第62話 正解が一つじゃない課題ほど、決める理由が必要になります
翌朝、目を覚ました時に最初に感じたのは、昨日剣を振った疲れではなく、窓の向こうから差し込む柔らかな光だった。
身体を起こして右腕を回し、肩から背中、腰、脚へと順番に状態を確かめていく。イザークとの一本勝負で強く踏み込んだ脚にはわずかな張りがあるものの、痛みと呼べるものではなく、日常生活にも授業にも影響はなさそうだった。
(問題なし。今日は予定通りで大丈夫だな)
今日は放課後、サザリーとの第三共同課題がある。
第二資料室でハロルド先生が立ち会い、最大で一時間半。俺たちが事前に知らされているのは、人口約三千人の農村地域、初期予算が金貨百二十枚、冬までに生活基盤を安定させることが目的だという基本条件だけだった。
開始時に三つの問題が提示され、途中で追加情報が一つ入る。
最初の判断を維持しても、変更してもいい。
ただし、どちらを選ぶにしても理由を説明する必要がある。
(結局、問題は分からないままだったな)
当たり前だ。
昨日も予想問題を作らないと決めたのだから、今になって布団の上で考え始めるのも違う。
俺はベッドを降り、いつも通り身支度を整えた。
昨日は放課後に剣を振っているので、朝の剣術練習はしない。代わりに何か魔術を試そうとも思わず、鞄の中身を確認してから部屋を出た。
廊下には朝の静かな空気が残っていて、使用人たちが遠くで仕事を始める音が聞こえる。
階段へ向かう途中、前方の角から銀青色の髪が現れた。
「おはよう、リビア」
「おはよう、セス」
オリビアは俺の顔を見たあと、視線を下へ向ける。
「脚は?」
「少し張ってるくらい。痛くないよ」
「腕は?」
「大丈夫」
「昨日の夜より悪くなってない?」
「なってない。今日は普通に授業受けて、放課後の課題も予定通り」
そこまで答えると、リビアが安心したように息を吐いた。
「よかった」
「リビアは?」
「私?」
「今日は何か予定ある?」
「放課後は委員会があるよ。東側渡り廊下を先生たちが確認した結果を聞く予定なの」
「今日なんだ」
「うん。一方通行にする方向自体は変わらないと思うけど、どちら向きにするか決まるかもしれないって」
「じゃあ、帰りは別になる?」
「たぶん」
少し残念ではある。
けれど俺には共同課題があり、リビアには委員会がある。
どちらも自分たちでやりたいことだ。
「終わる時間も分からないもんね」
「セスたちは最大一時間半でしょう?」
「うん。でも早く終わるかもしれない」
「私たちも同じ。だから今日は、待ち合わせを決めない方がいいと思う」
「俺もそう思う」
先に終わった方が無理に待つ必要はない。
屋敷へ帰ればまた会える。
そう考えられることが、今では自然だった。
「じゃあ、お互い終わったら普通に帰ろう」
「うん」
「帰ってから話そう」
「課題の内容、話してくれる?」
「先生が駄目って言わなければ」
「じゃあ楽しみにしてる」
リビアが笑う。
俺も頷いて、一緒に朝食の部屋へ向かった。
◇
学園へ着いてからも、午前中は普段通りに進んだ。
今日の最初の授業は魔術理論だったが、古代測定器について新しい話が出ることはなく、属性魔術における術式維持と出力変化の基礎が中心だった。
同じ術式を維持したまま出力だけを変える場合、単純に流す魔力量を増減させればいいわけではない。術式側の許容量、属性変換の安定性、術者本人の制御精度によっては、出力を下げる時にも乱れが生じることがあるらしい。
以前の授業で書き留めた内容と重なる部分もある。
(実技確認でも関係するかもしれないけど、今は授業だな)
エレナ先生が考えている俺向けの実技確認案では、指定された一属性を低出力から中程度まで制御し、維持と停止を確認する方向になっている。状態に問題がなければ別の指定属性へ低出力で一度だけ切り替える案も残っているが、まだ最終決定ではない。
だから、授業を聞いただけで勝手に練習内容を増やすつもりはなかった。
教師が黒板へ描いた術式の図を写し、出力下降時に術式外周が乱れる例を書き留める。
その時、隣の席から小さな声が聞こえた。
「クルセス」
「何?」
イザークがこちらを見ている。
「脚、大丈夫か?」
「大丈夫。少し張ってるだけ」
「俺も」
「昨日動いたからね」
「今日もう一回やったらどうなると思う?」
「やらないよ」
「分かってる。聞いただけだって」
イザークは笑って前を向く。
そのやり取りを聞いていたらしいミリアナが、前の席から半分だけ振り返った。
「昨日の今日でまた勝負したら、先生に止められる前に私たちが止めるわよ」
「だからやらねえって!」
「本当に?」
「本当だ!」
声が少し大きくなり、教室前方の教師がこちらを見る。
俺たちは揃って口を閉じた。
数秒後、教師が何も言わず授業へ戻ると、ミリアナの肩が小さく揺れる。
笑っている。
(イザーク、絶対あとで文句言うな)
俺も笑いそうになりながら、ノートへ視線を戻した。
◇
昼休みになると、いつもの場所へ集まった。
今日はアルフォルドとカイゼルは別の予定があるらしく、俺、リビア、サザリー、イザーク、ナナリー、ミリアナの六人だった。
食事を始めて少しすると、イザークがサザリーを見る。
「今日だろ?」
「ああ」
「緊張してる?」
「多少は」
「サザリーでも緊張するんだな」
「私を何だと思っている?」
「何でも冷静に考えてる奴」
「冷静に考えることと緊張しないことは別だ」
サザリーはそう言いながらスープを口へ運ぶ。
普段と変わらないようにも見えるが、よく見ると食事の速度が少し遅い。
「クルセス様は緊張されていますか?」
ナナリーに尋ねられ、俺も自分の状態を考える。
「少し。でも楽しみ」
「昨日も同じこと言ってたわね」
ミリアナが笑う。
「昨日は剣で、今日は領地運営なのに」
「違うから楽しみなんだと思う」
「どういうこと?」
「昨日はイザークが何してくるか分からなかった。今日は何が問題として出るか分からない」
「分からないことが楽しいの?」
「全部じゃないよ」
分からないことが怖い時もある。
リビアとの関係だって、以前は分からないことをすぐ「無理」という答えに結びつけていた。
でも、今日の課題は分からないことを考えるために用意されている。
「今日は分からなくていいって最初から言われてるから」
「なるほど」
ミリアナが納得したように頷く。
サザリーもこちらを見る。
「私も近いかもしれない。正解を当てる課題ではないと明言されているからこそ、普段とは違う考え方が出来そうだ」
「唯一の正解はないんだよね?」
リビアが確認する。
「ああ。ハロルド先生からそう説明されている」
「じゃあ二人の意見が違うこともある?」
「むしろ、違う可能性は高いと思う」
サザリーが答えた。
俺も同意する。
「違った時にどうするかも課題なんじゃないかな」
「喧嘩するなよ」
イザークが真面目な顔で言う。
「しないよ」
「分かんねえぞ。金貨百二十枚の使い道で殴り合うかもしれない」
「何で剣の次の日に殴り合わなきゃいけないの」
「クルセスなら素手でも強そうだから、サザリー君が不利ね」
「ミリアナまで何言ってるの?」
リビアとナナリーが笑い、サザリーは額へ手を当てる。
「君たちは共同課題を何だと思っているんだ」
「少なくとも格闘技じゃない」
「それが分かっているなら十分だ」
昼休みの空気はいつも通りだった。
そのおかげか、課題への緊張も少し薄れた。
◇
午後の授業を終えたあと、リビアとは教室前で別れた。
「じゃあ、行ってくる」
「うん。私も委員会行ってくるね」
「頑張って」
「セスも」
今日は手を繋がない。
抱きしめもしない。
ただ互いに行く方向が違うから、廊下で笑って別れる。
リビアはマリエッタ先輩たちが集まる委員会室の方向へ向かい、俺はサザリーと第二資料室へ向かった。
廊下を歩きながら、サザリーが小さく息を吐く。
「いよいよだな」
「うん」
「念のため聞くが、何か予想したか?」
「してない。サザリーは?」
「昨夜、倉庫の屋根が壊れた場合を少し考えかけた」
「考えかけたんだ」
「すぐやめた」
「じゃあ同じだね」
「君も何か考えかけたのか?」
「街道」
「昨日の授業のせいか」
「うん。でもやめた」
サザリーが少し笑う。
「本当に似たことをしているな」
「だから共同課題にされたのかも」
「それは少し嫌だな」
「何で?」
「二人とも同じところで暴走する可能性がある」
「今日は先生いるから大丈夫」
「そこを他人任せにするな」
そんな話をしているうちに、第二資料室へ着いた。
◇
第二資料室は、普段授業で使う教室より小さい。
壁の二面を背の高い書棚が占め、領地運営や法務、税制、農業、商業に関する資料が分類されている。窓際には四人ほど座れる長机があり、その上には紙束、筆記具、計算用の小板が用意されていた。
ハロルド先生はすでに来ている。
「来たか」
「はい」
「よろしくお願いします」
俺とサザリーが頭を下げる。
「座れ。まず確認するが、事前に問題を予測して準備したか?」
「していません」
俺が答える。
サザリーも頷いた。
「候補を考えかけた程度です。具体的な条件設定や解答案は作っていません」
「それでいい」
ハロルド先生は机の上から一枚の紙を取った。
「今日の課題は、知識量だけを見るものではない。与えられた条件から優先順位を決め、その判断を他者へ説明し、新しい情報が入った時に維持するか変更するかを考えることが目的だ」
俺たちは黙って聞く。
「改めて基本条件を確認する。対象は王都から馬車で四日ほど離れた農村地域。人口は約三千人。複数の小村を一つの行政区として扱っているものとする。主産業は小麦と豆類を中心とした農業だ」
新しい情報が少し増えた。
「冬までは約二か月。初期予算は金貨百二十枚。目的は、冬季までに住民の生活基盤を安定させること。全てを完全に解決する必要はない」
「はい」
「開始時の問題は三つだ」
ハロルド先生が紙を裏返し、俺たちの前へ置いた。
そこには三項目が書かれていた。
一つ目。
北側の二村が共同利用する井戸で水量低下が発生している。現状でも最低限の生活用水は確保出来ているが、このまま低下が続けば一か月以内に不足する可能性がある。新しい井戸を掘る場合、調査と工事を合わせて金貨五十枚前後。
二つ目。
中央穀物倉庫の屋根に損傷があり、強い雨が降ると一部へ浸水する。現在保管されている穀物の約三割が冬季備蓄。全面修繕は金貨四十五枚、応急修繕なら金貨十五枚。
三つ目。
南側の主要街道にある小橋が老朽化している。現時点では荷馬車も通行可能だが、冬前の収穫物輸送で交通量が増える見込み。全面架け替えは金貨八十枚、補強は金貨三十枚。
合計すれば、当然百二十枚では全部を完全に直せない。
「制限時間は?」
サザリーが尋ねる。
「最初の判断に三十分。その後、君たちの案を聞く」
「二人で一つの案ですか?」
俺が確認する。
「ああ。ただし、意見が一致しなければ無理に一つへまとめる必要はない。対立点を明確にして説明しても構わない」
「分かりました」
「質問は?」
紙を見直す。
井戸。
倉庫。
橋。
「先生」
「何だ、クルセス」
「井戸の水量低下の原因は分かっていますか?」
「現時点では不明。調査だけなら金貨五枚で実施可能とする。結果は十日程度で出る」
「倉庫の応急修繕をした場合、冬までは持ちますか?」
「通常程度の雨なら持つ可能性が高い。ただし暴風雨があれば保証出来ない」
「橋の補強は?」
今度はサザリーが尋ねる。
「通常の荷馬車であれば冬までの利用に耐える見込み。ただし、一台当たりの積載量制限が必要になる可能性がある」
「制限した場合、輸送回数が増える?」
「そう考えていい」
「その追加費用は?」
「今回の行政予算から直接支払う必要はないが、住民や商人の負担は増える」
サザリーがすぐ紙へ書き込む。
俺も同じ部分へ印をつけた。
(予算だけ見ちゃ駄目なんだ)
昨日の授業でも似た話が出ていた。
修理を先送りすれば、その間の監視や制限にも費用や負担が生まれる。
「他になければ始めろ」
ハロルド先生が時計を見る。
「はい」
◇
最初の数分、俺たちはほとんど話さなかった。
紙へ情報を書き分ける。
井戸。
今は最低限足りている。
一か月以内に不足する可能性。
原因不明。
調査五枚。
新設五十枚前後。
倉庫。
冬季備蓄三割。
雨で浸水。
全面四十五。
応急十五。
橋。
今は通れる。
収穫期に交通増。
全面八十。
補強三十。
積載制限の可能性。
「俺は、井戸はまず調査でいいと思う」
最初に口を開いた。
サザリーもすぐ頷く。
「私も同じだ。現時点で五十枚を新設へ使う根拠が薄い」
「十日で原因分かるなら、その間は最低限足りる」
「ただし、水量低下が加速した場合の対応は必要だな」
「うん。別の村から運べる?」
ハロルド先生を見る。
「質問として認める。近隣村から水を運ぶことは可能だ。ただし恒常的な代替には向かない」
「緊急時だけなら使える?」
「そう考えていい」
それを書き加える。
「じゃあ井戸は調査五枚。今すぐ新設はしない」
「異論なし」
残り百十五枚。
次は倉庫。
「俺は全面修繕したい」
言うと、サザリーが少し考えた。
「理由は備蓄か?」
「うん。冬まで二か月で、三割が冬用なんだよね。応急修繕で十五枚なら安いけど、暴風雨で駄目になる可能性が残る」
「全面なら四十五枚」
「ここは使っていい気がする」
「私も全面修繕寄りだ。ただ、一つ確認したい」
サザリーが先生を見る。
「倉庫内の穀物を別の場所へ一時移動することは可能ですか?」
「小規模な倉庫が各村にある。分散は可能だが、害獣対策や管理効率は中央倉庫より劣る」
「費用は?」
「輸送と追加管理を合わせ、冬まで金貨十枚程度とする」
サザリーが俺を見る。
「応急修繕十五、分散管理十なら二十五で済む」
「全面より二十安い」
「ああ」
「でも、小さい倉庫の方が管理悪い」
「そこをどう見るかだな」
すぐには決めない。
俺は紙の上で数字を動かす。
井戸調査五。
倉庫全面四十五なら五十。
残り七十。
橋を全面架け替えするには足りない。
補強なら三十。
合計八十。
四十残る。
「倉庫全面四十五、橋補強三十、井戸調査五」
「合計八十」
「四十残せる」
「追加情報があると分かっているから残したいのか?」
サザリーに聞かれる。
「それもある。でも、追加情報がなくても全部使い切る必要はないと思う」
「理由は?」
「井戸の調査結果が十日後に出るから。新しい井戸が必要って分かったら、あと四十五枚くらい必要になる」
新設は五十前後。
すでに調査へ五枚使っているから、残り四十では少し足りない可能性がある。
「厳密には足りないかもしれないな」
「うん」
「なら倉庫を応急にして資金を残す案もある」
「でも冬の備蓄が怖い」
サザリーが黙る。
俺も黙った。
どちらも間違いではない。
資金を残す。
備蓄を守る。
「橋は補強でいいと思う?」
俺が尋ねる。
「現時点では。全面架け替え八十枚を使うほど危険だという情報はない」
「俺も」
「ただし積載制限による住民負担は残る」
「収穫期だけ?」
「冬前の輸送量増加が中心なら、その可能性は高い」
紙の上へ条件を書き足す。
やがてサザリーが言った。
「私は倉庫を全面修繕したい」
「俺も今はそっち」
「では最初の案は一致するな」
井戸調査五。
倉庫全面修繕四十五。
橋補強三十。
使用額八十。
残額四十。
ただし井戸調査結果次第で予算不足の可能性。
「残り四十枚をどう扱う?」
「保留」
「全額?」
「うん。今は使う理由ないから」
「同意する」
そこまで決めたところで、ハロルド先生が時計を見た。
「二十分だ。予定より早いな」
「まだ十分快あります」
サザリーが答える。
「なら、反対意見を自分たちで考えろ」
「反対意見?」
「その案を住民へ説明した時、何を言われると思う?」
俺とサザリーは顔を見合わせた。
(なるほど)
自分たちが納得するだけでは足りない。
「北側の二村からは、井戸を調べるだけで新しく掘らないことへの不安が出ると思います」
俺が言う。
「一か月以内に不足する可能性があるのに、十日待つのか、と」
「そうだな」
サザリーも続ける。
「南側からは、橋を全面架け替えしないことで収穫物輸送へ負担が出るという反発が考えられます。特に積載制限が実施された場合、往復回数が増える」
「中央倉庫の全面修繕に四十五枚使うことへの反発もありそう」
「なぜ応急修繕では駄目なのか、ということか」
「うん」
「では、どう説明する?」
先生に促され、俺は一度考えた。
「井戸は、放置するわけじゃないって説明します。十日で原因を調べて、その間に水量を毎日確認する。不足が早まるなら近隣村から緊急輸送する準備もする」
「その監視を誰が行う?」
「……決めてなかった」
すぐに穴が見つかった。
「村ごとに担当を置く?」
サザリーが言う。
「井戸の利用者が毎日水位を記録し、一定以下になったら行政担当へ報告する形なら、大きな追加費用は必要ないかもしれない」
先生を見る。
「その程度なら今回の予算外の通常業務として扱っていい」
「じゃあそれで」
俺は紙へ書き加える。
橋については、補強後の安全確認と積載制限の基準を明確にする。
倉庫については、冬季備蓄三割を失う危険を避けるため、応急ではなく全面修繕を優先する。
話していくうちに、最初の三行だけだった案へ理由が増えていった。
◇
開始から三十分ほど経ったところで、ハロルド先生が手を上げた。
「そこまでだ。最初の判断を聞こう」
サザリーと役割を決め、俺が概要を説明する。
井戸は金貨五枚で原因調査。
倉庫は四十五枚で全面修繕。
橋は三十枚で補強。
残り四十枚は保留。
サザリーが理由と住民への説明、暫定的な安全措置を補足する。
ハロルド先生は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「分かった」
評価は言わない。
「では、追加情報を出す」
来た。
先生は別の紙を一枚取り出した。
「最初の判断から七日後とする」
俺とサザリーの前へ置かれる。
そこに書かれていた文章を読んだ瞬間、さっきまでの案が頭の中で組み替わり始めた。
――北側二村の井戸について調査を進めた結果、水量低下は地下水そのものの枯渇ではなく、井戸内部の崩落によって取水経路の一部が塞がれていることが判明した。
修繕費、金貨二十枚。
工期、約十日。
(新しい井戸はいらない)
これなら残した四十枚で十分対応出来る。
そう思った直後、紙には続きがあった。
――同時期、南側街道の小橋について、収穫物を積んだ大型荷馬車の通行時に橋脚の一部へ新たな亀裂が確認された。
現状の補強計画をそのまま実施した場合、安全を保証出来ない。
全面架け替え費用は当初見積もりと同じ金貨八十枚。
ただし、すでに補強準備として金貨五枚を使用済みとする。
俺は思わず息を止めた。
橋。
状況が変わった。
「ここから二十分」
ハロルド先生が言う。
「最初の判断を維持しても、変更しても構わない。最終案を出せ」
◇
残額を計算する。
最初に使う予定だった八十枚のうち、七日後までに実際に支出したものを確認する必要がある。
「先生、倉庫の修繕費はもう全額使った扱いですか?」
「工事開始済み。契約上、四十五枚全額を支払うものとする」
「井戸調査五枚も?」
「支出済み」
「橋は補強三十のうち五枚だけ」
「そうだ」
つまり支出済みは五十五枚。
残り六十五枚。
井戸修繕に二十必要。
橋架け替えに八十。
足りない。
「十五枚不足……じゃないな」
サザリーが呟く。
「井戸も直すなら三十五枚足りない」
「うん」
六十五から井戸二十を引けば四十五。
橋には八十必要。
「倉庫を全面修繕したの、もう戻せない」
「ああ」
最初の判断が後から効いてくる。
あの時、応急修繕十五枚にしていれば三十枚多く残っていた。
でも、今それを言っても戻らない。
(あの判断が間違いだった?)
そう考えかけて、止める。
当時は橋の新たな亀裂を知らなかった。
倉庫には冬季備蓄があり、暴風雨の危険もあった。
今の情報だけで過去の判断を責めても仕方ない。
「橋をどうする?」
サザリーが聞く。
「今のまま通すのは駄目だと思う」
「同意する」
「でも架け替え出来ない」
「予算内ではな」
予算外の選択肢があるか。
「先生、南側街道以外に迂回路はありますか?」
「ある。ただし通常より半日遠回りになる」
「荷馬車は通れる?」
「通行可能。ただし道幅が狭い区間があり、大型荷馬車同士のすれ違いには向かない」
サザリーがすぐ尋ねる。
「一方通行の時間帯を設定することは可能ですか?」
「可能だ。ただし交通整理の人員が必要になる」
「行政側で出せる?」
「冬までの二か月限定なら、金貨十枚相当の追加費用で手配出来るとする」
選択肢が増えた。
橋を架け替えない。
危険な橋を閉鎖。
迂回路を使う。
交通整理に十枚。
「井戸二十、迂回路十」
「残り三十五」
「橋の架け替えは冬までしない」
俺が言うと、サザリーはすぐには頷かなかった。
「問題は、迂回で収穫物輸送が遅れることだ」
「半日増える」
「農産物の傷みは小麦と豆なら急激ではない。ただ、人と馬の負担は増える」
「でも危ない橋を使うよりいい」
「そこは同意する」
サザリーが紙へ線を引く。
「ただし、私は残り三十五枚を全て保留することには反対だ」
「何に使う?」
「迂回路の狭い区間を最低限整備出来ないか確認したい」
「先生」
俺が呼ぶ前に、ハロルド先生がこちらを見た。
「簡易的な待避場所を二か所設けるなら金貨十二枚。道幅そのものを広げる本格工事は、冬までには間に合わない」
「待避場所……」
「大型荷馬車が来た時に片方が待てる場所か」
「そうだ」
サザリーが俺を見る。
「私は十二枚使いたい」
「俺も賛成」
「即答だな」
「一方通行の時間を決めても、遅れたり緊急の荷馬車が来たりするかもしれないから」
「私も同じ理由だ」
井戸修繕二十。
迂回路の交通整理十。
待避場所十二。
合計四十二。
残り二十三。
「二十三枚は?」
「保留したい」
今度はサザリーも頷いた。
「橋の架け替えは春以降の予算へ回す。ただし冬の間に設計と見積もりだけ進める」
「それってお金かかる?」
先生へ確認する。
「今回の課題では通常業務内とする」
「じゃあそれで」
ただし、橋を閉鎖するなら住民や商人への説明が必要になる。
補強すると言っていたのに、七日後には閉鎖へ変更する。
「反発は出るな」
サザリーが言う。
「うん」
「どう説明する?」
「新しい亀裂が見つかったから、最初の判断を変えたって言う」
「それだけで納得するか?」
「……しない人もいると思う」
補強の準備に使った五枚は無駄になったように見える。
最初から架け替えればよかったと言う人もいるだろう。
「五枚使ったことも隠さない方がいいと思う」
「私もだ」
「最初の時点では補強で冬まで持つ見込みだった。でも、新しい亀裂が出て安全を保証出来なくなった。だから変えた」
「過去の判断が間違っていなかったと弁明しすぎるのも良くない」
サザリーが言う。
「何で?」
「住民が知りたいのは、行政が自分たちの正しさを証明出来るかではなく、明日からどう輸送するかだろう」
俺は少し黙った。
「確かに」
説明は必要だ。
でも、自分たちが悪くなかったと長く説明しても、橋は通れるようにならない。
「じゃあ、最初の判断と変更理由は短く説明して、その後に迂回路と時間帯、待避場所の話をする」
「それがいい」
意見がまとまる。
そこでハロルド先生が告げた。
「残り五分」
俺たちは最終案を一枚へまとめ始めた。
◇
「以上です」
説明を終えると、資料室に静けさが戻った。
窓の外では、夕方の光が少しずつ赤みを帯びている。
ハロルド先生は俺たちの紙を手に取り、最初の案と最終案を見比べた。
「まず、最初の判断についてだ」
少し緊張する。
「倉庫を全面修繕したことは、結果だけを見れば後の資金不足を招いた」
「はい」
「では、間違いだったと思うか?」
俺はすぐには答えなかった。
さっき考えたことを思い出す。
「今の情報だけなら、応急修繕にしておけばよかったとは思います」
「それは結果だな」
「はい。でも最初の時点では、俺は全面修繕を選びます」
「理由は?」
「冬の備蓄が三割あって、暴風雨なら応急修繕で守れる保証がなかったからです。それに、その時は橋が補強で冬まで持つ見込みでした」
「サザリーは?」
「同意見です。後から得た情報を、最初から知っていたことには出来ません」
ハロルド先生が頷く。
「その通りだ」
胸の奥が少し軽くなる。
「ただし、改善点はある」
「何でしょうか」
「君たちは追加情報が来ると知っていたため、四十枚を意識的に残した。それ自体は悪くない。しかし現実では『七日後に必ず新情報が来る』とは誰も教えてくれない」
「……あ」
「今回の課題特有の条件へ適応しすぎた部分がある」
確かにそうだ。
俺とサザリーは顔を見合わせた。
「では、予備費を残す理由を、追加情報が来るからではなく、井戸調査後の対応や予期しない支出へ備えるためと説明出来れば、より現実的だった」
サザリーがすぐに紙へ書き込む。
俺も同じように記録した。
「次に変更後だ。橋を閉鎖して迂回路へ切り替えた判断は妥当だ。特に、すでに五枚使ったからという理由で補強を続けなかった点は評価する」
「使った分がもったいないから続ける、ってことですか?」
「そうだ。過去に支払った費用は、今後の安全性を保証しない」
五枚は戻らない。
だからといって、残り二十五枚を追加して危険な橋を補強しても意味がない。
「最後に、二人とも住民への説明を考えたのは良かった。領地運営は紙の上の数字だけでは終わらない」
先生は紙を机へ戻した。
「ただし、君たちは少し仲が良すぎる」
「え?」
思わぬ指摘だった。
隣を見ると、サザリーも珍しく驚いた顔をしている。
「意見が一致するのが早い。互いに相手の考えを理解出来る分、反論を途中で省略する傾向がある」
「省略してました?」
「していた。倉庫の全面修繕を決める時、二人とも一度は応急修繕案を考えたが、十分に反対側を詰めずに一致した」
「確かに……」
言われてみれば、俺が全面修繕したいと言い、サザリーもほぼ同じ方向だった。
「共同作業では意見が合うこと自体は悪くない。しかし、相手が賛成しているから検討を終えるのは危険だ」
「はい」
「次に同様の機会があれば、一度意図的に反対側から見るといい」
サザリーが真剣に頷く。
「覚えておきます」
「私からは以上だ。今日の課題はこれで終了する」
時計を見る。
一時間十五分ほどだった。
最大一時間半には届かなかったが、頭は授業一つ分以上に疲れている気がする。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
俺たちは揃って頭を下げた。
◇
資料室を出たところで、サザリーが長く息を吐いた。
「疲れた」
「俺も」
「剣の方が楽か?」
「違う疲れ方だから比べられない」
「そうか」
少し歩いてから、サザリーが笑う。
「だが、面白かった」
「うん」
「途中で橋の亀裂が出た時、君の顔が変わった」
「サザリーも」
「そうだったか?」
「すぐ計算し直してた」
「君もだろう」
俺たちは顔を見合わせて笑う。
「先生に仲良すぎるって言われるとは思わなかった」
「私もだ」
「悪い意味じゃなかったけど」
「ああ。むしろ、次の課題だな」
「相手が賛成した時こそ、もう一回考える?」
「それが良さそうだ」
サザリーがそこで足を止めた。
「クルセス」
「何?」
「今日、一緒に出来て良かった」
普段の彼からすると、少し珍しい言葉だった。
「俺も」
「次があるかは分からないが」
「なくても、今日のは楽しかったよ」
「ああ」
それで十分だった。
俺たちは昇降口近くで別れた。
◇
委員会が終わっているかは分からない。
待ち合わせはしないと決めていたので、俺はそのまま帰ろうとした。
ところが玄関を出たところで、少し離れた場所に銀青色の髪が見えた。
「リビア?」
呼ぶと、彼女が振り返る。
「あ、セス」
「終わったの?」
「今ちょうど」
「俺も」
偶然だった。
それだけなのに、嬉しくなる。
「一緒に帰れるね」
「うん」
リビアも同じように笑った。
馬車へ向かいながら、まずは彼女の委員会の話を聞く。
「渡り廊下、どうなった?」
「先生たちが現地確認して、雨の日は中庭側から校舎側へ向かう一方通行にする案で進めることになったよ」
「方向決まったんだ」
「うん。実技を終えた生徒が戻る流れとぶつかりにくいから。ただ、完全決定は次の全体確認のあと」
「じゃあまだ確定じゃない?」
「運用案としては決まったけど、実施前の確認が残ってる感じ」
「なるほど」
「第二予備教室の方は、実技開始順で待機場所を分ける案がほぼまとまったよ。マリエッタ先輩の色札案も試すことになった」
「実際に?」
「次の委員会で紙の札を置いて、分かりやすいか確認するだけ。まだ本番採用ではないよ」
リビアはきちんと、決まったこととまだ試すだけのことを分けて話している。
「そっちは?」
「面白かった」
「やっぱり最初にそれなんだ」
「だって面白かったから」
「何が出たの?」
俺は先生から口止めされていないことを確認したうえで、井戸、倉庫、橋の三つの問題と、途中で追加された情報について説明した。
リビアは途中で何度も質問しながら聞いてくれる。
「じゃあ、最初に倉庫を全面修理したから、橋の架け替えにお金が足りなくなったんだ」
「そう」
「後悔した?」
その問いに、俺は少し考えてから首を横へ振った。
「結果だけなら、応急修理にしておけばよかったって思う。でも、最初の時点に戻って同じ情報しかなかったら、たぶんまた全面修理を選ぶ」
「そっか」
「先生にも、それでいいって言われた」
「新しいことが分かったから答えを変えたんだね」
「うん」
そこでリビアが少しだけ笑った。
「セス、そういうの得意になったね」
「何が?」
「前に決めたことを、あとから変えるの」
「前は苦手だった?」
「すごく」
即答された。
「そんなに?」
「だってセス、一回『こうする』って決めると、自分が苦しくても続けること多かったもの」
「……そうだったかも」
「今は違うでしょう?」
歩きながら、俺は少し考える。
剣の一歩を変えた。
橋の判断を変えた。
休むかどうかも、身体の状態で変える。
そして、もっと大きなことも。
昔の俺は、公爵令嬢のリビアと平民出身の俺が結婚するなんて無理だと決めていた。
でも今は違う。
(あの時の俺が嘘だったわけじゃない)
当時は本当にそう思っていた。
身分。
立場。
自分の価値。
知っていることだけで考えて、無理だと判断した。
その後、色々知った。
リビアの気持ち。
自分の気持ち。
旦那様やグレイヴの考え。
学園で出来た友達。
自分がやりたいこと。
知らなかったものが増えたから、答えも変わった。
「変えていいんだと思う」
「うん」
「でも、何でも簡単に変えればいいわけじゃない」
「今日の橋みたいに?」
「そう。変える理由があるなら変える。前のままでいいなら、その理由を考える」
リビアが俺を見上げる。
「じゃあ、私の婚約者でいたいっていうのは?」
「変えない」
すぐ答えた。
リビアの頬が赤くなる。
「早いね」
「今のところ変える理由ないから」
「今のところ?」
「これからもないと思うけど、未来のこと全部分かるわけじゃないし」
「そこは断言してくれてもいいのに」
「じゃあ言い直す?」
「言い直して」
少し笑いながら、俺は彼女を見る。
「俺はリビアの婚約者でいたい。これは変えたくない」
リビアの足がほんの少しだけゆっくりになる。
俺も歩幅を合わせた。
「うん」
小さな返事だった。
でも嬉しそうだった。
◇
馬車に乗ってしばらくすると、リビアが窓の外を見ながら口を開いた。
「セス」
「何?」
「今日ね」
「うん」
「キスのこと、少し考えた」
胸が一度、大きく鳴った。
でも、急いで答えない。
リビアは窓から俺へ視線を戻す。
「前より怖くなくなった」
「うん」
「でも、今日したいかって聞かれたら……まだ分からない」
「そっか」
「ごめんね」
「何で謝るの?」
「セスはしたいって言ってくれたから」
「したいよ」
そこは変わっていない。
リビアとキスしたい。
近くにいると、そう思うことがある。
「でも、待つって言ったでしょ」
「うん」
「俺がしたいのと、今日するかは別だから」
リビアが少し黙る。
「嫌じゃない?」
「何が?」
「待つの」
「嫌じゃない」
「本当に?」
「うん。だって、リビアがしたいって思った時にしたいから」
言葉にすると、自分の中でも改めて分かる。
キスという行為を経験したいわけではない。
リビアとしたい。
だから、リビアが怖いままなら急ぐ理由はない。
「それに」
「それに?」
「今日しなくても、こうして一緒に帰れるし」
手を差し出す。
リビアが少し笑って、その上へ自分の手を重ねた。
「手も繋げる」
「うん」
「話も出来る」
「うん」
「それで十分?」
「今日は」
答えると、リビアの肩から少し力が抜けた。
「そっか」
「リビアは?」
「私も今日はこれがいい」
「じゃあこれで」
手を握る。
窓の外では、夕暮れの道がゆっくり後ろへ流れていく。
急ぐ必要はない。
◇
屋敷へ戻ったあと、夕食まで少し時間があった。
俺は自室へ戻って今日の課題で書いたメモを一度だけ整理する。
答えを作り直すためではない。
先生に指摘されたことを忘れないためだ。
――相手と意見が一致した時こそ、反対側を一度考える。
――将来追加情報が来ると分かっている前提へ頼らない。
――過去に使った費用だけを理由に危険な案を続けない。
――住民への説明は、自分の正しさを証明するためではなく、これからどうするかを伝えるため。
四つ書いて、紙を閉じる。
(これでいい)
追加で領地運営の本を開くことはしない。
今日はもう十分考えた。
◇
夕食後、リビアとはいつもの小さな談話室で少しだけ一緒に過ごした。
今日は本を開いている。
以前から二人で読んでいる旅物語の続きだ。
主人公たちは山間の村へ入り、案内人の忠告を無視して近道を選ぼうとしている。
「絶対迷う」
リビアが言った。
「まだ迷ってないよ」
「でも迷う」
「案内人いるし」
「その案内人が『そっちはやめろ』って言ってるのに、主人公が行こうとしてるでしょう?」
「確かに」
「前も似たことしてたもの」
「今回は大丈夫かも」
「セス、賭ける?」
「何を?」
「次のページで迷うかどうか」
「何を賭けるの?」
リビアが少し考える。
「明日の焼き菓子」
「それ、どっちが勝っても一緒に食べるやつじゃない?」
「そうだけど」
「賭けになってないよ」
「じゃあ負けた方が相手に一個多くあげる」
「それなら」
俺は迷わない方へ賭けた。
二ページ後、主人公たちは道を失った。
「ほら!」
「早すぎない?」
「だから言ったでしょう?」
「案内人の言うこと聞けばよかったのに」
「セス、明日一個ちょうだいね」
「分かった」
嬉しそうなリビアを見ていると、焼き菓子一個くらい最初からあげてもよかった気がする。
でも、それを言うと賭けの意味がなくなるから黙っておく。
しばらく読み進め、区切りのいいところで本を閉じた。
「今日はここまで?」
「うん」
時計を見ると、それほど遅くない。
それでも今日は共同課題で頭を使った。
「疲れた?」
「少し」
「じゃあ休んだ方がいいね」
「うん」
立ち上がり、一緒に廊下へ出る。
リビアの部屋の前まで歩く。
そこで足を止めた時、昨日までなら少しだけキスのことを意識していた。
今日も意識はしている。
でも、しなければならないとは思わない。
「セス」
「何?」
「今日は抱きしめてもいい?」
「うん」
リビアから一歩近づいてくる。
俺も腕を回す。
身体が触れる。
銀青色の髪が頬の近くにあり、柔らかな香りがする。
リビアの腕が背中へ回る。
昨日までの話を知っているからこそ、これ以上近づくことを急がない。
「今日、楽しかった?」
胸元から声がする。
「うん」
「私も委員会、結構楽しかった」
「人の流れ考えるの好き?」
「好きっていうか、上手くいきそうな配置を考えるのは面白い」
「今度、俺の課題もやってみる?」
「先生に怒られないなら」
「もう終わった課題ならいいか聞いてみる」
「本当に?」
「うん」
そんな話をしながら、少しだけ抱きしめたままでいる。
やがてリビアの腕が緩んだ。
俺も離れる。
「おやすみ、セス」
「おやすみ、リビア」
目が合う。
一瞬だけ、唇へ視線が行きそうになる。
でも今日は、それで終わりだった。
リビアも逃げるようには目を逸らさない。
ただ、少し頬を赤くして笑った。
「また明日」
「うん。また明日」
◇
自室へ戻り、ベッドへ横になる。
今日は色々な判断をした。
井戸。
倉庫。
橋。
途中で情報が変わり、最初の案を一部変えた。
先生からは、相手と意見が合った時ほど反対側を考える必要があると言われた。
(答えを変えるのも、変えないのも、理由がいるんだな)
以前の俺は、一度決めたことを変えるのが苦手だった。
婚約だってそうだ。
無理だと決めた。
だから、その判断を守ろうとした。
でも今は、自分が間違っていたと単純に思っているわけではない。
あの頃の俺には、今の俺が知っていることが見えていなかった。
新しいことを知った。
気持ちも分かった。
だから答えを変えた。
そして今、変えたくないものもある。
(俺はリビアが好きだ)
これは分かった。
(リビアの婚約者でいたい)
これも自分で決めた。
(リビアと結婚したい)
そこも変わらない。
でも、その隣に立つ俺がどんな人間になるのかは、まだ全部決まっていない。
執事を続けるのか。
伯爵家の養子として何を担うのか。
魔術や剣をどこまで続けるのか。
古代の測定方法を調べることが将来何につながるのか。
公爵令嬢の夫になるなら、何を知っておくべきなのか。
分からないことは多い。
けれど、分からないから婚約そのものをやめるという答えにはならない。
(必要になった時に考えて、知ったらまた考えればいい)
今日の課題のように簡単ではない。
人生には、先生が追加情報を一枚の紙で渡してくれるわけでもない。
それでも、その時に分かっていることを使って考えることは出来る。
必要なら変える。
変えたくないものは、その理由を自分で持つ。
目を閉じる。
明日はまた普通の授業がある。
サザリーとの課題は終わった。
イザークとの一本勝負も終わった。
次に何があるかは、まだ全部決まっていない。
それでいい。
俺は今、自分が選んだ婚約者の隣で、まだ知らないことを一つずつ知っていけばいいのだから。




