第52話 勝負が終わったあと、最初に会いたかったのは婚約者でした
「今の一撃――」
レイモンド先生の声がそこで一度止まり、静まり返った第二剣術訓練場に、俺とアルフォルドの荒い呼吸だけが残った。
俺の模擬剣はアルフォルドの胴防具へ触れている。一方、アルフォルドの剣も俺の右腕防具へ届いており、どちらも明確に外したとは言えない位置だった。
(どっちが先だった?)
自分では分からない。
最後の瞬間、俺はアルフォルドが剣を弾こうとした力を受け止めず、その方向へ逃がしながら剣先を戻した。アルフォルドもほぼ同時に軌道を修正し、俺の右腕へ打ち込んできている。
体感では、本当にほとんど同時だった。
だから判定を待つしかない。
アルフォルドも動かなかった。額から汗が流れているが、それを拭おうともせず、レイモンド先生へ視線を向けている。
先生はまず俺の剣先を見た。
次にアルフォルドの剣。
それから俺たちの足元と姿勢を順番に確認し、ようやく口を開いた。
「クルセス、有効一本」
一瞬、言葉の意味が頭へ届かなかった。
「……俺?」
「そうだ」
先生が頷く。
「アルフォルド殿下の打撃もほぼ同時に入っている。ただし、クルセスの剣が胴防具へ明確に接触した方がわずかに早い。時間にすれば、判定する意味があるか迷う程度の差だ」
胸の奥から一気に熱が広がった。
「したがって第三本はクルセス。二本対一本で――この交流はクルセスの勝ちとする」
その言葉が訓練場へ響いた直後、観覧区画から大きな声が上がった。
「よっしゃあ!」
誰なのか確認するまでもない。
イザークだ。
「うるさい」
ミリアナの声も聞こえたが、本人もかなり嬉しそうだった。
「だって勝ったぞ!」
「見れば分かるって!」
「クルセス様、おめでとうございます!」
ナナリーの声も重なる。
ほかの見学生徒からも拍手や驚いた声が上がり、さっきまで張り詰めていた訓練場の空気が一気にほどけていく。
俺はその中で、まだ剣を握ったままアルフォルドを見た。
「……勝った」
「ああ」
アルフォルドが小さく息を吐いた。
悔しそうだった。
当然だと思う。
俺だって負けていたら悔しかった。
でも彼はすぐに剣を下げると、俺へ向けて右手を差し出した。
「今回はお前の勝ちだ、クルセス」
その言葉を聞いた瞬間、嬉しさがようやく現実になった。
「ありがとう」
俺も剣を左手へ持ち替え、差し出された手を握る。
「でも、本当に少しだけだった」
「分かっている。だから余計に悔しい」
「俺も一本目は取られたし」
「あれを取った時は、このまま行けると思ったんだがな」
「俺も二本目を取った時は、次も行けると思った」
「同じか」
「たぶん」
顔を見合わせる。
どちらからともなく笑った。
勝ったことは嬉しい。
ものすごく嬉しい。
でも、アルフォルドが弱かったから勝ったわけではない。
むしろ強かった。
一本目を取られた時、本気でまずいと思った。二本目も何度か防具へ届きかけたし、最後だってほんの少し違えば俺の負けだった。
「次は勝つ」
アルフォルドが言う。
「俺も次は負けない」
「次がある前提か?」
「ないの?」
「あるに決まっている」
握っていた手を離す。
それだけで、次の約束としては十分だった。
「二人とも、感想戦は後だ」
レイモンド先生が近づいてきた。
「まず剣を置け。身体強化は解除済みだな?」
「はい」
「解除しています」
「クルセス、右腕を見せろ」
言われて模擬剣を指定場所へ置き、右腕を差し出す。
防具の上から受けた一撃だったので、強い痛みはない。ただ、勝敗が決まって気が抜けたせいか、さっきよりじんわりとした感覚が分かるようになっていた。
「痛みは?」
「今は二くらいです」
「動かせるか?」
「はい」
肘を曲げ、手首を回し、指を開閉する。
違和感はない。
「痺れ」
「ありません」
「握力低下は?」
先生に渡された短い棒を握る。
「ないと思います」
「反対と比べる」
左右で同じ動作を行う。
大きな差は感じない。
「打撲程度だろうが、後で治療室へ寄れ。痛みが増えたらその時点で申告」
「はい」
先生は次にアルフォルドの胴防具を確認する。
「殿下、痛みは?」
「一です。防具に当たっただけです」
「呼吸時の違和感」
「ありません」
「念のためこちらも治療室へ。王族だからではなく、今日の参加者だから行ってもらいます」
「分かっています」
アルフォルドが苦笑した。
俺も少し笑う。
こういうところは本当に変わらない。
誰だからではなく、必要だから確認する。
その方が俺にはありがたかった。
「疲労は?」
「六くらいです」
俺が答えると、アルフォルドも少し考える。
「私も六程度です」
「今日は追加の剣術訓練禁止。魔術訓練も高負荷のものは禁止だ。帰宅後に痛みや疲労が増した場合は、それぞれ保護者へ申告すること」
「はい」
「分かりました」
「それからクルセス」
「はい」
「最後の停止は良かった」
思っていなかった言葉に、俺は瞬きをした。
「最後?」
「第三本だ。判定が出る前に俺が止めた時、身体強化まで即時に落とした」
「あ……はい」
「先日の魔術実習では、停止指示の瞬間に予定していた手順を続けかけたと聞いている。今回は出来ていた。それでいい」
そう言われて初めて、自分が止まれたことを意識した。
最後は勝敗がかかっていた。
あと少し動けば、もっと明確に打ち込めたかもしれない。
それでも先生の「止め」を聞いた瞬間、剣も身体も止めた。
(……ちゃんと止まれたんだな)
勝ったこととは別のところで、少し嬉しくなる。
「ありがとうございます」
「礼を言うほどではない。当然のことを当然に出来るようにしろ」
「はい」
「アルフォルド殿下も停止は問題ありませんでした」
「ありがとうございます」
「では防具を外せ。見学者も訓練区画にはまだ入るな。片付けが終わるまで待て」
先生の指示に従い、俺たちは壁際へ向かった。
◇
防具を外すと、身体が急に軽くなった。
胸当てを置き、腕の防具を外したところで右腕を見る。制服の上からでは分からないが、触ると少しだけ痛い。
(治療室は行こう)
別に我慢する理由はない。
剣術交流前にリビアとも、必要なら治療して帰ると話している。
むしろ治療室へ行かずに帰れば怒られる。
「右腕どうだ?」
隣で防具を外していたアルフォルドが聞いてきた。
「少し痛い。でも二くらい」
「最後のか?」
「たぶん」
「悪かった」
「勝負なんだから謝らなくていいよ」
「それはそうだが」
「俺も胴に当てたし」
「私の方はほとんど痛くない」
「ならよかった」
防具を片付けながら話していると、アルフォルドが少し黙った。
「クルセス」
「何?」
「最後、なぜ剣を受けなかった?」
「弾こうとした時?」
「ああ。普通なら握りを強くして耐えると思った」
「耐えたら、そのまま外まで弾かれると思ったから」
「だから力を抜いた?」
「うん。弾かれるなら、弾かれる方向へ一回逃がして、戻した方が早いかなって」
「その場で考えたのか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「考えたっていうより、そうした方がいい気がした」
アルフォルドが額へ手を当てる。
「それを言われると腹が立つな」
「何で?」
「こちらはお前の剣を弾いた後の動きまで考えていた」
「俺だって考えてたよ」
「『気がした』と言っただろう」
「途中までは考えてた」
「途中から感覚か」
「たぶん」
「次までに対策する」
「じゃあ俺も別のこと考える」
「だから次がある前提で話すな」
「さっき自分であるって言っただろ」
「そうだったな」
また笑う。
第一王子と元スラムの平民だった俺。
身分だけを並べれば、こうして剣の感想を言い合っている方がおかしいのかもしれない。
でも学園では、もうそれだけではない。
アルフォルドは友人で、剣では競う相手だ。
俺は今日勝った。
次は向こうがもっと強くなる。
だったら俺も強くなりたい。
それでいい。
「片付け終わったか?」
レイモンド先生に聞かれ、俺たちは周囲を確認する。
「はい」
「こちらも終わっています」
「よし。見学者、入っていいぞ。ただし剣には触るな」
許可が出た途端、イザークが一番に入ってきた。
「クルセス!」
「近い」
「最後の何だよ!」
「何が?」
「弾かれたのに戻したやつ!」
「今殿下とも話してた」
「俺にも説明しろ!」
「何でそんなに興奮してるんだよ」
「するだろ!」
後ろから来たミリアナが呆れたように肩をすくめる。
「イザーク君、自分が戦ったみたいになってるよ」
「見てたらやりたくなるだろ!」
「今日はやらないよね?」
「……やらない」
「今ちょっと迷ったでしょう?」
「先生いるし」
「先生がいなかったらやる気だったんだ」
「軽くだぞ」
「駄目だろ」
俺が言うと、イザークが不満そうにこちらを見る。
「お前に言われると何か腹立つ」
「何でだよ」
「昔のお前なら絶対この後振ってた」
「昔の俺の話だろ」
「それはそうだけど」
「明日やればいいじゃん」
「……そうする」
素直に引いた。
それが少し嬉しい。
俺だけが変わったわけではなく、周りとのやり取りも変わっている。
「クルセス様」
ナナリーが近づいてくる。
「おめでとうございます」
「ありがとう」
「最後、どちらが先か全然分かりませんでした」
「俺も分からなかった」
「先生には分かるんですね」
「判定する意味があるか迷うくらいだったらしいけど」
「それでも一本は一本だよ」
ミリアナが言う。
「クルセス君、すごかった」
「ありがとう」
「殿下もすごかったです」
ミリアナがアルフォルドを見る。
「一本目、あんなに綺麗に入ると思わなかった」
「あれは私も上手くいったと思う」
アルフォルドが答える。
「二本目からクルセスに読まれ始めたが」
「殿下も俺の動き読んでたよ」
「互いに途中から読み合いになっていましたね」
サザリーが穏やかに口を挟む。
「最初に見せた動きが、その後の判断材料になる。領地管理の判断と――」
そこで自分から止まった。
「……似ていると言いかけましたが、やめておきます」
「何で?」
「ベルナルト先生から、何でも別分野へ一般化しないようにと言われたばかりでしょう」
「ああ」
「剣は剣として考えましょう」
「うん」
カイゼル殿下が笑う。
「サザリーまで止まれるようになりましたね」
「クルセスと学習していると、自分にも必要だと分かりました」
「俺のせい?」
「おかげ、と言っておきます」
「それならいいけど」
みんなの声が重なる。
剣術交流の緊張が完全に解けていく。
その中で、俺はまだ一人だけ話していない人を探した。
探すまでもなかった。
少し離れた場所に、リビアが立っている。
目が合った。
彼女はすぐには近づいてこなかった。
俺が友人たちと話し終えるのを待っていたらしい。
(会いたい)
同じ訓練場にずっといた。
試合中も見てくれていた。
それでも、終わった今は近くへ行きたい。
俺はイザークたちへ「ちょっと行ってくる」とだけ言い、リビアの方へ歩いた。
◇
「リビア」
「セス」
近くまで行くと、リビアの表情がはっきり見える。
嬉しそうだった。
でも、それだけではない。
少しだけ目元が潤んでいるようにも見えた。
「勝った」
「うん」
「見てた?」
「全部見たよ」
昨日約束した通りの答えだった。
「最初から最後まで、全部」
「そっか」
「おめでとう、セス」
「ありがとう」
言われた瞬間、勝った時とは別の嬉しさが胸へ広がった。
観覧区画から拍手された時も嬉しかった。
イザークに騒がれたのも、ナナリーやミリアナに褒められたのも嬉しい。
アルフォルドに勝ちを認めてもらえたことも嬉しかった。
でも、リビアから言われると違う。
(好きな子に見てもらって、褒めてもらうのって、こんなに嬉しいんだな)
昨日までなら、ここまで明確には分からなかった。
「セス?」
「何?」
「また考え事?」
「うん」
「今日、多いね」
「昨日からちょっと増えた」
「昨日から?」
「うん」
リビアの瞳がわずかに動く。
朝から俺が何度も「後で」と言っていたことを覚えているはずだ。
「それって、朝から言ってたこと?」
「……関係ある」
「そっか」
それ以上聞かない。
待ってくれている。
そのことが今はよく分かる。
「右腕」
リビアの視線が俺の腕へ落ちた。
「痛い?」
「二くらい」
「治療室行く?」
「行く」
「よかった」
「一緒に来る?」
言ってから、少しだけ緊張した。
別に大げさな誘いではない。
治療室まで一緒に歩くだけだ。
それでも、今は自分がなぜ誘ったのか分かっている。
リビアと一緒にいたいから。
「うん。行く」
すぐに答えてくれた。
「アルフォルド殿下も行くから、途中まではみんな一緒かもしれないけど」
「それでもいいよ」
「うん」
「それにしても」
リビアが少し笑う。
「格好よかった」
「……また言うの?」
「終わったら言っていいでしょう?」
「さっきも言ってた」
「試合中だったから控えめにしたの」
「あれで?」
「うん」
「じゃあ今は?」
「すごく格好よかった」
顔が熱くなる。
「リビア」
「何?」
「俺、今そういうのに弱いかもしれない」
「前から弱かったよ?」
「そうなの?」
「私が褒めると、いつも少し困った顔してたもの」
「知らなかった」
「セスは自分のこと、あんまり見てなかったから」
その言葉に、返事が少し遅れた。
責める言い方ではなかった。
ただ事実として言っている。
たぶん、その通りだと思う。
自分が何をしたいのか。
何が嬉しいのか。
誰といたいのか。
昔は、そういうことを後回しにする方が普通だった。
「今は?」
俺が聞く。
「前より見てると思う」
「自分のこと?」
「うん」
「そっか」
「だから今日も、楽しそうだった」
「楽しかったよ」
「勝ったから?」
「それもあるけど、殿下と剣をやるのが楽しかった」
「うん」
「リビアが見てるのも嬉しかった」
口に出してから、もう照れを誤魔化そうとは思わなかった。
リビアの頬が少し赤くなる。
「……私も、見られて嬉しかった」
「見られて?」
「セスが時々こっちを見てくれたでしょう?」
「休憩の時?」
「うん」
「見たかったから」
「それが嬉しかったの」
目が合ったままになる。
少し前なら、どちらかが照れて視線を外していたかもしれない。
今日は俺も、すぐには外さなかった。
(好きだな)
自然に思う。
もう疑問ではない。
答えだ。
目の前にいるリビアが好きだ。
笑っている顔も、心配してくれるところも、剣を見て格好いいと言ってくれるところも、俺が答えを出すまで待ってくれているところも。
全部を一つずつ理由として数えなくてもいい。
好きだから好き。
今なら、それでもいい気がする。
「クルセス、治療室へ行くぞ」
後ろからレイモンド先生に呼ばれた。
「はい!」
現実へ戻る。
リビアが小さく笑った。
「行こう」
「うん」
◇
治療室まではアルフォルドとレイモンド先生、それから俺とリビアの四人で向かった。
イザークたちは訓練場の片付け確認が終わった後、そのまま帰るらしい。別れる前にイザークから「明日感想戦しようぜ」と言われたが、実際に剣を振るかどうかは明日の身体次第だと答えておいた。
廊下には放課後の生徒がまだ残っている。
部活動や自主練へ向かう者、図書館へ向かう者、帰宅する者が行き交い、窓の外では傾き始めた陽射しが校舎の影を長く伸ばしていた。
「殿下」
歩きながら俺が呼ぶと、アルフォルドが振り返る。
「何だ?」
「次やるなら、今日と同じ条件?」
「もう次の話か」
「さっきあるって言っただろ」
「言ったが、今決めることではない」
「それもそうか」
「次までに互いに変わっているかもしれない。条件はその時に教師と相談すればいい」
「分かった」
自分から先の予定を決めようとしていたことに気づく。
でも今回は、焦っているわけではない。
単純にまたやりたいと思っただけだ。
「殿下も楽しかった?」
「負けた直後の相手に聞くか?」
「俺だったら負けても楽しかったと思う」
「……まあ、楽しかった」
「ならよかった」
「次はもっと楽しくしてやる」
「それ、勝つって意味?」
「当然だ」
「じゃあ俺も」
「お前は少し黙れ」
アルフォルドが笑う。
その後ろでリビアも笑っていた。
◇
治療室では、予想通り大きな問題はなかった。
俺の右腕は軽い打撲。
冷却と簡単な治療魔術だけで済み、今夜は強い負荷をかけず、痛みが増えるなら屋敷側へ報告するよう指示された。
アルフォルドも胴に軽い打撲がある程度で、呼吸や肋骨に異常はない。
「これなら明日の通常授業も、朝の状態を確認して問題なければ参加して構いません。ただし剣術がある場合は教師へ今日の打撲を申告してください」
治療担当の先生が言う。
「分かりました」
「はい」
処置が終わる。
アルフォルドは王宮の迎えが来ているため、校舎玄関で別れることになった。
「クルセス」
「何?」
「今日はありがとう」
意外な言葉だった。
「俺もありがとう」
「次は勝つ」
「俺も負けない」
「そればかりだな」
「殿下が言うからだろ」
「ではまた明日」
「また明日」
手を軽く上げて別れる。
王族相手の挨拶としてはかなり軽い。
でも、今はそれでいいと言われている気がした。
◇
学園の正面玄関を出ると、夕方の空気が頬へ触れた。
昼より気温が下がっている。
空はまだ明るいが、西の端だけ少し橙色になり始めていた。
迎えの馬車が並ぶ場所まで、リビアと二人で歩く。
「終わったね」
リビアが言った。
「うん」
「勝ったね」
「うん」
「嬉しい?」
「嬉しい」
「よかった」
歩きながら右腕を軽く動かす。
治療のおかげで、痛みは一程度まで下がっている。
「腕は?」
「さっきより楽」
「本当に?」
「本当。痛み一くらい」
「ならよかった」
リビアの歩く速さが少しゆっくりになる。
俺も合わせる。
急いで馬車へ行く必要はない。
今日の勝負を思い返す。
一本目。
二本目。
三本目。
どれも頭に残っている。
でも、今一番意識しているのは剣ではなかった。
(朝からずっと後でって言ってる)
リビアは待ってくれている。
そして俺は、もう答えを知っている。
今言うことも出来る。
学園の玄関から馬車へ向かう途中。
周りにはほかの生徒もいる。
別に、それが駄目なわけではない。
ただ――。
(ここで言いたい?)
自分へ聞く。
少し違う気がした。
恥ずかしいから逃げているのか。
それとも、ちゃんとリビアだけに向けて言いたいのか。
考える。
「セス?」
「うん」
「また考えてる」
「考えてる」
「朝からのこと?」
「うん」
今度は誤魔化さなかった。
リビアの足がほんの少しゆっくりになる。
「まだ待った方がいい?」
「……うん」
口に出すと、自分の中で理由が見えた。
「でも、言わないつもりじゃない」
「うん」
「ちゃんと話したい」
「うん」
「ただ、ここじゃない気がする」
リビアが少しだけ目を見開いた。
それから、とても柔らかく笑った。
「分かった」
「ごめん」
「だから謝らなくていいって」
「気になってるのに」
「気にはなってるよ」
「すごく?」
「すごく」
「だよな」
「でも」
リビアが俺を見る。
「セスが『ちゃんと話したい』って言ってくれたから、それで十分」
胸の奥が温かくなる。
この人に言いたい。
改めて思う。
誰かに言われたからではない。
婚約者だから言わなければならないわけでもない。
リビアがずっと好きだと言ってくれたから、その返事として義務的に返すわけでもない。
俺自身が伝えたい。
(俺が好きだから、言いたいんだ)
その違いが、今ははっきり分かる。
◇
馬車へ乗ると、いつものようにリビアの隣へ座った。
剣術交流が終わった疲れのせいか、座席へ身体を預けた途端に全身から少し力が抜ける。
「疲れた?」
「うん。六から五くらいには下がったけど」
「眠い?」
「少し」
「寝てもいいよ」
「リビアは?」
「いるよ」
「じゃあ少し寝ようかな」
「どうぞ」
目を閉じようとして、やめた。
「どうしたの?」
「寝たらもったいない気がした」
「何が?」
「一緒に帰る時間」
言った後、自分でも驚いた。
リビアも固まった。
馬車の車輪が石畳を踏む音だけが数秒続く。
「……セス」
「何?」
「今日、本当にどうしたの?」
「俺も朝からちょっと困ってる」
「何に?」
「自分に」
「自分?」
「うん」
リビアの頬が少しずつ赤くなる。
俺もたぶん同じだ。
「寝る?」
彼女が聞く。
「やっぱり起きてる」
「無理はしない?」
「疲れが上がったら寝る」
「分かった」
馬車が揺れる。
肩が触れた。
今日はそのままにする。
手を繋ぐ必要はない。
でも、離れたいとも思わない。
「セス」
「何?」
「今日ね」
「うん」
「最後の一本、すごく怖かった」
「やっぱり?」
「二人とも同時に当たったように見えたから。どっちが勝ったかも分からなかったし、それより怪我してないかって思った」
「そっか」
「でも先生が止めたら、二人ともすぐ止まったでしょう?」
「うん」
「あれ見て、ちょっと安心した」
リビアが窓の外へ視線を向ける。
「前だったら、セスが勝つかどうかより、無茶しないかばっかり考えてたと思う」
俺は黙って聞いた。
「今日はもちろん心配だったけど、それだけじゃなくて、普通にどっちが勝つんだろうって見られた」
「それ、いいこと?」
「私にとっては」
リビアがこちらを見る。
「セスが止まれるって、前より信じられるから」
その言葉は、勝ったと言われた時とは違う場所へ届いた。
「……そっか」
「うん」
「俺も、今日は止まれると思ってた」
「本当に?」
「先生に止められたら止まるって、始まる前から普通に思ってた」
「前は?」
「前は……」
少し考える。
「止まらなきゃとは思ってた。でも勝つために必要なら、ちょっとくらいって考えたかもしれない」
「うん」
「今は、それやって勝っても駄目だって分かる」
「うん」
「今日、迅雷撃破使って勝っても意味ないし」
「それは反則だもの」
「そうなんだけど」
「ふふ」
リビアが笑う。
俺も笑った。
「それに」
続ける。
「無茶して怪我したら、一緒に帰れなくなるかもしれないし」
リビアの笑みが止まった。
「……それ、考えてたの?」
「試合中は考えてないよ」
「今?」
「今思った」
「そっか」
リビアが少し俯く。
銀青色の髪が頬へ落ちる。
「嬉しい」
「何が?」
「帰ることまで大事にしてくれるの」
「大事だよ」
自然に答えた。
「リビアと帰るって約束してたし」
「うん」
「帰りたかったし」
「……うん」
声が小さくなる。
俺も照れて窓へ目を向けた。
夕方の街が流れていく。
それでも肩は離れなかった。
◇
屋敷へ戻ると、グレイヴが玄関で待っていた。
俺の姿を見る。
次に右腕。
最後に顔。
「結果は?」
「勝った」
「そうか」
「二対一」
「怪我」
「右腕に軽い打撲。治療室で処置済み。今は痛み一くらい」
「アルフォルド殿下は?」
「胴に軽い打撲。そっちも処置済み」
「停止指示」
「全部従った」
「追加訓練」
「しない」
「分かった」
質問はそれで終わった。
「……勝ったことには何かないの?」
思わず聞く。
グレイヴが俺を見る。
「言ってほしいのか?」
「別に、そういうわけじゃないけど」
「おめでとう」
「何か適当じゃない?」
「面倒だな、お前」
リビアが隣で笑っている。
グレイヴもほんの少しだけ口元を緩めた。
「よくやった。だが今日は休め」
「うん」
「夕食まで部屋へ戻るか?」
「その前に旦那様へ報告する」
「旦那様は執務室だ。結果だけなら俺からでも伝えられる」
「自分で行く」
「なら五分程度にしろ。長話は夕食時でも出来る」
「分かった」
以前なら勝った後に剣を振り返りたくなったと思う。
今日はその気持ちはあるけれど、今すぐでなくていい。
明日になって身体に問題がなければ、ノートへ気づいたことを書けばいい。
アルフォルドともまた話せる。
急ぐ必要はない。
◇
旦那様への報告を終え、夕食を食べ、入浴まで済ませた頃には疲労もかなり下がっていた。
右腕の痛みはほとんどない。
それでも今日は剣には触らない。
魔術の研究もしない。
自室へ戻ろうとしたところで、廊下の先にリビアがいた。
「あ」
向こうも俺に気づく。
「セス」
「今から部屋?」
「うん。セスも?」
「そうしようと思ってた」
「今日は読書、どうする?」
いつもの共有している旅行騎士小説のことだ。
疲れているなら休んでもいい。
そう言いたいのだと思う。
俺は身体の状態を確かめた。
眠気は少しある。
でも読書出来ないほどではない。
「少しだけ読みたい」
「本当に?」
「うん」
「疲れたらすぐ終わる?」
「終わる」
「じゃあ少しだけ」
自然に二人で歩き始める。
いつもの場所へ向かう。
その途中で、朝からずっと胸の中にあることを思い出す。
(ちゃんと話したい)
その気持ちは変わっていない。
今は屋敷。
周囲に友人はいない。
勝負も終わった。
勝ったから言うわけではない。
負けていても、たぶん同じことを考えていた。
(……今日、言う?)
自分へ聞く。
心臓が速くなる。
怖い。
でも、嫌な怖さではない。
言ったら何かが変わる。
リビアはずっと俺を好きだと言ってくれているし、俺たちはもう婚約者だ。
それでも、俺が自分の意思で「好き」と返すことには意味がある気がする。
「セス?」
「何?」
「止まってるよ」
気づけば廊下の途中で足が止まっていた。
「あ、ごめん」
「大丈夫?」
「うん」
「疲れた?」
「違う」
リビアがこちらを見る。
朝と同じ。
俺が何かを抱えていると分かっている顔だ。
でも聞かない。
待っている。
(言いたい)
今度は、はっきりそう思った。
ただ、廊下の途中ではなく、落ち着いて向き合いたい。
「リビア」
「うん」
「本読む前に、少し話していい?」
リビアの目が大きくなる。
ほんの一瞬だけ、息を止めたように見えた。
「……うん」
「朝から言ってたこと」
「うん」
「ちゃんと話したい」
声にすると緊張が強くなる。
それでも逃げたいとは思わなかった。
リビアの頬が少し赤くなる。
「分かった」
静かな返事だった。
「じゃあ、座って話そう」
「うん」
二人で歩き出す。
さっきまで何度も通ってきたはずの廊下なのに、今日は少しだけ長く感じた。
俺はもう、自分の気持ちの名前を知っている。
あとは、それをリビアへ渡すだけだった。




