第60話 途中で条件が変わっても、最初の答えにしがみつく必要はありません
翌朝、目を覚ました俺は、しばらく枕へ頭を預けたまま昨日の夜を思い返していた。
リビアもキスをしたいと思っている。
けれど、実際にすることには少し怖さがある。
嫌なのではなく、それを境に何かが大きく変わってしまいそうで怖いのだと、彼女はきちんと言葉にしてくれた。
(聞けてよかった)
したいという言葉だけを受け取っていたら、俺はそこまで分からなかったかもしれない。
俺自身はキスをしたい。
その気持ちは朝になっても変わっていなかったし、昨日より薄れたわけでもない。
それでも、今すぐでなくていい。
リビアが安心して、俺もその時にしたいと思えて、二人で同じところへ進める時でいい。
そう思えると、胸の中に変な焦りはなかった。
ベッドから身体を起こし、腕や脚の調子を確かめる。痛みも疲労もなく、アルフォルドとの試合で痛めた右腕も、もう日常の中で意識する必要がない状態まで戻っていた。
今日は午後に剣術の授業がある。
だから朝は振らない。
身体を動かしたくないわけではないが、午後に授業がある日にまで朝から追加する理由もなかった。
「よし」
小さく声を出して立ち上がる。
今日、何か決まることがあるとすれば、サザリーとの共同課題の日程だろうか。
昨日の時点では、二日後か三日後の放課後が候補になっていた。
どちらになってもいい。
決まってから動けばいい。
◇
部屋を出て廊下を進むと、階段の少し手前でリビアが窓の外を見ていた。
昨日の雨は夜のうちに上がったらしい。庭にはまだ水気が残っているものの、東から差し込む朝日が濡れた葉を明るく照らしていた。
「おはよう、リビア」
声をかけると、彼女が振り返る。
「おはよう、セス」
目が合う。
昨日の夜を思い出す。
たぶんリビアも同じだった。
ほんの少し頬が赤くなったが、今日はどちらも慌てなかった。
「よく眠れた?」
「うん。セスは?」
「俺も」
「キスのこと考えた?」
「起きてすぐ考えた」
「もう!」
リビアが顔を赤くしながら俺の腕を軽く叩く。
痛くも何ともない程度だ。
「リビアが聞いたんだけど」
「そうだけど、そんなに迷わず答えなくてもいいでしょう?」
「嘘つくことでもないし」
「それはそうだけど……」
彼女は恥ずかしそうに視線を逸らしたものの、嫌そうではなかった。
「リビアは?」
今度は俺から聞く。
「……考えたよ」
「そっか」
「でも」
「うん」
「昨日話したことは変わってない」
「分かってる」
俺はそれ以上近づかなかった。
「じゃあ、朝ご飯行こう」
「うん」
並んで階段を下り始める。
途中で肩が触れたが、それだけだった。
したいことがあるからといって、それを毎回確かめなくてもいい。
昨日話したことを、今日も信じていられる。
それは思っていた以上に楽だった。
◇
学園へ着いて教室へ入ると、イザークがすぐにこちらへ寄ってきた。
「クルセス、今日の剣術覚えてるよな?」
「覚えてるよ」
「調子は?」
「問題なし。でも今日は授業だけ」
「分かってるって」
イザークは笑いながら両手を上げた。
「俺も放課後までやろうとは言わねえよ。前に話した一本勝負は、サザリーとの課題の日が決まってからだろ?」
「うん」
「じゃあそれ待ち」
それだけ言うと、イザークは自分の席へ戻っていく。
以前なら、こうして誘われた時点で空いている時間を探していたかもしれない。
今は予定が重ならないところを探す方が自然になっている。
席へ座って教本を出したところで、今度はサザリーが教室へ入ってきた。
目が合う。
彼は自分の鞄を席へ置くと、そのままこちらへ歩いてきた。
「クルセス」
「決まった?」
「察しが早いな」
「昨日その話してたから」
サザリーが一枚の紙を差し出す。
「共同課題は明後日の放課後になった」
「明後日」
「ああ。場所は第二資料室。ハロルド先生が立ち会う」
「時間は?」
「通常授業終了後から。長くても一時間半程度を予定しているそうだ」
「分かった」
紙を見る。
昨日受け取った基本条件と同じものに、日時と場所だけが追加されていた。
人口約三千人の農村地域。
初期予算は金貨百二十枚。
冬季までの生活基盤安定。
開始時に三つの問題が提示され、途中で追加情報が一度入る。
判断は維持しても変更してもいい。
どちらの場合も理由を説明する。
唯一の正解は設定しない。
「追加情報の内容は?」
「当然教えてもらっていない」
「だよね」
「クルセス」
「何?」
「今日と明日で想定問題を大量に作るなよ」
「作らないよ」
「本当に?」
「昨日も我慢した」
「我慢という表現が少し不安だな」
「でもやってない」
「なら信用しよう」
サザリーがわずかに笑う。
「ただ、授業で習ったことを普通に復習するのはいいんだよね?」
「もちろんだ。課題があるからといって授業の復習まで禁止する理由はない」
「分かった」
「課題用の正解を作らなければいい」
「うん」
そこなら区別出来る。
昨日学んだ備蓄管理も、以前学んだ道路修繕も、それ自体は普通の授業内容だ。
使う場面が来れば使う。
来なければ使わない。
「楽しみだな」
俺が言うと、サザリーが頷いた。
「私もだ」
彼も本当に楽しみにしているらしい。
そのことが少し嬉しかった。
◇
午前中の授業を終え、昼休みになる。
いつもの場所へ集まると、俺はリビアへ共同課題の日程が決まったことを伝えた。
「明後日?」
「うん。放課後」
「じゃあ、その日は別々に帰る?」
リビアが自然に聞く。
「たぶん俺の方が遅くなると思う」
「私は委員会ない予定だから、先に帰れるよ」
俺は一瞬考えた。
待っていてほしいか。
明後日の課題は最大一時間半。
終わる時間も多少前後するかもしれない。
「先に帰ってて」
「うん」
「終わったら屋敷で会いたい」
そう付け加える。
リビアの表情が明るくなった。
「分かった。待ってる」
「でも遅かったら先に休んでてね」
「一時間半くらいでしょう?」
「予定では」
「じゃあ大丈夫」
そこでイザークが会話へ入ってきた。
「ってことは、俺との一本は明日も無理か?」
「明日は?」
「明後日が課題なら、明日の放課後どうだ?」
今日の午後には剣術授業がある。
明日は特に剣術実技の予定はなかったはずだ。
身体の状態も今は問題ない。
ただ、今日の授業でどうなるかはまだ分からない。
「今日の剣術終わって、明日の朝も問題なかったら」
「おう。それでいい」
「時間も短めで」
「一本取ったら終わり?」
「それなら長引く可能性あるから、時間決めない?」
「じゃあ十五分?」
「準備と休憩込みで?」
「いや、勝負だけ十五分」
「長い」
「じゃあ十分」
「それなら」
「決まりな」
「条件付きね」
「分かってるって。明日の朝駄目なら中止」
イザークもすっかり慣れている。
俺が体調次第で変更すると言っても、不満そうな顔をしない。
「場所は?」
「第一剣術場が空いてるか先生に聞いとく」
「勝手に使わないでね」
「俺だってそれくらい分かる!」
ミリアナが笑った。
「イザークも成長したのね」
「何で俺までクルセスみたいな扱いなんだよ」
「俺みたいって何?」
「止められる側」
「否定出来ない」
「お前は否定しろよ!」
周囲に笑いが広がる。
アルフォルドも小さく笑いながら食事を続けていた。
「クルセス」
「はい?」
「イザークとの一本は、俺との試合と同じ戦い方をする必要はないからな」
「分かってます」
「ならいい」
イザークが不満そうにアルフォルドを見る。
「何で殿下が先に助言するんですか」
「助言ではない。相手が違えば条件も違うというだけだ」
「それなら俺にも何かくださいよ」
「クルセスは俺よりお前の動きを知っている。俺が言うより本人に聞け」
「確かに」
イザークがあっさり納得する。
俺も笑った。
勝負は勝負だ。
でも、アルフォルドとの時とは違う。
相手も違う。
目的も違う。
明日の朝、身体に問題がなければ楽しめばいい。
◇
午後の剣術授業では、二人一組での攻防切替を行った。
俺の相手は途中まで別の男子生徒で、後半だけイザークと組むことになった。
「明日の前哨戦だな」
「先生に怒られるよ」
「分かってるって」
言葉通り、イザークは勝手に強度を上げなかった。
今日の課題は、一方が三度まで攻撃し、もう一方が受け流すか防いだあと、教師の合図で攻守を入れ替えるというものだ。
勝敗をつける練習ではない。
俺も普通の身体強化だけを使い、迅雷撃破は使わない。
「開始!」
教師の声でイザークが踏み込む。
一撃目は右上から。
受ける。
二撃目は横。
少し下がって流す。
三撃目は途中で軌道を変えた。
剣を合わせ、外へ逸らす。
「交代!」
その声を聞いた瞬間、イザークが守りへ移る。
俺も追撃せず、役割を切り替えた。
一撃。
二撃。
三撃目を出す前に、教師から別の声が飛んだ。
「止め!」
剣を止める。
イザークも動きを止めた。
「今のは何で止めたんですか?」
彼が聞く。
「後ろ」
教師が指す。
隣の組で剣を落とした生徒がいた。
木剣がこちら側へ転がっている。
「自分たちの組だけ見て続けるな。訓練場全体が安全でなければ止める」
「はい」
「はい」
俺たちは返事をする。
落ちた剣が回収され、安全確認が終わってから再開となった。
(自分たちに問題がなくても止まる時はある)
当然のことだ。
でも、こうして実際に途中で止められると、身体で分かる。
再開後も無理に先ほどの続きから再現せず、改めて構え直した。
◇
授業が終わる頃には、軽く汗をかいていた。
疲労は二か三程度。
痛みはない。
イザークも特に問題なさそうだ。
「明日いけそうじゃね?」
「今はね」
「明日の朝見るんだろ?」
「うん」
「分かった」
教師へ確認したところ、明日の放課後は第一剣術場の一角を短時間なら使ってよいらしい。ただし教師がいる時間帯に限り、通常の身体強化までで、危険な魔法や迅雷撃破は禁止となった。
当然の条件だ。
勝負自体も正式試合ではない。
友人同士の短い一本だ。
その場でイザークと条件を確認し、明朝の俺の状態に問題がなければ行うことにした。
これで明日の予定が一つ増えた。
でも増えただけだ。
朝に問題があれば消える。
それでいい。
◇
授業後、着替えて校舎へ戻ると、廊下の窓際にリビアがいた。
今日は待ち合わせをしていたわけではない。
俺を見つけると、彼女が手を上げる。
「セス」
「待ってた?」
「少し」
「何で?」
「一緒に帰りたかったから」
昨日は俺が言った言葉を、今日はリビアが言う。
胸の奥が温かくなった。
「嬉しい」
「よかった」
「剣術終わる時間分かってた?」
「大体は」
「そっか」
「嫌だった?」
「全然」
俺は彼女の隣へ並ぶ。
「むしろ、待っててくれて嬉しい」
「じゃあ帰ろう」
「うん」
歩き始めたところで、リビアが俺の腕を見る。
「痛くない?」
「ゼロ」
「疲れは?」
「二か三くらい。普通の授業分」
「明日のイザーク君との剣は?」
「朝問題なかったらやる。十分だけ」
「決まったんだ」
「先生にも許可もらった」
「見に行ってもいい?」
俺はすぐ答えようとして、少しだけ考えた。
見てほしいか。
「来てほしい」
「うん」
「でも委員会とか何かあったらそっち優先して」
「明日は今のところないよ」
「じゃあ見てほしい」
「分かった」
リビアが嬉しそうに笑う。
以前なら、彼女が見たいから来るという話だけで終わっていたかもしれない。
今は俺も見てほしいと言える。
それが普通になりつつあった。
◇
馬車へ乗る。
今日はリビアが隣へ座った。
走り始めてしばらくすると、彼女が今日の剣術について尋ねてきたので、途中で隣の組の木剣が転がってきて全員が止められたことを話した。
「セス、すぐ止まれた?」
「うん」
「よかった」
「今はもう、止まるの普通だよ」
「うん」
リビアはそれ以上褒めなかった。
俺もそれでいいと思った。
止まれることは、もう特別な成功ではない。
安全に練習するなら当然のことになっている。
「そういえば」
俺は話題を変える。
「共同課題、明後日になった」
「うん」
「その日は先に帰っててって言ったけど」
「うん」
「終わったら、たぶん課題の話したくなると思う」
「聞くよ」
「長くなったら止めて」
「そこまで含めて分かってる」
「俺、そんなに話す?」
「興味あることは結構話すよ」
「そうかな」
「古い測定器の話をしてる時もそう」
「リビアの結界の話も長いよ」
「私も?」
「うん」
「じゃあお互い様だね」
「そうだね」
笑う。
馬車が少し揺れ、肩が触れた。
そのままにする。
少しすると、リビアの手が座席の上へ置かれた。
俺の手のすぐ近く。
手を繋ぎたい。
そう思った。
「リビア」
「何?」
「手、繋いでいい?」
「うん」
指を重ねる。
昨日話したキスとは違う。
手を繋ぐことは、もう二人の間でかなり自然になっている。
だからといって毎回するわけでもない。
したい時にする。
今日はしたかった。
◇
屋敷へ戻ると、夕食までは別々に過ごした。
俺は自室で今日の授業内容を整理したが、共同課題の紙は開かなかった。
明後日。
日程が決まったことで、余計に考えたくなる。
それでも今から想定問題を作るのは違う。
代わりに剣術授業で気づいたことを短く書く。
『周囲の危険で停止する場合もある。自分の動作完了を優先しない』
それだけ。
明日のイザークとの勝負についても、細かな戦術は作らなかった。
相手の癖は知っている。
イザークも俺の癖を知っている。
実際に向かい合ってから考えればいい。
ノートを閉じる。
夕食までまだ時間がある。
少し迷ってから、以前リビアに借りた本とは別の一般史の本を手に取った。
研究ではない。
課題対策でもない。
ただ読みたいから読む。
窓の外が夕方の色へ変わるまで、静かにページをめくった。
◇
夕食後、いつもの談話室へ向かう。
今日は俺の方が先だった。
ソファへ座って待っていると、少しして扉が開く。
「ごめん、待った?」
「五分くらい」
「先に来てたんだ」
「会いたかったから」
言う。
リビアの動きが一瞬止まった。
「セス」
「何?」
「最近、本当に普通に言うね」
「嫌?」
「嬉しい」
「じゃあいい」
リビアが俺の隣へ座る。
今日は本を一冊持っていた。
「読む?」
「読んでもいいし、話してもいいよ」
「何の本?」
「昨日読んでた物語の続き」
「面白い?」
「うん」
「じゃあ読んでていいよ」
「セスは?」
「俺も何か持ってくればよかった」
「一緒に見る?」
「いいの?」
「うん」
彼女が本を開く。
俺たちは少し身体を寄せ、同じページを見る。
以前から何度もしてきたことだ。
でも今は、リビアが好きだと互いに知っている。
キスをしたいとも知っている。
それでも、今していることは本を読むだけだった。
(こういうのも好きなんだよな)
ページをめくる。
物語の主人公が旅先で宿を探している。
恋愛の場面ではない。
俺は普通に内容へ集中出来た。
◇
三十分ほど読んだところで、リビアが栞を挟んだ。
「今日はここまでにする?」
「うん」
本を閉じる。
少し静かな時間が流れた。
俺は隣にいるリビアを見る。
彼女もこちらを向く。
目が合うと、昨日の話が自然に浮かんだ。
でも俺からキスの話は出さなかった。
リビアもすぐには何も言わない。
「セス」
「何?」
「昨日のこと」
「うん」
「今日、気にしてた?」
「キス?」
「うん」
「気にはしてた」
「したい?」
「したいよ」
答えは変わらない。
「でも、昨日リビアが言ったことも覚えてる」
「怖いって言ったこと?」
「うん」
「……ありがとう」
「謝らなくていいからね」
「謝ってないよ」
「ならいい」
リビアが少し笑う。
「今日ね」
「うん」
「昨日よりは怖くない」
俺は何も言わず、続きを待った。
「でも、まだ今日したいとは思わない」
「分かった」
「それでもいい?」
「もちろん」
迷う理由はない。
「俺がしたいって言ったから、リビアが急ぐ必要ないよ」
「セスは?」
「俺?」
「私に合わせて我慢してるって、嫌にならない?」
少し考える。
我慢。
確かに、したいことをしていないという意味ではそうかもしれない。
でも。
「嫌じゃない」
「どうして?」
「リビアとしたいから」
「……うん?」
「キスそのものをしたいだけじゃなくて、リビアとしたい」
言葉にすると、自分でも分かりやすかった。
「だからリビアが怖いままするなら、俺がしたいものとちょっと違うと思う」
リビアが目を見開く。
その頬がゆっくり赤くなっていく。
「セス」
「何?」
「それ、ずるい」
「何が?」
「そんなこと言われたら、もっと好きになる」
「もう好きって言ってたのに?」
「増えるの!」
「好きって増えるんだ」
「増えるよ!」
リビアが恥ずかしそうに俺の肩へ額を押しつけた。
俺は笑いながら、その頭へ頬を少し寄せる。
「俺も増えてる気がする」
「本当?」
「うん」
「いつ?」
「今日なら、待っててくれた時」
「学園で?」
「うん。一緒に帰りたいから待ってたって言われて嬉しかった」
リビアが顔を上げる。
「それだけ?」
「それだけって?」
「もっとないの?」
「朝会った時も可愛かった」
「……聞かなきゃよかった」
「何で?」
「恥ずかしい」
「褒めてって言ったのリビアじゃないけど」
「今は褒めてって言ってないでしょう!」
また笑う。
キスはしない。
それでも十分近い。
◇
少しして、リビアが俺の肩から離れた。
「抱きしめてもいい?」
今度は彼女から聞く。
「うん」
身体を向ける。
リビアが腕を回し、俺も彼女の背中へ腕を回した。
昨日より迷いの少ない抱擁だった。
髪から微かな香りがする。
肩越しに感じる呼吸は落ち着いている。
「セス」
「うん」
「こういうのは、もう怖くない」
「そっか」
「最初はすごく恥ずかしかったけど」
「俺も」
「今も恥ずかしいけど、好き」
「俺も好き」
少しだけ腕へ力を込める。
リビアも同じように返してくる。
それだけで嬉しい。
「キスも、そのうちこうなるかな」
彼女が小さな声で言った。
「分からない」
「そこは大丈夫って言ってくれないの?」
「やったことないから」
「もう」
「でも」
「うん?」
「最初に手繋いだ時も、今とは違ったよね」
「そうだね」
「抱きしめるのもそうだった」
「うん」
「なら、キスも俺たちなりに慣れるのかもしれない」
「……うん」
「でも、まだ先でいい」
「ありがとう」
抱きしめたまま、しばらく話さない。
魔導灯の静かな明かりと、時計の針が進む音だけが部屋に残った。
◇
やがて離れ、部屋へ戻る時間になった。
廊下を並んで歩く。
今日は手を繋がなかった。
談話室で十分触れ合ったからというわけでもない。
ただ、今は歩くだけでよかった。
リビアの部屋の前へ着く。
「明日、イザーク君との剣だね」
「朝問題なければね」
「見に行く」
「うん」
「明後日は共同課題」
「うん」
「忙しいね」
「でも詰め込みすぎてないよ」
「そう?」
「今日は剣術授業だけだったし、明日は短い一本だけ。明後日は課題」
「研究は?」
「予定なし」
「魔術の自主練習は?」
「なし」
「なら大丈夫かな」
「俺もそう思う」
リビアが頷く。
「セス」
「何?」
「今日も好き」
「俺も」
「明日は?」
「たぶんもっと好き」
「……そういうのどこで覚えたの?」
「今考えた」
「余計ずるい」
彼女が笑う。
「おやすみ、リビア」
「おやすみ、セス」
扉が閉じるまで見送り、俺も自室へ向かった。
◇
部屋へ戻り、寝る準備を整える。
ベッドへ入って目を閉じる前に、今日一日を思い返した。
明日は、朝の状態に問題がなければイザークと短い一本勝負。
明後日は、サザリーと共同課題。
実技確認の正式形式はまだ待ち。
ベルナルト先生との古い測定器研究も次回日程待ち。
リビアの雨天時の待機教室案は進んでいるが、廊下の一方通行については先生たちの確認待ち。
キスも、まだ。
(待ってるものがいっぱいあるな)
でも、何も進んでいないとは思わない。
日程が決まったものがある。
条件だけ決まったものもある。
途中まで進んでいるものもある。
まだ触れない方がいいものもある。
全部を一度に終わらせる必要はない。
今日の剣術では、自分たちに問題がなくても、周囲の状況が変われば止まる必要があった。
明後日の共同課題では、途中で新しい情報が出る。
その時、最初に決めた答えを変えてもいい。
(前に決めたからって、それにずっと従う必要はないんだよな)
もちろん、何でも簡単に変えればいいという意味ではない。
変えるなら理由がいる。
変えないなら、それにも理由がいる。
俺は以前、平民の自分が公爵令嬢の婚約者になるなんて無理だと思っていた。
あの時は、それが自分なりの答えだった。
でも今は違う。
リビアを好きだと知った。
一緒にいたいと知った。
婚約者でいたい。
いつか結婚したい。
知らなかったことを知って、俺の答えは変わった。
それでいいのだと思う。
ただ、まだ一つだけ言い切れないこともある。
俺が公爵令嬢であるリビアの隣へ立つ人間として、何を身につけ、何を背負い、どんな将来を選ぶのか。
そこはまだ途中だ。
(でも、分からないから離れるって答えには戻らない)
それだけはもう決まっている。
分からなければ学ぶ。
一人で出来なければ助けてもらう。
新しい情報が出たら、また考える。
そしてリビアと一緒に決めるべきことなら、一緒に決める。
キスだって同じだ。
俺一人がしたいだけでは決めない。
リビア一人が俺に合わせて決めるものでもない。
二人がしたい時にすればいい。
(明後日の課題、楽しみだな)
最後に浮かんだのは、なぜか恋愛ではなく共同課題だった。
自分でも少し笑う。
リビアが好きで、剣も好きで、魔術も好きで、知らないことを考えるのも好きだ。
どれか一つだけが俺ではない。
全部抱えたまま、少しずつ先へ進めばいい。
そう思いながら目を閉じると、明日のことを必要以上に考える前に眠気がやってきた。
決まっていることも、まだ決まっていないこともある。
今は、それで十分だった。




