第59話 決めていないことがあるから、今日決められることを考えます
翌朝、目を覚まして最初に考えたのは、昨日の魔術実技ではなかった。
(リビアも、キスしたいんだよな)
目を開けたまま、しばらく天井を見つめる。
昨日、談話室で互いに確認した。
俺がしたい。
リビアもしたい。
それでも昨日はしないと二人で決めて、そのまま別れた。
だから何か問題が残っているわけではない。
むしろ、きちんと話せたことは嬉しかった。
ただ――知ってしまった。
次にリビアと顔を合わせたら、たぶん意識する。
「……絶対するよな」
独り言が部屋に落ちる。
抱きしめたいと思った時もそうだった。
一度自分の気持ちを認めると、それまで気づかなかったものまで急に見えるようになる。
会いたい。
手を繋ぎたい。
抱きしめたい。
キスしたい。
全部、自分の側から生まれた気持ちだ。
(でも、今日しなきゃいけないわけじゃない)
そこまで考えて、ベッドから起き上がる。
身体の状態を確認する。
腕も脚も問題なし。
昨日は魔術実技があったが、低出力の風属性を扱っただけなので疲労も残っていない。
剣を振ることは出来る。
けれど今日は振らなかった。
身体の問題ではなく、何となく朝をゆっくり過ごしたかった。
そういう理由でもいい。
着替えを済ませ、鞄の中身を確認する。
授業用の教本。
ノート。
筆記具。
研究資料は今日は必要ないので置いていく。
準備を終えて部屋を出た。
◇
廊下へ出ると、昨日とほとんど同じ場所でリビアと会った。
「おはよう、セス」
「おはよう」
顔を見る。
目が合う。
昨日の会話を思い出す。
リビアも同じらしく、一瞬だけ互いに止まった。
「……思い出した?」
彼女が先に聞いた。
「うん」
「私も」
頬が少し赤い。
たぶん俺も同じだ。
「今日はどうする?」
俺が聞く。
「何を?」
「いや……」
聞いてから、自分でも何を聞いているのか分からなくなった。
キスをするか。
朝から?
廊下で?
そんなわけがない。
「何でもない」
「セス」
「はい」
「今、絶対キスのこと考えたでしょう」
「考えた」
隠しても仕方ない。
リビアがさらに赤くなる。
「朝から言わないでよ」
「リビアが聞いたんだけど」
「そうだけど!」
少し声が大きくなり、彼女は慌てて周囲を見る。
幸い、近くに使用人はいなかった。
「ごめん」
「もう……」
「でも今日は今しなくていいよね?」
「うん」
リビアもすぐ頷いた。
「私も、朝の廊下でするものじゃないと思う」
「俺も」
「じゃあ朝ご飯行こう」
「うん」
話はそれで終わる。
手も繋がず、二人で階段を下りた。
それなのに、以前より距離が近い気がする。
実際の距離ではなく、互いに知っていることが増えたからかもしれなかった。
◇
朝食の席では、旦那様から婚約者としての話について何か聞かれることはなかった。
父さんも同じだ。
俺とリビアが将来どんな生活をしたいか考えるという話は、期限なしのまま置かれている。
今日の予定を確認したあとは、領内から届いた果物の話になった。
「南部から今年最初のリンベルが届いた」
旦那様が言う。
「もうそんな時期ですか?」
リビアが少し嬉しそうにする。
「今年は少し早いらしい」
「リンベルって何でしたっけ?」
俺が聞くと、リビアがこちらを見る。
「セス、食べたことあるよ」
「本当に?」
「去年も食べたでしょう?」
「どんなの?」
「黄色くて、少し酸っぱい果物」
「ああ」
思い出した。
「ジャムにしてたやつ?」
「そう」
「そのまま食べると結構酸っぱいやつ」
「そうそう」
「じゃあ覚えてる」
旦那様が笑う。
「食べ物の名前は覚えないのだな」
「味は覚えてます」
「それは執事としてどうなんだ」
父さんが静かに言う。
「……覚えます」
「冗談だ」
「父さんが冗談言うと分かりにくい」
「お前が真面目に受け取りすぎる」
リビアが隣で笑う。
朝食はそのまま普通に終わった。
婚約。
将来。
キス。
考えることは増えている。
それでも毎回それだけを話しているわけではない。
そのことが少し心地よかった。
◇
学園へ向かう馬車では、リビアが向かいへ座った。
今日は昨日より落ち着いている。
「セス、今日の予定は?」
「午前が歴史と数学。午後が領地経営基礎と魔術理論だったと思う」
「放課後は?」
「何もない」
「私も」
「じゃあ一緒に帰れるね」
「うん」
それだけ確認する。
窓の外では、朝の街がゆっくり後ろへ流れていく。
「リビア」
「何?」
「昨日言ってた一人の時間も欲しいって話」
「うん」
「俺、結構好きだった」
「何が?」
「そういうの言ってくれたこと」
リビアが少し不思議そうにする。
「どうして?」
「俺とずっと一緒にいたいって言われるのも嬉しいけど」
「うん」
「一人でやりたいこともあるって分かった方が、リビアのこと知れた感じする」
リビアの表情が柔らかくなる。
「セスも言ってね」
「何を?」
「一人でいたい時とか、私じゃなくて友達と過ごしたい時」
「うん」
「我慢しないで」
「分かった」
「本当に?」
「言えると思う」
少し考える。
「今度イザークと剣やりたい時、リビアに一緒に来てって毎回言わなくてもいい?」
「もちろん」
「でも見てほしい時は言う」
「それも言って」
「うん」
ちょうどいい。
何でも一緒にするのではなく、一緒にしたいものを一緒にする。
それなら長く続けられそうだった。
◇
午前の歴史授業では、王国の主要街道が現在の形になるまでの変遷を扱った。
昔は領主ごとに管理方法が大きく違い、同じ街道でも領境を越えるたび道幅や整備状態が変わっていたらしい。
教師が古い地図を黒板へ広げる。
「現在の中央街道が整備される以前、北東部から王都まで物資を運ぶには、複数の領地で通行条件が異なっていました。そのため、単純な距離だけでは輸送時間を判断出来ません」
俺は地図を見る。
昨日の領地修繕の授業とは別の内容だ。
でも、条件が一つではないという点は似ている。
(また何でもつなげないようにしないとな)
自分で少し笑う。
似ているものを見つけるのは面白い。
でも同じだと決める必要はない。
今日は歴史として覚える。
ノートへ街道の変遷を書き込んだ。
◇
二時間目の数学が終わり、休み時間になった時だった。
「クルセス」
後ろから声をかけられる。
振り返ると、サザリーが立っていた。
「何?」
「ハロルド先生から連絡が来た」
「課題?」
「ああ」
俺は椅子へ座り直す。
「決まった?」
「条件が決まった」
「見ていい?」
「もちろん」
サザリーが一枚の紙を机へ置いた。
正式な授業課題ではない。
以前、俺とサザリーが一緒に考えた「条件が途中で変化する判断課題」を、ハロルド先生が自主的な共同課題として試してみてもいいと言っていたものだ。
紙には条件が並んでいる。
『想定領地:人口約三千人の農村地域』
『初期予算:金貨百二十枚』
『目的:冬季までに生活基盤を安定させる』
『開始時点で提示される問題は三つ』
『途中で追加情報を一度提示する』
『最初の判断を維持しても変更してもよい』
『変更した場合、変更理由を説明する』
『変更しない場合も理由を説明する』
『唯一の正解は設定しない』
「これが基本条件?」
「ああ」
「追加情報は俺たち知らない?」
「知らない」
「先生だけ?」
「そう聞いている」
面白い。
かなり面白い。
「いつやる?」
「そこも候補がある」
サザリーが別の紙を出す。
「今週中の放課後。ただし二日後か三日後で調整するそうだ」
「まだ確定じゃない?」
「ああ。先生の授業予定次第だ」
「分かった」
俺は最初の紙へ戻る。
「三つの問題は当日?」
「それも当日」
「事前に分かるのは人口と予算と目的だけ?」
「そうだ」
「じゃあ準備しすぎられないね」
「先生はそれを狙っているらしい」
なるほど。
事前に正解を作って持っていけない。
その場で考える。
途中で条件が変わる。
その時、自分が最初の判断へどれだけ引っ張られるかを見る。
「楽しそう」
「やはりそう言うと思った」
「サザリーは?」
「私も興味深いと思っている」
「じゃあ決まったら教えて」
「ああ」
紙を返そうとすると、サザリーが首を振った。
「それは写しだ。持っていていい」
「ありがとう」
「ただし」
「何?」
「事前に想定問題を五十個ほど作るのはやめておけ」
「……」
「今、少し考えただろう」
「十個くらい」
「十分多い」
見抜かれた。
「でも農村なら、水路、収穫、道路、医療、冬の燃料――」
「クルセス」
「はい」
「当日考える課題だ」
「はい」
紙を鞄へしまう。
サザリーが満足そうに頷いた。
「よろしい」
「先生みたいになってない?」
「お前相手には必要だと思い始めた」
「ひどい」
そう言いながらも、俺は笑っていた。
◇
昼休み。
いつもの場所へ行くと、今日はアルフォルドが少し遅れるらしく、先にカイゼル殿下、イザーク、ミリアナ、ナナリーが座っていた。
俺とサザリーが一緒に入る。
「何かあったの?」
ミリアナが聞く。
「サザリーとの課題の条件が来た」
「例の領地の?」
「うん」
席へ座りながら紙を出す。
リビアも少し遅れて到着し、俺の隣へ座った。
「決まったの?」
「条件だけ」
「見せて」
「うん」
リビアへ紙を渡す。
彼女が読み始める。
「追加情報を一度だけ出すんだ」
「そうみたい」
「内容は知らない?」
「先生だけ」
「面白そう」
「だよね」
俺が即答すると、リビアが笑う。
「セス、すごく嬉しそう」
「楽しみだから」
「事前に考えすぎないでね」
「サザリーにも言われた」
「やっぱり」
どうしてみんな俺が事前準備しすぎると思うのだろう。
(実際やりそうだからか)
否定出来ない。
「でもさ」
イザークが紙を覗き込む。
「最初に百二十枚あるなら、全部使えばいいんじゃないの?」
「何に?」
「問題三つあるんだろ? 四十枚ずつ」
「内容分からないのに?」
「均等」
「絶対それで済まないと思う」
「何で?」
「例えば一個が金貨十枚で解決出来て、一個が百枚必要だったら?」
「……足りないな」
「それに全部使った後で追加問題来るかもしれない」
「ああ」
イザークが納得する。
「じゃあ残すのか?」
「それも当日考える」
「今もう考えてるじゃない」
ミリアナに指摘された。
「これはイザークに聞かれたから」
「本当?」
「本当」
笑いが起きる。
サザリーが静かに食事をしながら言った。
「今の時点で分かっている条件から、一般的な考え方を確認する程度なら問題ないだろう。ただし、存在しない問題への対策を作り込むと、この課題の意味が薄れる」
「分かった」
「クルセスが素直だ」
カイゼル殿下が面白そうに言う。
「最近はちゃんと聞きますよ」
「以前も聞いてはいただろう」
「聞いた後に自分で追加してたかもしれません」
「それを聞いていたと言うのか?」
「……言わないですね」
自分で答えてしまった。
◇
少し遅れてアルフォルドも合流した。
共同課題の話を聞いた彼は、紙を一度読んだあとサザリーへ返す。
「途中で条件が変わるなら、最初の判断そのものより変更時の説明を見る課題か」
「私もそう考えています」
サザリーが答える。
「ただ、それも先生から明言されたわけではありません」
「なら決めつけない方がいいな」
「はい」
俺も頷く。
「殿下なら最初に何します?」
「問題が提示されていないのに答えられるか」
「ですよね」
「お前は何を考えた?」
「農村だから、水路とか道路とか冬の燃料とか」
「考えているではないか」
「サザリーに止められました」
「止められて正解だな」
また言われた。
「みんな同じこと言う」
「クルセス様が分かりやすいからだと思います」
ナナリーが遠慮がちに言う。
「ナナリーまで」
「す、すみません」
「謝らなくていいよ」
リビアが笑っている。
その横顔を見る。
可愛い。
そう思ったあと、昨日の話が頭をよぎった。
キス。
すぐに視線を紙へ戻す。
「セス?」
「何?」
「今、何か考えた?」
「課題じゃないこと」
「何?」
「今は言わない」
リビアの顔が少し赤くなった。
たぶん気づいた。
カイゼル殿下が俺たちを見比べる。
「何だ?」
「何でもないです」
「怪しいな」
「本当に何でもないです」
これはさすがに人前で言うつもりはない。
昨日ディーンへ好きだと普通に言ってしまった俺でも、それくらいは分かる。
◇
午後の領地経営基礎では、午前に届いた共同課題とは関係なく、備蓄倉庫の管理について学んだ。
教師が提示したのは、穀物を多く保管すれば安心という単純な話ではない。
保管期間。
湿気。
害虫。
入れ替え。
輸送費。
倉庫そのものの維持。
大量に持つことにも費用と危険がある。
「備蓄は多ければ多いほど良い、とは限りません」
教師が言う。
「必要量を見積もり、古いものから使用し、定期的に状態を確認する必要があります。使わないことを目的に備蓄しているわけではありません」
俺はノートを取る。
共同課題に使えそうだと思った。
でも、当日備蓄問題が出るとは限らない。
だから授業として覚える。
(これを全部課題対策にし始めたら、サザリーに怒られるな)
少しだけ口元が緩んだ。
◇
最後の魔術理論が終わる頃、窓の外は少し曇り始めていた。
雨が降るほどではない。
でも朝より空が暗い。
授業終了後、廊下へ出る。
今日はリビアと待ち合わせを決めていなかったが、昇降口へ向かえば会えると思っていた。
途中でイザークに呼び止められる。
「クルセス」
「何?」
「明日か明後日、剣やらない?」
「軽く?」
「いや、今度は普通に一本取るやつ」
少し考える。
アルフォルドとの試合からはもう数日経っている。
右腕も完全に問題ない。
疲労もない。
明日の授業予定を思い出す。
「明日、午後に剣術あったよね?」
「あった」
「じゃあ明日は授業だけにしない?」
「分かった」
「明後日は?」
「共同課題入るかもしれない」
「ああ、さっきの」
「まだ日程決まってないから、それ分かってから」
「了解」
イザークはすぐ引いた。
「決まったら教えて」
「うん」
「じゃあまた明日」
「また明日」
別れる。
以前なら、身体が動くなら今日やろうと考えたかもしれない。
でも今は、予定が分かってからでいい。
◇
昇降口へ着くと、リビアはまだいなかった。
俺は壁際へ寄り、邪魔にならない場所で待つ。
生徒たちが次々に外へ出ていく。
友人同士で話しながら帰る者。
迎えの馬車を待つ者。
部活動や自主練習へ向かう者。
俺はその流れを眺める。
(遅いな)
そう思った直後、自分で少し笑った。
まだ五分も経っていない。
会いたいから、長く感じるだけだ。
待てる。
何かあれば先生や使用人から連絡が来る。
十分ほど経ったところで、廊下の奥からリビアが走らない程度の早足でやってきた。
「セス、ごめん!」
「大丈夫」
「待った?」
「十分くらい」
「ごめんね」
「何かあった?」
「委員会の先生に捕まった」
「雨天時?」
「うん」
「じゃあ仕方ないよ」
リビアが息を整える。
「先に帰っててもよかったのに」
「待ってたかったから」
自然に口から出た。
リビアが止まる。
「……そういうの」
「何?」
「急に言う」
「本当だから」
「嬉しいけど」
「ならよかった」
周囲にはまだ生徒がいる。
俺たちを見た女子生徒二人が、少しだけ笑いながら通り過ぎていった。
以前なら気になった。
今はそれより、リビアが嬉しそうにしている方が気になる。
「帰ろう」
「うん」
並んで外へ出た。
◇
馬車へ乗り込むと、リビアは俺の隣へ座った。
外の空は灰色だが、まだ雨は落ちていない。
「委員会の話、何だった?」
俺が聞く。
「待機教室の振り分け」
「進んだ?」
「少し」
「聞いていい?」
「もちろん」
リビアが鞄から小さなメモを取り出す。
「クラス単位と実技開始順の二案があったでしょう?」
「うん」
「開始順を基本にする方が有力になった」
「人数調整しやすいから?」
「それも。あと、待機時間が長くなる人を減らせるから」
「でも案内増えるって言ってなかった?」
「増える」
「そこはどうするの?」
「各教室の入口に色札を出して、実技の班札と合わせる案が出た」
「色で?」
「うん。文字だけより見間違いが減るんじゃないかって」
「誰が考えたの?」
「委員の一人。マリエッタ・クロードさん」
知らない名前だった。
「同じ学年?」
「一つ上。委員会で記録を担当してる人」
「いい案だね」
「私もそう思う」
「一方通行は?」
「まだ決まってない。そこは明日、先生たちが実際の廊下幅を確認するって」
「じゃあ待ち?」
「うん」
「そっか」
俺はそれ以上案を出さなかった。
リビアが少しこちらを見る。
「何?」
「本当に言わなくなったなって」
「案?」
「うん」
「聞かれたら考えるよ」
「今は?」
「リビアたちで進んでるから」
「そっか」
彼女が嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
「何で?」
「任せてくれてる感じする」
その言葉で、少し分かった。
手伝わないことと、興味がないことは違う。
任せることと、放っておくことも違う。
「じゃあ、困ったら言って」
「うん」
◇
しばらく馬車に揺られていると、窓へ小さな雨粒が当たった。
「あ」
リビアが外を見る。
「降ってきた」
「本当だ」
細い雨だ。
街の石畳へ小さな点が増えていく。
「今日の帰宅には影響ないね」
「うん」
「でも実技確認の日にこれより強かったら、待機教室必要か」
「そうなの」
リビアが窓の外を見たまま答える。
その横顔を眺める。
銀青色の髪。
頬。
睫毛。
唇。
また最後のところで意識してしまった。
(駄目じゃないけど)
駄目ではない。
好きな相手なのだから、見てしまうこと自体を悪いとは思わない。
ただ、じっと見続けるのも違う。
「セス」
「うん?」
「見てた?」
「見てた」
「どこ?」
質問が具体的になった。
答えるべきか。
「顔」
「顔のどこ?」
「……」
「セス?」
「言ったらリビア恥ずかしいと思う」
彼女の頬が赤くなる。
「分かった」
「分かったの?」
「たぶん」
今度は二人とも窓の外を見る。
雨粒が少し増えた。
肩は触れたままだった。
◇
屋敷へ戻る頃には雨が少し強くなっていた。
玄関前には使用人が傘を持って待っている。
馬車から降り、短い距離を屋根の下まで移動する。
俺とリビアはそれぞれ着替えたあと、夕食まで別々に過ごすことにした。
「セスは何する?」
「授業の復習少しだけ。あと何もしない」
「共同課題は?」
「考えない」
「本当に?」
「サザリーに止められた」
「ふふっ。じゃあ私も委員会の案は今日は考えない」
「何するの?」
「本読む」
「結界?」
「物語」
「いいね」
「あとで会う?」
「夕食後?」
「うん」
「会いたい」
即答する。
リビアが笑う。
「じゃああとで」
「うん」
別々の廊下へ向かう。
少し前までなら、別れる時に寂しいと感じることを認めなかったかもしれない。
今は少しだけ寂しい。
でも数時間後に会える。
それも分かっている。
◇
自室へ戻り、授業のノートを広げる。
領地経営基礎の備蓄管理。
魔術理論。
数学。
必要なところだけ確認する。
共同課題の紙は鞄に入ったままにした。
一度だけ取り出したくなったが、やめた。
(当日考えるための課題なんだから、今答え作ったら意味ない)
代わりに、今日の授業で分からなかった計算式を一つ確認する。
三十分ほどで終えた。
机から離れ、窓の外を見る。
雨は続いている。
庭の石畳が濡れ、木々の葉から水滴が落ちていた。
何もしない時間。
以前より退屈ではない。
ベッドへ腰掛け、少し休む。
◇
夕食後、談話室へ向かう。
扉を開けると、リビアは先に来ていた。
「早いね」
「セスも」
今日は二人とも本を持っていない。
「何する?」
「また話す?」
「うん」
隣へ座る。
昨日より少し近い。
肩が触れるほどではない。
「今日の課題、楽しみ?」
リビアが聞く。
「すごく」
「顔に出てた」
「そんなに?」
「サザリーから紙もらった時、すごく嬉しそうだった」
「だって、途中で条件変わるんだよ?」
「そこが楽しいの?」
「うん。最初の判断が正しいと思ってても、追加情報で変えた方がいいかもしれない」
「変えなくてもいいかもしれない?」
「そう」
「難しそう」
「だから面白い」
リビアが笑う。
「セスらしい」
「リビアはやってみたい?」
「ちょっと」
「今度似たの作る?」
「それは先生に確認してからね」
「分かってる」
「先に言っておかないと」
「信用して」
「信用してるけど、楽しそうなセスはちょっと危ない」
「ひどい」
笑い合う。
そのあと、今日の委員会の話を少しだけ聞いた。
マリエッタという上級生は、普段から記録や配置を整理するのが得意らしい。
リビアは自分だけで案を出しているわけではない。
他の委員と相談しながら進めている。
「リビアも楽しそうだね」
「委員会?」
「うん」
「大変な時もあるけど、嫌いじゃないよ」
「そっか」
「意外?」
「ちょっと」
「何で?」
「リビア、結界とか魔術の方が好きなのかと思ってた」
「好きだけど、それだけじゃないよ」
また一つ知った。
「人の流れを考えたり、みんなが困らないように準備したりするのも、結構好き」
「公爵令嬢っぽい」
「どういう意味?」
「人のこと考えるの慣れてる感じ」
「セスもでしょう?」
「俺は執事だから」
言ってから、少し考える。
「でも、それだけじゃないか」
「うん」
リビアが頷く。
「セス自身がそういうの好きなんだと思う」
「そうかも」
俺たちは違うことをしている。
でも似ているところもある。
だから面白い。
◇
会話が途切れる。
雨の音が窓へ当たっている。
昨日と同じように、二人きりの静かな時間が出来た。
俺は隣にいるリビアを見る。
リビアもこちらを見る。
目が合った。
今日はすぐに逸らさなかった。
昨日話したことが、二人の間にある。
「セス」
「うん」
「今日も考えた?」
何をとは聞かなくても分かった。
「うん」
「私も」
胸が少し速くなる。
「したい?」
俺が聞く。
「……うん」
「俺も」
そこまで言って、また沈黙する。
昨日と同じだ。
でも今日は少し違う。
昨日は、互いにしたいと知っただけで十分だった。
今日は。
(どうしたい?)
自分へ聞く。
したい。
でも急ぎたくない。
怖いわけではない。
嫌でもない。
リビアもしたいと言っている。
それなら。
「リビア」
「うん」
「今日は……抱きしめてもいい?」
彼女が一瞬目を丸くした。
それから笑う。
「うん」
俺たちは少し身体を向け合う。
俺が腕を広げると、リビアが近づいてくる。
背中へ腕を回す。
彼女も俺の背中へ腕を回した。
温かい。
昨日より緊張は少ない。
でも、心臓は速い。
「セス」
「何?」
「今日はキスじゃないんだ」
耳元で言われた。
「したかった?」
「……ちょっと」
「俺も」
「じゃあ何で?」
俺は少し考える。
「抱きしめたかったから」
「それだけ?」
「うん」
したいことが一つではない。
キスをしたいからといって、抱きしめることがその途中の手順になるわけではない。
今は抱きしめたい。
だから抱きしめている。
「そっか」
リビアの声が柔らかくなる。
「じゃあ、もう少しこのまま」
「うん」
雨音を聞きながら、しばらくそのままでいた。
◇
やがて腕を緩める。
でも完全には離れなかった。
顔が近い。
昨日より近いかもしれない。
リビアの目を見る。
彼女も俺を見る。
視線が少しだけ下がる。
俺も同じ場所を見そうになった。
唇。
今度は意識して視線を戻す。
「セス」
「うん」
「今、見た?」
「見そうになった」
「私も」
正直すぎて、二人とも笑ってしまった。
緊張が少しほどける。
「今日する?」
俺が聞く。
リビアはすぐには答えなかった。
俺も待つ。
「……まだ、しなくてもいい?」
「もちろん」
答えると、彼女がほっとしたように笑った。
「したくないわけじゃないの」
「分かってる」
「ちょっと怖いのかも」
「キスが?」
「うん。嫌とかじゃなくて、したらすごく変わる気がして」
「そっか」
俺は考える。
「俺は、変わるか分からない」
「うん」
「でもリビアが怖いなら待つ」
「セスは嫌じゃない?」
「何が?」
「待つの」
「全然」
本当にそう思う。
「したいけど、急がなくていい」
リビアが俺を見る。
「ありがとう」
「うん」
「……セス」
「何?」
「もう一回抱きしめていい?」
「いいよ」
今度はリビアから近づいた。
俺も腕を回す。
キスはしない。
でも、さっきより少し強く抱きしめた。
◇
部屋へ戻る時間になる頃には、雨は弱くなっていた。
リビアの部屋まで一緒に歩く。
廊下の窓には雨粒が残り、魔導灯の光を小さく反射している。
「今日はしなかったね」
リビアが言う。
「うん」
「残念?」
「少し」
「私も少し」
「でもよかった?」
「うん」
「じゃあいい」
部屋の前で止まる。
「リビア」
「何?」
「怖くなくなるまで待つから」
彼女が目を見開く。
「でも、俺がしたいのは変わってない」
「……うん」
「そこは隠さない」
「分かった」
リビアが笑う。
「私も、したくなったらちゃんと言う」
「うん」
「だからセスも」
「言う」
「約束ね」
「これは確定?」
「確定です」
「分かった」
二人で笑う。
「おやすみ、リビア」
「おやすみ、セス」
「好きだよ」
「私も好き」
今日はそれだけで別れた。
◇
自室へ戻り、机の上へ鞄を置く。
共同課題の紙が入っている。
取り出したくなる。
でも今日はやめる。
(当日まで待つ)
日程すらまだ決まっていない。
今夜考える必要はない。
ベッドへ横になる。
今日は決まったことと、決まらなかったことがある。
サザリーとの共同課題は、条件が正式に決まった。
日程はまだ決まっていない。
リビアの委員会では、待機教室を実技開始順で振り分ける案が有力になった。
一方通行はまだ決まっていない。
イザークとの次の剣は、共同課題の日程を見てから。
実技確認の形式も、まだ最終決定ではない。
そして。
(キスも、まだ)
したい。
リビアもしたい。
でも彼女は少し怖いと言った。
それを聞けてよかった。
もし聞かずに、したいと言われたことだけで進んでいたら、気づかなかったかもしれない。
好きだから近づきたい。
でも、好きだから待つことも出来る。
どちらか一つではない。
(決めてないこと、多いな)
少し前なら、不安になったかもしれない。
全部決めたくなったかもしれない。
今はそうでもない。
明日決まるものもある。
来週決まるものもある。
もっと先まで分からないものもある。
その中で、今日決められることだけ決めればいい。
俺はリビアが好きだ。
リビアの婚約者でいたい。
いつか結婚したい。
キスもしたい。
でも、彼女が安心して同じ気持ちで近づける時がいい。
そこまで分かっていれば、今夜は十分だった。
(明日は何が決まるかな)
そんなことを考えながら目を閉じる。
決まっていない未来が、以前よりずっと楽しみになっていた。




