第56話 婚約者として隣にいることを、少しだけ普通だと思えるようになりました
翌朝、目を覚まして最初に感じたのは、身体の軽さだった。
右腕を曲げ伸ばししても違和感はなく、昨日イザークと軽く剣を合わせた影響もほとんど残っていない。脚にも重さはなく、寝不足らしい感覚もなかったので、俺はベッドの端へ腰掛けたまま今日の予定を頭の中で確認した。
(通常授業だけ。リビアも今日は委員会なし。ベルナルト先生から研究の連絡もまだ来てないし、サザリーの課題も条件待ち)
放課後まで決まった予定はない。
だからといって、空いているところへ剣の練習を入れる必要もない。昨日は短時間とはいえイザークと剣を振ったのだから、今日は授業を受けて、その後に身体を動かしたくなったとしても明日以降で十分だった。
制服へ着替え、鏡の前で襟元を整える。
そこでふと、昨日の夜を思い出した。
談話室で何もせず、リビアと並んで座っていた時間。
研究もしなかったし、本も読まなかった。剣や魔術の相談をしたわけでもなく、ただ同じソファに座り、肩を寄せながら話していた。
(ああいう時間も、ちゃんと好きなんだよな)
以前の俺なら、何もしない時間に意味を求めていたかもしれない。
今はそう思わない。
リビアと一緒にいたかったから、一緒にいた。それだけで十分だった。
そんなことを考えながら部屋を出ると、今日は廊下の向こうから銀青色の髪が見えた。
昨日は父さんだった。
今日はちゃんとリビアだ。
「おはよう、セス」
「おはよう、リビア」
自然に笑う。
リビアも笑い返してくれた。
その瞬間、昨日父さんに言われたことを思い出す。
『オリビア様ではなかったからか』
(今日は残念じゃない)
本人がいるのだから当然だ。
「どうしたの?」
「いや、昨日はここで父さんに会ったなって思って」
「グレイヴに?」
「うん。リビアじゃなくてちょっと残念そうな顔したら、すぐばれた」
リビアが目を丸くしたあと、口元を押さえた。
「笑う?」
「だって……セス、そんな顔するようになったんだなって」
「前もしなかった?」
「してたと思うけど、自分で認めなかったでしょう?」
「それはそうかも」
俺は彼女の隣へ並んだ。
朝食の時間まではまだ少しある。
「今日は庭行く?」
「行きたいけど、昨日行ったでしょう?」
「昨日行ったら今日は行っちゃ駄目なの?」
「そういう意味じゃないけど」
「じゃあ行こう」
「うん」
二人で階段へ向かう。
何か特別な話があるわけではない。
それでも一緒に歩きたい。
庭へ出ると、朝の空気にはまだ少し冷たさが残っていた。陽射しは柔らかく、葉の先に残った露が風に揺れるたび小さく光っている。
昨日と同じ道を歩き始める。
今日はすぐに手を繋がなかった。
ただ隣を歩く。
「セス、今日は何か予定ある?」
「授業だけ。リビアも委員会ないんだよね?」
「うん」
「じゃあ帰り一緒」
「昨日も言ったでしょう?」
「覚えてるよ」
「確認したかったの?」
「たぶん」
リビアが少し嬉しそうに笑った。
「私も一緒に帰りたい」
「うん」
それだけで今日の放課後が少し楽しみになる。
でも、そのために一日を早く終わらせたいとは思わなかった。
授業もある。
友達にも会う。
それを普通に過ごしてから、一緒に帰ればいい。
◇
朝食後、学園へ向かう馬車の中では、実技確認でも研究でもなく、昨日の夕食に出た焼き菓子の話をしていた。
「リビア、昨日のやつ好き?」
「木苺の?」
「うん」
「好き。セスは?」
「俺も。もう一個食べようか迷った」
「食べればよかったのに」
「夕食の後だったから」
「一個くらい大丈夫でしょう?」
「そうなんだけど」
くだらない話だ。
でも楽しい。
馬車が緩やかに揺れるたび、向かいに座るリビアの髪が肩から滑る。俺は何度かそれを目で追ってしまい、そのたび彼女に気づかれた。
「セス」
「何?」
「また見てる」
「うん」
もう誤魔化さない。
「どうして?」
「綺麗だから」
リビアの頬が赤くなる。
「……まだそれ言うの?」
「言わない方がいい?」
「言ってほしいけど、毎回困る」
「じゃあ、たまに言う」
「それも困りそう」
「どうしたらいいの?」
「分からない」
二人で笑った。
告白したからといって、急に何もかも上手くなるわけではないらしい。
でも、分からないなら分からないままでいい。
昨日そう話したばかりだった。
◇
学園へ到着すると、いつものように昇降口から校舎へ入った。
朝の廊下には多くの生徒が行き交っている。教室へ急ぐ者、友人と話している者、掲示板の前で足を止めている者がいて、窓から差し込む朝の光の中へいくつもの声が重なっていた。
俺とリビアも並んで歩く。
それ自体は昔から珍しくない。
ただ、今日は少し違う視線を感じた。
(何だ?)
最初は気のせいかと思った。
でも一人ではない。
廊下ですれ違った女子生徒二人が俺たちを見て、小さく何かを話している。少し先にいた男子生徒も一度こちらを見たあと、隣の友人へ顔を寄せていた。
悪意は感じない。
警戒するような雰囲気でもない。
単純に、気にされている。
「リビア」
「うん」
「何か見られてない?」
「見られてるね」
「何で?」
聞いた直後、リビアが少しだけ困った顔をした。
「セス、本当に分からない?」
「何かした?」
「昨日、一昨日あたりから私たちの雰囲気が違うって思われてるんじゃないかな」
「雰囲気?」
「ほら」
リビアが俺の方へ少し近づく。
肩が触れるほどではない。
でも以前より距離が近い。
「こういうところとか」
「前から近かったよね?」
「近かったけど、今のセスは私が近づいても全然離れないでしょう?」
「離れる必要ないから」
「それ」
「それ?」
「そういうのが顔に出てるんだと思う」
分からない。
俺は自分の顔へ触れる。
「どんな顔?」
「嬉しそうな顔」
「……そんなに?」
「うん」
そこまで言われると恥ずかしくなる。
でも、だからといって距離を取ろうとは思わなかった。
俺たちは婚約者だ。
それ以前に、今は互いに好きだと知っている。
隣を歩いているだけで困る理由はない。
(でも、学園だと周りからそう見えるのか)
今までも婚約していること自体は知られていた。
ただ、俺自身はそれをどう受け止めればいいのか分からず、必要以上に意識していたところがある。
公爵令嬢の婚約者。
元平民の執事。
その二つが並ぶたび、自分の中でどうしても引っかかっていた。
今は。
「セス?」
リビアがこちらを見る。
「何でもない」
「本当?」
「うん。ただ、見られてるから離れた方がいいのかなって一瞬考えた」
リビアの表情が少しだけ曇った。
「離れたい?」
「違う」
すぐ答えた。
「俺はこのままがいい」
彼女の表情が戻る。
「じゃあ、このままでいいんじゃない?」
「うん」
俺たちはそのまま歩いた。
視線はまだ少し感じる。
でも、足取りを変える必要はなかった。
◇
教室へ入ると、先に来ていたイザークがこちらを見た。
「おはよう」
「おはよう」
「リビア様も、おはようございます」
「おはよう、イザーク」
俺が席へ鞄を置く。
イザークは何か言いたそうな顔をしている。
「何?」
「いや」
「絶対何かあるだろ」
「朝から仲いいなと思って」
「前から仲いいよ」
「そうなんだけどな」
イザークが笑う。
「何か違うんだよ」
「リビアも同じこと言ってた」
「だろ?」
「何が違うの?」
「俺に聞くなよ」
「イザークが言い出したんだろ」
「雰囲気だよ、雰囲気」
結局それか。
少し遅れてミリアナとナナリーも教室へ入ってきた。
「おはようございます、クルセス様、オリビア様」
「おはよう」
「おはようございます」
ナナリーはいつも通りだったが、ミリアナは俺たちを見てすぐに笑った。
「今日もですね」
「何が?」
「クルセス」
「だから何?」
「もういいわ」
なぜか諦められた。
「説明してよ」
「自分で分からないなら、そのうち分かるんじゃない?」
「みんなそればっかりだな」
俺が不満を口にすると、リビアが横で笑っている。
「リビアは分かってるの?」
「少し」
「教えて」
「嫌」
「何で?」
「自分で気づいた方が面白いから」
「面白がられてない?」
「ちょっとだけ」
「リビアまで……」
そんなやり取りをしているうちに教師が入ってきた。
俺たちはそれぞれの席へ戻る。
今日は最初から普通の授業だ。
◇
午前の二つ目は領地経営の基礎だった。
担当はハロルド先生ではないが、内容は領内の公共施設維持に関する初歩的な費用配分で、俺はかなり興味を引かれた。
提示された例は、小規模な町で橋、井戸、道路の三つを同時に修繕する必要が生じた場合、限られた予算をどう振り分けるかというものだった。
「すべて重要だからすべて同時に最大限修繕する、という答えは現実には成立しません」
教師が黒板へ三つの項目を書きながら説明する。
「必要性、緊急性、代替手段、利用者数、季節、今後の維持費。判断材料は一つではありません。では、資料を読み、四人一組で優先順位を決めてください。ただし唯一の正解を当てる課題ではなく、判断理由を説明出来ることを重視します」
俺の組はイザーク、ミリアナ、それから別の席にいた男子生徒になった。
名前はルーク・バレン。
茶色の短髪で、同じ授業を何度も受けているが、同じ班になるのは初めてだった。
「よろしく、クルセス」
「うん。よろしく、ルーク」
「俺もよろしく」
イザークが資料を中央へ寄せる。
町の北側にある橋は老朽化しているが、すぐ近くに迂回路がある。
中央広場の井戸は利用者数が最も多いが、今のところ水質に問題はない。ただし汲み上げ装置の一部に摩耗がある。
南側の道路は雨季になるとぬかるみ、物資輸送に遅れが出る。
「橋じゃない?」
最初に言ったのはルークだった。
「壊れたら危ないし」
「でも、資料だと通行制限すれば半年程度は持つって技師が判断してる」
ミリアナが該当箇所を指す。
「それに迂回路もあるわ」
「じゃあ道路?」
イザークが南側の地図を見る。
「もうすぐ雨季だろ。このままだと荷馬車止まるんじゃないか?」
「俺も道路が先かなと思った」
俺が言うと、ルークがこちらを向いた。
「理由は雨季?」
「それもある。でも全部直す必要はないかもしれない」
「どういうこと?」
「南側道路全部を舗装し直す予算は足りないけど、資料だと特に沈みやすい区間が三か所ある」
地図を指す。
「ここだけ先に排水溝と路盤を直したら、最低限の輸送は維持出来るかもしれない。その分を井戸の汲み上げ装置の部品交換へ回す」
「橋は?」
「通行制限と点検を増やして、雨季が終わるまで待つ案」
「でも橋が予想より早く悪化したら?」
ルークが聞く。
「その時は変える」
「変える?」
「今決めた順番を絶対守るんじゃなくて、点検結果が変わったら優先順位も変える」
言ってから、少しだけ自分で引っかかった。
最近、似た考え方をよく使っている。
でも、剣や魔術と同じだと決めつけるつもりはない。
「この課題の場合は、だけど」
付け足す。
「橋の状態を継続確認出来るって資料に書いてあるから、待つ判断が出来る。確認出来ないなら違うと思う」
「なるほど」
ルークが頷いた。
イザークが俺を見る。
「何?」
「いや、お前最近そういうの多いなと思って」
「そういうの?」
「条件変わったら判断変えるってやつ」
「確かに」
ミリアナも資料から顔を上げる。
「でも今回は課題に合ってるんじゃない?」
「うん。だから使う」
何にでも同じ考えを当てはめるのではなく、その場に合うかを確認する。
サザリーとの共同課題で学んだことも、こういうところへ残っている。
最終的に俺たちの班は、雨季前に南側道路の重点区間を修繕し、同時に井戸の摩耗部品だけ交換。橋は通行制限と点検頻度を増やし、状態悪化時には予算を再配分する案をまとめた。
教師からは正解とも不正解とも言われなかった。
「条件付きで優先順位を設定している点は良いでしょう。ただし、橋の点検人員を増やす費用が計算から抜けています」
「あ」
俺たち四人の声が重なる。
教師は少し笑った。
「判断を変更出来る体制にも費用はかかります。そこまで考えてみてください」
なるほど。
待つことにも条件がある。
授業が終わった後、俺はその点をノートへ書き足した。
(何もしないのと、確認しながら待つのは違う)
昨日ベルナルト先生から言われた研究の話にも似ている気はする。
でも今はつなげない。
必要なら研究時間に考えればいい。
◇
昼休みになり、いつもの場所へ向かう。
今日はアルフォルドもいた。
「クルセス」
「殿下」
「腕はもう問題ないか?」
「はい。昨日も軽く剣を振れました」
「誰とだ?」
「イザークです」
「そうか」
アルフォルドがイザークを見る。
「どうだった?」
「普通に強かったです」
「それは知っている」
「でも昨日は軽くです。距離見る練習が中心だったので」
「距離?」
イザークが床の線を使った踏み込み確認について説明する。
アルフォルドは興味深そうに聞いていた。
「それは面白そうだな」
「殿下もやります?」
イザークが軽い調子で言う。
俺は止めなかった。
アルフォルドも嫌がる様子はない。
「機会があればな。ただし、すぐ予定を入れる必要はない」
「ですよね」
イザークがあっさり引く。
その様子に少し笑った。
「何だよ、クルセス」
「いや。イザーク、本当に変わったなって」
「お前に言われたくない」
「俺も変わった?」
「変わった」
即答された。
「特にここ数日」
カイゼル殿下が会話へ入ってくる。
「またそれですか」
「何がだ?」
「雰囲気が違うとか、変わったとか」
「事実だから仕方ない」
「どこが違うんですか?」
俺が聞くと、カイゼル殿下はリビアを見る。
リビアはなぜか笑っている。
「本人に教えるのもつまらないな」
「またそれ……」
今日は朝から何度目だろう。
「殿下まで同じこと言うんですね」
「では一つだけ教えてやろう」
「何ですか?」
「オリビア嬢が席へ来た時のお前の顔だ」
「顔?」
「ああ」
俺はリビアを見る。
彼女は俺の隣へ座っている。
「普通だと思いますけど」
「その普通が変わったんだ」
「分からないです」
「だろうな」
カイゼル殿下が楽しそうに笑う。
アルフォルドは呆れたように息を吐いた。
「カイゼル。あまりからかうな」
「お前は気にならないのか?」
「気づいてはいる」
アルフォルドまで。
「殿下も?」
「ああ。ただ、クルセスが以前より自然にオリビア嬢の隣にいるようになった、それだけだろう」
その言葉に、俺は少し止まった。
「自然に?」
「以前のお前は、婚約者として近くにいる時と、幼馴染として近くにいる時で、わずかに態度が違った」
「そうでした?」
「私にはそう見えた」
アルフォルドは淡々と続ける。
「特に人目がある場所ではな」
言われて思い返す。
学園。
廊下。
昼食。
誰かに婚約者として見られた時。
確かに俺は、必要以上に自分の立場を意識していた。
(公爵令嬢の隣にいる平民出身の執事)
婚約そのものが正式に認められていても、その感覚が完全に消えたわけではなかった。
だから、無意識に少し距離を置くことがあったのかもしれない。
「今は違う?」
俺が聞く。
アルフォルドは少し考えた。
「少なくとも私には、オリビア嬢の隣にいることを以前ほど説明しようとしていないように見える」
「説明?」
「自分は執事だから、幼馴染だから、婚約者だから、と理由を探しているような感じが減った」
胸の奥に、その言葉がゆっくり落ちる。
反射的に否定する気にはならなかった。
「……そうかもしれません」
リビアがこちらを見る。
俺も彼女を見る。
「今は、隣にいたいからいるって思ってるので」
口にすると、テーブルが少し静かになった。
カイゼル殿下が目を細める。
ミリアナは何か言いたそうにしながら黙っている。
イザークは笑っていた。
リビアの頬は少し赤い。
「そういうところだぞ」
アルフォルドが言った。
「え?」
「以前のお前なら、それを人前では言わなかった」
「ああ」
なるほど。
やっと少し分かった。
「でも、本当なので」
「ならそれでいい」
アルフォルドはそれ以上何も言わなかった。
俺も説明を足さなかった。
公爵令嬢だから。
婚約者だから。
幼馴染だから。
それらは全部本当だ。
でも、今ここで隣にいる理由はもっと簡単だった。
俺がリビアの隣にいたい。
それだけでいい。
◇
午後は一般教養の授業が二つ続いた。
特別な事件は起きなかった。
先生の説明を聞き、ノートを取り、途中でイザークが眠そうになって教師に指名され、答えられずに周囲から小さな笑いが起きたくらいだ。
「寝てない」
休み時間にイザークが言い訳する。
「目閉じてたよ」
「考えてた」
「何を?」
「……人生?」
「絶対寝てたでしょ」
ミリアナに突っ込まれる。
俺も笑った。
こういう時間が好きだ。
何か大きな問題がなくても、学園へ来る意味はある。
授業が終わる頃には、朝感じていた周囲の視線もほとんど気にならなくなっていた。
◇
放課後。
今日は本当に何の予定もない。
教室を出る前に、俺は鞄の中を確認した。
研究資料は入っている。
でも開く必要はない。
イザークも今日は剣をしない。
サザリーはハロルド先生から条件が来るまで待つ。
「クルセス」
サザリーが席を立ちながら声をかけてきた。
「何?」
「共同課題の件だが、今日はまだ連絡なしだ」
「うん。分かった」
「気にならないか?」
「気にはなるよ」
「作り始めたくは?」
「ちょっとだけ」
正直に答える。
「でも条件分からないまま作っても仕方ないから」
「そうだな」
「連絡来たら教えて」
「ああ」
それだけで別れる。
廊下へ出ると、リビアが待っていた。
窓際に立ち、外を眺めている。
夕方へ傾き始めた光が銀青色の髪へ差し込み、朝とは違う柔らかな色に見えた。
(綺麗だな)
思う。
でも今日は口にしなかった。
毎回言わなくてもいい。
「リビア」
呼ぶと、彼女が振り返った。
「セス。終わった?」
「うん。帰ろう」
「うん」
並んで歩き始める。
廊下にはまだ多くの生徒がいた。
朝と同じように、何人かの視線がこちらへ向く。
今度はすぐ理由が分かった。
俺とリビア。
公爵令嬢と、その婚約者。
周囲からはそう見える。
その言葉を頭の中で並べた時、以前なら少しだけ身体が硬くなった。
今は違う。
(婚約者、か)
まだ完全に慣れたとは言えない。
自分が公爵令嬢の婚約者として十分なのかと聞かれれば、すぐに自信を持って答えられるわけでもない。
礼儀も。
立場も。
将来の役割も。
考えるべきことはたくさん残っている。
でも。
「セス?」
リビアが俺を見る。
「どうしたの?」
「いや」
俺は少しだけ彼女との距離を縮めた。
「今日は離れなくていいなって思って」
「朝の話?」
「うん」
「朝から離れなくてよかったよ?」
「分かってる。でも今、自分でそう思った」
リビアが少しだけ目を見開く。
「そっか」
「うん」
そのまま昇降口まで歩く。
人目はある。
でも気にならなかった。
◇
馬車へ乗り込むと、リビアが向かいではなく俺の隣へ座った。
「今日はこっち?」
「嫌?」
「全然」
「じゃあここ」
肩が近い。
車輪が動き始め、学園の建物が窓の外へ流れていく。
「セス」
「何?」
「今日、何かあった?」
「何か?」
「朝よりちょっと機嫌いい」
「そう?」
「うん」
俺は今日のことを思い返した。
授業。
昼休み。
アルフォルドの言葉。
「殿下に言われたこと考えてた」
「アルフォルド殿下?」
「うん。俺が前より自然にリビアの隣にいるって」
リビアが少し黙る。
「私もそう思う」
「やっぱり?」
「うん」
「自分じゃ分からなかった」
「前はね、セスから近くに来てくれる時でも、たまに途中で止まることがあったの」
「途中で?」
「人がいたら少し離れたり」
「ああ……」
覚えがある。
「別にリビアから離れたかったわけじゃないよ」
「知ってる」
「でも、見られたら変かなって思ってた」
「公爵令嬢と執事だから?」
「たぶん」
「今は?」
聞かれる。
窓の外を見る。
街並みが流れている。
行き交う人々の姿。
店先の看板。
荷車。
普通の日常。
「変かもしれないって思う人はいると思う」
「うん」
「身分違うし」
「うん」
「俺、元は本当に何も持ってない平民だったし」
リビアは口を挟まない。
「今だって、公爵令嬢の婚約者として何をすればいいか全部分かってるわけじゃない」
「うん」
「でも」
隣にいる彼女を見る。
「それと、俺がリビアの隣にいたいのは別だと思う」
リビアの目が少し揺れた。
「別?」
「うん。俺がちゃんと婚約者としてやれるのかは、これから覚えることもあると思う」
「……うん」
「でも、分からないからって離れたいわけじゃない」
言葉にすると、自分でも少し驚いた。
以前なら逆だった。
分からない。
自信がない。
身分が違う。
だから離れた方がいい。
そう考えていた。
今は違う。
「分からないなら覚えればいいし、困ったら聞けばいい」
リビアの唇がわずかに震えた。
「それでも駄目なことがあったら?」
「その時考える」
「……セス」
「何?」
「すごく変わったね」
声が少し掠れていた。
泣いているわけではない。
でも目が潤んでいる。
「そんなに?」
「うん」
リビアが笑う。
「前だったら、そこで『だから無理だ』って言ってた」
「ああ」
確かに。
「今は言わない」
「どうして?」
「好きだから」
答えは簡単だった。
「俺、リビアと一緒にいたいから。分からないことがあるだけで、それ諦めるの嫌だ」
リビアが俯いた。
膝の上に置かれていた手が少し動く。
俺はその手を見る。
「手、繋ぐ?」
「……うん」
今日は俺から聞いた。
指を重ねる。
リビアの手は少し温かかった。
「セス」
「うん?」
「私も、一緒に考えるからね」
「婚約者のこと?」
「それも。これからのこと全部」
「全部は多くない?」
「じゃあ、一緒に考えたいこと」
「それなら」
俺は彼女の手を軽く握る。
「俺もそうしたい」
馬車が揺れる。
繋いだ手も少し動いた。
でも離れない。
◇
屋敷へ戻ると、玄関広間に父さんがいた。
仕事の確認をしていたらしく、若い使用人へ何か指示を出している。
俺とリビアが入ってくる。
繋いでいた手は、馬車を降りる時に自然に離していた。
「お帰りなさいませ、オリビア様。クルセス」
「ただいま、グレイヴ」
「ただいま」
父さんが俺を見る。
「今日は訓練は?」
「なし」
「身体に問題は?」
「ないです。でも昨日振ったので今日はやりません」
「分かった」
昨日と同じように、それだけ。
父さんが仕事へ戻ろうとする。
「父さん」
「何だ」
呼び止める。
「一個聞いていい?」
「構わん」
「婚約者としての勉強って、何かある?」
父さんが止まった。
リビアも俺を見る。
「どういう意味だ」
「礼儀とか、社交とか、俺が今後覚えた方がいいこと」
「それはある」
「やっぱり?」
「ああ。ただし、お前はシルフィール伯爵家の養子になった時点で、基礎的な貴族教育はすでに受けている」
「うん」
「婚約者だからといって、まったく別の人間になる必要はない」
その言葉に少し安心する。
「でも足りないところは?」
「当然ある。私にもある」
「父さんにも?」
「当たり前だ」
即答だった。
「立場が変われば必要な知識も変わる。すべてを事前に身につけてから立場に就く者などほとんどいない」
「……そっか」
「何かあったのか?」
「今日、学園でちょっと考えただけ」
俺は正直に話す。
「俺、公爵令嬢の婚約者としてちゃんと出来るかはまだ分からないけど、それを理由に無理って言うのは違うなって」
父さんは黙った。
少し長い。
「父さん?」
「いや」
父さんが視線を逸らした。
「何?」
「何でもない」
「絶対何かあるでしょ」
「お前が自分からその話をする日が来るとは思っていなかっただけだ」
「そんなに?」
「そんなにだ」
リビアが隣で笑っている。
「必要なことは、時期が来れば教える」
父さんが続ける。
「今すぐすべて始める必要はない。学園の授業もある」
「うん」
「アルセス様とも相談する。お前だけで決める話でもない」
「分かった」
「そして」
父さんが俺を見る。
「知らないことがあるから不適格というわけではない」
胸の奥に言葉が残る。
「……うん」
「学べばいい」
「そうする」
「それでいい」
父さんは仕事へ戻った。
俺とリビアもそれぞれ着替えるため、階段へ向かう。
◇
夕食後。
今日は談話室ではなく、いつもの読書場所へ行った。
昨日は何もしない時間を選んだ。
今日は本を読みたい。
それも自分で選んだ。
リビアと隣に座り、共有している旅の物語を開く。
少し前まで読んでいた海辺の街を出発し、主人公たちは山道へ入っていた。
数ページ読み進めたところで、リビアが小さく声を出す。
「この人、絶対迷うと思う」
「何で?」
「さっきから道標見てないもの」
「でも案内人いるよ?」
「その案内人が怪しい」
「そうかな」
「賭ける?」
「何を?」
「次のページで道間違える」
「じゃあ俺は間違えない方」
ページをめくる。
主人公たちは普通に正しい道を進んだ。
「ほら」
「まだ分からないよ」
「次のページ?」
「次のページ」
めくる。
案内人が道を間違えた。
「……」
「リビア」
「何?」
「当たった」
「でしょう?」
「何で分かったの?」
「怪しかったから」
「どこが?」
「説明が丁寧すぎた」
「それで?」
「物語で道を間違えない案内人なら、あんなに道の説明しないでしょう?」
「そういう読み方するんだ」
「セスだって研究資料なら似たことするでしょう?」
「物語ではしないよ」
笑いながら続きを読む。
研究の話ではない。
婚約の話でもない。
ただ同じ物語を楽しむ。
それでも、今日の昼に言われたことが時々頭へ戻ってきた。
『オリビア嬢の隣にいることを以前ほど説明しようとしていない』
ページをめくるリビアの指を見る。
肩が近い。
俺たちは同じ本を読んでいる。
(理由、いらないんだな)
婚約者だから隣にいる。
幼馴染だから隣にいる。
執事だから付き添う。
そういう理由が必要な時もある。
でも、いつもではない。
俺がここにいたいから、ここにいる。
それだけの時間があっていい。
「セス?」
リビアが本から顔を上げた。
「また止まってる」
「ちょっと考えてた」
「何を?」
「今日言われたこと」
「アルフォルド殿下の?」
「うん」
俺は本を閉じず、指でページを押さえたまま彼女を見る。
「俺、前はリビアの隣にいる理由をずっと探してたのかもしれない」
リビアは黙って聞いている。
「仕事だからとか、幼馴染だからとか、婚約してるからとか」
「うん」
「でも今は、別になくてもいいなって」
「理由が?」
「うん」
少し違う。
「いや、理由はある」
「どんな?」
「リビアが好きで、一緒にいたいから」
リビアがゆっくり笑った。
「それ、立派な理由だと思う」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、理由は一個あった」
「あるよ」
本を開き直す。
読み始めようとして、今度はリビアが俺の肩へ少し寄った。
昨日と同じように。
でも今日は本がある。
俺も身体を少し寄せる。
そのまま読み進める。
◇
読書を終えて部屋へ戻る途中、窓の外はすっかり暗くなっていた。
廊下の魔導灯が等間隔に並び、磨かれた床へ柔らかな光を落としている。
リビアの部屋の前まで一緒に歩く。
「じゃあ、また明日」
「うん」
「おやすみ、リビア」
「おやすみ、セス」
彼女が扉へ手をかける。
俺はそのまま帰ろうとした。
「セス」
「何?」
「今日は言わないの?」
「何を?」
「……分かってるでしょう?」
少し頬が赤い。
昨日も同じようなことを言われた。
「毎日欲しいの?」
「駄目?」
考える。
駄目な理由はない。
「好きだよ、リビア」
昨日より自然に言えた。
リビアの表情が柔らかくなる。
「私も好き」
「うん」
「明日も?」
「急に明日の確認するの?」
「だって」
「明日も好きだと思うよ」
「思う?」
「今のところ、変わる理由ないし」
「そこは『好き』って言って」
「好き」
「うん」
満足したらしい。
リビアが笑って部屋へ入る。
扉が閉まったあと、俺は自分の部屋へ向かった。
◇
ベッドへ入ってから、今日のことを思い返した。
大きな事件は何もなかった。
研究も進んでいない。
実技確認の新しい決定もない。
ライゼルのことも動かなかった。
ただ授業を受けて、友達と昼を食べて、リビアと帰って、本を読んだ。
その中で一つだけ、自分の中の何かが変わった。
(婚約者としてちゃんと出来るか分からないから、婚約者になれない)
以前の俺はそう考えていた。
でも、順番が逆だったのかもしれない。
最初から全部出来る必要はない。
知らないことがあれば覚える。
出来ないことがあれば助けてもらう。
立場が変われば、その時に必要なことを学ぶ。
それは剣や魔術と同じだ、と簡単にまとめるつもりはない。婚約も貴族社会も人との関係で、失敗した時に影響するものが違う。
それでも、分からないというだけで最初から諦める必要はない。
(俺はリビアの隣にいたい)
その気持ちはもう分かっている。
好きだ。
一緒にいたい。
未来にもいてほしい。
だから、婚約者として知らないことがあるなら学べばいい。
今日、父さんへ初めて自分から「婚約者としての勉強」を聞いた。
それはまだ小さな一歩なのだと思う。
明日から急に何かが始まるわけでもない。
父さんも旦那様と相談すると言っていた。
俺は連絡を待てばいい。
(待ってる間は、普通に学校行けばいいか)
授業を受ける。
友達と話す。
剣を振りたい日は振る。
研究の時間が決まれば研究する。
リビアと一緒にいたければ、一緒にいる。
そうやって過ごしていけばいい。
公爵令嬢の婚約者。
その言葉は、まだ少しだけ大きい。
けれど以前のように、聞いただけで「俺には無理だ」と思う言葉ではなくなっていた。
いつか、本当に何の引っかかりもなく自分の立場として受け入れられる日が来るのかもしれない。
今はまだ、そこまで分からない。
それでも――分からないから逃げる必要はない。
(明日も、リビアの隣にいよう)
婚約者だからではなく。
誰かに決められたからでもなく。
俺自身が、そこにいたいと思っているから。
そう考えながら目を閉じると、今日は何かを証明しなければならないような焦りもなく、静かな眠気がゆっくりと降りてきた。




