第55話 好きだと分かっても、俺たちの日常はちゃんと続いていく
告白してから二日目の朝。
目を覚ました俺は、昨日より先に自分の身体の状態を確かめた。
右腕をゆっくり曲げ伸ばししてみると、アルフォルドとの剣術交流で残っていた重さはほとんど消えている。脚の疲労も昨日より明らかに軽く、立ち上がって数歩歩いてみても気になるところはなかった。
(今日は大丈夫そうだな)
だからといって、すぐ剣を持って庭へ向かうわけではない。
昨日、イザークとは放課後に軽く合わせる可能性を話している。
朝にも振って、放課後にも振る必要はない。
(朝はなし。放課後、授業が終わった時の状態で決める)
それでいい。
以前なら、身体が動くなら朝もやっておこうと考えたかもしれない。今は一日にどれだけ詰め込めるかではなく、何をする必要があるかで決められるようになっていた。
身支度を整え、部屋を出る。
廊下へ出た瞬間。
(リビア、もう起きてるかな)
昨日と同じように浮かんだ。
でも、今日はそれだけで顔が熱くなることはなかった。
好きだから会いたい。
その理由を自分で知っていることにも、少しずつ慣れてきたらしい。
階段へ向かう途中、角の向こうから聞き慣れた足音がした。
少しだけ期待する。
現れたのは父さんだった。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
(父さんか)
ほんの少し残念に思った直後、父さんが足を止めた。
「どうした」
「何が?」
「今、明らかに少し残念そうな顔をしただろう」
「……してました?」
「していた」
父さんは俺の顔をしばらく見てから、何かに気づいたように視線を廊下の奥へ向けた。
「オリビア様ではなかったからか」
「何で分かるんですか」
「分かりやすい」
「そんなに?」
「少なくとも私にはな」
昨日から何人に同じようなことを言われただろう。
「俺、前からそんなに分かりやすかった?」
「以前は別の意味で分かりやすかった」
「別の意味?」
「オリビア様のことになると優先順位が極端に上がるのに、本人だけが理由を正確に理解していなかった」
「……」
言い返せない。
父さんがわずかに口元を緩める。
「今は理解したようだな」
「もしかして、昨日のこと知ってます?」
「詳細は知らん」
「本当に?」
「アルセス様と同じ答えになるが、屋敷内で何かあったことくらいは分かる」
「屋敷って怖いな……」
「お前も使用人側だろう」
「そうでした」
忘れていたわけではない。
ただ、自分が観察される側になると感覚が違う。
「それより身体はどうだ」
父さんの声が仕事のものへ戻る。
「右腕の重さはほぼ消えました。脚も問題ありません。ただ、朝は振りません」
「理由は?」
「放課後、状態がよければイザークと軽く合わせる話をしてるので。朝と放課後の両方でやる必要はないかなって」
「分かった」
それだけ。
父さんは俺の判断を変えようとしなかった。
俺も追加で許可を求めなかった。
「じゃあ、先に行く」
「はい」
父さんが歩き出す。
数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
「クルセス」
「何?」
「オリビア様なら、先ほど庭の方へ向かわれた」
「……ありがとうございます」
「別に探してはいないか?」
「探してます」
今度は素直に答えた。
「そうか」
父さんはそれ以上何も言わず去っていった。
俺は庭へ向かう。
◇
朝の庭では、リビアが花壇の前にいた。
散歩中らしく、手には何も持っていない。
俺が近づくと、向こうもすぐ気づいた。
「セス。おはよう」
「おはよう、リビア」
昨日より普通に挨拶出来た。
でも、嬉しい。
「今日は剣してないのね」
「放課後にイザークと軽く合わせるかもしれないから、朝はなし」
「身体は?」
「ほぼ戻った。放課後にもう一回確認してから決める」
「うん」
リビアはそれ以上何も言わない。
「散歩?」
「そう。朝食まで少し時間があったから」
「一緒に歩いていい?」
「もちろん」
隣へ並ぶ。
昨日と同じ庭だ。
でも今日は最初から近い。
「セス」
「何?」
「昨日より普通になったね」
「何が?」
「私と会った時」
「ああ」
昨日は挨拶だけで二人とも固まった。
思い出すと少し恥ずかしい。
「慣れたのかも」
「もう?」
「全部じゃないよ」
「例えば?」
聞かれて考える。
視線がリビアの横顔へ向く。
朝の光を受けた銀青色の髪が綺麗だった。
「綺麗だなって思った時は、まだちょっと緊張する」
リビアの足が止まった。
俺も二歩ほど進んでから止まる。
「……セス」
「何?」
「それ、口に出す必要あった?」
「聞かれたから」
「そうだけど……」
頬が赤い。
「やっぱりリビアはまだ慣れてないね」
「誰のせい?」
「俺?」
「セス」
怒られた。
でも笑っている。
俺も戻って隣へ並ぶ。
「今日、放課後は委員会ある?」
「少しだけ。昨日はなかったけど、今日は実技確認の雨天時導線について先生から返事が来る予定なの」
「前に言ってた、屋根付き通路を一方通行にするかもしれないやつ?」
「うん。それと、雨だった場合に待機教室を一つ追加出来るか確認してもらってたでしょう?」
「それも今日?」
「たぶん。まだ最終決定じゃないけどね」
「そっか」
以前なら、そのまま細かく聞いたかもしれない。
どの教室か。
何人入るのか。
移動時間は。
でも今は委員会で確認する段階だ。
「決まったら教えて」
「うん」
「俺は放課後、身体が大丈夫ならイザークと剣」
「その後は?」
「今のところ何もない」
「ベルナルト先生のところは?」
「予定入ってないよ」
「そっか」
そこで会話が止まる。
朝食まで、あと少し。
歩きながら手を繋ぎたいと思った。
でも屋敷の庭には庭師がいる。
だから駄目、というわけでもない。
婚約者なのだから隠す必要もない。
(どうしよう)
迷っていると、リビアの手が少し近づいた。
指先が俺の手の甲へ触れる。
偶然かと思った。
もう一度触れた。
今度は分かる。
「リビア」
「何?」
「手?」
「……繋ぎたい」
小さな声だった。
「俺も」
手を重ねる。
指を絡める。
昨日は俺からだった。
今日はリビアから。
それだけの違いなのに嬉しい。
「言えるね」
俺が言う。
「何が?」
「リビアからも、繋ぎたいって」
「前から言ってたよ?」
「そうだけど」
少し考える。
「今は俺も同じ意味で分かるから」
リビアがこちらを見る。
「同じ意味?」
「リビアが好きだから触れたいっていう意味」
「……」
「リビア?」
「朝から強い」
「またそれ?」
「またです」
それでも手は離れなかった。
◇
学園へ着いて最初の授業は、魔術理論だった。
今日の内容は術式構築そのものではなく、魔力出力を変化させる時にどの段階で誤差が生まれやすいかという基礎的な話だった。
俺にとっては興味深い。
少し前にやった出力調整の実技ともつながる。
ただし、教師は実技の時と同じように何度も強調した。
「理論上理解したからといって、授業外で勝手に出力変化を繰り返す必要はありません。特に自分の不得意な範囲を見つけた直後ほど、試したくなる者がいますが、確認は次の実技時間で十分です」
何人かがこちらを見た。
「何で俺見るの?」
小声で言うと、前の席のイザークが振り返った。
「代表だから」
「何の?」
「試したくなる人」
「今日はやらないよ」
「本当か?」
「放課後は剣の予定だし、魔術まで追加する必要ないだろ」
「ならいい」
「何でイザークに確認されるんだよ」
「友達だから?」
あっさり返される。
「……それならいいか」
「いいのかよ」
イザークが笑う。
教師から視線が飛んできたので、そこで会話を止めた。
黒板へ向き直る。
出力の増加時と減少時では、同じ幅を動かす場合でも制御の感覚が一致するとは限らない。
俺は以前の実技で、一から二へ上げるより、二から一へ戻す方にわずかな癖があった。
今日はその理由を理論だけで断定しない。
ノートへ書く。
『上昇と下降で変換操作が同じとは限らない。次回実技で確認』
その横へ、もう一つ。
『勝手に追加確認しない』
書いてから、自分で少し笑った。
前なら書かなかった注意だ。
◇
授業が終わった後、ベルナルト先生に呼び止められた。
「クルセス、少しいいか」
「はい」
リビアも足を止める。
先生は俺たち二人を見た。
「オリビアもいた方がいい。今すぐ研究を始める話ではないから、廊下で構わない」
「分かりました」
何だろう。
先生が手に持っていた薄い資料束から一枚だけ抜く。
「以前調べていた古い測定器の材料についてだ」
意識が研究へ切り替わる。
「灰透晶ですか?」
「それも含む」
その言い方に引っかかった。
先生は紙へ三つの名前を書いた。
『灰透晶』
『薄灰晶石』
『響晶薄片』
「これまで資料が別々に出てきたせいで、少し整理が必要になった」
「はい」
「最初の古い記録では、装置に使われた材料として灰透晶という名称が出た。現代の材料一覧と照合した際、名称や一部の性質が近いものとして薄灰晶石が候補に挙がった」
「でも、同じものとは確定してない」
「その通りだ」
先生が頷く。
「その後、別系統の資料から響晶、あるいは薄片状に加工された響晶薄片という記述が出た。変化を伝える、あるいは揺れを拾うという機能記述が古い装置の中継板と似ていたため候補へ加えたが――」
「灰透晶と響晶が同じものだとは、まだ言えない」
俺が言うと、先生が満足そうに頷いた。
「むしろ現時点では、分けて考えた方がいい」
重要だ。
似た役割の記述があるからといって、同じ材料とは限らない。
「薄灰晶石は?」
「灰透晶との対応候補のままだ。先日確認した材料目録では、急な流入を和らげるような記述があり、古い灰透晶の説明と似る部分が増えた。ただし、それだけで同一と断定は出来ない」
「じゃあ今は……」
俺は紙を見る。
「灰透晶が古い記録上の名前。薄灰晶石が現代側の対応候補。響晶系は機能の似た別候補」
「そう整理しておけ」
「分かりました」
頭の中が少しすっきりする。
俺は以前から三つがどうつながるのか気になっていた。
でも、つながっている前提で考える必要はない。
「それで、次に調べるなら材料そのものですか?」
「候補は二つある」
先生が指を二本立てる。
「一つは同時代の材料目録を増やし、灰透晶という語が地域や時期で別名を持っていないか確認すること。もう一つは、装置そのものではなく、同時代の魔力制御技術で『常に最大を与えず、変化に応じて調整する』考え方がどの程度一般的だったかを見ることだ」
リビアが反応する。
「結界の記録にも近いですね」
「ああ。ただし、ここで同じ技術だと結論づけてはいけない」
「はい」
「似た思想が複数分野に存在した可能性を見るだけだ。測定器と結界を直接つなげる話ではない」
俺も頷く。
「それなら、資料を並べて共通する言葉を探す?」
「それも一つの方法だが、今日は決めない」
先生が紙を俺へ渡した。
「次の研究時間もまだ決めていない。これは整理用だ。持っておけ」
「ありがとうございます」
紙を受け取る。
今すぐ図書室へ行って調べたくなる。
少しだけ。
(でも今日はやらない)
放課後にはイザークとの剣が候補にある。
リビアには委員会がある。
研究時間も正式には決まっていない。
「先生」
「何だ」
「次の時間が決まるまでは、これ整理するだけにします」
「それでいい」
先生はそれ以上何も言わず去っていった。
俺は手元の紙を見る。
「セス」
「何?」
「今、調べたくなったでしょう?」
「なった」
「やっぱり」
「でもやらない」
「うん」
リビアが笑う。
「次があるものね」
「そういうこと」
紙をノートへ挟む。
研究は逃げない。
◇
昼休み。
今日はアルフォルドが別の予定で来られず、いつもの席には俺、リビア、イザーク、サザリー、ミリアナ、ナナリー、カイゼル殿下が集まった。
「で、腕は?」
またイザークが聞く。
「朝より軽い」
「脚は?」
「問題なし」
「じゃあ放課後どうする?」
「二十分くらいならやりたい」
「了解」
「固定した目印を使うやつ、少し試す?」
以前話していた練習だ。
互いの距離や踏み込み位置を一定の目印で確認しながら合わせる。
イザークがすぐ頷く。
「いいな。ただし二十分全部それじゃなくていいだろ?」
「うん。最初に普通に合わせて、その後少しだけ」
「決まり」
ここで日程が初めて確定した。
今日、放課後。
二十分程度。
身体状態に問題がなければ実施する。
「クルセス」
サザリーが呼ぶ。
「何?」
「こちらも一つだけ進展がある」
「三回目の共同課題?」
「ああ。ただし、まだ実施日は決まっていない」
前置きしてから話すところがサザリーらしい。
「ハロルド先生から、課題を君が作る案について正式に検討してもいいと言われた」
「正式に?」
「次に行う場合、その形式を採用する可能性が高い。ただし課題内容をどう確認するか、先生が先に条件を決めるそうだ」
「じゃあ、俺はまだ作らない方がいい?」
「そうしてほしい。条件が来る前に作ると、また作り直すことになる」
「分かった」
以前の俺なら、候補だけでも三つくらい考えていたかもしれない。
今は待てる。
「楽しみだな」
「私もだ」
「サザリーが解く側になるんだよね?」
「ああ」
「難しくしすぎないようにする」
「手加減されるのも困る」
「じゃあ難しくする」
「極端だな」
「冗談」
サザリーが小さく笑う。
その横でカイゼル殿下が俺を見ていた。
「クルセス」
「何ですか?」
「今日は随分研究の話へ戻ったな」
「戻った?」
「昨日は恋愛の話題が大半だっただろう」
「殿下が振ったからじゃないですか」
「そうだったか?」
「そうです」
リビアが笑う。
ミリアナも頷いた。
「でも、いいんじゃない? クルセスらしくて」
「何が?」
「告白したからって一日中リビア様だけ見てるわけじゃないところ」
俺は少し考える。
「見る時は見るよ」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ何?」
「剣も魔術も研究も友達も、そのまま大事にしてるってこと」
「ああ」
それなら分かる。
「リビアが好きになったからって、他がいらなくなるわけじゃないから」
「うん」
「むしろ――」
言いかけて止まる。
「何?」
リビアが聞く。
「いや」
「言いかけたでしょう?」
「言っていい?」
「内容によるけど……何?」
「リビアのことだけになったら、リビアも嫌かなって」
彼女が瞬きをする。
「嫌っていうか、心配すると思う」
「だよね」
「セスが好きなことをやってるの、私も好きだもの」
今度は俺が止まった。
「……そうなんだ」
「うん。剣を振ってる時も、難しい本読んでる時も、研究で楽しそうにしてる時も」
「そっか」
嬉しい。
かなり。
「じゃあ俺も同じ」
「同じ?」
「リビアが結界調べてる時とか、委員会やってる時とか、剣振ってる時も好き」
リビアが赤くなる。
ミリアナが額へ手を当てた。
「クルセス」
「何?」
「その『好き』、今の意味が二つ重なってるから強いわよ」
「二つ?」
「リビア様がそうしてる姿が好き、っていうのと、リビア様本人が好きっていうの」
「ああ」
確かに。
「両方だよ」
「セス!」
リビアに止められた。
イザークが笑い、ナナリーまで口元を押さえている。
カイゼル殿下は楽しそうだ。
サザリーだけはいつも通りだったが、よく見ると少し笑っていた。
「何?」
「いや」
「サザリーまで笑ってるだろ」
「君が以前より分かりやすくなっただけだ」
「みんなそれ言うな……」
昼食の席に笑いが広がった。
◇
午後の授業が終わる頃、身体の疲労は二程度だった。
右腕にも問題はない。
予定通り、イザークと第二剣術訓練場へ向かう。
リビアは委員会だ。
「じゃあ後でね」
「うん。無理しないで、は言わなくていい?」
少し考える。
「言ってもいいよ。でも今日は自分で止める」
「分かってる」
リビアが笑う。
「じゃあ、楽しんできて」
「うん。リビアも委員会頑張って」
「行ってきます」
別れる。
寂しくないわけではない。
でも、また屋敷で会える。
それで十分だ。
訓練場では、イザークがすでに木剣を二本用意していた。
「二十分な」
「うん」
「俺が熱くなっても止めろよ」
「それ、俺が言われる方じゃない?」
「今日はお互いだ」
「じゃあそうしよう」
教師へ使用を届け出てから、準備運動をする。
最初の五分は軽い打ち合い。
強く踏み込まない。
速度も抑える。
昨日アルフォルドと本気に近い剣を交えた直後なので、勝敗をつけるためではなく身体の動きを確認する程度だ。
「行くぞ」
「うん」
イザークが踏み込む。
木剣を受ける。
乾いた音が訓練場へ響いた。
俺は半歩下がり、角度を変える。
イザークも追いすぎない。
「昨日より遅いな」
「今日はこれでいい」
「俺も」
もう一度。
受ける。
流す。
踏み込む。
でも最後まで打ち込まず止める。
互いに距離を取った。
「やっぱりお前、止め方変わったな」
イザークが言う。
「剣?」
「ああ。前は行けると思ったら、そのまま最後まで行く感じだった」
「今は?」
「途中で状況変わったら止まる」
昨日のアルフォルドとの剣でも、似たことがあった。
最初に決めた動きを最後まで通すことより、その瞬間の相手を見る。
魔術の出力制御でも同じように、停止指示へ反応する練習をした。
でも全部を同じ理屈だと決めるつもりはない。
「剣では、今の方がやりやすい気がする」
「俺はやりにくいけどな」
「何で?」
「読んだ通りに来ないから」
「それはごめん」
「褒めてんだよ」
笑う。
次に、床の線を使った距離確認へ移る。
訓練場には立ち位置確認用の細い線が何本か引かれている。
一本を基準にして、俺とイザークが一定距離から向かい合う。
「最初は俺から行く」
「分かった」
イザークが踏み込む。
俺は受けずに一歩下がる。
「止め」
二人で止まる。
足の位置を見る。
「俺、思ったより前出てるな」
「最初の一歩が大きい」
「クルセスは?」
「俺は後ろに下がりすぎてるかも」
勝敗ではなく、位置を見る。
もう一度。
今度は俺から。
踏み込む。
イザークが下がる。
「止め」
見る。
「お前、最初の一歩小さいのに二歩目で一気に来るな」
「本当だ」
「意識してる?」
「してない」
「じゃあ癖かもな」
「次、二歩目だけ少し抑えてみる」
「やってみよう」
試す。
結果を見る。
それだけ。
何度も繰り返さない。
十数分が経ったところで、イザークが木剣を下ろした。
「あと五分くらい?」
「うん」
「どうする?」
身体を確認する。
疲労は三。
腕に痛みなし。
もう少し出来る。
でも、新しい発見はすでにあった。
「今日は終わってもいい気がする」
「俺も」
「じゃあ終わり」
予定より少し早い。
それでも何も困らない。
木剣を戻す。
「次やるなら、二歩目の距離もう一回見たい」
「俺は最初の踏み込みだな」
「次いつにする?」
「今決めなくてよくないか?」
イザークが言う。
俺は少し驚いた。
「イザークからそれ言うんだ」
「何だよ」
「いや、前なら明日とか言うかと思った」
「お前だけ成長してると思うなよ」
「ごめん」
「謝るな。俺だって昨日の殿下との試合見て、詰め込みすぎても意味ないって分かったんだ」
「じゃあ次はまたやりたくなった時で」
「おう」
それで終わった。
◇
屋敷へ戻ったのは、俺の方が少し早かった。
リビアは委員会がある。
昨日までなら、そのまま部屋へ戻っていたかもしれない。
今日は玄関広間で少しだけ立ち止まった。
(待つ?)
でも委員会が何時に終わるか正確には分からない。
ここでずっと待つ必要はない。
俺は自室へ戻った。
ベルナルト先生からもらった紙を机へ置く。
三つの材料名。
灰透晶。
薄灰晶石。
響晶薄片。
整理したくなる。
でも先生からも、次の研究時間は未定だと言われた。
だから紙を研究ノートの該当箇所へ挟むだけにする。
代わりに、今日イザークと確認した剣の距離を数行だけ記録した。
『一歩目は小さめ。二歩目で距離が伸びる傾向。次回確認候補。』
それだけ。
ノートを閉じる。
(今日はここまで)
窓の外を見る。
まだリビアの馬車は戻っていない。
会いたい。
でも待てる。
俺は借りている物語の本を取り出した。
以前なら研究資料を開いていた時間に、普通の物語を読む。
二十分ほど経ったところで、遠くから馬車の音がした。
文字を追っていた目が止まる。
(帰ってきた)
立ち上がる。
少し迷う。
そして笑った。
(会いたいなら行けばいいか)
昨日もそうだった。
理由を作る必要はない。
俺は本を閉じて部屋を出た。
◇
玄関広間へ着いた時、ちょうど扉が開いた。
リビアが入ってくる。
俺を見つける。
表情が変わる。
「セス」
「おかえり」
「ただいま」
昨日も同じことをした。
でも今日はリビアがすぐ聞いた。
「迎えに来てくれたの?」
「うん」
「馬車の音が聞こえたから?」
「それもある」
「他は?」
何を期待しているのか分かった。
俺は少し笑う。
「会いたかったから」
リビアの頬が赤くなる。
「……やっぱりまだ慣れない」
「俺は言うの慣れてきたかも」
「早いよ」
「でも本当だから」
「うん」
使用人が近くにいるので抱きしめたりはしない。
そのまま並んで歩く。
「委員会どうだった?」
「進んだよ」
「決まった?」
「一部は」
リビアの声が委員会の報告へ変わる。
「雨天時は、東側の屋根付き通路の狭い区間を一方通行にする方針で先生の了承が出たの。ただ、どちら向きに流すかは当日の実技順と合わせる必要があるから、まだ最終確定じゃない」
「なるほど」
「追加の待機教室は使えることになった」
「それは決定?」
「うん。雨天時のみ第二予備教室を開けることになった。ただ、誰をそっちへ振り分けるかは次の委員会で決める」
全部が一度に決まったわけではない。
一つ進み、一つ残る。
「じゃあ、雨の日の混雑は少し減りそうだね」
「そう思う。でも実際の人数配置を見ないと分からないから、まだ安心は出来ないかな」
「歩いて確認するの?」
「候補には出た。でも、まだ実施すると決まってない」
「そっか」
そこも未確定。
「セスは剣どうだった?」
「予定より少し早く終わった」
「何かあった?」
「逆。確認したかったこと見られたから、続けなくていいかなって」
「何を見たの?」
「俺、一歩目より二歩目の方が距離伸びるみたい」
「へえ」
「自覚なかった」
「今度、私とやる時にも見てみる?」
以前から約束している、俺とリビア自身の剣の時間。
「やりたい」
「じゃあ日程決める?」
一瞬考える。
今週の授業。
委員会。
研究。
俺の身体。
「今じゃなくてもいい?」
「もちろん」
「お互い予定分かってから決めたい」
「うん」
また一つ、予定を無理に確定しなかった。
でも「やりたい」はちゃんと言えた。
◇
夕食後。
今日は身体の疲労もそれほど高くない。
本を読むことも出来る。
リビアも委員会の資料整理は終わったらしい。
「今日、どうする?」
廊下で聞かれた。
「本読む?」
「読んでもいいけど」
「けど?」
俺は少し考えた。
昨日までなら、本を読むことを理由に一緒にいた。
それが嫌だったわけではない。
今も本は読みたい。
でも今日は別のことをしたい。
「何もしないで一緒にいるのは?」
リビアが瞬きをする。
「何もしない?」
「うん」
「お話するってこと?」
「話してもいいし、話さなくてもいい」
「……それ、したいの?」
「したい」
自分で言ってみると、少し不思議だった。
目的がない。
研究もしない。
読書もしない。
相談もしない。
ただ一緒にいる。
「じゃあ、談話室行く?」
「うん」
昨日告白した場所。
そこへ二人で向かう。
今度は緊張しない。
◇
談話室へ入る。
昨日と同じ魔導灯。
同じソファ。
同じテーブル。
でも今日は最初から隣へ座った。
「本当に何もしないの?」
リビアが聞く。
「うん」
「セスが?」
「何でそこ強調するの?」
「だって、セスって何かしてること多いでしょう?」
「それはそうだけど」
「剣とか、魔術とか、勉強とか、研究とか、執事の仕事とか」
「うん」
「何もしないで一緒にいたいって、ちょっと珍しい」
「俺もそう思う」
背もたれへ身体を預ける。
リビアも同じように座る。
しばらく、本当に何もしなかった。
時計の針が進む音が聞こえる。
廊下の遠くを誰かが通る。
窓の外では風が木々を揺らしているらしく、ときどき葉の擦れる音がした。
気まずくない。
むしろ落ち着く。
「セス」
「何?」
「本当に何もしないね」
「嫌?」
「ううん」
リビアが少し笑う。
「好き」
その言葉に反応する。
「俺が?」
「この時間が」
「ああ」
「……セスも好きだけど」
今度は俺の方が固まった。
リビアがこちらを見る。
「何?」
「いや」
「顔赤いよ?」
「急に言うから」
「セスだって昨日からいっぱい言ってるでしょう?」
「言われるのはまだ慣れてない」
「私だって慣れてないよ」
「じゃあ同じだ」
二人で笑う。
少しして、リビアの肩が俺の肩へ触れた。
そのまま預けてくる。
俺も少し身体を寄せる。
「手、繋ぐ?」
聞く。
「今日はいい」
リビアが答えた。
「分かった」
嫌ではない。
肩が触れている。
それで十分らしい。
俺も十分だった。
「セス」
「うん?」
「告白してから、何か変わった?」
少し考える。
「いっぱい変わった気もするし、あんまり変わってない気もする」
「どういうこと?」
「リビアが好きって分かった」
「うん」
「それをリビアも知ってる」
「うん」
「前より、会いたいとか触れたいとか言いやすくなった」
「それはすごく分かる」
「でも」
談話室を見回す。
「こうやって一緒にいるのは前からだろ?」
「うん」
「学園でも普通に授業受けるし、俺は剣や研究やるし、リビアは結界も委員会もやる」
「うん」
「だから、全部変わったわけじゃない」
リビアが肩を預けたまま頷く。
「私もそんな感じ」
「そう?」
「うん。ずっとセスが好きだったから、私の中では好きな人が変わったわけじゃないし」
「ああ、そっか」
「でもセスも私を好きなんだって知ってるのは、全然違う」
「どう違う?」
リビアが少し黙る。
「前はね」
「うん」
「手を繋ぎたいって言う時、少しだけ考えてたの」
「何を?」
「セスは嫌じゃないかなって」
俺は彼女を見る。
「嫌じゃなかったよ」
「今は知ってる」
「うん」
「でも前は、セス自身もよく分かってなかったでしょう?」
「そうだね」
「私が繋ぎたいから繋いでくれてるだけかもしれないって思う時もあった」
そうだった。
実際、最初はそういう部分が大きかった。
「今は?」
「セスも繋ぎたい時があるって知ってる」
「あるよ」
「うん」
リビアが笑う。
「だから安心する」
俺の胸の中に、少しだけ引っかかるものが生まれた。
罪悪感ではない。
過去の自分を責めたいわけでもない。
ただ、今なら言えることがある。
「リビア」
「何?」
「前、分かってなくてごめんって言ったら怒る?」
「少し」
「じゃあ言わない」
「うん」
「代わりに」
一度息を吸う。
「これからは、分かったことはちゃんと言う」
リビアが顔を上げる。
「全部?」
「全部は無理かも」
「ふふっ」
「でも、言った方がいいことは」
「うん」
「会いたいとか、触れたいとか、嫌な時は嫌とか」
「うん」
「分からない時は分からないも」
「それ大事」
「好きも」
リビアの目が少し大きくなる。
「それも?」
「言いたい時は」
「……うん」
肩がまた触れる。
「今は?」
リビアが聞いた。
「何が?」
「言いたい?」
意味が分かる。
少しだけ意地悪な聞き方だと思った。
「言わせたい?」
「……ちょっと」
「じゃあ言わない」
「えっ」
リビアが身体を起こす。
俺は笑ってしまった。
「冗談」
「セス!」
「ごめん」
「もう!」
「でも、今は言いたいよ」
リビアが止まる。
俺は彼女を見る。
「好きだよ、リビア」
まだ少し恥ずかしい。
でも昨日より自然に言えた。
リビアの頬が赤くなる。
「私も好き」
「うん」
そこで終わる。
何度も繰り返さない。
抱きしめもしない。
ただ、また肩を寄せる。
それからしばらく、本当に何もしなかった。
◇
部屋へ戻る時間になった。
談話室を出て、並んで廊下を歩く。
「今日、何もしなかったね」
リビアが言う。
「したよ」
「何を?」
「話した」
「それだけ?」
「一緒にいた」
リビアが笑う。
「それを『した』に入れるの?」
「入れていいんじゃない?」
「そっか」
「俺は結構好きだった」
「私も」
リビアの部屋の前へ着く。
今日は手を繋いでいない。
抱きしめてもいない。
でも、近い。
「明日は委員会?」
「明日はないよ」
「じゃあ帰り一緒だね」
「うん。セスは?」
「今のところ追加予定なし。イザークとの剣も次は決めてない」
「研究も?」
「ベルナルト先生から日程来るまでは待つ」
「サザリーとの課題は?」
「先生の条件待ち」
「待つものいっぱいだね」
「本当だ」
以前なら落ち着かなかったかもしれない。
今はそれぞれが進むべき時に進めばいいと思える。
「じゃあ明日」
「うん」
「おやすみ、リビア」
「おやすみ、セス」
リビアが扉へ手をかける。
その直前。
「セス」
「何?」
「今日は抱きしめなくていい?」
聞かれて、自分の気持ちを確認する。
したくないわけではない。
でも、今はさっきまで肩を寄せていた余韻が残っている。
「今日はいいかな」
「そっか」
「嫌?」
「ううん」
リビアが柔らかく笑う。
「私も、今日はこれでいい」
「うん」
「でも」
「何?」
「好きって言って」
少し笑ってしまう。
「それは欲しいんだ?」
「欲しい」
素直だ。
「好きだよ」
「私も好き」
それで十分だった。
◇
自分の部屋へ戻る。
今日一日を思い返す。
朝はリビアと庭を歩いた。
魔術理論では、出力調整について学んだ。
ベルナルト先生から古い測定器の材料候補を整理してもらった。
灰透晶。
薄灰晶石。
響晶薄片。
三つを勝手に同一視しない。
次の研究時間は未定。
サザリーとの三回目の共同課題は、俺が課題を作る形式が正式な検討対象になったが、先生から条件が来るまでは作らない。
リビアの委員会では、雨天時の第二予備教室使用が決定した。
屋根付き通路の一方通行化は方針として了承されたが、流す方向は未確定。
雨天時の実地確認もまだ候補のまま。
イザークとは初めて固定した目印を使って距離を確認した。
俺は一歩目より二歩目で距離が伸びる傾向がある。
次回は未定。
いろいろ進んだ。
でも、今日一番印象に残っているのは研究でも剣でもなかった。
(何もしないで一緒にいた時間)
不思議だった。
以前の俺なら、時間が空いているなら何か出来ることを探した。
勉強。
鍛錬。
仕事。
研究。
リビアと一緒にいる時でさえ、本を読むとか、相談するとか、何か理由がある方が安心した。
今日は違った。
ただ一緒にいたかった。
そして、それで満足出来た。
(これも、俺がしたかったことなんだな)
自分が欲しいものを選ぶ。
休むことも。
友達と剣を振ることも。
研究を待つことも。
好きな人と何もしない時間を過ごすことも。
全部、自分で選んでいい。
俺はベッドへ横になった。
明日の予定を頭の中で並べかける。
そこで止める。
(明日のことは、明日でいいか)
決まっている授業だけ受ければいい。
研究の日程は先生から連絡が来る。
共同課題も条件待ち。
剣も身体と予定を見て決める。
リビアとは、きっとまた会う。
それで十分だ。
目を閉じる。
告白したからといって、俺の毎日が恋愛だけになったわけではなかった。
剣もある。
魔術もある。
研究もある。
友達もいる。
執事としての仕事も、シルフィール伯爵家の養子として覚えるべきことも残っている。
そして、その全部がある俺の生活の中に、リビアを好きだという気持ちも自然に存在している。
(たぶん、これでいい)
無理に変わらなくていい。
好きだからこそ、今までの俺たちを捨てる必要もない。
ただ、言いたいことを少しずつ言えるようになった。
欲しいものを欲しいと言えるようになった。
それだけで、昨日までの日常とは少し違って見える。
(おやすみ、リビア)
同じ屋敷の別の部屋にいる彼女へ、心の中だけでそう言った。
そして俺は、明日のために何かを考え足すことなく、そのまま目を閉じた。




