第57話 婚約者になる勉強は、一人でするものではないらしいです
翌朝、目を覚ました俺は、いつものように身体の状態を確認してから窓のカーテンを開けた。
昨日は剣を振っていないので腕にも脚にも疲れは残っておらず、睡眠も十分に取れている。朝の光が差し込む部屋で軽く肩を回してみても違和感はなく、今日は普通に授業を受けるだけなら何も問題はなさそうだった。
(朝に剣を振るか?)
少し考える。
身体は動かしたい。
昨日は休んだ。
放課後にも今のところ予定はない。
それなら今日は短時間なら振ってもいい。
俺は着替えを済ませてから庭へ向かい、使用人へ一言伝えたうえで練習用の剣を手に取った。
時間は二十分。
特別な技は使わない。
昨日の授業で考えたことや、イザークと確認した踏み込みを試すための時間でもない。ただ身体を動かしたいから、基礎の型をゆっくりと繰り返す。
朝の空気を吸い込みながら剣を振る。
振り下ろし。
切り返し。
足運び。
同じ動作を丁寧につなげ、無理に速度を上げない。
庭の端では、朝の仕事を始めた使用人たちが行き交っている。俺がここで剣を振る姿もすっかり見慣れたものらしく、特に足を止める者はいなかった。
十五分ほど経ったところで、背後から足音が聞こえた。
「おはよう、セス」
剣を止めて振り返る。
リビアだった。
「おはよう」
「今日は朝練?」
「うん。昨日休んだから、今日は二十分だけ」
「あとどれくらい?」
「五分くらい」
「じゃあ見ててもいい?」
「もちろん」
リビアは少し離れたベンチへ腰掛けた。
俺は剣を構え直す。
見られている。
以前なら少し緊張したかもしれない。
今は嬉しい。
(格好いいところ見せたい、とか思ってるのかな)
その考えが浮かんだ瞬間、少しだけ笑いそうになった。
でも、あり得る。
好きな子が見ている。
だったら少しくらい、上手く見られたいと思ってもおかしくない。
だからといって、予定以上に速く振る必要はない。
決めた型を最後まで丁寧に終える。
時間になったところで剣を下ろした。
「終わり?」
「うん」
「もう少しやりたくない?」
「やりたいけど、今日はこれでいい」
「そっか」
リビアが立ち上がる。
俺は布で剣を拭きながら彼女を見る。
「どうだった?」
「何が?」
「見てて」
「格好よかったよ」
手が止まった。
「……本当に?」
「うん」
「そっか」
顔が少し熱い。
自分から聞いたくせに、実際に言われると困る。
リビアが楽しそうに笑った。
「セス、自分で聞いたのに」
「分かってる」
「もう一回言おうか?」
「今はいい」
「残念」
剣を片付けるために歩き出すと、リビアも隣へ並んだ。
「でも、嬉しかった」
「格好いいって言われたの?」
「うん」
「じゃあまた言う」
「毎回は恥ずかしい」
「セスだって私に綺麗とか可愛いとか言うでしょう?」
「それは思った時に」
「私も思った時に言う」
反論出来ない。
「じゃあ、お願いします」
「はい」
朝から負けた気がした。
◇
朝食の席へ着くと、旦那様と父さんはすでにいた。
「おはようございます」
「おはよう、セス」
「おはようございます、お父様」
「ああ、おはよう、リビア」
いつも通り席へ着く。
料理が運ばれ始め、俺はパンへ手を伸ばした。
その直後。
「セス」
旦那様に呼ばれた。
「はい」
「グレイヴから聞いたのだが、昨日、婚約者として必要な勉強について尋ねたそうだな」
パンを取ろうとしていた手が止まる。
もう伝わっていた。
「はい」
「なぜ急に?」
責めるような声ではない。
俺は手を戻して考える。
「昨日、学園で少し考えることがあって」
「何があった?」
「俺とリビアが一緒にいる時のことを、アルフォルド殿下に言われました」
「アルフォルド殿下に?」
リビアが補足する。
「以前よりセスが自然に私の隣にいるようになった、って」
「なるほど」
旦那様が俺を見る。
「それで婚約者教育か?」
「はい。俺、前は公爵令嬢の婚約者なんて自分には無理だと思ってたので」
その言葉を口にしても、今は胸が痛まない。
「でも今は、分からないことがあるなら覚えればいいと思えるようになりました」
旦那様の視線が少し変わった。
「だから、何を覚えればいいのか知りたくて」
俺はそこで一度言葉を切った。
「全部一気に始めたいわけじゃないです。学園もありますし」
「ほう」
「ただ、知らないままにしておく必要もないかなって」
旦那様が父さんを見る。
父さんは静かに頷いた。
「昨日も同様の話をしました」
「そうか」
旦那様はしばらく考えてから、俺へ向き直った。
「なら、今夜少し時間を取ろう」
「今日ですか?」
「ああ。ただし勉強を始めるわけではない」
「じゃあ何を?」
「まず、お前が今どこまで知っていて、何が必要なのかを整理する」
なるほど。
「分かりました」
「リビアも同席しなさい」
「私も?」
リビアが少し驚く。
「当然だろう」
旦那様が答える。
「セスだけが婚約者として学べば終わる話ではない」
俺は旦那様を見る。
「俺だけじゃない?」
「ああ」
「でもリビアは公爵令嬢としてずっと教育受けてますよね?」
「受けている。だからといって、婚姻後に必要となることをすべて知っているわけではない」
「そうなの?」
リビアを見る。
「そうだよ」
彼女は少し困ったように笑った。
「私だって知らないこと、いっぱいあるから」
「例えば?」
「それは夜にしましょう」
旦那様に止められた。
「今始めたら朝食が終わらん」
「すみません」
「興味を持つのは悪くない」
旦那様がパンを切る。
「だが、今は食べなさい」
「はい」
俺もようやくパンを取った。
その横でリビアが小さく笑っている。
「何?」
「セス、すぐ聞きたくなるね」
「気になるから」
「夜まで待てる?」
「待てるよ」
「本当に?」
「最近は待てる」
「確かに」
父さんが小さく頷いた。
「そこは成長したな」
「そこ?」
「以前なら朝食後に関連資料を探していた」
「……やってたかも」
旦那様まで笑った。
◇
学園へ向かう馬車の中で、俺は向かいに座るリビアへ聞いた。
「夜の話、緊張する?」
「少し」
「リビアも?」
「するよ」
「何で?」
リビアは窓の外へ一度視線を向けた。
朝の街を人々が行き交っている。
「だって、将来の話でしょう?」
「うん」
「今までも婚約してるから、いつか結婚するっていう話はしてきたけど」
「うん」
「今日はもっと具体的な話になるかもしれないから」
そう言われて、俺も少し緊張してきた。
婚約。
結婚。
以前はその言葉を聞くだけで「無理だ」と思っていた。
最近は未来にリビアがいることを想像出来るようになった。
でも、具体的に何をするのかまでは知らない。
「俺も緊張してきた」
「今?」
「リビアが言うから」
「ごめん」
「謝ることじゃないよ」
馬車が揺れる。
「でも、聞きたい」
「私も」
「じゃあ一緒だね」
「うん」
リビアが笑う。
その表情を見ていると、緊張だけではなく少し楽しみになった。
◇
午前中は剣術の授業だった。
アルフォルドとの試合後に初めて受ける通常の剣術授業だったが、右腕にも脚にも問題はなく、教師へ状態を伝えたうえで通常参加の許可をもらった。
今日の課題は派手な打ち合いではなく、二人一組で一定の間合いを保ちながら相手の移動へ追従する基礎練習だった。
「クルセス、組もうぜ」
「うん」
イザークと向かい合う。
先日確認した踏み込みの癖が頭をよぎる。
でも今日は授業だ。
勝手に別の練習へ変えない。
教師から指定された通り、一定の距離を維持しながら左右へ動く。
「お前、今日二歩目抑えてない?」
途中でイザークが小声で言った。
「少しだけ意識してる」
「この練習なら分かりやすいな」
「でも今は距離維持が課題だから、そこだけ見る」
「了解」
会話を切って続ける。
前へ。
横へ。
後ろへ。
相手の肩、腰、足を見る。
イザークが急に速度を変えても、追いすぎない。
一定の距離。
教師の合図で止まる。
「そこまで」
二人とも剣を下ろした。
教師が近づいてくる。
「クルセス」
「はい」
「以前より停止が早くなったな」
「そうですか?」
「ああ。相手がまだ動いていても、こちらの指示を聞いて止められている」
少し嬉しい。
「ありがとうございます」
「ただし、二歩目の踏み込みで前へ出る癖がある」
「あ、それは最近気づきました」
「なら次回以降も意識しておけ。直すべき癖か、使い分けられる特徴かはまだ決めなくていい」
「はい」
直すべきものだと思っていた。
でも、使い分けられる可能性もある。
(じゃあ、次は直すんじゃなくて確認だな)
そう考えてから、今は授業中だと思い直す。
確認は次の機会でいい。
◇
昼休み。
今日はリビアが少し遅れて来た。
委員会はないと言っていたので、何かあったのかと思ったが、数分後には姿が見えた。
「ごめんなさい、遅くなった」
「何かあった?」
「先生に呼び止められてたの」
「委員会?」
「うん。正式な集まりじゃないけど、雨天時の待機教室について一つだけ確認」
リビアが俺の隣へ座る。
「何か決まった?」
「振り分け方法の候補が二つになった」
俺だけでなく、サザリーも興味を向ける。
「どんな方法ですか?」
ナナリーが聞いた。
「クラス単位で分ける方法と、実技の開始順で分ける方法」
「どっちになるんですか?」
「まだ決まってないよ」
リビアが首を振る。
「クラス単位だと分かりやすいけど、待機人数が偏る可能性があるの。開始順なら人数は調整しやすいけど、普段と違う移動になるから案内が増える」
「なるほど」
俺も頭の中で考える。
「一方通行にする方向とも関係する?」
「すると思う。でも、そっちの方向がまだ決まってないから」
「じゃあ今決められないね」
「うん」
そこで終わる。
以前なら俺も案を出そうとしたかもしれない。
でもこれは委員会の仕事で、必要ならリビアが考える。
「セス、何も言わないの?」
カイゼル殿下が面白そうに聞いてきた。
「何をですか?」
「案を三つくらい出すかと思った」
「俺、委員じゃないので」
「以前ならそれでも考えただろう」
「考えるだけならしますけど」
少し笑う。
「リビアが困ってからでいいかなって」
リビアが俺を見る。
「困ったら相談していい?」
「もちろん」
「じゃあ今は大丈夫」
「分かった」
それだけで済んだ。
「本当に変わったな」
カイゼル殿下が言う。
「最近そればっかり言われます」
「実際そうだからな」
「俺は普通にしてるだけなんですけど」
「その普通が変わったんだろう」
昨日アルフォルドにも似たことを言われた。
俺は少し考えてから頷く。
「それなら、そうなのかもしれません」
否定しなかった。
◇
昼食を終えて席を立とうとした時だった。
「クルセス」
聞き慣れない声に呼ばれた。
振り返る。
少し離れたところに、一人の男子生徒が立っていた。
同学年なのは分かる。
授業でも何度か見たことがある。
濃い栗色の髪を短く整え、制服をきちんと着こなしている。顔は知っているが、まともに話したことはなかった。
「俺?」
「ああ。少しいいか?」
「うん」
男が近づいてくる。
「俺はディーン・ロズベル。法務基礎で同じ講義を取っている」
「ああ」
名前を聞いて思い出した。
ロズベル子爵家。
以前、授業で教師に指名されていた。
「何か用?」
「少し聞きたいことがある」
ディーンの視線が一瞬リビアへ向く。
それから俺へ戻った。
「お前とオリビア様は、本当に婚約しているんだよな?」
周囲の空気が少し変わった。
イザークの表情から笑みが消える。
ミリアナもディーンを見る。
アルフォルドとカイゼル殿下は口を挟まない。
俺は少しだけ警戒した。
でも、ディーンから敵意は感じない。
「してるよ」
「正式に?」
「うん」
「パウリー公爵閣下も認めている?」
「認めてる」
「そうか」
ディーンが何か考える。
「何で?」
俺から聞く。
「いや……」
言いにくそうだ。
「変だと思ってる?」
先に聞くと、ディーンが眉を寄せた。
「正直に言っていいか?」
「うん」
「最初は思った」
リビアの隣で誰かが息を呑んだ。
でも俺は続きを待つ。
「公爵令嬢と、平民出身の執事だろう?」
「うん」
「しかもお前、入学した頃は婚約について聞かれても、あまり自分から話さなかった」
そうだったかもしれない。
「だから、何か特殊な事情があるのかと思ってた」
「特殊な事情?」
「政治的なものとか、公爵家側の都合とか」
俺は少し驚いた。
「違うよ」
「そうなのか?」
「うん」
以前なら、ここで困ったかもしれない。
リビアが望んだから。
旦那様が認めたから。
俺は断れなかったわけではないけれど、自分が本当に婚約者になりたいのか分からなかった。
でも今は違う。
「最初に婚約したいって言ったのはリビアだけど」
「セス!」
リビアが赤くなる。
「違わないよね?」
「違わないけど……」
「今は俺も婚約者でいたいと思ってる」
ディーンが黙る。
周りも静かだ。
「俺、前は身分違うし無理だと思ってた。でも今は、無理だからやめたいとは思ってない」
「……そうなのか」
「うん」
「では、政略ではない?」
「少なくとも俺はそう思ってない」
リビアを見る。
「リビアは?」
「違います」
彼女はまっすぐディーンを見た。
「私はセスと結婚したいから婚約しています」
はっきりした声だった。
俺の胸が少し熱くなる。
知っている。
何度も聞いている。
それでも人前で言われると違う。
ディーンが目を瞬いた。
「そこまで明確なのか……」
「明確です」
「なるほど」
ディーンはしばらく俺とリビアを交互に見た。
「すまなかった」
「何が?」
「妙なことを聞いた」
「別にいいよ」
本当に嫌ではなかった。
「ただ、何で急に聞こうと思ったの?」
「最近、お前たちを見ていると、噂で聞いていた印象と違ったからだ」
「噂?」
「クルセスは公爵令嬢に無理やり婚約者にされた平民執事で、困っているらしい、と」
「……」
俺は額へ手を当てた。
「それ、完全に間違いとも言えないのが嫌だな」
「セス」
リビアが少し不満そうに呼ぶ。
「昔はね」
「昔でも言い方があるでしょう?」
「ごめん」
ディーンが困惑している。
「では、以前は本当に嫌だったのか?」
「嫌っていうより、無理だと思ってた」
「違いが分からない」
「俺も昔は分かってなかった」
正直に言う。
「今は分かるけど」
「何が?」
「俺がリビアを好きだってこと」
リビアが固まった。
イザークが口元を押さえる。
ミリアナが目を閉じた。
ナナリーは真っ赤になっている。
カイゼル殿下は明らかに笑いを堪えていた。
「……クルセス」
ディーンまで困った顔をした。
「何?」
「そこまで答えるとは思わなかった」
「聞かれたから」
「セス……」
リビアが両手で顔を覆った。
「嫌だった?」
「嫌じゃないけど!」
「ならよかった」
「そういうところだよ!」
イザークがついに笑い出した。
周囲の緊張が一気に崩れる。
ディーンも少しだけ笑った。
「分かった。噂は当てにならないな」
「全部嘘じゃないんだけどね」
「セス!」
「もう言わない」
リビアに怒られた。
でも、少し嬉しそうでもあった。
◇
ディーンが去ったあと、俺たちも午後の教室へ向かった。
廊下を歩きながら、リビアが俺の袖を軽く引く。
「セス」
「何?」
「ああいうこと、人前で普通に言うようになったね」
「好きって?」
「うん」
「言わない方がよかった?」
「違う」
リビアは少し俯く。
「嬉しかった」
「じゃあよかった」
「でも恥ずかしい」
「それは俺も」
「セスは全然恥ずかしそうじゃなかったよ?」
「言ってる時はね」
「今は?」
「ちょっと恥ずかしい」
「遅いよ」
二人で笑う。
前方を歩いていた女子生徒がこちらを振り返り、すぐ友人と何か話し始めた。
たぶん、また見られている。
でも今日は昨日ほど気にならない。
(噂、あるんだな)
俺がリビアに無理やり婚約者にされた。
完全な作り話ではない。
少なくとも最初の俺は、婚約なんて無理だと何度も言っていた。
でも、それは今の俺ではない。
(全部訂正して回る必要はないか)
聞かれたら答えればいい。
それで十分だ。
◇
放課後、今日は予定通りリビアと一緒に帰った。
馬車へ乗り込むと、彼女は昨日と同じように俺の隣へ座る。
「今日もこっち?」
「うん」
「俺もこっちがいい」
「じゃあ決まり」
馬車が動き始める。
俺は昼のことを思い返した。
「リビア」
「何?」
「噂、知ってた?」
「セスが無理やり婚約者にされたっていうの?」
「うん」
「似たようなのは聞いたことあるよ」
「気にならなかった?」
「気にはなった」
「怒った?」
「少し」
リビアが苦笑する。
「でも、最初のセスがあれだけ『無理です』って言ってたから」
「ごめん」
「謝らなくていいって」
「うん」
「それに、噂を一つずつ訂正しても仕方ないでしょう?」
「俺もさっき同じこと考えた」
「本当?」
「聞かれたら答えればいいかなって」
「うん。それでいいと思う」
しばらく馬車の揺れに身を任せる。
「でも」
リビアが続ける。
「今日、嬉しかった」
「何が?」
「セスが、自分から『婚約者でいたい』って言ってくれたこと」
「昨日も言ったよ?」
「私にはね」
「ああ」
「他の人にも言えるようになったんだなって」
そう言われて、俺は少し考える。
「隠すことじゃないから」
「うん」
「俺がそう思ってるの、本当だし」
「うん」
「ただ……」
「何?」
「みんなに好きって言う必要はなかったかも」
リビアが吹き出した。
「今さら?」
「今さら」
「ディーン様、すごく困ってたよ」
「質問されたから答えたんだけど」
「『政略じゃない』だけで十分だったでしょう?」
「確かに」
「もう」
リビアが笑いながら俺の肩へ寄る。
「でも、嬉しかったから許す」
「ありがとう」
「次からは?」
「聞かれたら考える」
「そこは言わないって約束じゃないんだ」
「隠したくないし」
リビアが少し黙った。
「……そっか」
肩へかかる重みが少し増える。
俺はそのままにした。
◇
夕食を終えたあと、予定通り旦那様の書斎へ呼ばれた。
俺とリビアが入ると、旦那様と父さんはすでに席についていた。
机の上に大量の本が積まれている――ということはない。
置かれているのは紙が数枚だけだった。
「座りなさい」
「はい」
リビアと並んで座る。
少し緊張する。
旦那様が俺を見る。
「最初に言っておくが、今日は試験ではない」
「はい」
「出来ないことを探して責める場でもない」
「分かりました」
「そして、今日決めた内容を明日からすべて始めるわけでもない」
「はい」
三回返事をしたところで、旦那様が少し笑った。
「緊張しているな」
「ちょっと」
「私も」
隣でリビアが言う。
「お前までか」
「だってお父様、こういう話をちゃんとするの初めてでしょう?」
「そうだな」
旦那様が一枚目の紙を見る。
「まず、婚姻後の立場についてだ」
俺は背筋を伸ばす。
「セス。お前は今、シルフィール伯爵家の養子であり、パウリー公爵家の執事見習いであり、リビアの婚約者でもある」
「はい」
「この三つは、現時点では同時に成立している」
「はい」
「だが、将来もすべてが今と同じ形で続くとは限らない」
そこは考えたことがなかった。
「執事を辞めるってことですか?」
「そう決まっているわけではない」
旦那様がすぐ否定する。
「逆に続けるとも決まっていない」
「じゃあ未定?」
「ああ」
「結婚したら自動的に何か決まるわけじゃないんですか?」
「ない」
父さんが答えた。
「少なくとも、お前の場合は特殊だ」
「特殊?」
「通常、公爵令嬢の婚姻相手がその家の執事見習いを兼ねていること自体がほとんどない」
「……そうですよね」
そこはさすがに分かる。
「だから、既存の例へ無理に当てはめる必要はない」
旦那様が続ける。
「お前が何をしたいのか。リビアがどうしたいのか。パウリー家として何が必要か。シルフィール家の立場をどうするか。それらを将来的に調整する」
「今決めなくていい?」
「十五歳のお前たちに、婚姻後数十年の役割を今夜決めろとは言わん」
少し安心した。
「よかった」
「決めるつもりだったの?」
リビアが聞く。
「分からない。そういう話なのかと思ってた」
「だから緊張してたんだ」
「うん」
旦那様が苦笑する。
「まず必要なのは、選択肢を知ることだ」
「選択肢」
「ああ」
旦那様が紙へ視線を落とす。
「次に、社交」
「これは俺、足りないと思います」
「そうだな」
即答された。
「やっぱり」
「基礎礼法は問題ない。グレイヴが教えているからな。ただ、公爵家の婚約者として出席する場では、単に失礼がないだけでは足りない場合がある」
「例えば?」
「誰とどこまで話すか。誰からの誘いをその場で受けてよいか。どの話題を持ち帰るべきか。家同士の関係を知らずに安易な約束をしないこと」
「……難しそう」
「だから学ぶ」
父さんが言う。
「最初から出来る必要はない」
「うん」
昨日と同じ言葉だ。
「次に家政・領地運営」
旦那様が続ける。
「これはお前、かなり得意だろう」
「好きです」
「知っている」
「今日も授業で領地の修繕優先順位やりました」
「なら基礎は学園で学べる。公爵家固有のことは、必要になってからでいい」
「分かりました」
「次に魔術・護衛」
「俺が護衛するんですか?」
「その発想から一度離れろ」
父さんに言われた。
「え?」
「婚約者だからといって、オリビア様を常時お前一人で守る役割になるわけではない」
「ああ……」
昔の俺なら、かなり勘違いしたかもしれない。
「公爵家には護衛がいる」
父さんが続ける。
「お前が戦えることと、お前がすべて守るべきことは別だ」
「うん」
「むしろ将来的には、護衛を使う側として判断する知識も必要になる」
「使う側……」
そちらはほとんど考えたことがない。
「誰をどこへ配置するか。危険時に自分で飛び出すのではなく、誰へ何を任せるか」
「俺、それ苦手そう」
「昔ならな」
父さんが言う。
「今は?」
「以前よりは学べるだろう」
少し嬉しかった。
「じゃあ覚えたい」
「そのうちな」
「はい」
旦那様が次の紙へ移る。
「そして、これが一番重要だ」
俺もリビアも紙を見る。
何か難しい制度が書かれているのかと思った。
でも、そこには一つしかなかった。
『二人で決めること』
「……これ?」
「ああ」
旦那様が俺たちを見る。
「婚約者教育というと、セスだけが公爵家に合わせるための教育だと思ったか?」
「少し」
「私は違うと考えている」
旦那様の声は静かだった。
「リビア」
「はい」
「お前も、セスが自分へ合わせるのが当然だと思ってはいけない」
リビアが真剣な顔で頷く。
「はい」
「セスが何をしたいのか。どんな仕事を続けたいのか。どこで暮らしたいのか。何を大切にしたいのか。それをお前も知らなければならない」
「はい」
「セス」
「はい」
「お前も同じだ。リビアが公爵令嬢だからという理由だけで、本人が望むものを勝手に決めるな」
胸へ刺さる。
以前の俺ならやりかねなかった。
「はい」
「結婚とは、一方がもう一方の完成した人生へ入れてもらうことではない」
書斎が静かになる。
窓の外では夜風が木の枝を揺らしている。
「二人で、その後の生活を作るものだ」
俺は隣を見る。
リビアも俺を見ていた。
(俺だけがリビアに相応しくなる勉強じゃないんだ)
もちろん、俺には学ぶことが多い。
身分。
社交。
公爵家。
知らないものはたくさんある。
でも、それだけではない。
「旦那様」
「何だ?」
「俺がリビアの隣に立てるようになるためだけの勉強じゃないんですね」
「そうだ」
「リビアも俺のこと知って、俺もリビアのこと知って、それから決める?」
「それが理想だ」
旦那様は少し笑った。
「現実には家の事情もある。好きだけで決められないことも出てくるだろう」
「はい」
「だが、だからといって本人たちの意思を無視してよい理由にはならない」
リビアが小さく息を吐く。
「お父様」
「何だ?」
「ありがとうございます」
「礼を言われることか?」
「言いたかったから」
「そうか」
旦那様は少しだけ照れたように視線を紙へ落とした。
◇
その後は、今後必要になりそうな内容を大まかに分類した。
社交。
公爵家とシルフィール家の関係。
領地や財産に関する基礎。
将来の仕事。
護衛や安全管理。
公的な場での役割。
婚姻後の居住。
そして、二人自身が望む生活。
ただし、今日は何一つ結論を出さない。
分からない項目には「未定」と書く。
「住む場所も未定?」
俺が聞く。
「未定だ」
旦那様が答える。
「当然パウリー家の本邸を使う選択肢はある。別邸もある。将来のお前たちの役割次第では別の場所もあり得る」
「そんなに選べるんですね」
「すべて自由という意味ではないぞ」
「はい」
「だが、今から一つへ固定する必要もない」
紙に『居住地――未定』と書かれる。
「仕事も?」
「未定」
「俺、執事続けたいって言ったら?」
父さんが俺を見る。
「なぜ続けたい?」
「好きだから」
「なら、その理由は覚えておけ」
「駄目ですか?」
「駄目とは言っていない」
「でも婚約者が執事って変ですよね?」
「珍しい」
「やっぱり」
「珍しいことと不可能なことは同じではない」
父さんの言葉に、俺は少し黙った。
(昔の俺、そこ一緒にしてたな)
珍しい。
普通ではない。
前例が少ない。
だから無理。
そう考えていた。
「続ける形があるかもしれない?」
「あるかもしれない。役割を変える必要があるかもしれない。続けない方がお前自身に合うと後から思うかもしれない」
「今は決めない?」
「そうだ」
「分かった」
紙には『将来の職務――未定』と書かれた。
未定ばかりだ。
でも不思議と不安ではなかった。
決まっていないことは、駄目なことではない。
これから決められることだ。
◇
「最後に一つ」
旦那様が紙をまとめる。
「今日の話を受けて、お前たち二人で一つだけ考えておいてほしい」
「宿題ですか?」
「そう考えてもいい」
「何を?」
「将来、どういう生活をしたいか」
範囲が広すぎる。
「それだけ?」
「ああ」
「仕事とか場所とか?」
「具体的でなくていい」
旦那様は俺たちを見る。
「朝起きてから夜眠るまで、どんな毎日なら幸せだと思うのか。それを考えてみなさい」
俺は答えられなかった。
剣を続けたい。
魔術も学びたい。
研究も面白い。
執事の仕事も好きだ。
リビアと一緒にいたい。
でも、それらを全部並べただけで生活になるのかは分からない。
「いつまでですか?」
「期限はない」
「え?」
「答えが変わってもいい」
「それ、宿題ですか?」
「宿題という言い方をしたのはお前だ」
「そうでした」
旦那様が笑う。
「十五歳で一生の理想を決めろとは言わん。今考えていることを、二人で話してみればいい」
「分かりました」
「リビアも」
「はい」
話はそこで終わった。
◇
書斎を出たあと、俺とリビアは自然に談話室へ向かった。
読書をするつもりはなかった。
さっきの話をもう少ししたかった。
ソファへ並んで座る。
「難しかったね」
リビアが言う。
「うん」
「セス、何が一番意外だった?」
「俺だけが勉強するんじゃないこと」
「そこ?」
「うん」
「私はちょっと分かってた」
「本当に?」
「だって結婚するの、二人だから」
「ああ」
言われればそうだ。
「でも俺、公爵家に入れてもらう側だと思ってた」
「今も?」
聞かれる。
すぐには答えなかった。
「少し残ってるかも」
「そっか」
「でも、前とは違う」
「どう違う?」
「前は、リビアの人生に俺が入っていいのかって思ってた」
「うん」
「今は……」
言葉を探す。
「俺とリビアで、これから作るものもあるのかなって」
リビアが静かになる。
「それ、嬉しい」
「そう?」
「うん」
彼女が少しだけこちらへ寄る。
「私ね、ずっとセスと結婚したかったけど」
「うん」
「どんな生活をしたいかって聞かれたら、ちゃんと考えたことなかったかもしれない」
「リビアも?」
「セスと一緒ならって、そればっかりだったから」
俺は少し笑った。
「それ、俺が言ったら怒られそう」
「何で?」
「何でもリビアだけにするなって」
「それはそう」
「リビアはいいの?」
「私も考え直します」
二人で笑う。
「じゃあ何したい?」
俺が聞く。
「将来?」
「うん」
リビアは少し考えた。
「朝、一緒にご飯食べたい」
意外に普通だった。
「それ?」
「駄目?」
「いや。もっと公爵家の仕事とか言うかと思った」
「それもすると思うけど、幸せな生活でしょう?」
「ああ」
旦那様もそう言っていた。
「じゃあ俺も朝一緒に食べたい」
「うん」
「あと、本読みたい」
「今と同じだね」
「剣も振りたい」
「それも今と同じ」
「魔術も研究したい」
「全部今と同じじゃない?」
「駄目かな」
「全然」
リビアが笑う。
「私はセスとお茶したい」
「するよ」
「たまに街にも行きたい」
「行こう」
「海も」
「行きたい」
以前話した未来が出てくる。
「仕事は?」
「公爵家の仕事はすると思う。でも、それだけじゃなくて、結界の研究も続けたい」
「続けてほしい」
「本当に?」
「うん。リビア、研究してる時楽しそうだから」
彼女の表情が柔らかくなる。
「セスは?」
「執事の仕事は好き」
「うん」
「でも、今日聞いて、ずっと今と同じ形じゃなくてもいいのかなって思った」
「辞めたい?」
「今は辞めたくない」
そこははっきりしている。
「でも、執事を続けるためにリビアとの未来を諦めるのも嫌」
「うん」
「逆に、リビアと結婚するために、好きな仕事を何も考えず辞めるのも違う気がする」
「私もそう思う」
「じゃあ、方法探す?」
「うん」
まだ答えはない。
でも、それでいい。
◇
少し沈黙が続いた。
窓の外は暗く、室内には魔導灯の柔らかな明かりが広がっている。
リビアが自分の膝の上で指を組む。
「セス」
「何?」
「私も一つ、ちゃんと言っておきたい」
声が少し真面目だった。
「うん」
「私、セスに公爵家のためだけに変わってほしくない」
俺は彼女を見る。
「社交とか礼儀とか、必要なことを覚えてくれるのは嬉しい。でも、それでセスが今まで好きだったものを全部やめるのは嫌」
「剣とか?」
「うん。魔術も、研究も、執事の仕事も。友達と過ごす時間も」
「全部続けられるかな」
「全部を今と同じ量で、は難しいかもしれない」
「うん」
「でも、最初から捨てなくていいと思う」
リビアが少し迷ってから続ける。
「それに私も、公爵令嬢だからって全部を我慢するつもりはないよ」
「結界研究?」
「それも」
「他は?」
「セスと二人で街に行きたいし、お忍びで普通のお店にも行きたいし、一緒に本屋にも行きたい」
「お忍び?」
「駄目?」
「楽しそう」
「でしょう?」
「じゃあ行きたい」
「あと海」
「それは絶対入るんだ」
「入ります」
リビアが胸を張る。
俺は笑った。
「じゃあ覚えとく」
「約束?」
「日程決めてないから、約束って言っていいのかな」
「いつか行きたいっていう約束」
「それなら」
俺は頷く。
「行こう」
「うん」
まだ先の未来。
いつになるかも分からない。
でも、その未来を口にすることが怖くない。
◇
部屋へ戻る時間になり、俺たちは廊下へ出た。
今日は手を繋いでいない。
肩も触れていない。
それでも、さっきまで話していた未来が二人の間に残っている気がした。
「セス」
「何?」
「今日の宿題、少し答え出たね」
「期限ないらしいけど」
「うん」
「朝一緒にご飯食べる」
「本を読む」
「剣を振る」
「結界研究する」
「俺も魔術とか研究する」
「街に行く」
「海にも行く」
二人で順番に言う。
「普通だね」
俺が言うと、リビアが少し考えた。
「普通がいいの?」
「うん」
「どうして?」
「今、楽しいから」
リビアが止まった。
俺も足を止める。
「今みたいな毎日が、少し形変わって続いたらいいなって思う」
「……うん」
「もちろん、ずっと同じじゃないだろうけど」
「うん」
「でも、リビアがいて、俺も好きなこと出来て、リビアも好きなこと出来るなら」
そこまで言って、少し恥ずかしくなる。
「結構幸せかも」
リビアの目が潤んだ。
「泣く?」
「泣かない」
「本当?」
「……ちょっとだけ」
「ごめん」
「何で謝るの?」
「分からない」
「じゃあ謝らないで」
「うん」
リビアが一歩近づく。
今日は人の気配がない。
「セス」
「何?」
「抱きしめてもいい?」
俺は少しだけ考えた。
嫌ではない。
むしろ、俺もしたい。
「俺もしたい」
リビアが笑う。
彼女が腕を回してくる。
俺も背中へ腕を回した。
強くはしない。
ただ、身体が触れる。
髪が頬の近くに触れ、ほのかな香りがした。
(リビアだ)
当たり前のことを思う。
好きな子を抱きしめている。
前に肩へ額を預けられた時より、ずっと近い。
胸が速くなる。
リビアも同じなのか、身体越しにわずかな緊張が伝わってくる。
「セス」
「うん?」
「心臓、速い」
「リビアも」
「聞こえる?」
「たぶん」
「恥ずかしい」
「俺も」
それでもすぐには離れなかった。
しばらくして、どちらからともなく腕を緩める。
離れたリビアの顔は真っ赤だった。
たぶん俺も同じだ。
「……近かった」
「抱きしめたからね」
「そうだけど」
「嫌だった?」
「全然」
「私も」
目が合う。
少しだけ沈黙が落ちる。
リビアの顔が近い。
俺は一瞬、彼女の唇を見た。
自分で気づいて、視線を戻す。
胸がさらに速くなる。
(今、何考えた?)
分かる。
でも、すぐにすることなのかは分からない。
リビアも俺を見ていた。
彼女の頬は赤いままだ。
ほんの少しだけ、空気が変わる。
俺は迷った。
そして。
「リビア」
「……うん」
「今日は、ここまででいい?」
彼女が一度目を瞬いた。
それから、柔らかく笑った。
「うん」
安心した。
嫌だったから止めたわけではない。
したくないわけでもない。
ただ、今は抱きしめられたことが嬉しい。
それを急いで次へ進めなくてもいい。
「おやすみ」
「おやすみ、セス」
「好きだよ」
「私も好き」
リビアが部屋へ入る。
扉が静かに閉まった。
俺はしばらくその前に立っていた。
(危なかった)
何が危なかったのかは分かっている。
たぶん、もう少し長く見つめ合っていたら、俺はキスをしたいと言っていた。
嫌ではない。
むしろ、したいと思った。
そのことに自分で驚く。
(でも、今日はこれでいい)
初めてちゃんと抱きしめた。
それだけで胸がいっぱいだった。
◇
自室へ戻り、ベッドへ腰掛ける。
今日は色々あった。
朝、リビアに剣を見てもらった。
学園ではディーンに婚約について聞かれた。
俺は人前で、自分がリビアの婚約者でいたいと答えた。
夜には旦那様と父さんから、婚約者としてこれから学ぶことの入口を教えてもらった。
社交。
家。
仕事。
安全。
生活。
まだ何も決まっていない。
それでも、以前のような不安はなかった。
(婚約者になるために、俺だけが全部変わるわけじゃない)
リビアも俺を知る。
俺もリビアを知る。
二人で決めることがある。
家の事情もある。
自由に出来ないこともある。
それでも、自分たちの意思を持っていていい。
その考えが嬉しかった。
そして、もう一つ。
さっきのことを思い出す。
抱きしめた時の温かさ。
近かった顔。
唇へ向いた自分の視線。
また顔が熱くなる。
(俺、リビアとキスしたいんだ)
今度は、その気持ちを否定しなかった。
したい。
でも、したいからすぐする必要もない。
リビアがどう思っているのかも知りたい。
俺自身も、ちゃんとその時に言いたい。
(これも、急がなくていいか)
好きだと気づくまで時間がかかった。
好きだと伝えるまでにも時間がかかった。
でも、それでよかった。
なら、これからも同じでいい。
自分の気持ちを知って。
リビアの気持ちを聞いて。
二人で決める。
婚約者としての未来も。
もっと近づきたいという気持ちも。
たぶん、そういうことなのだと思う。
俺は灯りを消して横になった。
今日、旦那様から聞かれた。
どんな毎日なら幸せだと思うのか。
まだ完成した答えはない。
でも、今なら一つだけはっきり言える。
(リビアと一緒に考えていける毎日がいい)
答えを最初から全部知っている必要はない。
決まっていない未来を、決まっていないまま二人で話せる。
それは以前の俺には想像出来なかったくらい、楽しみなことだった。




