を増やす。


 円柱が少し太く、高くなる。


 五秒。


「低出力へ」


 魔力量を落とす。


 今度は水球ほど大きな歪みは出なかった。


 ただし。


(上が少し残る)


 円柱の高さが、最初の低出力時よりわずかに高い。


 全体としては小さくなっている。


 でも完全には同じ状態へ戻っていない。


「停止」


 解除する。


 エレナ先生が近づいてくる。


「感覚は?」


「水の時とは違いました。形は安定してたけど、最初の低出力より高さが少し残りました」


「私も確認しました」


「操作が違ったんでしょうか」


「それを今日決める必要はありません」


 すぐに答えが返る。


「今分かったのは、水属性では下降後に形状の均一性が崩れ、土属性では形状自体は安定したものの初期状態よりわずかに大きさが残ったこと。それだけです」


「はい」


「共通する原因がある可能性も、別の原因である可能性もあります」


「分かりました」


「今日はここまで」


 一瞬だけ、もう一属性やってみたいと思った。


 火なら。


 風なら。


 雷なら。


 でも、その考えが浮かんだところで自分から消す。


「はい。ありがとうございました」


 訓練台から離れる。


 エレナ先生が少しだけ眉を上げた。


「追加を頼まないのですね」


「気にはなりますけど、今日はここまでって言われたので」


「そうですか」


「次はいつやります?」


「必要なら私から指定します」


「分かりました」


「……本当に変わりましたね」


「先生まで言うんですか?」


 思わず聞き返す。


 エレナ先生の口元が少し緩んだ。


「悪い意味ではありません」


 後ろで聞いていたサザリーが、小さく笑った。


     ◇


 授業の終了前、エレナ先生は全員を集めた。


「今日、上手く出来なかった人ほど覚えておいてください。実技確認までに必要なのは、失敗を隠すことではありません」


 生徒たちの視線が集まる。


「どこで崩れたかを知り、次に同じ条件で確認することです。出力を下げすぎて術式が消えた人もいましたが、それだけで危険な失敗ではありません。むしろ、消えたものを慌てて高出力で戻そうとしなかったことの方が重要です」


 少し離れた場所で、一人の男子生徒が照れたように頭を掻いている。


 さっき火球を途中で消してしまった生徒だ。


 周囲の何人かが彼を見たが、笑う者はいなかった。


「実技確認は、派手な魔術を見せる場ではありません。指示された条件を理解し、自分の魔術を安全に扱えるかを見る場でもあります」


 俺にも当てはまる。


 五属性を使えること。


 魔力量が多いこと。


 それ自体が評価ではない。


「以上。片づけて教室へ戻りなさい」


 授業が終わった。


     ◇


 片づけの途中、イザークが近づいてきた。


「クルセス」


「何?」


「お前でもああいう崩れ方するんだな」


「するよ」


「何か安心した」


「どういう意味?」


「お前、魔術だと何でも普通にやるから」


「普通じゃないのもあるよ」


「五属性使える奴が言う普通は信用出来ねえ」


「それとこれは別でしょ」


 イザークは笑っている。


 そこへミリアナも来た。


「でも、私も少し分かるわ。クルセスが『あれ?』って顔したの、珍しかったもの」


「そんな顔してた?」


「してた。水球が揺れた瞬間、すごく不思議そうだった」


「自分では同じくらいに戻したつもりだったから」


「だから面白いのよね」


「俺の失敗が?」


「違うわよ。出来る人にも、やってみないと分からないことがあるってこと」


 ミリアナの言葉に、俺は少し考える。


 確かに、やる前は出力を下げるだけなら簡単だと思っていた。


 低出力を作れる。


 中出力も作れる。


 なら、中から低へ戻すのも出来るだろう。


 でも実際には違った。


「俺も面白かった」


「またそれかよ」


 イザークが呆れる。


「だって面白かったんだから仕方ないでしょ」


「失敗して面白いって言えるの、お前らしいな」


「イザークは剣で新しい癖見つけたら面白いでしょ?」


「……面白い」


「同じじゃん」


「同じなのか?」


「たぶん」


 俺たちは笑いながら訓練場を出た。


     ◇


 昼休み、リビアと向かい合って座ると、彼女は自分の右手をじっと見ていた。


「まだ気になる?」


「少し」


「結界の右側?」


「うん。自分では全体を同じように弱めたつもりだったんだけど、右だけ少し遅れたでしょう?」


「俺も見えた」


「やっぱり?」


「魔力感知でちょっとだけ」


「セスに見られてた」


「見てたよ」


「恥ずかしい」


「何で?」


「綺麗に出来なかったから」


「でも俺も水球歪んだよ」


「それとこれは別」


「俺はリビアの結界見られて嬉しかったけど」


 リビアが口を閉じる。


 頬が少し赤くなる。


「そういう意味じゃなくて」


「分かってる」


「分かってて言ったでしょう?」


「少し」


「もう」


 向かいでナナリーが楽しそうに笑っている。


「お二人とも、実技の反省をされていたはずですよね?」


「してたよ」


「途中から違う話になってるわね」


 ミリアナがすぐに突っ込む。


「戻します」


 俺が言うと、サザリーが静かにスープを置いた。


「クルセス、水と土で違いが出た件だが」


「うん」


「何か考えたか?」


「考えたけど、まだ決めない」


「私もそれがいいと思う」


 サザリーは自分の土壁でも、出力下降時に下部が残りすぎた。


「サザリーは次いつ確認するの?」


「先生の指示待ちだ。君と同じだな」


「じゃあ待つしかないね」


「ああ」


 イザークがパンをちぎりながら俺たちを見る。


「二人とも、待つの上手くなったよな」


「俺は前から待てる」


 サザリーが反論する。


「昨日の課題、家で考え直しそうになったんだろ?」


「なぜ知っている?」


「朝クルセスと話してたの聞こえた」


「……聞かれていたのか」


 サザリーが珍しく気まずそうな顔をする。


 俺は笑いながら水を飲んだ。


     ◇


 午後は特別な出来事もなく、普通の授業が続いた。


 放課後になっても今日は追加の練習も研究もない。


 ベルナルト先生から古代測定器研究の連絡はまだ来ていない。


 ハロルド先生との共同課題も終わった。


 イザークとの次の剣術練習も決めていない。


 グレイヴと旦那様が話している婚約者としての学びについても、まだ待つことになっている。


(本当に何もないな)


 そう思うと、少しだけ変な感じがした。


 でも、何か予定を作ろうとは思わなかった。


 教室で鞄を整えていると、リビアがこちらへ来る。


「今日は一緒に帰れる?」


「うん。リビアは委員会ない?」


「今日はないよ」


「じゃあ帰ろう」


 自然に並んで教室を出る。


 廊下には同じように帰宅する生徒たちがいて、俺たちを見ても以前ほど自分から距離を空けようとは思わなくなっていた。


 途中で一年生らしい二人組が俺たちを見て何か小声で話したものの、内容までは聞こえない。


 リビアは気にしていない。


 俺もそのまま歩く。


「セス」


「何?」


「今日、予定ないんだよね?」


「ないよ」


「帰ったら何する?」


「まだ決めてない」


「珍しい」


「そう?」


「前なら帰る前に決めてた」


「確かに」


 何もない時間を、先に何かで埋めなくなった。


「リビアは?」


「私もまだ決めてない」


「じゃあ帰ってから考える?」


「うん」


 それで話は終わった。


     ◇


 馬車へ乗ると、俺は今日の実技について改めて話した。


「水と土で違ったの、どう思う?」


「私に聞くの?」


「リビアならどう見るかなって」


 研究として答えを求めるのではない。


 単純に、リビアの考えを聞きたい。


「そうだなあ……」


 彼女は窓の外へ一度視線を向け、少し考える。


「水球と土の円柱って、そもそも形を維持する方法が違うでしょう?」


「うん」


「水はずっと形を保つために魔力を使うけど、土は一度形になった部分がそのまま残りやすいんじゃない?」


「俺も少し思った」


「じゃあ属性変換だけの差って決めるのは早いよね」


「うん」


「それに、セス自身の操作の癖かもしれないし」


「そうなんだよね」


 同じ低出力へ戻したつもりでも、俺が水と土で無意識に違う操作をしている可能性がある。


「次に先生が確認してくれるまで分からないか」


「たぶん」


「気になる?」


「すごく」


「今夜試したい?」


「試さない」


 即答すると、リビアが笑った。


「そこは迷わないんだ」


「だって先生が必要なら次を指定するって言ったから」


「うん」


「それに、家で一人で試して何か分かっても、授業の条件と同じか分からないし」


「セス、本当に変わったね」


「また言われた」


「今日は私が言いたかった」


「じゃあ一回だけならいいよ」


「何その許可」


 笑い合う。


 馬車が小さく揺れ、肩が触れた。


 以前ならそのまま離れたかもしれない。


 今日は離れない。


 リビアもそのままだった。


「ねえ、セス」


「何?」


「昨日のキスの話なんだけど」


 胸が少しだけ速くなる。


「うん」


「今日もまだ、するって決めたわけじゃないよ」


「分かってる」


「でもね」


 リビアの指が、座席の上で俺の手の近くへ動く。


「昨日より、考えても怖くなくなった」


「そっか」


「セスが待ってくれるって分かったからかもしれない」


 俺はその手をすぐには握らなかった。


 リビアの言葉を聞く。


「前は、キスしたら何か急に変わる気がしてたの」


「何が?」


「分からない。もっと恋人らしくしなきゃいけないとか、次はもっと先に進まなきゃいけないとか……」


 言いながら、リビア自身も少し困ったように笑う。


「変だよね。私、ずっとセスと結婚したかったのに」


「変じゃないと思う」


「そう?」


「俺も、好きって分かる前は、婚約者ならこうしなきゃって考えてたから」


 婚約者だから隣にいる。


 婚約者だから守る。


 婚約者だから。


 役割を理由にする方が分かりやすかった。


「キスしたから次も何かしなきゃいけないってことはないよ」


「うん」


「一回したあと、次の日は手繋ぐだけでもいいし、何もしなくてもいい」


「うん」


「俺はリビアとしたいけど、キスしたあとの決まりまで欲しいわけじゃない」


 リビアがこちらを見る。


 その目が少し柔らかくなった。


「それ聞いたら、もっと怖くなくなった」


「じゃあよかった」


「でも今日はまだしない」


「うん」


「残念?」


 正直に考える。


「少し」


 リビアが目を丸くする。


「少しなんだ」


「したいから。でも嫌じゃない」


「そっか」


「残念って言ったら嫌?」


「ううん」


 リビアの手が少し動き、今度は彼女から俺の指へ触れた。


「むしろ、嬉しい」


「何で?」


「セスが本当にしたいんだって分かるから」


「したいよ」


「……それ何回も言われると恥ずかしい」


「リビアが聞いたんでしょ」


「そうだけど」


 今度は俺から手を重ねる。


 指を絡めず、普通に握る。


 今日もこれでいい。


     ◇


 屋敷へ戻ったあと、俺たちは結局それぞれ別に過ごした。


 俺は部屋で少し休んでから、借りていた冒険小説を読む。


 リビアは自室で委員会関係の紙を整理するらしい。


 同じ屋敷にいる。


 会おうと思えばすぐ会える。


 それでも、ずっと一緒にいなければならないとは思わない。


 夕食の席で再び顔を合わせた時、リビアが俺を見るなり言った。


「セス、焼き菓子」


「あ」


「忘れてた?」


「ちょっと」


 昨日、旅物語の主人公が迷うかどうか賭けて、俺が負けた。


 今日の焼き菓子を一個多く渡す約束だった。


 食後に出された小さな蜂蜜菓子を見て、俺は自分の皿から一つ取る。


「はい」


「本当にくれるの?」


「約束したから」


「じゃあもらう」


 リビアが嬉しそうに受け取る。


 旦那様が向かいからこちらを見る。


「何のやり取りだ?」


「賭けに負けました」


「何を賭けた?」


「本の登場人物が道に迷うかどうかです」


 旦那様が数秒黙る。


「平和だな」


「平和ですよ」


 リビアが答える。


 グレイヴは何も言わないが、口元が少しだけ緩んでいた。


     ◇


 夜、今日は談話室へ行かず、リビアの部屋へ向かう廊下の途中で少し話した。


「明日はどうする?」


 リビアが聞く。


「何が?」


「放課後」


「まだ何もないよ」


「私も」


「じゃあ、明日決めよう」


「うん」


 以前なら、空いていると分かった時点で一緒に何かする予定を入れていたかもしれない。


 でも、明日になって疲れていたら休めばいい。


 本を読みたければ読む。


 剣を合わせたければ、場所と体調を確認してから決めればいい。


 予定が空いていることは、予定を作らなければならないという意味ではない。


「セス」


「何?」


「今日、抱きしめたい?」


 聞かれて、自分の気持ちを確かめる。


「うん」


「私も」


「じゃあ、いい?」


「うん」


 一歩近づく。


 リビアの腕が俺の背中へ回り、俺も彼女を抱きしめる。


 強く締めるのではなく、互いの身体が安心して預けられるくらい。


 廊下の窓から夜の冷たい空気がわずかに入り、遠くで使用人が扉を閉める音がした。


「今日ね」


 俺の胸元に顔を寄せたまま、リビアが小さく言う。


「セスの水球が崩れた時、ちょっと安心した」


「イザークと同じこと言ってる」


「違うよ」


「何が?」


「イザーク君は、セスでも失敗するんだって意味でしょう?」


「たぶん」


「私は、セスが崩れた水球をそのまま維持してたの見て安心したの」


「先生にそのままって言われたから」


「うん。前なら直そうとしたかもしれないでしょう?」


 否定出来ない。


 以前なら、少し崩れた程度ならその場で修正出来ると思い、指示の範囲を自分で広げていたかもしれない。


「今は、失敗した状態も先生に見てもらえるんだね」


「失敗隠したら確認にならないし」


「そう思えるようになったのが嬉しい」


 リビアの腕に少しだけ力が入る。


 俺も彼女の背中へ回した腕をわずかに強めた。


「心配させてた?」


「昔はね」


「今は?」


「今日はあんまり」


「そっか」


 その言葉が嬉しかった。


 俺が大丈夫だと言ったから安心したのではなく、実際の行動を見て、以前ほど心配しなくてもいいと思ってくれた。


 それはたぶん、俺が変わったと自分で思うより確かなことだった。


 少しして、自然に身体を離す。


 リビアの顔が近い。


 一瞬、互いに言葉が止まった。


 彼女の視線が俺の目から少し下へ落ち、すぐ戻る。


 俺の胸が大きく鳴った。


 でも、近づかない。


 リビアもその場にいる。


 数秒の沈黙のあと、彼女が小さく息を吐いた。


「……今、ちょっとだけ」


「うん」


「したいかもって思った」


 胸の奥が熱くなる。


「そっか」


「でも、まだ今日はしない」


「分かった」


「セス」


「何?」


「嬉しそう」


「嬉しいよ」


「しなかったのに?」


「リビアがしたいかもって思ってくれたから」


 リビアの頬が一気に赤くなる。


「言わなきゃよかった……」


「言ってくれて嬉しかった」


「もう」


 彼女が恥ずかしそうに俺の胸を軽く押した。


 痛くもないくらいの力だった。


「おやすみ」


「うん。おやすみ、リビア」


 今日は「好き」と言わなくても、十分伝わっている気がした。


     ◇


 自室へ戻ってベッドへ入ると、今日の出来事がゆっくり頭へ戻ってきた。


 水属性の出力を下げた時、形が崩れた。


 土属性では形は崩れなかったが、最初より少し大きさが残った。


 原因はまだ分からない。


 属性の性質かもしれない。


 術式の違いかもしれない。


 俺自身の操作の癖かもしれない。


 複数が重なっている可能性だってある。


(気になるな)


 やっぱり気になる。


 でも、明日自分で試すつもりはない。


 エレナ先生が必要なら次を指定すると言った。


 だから待つ。


 ベルナルト先生の研究も待っている。


 婚約者としての勉強についても待っている。


 昔なら、こんなにいくつも「まだ分からない」が残っている状態は落ち着かなかったかもしれない。


 今は違う。


 分からないものがあるからといって、今すぐ全部を埋める必要はない。


 そしてもう一つ。


 リビアが、キスを「少ししたいかもしれない」と言った。


 思い出すだけで顔が熱くなる。


(俺はかなりしたいけど)


 それでも、今日しなかったことを失敗だとは思わない。


 水球が最初と同じ形へ戻らなかったこととも違う。


 恋愛には、最初から決められた正しい状態なんてない。


 俺たちが二人で、今ここがいいと思えるところにいればいい。


 次に抱きしめるのがいつでも。


 初めてキスするのがいつでも。


 そのあと何をするのかも。


 俺たちが決めればいい。


(明日は何しようかな)


 一瞬そう考えたあと、少し笑う。


 明日の放課後は空いている。


 でも、今決める必要はない。


 明日になってから、リビアと話せばいい。


 目を閉じる。


 魔術も、将来も、恋愛も、まだ分からないことはたくさんある。


 だからこそ、分かったふりをせず、一つずつ確かめていけばいい。


 今の俺には、そのくらいの進み方がちょうどよかった。

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