第5話 助けた御令嬢様、婚約者の前で俺を王子様と呼ぶのは無理があります
剣術訓練場を包んでいた騒がしさが、嘘のように消えていた。
つい先ほどまで、俺がイザーク様へ勝ったことに歓声を上げていた生徒たちも、木剣を片づけるために動き回っていた者たちも、今はそろって足を止めている。視線が集まっているのは、俺と、その腕へ身体を寄せるお嬢様。そして、涙を浮かべながら俺を見つめている栗色の髪の令嬢だった。
令嬢が口にした言葉が、まだ訓練場の空気へ残っている。
私の王子様です。
どうして、そんな話になっているのだろう。
二年前に誘拐された子供たちを助けたことは覚えている。だが、あの場にいた全員の顔や名前まで記憶しているわけではない。事件の後始末は衛兵へ任せ、俺は旦那様へ報告するため、すぐにその場を離れたからだ。
その中に貴族令嬢がいたとしても、不思議ではない。
問題は、その令嬢が俺を王子様と呼び、今にも再び抱きつこうとするほど感激していることだ。
そして、それ以上に大きな問題は。
「王子様、ですか」
隣にいるお嬢様が、同じ言葉をゆっくり繰り返した。
声は穏やかだった。
表情も美しい。
けれど、俺の腕へ絡んだ指には、先ほどまでより明らかに強い力が込められている。
「リビア」
「何かしら、セス?」
「痛い」
「あら、ごめんなさい」
お嬢様は口では謝ったものの、力を緩めなかった。
「離してくれると助かる」
「嫌です」
「即答だな」
「今、離したら、そちらの方がまた抱きつくかもしれないでしょう?」
お嬢様の視線が、栗色の髪の令嬢へ向く。
令嬢は肩を僅かに震わせたが、逃げるようなことはしなかった。むしろ、涙を指先で拭うと、一歩だけ俺たちへ近づいた。
「抱きついたことは謝ります。ですが、ずっと捜していた方へようやく会えたのです。あのときのことを思い出したら、身体が勝手に動いてしまって……」
「身体が勝手に?」
「はい」
「次からは、しっかり押さえていただけますか?」
「努力します」
「努力ではなく、必ずです」
「でも、もう一度くらいはお礼を」
「言葉でお願いいたします」
「オリビア様」
近くにいたミリアナ様が、困ったように声をかけた。
「少し落ち着かれてはいかがでしょうか」
「私は落ち着いておりますわ」
「その笑顔で言われても、説得力がありません」
「いつも通りの笑顔でしょう?」
「いいえ。先ほどイザーク様に勝たれたときより、三倍ほど怖いです」
正直な友人である。
お嬢様の目が細くなり、ミリアナ様はすぐに視線を逸らした。
「ディラン先生!」
「なぜ私を呼ぶのですか!?」
少し離れた場所で木剣を集めていたディラン先生が、明らかに巻き込まれたくない顔をした。
「教師として、この場を収めてくださいませ」
「私の担当は剣術です。生徒同士の恋愛問題は専門外です」
「問題を起こしている生徒がいますわ」
「抱きつかれたシルフィール君が、困っているだけでは?」
「私も困っています」
「あなたは当事者でしょう」
「婚約者ですから当然です」
お嬢様は胸を張った。
ディラン先生は俺へ視線を向ける。
助けを求めているように見えるが、俺も助けてもらいたい側だ。
「とりあえず」
俺はなるべく静かな声で言った。
「場所を変えませんか?」
俺たちを囲むように、人の輪ができている。
訓練場にいた生徒だけではない。騒ぎを聞きつけた別の学年の生徒まで、木柵の外からこちらを覗いていた。
中には、何があったのか分からないまま、俺が二人の令嬢に取り合われていると説明している者もいる。
違う。
少なくとも、俺は取り合われるような人間ではない。
「賛成ですわ」
栗色の髪の令嬢が頷いた。
「私も、きちんとあのときのお礼と、お話をしたいです」
「私も同席します」
お嬢様が間髪を入れずに言う。
「もちろんです」
令嬢は素直に頷いた。
拒絶されると考えていたのか、お嬢様が一瞬だけ目を見開く。
「よろしいのですか?」
「はい。オリビア様がクルセス様の婚約者であるなら、私が御説明するべきだと思います」
「……そうですか」
令嬢の態度に敵意がないため、お嬢様も強く出づらいらしい。
だが、俺の腕からは離れない。
「クルセス!」
背後から大声が飛んできた。
振り返ると、イザーク様が悔しそうな顔でこちらへ歩いてくる。
「次の勝負はいつだ!」
「まだ今日の授業も終わっていません」
「今の俺は駄目だ! もっと鍛え直す! 次は絶対に勝つ!」
「そうですか」
「そのときは、オリビアを」
「その話は二度としない約束ですわよね?」
お嬢様の冷たい声に、イザーク様の勢いが止まった。
「自分の女とは呼ばないとは言った」
「それだけでは足りませんわ」
「だが、諦めるとは言っていない!」
「諦めてください!」
「嫌だ!」
「子供ですか!」
「お前もさっき、そいつに抱き締められて動かなかっただろう!」
「あれは倒れかけたからです!」
「しばらく立たなかっただろう!」
「あの時間は必要でした!」
「何のためにだ!」
「私の心を落ち着かせるためです!」
「俺の心は乱れたぞ!」
「知りません!」
二人の言い争いが始まった。
少し前まで剣士としての姿勢をバルガス先生に厳しく叱られていたというのに、お嬢様のことになると全く反省が生かされないらしい。
「イザーク」
低い声と共に、バルガス先生の大きな手がイザーク様の肩へ置かれた。
「授業中だ」
「ですが先生!」
「今からお前は、俺と基本の打ち込みを百回だ」
「百回!?」
「不服か?」
「い、いえ」
「なら来い」
イザーク様は襟首を掴まれ、訓練場の端へ連れていかれた。
途中で何度もこちらを振り返っていたが、バルガス先生が頭を軽く叩くと、ようやく前を向いた。
気の毒ではある。
だが、少し静かになった。
「俺たちも移動しよう」
「ええ」
栗色の髪の令嬢が返事をする。
「リビアも、それでいいか?」
「当然、私も行きます」
「授業は?」
「次は昼休みです」
周囲を見ると、いつの間にか時計塔から授業終了を告げる鐘が鳴っていた。
模擬戦と騒動で時間を使い切ったらしい。
ディラン先生は疲れた顔で解散を告げ、生徒たちへ昼食へ向かうよう指示した。
見物していた者たちは、名残惜しそうにしながらも少しずつ散っていく。
ただし、俺たちの後ろをついてこようとする生徒が何人もいた。
「皆様」
お嬢様が振り返った。
「これから、私たちは大切なお話がございます」
公爵令嬢らしい穏やかな笑み。
それだけで、大半の生徒が足を止めた。
「聞き耳を立てた方がいらっしゃいましたら」
お嬢様の足元へ、淡い魔力が広がる。
「私の結界魔法の訓練へお付き合いいただきますわ」
全員が、一斉に別の方向へ歩き始めた。
判断が早い。
「リビア」
「何?」
「脅すのは良くない」
「お願いしただけよ」
「訓練へ付き合えという部分が、どう考えても脅しだ」
「皆様、快く了承してくださったでしょう?」
「逃げただけだ」
「細かいことは気にしないで」
お嬢様は満足そうだった。
結局、俺たちは食堂の端にある席へ移動することになった。
この時間の食堂には、すでに多くの生徒が集まっていた。
高い天井には幾つもの魔導灯が下がり、長い窓からは正午の日差しが差し込んでいる。木製の長机が規則正しく並び、奥の受取口では料理人と給仕係が忙しそうに動いていた。
温かなパンの香りと、煮込み料理の匂いが広がっている。
王立学園の食事は、基本的に学費へ含まれているため、受取口で希望する料理を伝えれば追加の支払いは必要ない。
素晴らしい制度である。
ただし今は、食事を楽しむ余裕があるかは分からない。
「セス、何にする?」
「日替わりの煮込み料理にする」
「では、私も同じものにするわ」
「リビアは魚料理が食べたいと言っていなかったか?」
「セスと同じものがいいの」
「味は変わらないぞ」
「同じものを食べているという事実が大切なの」
「そういうものか?」
「そういうものよ」
俺には分からない感覚だ。
お嬢様の分も料理を受け取ろうとしたが、その手を止められた。
「自分で持つわ」
「なぜ?」
「学園では、主従ではなく婚約者として過ごしたいと言ったでしょう?」
「だからといって、俺の役目がなくなるわけではない」
「役目ではなく、習慣になっているだけよ」
お嬢様は自分の盆を受け取った。
少し離れた位置では、栗色の髪の令嬢も同じ料理を選んでいる。
その後ろには、一人のメイドらしい少女がいた。
学園の制服ではなく、子爵家の紋章が入った従者用の服を着ている。黒に近い茶色の髪を結び、令嬢を心配そうに見守っていた。
全員が料理を受け取り、食堂の端の席へ座る。
配置は、俺の隣がお嬢様。
向かい側に栗色の髪の令嬢。
その隣に、従者の少女。
本来、従者は主人と同じ席へ座らないことも多い。しかし、お嬢様が「人に聞かれたくない話だから」と同席を勧めた。
「それでは」
お嬢様が周囲を見回す。
小さく魔術を唱えると、俺たちの席を包むように透明な膜が広がった。
外から見た様子は変わらないが、内側の声が漏れないようにする遮音結界だ。
「これで、周りには聞こえませんわ」
「ありがとうございます」
令嬢が頭を下げた。
お嬢様は彼女を見つめる。
「まず、お名前を伺っても?」
「申し遅れました」
令嬢は椅子へ座ったまま、背筋を伸ばした。
「ナナリー・ハシュナと申します。ハシュナ子爵家の長女です」
ナナリー・ハシュナ。
名前を聞いても、やはり記憶は戻らない。
「こちらは、私の専属侍女を務めるアシュです」
「アシュと申します」
侍女の少女が頭を下げる。
「二年前の事件では、私の不注意でお嬢様を見失ってしまいました。クルセス様には、どれほど御礼を申し上げても足りません」
「頭を上げてください」
「ですが」
「俺は、命じられた仕事をしただけです」
「仕事?」
ナナリー様が聞き返す。
「偶然、あの場所を通りかかったのではないのですか?」
「違います。王都で子供の誘拐事件が続いていたため、旦那様から調べるよう命じられていました」
「お一人で?」
「最初は衛兵と連携していました。ただ、内通者がいる可能性が出たため、俺が先にアジトを見つけることになりました」
お嬢様がじっと俺を見た。
「セス」
「何だ?」
「私は、その話を詳しく聞いていないわ」
「話していないからな」
「なぜ?」
「聞かれなかったから」
「普通、そういうことは自分から話すものではないの?」
「仕事の報告は旦那様へした」
「私には?」
「心配させる必要はないと思った」
お嬢様の眉間に、ゆっくり皺が寄る。
「一人で誘拐組織のアジトへ踏み込んだことを、私に黙っていたのね?」
「当時も怪我はなかった」
「怪我の有無ではありません!」
お嬢様の声が大きくなった。
幸い、結界の外には聞こえない。
「もし、何かあったらどうするつもりだったの?」
「何かあった場合のために、衛兵へ場所を伝えてから入った」
「そういう意味ではないわ!」
「では、どういう意味だ?」
「セスに何かあったら、私が悲しむでしょう!」
真剣な声だった。
ナナリー様とアシュが、驚いたようにお嬢様を見る。
「お嬢様」
「リビア」
「今は家ではないから、愛称で呼べと言ったのはリビアだろ」
「そうだけど、今は真面目な話をしているの!」
「俺も真面目に答えている」
「では、今後は危険なことをする前に、必ず私へ相談して」
「仕事の内容を勝手に話すことはできない」
「私の命令です」
「旦那様の命令とぶつかる」
「お父様の命令を取り消させます」
「できるのか?」
「泣けば、かなりの確率で」
「その力を乱用するな」
旦那様に対する泣き落としへの信頼が高すぎる。
お嬢様は納得していない顔だったが、今はナナリー様の話を聞くため、ひとまず追及を止めた。
「失礼しました」
「いえ」
ナナリー様は、どこか羨ましそうに俺たちを見ていた。
「オリビア様は、本当にクルセス様を大切にされているのですね」
「もちろんですわ」
即答だった。
「幼い頃から、ずっと一緒におりますもの」
お嬢様は俺の腕へ手を添えた。
食堂へ来てから、ようやく離れていたのだが、ナナリー様の言葉を聞いて再び触れたくなったらしい。
「それで、二年前に何があったのか、最初から聞かせていただけますか?」
「はい」
ナナリー様は膝の上で両手を組んだ。
少しだけ息を整え、当時を思い出すように目を伏せる。
「二年前、父の誕生日が近づいていた日のことです」
ナナリー様は、ハシュナ子爵と二人で暮らしている。
母親は彼女が幼い頃に亡くなり、父親は娘を男手一つで育ててきたという。貴族として厳しく接することもあったが、ナナリー様の誕生日には自ら贈り物を選び、体調を崩せば政務を放り出してでも付き添うような人だった。
そんな父の誕生日に、何か特別な物を贈りたい。
そう考えたナナリー様は、アシュと共に王都の南地区へ買い物に出かけた。
「その日は、いつもより多くの人が街へ出ていました」
ナナリー様の声が、ゆっくりと当時の景色を描いていく。
季節の祭りが近く、大通りには露店が並び、色鮮やかな布や菓子、工芸品が売られていた。
ナナリー様は、父親へ贈る物をなかなか決められず、幾つもの店を回った。
財布。
羽根ペン。
酒を飲むための杯。
新しい上着。
どれも悪くはない。
けれど、父親の喜ぶ顔を想像すると、もっと良い物があるのではないかと思ってしまう。
「私は、浮かれておりました」
ナナリー様は苦しそうに笑った。
「普段なら、アシュの手が届かない場所まで離れることはありません。ですが、人混みの向こうに父が好きそうな懐中時計を見つけて、夢中で追いかけてしまったのです」
「私も、お嬢様のすぐ後ろにいたつもりでした」
アシュが悔しそうに続けた。
「ですが、大きな荷物を持った男が間へ入りました。避けた、ほんの数秒の間に、お嬢様の姿が消えていたのです」
ナナリー様は細い路地へ引き込まれた。
後ろから口を塞がれ、抵抗する間もなく古い建物の中へ連れ込まれたという。
そこには、汚れた服を着た男たちが何人もいた。
床には鎖。
部屋の隅には、怯えた子供たち。
身代金を取れる貴族の子供は家へ要求を送り、それができない者は国外へ売り飛ばす。
それが、彼らの仕事だった。
「怖かったです」
ナナリー様の指が震える。
「助けを呼んでも、誰も来ないと言われました。父にも、アシュにも、もう会えない。知らない国へ売られて、一生帰れないのだと思いました」
俺の記憶にも、あの建物の中の空気は残っている。
湿った床。
腐った木材の匂い。
泣き声すら上げられなくなった子供たち。
俺が踏み込んだとき、男の一人が少女の肩を掴もうとしていた。
「男が私へ手を伸ばした、そのときでした」
ナナリー様の声が、僅かに明るくなる。
「部屋の扉が、物凄い音を立てて飛んでいったのです」
「飛んだ?」
お嬢様が俺を見る。
「蹴ったら、蝶番が腐っていた」
「普通の扉は、蹴っても飛びません」
「古い建物だったからな」
「言い訳になっていないわ」
俺としては、鍵を開ける時間がなかっただけだ。
中の人数と位置は、魔力感知で把握していた。
正面に三人。
奥に二人。
裏口付近に見張りが一人。
先に入り口の三人を倒し、子供たちから離す必要があった。
「クルセス様は、扉の向こうから現れました」
ナナリー様の頬が、少しずつ赤くなる。
「黒い髪を風に揺らし、男たちを見ても全く恐れず、私たちを助けに来たとおっしゃったのです」
「そんな格好のいい言い方はしていません」
「言いました」
「何と言ったか覚えているのですか?」
お嬢様の問いに、ナナリー様は嬉しそうに頷いた。
「『遅くなってすみません。もう大丈夫です』と」
言っただろうか。
子供たちを落ち着かせるため、似たような言葉は口にしたかもしれない。
「その後、男たちがクルセス様へ襲いかかりました」
「何人いたの?」
「最初の部屋に五人。建物全体では十二人ほどだったと思う」
「十二人!?」
「武器を持っていない者もいた」
「人数の問題です!」
お嬢様が俺の肩を両手で掴んだ。
「二年前ということは、セスは十三歳でしょう!?」
「そうなるな」
「十三歳の子供が、一人で十二人の犯罪者へ立ち向かったの!?」
「衛兵が来るまで足止めをしただけだ」
「倒したと聞こえましたが」
「抵抗できない程度には」
「それを倒したと言うのよ!」
お嬢様の声が震えている。
怒っているだけではない。
本気で心配しているのだろう。
「どうして、いつも自分を大切にしないの?」
「している」
「していません!」
「無理だと思えば、衛兵を待った」
「勝てると思ったから入ったの?」
「ああ」
「そういう問題ではないわ!」
お嬢様は俺の肩から手を離すと、今度は額を押さえた。
大きく息を吐き、感情を整えようとしている。
「この続きは、屋敷へ帰ってからお話しします」
「まだ話すのか?」
「当然です。お父様とグレイヴも一緒に」
「人数を増やす必要はない」
「あります」
「なぜ?」
「セスが反省するまで、皆で囲みます」
「取り調べじゃないか」
「心配をかけた罪です」
二年前の仕事で、今になって裁かれるらしい。
ナナリー様は俺たちのやり取りを見た後、再び話を続けた。
俺が男たちを取り押さえ、奥に閉じ込められていた子供たちを外へ誘導したこと。
恐怖で立てなくなっていたナナリー様を、他の子供がいる場所まで抱えて運んだこと。
「お姫様抱っこで?」
お嬢様が確認する。
「はい」
「セス」
「他に運び方がなかった」
「背負えばよかったでしょう?」
「怪我がないか分からなかった。背中へ回すより、目の届く位置で運んだほうが安全だった」
「理屈は分かります」
「なら」
「感情が納得しません」
「難しいな」
「婚約者が、他の御令嬢を抱き上げたのです。少しくらい嫉妬してもよいでしょう?」
「当時は婚約していない」
「これから婚約するので、過去へも遡って嫉妬します」
「そんな制度はない」
「今日からあります」
お嬢様が決めてしまった。
ナナリー様は恥ずかしそうに頬へ手を当てた。
「抱き上げていただいたとき、私はクルセス様のお顔を初めて近くで見ました」
「その説明は必要ですか?」
お嬢様が割り込む。
「私にとっては大切です」
「そうですか」
笑顔の圧が強い。
ナナリー様も少し怯んだが、それでも話を止めなかった。
「ずっと怖かったのに、クルセス様の腕の中へ入った瞬間、もう大丈夫なのだと思えました。優しい声で何度も無事かと聞いてくださり、震えが止まるまでそばにいてくださいました」
「俺は、すぐに衛兵のところへ行ったと思いますが」
「私には、長い時間に感じられました」
その後、俺は到着した衛兵へ捕らえた男たちと子供たちを引き渡した。
誘拐組織には別の拠点があったため、そのまま案内役を連れて移動する必要があった。
ナナリー様へ名乗らなかったのも、急いでいたからだ。
「兵士の方々へ聞いても、クルセス様の名前は分かりませんでした」
「旦那様から、俺が関わったことは伏せるよう命じられていたからです」
事件へ衛兵の内通者が関わっていた。
組織を完全に捕らえるまで、調査役である俺の存在を知られないためだった。
「私は屋敷へ戻ってから、父にお願いして、助けてくださった方を捜しました」
ハシュナ子爵も、娘の恩人を見つけようと動いてくれたという。
しかし、公式の記録には「パウリー公爵家から提供された情報により、王都衛兵隊が誘拐組織を摘発した」としか残っていなかった。
現場にいた衛兵も、俺の素性を話すことはなかった。
「それでも、諦められませんでした」
ナナリー様は俺を見つめた。
「もう一度会って、御礼を申し上げたかった。それに」
言葉を止める。
頬がさらに赤くなった。
「できるなら、お名前だけではなく、もっとその方のことを知りたいと思っていました」
お嬢様の指が、卓の上で僅かに動く。
「それは、恩人として?」
「最初は、そう思っていました」
「最初は?」
「助けていただいた日のことを思い出すたび、胸が苦しくなりました。お顔を思い浮かべるだけで、また会いたいと思うようになって」
「……」
「父から、それは恋なのではないかと言われました」
「お父様に相談したのですか?」
「はい。父は最初、とても複雑そうな顔をしておりましたが、命を救ってくださった誠実な方なら、一度会って話したいと」
ナナリー様は胸へ手を添える。
「だから私は、ずっとクルセス様を捜していました」
真っすぐな言葉だった。
冗談でも、勢いだけでもない。
二年間、名前も知らない相手を捜し続けた。
その想いの重さが、俺にも伝わってくる。
「ですが」
ナナリー様は、お嬢様を見る。
「今日、ようやくお会いできたと思ったら、婚約者がいらっしゃると知りました」
声に、僅かな寂しさが混じる。
お嬢様は黙っていた。
先ほどまでなら、俺は自分の婚約者だから諦めてほしいと、すぐに口にしていただろう。
だが、ナナリー様の二年間を聞き、簡単に言葉を挟めなくなったらしい。
「ナナリー様」
俺は静かに呼びかけた。
「様は必要ありません。ナナリーとお呼びください」
「それはできません」
「なぜですか?」
「俺は元平民の執事見習いです。子爵令嬢を呼び捨てにはできません」
「では、ナナリーと呼ぶのは私だけで十分ですわ」
お嬢様が素早く割り込む。
「セスが愛称や呼び捨てで呼ぶのは、私だけです」
「まだ決めていませんが」
「今決めました」
「また勝手に決めたな」
「駄目?」
お嬢様が下から俺を見上げる。
瞳を僅かに潤ませている。
絶対にわざとだ。
「……分かった」
「ありがとう、セス」
一瞬で笑顔へ戻った。
ナナリー様は、その変化を見て小さく笑った。
「オリビア様は、可愛らしい方なのですね」
「今さら気づかれましたか?」
お嬢様が胸を張る。
自分で認めるのか。
「学園では、いつも完璧で、少し近寄りがたい方だと思っていました」
「私も、誰にでもこのような姿を見せるわけではありませんわ」
お嬢様は俺の腕へ身体を寄せた。
「セスの前だけです」
「そうなのですね」
ナナリー様の笑みが、少し寂しそうになる。
「やはり、お二人は長い時間を一緒に過ごされてきたのですね」
「はい」
「俺は使用人として仕えていただけです」
「セス」
「何だ?」
「そこで余計なことを言わなくていいの」
「事実だろ」
「私にとっては、それだけではないわ」
お嬢様は俺の手へ自分の指を重ねた。
「セスは、幼い頃から私の一番大切な人です」
ナナリー様の視線が、重なった手へ落ちる。
俺は少し居心地が悪くなったが、振り払うことはできなかった。
「ナナリー様」
「はい」
「俺を捜してくださっていたことは、ありがたく思います」
その言葉に、ナナリー様が顔を上げる。
「ですが、あの事件で俺がしたことは、仕事です。ナナリー様だけを特別に助けたわけではありません」
「分かっています」
「王子様と呼ばれるような人間でもありません」
「それは、私が決めることです」
意外なほど強い返答だった。
「クルセス様にとっては仕事でも、私にとっては人生を救っていただいた出来事です。あの日、クルセス様が来てくださらなければ、私は今ここにいなかったかもしれません」
「……」
「だから、私の中では王子様なのです」
「婚約者の前では、別の呼び方へ変えていただけると助かります」
お嬢様が静かに言った。
「王子様は、少し距離が近すぎます」
「では、クルセス様とお呼びします」
「ありがとうございます」
「ですが、想いを諦めるとは、まだ言えません」
お嬢様の笑顔が止まった。
「今、何と?」
「クルセス様が婚約者であることは理解しました。オリビア様を傷つけたいとも思いません」
「それでしたら」
「ですが、私は今日、ようやく二年間捜していた方へ会えたのです。何も知らないまま、すぐにすべてを諦めることはできません」
ナナリー様は俺をまっすぐ見た。
「婚約式は、来月なのですよね?」
「そう聞いています」
「それまでは、まだ正式な婚約者ではない」
「ナナリー様?」
お嬢様の声が低くなる。
「奪うつもりはありません」
「今の言葉の後では、説得力がありませんわ」
「ただ、クルセス様とお話をして、人柄を知りたいのです」
「十分に知った後、どうするのですか?」
「そのとき考えます」
「今、考えてくださいませ」
「急には決められません」
「私とセスは結婚します」
「セス?」
ナナリー様が首を傾げる。
お嬢様は、しまったという顔をした。
「クルセス様の愛称ですか?」
「違います」
「先ほどから何度も呼んでおりますが」
「聞き間違いです」
「リビア」
「セスは黙っていて」
「俺の愛称だと説明すればいいだろ」
「他の女性に教えたくないの!」
お嬢様の独占欲は、愛称にまで及ぶらしい。
ナナリー様は少し考え、嬉しそうに微笑んだ。
「では、私もセス様と」
「駄目です!」
食堂中へ響きそうな声だった。
結界があってよかった。
「絶対に駄目です! セスと呼んでいいのは私だけです!」
「ですが、オリビア様はクルセス様を独占しすぎではありませんか?」
「婚約者ですもの!」
「まだ正式ではないと」
「来月には正式になります!」
「では、それまでは」
「それまでも私のセスです!」
お嬢様は俺の腕へ抱きついた。
完全に宣言する形だ。
ナナリー様も負けじと身を乗り出す。
「クルセス様御本人の意思を聞くべきではありませんか?」
「セスは私と結婚します」
「セス様は、そうおっしゃったのですか?」
「まだですが、必ずそうなります」
「では、私にも可能性はあります」
「ありません!」
二人の間に、見えない火花が散っている。
俺は助けを求めるようにアシュを見た。
彼女は静かに料理を食べていた。
「止めないのですか?」
「申し訳ございません。お嬢様は、一度決めたら止まりませんので」
「では、一緒に説得を」
「クルセス様」
アシュは真剣な顔で俺を見た。
「私は、お嬢様の恋を応援しております」
「そちら側ですか」
「命の恩人ですので、私個人としても、クルセス様には幸せになっていただきたいと思っております」
「ありがとうございます」
「その幸せのお隣に、ナナリーお嬢様がいれば、なお良いかと」
やはり、そちら側だった。
「セス」
お嬢様が俺を見上げる。
「はい」
「どうするの?」
「何を?」
「ナナリー様が、セスのことを好きだとおっしゃっているのよ」
「そうだな」
「そうだな、ではありません!」
「俺にどうしろと」
「私だけを好きだと、はっきり申し上げてください」
「昨日、考える時間がほしいと言ったばかりだろ」
「それは、私への気持ちを考える時間でしょう?」
「ああ」
「他の女性へ気持ちが移る時間ではありません」
「移るとは言っていない」
「では、移らない?」
「分からないことを約束はできない」
正直に答えた瞬間、お嬢様の顔から表情が消えた。
「セス」
「何だ?」
「そこは嘘でも、移らないと言う場面です」
「嘘をつくほうが悪いだろ」
「正直すぎるのも悪いの!」
「難しいな」
「難しくありません!」
お嬢様は俺の肩を何度か軽く叩いた。
痛くはない。
だが、かなり不満らしい。
「クルセス様は、誠実な方ですね」
ナナリー様が微笑む。
「セスのどこを見て、その結論になったのですか?」
「相手を期待させる嘘をつかないところです」
「私としては、少しくらい期待させてほしいです」
「オリビア様には、十分期待できる言葉をおっしゃっているのでは?」
「どの言葉ですか?」
「生涯お側にいたい、と」
第一王子殿下の前で話した言葉だ。
ナナリー様も、すでに噂で聞いたのだろう。
お嬢様は一瞬で機嫌を直し、頬へ手を当てた。
「そうでしたわ」
「忘れていたのか?」
「忘れてはいないわ。ただ、何度思い出しても嬉しいの」
「執事としての話だぞ」
「今は聞こえません」
都合が悪い部分だけ聞こえなくなるらしい。
ナナリー様はそんなお嬢様を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「私では、今のお二人の間には入れないような気がします」
「ようやく御理解いただけましたか?」
「今は、です」
「最後の言葉は必要ですか?」
「大切です」
ナナリー様は簡単には諦めない。
だが、先ほどまでの張り詰めた空気は、少しだけ和らいでいた。
俺たちはようやく昼食へ手をつける。
話している間に、煮込み料理は少し冷めてしまった。それでも、香草の香りと柔らかく煮込まれた肉は美味しい。
「セス」
「何だ?」
「私の肉を一つあげるわ」
「自分で食べろ」
「模擬戦で疲れたでしょう?」
「リビアも戦った」
「私は、セスが食べているところを見れば元気になるもの」
「どういう仕組みだ」
お嬢様が自分の皿から肉を一つ取り、俺の皿へ移す。
それを見ていたナナリー様も、同じように自分の皿へ視線を落とした。
「クルセス様、私の分も」
「お気持ちだけいただきます」
「なぜですか?」
「リビアから一つもらいました。これ以上は多いです」
「私の一つは受け取ったのですね」
ナナリー様が少し悔しそうにする。
お嬢様は勝ち誇った笑みを浮かべた。
「幼い頃からの違いですわ」
「食事を分けただけで、そこまで勝ち誇らなくても」
「大切なことよ」
お嬢様にとっては、肉一切れも勝負になるらしい。
食事を終え、午後の授業へ向かう時間が近づいた。
ナナリー様は俺と同じ特進クラスだ。
教室で見かけていたのだから当然だが、これからも顔を合わせることになる。
「午後からも、よろしくお願いいたします」
ナナリー様が頭を下げる。
「こちらこそ」
「席は少し離れておりますが、休憩時間にお話ししてもよろしいですか?」
「授業の邪魔にならなければ」
「セス」
お嬢様の声が飛んでくる。
「なぜ勝手に許可するの?」
「話をするだけだろ」
「二人きりは駄目です」
「教室の中だぞ」
「人がいても駄目です」
「では、どこで話せと」
「私が隣にいる場所で」
「先ほどと同じだな」
「当然よ」
ナナリー様も、少し考えてから頷いた。
「分かりました。オリビア様とも、もっとお話ししてみたいです」
「私と?」
「はい。クルセス様が大切にされている方ですから」
お嬢様が僅かに驚く。
「敵意を向けるだけでは、クルセス様が困ってしまいます。それなら私は、オリビア様がどのような方か知りたいです」
「……そうですか」
「それに」
ナナリー様は少しだけ笑う。
「オリビア様と仲良くなれば、クルセス様とお話しできる機会も増えるかもしれません」
「やはり、仲良くなるのはやめましょう」
「もう遅いです。私はそのつもりになりました」
「なっていません。今すぐ戻ってくださいませ」
「オリビア様は、本当はお優しい方です」
「そのようなことを言っても、セスは渡しません」
「それは、これから考えます」
「考えなくて結構です!」
二人は言い合いながらも、先ほどより距離が近くなっていた。
ナナリー様は真っすぐで、悪意がない。
お嬢様も、それが分かっているからこそ、本気で排除することができないのだろう。
俺たちは食器を返却し、教室へ向かうため食堂を出た。
廊下へ出ると、遮音結界が消える。
同時に、周囲の視線が一斉に集まった。
食堂へ入る前の騒動は、すでにかなり広まっているらしい。
「助けた御令嬢に抱きつかれたって」
「オリビア様と三人で話していたの?」
「修羅場では?」
「シルフィール君は無事なのか?」
好き勝手な囁きが聞こえてくる。
俺は大きく息を吐いた。
お嬢様は、俺の右腕を抱えている。
ナナリー様は、少し離れた左側を歩いている。
アシュはその後ろ。
この状況を見れば、誤解が増えることはあっても減ることはないだろう。
「リビア」
「何?」
「腕を離してくれないか?」
「嫌よ」
「注目されている」
「婚約者だと分かって、ちょうどよいでしょう?」
「ナナリー様」
「はい?」
「少し離れて歩いていただけますか?」
「私は、十分離れております」
確かに、一歩分は離れている。
これ以上を求めるのは失礼かもしれない。
廊下の角を曲がったところで、前方に人だかりが見えた。
中央にいるのは、金色の髪をした少年。
第一王子アルフォルド殿下だった。
その隣には、銀色の髪をした見慣れない少年と、青髪のサザリー様。さらに少し離れた位置には、紫色の髪をした少年が立っている。
おそらく銀髪が隣国の第二王子カイゼル・ブルーム殿下。
紫髪が、魔法師団長の息子ライゼル・シュザー様。
お嬢様へ求婚している者たちが、イザーク様を除いてそろっている。
その四人が、俺たちへ気づいた。
正確には。
俺の腕へ抱きついているお嬢様と、その反対側を歩くナナリー様に気づいた。
第一王子殿下の顔が険しくなる。
サザリー様は眼鏡の位置を直し、鋭い目を向ける。
銀髪の少年は興味深そうに笑い、紫髪の少年からは明確な殺気が放たれた。
「リビア」
第一王子殿下が、低い声で愛称を呼ぶ。
お嬢様の眉間へ皺が寄った。
「殿下。何度も申し上げておりますが、私を愛称で呼ばないでくださいませ」
「その男とは、どういう関係だ」
「昨日、御説明したでしょう?」
お嬢様は俺の腕をさらに強く抱く。
「私の婚約者ですわ」
廊下にいた生徒たちが息を呑む。
「では、反対側の令嬢は何だ?」
殿下の視線がナナリー様へ向く。
お嬢様が答える前に、ナナリー様が一歩前へ出た。
「ナナリー・ハシュナと申します」
「それは知っている。なぜ、その男と共にいる」
「二年前に、命を救っていただきました」
「命を?」
「はい」
ナナリー様は俺を見て、穏やかに微笑む。
「クルセス様は、私の王子様です」
また言った。
お嬢様の笑顔が固まる。
第一王子殿下の顔が引きつる。
銀髪の少年は面白そうに目を細め、サザリー様は額へ手を当てた。
紫髪の少年だけは、表情を失ったまま右手を上げる。
その手のひらに、赤い魔力が集まった。
「ファイアボール」
「待て!」
放たれた火球が、真っすぐ俺へ向かってきた。
俺は即座にお嬢様の前へ立ち、片手を突き出す。
「アクアウォール」
水の壁が現れる。
火球がぶつかり、激しい音と共に白い蒸気が廊下へ広がった。
周囲の生徒たちから悲鳴が上がる。
水蒸気の向こうで、紫髪の少年が俺を睨んでいた。
「僕のリビアの前から、今すぐ消えろ」
「ライゼル様」
お嬢様の声が、今までにないほど冷たくなる。
「今、セスだけではなく、私へも魔法を向けましたね?」
「リビアに当てるつもりはない」
「当てるつもりがなければ、魔法を放ってもよいと?」
「そいつが避ければ問題ない」
「大問題ですわ!」
お嬢様の魔力が膨れ上がる。
薄い膜が廊下全体へ広がり、周囲の生徒たちを守るように包み込んだ。
第一王子殿下たちも、表情を変える。
俺は水の壁を消し、紫髪の少年へ視線を向けた。
「ライゼル・シュザー様ですね」
「溝鼠が、僕の名を呼ぶな」
「俺への侮辱は構いません」
「セス、構って」
「今は話を進めさせてくれ」
お嬢様の声を制し、俺は続ける。
「ですが、お嬢様や周囲の生徒を危険へ巻き込む魔法は、二度と使わないでください」
「僕へ命令するのか?」
「お願いです」
「断る」
ライゼル様の周囲へ、再び魔力が集まる。
先ほどよりも多い。
火だけではない。
風の魔力まで混じっている。
「セス」
背後から、お嬢様の声がした。
怒りを押し殺すような、低い声。
「あの紫色の害虫は、ぼこぼこにして構いません」
「リビア」
「病院送りまでなら、私が責任を持ちます」
「公爵令嬢の発言ではない」
「では、パウリー公爵家の次期当主候補として申し上げます」
お嬢様は結界をさらに強めた。
「私の婚約者へ害を与える者を、排除してくださいませ」
「何も上品になっていないぞ」
俺はそう返しながら、ライゼル様の動きを見据える。
編入初日。
第一王子殿下から敵視され。
サザリー様から疑われ。
イザーク様と模擬戦をし。
二年前に助けたナナリー様から王子様と呼ばれ。
そして今度は、魔法師団長の息子から魔法を向けられている。
まだ、午後の授業すら始まっていない。
どうやら俺の学園生活は、想像していたよりも遥かに平穏から遠い場所にあるらしい。




