第53話 今度は俺の方から、好きだと言わせてほしい
二人で歩く廊下が、いつもより長く感じた。
夕食も入浴も終わった屋敷の中は静かで、昼間のように使用人たちが頻繁に行き交う時間でもない。壁際の魔導灯が一定の間隔で柔らかな光を落としており、窓の外にはすっかり夜が広がっていた。
俺の少し隣を、リビアが歩いている。
近い。
でも触れてはいない。
普段なら何も考えずに歩ける距離なのに、今日は一歩進むたびに心臓の音が気になった。
(言う)
もう決めた。
朝から何度も「後で」と待ってもらった。
剣術交流が終わったから勢いで言うわけではないし、アルフォルドに勝ったから自信がついたわけでもない。
昨日の夜には、もう分かっていた。
リビアが好きだ。
今まで一つずつ確かめてきた気持ちが、その言葉へほとんど全部重なった。
そして今日一日を過ごして、それが間違いではないことも分かった。
朝、会っただけで嬉しかった。
額へ触れられれば緊張した。
学園では気づけば姿を探していた。
剣術交流を見てほしかった。
勝った後は、一番に顔を見たくなった。
一緒に帰る時間を、眠ってしまうのがもったいないと思った。
どれも、誰かに言われてそう思ったわけではない。
俺がそうしたかった。
(だから、言う)
それなのに緊張は消えない。
「セス」
「うん?」
「右腕、痛くなってない?」
「大丈夫。ほとんど痛くない」
「疲れは?」
「三くらい」
「本当に?」
「本当」
リビアがこちらを見上げる。
「じゃあ、今すごく緊張してるのは体調じゃないのね」
「……分かる?」
「分かるよ」
「そんなに?」
「朝より分かりやすいかも」
思わず頬へ手を当てる。
熱い。
「顔?」
「それも」
「他にも?」
「歩き方がちょっと固い」
「歩き方まで?」
「セスのこと、ずっと見てきたもの」
何気なく言われた言葉に、また胸が鳴った。
リビアは昔から俺を見ていた。
俺が自分自身をろくに見ていなかった頃から、ずっと。
「……それ、今言う?」
「何で?」
「余計緊張する」
「ご、ごめん」
「謝らなくていいけど」
今度はリビアまで少し緊張したように口を閉じた。
お互い黙ったまま歩く。
少しして、いつも一緒に本を読む小さな談話室へ着いた。
◇
中には誰もいなかった。
壁際には低い本棚があり、中央に小さなテーブルとソファが置かれている。窓辺の厚いカーテンはすでに閉じられ、魔導灯の橙色に近い光だけが室内を照らしていた。
何度も使ってきた場所だ。
ここで本を読んだ。
感想を話した。
互いの予定を話したこともある。
ただ一緒に座っていたこともある。
特別な場所を選んだつもりはない。
むしろ、俺たちが普段から使っている場所の方がいいと思った。
「座る?」
リビアが聞く。
「うん」
いつものソファへ向かう。
普段なら隣へ座る。
今日も一度はそうしようと思った。
けれど、腰を下ろす直前に止まった。
「リビア」
「何?」
「最初だけ、向かいでもいい?」
彼女は少し驚いたものの、すぐに頷いた。
「うん」
リビアがソファへ座る。
俺はテーブルを挟んだ向かい側の椅子へ座った。
距離は近い。
それでも正面から顔が見える。
俺は膝の上で両手を組んだ。
右腕に痛みはない。
それなのに手のひらには少し汗をかいていた。
「……何か飲む?」
リビアが聞く。
「今飲んだら、たぶん時間稼ぎになる」
「そっか」
「うん」
「じゃあ、待ってる」
「ありがとう」
静かになる。
何から話せばいい。
朝から考えすぎないようにしてきた。
言葉まで準備してしまえば、きっとその通りに言うことへ意識が向くと思ったからだ。
だから今、俺の中に決まった台詞はない。
(何から言えばいいんだろう)
リビアを見る。
彼女は急かさない。
膝の上で両手を重ね、俺を見ている。
少し緊張しているように見える。
俺だけではない。
そのことに気づくと、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。
「昨日の夜」
「うん」
「考えてたんだ」
「何を?」
「俺が、リビアのことをどう思ってるのか」
リビアの指先がわずかに動いた。
「……うん」
「今までずっと考えてたけど、昨日はちょっと違って」
言葉を探す。
「一緒にいたいとか、会いたいとか、近くにいたいとか。そういうのは、もう分かってた」
「うん」
「リビアが婚約者じゃなくなるのは嫌だってことも分かってたし、他の人がリビアの代わりになるのも違うって思ってた」
リビアは黙って聞いている。
「綺麗だと思うし、可愛いとも思う」
そこまで言うと、彼女の頬が赤くなった。
俺もたぶん同じだ。
「触れたい時もあるし、触らなくても一緒にいたい時もある。本読んだり、話したり、ただ隣にいるだけでもいい」
「セス……」
「今日だって、剣を見てほしかった」
「うん」
「勝った後、一番にリビアのところへ行きたかった」
声にするたび、今までばらばらに見ていたものが一つへ集まっていく。
「帰りの馬車でも、一緒にいる時間がなくなるのがもったいないって思った」
「うん」
「そういうの全部、俺は一個ずつ確かめないと分からなかった」
自分でも少し笑ってしまう。
「たぶん、普通はもっと早く分かるんだと思う」
「セスはセスの速さでいいよ」
「うん。今はそう思う」
昔なら、分からない自分を責めたかもしれない。
リビアがずっと気持ちを伝えてくれているのに、自分だけ答えられないことを申し訳なく思って、何とか正しい返事を探そうとしたかもしれない。
でも今は違う。
遅かったとしても、これは俺が自分で見つけた答えだ。
「それで昨日、やっと分かった」
喉が少し乾く。
ここまで来ても怖い。
言葉にした瞬間、今までとは変わる。
でも、変わることが嫌なのではない。
俺自身が変えたい。
「リビア」
「うん」
銀青色の瞳が俺を見る。
逃げない。
俺も逃げたくない。
「俺、リビアが好きだ」
言葉が落ちた。
それだけだった。
もっと何か、胸の中に溜まっていたものが一気に溢れ出すような感覚があると思っていた。けれど実際には逆で、ずっと胸の奥で形を持てずにいたものが、たった一つの言葉になって静かに収まったような気がした。
その代わり、言った直後から心臓がものすごい速さで鳴り始めた。
(……言った)
とうとう言った。
頭の中で認めるのとは違う。
リビアへ向かって声にした。
もう取り消せないし、取り消したくもない。
俺は正面を見る。
リビアは動いていなかった。
銀青色の瞳を大きく見開き、唇をわずかに開いたまま、俺を見つめている。膝の上で重ねていた両手だけがゆっくりと強く握られていき、白い指先がわずかに震えていた。
一秒。
二秒。
もっと経ったかもしれない。
何も言わない。
「……リビア?」
呼びかけても返事がない。
ただ、瞬きをした途端に瞳の表面が急に濡れた。
(え)
俺の方が慌てる。
「リビア?」
「…………」
「聞こえた?」
小さく頷いた。
「聞こえた」
やっと返ってきた声は、普段よりずっと細かった。
「聞こえた、けど……」
そこで言葉が途切れる。
リビアが俯き、両手で口元を覆った。
肩が小さく揺れている。
「ちょっと待って」
「う、うん」
「ほんとに、ちょっと待って……」
「分かった」
待つ。
でも何をすればいいのか分からない。
泣かせた。
いや、嫌で泣いているわけではないと思う。
たぶん。
(たぶんって何だ。リビアは俺のことずっと好きだって――)
そこまで考えて、自分で止めた。
今は勝手に理由を決めるより、待った方がいい。
俺は組んでいた手を一度ほどき、膝の上へ置いた。
立ち上がらない。
触れない。
リビアが待ってと言ったから待つ。
それでも心配で、視線だけは外せなかった。
やがて、リビアがゆっくり息を吸った。
「……ずっと」
小さな声が聞こえる。
「うん?」
「ずっと、聞きたかった」
顔はまだ両手に隠れている。
「セスから……聞きたかったの」
その言葉に胸が詰まった。
「うん」
「私が好きって言ったら、セスは困るでしょう?」
「……前は、そうだった」
「婚約した時も、嬉しいっていうより、どうしたらいいか分からないって顔してた」
「うん」
「手を繋いでも、最初は私が繋ぎたいから繋いでくれてた」
「……うん」
否定出来ない。
リビアが望むから。
リビアが嬉しいなら。
そういう理由でしていたことは多かった。
嫌だったわけではない。
むしろ嬉しかった。
ただ、それを自分の気持ちとして認めるところまで行けていなかった。
「だからね」
リビアがようやく手を下ろした。
目元が赤い。
涙が頬を一筋だけ流れている。
「いつかセスから聞けたらいいなって思ってた」
「……うん」
「でも、言ってほしいって頼んだら違うと思ったの」
もう一滴、涙が落ちる。
「私が頼んだから言ってくれるんじゃなくて、セスが自分で分かって、自分から言ってくれるのを待ちたかった」
昨日、未来のことを話した時にも似たことを聞いた。
俺が自分から二人の未来を想像するまで、リビアは待っていた。
好きという言葉も同じだったのだ。
「だから……」
リビアの声が震える。
「今、すごく嬉しい」
俺の胸まで苦しくなる。
泣いているのはリビアなのに、なぜか俺まで上手く息が出来ない。
「ごめ――」
言いかけて止めた。
謝うところではない。
リビアもそれを望まない。
「……待っててくれて、ありがとう」
言い直した。
リビアが一度大きく瞬きをした。
それから、泣きながら笑った。
「うん」
その表情を見た瞬間、俺は椅子から立ちそうになった。
近くへ行きたい。
でも、さっき待ってと言われた。
「リビア」
「うん」
「今、近く行っていい?」
彼女の目が少し大きくなる。
すぐに頷いた。
「……来て」
立ち上がる。
テーブルを回り、リビアが座るソファの前まで行った。
すぐ隣へ座ろうとして、また一瞬迷う。
「隣?」
「うん」
許可をもらってから座る。
肩が触れそうな距離まで近づいたところで、リビアの方からこちらへ身体が傾いた。
額が俺の肩へ触れる。
「リビア?」
「少しだけ、このまま」
「うん」
俺は動かない。
何度か肩を寄せたことはある。
馬車の中でリビアが俺へ頭を預けたこともある。
でも今は、触れている意味が違って感じられた。
さっき俺は好きだと言った。
その後で、リビアが自分から近づいてくれている。
(……嬉しい)
胸の中がいっぱいになる。
俺は左手を膝の上へ置いたまま、右手を少し動かしかけた。
抱きしめたい。
そう思った。
けれど、勝手に触れていいのか分からない。
「リビア」
「うん?」
「……抱きしめてもいい?」
肩へ預けられていた頭が動いた。
リビアがゆっくり顔を上げる。
距離が近い。
目元にはまだ涙が残っていた。
「セスが?」
「うん」
「私がしてほしいって言ったからじゃなくて?」
「違う」
「……本当に?」
「俺がしたい」
その瞬間、リビアの表情が崩れた。
泣きそうなのに、嬉しそうに笑う。
「して」
小さな声だった。
「うん」
俺は両腕を伸ばした。
右腕は今日打撲したので力を入れすぎないようにしながら、リビアの背中へそっと回す。リビアも俺の胸元へ身体を寄せ、腕を背中へ回してきた。
抱きしめる。
初めてではない。
でも、俺から抱きしめたいと言って抱きしめるのは、たぶん初めてだった。
近い。
髪が頬へ触れる。
柔らかな香りがする。
服越しに体温が伝わる。
そして自分の心臓がうるさい。
「……セス」
「何?」
「心臓、すごい」
「聞こえる?」
「うん」
「リビアのも分かる」
「言わないで」
「お互いじゃん」
「そうだけど……」
腕の中で、リビアが少しだけ身じろぎする。
離れるのかと思ったが、逆だった。
もう少しだけ近くなる。
俺も背中へ添えた腕に、ほんの少し力を込めた。
「苦しくない?」
「大丈夫」
「右腕は?」
「これくらいなら大丈夫」
「痛くなったら離してね」
「うん」
こんな時まで怪我を心配するところが、リビアらしい。
そう思うと、また好きだと思った。
「リビア」
「うん」
「さっきの、もう一回言っていい?」
腕の中で、リビアが固まった。
「……何を?」
たぶん分かっている。
「好きって」
「……うん」
俺は少しだけ身体を離した。
顔が見えるくらい。
リビアは赤くなっていた。
俺もたぶん同じだ。
「リビアが好きだ」
今度は、さっきよりずっと近い距離で言った。
リビアの唇が震えた。
何か言おうとして、声にならない。
代わりに目からまた涙が溢れた。
「……やっぱり泣くんだ」
「だって……」
「うん」
「ずっと、ずっと聞きたかったんだもん」
「うん」
「小さい頃から好きで」
「うん」
「セスのお嫁さんになりたいって、ずっと思ってて」
「知ってる」
「でもセスは全然分かってくれなくて」
「……それは、ごめん」
「そこは謝っていい」
「いいんだ」
「ちょっとだけ」
泣きながら笑う。
俺も笑った。
「でもね」
リビアが俺の服を軽く掴む。
「本当は、婚約出来た時でも十分幸せだと思ったの」
「うん」
「セスが好きじゃなくてもいいとは思えなかったけど、いつか好きになってくれたらいいなって」
「うん」
「でも、無理に好きになってほしくなかった」
「分かってる」
「だから怖かった」
「何が?」
「待ってても、ずっと変わらなかったらどうしようって」
初めて聞く言葉だった。
リビアはいつも待ってくれていた。
俺を急かさなかった。
その姿を見て、俺は勝手に、リビアは不安ではないのだと思っていたのかもしれない。
違った。
待つことを選んでくれていただけだ。
「それでも待ってたの?」
「うん」
「何で?」
「好きだから」
迷いのない答えだった。
「セスが自分で決めてくれる方が嬉しいから」
俺の胸の奥が強く揺れた。
「……ありがとう」
「うん」
「本当に」
「うん」
「俺、ちゃんと自分で決めたよ」
「……うん」
「リビアが好きだ」
今度は、リビアが目を閉じた。
俺の胸へ額を押しつける。
「もう、今日はそれ以上言ったら駄目」
「何で?」
「私がもたない」
「そんなに?」
「そんなに!」
少し強い声になった。
でも怒ってはいない。
むしろ俺の服を掴む指は離れない。
「じゃあ、少し黙る」
「そうして」
「分かった」
抱きしめたまま黙る。
魔導灯の微かな音だけが聞こえる。
廊下を誰かが遠く通ったらしく、足音が一度だけ聞こえて消えた。
俺たちはそのままだった。
急いで離れる理由はない。
何かを進めなければならないわけでもない。
ただ、抱きしめていたい。
リビアも離れない。
しばらくして、胸元から声がした。
「セス」
「うん」
「私も好き」
思わず腕に少し力が入る。
「うん」
「大好き」
「……うん」
「ずっと好きだった」
「うん」
「今、すごく幸せ」
それを聞いたら、俺まで泣きそうになった。
涙は出なかった。
ただ胸の奥が熱くなって、喉が詰まる。
「俺も」
「幸せ?」
「うん」
自分で言ってから、その言葉を確かめる。
嬉しいだけではない。
安心とも少し違う。
目の前にいる人を好きだと伝えられて、その人が自分を好きだと返してくれる。
これを幸せと言うなら、たぶんそうなのだと思う。
「俺も、幸せ」
今度はちゃんと言った。
リビアの腕が背中へ少し強く回された。
◇
どれくらいそうしていたのか分からない。
長かった気もするし、短かった気もする。
先に身体を離したのはリビアだった。
完全には離れず、俺の腕の中から少しだけ顔を上げる。
「セス」
「何?」
「一つ聞いていい?」
「いいよ」
「さっきの……婚約者のこと」
「うん」
「もう一回、ちゃんと聞きたい」
俺はすぐに意味が分からなかった。
「どれ?」
「セスが、私の婚約者でいたいか」
「ああ」
リビアの顔が真剣だった。
俺も姿勢を少し直す。
これは大事なことだ。
「いたい」
「……私が望んでるから?」
「違う」
今度はすぐ答えた。
「旦那様が認めたからでもない」
「うん」
「シルフィール伯爵家の養子になったからでもない」
「うん」
「俺がなりたい」
言葉にする。
「俺が、リビアの婚約者でいたい」
リビアの目がまた潤んだ。
「また泣く?」
「泣かせてるのセスでしょう」
「ごめ――」
「謝らない」
「……うん」
「もう一個」
「まだある?」
「ある」
リビアが少しだけ唇を尖らせる。
「私と結婚するの、無理じゃない?」
その言葉に、昔の自分が浮かんだ。
公爵令嬢と平民の執事。
どう考えても無理がある。
そう思っていた。
旦那様が認めても、自分自身が納得出来なかった。
今だって、問題が全部消えたわけではない。
俺は貴族社会について知らないことが多い。
公爵家の令嬢の夫として何が必要なのかも、まだ全部は知らない。
生まれも育ちも変わらない。
周囲がどう見るかだって分からない。
だから、簡単だとは言えない。
「簡単じゃないとは思う」
「うん」
「俺、まだ知らないこといっぱいあるし、出来ないこともある」
「うん」
「たぶん、これから困ることもある」
「うん」
「でも」
リビアの目を見る。
「無理だからやめたいとは、もう思わない」
彼女の唇が少し震える。
「どうしたらリビアの隣にいられるかを考えたい」
「……うん」
「出来ないことがあったら覚えるし、分からなかったら聞く」
「うん」
「俺一人で無理なら、助けてもらう」
以前なら言えなかったことだ。
何でも自分で出来なければ、隣に立つ資格がないと思っていたかもしれない。
今は違う。
「それでも駄目なことがあったら、その時また考える」
「うん」
「でも最初から諦めるのは嫌だ」
「セス……」
「だって俺、リビアと結婚したい」
言ってから、自分で固まった。
今までの「婚約者でいたい」より、さらに先の言葉だった。
リビアも完全に固まっている。
「……あ」
急に恥ずかしくなる。
「今のは、その」
「待って」
「はい」
「ちょっと待って」
「うん」
リビアが両手で顔を覆った。
耳まで赤い。
「セス」
「何?」
「今、何て言った?」
「聞こえてたよね?」
「聞こえてたけど、確認したいの」
「……リビアと結婚したい」
顔を覆っている手の隙間から、また涙が見えた。
「本当に?」
「うん」
「私が結婚したいってずっと言ってたからじゃなくて?」
「俺がしたい」
「……ほんとに?」
「本当に」
「セスが?」
「俺が」
「私と?」
「リビアと」
リビアが顔を覆ったまま、身体をこちらへ倒してきた。
慌てて受け止める。
「リビア?」
「無理」
「何が?」
「嬉しすぎる」
「……そっちか」
「そっち!」
また怒られた。
でも今度は俺もすぐに笑えた。
「じゃあ、よかった」
「よくない」
「何で?」
「私ばっかり泣いてる」
「俺も結構ぎりぎりだよ」
「泣いてないじゃない」
「泣かないだけ」
「ずるい」
「どうすればいいんだよ」
リビアが胸元で笑う。
俺も笑った。
泣いて、笑って、また抱きしめる。
告白というものがもっと綺麗で、格好よくて、決まった言葉を言って終わるものなのかは知らない。
俺たちは全然そうならなかった。
何度も確認した。
リビアは何度も泣いた。
俺は何度も言い直した。
途中で笑った。
それでも、これでいいと思った。
俺たちらしいかどうかは分からない。
ただ、俺は今、この時間が好きだった。
◇
少しして、俺たちはようやく身体を離した。
今度は最初から隣に座る。
肩が触れている。
「手、繋ぐ?」
俺から聞く。
リビアが俺を見る。
「セスから聞くんだ」
「繋ぎたいから」
「……うん」
右腕は今日打撲しているので、左手を差し出した。
リビアの手が重なる。
指を絡める。
何度もしてきたことなのに、今日は指先の感覚まで気になった。
(好きな子と手を繋いでる)
今までだって同じだったはずなのに、自分で認めた途端、意味まで変わったように感じる。
「セス」
「何?」
「顔赤い」
「リビアも」
「私はずっと赤いの」
「それ大丈夫?」
「誰のせいだと思ってるの?」
「俺?」
「セス」
「そっか」
「嬉しそうにしないで」
「嬉しいから」
リビアが言葉に詰まる。
俺も言ってから恥ずかしくなった。
「……俺、今ちょっと変かも」
「ちょっとじゃない」
「そんなに?」
「急に言うようになった」
「今まで言わなさすぎた?」
「それはそう」
「じゃあちょうどいい?」
「振れ幅が大きいの」
「難しいな」
リビアが笑う。
繋いだ手が揺れる。
「でも」
「うん?」
「嬉しいから、言って」
「何を?」
「言いたいこと」
「全部?」
「……全部はちょっと怖いけど」
「何で?」
「私の心臓がもたないから」
「さっきからそればっかりだな」
「セスが悪いの」
「分かった」
少し考える。
今言いたいこと。
「リビア」
「うん」
「好き」
「……そういうところ!」
「言ってって言っただろ」
「言ったけど!」
リビアが空いている手で俺の肩を軽く叩く。
全然痛くない。
「じゃあ言わない?」
「それは嫌」
「難しい」
「セスが楽しんでる」
「ちょっと楽しい」
「もう!」
今度は俺も声を出して笑った。
リビアも結局笑った。
◇
本は一応開いた。
昨日止めたところから読み始めたものの、三ページほど進んだところで、リビアの手が止まった。
「セス」
「何?」
「内容、頭に入ってる?」
「半分くらい」
「私、全然入ってない」
「俺も本当は半分より少ないかも」
「やめる?」
「うん」
栞を挟み、本を閉じる。
今日くらいは読めなくてもいい。
「もう部屋戻る?」
俺が聞くと、リビアは少し迷った。
「……もうちょっと一緒にいたい」
その言葉が嬉しい。
「俺も」
すぐ答える。
何かをする必要はない。
研究もしない。
剣術交流の詳しい反省もしない。
本も読まない。
ただ隣にいる。
今日の剣術交流について少し話した。
アルフォルドの一本目が綺麗だったこと。
イザークが観覧区画で騒ぎすぎだったこと。
ナナリーがずっと両手を握っていたこと。
ミリアナが途中からイザークを止める方にも忙しくなっていたこと。
カイゼル殿下が妙に楽しそうだったこと。
サザリーが何でも領地管理へ結びつけかけ、自分で止まったこと。
普通の話をする。
その途中で何度も目が合った。
そのたびに、どちらからともなく少し笑う。
「何?」
リビアが聞く。
「好きって言った後でも、普通に話せるんだなって」
「話せなくなると思ってたの?」
「ちょっと」
「私も」
「そうなの?」
「だって、ずっと待ってたんだよ?」
「うん」
「言ってもらったら、何かすごく変わるのかなって思ってた」
「変わった?」
リビアは少し考えた。
「変わったよ」
「どこ?」
「安心した」
「安心?」
「うん」
彼女が胸元へ手を置く。
「セスが私を大事にしてくれてるのは分かってた。一緒にいたいって言ってくれるようにもなったし、婚約者じゃなくなるのは嫌だって言ってくれた」
「うん」
「だから、セスが私を嫌いなんじゃないかって不安だったわけじゃないの」
リビアは繋いだ手へ目を落とした。
「でも今日、セスが自分から私を好きだって思ってくれたことが分かった」
「うん」
「私が頼んだからじゃなくて」
「うん」
「婚約したからでもなくて」
「うん」
「セス自身が」
「俺自身が」
言葉を重ねる。
「リビアが好き」
彼女の頬がまた赤くなる。
「……うん」
「何回言っても赤くなるんだな」
「今日は無理だと思う」
「明日は?」
「明日にならないと分からない」
「じゃあ明日確認する?」
「どうやって?」
「好きって言ってみる」
「セス!」
笑いながら怒られた。
その声まで嬉しいと思った。
◇
部屋へ戻る時間になり、談話室を出る。
廊下は来た時よりさらに静かだった。
今度は最初から隣を歩く。
そして、俺から左手を差し出した。
リビアが少し驚いて俺を見る。
「繋ぐ?」
「うん」
手が重なる。
今日は右腕を休ませるため左手だ。
普段とは立ち位置が逆になる。
「変な感じ」
リビアが言う。
「いつもと逆だから?」
「うん」
「嫌?」
「全然」
「俺も」
ゆっくり歩く。
急がない。
リビアの部屋が近づくにつれ、さっきまでの嬉しさに少しだけ別の感覚が混ざった。
(もう別れるのか)
同じ屋敷にいる。
明日の朝にはまた会う。
それでも、もう少し一緒にいたいと思う。
以前なら、この感覚にも理由を探したかもしれない。
今は探さなくていい。
好きだからだ。
部屋の前へ着く。
手を繋いだまま、二人とも止まった。
「着いたね」
リビアが言う。
「うん」
でも手を離さない。
「セス?」
「もうちょっと」
「……うん」
ほんの少しだけ、そのままでいる。
廊下で長居するのはよくない。
分かっている。
それでもあと数秒だけ。
「明日の朝も会えるよ」
「分かってる」
「同じ屋敷だよ?」
「それも分かってる」
「じゃあ何で?」
「好きだから、もうちょっと一緒にいたい」
リビアが固まった。
「……また言った」
「駄目?」
「駄目じゃない」
「じゃあいいだろ」
「セスが強い……」
「剣の話?」
「違う」
「じゃあ何?」
「もういい」
リビアが笑った。
俺も笑う。
ようやく手を離す。
「おやすみ、リビア」
「うん。おやすみ、セス」
でもリビアはまだ扉を開けない。
俺も動かない。
目が合う。
「……何?」
リビアが聞く。
「最後にもう一回言いたい」
「今日、何回目?」
「数えてない」
「私も数えてない」
「じゃあいいだろ」
「何が?」
「リビア」
「うん」
「好き」
今度は泣かなかった。
代わりに、リビアが一歩近づいた。
額が俺の肩へ軽く触れる。
俺は迷わず左腕を背中へ回した。
さっきより短い。
でも自然だった。
「私も好き」
肩の近くから声が聞こえる。
「大好き」
「俺も」
数秒だけ抱きしめる。
それから、どちらからともなく離れた。
「おやすみ」
「おやすみ」
リビアが扉を開く。
部屋へ入る直前、もう一度こちらを振り返った。
頬はまだ少し赤い。
でも、ものすごく嬉しそうに笑っていた。
俺も自然に笑った。
扉が閉じるまで見送る。
◇
自分の部屋へ戻り、扉を閉めた。
静かになる。
その瞬間、俺は扉へ背中を預けた。
「…………言った」
誰もいない部屋で、声が漏れた。
急に全部が現実になった気がした。
リビアへ好きだと言った。
抱きしめた。
結婚したいとも言った。
(俺、結婚したいって言ったな)
今さら顔が熱くなる。
その場では自然に出た。
でも思い返すとものすごく恥ずかしい。
それでも後悔はなかった。
俺はゆっくりベッドの方へ歩き、端へ腰を下ろした。
右腕の痛みはほとんどない。
剣術交流には勝った。
アルフォルドとは次も戦いたいと思った。
明日の身体次第では通常授業にも参加出来る。
研究は進めていない。
古い測定器のことも、結界のことも今日はそのままだ。
何もかもが一日で変わったわけではない。
それでも、俺自身の中では大きく変わったものがある。
(リビアが好きだ)
もう、その言葉を置いても引っかからない。
(リビアの婚約者でいたい)
これも同じだ。
以前の俺なら、その後にいくつも条件をつけていた。
リビアが望むなら。
旦那様が認めてくださるなら。
家に迷惑がかからないなら。
身分上問題がないなら。
今だって条件や責任を無視するつもりはない。
公爵令嬢の婚約者になる以上、知らなければならないことも、出来るようにならなければならないこともある。
周囲から何か言われる日だって来るかもしれない。
でも、それを理由に最初から自分の気持ちを消す必要はない。
(俺がなりたいんだ)
リビアの婚約者に。
彼女の隣に立つ人間に。
そして、その先で。
(リビアと結婚したい)
今度は頭の中でも言えた。
恥ずかしい。
でも嫌ではない。
むしろ胸の奥が温かくなる。
まだ「相応しい」と胸を張れるかは分からない。
けれど、相応しくないから逃げるという答えは、もう選びたくなかった。
俺はベッドへ横になる。
今日は身体も疲れている。
考えすぎる前に眠った方がいい。
目を閉じる直前、談話室で泣きながら笑っていたリビアの顔が浮かんだ。
抱きしめた時の温かさまで思い出してしまい、また目を開ける。
(明日、普通に顔見られるかな)
少し不安になる。
でも、すぐに別の答えが浮かんだ。
(見たい)
恥ずかしくても。
たぶんお互いに顔が赤くなっても。
朝になれば会いたい。
一緒に朝食を食べたい。
馬車で学園へ行きたい。
授業を受け、それぞれ別の予定があれば別れて、また戻ってきたい。
今までと同じ日々を続けたい。
ただ一つ、大きく違う。
俺はもう、自分がどうして彼女の隣にいたいのかを知っている。
そして、その答えをリビアも知っている。
(好きだよ、リビア)
今度は声に出さず、胸の中だけで言った。
それでも、もう迷うことはなかった。




