第54話 両想いになった翌朝、いつも通りにするのが一番難しい
目が覚めた瞬間、最初に浮かんだのは昨日の剣術交流ではなかった。
カーテンの隙間から差し込む朝の光をぼんやり眺めながら、まだ眠気の残る頭の中へ最初に蘇ったのは、談話室で泣きながら笑っていたリビアの顔だった。
(……好きって言ったんだよな)
昨日までなら、その言葉を頭の中へ置くだけでも少し時間が必要だった。
今は違う。
(俺はリビアが好きだ)
ちゃんと分かる。
それどころか。
(結婚したいってところまで言ったんだよな……)
布団の中で顔を覆った。
あの時は自然に出た。
嘘ではない。
後悔もしていない。
ただ、一晩経ってから思い返すとものすごく恥ずかしい。
好きだと何度も言った。
抱きしめてもいいかと聞いた。
自分から抱きしめた。
婚約者でいたいと言った。
そして最後には、リビアと結婚したいとまで言った。
(……昨日の俺、すごいな)
他人のことみたいに思ってしまう。
でも全部、俺が言った。
しかも言わされたわけではない。
俺が言いたかった。
そのことを思い出すと、恥ずかしさとは別の温かさが胸の奥へ広がった。
俺はしばらく布団の中で昨日のことを思い返していたが、やがて天井を見上げた。
(起きよう)
いつまでも寝ているわけにはいかない。
身体の状態を確認する。
剣術交流の翌日だ。
右腕にはまだわずかな重さが残っている。痛みと呼ぶほどではないが、昨日打ち合った場所を押せば軽い違和感があり、脚にも普段より少しだけ疲労が残っていた。
(今日は剣、なしだな)
迷わなかった。
朝の鍛錬を休んだところで、何かが失われるわけではない。
昨日はアルフォルドと十分に剣を振った。
今日は身体を戻す日でいい。
そう決めてから起き上がり、窓を開けた。
朝の涼しい空気が部屋へ入ってくる。
いつもの朝だ。
昨日、リビアと両想いになったからといって、空の色が変わったわけでも、屋敷の造りが変わったわけでもない。
それなのに。
(早く会いたい)
思った瞬間、自分で笑ってしまった。
これも、もう理由を考える必要はなかった。
◇
身支度を整えて部屋を出る。
普段より少し早かった。
別にリビアを探しに行くと決めていたわけではない。
でも廊下を歩きながら、自然と彼女の部屋がある方向を気にしている。
(……いや、これ探してるな)
認める。
会いたいから探している。
ただし、部屋まで迎えに行くのは違う気がする。
朝の支度もあるだろうし、邪魔はしたくない。
そう考えながら階段へ向かっていると、上の階から足音が聞こえた。
顔を上げる。
リビアだった。
「あ」
声が重なった。
「セス」
「リビア」
昨日まで何度も呼んできた名前だ。
なのに、お互いその場で止まった。
リビアは淡い色の朝用ドレスを着ており、銀青色の髪もいつも通り綺麗に整えられている。
見慣れている。
毎朝のように見てきた。
それなのに。
(……好きな子だ)
昨日から何度目か分からない言葉が浮かぶ。
途端に顔が熱くなった。
そしてリビアの頬も、ほとんど同じタイミングで赤くなった。
「お、おはよう」
「おはよう」
挨拶する。
それだけだ。
ただの朝の挨拶なのに、その後が続かない。
「……」
「……」
廊下の窓から朝日が差し込んでいる。
少し離れた場所では使用人が一人、花瓶の花を整えていた。
こちらを見てはいない。
たぶん。
「昨日は、よく眠れた?」
先に口を開いたのはリビアだった。
「うん。寝る前にちょっと昨日のこと思い出したけど」
「……どの辺?」
「好きって言ったところとか」
リビアの頬が一気に赤くなる。
「朝から言うの?」
「聞かれたから」
「そうだけど……!」
「あと、結婚したいって言ったところ」
「セス!」
思ったより大きな声が出たらしい。
花瓶を整えていた使用人の肩がわずかに揺れた。
俺とリビアが同時にそちらを見る。
使用人は何も聞いていなかったような顔で、ものすごく丁寧に花の向きを直している。
「……聞かれたかな」
俺が小声で言う。
「絶対聞かれた」
「でも婚約してるんだから、結婚したいって言っても変じゃないだろ?」
「そういう問題じゃないの!」
「違うの?」
「違う!」
リビアは真っ赤な顔のまま階段を下り始めた。
俺も隣へ並ぶ。
「怒った?」
「怒ってない」
「じゃあ恥ずかしい?」
「セスも分かってるでしょう?」
「うん」
「もう……」
呆れたように言いながらも、リビアの口元は少し笑っていた。
階段を下り切る。
そのまま朝食の部屋へ向かおうとしたところで、リビアが俺の右腕へ視線を落とした。
「腕は?」
「少し重いくらい。痛みはほとんどない」
「朝の剣は?」
「今日はなし」
即答すると、リビアが瞬きをした。
「もう決めたの?」
「起きた時に確認した。脚にも少し疲れ残ってるし、昨日十分振ったから」
「そっか」
「うん」
リビアが嬉しそうに笑う。
でも何も褒めなかった。
それが逆に自然だった。
休むことは特別な成長ではない。
今の俺が普通にする判断になっている。
俺もそれでいいと思った。
「じゃあ、朝食まで少し時間あるね」
「そうだな」
「庭、歩く?」
以前なら、体調確認のためか、俺を休ませるためかと考えたかもしれない。
今は聞くことが一つだけだった。
「リビアが歩きたい?」
「うん」
「俺も歩きたい」
その答えで十分だった。
◇
朝露の残る庭を、二人でゆっくり歩いた。
鍛錬をするためではない。
何か話し合うためでもない。
ただ朝食まで少し時間があって、一緒に歩きたかったから歩いている。
鳥の声が聞こえ、庭師が遠くで植え込みを確認している。夜の冷たさがまだ少し残った空気の中に、花壇から淡い香りが流れてきた。
最初は少し距離を空けていた。
昨日までなら、それでも何も思わなかったかもしれない。
今日は気になる。
俺は隣を歩くリビアを見る。
彼女もこちらを見た。
目が合う。
「何?」
「いや」
「何?」
「近く歩いていい?」
リビアの頬がまた少し赤くなった。
「今までも近かったでしょう?」
「そうなんだけど」
「うん」
「今日は近く歩きたいって思ってるのが、自分で分かるから」
リビアが一度足を止めた。
俺も止まる。
「……セス」
「何?」
「昨日から、思ったこと全部言ってない?」
「全部ではないよ」
「まだあるの?」
「あると思う」
「……そっか」
リビアが口元を手で隠した。
「嫌?」
「嬉しい」
「じゃあいい?」
「うん。でも、私が慣れるまでちょっと待って」
「近く歩くのを?」
「違う。セスがこういうこと言うのに」
「ああ」
それなら分かる。
俺自身もまだ慣れていない。
「じゃあ、ゆっくりで」
「うん」
再び歩き始める。
今度は肩が時々触れそうなくらいの距離だった。
手は繋がない。
繋ぎたくないわけではない。
ただ、今はこの距離がちょうどよかった。
「昨日ね」
リビアが言う。
「うん」
「部屋に戻ってから、私も全然すぐ寝られなかった」
「何考えてた?」
「セスに好きって言われたこと」
「同じだ」
「あと、抱きしめてもらったこと」
「……それも思い出した」
今度は俺まで恥ずかしくなる。
「結婚したいって言われたことも」
「それは……うん」
「言った本人が恥ずかしがるの?」
「今思い返すと恥ずかしい」
「後悔した?」
リビアの声が少しだけ慎重になった。
俺はすぐ首を横に振った。
「してない」
「本当に?」
「うん」
歩きながら答える。
「むしろ、言えてよかったと思ってる」
リビアの歩幅が少しだけ小さくなった。
「俺、今まで婚約のことを考える時、出来るかどうかばっかり考えてたから」
「うん」
「でも昨日は初めて、俺がしたいかどうかで考えられた」
「……うん」
「だから後悔してない」
リビアはしばらく黙っていた。
やがて俺の袖へ指先が触れた。
掴むわけではない。
ほんの少しだけ。
「私も」
「何?」
「昨日、聞けてよかった」
「うん」
「ずっと待ってたけど、待っててよかった」
その言葉を聞くと、胸が温かくなる。
俺たちはそのまま庭を一周し、朝食の時間が近づいたところで屋敷へ戻った。
◇
朝食の席には、すでに旦那様と父さんがいた。
「おはようございます」
「おはようございます、お父様」
「ああ、おはよう」
旦那様が新聞から顔を上げる。
父さんも俺たちを見た。
ほんの一瞬。
視線が俺とリビアの間を往復する。
「……何ですか?」
思わず聞いた。
「いや」
旦那様が答える。
「何も言っていないが?」
「そうですけど」
「なら座りなさい」
「はい」
隣でリビアが妙に静かだ。
俺たちは席へ着く。
使用人たちが朝食を運んでくる。
パン。
卵料理。
温野菜。
スープ。
いつも通りだ。
俺も普通に食べ始める。
リビアも食べる。
しばらくは本当に普通だった。
「クルセス」
父さんが呼ぶ。
「はい」
「腕はどうだ」
「少し重さが残っています。痛みはほとんどありません。脚にも軽い疲労があるので、今日は朝の剣術鍛錬を休みました」
「そうか」
それだけだった。
父さんは特に褒めもしない。
注意もしない。
俺も追加で説明しない。
「昨日の剣術交流については?」
「夜に細かい反省はしてません。今日か明日、身体が戻ってから必要なところだけ整理しようと思ってます」
「それでいい」
「はい」
旦那様がパンを切りながら口を開く。
「アルフォルド殿下との交流は、学園でも話題になるだろうな」
「そうでしょうか?」
「第一王子と公爵令嬢の婚約者が剣を交えたんだ。しかも見学者もいたのだろう?」
「はい」
「なら避ける方が難しい」
確かにそうだ。
勝敗だけが広がるかもしれない。
俺が五属性だという話まで広がるわけではないし、迅雷撃破も使っていない。
普通の身体強化と剣だけだ。
「聞かれたら、普通に答えます」
「それでいい。必要以上に謙遜する必要も、誇る必要もない」
「はい」
会話が途切れる。
また朝食を食べる。
その時。
「ところで」
旦那様の声が少し変わった。
嫌な予感がした。
「二人とも、今朝はずいぶん仲がいいな」
俺の手が止まった。
リビアのスプーンも止まった。
「……いつも仲いいですよ?」
俺が答える。
「ああ。昔からな」
「なら何で聞くんですか?」
「いや。父親として、娘が朝から妙に機嫌がいい理由が少し気になっただけだ」
「お父様!」
リビアが真っ赤になる。
旦那様は平然としている。
「どうした?」
「何でもありません!」
「そうか」
絶対に何か分かっている顔だ。
俺は父さんを見る。
父さんは静かに紅茶を飲んでいる。
「父さん」
「何だ」
「何か知ってます?」
「何についてだ」
「……いや」
聞き方が難しい。
昨日リビアに告白したことを知っていますか、と朝食の席で聞くのもおかしい。
黙る。
すると旦那様が口元をわずかに緩めた。
「クルセス」
「はい」
「安心しろ。私は何も聞いていない」
「本当ですか?」
「ただし、昨夜から今朝にかけて、屋敷の使用人たちが妙に微笑ましい顔をしていることには気づいている」
「……」
朝、廊下で聞かれた。
たぶんそれだけではない。
昨夜、リビアの部屋の前でも少し長く話した。
(屋敷って、思ったより隠し事出来ないな)
「セス」
リビアが小声で呼ぶ。
「何?」
「絶対、朝のせい」
「昨日もじゃない?」
「言わないで」
「はい」
旦那様が咳払いした。
笑いを堪えたように聞こえた。
「まあ、何か話したいことがあるなら自分たちのタイミングで話せばいい」
からかうような調子が消える。
「婚約者同士の話まで、父親が先回りして聞く必要はない」
リビアが少し驚いて旦那様を見る。
「お父様……」
「ただし」
旦那様が俺を見る。
「娘を泣かせたなら話は別だ」
「泣かせました」
反射的に答えた。
「セス!?」
リビアが叫ぶ。
旦那様の表情が止まる。
父さんまで俺を見る。
「あ」
遅かった。
「違います」
「何が違う」
旦那様の声が低くなった。
「嫌なことで泣かせたわけではなくて」
「では何をした?」
「お父様、聞かなくていいから!」
「しかしリビア」
「嬉しくて泣いただけ!」
言ってしまった。
リビア自身が固まる。
旦那様がゆっくり俺を見る。
俺も見る。
父さんは目を閉じた。
「……そうか」
旦那様が短く言った。
「はい」
「なら、よかった」
それ以上は聞かなかった。
でも、ほんの少しだけ安心したように見えた。
父親なんだな、と当たり前のことを思う。
「セス」
リビアがものすごく小さな声で言う。
「何?」
「後で覚えてて」
「何を?」
「もう」
怒られた。
でも、テーブルの下で軽く靴先が触れた。
離れない。
俺もそのままにした。
◇
学園へ向かう馬車では、昨日までと同じように隣へ座った。
いや、正確には少し違う。
今までも隣だった。
肩が触れることもあった。
手を繋いだこともある。
でも今日は、座った瞬間からお互いに妙に意識している。
馬車が屋敷を出る。
車輪が石畳を踏む音が一定の間隔で響く。
「……近い?」
俺が聞く。
「いつもと同じ」
「だよな」
「うん」
なのに近く感じる。
少しして、リビアが笑った。
「何?」
「セスも気にしてるんだなって」
「気にするよ」
「昨日まで平気だったのに」
「昨日までとは違うだろ」
「何が?」
聞かれて、少し考える。
「俺がリビアを好きだって、リビアが知ってる」
「……うん」
「それが違う」
リビアが視線を窓へ逃がした。
耳が赤い。
「また言った」
「これも駄目?」
「駄目じゃない」
「ならいいか」
「セス、開き直ってない?」
「ちょっと」
笑う。
馬車が少し揺れる。
肩が触れた。
離れない。
俺はしばらくそのままにしていたが、やがて左手を座席の上へ置いた。
リビアとの間。
手のひらを上へ向ける。
「……何?」
「繋ぎたい」
言う。
リビアの視線が俺の手へ落ちる。
「聞かないの?」
「嫌なら繋がなくていいよ」
「そうじゃなくて。昨日までは『繋ぐ?』って聞いてたでしょう?」
「ああ」
確かに。
「今日は俺が繋ぎたいから」
リビアが何も言わなくなる。
「嫌?」
「嫌じゃない」
彼女の手が重なる。
指を絡める。
それだけで胸が少し速くなる。
「……慣れない」
リビアが呟く。
「俺も」
「セスからこんなに来ると思ってなかった」
「俺も思ってなかった」
「自分で?」
「好きって分かったら、今まで何でやってたのかも分かるようになったから」
「例えば?」
「手繋ぐのも」
「うん」
「リビアが喜ぶからって思ってたけど、俺も繋ぎたかったんだと思う」
リビアの指がきゅっと動く。
「本当に?」
「うん」
「今は?」
「繋ぎたい」
「そっか」
「うん」
その後はしばらく話さなかった。
でも沈黙は気まずくない。
窓の外を流れていく街並みを見ながら、繋いだ手の温かさを感じる。
昨日までと同じ道。
同じ馬車。
同じ相手。
それでも少し違う。
俺はその違いを、かなり好きだと思った。
◇
学園へ着くと、予想していた通りだった。
校舎へ入って教室へ向かうまでに、何度か視線を感じた。
昨日の剣術交流を見ていた生徒だけではない。
たぶん話を聞いたのだろう。
「クルセス!」
教室へ入った途端、イザークが来た。
「おはよう」
「おはようじゃない! 腕どうだ!?」
「少し重いだけ」
「朝は振ったのか?」
「振ってない」
「おお」
「何だよ」
「いや、お前が翌朝ちゃんと休むの、もう普通になったなと思って」
「必要ないから休んだだけだよ」
「それが普通なんだって」
イザークが笑う。
以前なら、ここからさらに昨日の打ち合いを再現しようと誘われたかもしれない。
でも今日は違った。
「じゃあ剣の話は昼でいいか」
「うん」
「アルフォルド殿下もそう言ってた。朝から反省会にするなって」
「殿下も?」
「ああ。さっき廊下で会った」
その言葉が終わる頃には、ナナリーとミリアナも近づいてきた。
「おはようございます、クルセス様。お身体は大丈夫ですか?」
「大丈夫。少し疲れ残ってるくらい」
「よかったです」
ナナリーが安心したように胸元へ手を当てる。
ミリアナは俺を一度見てから、その隣にいるリビアへ視線を移した。
そして、また俺を見る。
「……何?」
俺が聞く。
「別に?」
「絶対何かあるだろ」
「昨日の剣術交流の後、何かいいことでもあった?」
俺とリビアが同時に固まった。
ミリアナの眉が上がる。
「え」
ナナリーも俺たちを見る。
イザークは何も分かっていないらしく首を傾げた。
「何だ?」
「いや、ちょっと待って」
ミリアナが俺たちを交互に見る。
「本当に何かあったの?」
「……あった」
俺が答えた。
「セス!?」
リビアが俺を見る。
「隠すことじゃないだろ?」
「そうだけど!」
「何があったんだ?」
イザークが聞く。
俺は少し考えた。
昨日、リビアに好きだと伝えた。
それ自体は隠したいことではない。
ただ、わざわざ大声で教室中へ知らせる必要もない。
「俺とリビアのことだから、詳しくは言わない」
「お、おう」
「でも、いいことはあった」
それだけ答える。
ミリアナの目が細くなる。
「なるほど」
「何がなるほどなんだ?」
「クルセスがそう言うなら、聞かない」
「ありがとう」
「でもリビア様の顔を見れば、悪いことじゃないのは分かるし」
「ミリアナ!」
リビアが真っ赤になる。
ナナリーも何か察したらしく、自分まで頬を赤くしていた。
「わ、私も聞きません!」
「何でナナリーまで緊張してるんだ?」
俺が聞く。
「何でもありません!」
「そう?」
「はい!」
イザークだけがまだ分からない顔をしている。
「結局何なんだ?」
「聞かないって言ってるでしょう」
ミリアナに止められた。
「気になるだろ」
「気にしなくていいの」
「何でお前は分かってるんだよ」
「分かってないわよ。でも分かるの」
「どっちだよ」
二人が言い合い始める。
俺は思わず笑った。
隣を見る。
リビアも笑っていた。
その顔を見た瞬間、昨日の言葉がまた自然に浮かんだ。
(好きだな)
今度は声にしなかった。
学園では、全部を口にする必要はない。
俺が分かっていれば、それでいい時もある。
◇
午前の授業は数学だった。
昨日の剣術交流も、昨夜の告白も関係なく問題は出る。
それが少しありがたかった。
数式へ集中している間は、リビアを意識して顔が熱くなることもない。
……と思っていた。
「では、隣同士で解答を確認してください」
教師が言った。
俺は自分の答案を持ち、隣を見る。
リビアもこちらを見る。
「……確認する?」
「授業だからね」
「うん」
答案を寄せる。
肩も近づく。
いつもやっている。
ただの答え合わせだ。
「三問目、セスはこの式にしたのね」
「うん。先に条件を分けた」
「私は最後に分けた」
「答えは同じだね」
「うん」
普通だ。
ちゃんと普通に出来る。
少し安心する。
でも、答案を戻そうとした時、リビアの指と俺の指が触れた。
ほんの一瞬。
今までなら気にしなかった。
二人とも止まった。
「……」
「……」
後ろから小さな笑い声が聞こえた。
振り返る。
ミリアナが口元を押さえている。
「何?」
「何でもない」
「絶対何かあるだろ」
「授業中よ」
「そうだけど」
前へ戻る。
リビアが小声で言った。
「普通にするの、難しいね」
「うん」
「昨日までは普通だったのに」
「でも嫌じゃない」
「私も」
教師がこちらを見たので、そこで話を止めた。
問題へ戻る。
少しだけ口元が緩んでいた。
◇
昼休み。
いつもの顔ぶれで食堂の一角へ集まる。
アルフォルドも来た。
「腕は?」
席へ着くなり聞かれる。
「軽い疲れだけ。朝は休んだ」
「俺もだ」
「殿下も?」
「ああ。昨日十分振った。今日は必要ない」
「同じだね」
「そうだな」
アルフォルドが笑う。
昨日、剣を交えた相手だ。
勝敗はついた。
でも変な緊張はない。
「昨日はありがとうございました」
俺が言う。
「こちらこそ。またやろう」
「うん」
「次は勝つ」
「俺も負けないよ」
「なら決まりだな」
日程は決めない。
次がいつかも分からない。
でもまた剣を交えるつもりが互いにある。
それで十分だった。
「それで」
カイゼル殿下が妙に楽しそうな顔をした。
「剣の話は終わりとして、クルセス」
「何ですか?」
「今日は随分と雰囲気が違わないか?」
嫌な方向へ来た。
「そうですか?」
「そうだな」
アルフォルドまで頷く。
「殿下まで?」
「昨日の試合前より力が抜けている」
「それは終わったからじゃ」
「そういう意味ではない」
サザリーが静かに俺とリビアを見た。
「クルセス」
「何?」
「言いたくないことなら答えなくていい」
「うん」
「婚約について、何か進んだか?」
正確すぎる。
俺は少し驚いた。
「何で分かった?」
「分かったわけじゃない。以前、君は婚約について自分なりに考えていると言っていた」
「ああ」
「最近はリビア様との将来についても以前より自然に話していた。それなら、変化があるとすればその辺りかと思っただけだ」
「すごいな」
「当たったのか?」
「うん」
言ってから、隣を見る。
リビアは赤くなっている。
でも嫌そうではない。
「どこまで言っていい?」
俺はリビアへ聞いた。
リビアが少し考える。
「セスが言いたいところまででいいよ」
「分かった」
友達には話したい。
そう思った。
全部ではなくてもいい。
「俺、自分の気持ちが分かった」
テーブルが静かになる。
イザークが首を傾げる。
ミリアナとナナリーは一瞬で理解したようだった。
カイゼル殿下の笑みが深くなる。
アルフォルドとサザリーは黙って待っている。
「リビアが好きだって」
言った。
昨日ほどは緊張しない。
でも、やっぱり少し恥ずかしい。
リビアは真っ赤になった。
「それで、昨日伝えた」
一拍。
「えええっ!?」
イザークの声が食堂へ響いた。
「声大きい!」
ミリアナがすぐ腕を引く。
「だって!」
「周り!」
何人かがこちらを見た。
俺も少し顔が熱くなる。
「イザーク」
「悪い!」
イザークが声を落とす。
「でも、お前……やっとか!」
「やっとって何だよ」
「いや、だってお前!」
「そこまで」
サザリーが止めた。
カイゼル殿下は完全に笑っている。
「なるほど。今朝から妙に自然だったのは、それか」
「自然でした?」
「以前よりな」
「俺、朝から何回も変って言われてますけど」
「それは周囲から見た変化だ。本人たちの間では、むしろ余計な迷いが減ったように見える」
アルフォルドが静かに俺を見る。
「おめでとう、と言うべきか?」
「婚約自体は前からしてますけど」
「なら、気持ちが追いついたことに」
その言葉が妙にしっくりきた。
「うん。ありがとう」
アルフォルドが頷く。
イザークも笑う。
「おめでとう、クルセス。リビア様も」
「ありがとう、イザーク」
リビアが答える。
ナナリーも嬉しそうに笑った。
「おめでとうございます。なんだか……私まで嬉しいです」
「ありがとう、ナナリー」
ミリアナは少しだけ意地悪そうな顔をした。
「じゃあ今朝、二人で固まってたのは」
「それ以上言わなくていい」
「はいはい」
サザリーが口元をわずかに緩める。
「君が自分で決めたなら、それでいいと思う」
「うん」
「ただし、これで何でも一つの答えに結びつけるのはなしだ」
「分かってるよ」
「ならいい」
以前の共同課題で何度もやったことだ。
恋愛の答えが分かったからといって、研究も剣も領地管理も全部同じ理屈になるわけではない。
「それにしても」
カイゼル殿下が頬杖をつく。
「クルセスが恋愛の話を自分からするようになるとはな」
「俺だってしますよ」
「昨日までならしなかっただろう」
「……それはそうですけど」
「成長というものは面白い」
「観察対象みたいに言わないでください」
「違うのか?」
「違います」
笑いが起きる。
リビアも笑っている。
俺も笑った。
恥ずかしい。
でも、隠したいとは思わなかった。
◇
午後は魔術理論と一般教養が続いた。
追加訓練はしない。
剣も振らない。
昨日の疲労が残っているので、授業が終わったらそのまま帰る予定だ。
リビアも今日は委員会がない。
帰りの馬車も一緒になる。
それだけで少し楽しみだった。
放課後。
教室を出る前に、イザークが近づいてきた。
「クルセス」
「何?」
「明日、腕大丈夫なら軽く合わせるか?」
一瞬考える。
身体は今日一日でかなり戻った。
でも今決める必要はない。
「明日の朝の状態見てからでいい?」
「もちろん」
「大丈夫そうなら、放課後に軽く」
「分かった。無理ならなしな」
「うん」
予定はそれだけ。
廊下へ出る。
リビアが待っていた。
「終わった?」
「うん」
「帰ろうか」
「うん」
並んで歩く。
校舎にはまだ多くの生徒が残っている。
だから手は繋がない。
隠す必要があるからではない。
ただ、人の多い廊下でずっと繋いで歩く必要もないと思った。
その代わり、距離は自然と近い。
「セス」
「何?」
「お昼、言うと思わなかった」
「好きって?」
「うん」
「嫌だった?」
「全然」
「ならよかった」
「恥ずかしかったけど」
「俺も」
「そう見えなかった」
「結構緊張したよ」
「本当に?」
「うん。でも友達には言ってもいいと思った」
リビアが少しだけ目を細める。
「友達、増えたね」
「うん」
前なら、イザークだけを友達と呼んでいたかもしれない。
今は違う。
イザークも。
サザリーも。
アルフォルドも。
ミリアナやナナリーも。
カイゼル殿下まで友達と言っていいのかは少し迷うけれど、少なくとも学園で一緒に過ごす大切な相手だ。
「学園来てよかった」
自然に言葉が出た。
「うん」
「リビアの婚約者だから来たのが最初だったけど」
「うん」
「今は俺自身がここにいたい」
以前にも似たことを考えた。
でも今日はさらに自然に言えた。
「剣もあるし、魔術も研究もある。友達もいる」
「うん」
「リビアもいる」
最後に付け足す。
リビアが笑う。
「私は最後なんだ?」
「一番大事なの最後にした」
「……セス」
「何?」
「やっぱり今日ちょっと強い」
「だから何が?」
「何でもない」
分からない。
でも嬉しそうだから、たぶん悪くない。
◇
帰りの馬車。
扉が閉じて二人きりになる。
向かいではなく、当然のように隣へ座った。
馬車が動き出して少しすると、俺は左手を出した。
「繋ぐ?」
「うん」
今度はいつもの聞き方に戻った。
リビアの手が重なる。
「今日は聞くんだ」
「聞くよ」
「朝は『繋ぎたい』だったのに」
「今も繋ぎたい」
「……そっか」
「リビアは?」
「私も」
指を絡める。
外では夕方の街が流れていく。
「今日、一日どうだった?」
リビアが聞く。
「楽しかった」
「恥ずかしくなかった?」
「恥ずかしかった」
「どっち?」
「両方」
俺は少し考える。
「普通の一日だったと思う」
「うん」
「数学やって、魔術理論受けて、昼飯食って」
「うん」
「でも、全部ちょっと違った」
「私も」
「嫌じゃなかった?」
「全然」
「俺も」
肩を寄せる。
今度は俺からだった。
リビアが少し驚いたものの、そのまま肩を預けてくる。
「リビア」
「うん?」
「昨日、好きって言っただろ」
「うん」
「今日になったら、もっと変になるかと思ってた」
「変?」
「何話せばいいか分からなくなるとか、ずっと緊張するとか」
「朝はなってたよ」
「朝はね」
二人で笑う。
「でも、普通に話せた」
「うん」
「友達とも話せたし、授業も受けられた」
「うん」
「だから、好きって分かっても、今までの俺たちがなくなるわけじゃないんだなって」
リビアが肩へ頭を預ける。
「なくならないよ」
「うん」
「幼馴染なのも変わらない」
「うん」
「婚約者なのも」
「うん」
「一緒に本読むのも」
「続けたい」
「私も」
「剣も見ててほしい」
「見る」
「リビアの結界も見たい」
「見て」
「それで」
一度言葉を止める。
今なら自然に言える。
「好きなのも増えた」
リビアが顔を上げた。
「増えた?」
「今まで分かってなかっただけかもしれないけど」
「うん」
「今はちゃんと分かってるから」
俺は繋いだ手を見る。
「幼馴染で、婚約者で、俺が好きな人」
言葉にすると、胸が温かくなる。
「全部リビアだ」
返事がない。
見る。
リビアが真っ赤になっていた。
「……また?」
「セス」
「何?」
「今日、私を何回赤くさせるつもり?」
「分からない」
「少しは加減して」
「どうやって?」
「それを私に聞かないで」
「難しいな」
俺は笑う。
リビアも少し遅れて笑った。
◇
屋敷へ戻る。
夕食までは少し時間がある。
昨日なら一緒に本を読むかもしれない時間だ。
でも今日は、俺の身体にまだ疲労が残っている。
「セス」
「うん?」
「夕食まで休む?」
リビアが聞く。
「そうする」
すぐ答えた。
「本は?」
「夜、元気だったら少し。疲れてたら明日」
「うん」
「リビアは?」
「私は図書室から借りた資料を少し読む」
「結界?」
「今日は別の本。魔術史の方」
「そっか」
別々に過ごす。
昨日好きだと伝えたからといって、一日中一緒にいる必要はない。
それでも不安はなかった。
「じゃあ、また夕食で」
「うん」
別れようとして、一歩進む。
でも俺は止まった。
「リビア」
「何?」
振り返った彼女へ近づく。
「今日は抱きしめない?」
自分で聞いておいて、少し恥ずかしくなる。
リビアの目が大きくなった。
「……したいの?」
「うん」
昨日は告白した直後だった。
今日は何でもない。
ただ屋敷へ帰ってきて、これから別々の時間を過ごすだけ。
それでもしたい。
「私も」
リビアが答える。
周囲を見る。
玄関広間の中央ではさすがに使用人がいる。
「ここだと見られるね」
「そうね」
「じゃあやめる?」
「……少し向こう行く?」
リビアが小声で言った。
思わず笑う。
「行こう」
「笑わないで」
「嬉しかっただけ」
二人で人通りの少ない廊下へ移動する。
完全に誰もいないわけではない。
でも今は近くに人の気配がない。
「ここなら?」
「うん」
向かい合う。
昨日より緊張は少ない。
でもゼロではない。
「抱きしめていい?」
「うん」
腕を伸ばす。
右腕へ負担をかけないようにしながら、リビアの背中へそっと回した。
リビアも俺へ腕を回す。
近づく。
温かい。
それだけで落ち着く。
「……何か」
俺が呟く。
「何?」
「昨日より普通だ」
「嫌?」
「逆。好き」
腕の中でリビアが動いた。
「今の、私?」
「抱きしめるのが」
「……そっち」
「リビアも好きだよ」
「追加しなくていい!」
「何で?」
「恥ずかしいから!」
笑ってしまう。
リビアも俺の胸へ顔を押しつけながら笑った。
しばらくして離れる。
「じゃあ休む」
「うん。ちゃんと休んでね」
「分かった」
「また夕食で」
「うん」
今度こそ別れる。
リビアが廊下の向こうへ歩いていく。
俺はその背中を少しだけ見送った。
(好きになったら、ずっと一緒にいたくなるのかと思ってた)
実際には違った。
一緒にいたい。
でも別々の時間も過ごせる。
離れたからといって気持ちがなくなるわけでもない。
また会えると分かっている。
だから今は、自分の部屋へ戻って休める。
◇
夕食後。
今日は本を読まなかった。
身体の疲労が四くらいまで上がったので、早めに休むことにした。
リビアにもそれを伝える。
「じゃあ今日はここでおやすみね」
「うん」
廊下で向かい合う。
昨日みたいに長く話すことはない。
それでも、部屋へ戻る前に一つだけ言いたくなった。
「リビア」
「何?」
「今日、楽しかった」
「私も」
「朝はちょっと大変だったけど」
「セスが朝から結婚したいとか言うからでしょう?」
「昨日言ったこと思い出しただけなのに」
「それを本人の前で言わなくていいの!」
「でも後悔してないって伝えられたから、よかった」
リビアが口を閉じた。
少しして、柔らかく笑う。
「うん。私も嬉しかった」
「そっか」
「セス」
「何?」
「私も後悔してないよ」
「何を?」
「待ってたこと」
胸が温かくなる。
「うん」
「待っててよかった」
「……ありがとう」
少しだけ沈黙する。
「おやすみ、リビア」
「おやすみ、セス」
今日は抱きしめない。
手も繋がない。
でも、それで物足りないとは思わなかった。
離れる前に、俺は一度だけ彼女の顔を見る。
「好きだよ」
リビアが目を丸くする。
すぐに頬を赤くして笑った。
「私も好き」
それだけ言って別れる。
◇
部屋へ戻り、ベッドへ横になる。
身体は疲れていた。
でも気分は悪くない。
今日は剣を振らなかった。
研究もしなかった。
大きな事件もなかった。
数学をやって、授業を受け、友達と昼飯を食べ、リビアと帰ってきた。
本当に普通の一日だった。
ただ、昨日までと違うことが一つある。
(俺とリビア、両想いなんだよな)
改めて考えると、やっぱり恥ずかしい。
でも嬉しい。
俺は目を閉じる。
好きだと分かったから、急に何もかも変える必要はない。
ずっと手を繋いでいなくてもいい。
毎日抱きしめなくてもいい。
何度も好きだと言わなければならないわけでもない。
別々の予定があっていい。
剣を振る時間も、研究する時間も、友達と話す時間も、それぞれ持っていていい。
そのうえで。
(会いたい時は会いたいって言えばいい)
(触れたい時は、聞けばいい)
(好きだって言いたい時は、言っていい)
それが、今の俺にはすごく大きなことだった。
誰かのためではなく、自分がそうしたいから選ぶ。
リビアとの関係でも、それをしていい。
昨日初めて言えた「好き」は、今日一日を過ごしても消えなかった。
むしろ、いつもの日常の中へゆっくり馴染み始めている。
(明日も会いたい)
同じ屋敷なのだから、ほぼ確実に会う。
それでもそう思った。
俺は少し笑って、そのまま目を閉じた。
特別な告白の次の日は、驚くほど普通に終わった。
でも、その普通の一日の全部が、昨日までより少しだけ嬉しかった。




