第58話 好きな人にもっと触れたい気持ちと、実技確認は別々に考えます
翌朝、目を覚ました俺は、天井を見上げたまましばらく動けなかった。
身体が痛いわけではない。昨日の朝に二十分だけ剣を振った影響もほとんど残っておらず、腕や脚の調子は悪くなさそうだった。
問題は、身体ではなく頭だった。
(俺、リビアとキスしたいんだ)
昨夜、自分の部屋へ戻ってから認めた気持ちが、朝になってもそのまま残っている。
眠れば恥ずかしさが薄れるかと思っていた。
むしろ逆だった。
昨日、廊下でリビアを抱きしめた時の距離を鮮明に思い出せる。腕の中にあった身体の温かさも、近くで見た頬の赤さも、少しだけ視線を落とした時に見えた唇も覚えていた。
「……朝から何考えてるんだ、俺」
声に出してから、両手で顔を覆う。
好きだと自覚してから、こういうことが増えた。
会いたい。
手を繋ぎたい。
抱きしめたい。
もっと近づきたい。
以前なら、どれもリビアが望んでいるから自分が応じるものだと思っていたかもしれない。今は自分の側にも同じ欲求があることを知っている。
だから余計に困る。
(でも、昨日止まったのは嫌だったからじゃない)
そこは間違えない。
したくなかったのではなく、気持ちが動いたからといって、そのまま勢いで進めたくなかった。
リビアがどう思っているのかも知りたい。
俺自身も、きちんと自分で選びたい。
それでいい。
そう整理すると、ようやくベッドから降りられた。
◇
着替えを済ませて部屋を出る。
今日は朝練をしない。
昨日振ったから、というだけではなく、今日は魔術実技の授業が予定されている。高出力を扱う予定はないものの、朝から剣を追加する必要はなかった。
廊下を歩いていると、階段の手前でリビアと会った。
「おはよう、セス」
「おはよう」
いつも通り。
いつも通りのはずだった。
でも、顔を見た瞬間に昨夜のことを思い出した。
抱きしめた。
近かった。
キスしたいと思った。
「……セス?」
「何?」
「顔赤くない?」
「たぶん赤い」
「体調悪い?」
「違う」
「じゃあどうしたの?」
答えに困る。
リビアが心配そうに一歩近づいた。
その一歩で余計に困った。
「リビア」
「うん?」
「近いとちょっと思い出す」
「何を?」
「昨日の夜」
リビアが止まった。
数秒。
彼女の頬もゆっくり赤くなる。
「……抱きしめたこと?」
「うん」
「私も思い出した」
「そっか」
「うん」
今度は二人とも黙る。
昨日までなら、ここでどちらかが手を繋ぐ流れになったかもしれない。
今日はそうならなかった。
ただ、互いに少し赤い顔で並んで歩き始める。
「嫌じゃなかった?」
俺が聞く。
「抱きしめたこと?」
「うん」
「嫌じゃないよ」
「よかった」
「セスは?」
「俺も」
そこまでは言える。
その先は、今ここで急いで話さなくてもいい。
リビアが少し笑った。
「じゃあ朝ご飯行こう」
「うん」
階段を下りる。
昨夜、旦那様から将来の生活について考えてみるよう言われたばかりだ。
朝を一緒に過ごしたい。
昨日リビアが最初に挙げたものだった。
(もう今も一緒に食べてるんだよな)
将来だけの話ではない。
今あるものを、そのまま大切にしたいということなのかもしれなかった。
◇
朝食では、昨日の婚約者としての話を続きをすることはなかった。
旦那様も父さんも、俺たちへ答えを求めない。
期限はないと言われたのだから当然だ。
その代わり、今日の予定を聞かれた。
「魔術実技があります」
「内容は?」
父さんが尋ねる。
「出力制御の続きだと思う。でも今日は通常授業だから、俺だけ別のことをするかは分からない」
「なら教師の指示に従え」
「うん」
「勝手に切替確認を追加するなよ」
「しないよ」
「分かっているならいい」
以前なら念を押されたことに少し不満を持ったかもしれない。
今は特に何も感じない。
心配されているというより、確認だ。
「リビアは?」
旦那様が娘を見る。
「午前は通常授業で、午後に結界実技があります。今日は基礎の維持練習だと聞いています」
「研究用ではないのだな」
「はい。古い結界の再現はしません」
「分かった」
俺とリビアは別々の授業を受ける。
それも普通になっている。
◇
馬車へ乗ると、今日は向かいに座った。
昨日の夜から意識しすぎているから、という理由ではない。
リビアが先に向かいへ座ったので、俺もいつもの席へ座っただけだ。
「セス」
「何?」
「昨日のお父様の話、考えた?」
「少し」
「何か増えた?」
「将来やりたいこと?」
「うん」
「朝ご飯一緒に食べるのは、今もやってるなって」
リビアが笑う。
「そうだね」
「だから、今あるもので残したいものを考えるのもいいのかなって」
「それいいね」
「リビアは?」
「私も一つ増えたよ」
「何?」
「一人の時間もほしい」
少し意外だった。
「俺と一緒じゃない時間?」
「うん」
「そっか」
嫌ではない。
むしろ納得出来る。
「結界の研究とか?」
「それもあるし、一人で本を読みたい時もあると思う。友達と過ごしたい時もあるし」
「うん」
「セスは嫌?」
「全然」
「本当に?」
「俺も剣振りたいし、イザークたちと話したいし、研究もしたい」
「じゃあ同じだね」
「うん」
リビアと一緒にいたい。
でも、一日中ずっと同じ場所にいなければならないわけではない。
別々に過ごして、また会う。
学園でもすでにそうしている。
「将来も、今みたいな感じがいいのかも」
「今みたい?」
「朝会って、別々のことして、また会って」
「夜に本読んだり?」
「うん」
「いいね」
まだ十五歳の俺たちが考えているだけだ。
仕事も住む場所も決まっていない。
それでも、少しずつ形が見えてくるのは面白かった。
◇
学園へ到着すると、午前中は魔術理論から始まった。
今日扱われたのは、術式へ魔力を流し始める時と、終了する時の制御差についてだった。
「魔術は発動出来れば終わりではありません」
教師が黒板へ二本の線を描く。
一方は緩やかに上がって一定になり、最後に緩やかに下がっている。
もう一方は急激に上がり、途中で揺れ、最後に急落していた。
「開始時の制御が優秀でも、終了時に乱れれば安全な術とは言えません。特に持続型術式では、停止時の残留魔力や術式崩壊が周囲へ影響する場合があります」
俺はノートを取る。
以前の出力制御で、一から二へ上げ、二から一へ戻し、さらに予告されていない停止指示へ応じたことを思い出す。
(上げる時と下げる時は、やっぱり同じじゃない可能性がある)
昨日までノートへ残していた疑問と重なる。
ただし、今日の授業は一般論だ。
五属性変換の話ではない。
古い測定器とも直接関係しない。
俺は欄外へ短く書いた。
『一般的な術式出力の開始・終了制御。属性変換と同一と決めない』
その横へもう一つ。
『実技で指定された範囲のみ確認』
書いたところで満足した。
授業中に答えを出す必要はない。
◇
二時間目の魔術実技では、エレナ先生が訓練場の中央に立っていた。
今日は俺だけでなく、同じ授業を取っている生徒全員が小型の標的前へ並んでいる。
「今日は出力そのものより、止め方を見ます」
エレナ先生の声が訓練場へ響く。
「指定された低出力魔術を標的へ維持し、合図で解除してください。重要なのは、合図を聞いてから勝手に最後まで術式を完成させようとしないことです」
俺は少し笑いそうになった。
最近の自分に何度も言われていることと同じだ。
「クルセス」
「はい」
「何か?」
「いえ。何でもありません」
「ならいいです」
見つかった。
今日の俺に指定されたのは低出力の風属性だった。
火では標的への熱影響が残り、水では床面処理が必要になるため、単純な維持と停止を見るには風が適しているらしい。
迅雷撃破はもちろん使わない。
属性切替もない。
複合もない。
研究測定もない。
ただ、風を一定出力で維持して止める。
「開始」
合図に合わせ、魔力を流す。
体内の魔力を風属性へ変換し、簡単な術式へ通す。
標的の前に置かれた細い布が一定方向へなびいた。
強くしない。
指定値を維持する。
「そのまま」
エレナ先生が生徒の間を歩く。
隣では別の生徒の火球が少し揺れ、教師補助員が声をかけていた。
俺は自分の風だけを見る。
「クルセス、少し下げて」
「はい」
出力を落とす。
布の角度が少し戻る。
「維持」
そのまま。
数呼吸。
「停止」
魔力供給を切る。
術式を閉じる。
布が落ちる。
「よし」
エレナ先生が記録板へ何か書いた。
「もう一度。今度は開始直後に止める可能性があります」
「はい」
再び構える。
「開始」
風。
布が動く。
「停止」
すぐに切る。
今度も問題ない。
「クルセス」
「はい」
「今、停止する前に何か判断しましたか?」
少し考える。
「術式を安定させてから止めた方がいいか、一瞬だけ考えました」
「結果は?」
「止める方を優先しました」
「なぜ?」
「停止指示だったので」
「それでいいです」
エレナ先生が頷く。
「安定させてから安全に止める、という判断が正しい術式もあります。しかし今回の術式と訓練条件では、停止指示を優先するよう最初に説明しました」
「はい」
「自分の感覚だけで条件を追加しないように」
「分かりました」
これは覚えておいた方がいい。
安全のために良かれと思って何かを追加することが、必ずしも安全とは限らない。
「先生」
「何ですか?」
「次の実技確認でも、停止指示は入りますか?」
「その可能性は高いですが、最終形式はまだ確定していません」
「分かりました」
それ以上は聞かなかった。
確定していないなら待てばいい。
◇
全員の練習が一巡したあと、エレナ先生から呼ばれた。
「クルセス。少し残ってください」
「はい」
他の生徒たちが次の授業へ向かう。
イザークがこちらを見る。
「先行ってるぞ」
「うん」
訓練場に残ったのは、俺とエレナ先生、それから補助教師一人だけになった。
「実技確認の件です」
「決まったんですか?」
「一部だけです」
エレナ先生が記録板を見せる。
「あなたの魔術評価について、五属性すべてを一度に確認する案は採用しない方向でまとまりました」
「はい」
「理由は分かりますか?」
「時間がかかるのと、普通の評価と条件が違いすぎるから?」
「それもあります」
先生が頷く。
「もう一つは、五属性を持つこと自体を競わせる試験ではないからです」
「なるほど」
「あなたの特殊性を確認する必要はあります。しかし、他の生徒と共通して見るべき基礎制御もあります」
「はい」
「現在の案では、まず指定された一属性で低から中程度までの出力制御、維持、停止を確認します」
以前聞いていた案と同じだ。
「その後?」
「状態に問題がなければ、別の指定属性へ低出力で一度だけ切り替える案が残っています」
「一回だけ?」
「はい」
「どの属性からどの属性かは?」
「当日指定する可能性があります」
「分かりました」
「ただし、まだ確定ではありません」
「はい」
そこを間違えない。
「切替速度は測りますか?」
「測りません」
「遅れを見る装置は?」
「使いません」
「中継板も?」
「使いません」
「研究と分ける?」
「完全に分けます」
はっきりした答えだった。
「実技確認は研究実験ではありません。あなたが安全に属性を扱い、指示に応じ、必要なら止まれるかを見るものです」
「分かりました」
「そして迅雷撃破は禁止」
「はい」
「複合魔法も現状では入れない方向です」
「はい」
俺は頭の中で整理する。
単属性。
低から中。
維持。
停止。
状態に問題なければ、別属性へ低出力で一度切替。
速度測定なし。
研究装置なし。
迅雷撃破なし。
複合なし。
「質問は?」
「練習するなら、授業で指定された内容だけ?」
エレナ先生の眉が少し上がった。
「良い質問ですね」
「勝手にやらない方がいいと思って」
「その通りです。少なくとも形式確定前に、自主練習として属性切替回数を増やす必要はありません」
「分かりました」
「通常の授業で切替を扱う場合は別です」
「はい」
「正式形式が決まれば、必要な範囲は事前に伝えます」
「じゃあ待ちます」
「そうしてください」
話はそれで終わった。
訓練場を出る。
(前だったら、帰って一回くらい試してたかな)
たぶん試していた。
低出力なら安全だ。
一回だけなら。
確認するだけなら。
そんな理由をつけて。
今は必要ないと思える。
正式に決まってからでいい。
◇
昼休み。
いつもの場所へ行くと、今日はリビアの方が先にいた。
「セス」
「待った?」
「少しだけ」
「ごめん。エレナ先生に呼ばれてた」
「実技確認?」
「うん」
席へ座る。
アルフォルド、カイゼル殿下、サザリー、イザーク、ミリアナ、ナナリーも揃っていた。
「何か決まったのか?」
アルフォルドが尋ねる。
「一部だけです」
俺は説明する。
五属性すべてを一度に試さない。
まず単属性の出力制御。
状態次第では別属性へ一度だけ切替。
迅雷撃破なし。
複合なし。
切替速度の測定なし。
「妥当だな」
アルフォルドが言う。
「俺もそう思います」
「つまらなくないのか?」
カイゼル殿下が聞いてきた。
「何がですか?」
「せっかく五属性があるのに、派手なことをしない」
「試験なので」
「以前なら試したがっただろう?」
「興味はありますよ」
それは否定しない。
「でも、それは研究でやることだと思います」
サザリーが頷く。
「評価と研究を分けるのは重要ですね」
「うん」
「切替速度を測らないなら、古い測定器の研究とも直接結びつけない方がいい」
「俺もそう思う」
話しているうちに、リビアがこちらを見ていることに気づいた。
「何?」
「嬉しいだけ」
「何が?」
「セスがちゃんと待てるようになったこと」
「最近みんなそれ言う」
「だって前なら絶対試したでしょう?」
「……たぶん」
否定出来ない。
「でも今は試さない」
「うん」
「褒めて」
言ってから、自分で少し驚いた。
リビアも驚いた。
「え?」
「いや、何となく」
「褒めてほしいの?」
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない!」
リビアが慌てる。
「すごいよ、セス。ちゃんと待てて偉い」
「子供みたい」
「セスが言ったんでしょう?」
「そうだけど」
周囲から笑い声が上がる。
「クルセス、最近本当に遠慮なくなったな」
イザークが笑う。
「悪い?」
「いや。そっちの方がいい」
「ならいい」
リビアもまだ笑っている。
俺は少し恥ずかしかったが、嫌ではなかった。
(褒めてほしいって言ってもいいんだな)
以前なら思っても言わなかった。
自分が何かを求めること自体を、必要以上に避けていたのかもしれない。
◇
昼食の途中、昨日話しかけてきたディーンが少し離れた場所を通った。
目が合う。
彼は軽く会釈した。
俺も返す。
今日はそれだけだった。
噂を訂正して回る必要はない。
昨日話したことで、ディーンがどう受け取るかは彼の自由だ。
「昨日の人ですね」
ナナリーが小さな声で言う。
「うん」
「今日は来ませんね」
「聞きたいこと終わったんじゃない?」
「そうかもしれません」
そこで話題も終わる。
誰かに見られること。
婚約者として噂されること。
それを毎回大きな問題にする必要はないのだと思えた。
◇
午後は俺とリビアで別々の授業だった。
俺は一般法務。
リビアは結界実技。
授業が終わったあと、教室から出ると廊下の向こうから彼女が歩いてきた。
俺を見つける。
笑う。
俺も笑う。
(会いたかった)
朝から何度も会っている。
昼も一緒だった。
数時間別々に授業を受けただけだ。
それでも、姿を見ると嬉しい。
「セス」
「リビア」
互いに近づく。
「授業どうだった?」
「普通。リビアは?」
「結界維持。今日は研究じゃなくて基礎だけ」
「上手くいった?」
「うん。薄くする練習じゃなかったから安定してたよ」
「そっか」
彼女の顔を見ながら、また昨夜を思い出しそうになる。
でも朝ほど慌てなかった。
「帰ろう」
「うん」
並んで歩く。
校舎を出るまで、手は繋がなかった。
それでも十分だった。
◇
馬車へ乗り込んだあと、リビアは俺の隣へ座った。
最近はこちらへ座ることが増えている。
俺も嫌ではない。
「セス、今日の実技確認の話、もう少し聞いていい?」
「もちろん」
「属性切替は一回だけになるかもしれないの?」
「うん。でもまだ確定じゃない」
「どの属性かも?」
「当日指定の可能性があるって」
「不安?」
「少し楽しみ」
「セスらしい」
「でも勝手に練習はしないよ」
「分かってる」
リビアが笑う。
「もうそこは信じてるから」
その言葉が嬉しい。
以前は、俺が何か新しい情報を得るたびにリビアが「一人で試さないで」と確認していた。
今は違う。
俺が止まると知っている。
「ありがとう」
「うん」
馬車が曲がる。
肩が触れた。
そのまま離れない。
少しして、俺は昨日から考えていたことを思い出した。
キス。
言うべきか。
今?
馬車の中で?
(違う気がする)
隠したいわけではない。
でも、思ったことを全部その瞬間に言えばいいわけでもない。
言いたい時に言う。
それでいい。
「セス」
「何?」
「また考えてる」
「分かる?」
「顔で」
「最近よく言われる」
「何考えてたの?」
聞かれた。
今度は迷う。
嘘をつく必要はない。
「リビアに言いたいことあるなって」
「何?」
「今じゃなくてもいい?」
リビアが少し驚いたあと、頷いた。
「いいよ」
「ありがとう」
「嫌な話?」
「違う」
「じゃあ待つ」
それ以上聞かない。
俺もそれ以上言わなかった。
◇
屋敷へ戻ったあと、今日はそれぞれ別の時間を過ごした。
俺は自室で授業のノートを整理する。
魔術理論。
開始と終了。
停止指示。
実技確認の暫定案。
研究とは分ける。
必要なことだけ書く。
古い測定器の資料には手をつけなかった。
ベルナルト先生との次の研究日はまだ決まっていない。
今夜調べ始める理由もない。
一時間ほどで机を離れた。
(今日はここまで)
もっと出来る。
でも、する必要はない。
◇
夕食後、リビアとはいつもの談話室で会った。
今日は本を持ってきていない。
何もしない時間にするかは決めていなかった。
「何する?」
リビアが聞く。
「話す?」
「うん」
ソファへ並んで座る。
少し距離がある。
俺はその距離を見た。
昨日抱きしめたことを思い出す。
朝ほど顔は熱くならなかった。
「リビア」
「何?」
「馬車で言ってた話、していい?」
彼女の姿勢が少し変わった。
「うん」
緊張している。
俺も緊張している。
「昨日、抱きしめた時」
「うん」
「俺、もっと近づきたいって思った」
リビアの頬が赤くなる。
「……うん」
「嫌だったとかじゃなくて」
「うん」
「その……」
言葉が詰まる。
剣の話ならこんなに困らない。
魔術でも。
研究でも。
でも、これは正解を知ってから話すものではない。
自分の気持ちを伝えるしかない。
「キスしたいって思った」
言えた。
リビアが完全に止まった。
顔が一気に赤くなる。
俺も熱い。
「……セス」
「うん」
「昨日?」
「うん」
「抱きしめてた時?」
「うん」
「だから途中で止まったの?」
「止まったっていうか……」
少し考える。
「したいと思ったけど、そのまましていいのか分からなかった」
「うん」
「リビアがどう思ってるかも分からなかったし」
彼女は黙っている。
俺は続ける。
「だから昨日は、あそこで終わりにした」
「……うん」
「今日になっても、したいって気持ちはある」
リビアの指が膝の上で動く。
「でも、今すぐしたいからしていい? っていう話じゃなくて」
「違うの?」
「うん」
俺は彼女を見る。
「リビアはどう思ってるのか、聞きたかった」
沈黙。
窓の外から風の音が聞こえる。
遠くで使用人が歩く気配もする。
俺は待った。
リビアが答えるまで。
「私も」
小さな声だった。
「うん」
「私も……したい」
胸が強く鳴った。
でも動かなかった。
「本当?」
「うん」
「俺が言ったからじゃなくて?」
以前、俺が何度も確認されたことを、今度は自分が聞いている。
リビアもそれに気づいたらしく、少しだけ笑った。
「私がしたい」
「そっか」
「うん」
嬉しい。
すごく。
でも、そこで俺たちはすぐ近づかなかった。
むしろ二人とも恥ずかしくなって、少し視線を逸らした。
「……どうする?」
俺が聞く。
「それ、私に聞くの?」
「二人で決めるんじゃないの?」
リビアが吹き出した。
「昨日のお父様の話、そこに使う?」
「違った?」
「違わないけど」
笑ったことで少し緊張がほどけた。
「今日する?」
リビアが聞く。
俺は考える。
したい。
でも、何となく。
「今日は話せただけで結構嬉しい」
「私も」
「じゃあ、今日はしない?」
「うん」
答えはすぐ決まった。
したいと分かった。
互いに。
それだけで今日は十分だった。
「変かな」
「何が?」
「したいって二人とも言ってるのに、しないの」
「別にいいんじゃない?」
「そう?」
「うん。俺たちが決めることだし」
リビアが嬉しそうに笑う。
「じゃあ、そうしよう」
「うん」
俺は少しだけ彼女へ近づいた。
「これは?」
「何?」
「隣、近くしてもいい?」
「うん」
肩が触れる距離まで寄る。
リビアも少し寄ってくる。
それだけ。
でも心臓はまだ速かった。
◇
「セス」
「何?」
「キスしたいって、いつから思ってたの?」
「昨日初めてちゃんと分かった」
「その前は?」
「考えたことなかったかも」
「本当に?」
「たぶん」
「私のこと綺麗って思ってたのに?」
「それとキスは別じゃない?」
「そうなの?」
「俺には別だった」
リビアが少し考える。
「私は、もっと前からしたいって思ったことあるよ」
「いつ?」
「言わない」
「何で?」
「恥ずかしいから」
「俺は言ったのに」
「セスは昨日でしょう?」
「うん」
「私はもっと前」
「いつ?」
「秘密」
「気になる」
「駄目」
楽しそうに笑っている。
「じゃあ、いつか教えて」
「いつかね」
「約束?」
「候補」
「何それ」
「セスがよく言うでしょう? まだ確定じゃないって」
「そういう使い方する?」
「します」
俺は笑った。
恋愛の話なのに、いつもの俺たちの会話になっている。
それが少し安心した。
◇
その後は、今日の授業の話をした。
俺は実技確認の暫定案。
リビアは結界実技。
彼女の授業では、一定面積の結界を一定時間維持し、外から軽い衝撃を与えられても形を崩さない基礎練習をしたらしい。
「薄くしなかったの?」
「今日は指定厚さ」
「じゃあ端の収縮は?」
「ほとんど出なかった」
「やっぱり薄くした時の問題なのかな」
「可能性はあるけど、まだ決めない」
「うん」
互いに笑う。
似たところで止まれるようになってきた。
「古い結界の資料は?」
「今日は見てない」
「俺も古い測定器見てない」
「珍しい」
「先生から連絡待ちだから」
「偉い」
「また褒めてくれた」
「欲しかった?」
「今のは普通に嬉しい」
「じゃあよかった」
研究も。
恋愛も。
全部をその日のうちに進めなくていい。
◇
部屋へ戻る時間になった。
廊下を歩き、リビアの部屋の前へ着く。
昨日と同じ場所だ。
意識してしまう。
リビアもたぶん同じだった。
「セス」
「うん」
「今日、しないって決めたでしょう?」
「キス?」
「うん」
「決めたね」
「……ちょっと惜しいって思ってる?」
「思ってる」
正直に答えた。
リビアが赤くなる。
「リビアは?」
「思ってる」
「そっか」
二人で笑う。
でも近づかない。
今日はそう決めた。
「じゃあ、おやすみ」
「うん」
「リビア」
「何?」
「好き」
「私も好き」
彼女が扉へ手をかける。
「あと」
「まだあるの?」
「キスしたいのも本当だから」
「……もう!」
リビアが真っ赤になった。
「言わなくてよかった?」
「言ってほしいけど、今言わなくてもよかった!」
「難しいな」
「セスが難しくしてるの!」
怒っているように見えるのに、笑っている。
「おやすみ!」
「おやすみ」
扉が閉まった。
俺はその場で少し笑った。
◇
自室へ戻ってベッドへ入る。
今日はキスをしなかった。
でも、昨日より少しだけ近づいた気がする。
俺がしたい。
リビアもしたい。
互いに知った。
いつするかは決めていない。
(それでいい)
魔術実技も同じように考えるつもりはない。
恋愛と魔術は別だ。
ただ、全部を今すぐ決めなくてもいいということだけは、どちらにも言えるのかもしれない。
実技確認は形式が決まるまで待つ。
研究はベルナルト先生からの連絡を待つ。
サザリーとの課題はハロルド先生の条件を待つ。
キスは――。
(これは先生から連絡来ないけど)
少し笑う。
俺とリビアで決めればいい。
明日かもしれない。
もっと先かもしれない。
どちらでもいい。
したいという自分の気持ちを、もう無理に消そうとは思わない。
それと同時に、したいから急がなければならないとも思わない。
今日の実技で、開始と停止は別の判断だと学んだ。
でも恋愛を魔術の理屈で考えるのは、さすがに違う。
(サザリーに言ったら止められそうだな)
そんなことを考えながら目を閉じる。
明日も学園がある。
授業がある。
友達がいる。
リビアもいる。
そして俺たちには、まだ決めていないことがたくさんある。
以前なら、それは不安だった。
今は少し楽しみだった。




