第4話 騎士団長の御子息様、平民執事へお嬢様を賭けるのは無理があります
剣術訓練場へ続く渡り廊下には、普段よりも明らかに多くの生徒が集まっていた。
二学年特進クラスの次の授業が剣術であることは、時間割を見れば誰にでも分かる。そこへ騎士団長の息子であるイザーク・ガルシア様が現れ、編入初日の俺へ模擬戦を申し込んだという話まで加われば、噂が広がらないはずもなかった。
「イザーク様が戦うらしいぞ」
「相手は、今朝オリビア様と登校していた方でしょう?」
「婚約者だって、本当なのか?」
「しかも、特別試験で特進クラスに編入したとか」
「平民出身なのに?」
「シルフィール伯爵家の養子らしいわ」
「それでもイザーク様が相手では……」
前後左右から聞こえてくる囁き声に、俺は小さく息を吐いた。
まだ王立学園へ編入してから半日も経っていない。
それなのに、すでに俺の出自、所属する家、試験結果、お嬢様との婚約話まで広まっている。貴族社会における情報の伝達速度は、迅雷撃破を使った俺より速いのではないだろうか。
少し前を歩くイザーク様は、周囲の視線を受けて機嫌を良くしているらしい。赤い髪を揺らし、肩で風を切るように歩いていた。
腰には訓練用の木剣が下がっている。
俺の隣には、お嬢様がぴったりと並んでいた。
教室を出てから一度も離れていない。
それどころか、先ほどから俺の制服の袖を指先で摘んだまま歩いている。
「リビア」
「何かしら?」
「歩きづらくないか?」
「全く」
「俺の袖を掴んでいるだろ」
「ええ」
「放したほうが歩きやすいと思うんだが」
「私は、このほうが歩きやすいわ」
本人がそう言うなら、これ以上は何も言えない。
だが、周囲から向けられる視線がさらに増えている原因の半分ほどは、この状態にあると思う。
俺が歩みを少し緩めると、お嬢様も合わせて速度を落とした。
「本当に戦うの?」
「イザーク様が引くとは思えない」
「引かせればいいのよ」
「どうやって?」
「私が、模擬戦など認めないと申し上げます」
「それで聞く相手なら、最初からあんな申し込み方はしないだろ」
「では、結界で訓練場から追い出します」
「授業を妨害したら、リビアが叱られる」
「構わないわ」
「俺が構う」
俺の返事に、お嬢様が僅かに目を見開いた。
「リビアは公爵令嬢だ。俺のために教師から問題視されるような真似をする必要はない」
「でも、セスが」
「模擬戦だろ。命を取られるわけじゃない」
「相手はイザーク様よ」
お嬢様の声が低くなった。
「剣術の授業では、誰もあの方と本気で打ち合おうとしません。騎士団長の御子息ですもの。万が一、大きな怪我を負わせれば、ガルシア侯爵家との関係を気にしなければならない。だから皆、表向きは善戦したふりをしながら、最後には負けるの」
「本人は、そのことを知らないのか?」
「知ろうともしていませんわ」
お嬢様は前を歩く赤い髪を冷たく見つめた。
「自分が学園で最も強いと思い込んでいるの。確かに、純粋な剣術の技量は高いわ。魔力を使った身体強化も優秀です。でも、相手が本気で戦っていないことにも気づかず、自分より下だと決めつけるところが大嫌い」
「随分と嫌っているんだな」
「何度も嫌だと申し上げているのに、聞こうともしない方を好きになる理由がありますか?」
「それはないな」
「でしょう?」
お嬢様は少しだけ機嫌を直したように頷いた。
「それに、私を勝手に自分の女だと言うのよ」
「それは良くない」
思わず、声が低くなった。
お嬢様が横から俺の顔を見る。
「怒っているの?」
「怒るだろ。リビアは誰かの所有物じゃない」
昨日、第一王子殿下へ伝えたことと同じだ。
お嬢様が誰と結婚するかは、お嬢様自身が決めるべきであり、勝負の賞品のように扱われるものではない。
「……そう」
お嬢様の声が、急に柔らかくなった。
横を見ると、頬がほんのり赤くなり、口元には嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
「どうした?」
「何でもないわ」
「また顔が赤いぞ」
「セスのせいよ」
「今日は何もしていないと思うが」
「無自覚なのが、一番ずるいのよ」
意味の分からないことを言われた。
尋ねようとしたところで、前を歩いていたイザーク様が振り返る。
「何をこそこそ話している!」
「婚約者同士の会話ですわ」
お嬢様が即座に答えた。
「イザーク様には関係ございません」
「俺はそいつに話がある!」
「私は貴方と話したくありません」
「照れるな、オリビア!」
「どこをどう見れば、その結論になるのですか!?」
お嬢様の声が廊下へ響き、周囲から小さな笑いが漏れた。
イザーク様はその笑いすら自分への羨望だと思っているのか、胸を張ったまま訓練場へ向き直る。
「勝負が終われば、お前も目を覚ます!」
「目を覚ます必要があるのは、間違いなく貴方ですわ!」
「リビア」
「何?」
「これ以上話しても疲れるだけだ」
「そうね。あの方の言葉を理解しようとすると、頭痛がするもの」
本人に聞こえる声量で言っている。
少しは抑えたほうがいいのではないだろうか。
渡り廊下を抜けると、広い屋外訓練場が見えてきた。
柔らかく整えられた土の地面を、腰ほどの高さの木柵が囲んでいる。その外側には観戦用の長椅子が段状に設置され、さらに奥には武器を保管する倉庫と、怪我人へ応急処置を施すための小さな救護室があった。
周囲を囲む石壁には、魔法や衝撃が外へ漏れないよう結界が刻まれている。
別の授業を受ける生徒たちは、本来なら教室へ向かう時間のはずだ。
しかし、長椅子にはすでに多くの生徒が集まっていた。
一学年下と思われる者もいれば、上級生の姿もある。教師らしき者まで何人か混じっていた。
「授業はどうしたんだ?」
「皆、見物に来たのでしょうね」
「教師もいるぞ」
「止めるためではなく、見に来たのかしら」
「まさか」
そのまさかだった。
訓練場の中央では、剣術科主任のバルガス先生が腕を組んで待っていた。俺の試験を担当した大柄な教師である。
先生の隣には、特進クラスの剣術授業を担当するらしい若い教師が立っている。
こちらへ気づいたバルガス先生が、豪快な笑みを浮かべた。
「来たか、クルセス!」
「先生、どうしてこちらに?」
「編入試験を終えたばかりの生徒が、ガルシアの息子と模擬戦をするらしいと聞いてな。確認に来た」
「止めてくださるのですか?」
「なぜ止める?」
「教師ですよね?」
「模擬戦は授業の一環だ!」
止める気はないらしい。
隣の若い教師は少し困った顔をしている。
「バルガス先生。通常の授業ですので、あまり大きな騒ぎにするのは」
「もう十分に大きな騒ぎだろう!」
「だから困っているのです」
「なら、さっさと始めて終わらせればいい!」
豪快だ。
教師の性格を知っているのか、集まっている生徒たちから歓声が上がる。
その中には、特進クラスの生徒たちもいた。
ミリアナ様は心配そうにこちらを見ており、サザリー様は少し離れた場所で腕を組んでいる。青い瞳は俺から一度も外れていない。
先ほど教室で俺を見ていた栗色の髪の令嬢も、ミリアナ様の隣に座っていた。
俺と目が合う。
彼女は何かを言いかけたように口を開いたが、周囲の声に遮られ、結局そのまま俯いてしまった。
「クルセス」
若い教師が俺へ近づいてきた。
「私はこの授業を担当するディラン・ホークです。事情は聞きましたが、無理に模擬戦を受ける必要はありません」
「ありがとうございます」
「イザークにも伝えましたが、本人がどうしても引かなくて」
ディラン先生が視線を向ける。
イザーク様はすでに上着を脱ぎ、動きやすい訓練着姿になっていた。腰の木剣を抜き、何度か素振りをしている。
周囲の視線を意識しているのか、動作はいちいち大きく、見栄えが良い。
「おい、黒髪!」
木剣の先が俺へ向けられる。
「逃げるなら今のうちだぞ!」
「名前は先ほど伝えられていたと思いますが」
「俺が覚えるのは、強い奴の名前だけだ!」
「では、今日中に覚えていただけると助かります」
「何だと?」
イザーク様の眉が上がる。
挑発したつもりはなかった。
しかし、周囲からは笑いと歓声が起こった。
「言うじゃないか!」
「編入生、意外と度胸があるぞ!」
「イザーク様が怒った!」
「本当に戦うのか?」
騒ぎがさらに大きくなる。
イザーク様は顔を赤くした後、突然笑い始めた。
「いいだろう! 少しは骨があるらしい!」
「模擬戦は受けます。ただし、その前に確認させてください」
「何だ?」
「先ほど、俺がお嬢様の婚約者に相応しいか確かめるとおっしゃいました」
「ああ!」
「この勝負の結果と、お嬢様の婚約は関係ありません」
はっきりと伝える。
イザーク様は一瞬、何を言われたのか分からない顔をした。
「俺が勝てば、オリビアが目を覚ますだろう」
「勝敗に関係なく、決めるのはリビアです」
「お前が負ければ、婚約者を名乗る資格はない!」
「それを決めるのも、貴方ではありません」
「怖くなったのか?」
「そうではなく、条件を明確にしているだけです」
昨日、第一王子殿下にも同じような勝負を持ちかけられた。
俺が負ければ婚約を辞退しろと。
なぜ、この人たちはお嬢様本人の気持ちを無視し、自分たちの勝敗で話を決めようとするのだろう。
「俺はリビアを賭けません」
周囲の声が少し静かになる。
「リビアは物ではない。俺が勝って手に入れるものでも、負けて他人へ譲るものでもありません」
お嬢様が息を呑む音が聞こえた。
イザーク様は不満そうに眉を寄せる。
「なら、お前は何のために戦う?」
「授業の模擬戦です」
「それだけか?」
「それと」
俺は一度、お嬢様を見る。
お嬢様は胸の前で両手を組み、不安そうにこちらを見つめていた。
「貴方がリビアを自分の物だと呼ぶのを、やめていただくためです」
「セス……」
「俺が勝った場合、今後二度と、リビアを自分の女だとは言わないでください」
イザーク様の表情が険しくなる。
「俺が負けると思っているのか?」
「勝負なので、どちらにも可能性はあります」
「いいだろう!」
イザーク様が木剣を肩へ担いだ。
「俺が勝ったら、お前はオリビアとの婚約を辞退しろ!」
「お断りします」
「なぜだ!」
「条件が釣り合っていません」
「なら、何を賭ける!」
「何も賭ける必要はないでしょう。模擬戦なのですから」
「それでは面白くない!」
「授業に面白さを求めないでください」
周囲から、また笑いが起こる。
イザーク様の額に青筋が浮かんだ。
これ以上話しても、互いの考えが交わることはなさそうだ。
「セス」
お嬢様が近づいてくる。
いつの間にか手には一本の木剣を持っていた。
「これを使って」
差し出された木剣を受け取る。
試験で使ったものとほとんど同じ重さだ。
「ありがとう」
「本当に大丈夫?」
「試験でもバルガス先生と打ち合った」
「バルガス先生と?」
お嬢様が驚いて目を見開く。
少し離れた場所から、バルガス先生の声が飛んできた。
「俺に一本入れたぞ!」
周囲が一瞬、静まり返った。
直後、観戦席から大きなどよめきが起こる。
「バルガス先生に!?」
「編入試験で?」
「嘘でしょう?」
「あの先生は騎士団の元副隊長だぞ!」
イザーク様の表情が僅かに変わった。
だが、すぐに鼻で笑う。
「どうせ手加減されただけだろう!」
「もちろん手加減はした!」
バルガス先生が豪快に答えた。
「だが、一本を取られたのは事実だ!」
「先生、相手の士気を上げるようなことを言わないでください」
「事実を隠してどうする!」
楽しんでいる。
絶対に楽しんでいる。
お嬢様は、先ほどよりも安心したように俺を見た。
「怪我だけはしないで」
「模擬戦だからな。気をつける」
「イザーク様の怪我は気にしなくていいわ」
「リビア」
「救護室もあるもの」
「そういう問題じゃない」
「では、救護室で足りないほどはやめておいて」
「程度の問題でもない」
お嬢様は俺の服の袖を摘んだ。
先ほどまでと同じ仕草だが、今度は指先に少し力が入っている。
「絶対に戻ってきてね」
「授業の模擬戦だぞ」
「分かっているわ。でも、言っておきたいの」
真剣な瞳だった。
俺は笑わず、しっかり頷く。
「分かった。すぐ終わらせて戻る」
「……ええ」
お嬢様はようやく手を離した。
その代わり、俺の上着の襟へ触れ、少しだけ位置を直す。
「頑張って、セス」
「ああ」
「それと」
「まだあるのか?」
「ぼこぼこに」
「しない」
「では、ぼろ雑巾に」
「しない」
「一度くらい最後まで言わせて」
「言わせない」
お嬢様が不満そうに頬を膨らませる。
その様子に、観戦席の女子生徒たちから小さな声が上がった。
「オリビア様が、あんな顔を……」
「本当に婚約者なのね」
「イザーク様、大丈夫かしら」
「婚約のこと?」
「いいえ、勝負の後の精神が」
最後の言葉を口にしたのはミリアナ様だった。
お嬢様がそちらを見ると、ミリアナ様は何でもないように視線を逸らした。
「両者、中央へ!」
ディラン先生の声が訓練場へ響く。
俺とイザーク様は、決められた位置へ向かった。
距離は十歩ほど。
先生から、改めて模擬戦の規則が説明される。
武器は訓練用の木剣。
魔術の使用は禁止。
身体強化のみ許可されるが、相手へ重傷を負わせるほどの強化は認められない。
勝敗は、戦闘不能、降参、木剣を失う、または審判が明確な有効打と判断した場合に決まる。
「相手は同じ学園で学ぶ生徒だ」
ディラン先生が俺たちを交互に見る。
「私情で必要以上の攻撃を加えることは禁止する。分かったな?」
「はい」
「おう!」
イザーク様は気合いの入った声で答えた。
俺も木剣を構える。
正面では、イザーク様が中段に構えている。
剣先は僅かに上向き。
足幅は広く、体重は前へ乗っている。
力と速度を生かし、一気に距離を詰める構えだ。
試験でバルガス先生と打ち合ったときとは違う。
あの先生は、俺の動きを見ながら対応を変えていた。
対してイザーク様の構えから感じるのは、自分から攻めて押し切るという強い意思である。
実際、身体能力は高いのだろう。
剣を握る手には無駄な力が入っておらず、立ち姿も安定している。
お嬢様が嫌っているからといって、実力まで低いと決めつけるべきではない。
「怖くなったか?」
イザーク様が笑う。
「静かに相手を見ているだけです」
「俺の剣は速いぞ」
「そうですか」
「避けられると思うなよ!」
「努力します」
「もっと怯えろ!」
難しい要望だ。
審判を務めるディラン先生が、片手を上げた。
観戦席の声が少しずつ消えていく。
風が訓練場を抜け、地面の乾いた土を僅かに舞い上げた。
遠くで鳥の声が聞こえる。
視界の端に、お嬢様の姿が映った。
胸の前で両手を握り、俺を見つめている。
「始め!」
合図と同時に、イザーク様の姿が前へ出た。
速い。
強く地面を蹴り、十歩あった距離を瞬く間に縮めてくる。
木剣が中段から横へ振られた。
俺の胴を狙った一撃。
まともに受ければ、木剣でも骨を痛める威力がある。
俺は半歩だけ後ろへ下がった。
剣先が制服の前を通り過ぎる。
「避けたか!」
イザーク様が笑う。
横薙ぎの勢いを利用し、そのまま身体を回転させる。
次は斜め上からの振り下ろし。
一撃目を避けた相手が、後ろへ下がることを想定した連撃だ。
俺は下がらなかった。
むしろ、前へ出る。
「何っ!?」
剣が十分に加速する前に、イザーク様の間合いへ入った。
木剣を持つ右腕の外側へ身体をずらし、肩が触れるほど近づく。
そのまま、俺の木剣を振り上げた。
狙うのは頭ではない。
右手首。
軽く当て、剣を落とさせるつもりだった。
しかし、イザーク様もすぐに反応した。
腕を引き、俺の一撃を柄で受ける。
乾いた音が響いた。
「舐めるな!」
至近距離から、左の拳が飛んでくる。
剣術の模擬戦ではあるが、体術は禁止されていない。
俺は首を傾けて拳を避け、同時に足を引っかけるように払った。
イザーク様の身体が僅かに揺れる。
だが、倒れない。
脚力も体幹も強い。
俺の胸へ肩をぶつけ、強引に距離を作った。
衝撃で数歩下がる。
観戦席から歓声が上がった。
「やるじゃねえか!」
イザーク様は心から楽しそうに笑っている。
お嬢様との話が絡まなければ、単純に剣術を好む少年なのかもしれない。
「今の動き、どこで覚えた!」
「義父と、スラムです」
「面白い!」
再び地面を蹴る。
今度は正面からの突き。
俺は木剣の腹で外側へ弾いた。
すぐに横薙ぎ。
受けずに身を沈める。
頭上を木剣が通り過ぎた。
そこから斬り上げ。
身体を横へ捻って避ける。
イザーク様の剣は速い。
力だけではなく、連続する動きも滑らかだ。
騎士団長の息子という肩書きだけで評価されているわけではない。
ただ、攻撃の前に必ず肩が僅かに動く。
力を込める瞬間、右足の踵が浮く。
そして、相手が後退することを前提に連撃を組み立てている。
今までの対戦相手が、正面から打ち合わず、最終的に負けることを選んできた影響だろう。
強い。
だが、相手が本気で勝ちに来たときの動きに慣れていない。
「逃げてばかりか!」
イザーク様が声を上げる。
「避けられる攻撃を受ける理由はありません」
「男なら正面から来い!」
「執事なので」
「関係あるか!」
また大きく踏み込んできた。
上段。
木剣を振り下ろす構え。
俺は今度も前へ出る。
だが、先ほどとは違い、イザーク様は途中で剣の軌道を変えた。
上段から振り下ろすふりをして、左へ身体を捻る。
木剣の柄が俺の顔へ向かってきた。
読まれていた。
俺が懐へ入ることを予測し、近距離で迎え撃つつもりだったらしい。
顔を横へ逸らす。
柄頭が頬を掠めた。
皮膚が少し熱くなる。
「セス!」
お嬢様の声が聞こえた。
「もらった!」
イザーク様は柄を引き、そのまま木剣を横へ振る。
距離が近すぎる。
普通に下がれば間に合わない。
俺は左手でイザーク様の右腕を掴んだ。
剣の勢いを完全に止めることはできない。
ならば、進む方向を変える。
腕を引きながら、自分の身体を低くする。
イザーク様の木剣は俺の肩を掠め、そのまま前へ流れた。
体勢を崩した身体の横へ回る。
俺の木剣を、イザーク様の背中へ添える。
「一本!」
ディラン先生の声が響いた。
だが、イザーク様は止まらなかった。
「まだだ!」
強引に身体を反転させる。
添えられていた木剣を腕で払い、俺へ振り向く。
先生の判定を無視した動きだった。
「イザーク、止まれ!」
ディラン先生の声が飛ぶ。
しかし、耳に入っていない。
イザーク様の目には、怒りが浮かんでいる。
背中へ一本取られた。
その事実を受け入れられないのだろう。
「俺は負けていない!」
上段から木剣が振り下ろされる。
今度の一撃には、先ほどまで以上の力が込められていた。
模擬戦の範囲を超えている。
俺は避けるのではなく、木剣を横へ構えた。
木剣同士が正面からぶつかる。
重い衝撃が両腕へ響く。
足元の土が沈んだ。
力では、やはりイザーク様のほうが上だ。
木剣が押し込まれる。
「やめなさい、イザーク様!」
お嬢様の声。
イザーク様は一瞬、そちらへ視線を動かした。
「見ていろ、オリビア! 今すぐこいつを」
「私が見ているのはセスです!」
「なっ!」
イザーク様の腕から、僅かに力が抜けた。
今だ。
俺は木剣を正面から受けるのをやめ、斜め下へ流した。
力の行き場を失い、イザーク様の上体が前へ崩れる。
同時に、俺は横へ一歩移動した。
自分の木剣を下から振り上げる。
狙いは、木剣を握る手。
手首へ軽く打ち込む。
「ぐっ!」
痛みで指が開き、イザーク様の木剣が宙へ飛んだ。
回転しながら地面へ落ちる。
俺はそのまま木剣の先を、イザーク様の喉元へ向けた。
寸前で止める。
「終わりです」
訓練場から音が消えた。
イザーク様は、喉元へ向けられた木剣を見つめている。
信じられないという表情だった。
「勝者、クルセス・シルフィール!」
ディラン先生が宣言した。
次の瞬間、観戦席が大きく揺れるほどの声が上がった。
「勝った!」
「編入生がイザーク様に勝ったぞ!」
「嘘だろ!?」
「しかも魔術なしで!」
「最初の一本でも終わっていたわ!」
「本当にバルガス先生から一本取ったのね!」
驚きの声。
歓声。
戸惑い。
さまざまな反応が混ざり合う。
俺は木剣を下ろし、イザーク様から一歩離れた。
「手首は大丈夫ですか?」
「……」
「強くは打っていませんが」
「黙れ」
低い声だった。
イザーク様は落ちた木剣を見たまま、両拳を握り締めている。
「俺は負けていない」
「判定は出ました」
「今のは、油断しただけだ」
「そうですか」
「もう一度だ!」
「授業の進行があります」
「次は本気で」
「イザーク!」
バルガス先生の声が、訓練場へ響き渡った。
先ほどまで笑っていた表情は消えている。
先生は木柵を越え、真っ直ぐこちらへ歩いてきた。
「判定を無視して攻撃を続けたな」
「まだ戦えました!」
「戦えるかどうかではない。審判が一本と判断した時点で、模擬戦は終わりだ」
「だが!」
「戦場でも同じことを言うつもりか?」
イザーク様の口が閉じる。
バルガス先生は正面に立ち、鋭い目で見下ろした。
「相手の剣が背へ届いた。真剣なら、その時点で死んでいる」
「……」
「それでも負けを認めず、審判の制止を無視した。お前の父なら、今のお前をどう評価する?」
騎士団長である父。
その言葉に、イザーク様の顔が僅かに歪んだ。
「強さとは、剣を振る力だけではない」
バルガス先生は続ける。
「相手を見る目。状況を判断する冷静さ。負けを受け入れ、次へ繋げる心。お前にはどれも足りない」
「俺は……」
「今までお前と戦った生徒たちが、全員本気だったと思うか?」
訓練場の空気が変わった。
観戦席の何人かが、気まずそうに視線を逸らす。
イザーク様はその反応へ気づいた。
「何だ?」
周囲を見回す。
「どういう意味だ?」
誰も答えない。
沈黙が、答えになっていた。
「お前たち……」
イザーク様の顔から血の気が引いていく。
拳が震えている。
「俺に、手加減していたのか?」
問いかけられた生徒の一人が、俯いた。
「ガルシア侯爵家とのことを考えると……」
「俺を馬鹿にしていたのか!」
「違います!」
「なら、なぜ本気で戦わなかった!」
怒鳴り声が響く。
生徒が怯えて肩を揺らした。
俺は間へ入ろうとしたが、その前にバルガス先生が大きな手をイザーク様の肩へ置いた。
「怒る相手を間違えるな」
「ですが!」
「相手が手加減していることに気づけなかったのは、お前だ」
「……」
「家の力を気にさせたのも、お前自身の態度だ。負ければ不機嫌になり、勝てば相手を見下す。そんな者と、誰が本気で剣を交える?」
厳しい言葉だった。
だが、イザーク様は反論できない。
俺は木剣を握ったまま、その姿を見ていた。
先ほどまで、自信に満ちていた少年。
学園最強と信じ、誰も自分には勝てないと思っていた。
その土台が、一度の模擬戦で崩れた。
お嬢様の言っていた噂は、本当だった。
ただ、本人が今ここで知ることになるとは思わなかった。
「イザーク様」
俺が声をかけると、強い目で睨まれた。
「何だ」
「俺は、貴方が弱いとは思いません」
「勝った奴が、慰めるつもりか?」
「そうではありません」
「なら黙れ!」
「剣が速く、力もありました。攻撃を繋げる技術も高かった」
「……」
「ただ、相手が下がることを前提にしすぎています。前へ来る相手への対応が遅い。それと、攻撃の前に右肩が僅かに動きます」
イザーク様が目を見開く。
「何?」
「最後の攻撃では直そうとしていましたが、力を込めた瞬間に踵が浮いていました」
「そんなものまで、見ていたのか?」
「戦っていましたので」
俺は落ちている木剣へ視線を向けた。
「その癖を直せば、もっと強くなると思います」
しばらく、返事はなかった。
イザーク様は悔しそうに唇を噛み、地面の木剣を拾い上げる。
「次は負けない」
「分かりました」
「必ずだ」
「はい」
「それと」
イザーク様の視線が、お嬢様へ移る。
お嬢様は露骨に嫌そうな顔をした。
「勝負の条件は認めないからな」
「何ですって?」
「俺は、オリビアを諦めない!」
「今の話の流れで、なぜそうなるのですか!?」
「だが、自分の女とは呼ばない」
お嬢様が言葉を止めた。
「約束は守る」
「……そうですか」
「俺はいつか、お前より強くなって、オリビアに認めさせる!」
「絶対に認めませんわ!」
「今はな!」
「永遠にです!」
また始まった。
少し前よりは、ほんの僅かに話が通じるようになった気もする。
だが、お嬢様への執着は全く変わっていない。
お嬢様は勢いよく俺のところまで歩いてきた。
「セス!」
「ただいま」
「おかえりなさい!」
満面の笑顔を浮かべ、俺の両手を取る。
「すごかったわ! あんなに簡単に勝ってしまうなんて!」
「簡単ではなかった」
「でも、ほとんど攻撃を受けていないでしょう?」
「一度、頬を掠めた」
「え?」
お嬢様の笑顔が消えた。
俺の顔を両手で挟み、左右へ向ける。
「どこ?」
「左の頬」
「見せて」
「少し赤いだけだ」
「少しでも怪我は怪我よ!」
顔を近づけ、頬をじっと確認している。
距離が近すぎる。
「リビア、皆が見ている」
「今はセスの怪我のほうが大切です」
「本当に何ともない」
「医務室へ行くわよ」
「必要ない」
「行きます」
「授業は?」
「休みます」
「駄目だ」
「セスが怪我をしているのに、授業など受けられません!」
「これを怪我と言ったら、厨房で包丁を使うたび医務室へ行くことになる」
「厨房では、頬に剣を受けないでしょう!」
「当たり前だ」
お嬢様は納得していない顔をしていたが、傷がほとんど見えないことを確認すると、ようやく手を離した。
「本当に痛くない?」
「痛くない」
「後から痛くなったら、すぐ言って」
「分かった」
「絶対よ」
「ああ」
返事をすると、お嬢様は少し安心したように息を吐いた。
「それと」
「まだあるのか?」
「どうして、ぼこぼこにしなかったの?」
「必要がなかったからだ」
「一撃で終わらせたほうが格好よいけれど、私はもう少し見たかったわ」
「何をだ」
「あの赤いのが、地面を転がるところ」
「リビア」
「冗談よ」
「目が本気だった」
「気のせいですわ」
公爵令嬢らしい優雅な笑みを浮かべている。
だが、先ほどまでイザーク様が立っていた場所を見る瞳は、少しも笑っていなかった。
「セス」
お嬢様は今度は小さな声で呼んだ。
「何だ?」
「ありがとう」
「何が?」
「私を物のように扱うなと、言ってくれたこと」
訓練場の騒がしさの中で、その声だけが不思議とはっきり耳へ届いた。
お嬢様は俺の制服の袖へ指を添え、少し俯いている。
「私が嫌だと言っても、あの方たちは聞いてくれなかった」
「……」
「皆、自分なら私を幸せにできる、自分が一番相応しいと言うばかり。私が誰を好きなのか、どうしたいのかなんて、最初から聞くつもりがないの」
普段は強い言葉で求婚者たちを追い払っている。
嫌そうな顔をし、時には冷たく切り捨てる。
だが、その裏には、誰にも気持ちを聞いてもらえない苦しさがあったのだろう。
俺はこれまで、お嬢様が困っていることを知りながら、深く考えていなかった。
高位貴族や王子から求婚されることは、お嬢様の立場ならよくあることだと。
自分には関係のない話だと。
「すまなかった」
「どうしてセスが謝るの?」
「俺も、リビアの気持ちを聞こうとしていなかった」
旦那様から婚約を命じられたとき、最初に考えたのは自分の命だった。
次に家柄。
お嬢様へ求婚している者たち。
公爵家への影響。
お嬢様自身が、誰と結婚したいのか。
その気持ちを、真っ先に聞くべきだった。
「私が望んだと聞いて、理由を尋ねてくれたでしょう?」
「でも、答えを聞く前に殿下が来た」
「その後、私は何度も言っているわ」
お嬢様が少しだけ頬を膨らませる。
「セスが好きだと」
「あれは」
第一王子へ反論するため。
サザリー様へ言い返すため。
そう考えていた。
けれど、それだけなら、今この場で改めて確認する必要はない。
「まさか、まだ意味が分かっていないの?」
「いや」
「本当に?」
「……少し考える時間がほしい」
正直に答えた。
俺はお嬢様を大切に思っている。
命に代えても守りたい。
生涯そばにいたい。
だが、それを恋愛感情と呼んでよいのか、俺にはまだ分からない。
主君だから。
幼い頃から一緒に育ったから。
恩を受けた公爵家の娘だから。
さまざまな感情が重なりすぎて、どこからが恋なのか見分けられない。
お嬢様は少し寂しそうな顔をした。
それでも、すぐに笑う。
「分かったわ」
「怒らないのか?」
「少しは怒っているわ」
「やっぱり」
「でも、考えてくれるのでしょう?」
「ああ」
「なら待つ」
お嬢様は俺の袖から手を離し、代わりに小指だけを差し出した。
「約束して」
「何を?」
「逃げずに考えると」
小さな指。
幼い頃にも、同じような約束をしたことがある。
何の約束だったかは思い出せない。
ただ、お嬢様が泣きそうな顔で小指を差し出し、俺がそれへ自分の指を絡めた記憶だけは残っている。
俺も小指を出した。
「約束する」
指が触れ、絡まる。
お嬢様の顔が、ゆっくりと綻んだ。
「絶対よ」
「ああ」
「破ったら、お父様に言うわ」
「急に脅しになったな」
「婚約式を明日にしていただくの」
「破らなくても命が危ない」
お嬢様が楽しそうに笑う。
その声に、周囲の生徒たちがまたこちらを見た。
俺たちが話している間に、訓練場では授業の準備が再開されている。
ディラン先生が生徒たちへ木剣を配り、二人一組になるよう指示を出していた。
「では、通常の授業へ戻る! 各自、実力が近い者と組め!」
生徒たちが動き始める。
イザーク様は少し離れた場所で、バルガス先生から何かを言われていた。
サザリー様は剣術が得意ではないらしく、別の男子生徒と組んでいる。
ミリアナ様は友人の令嬢と木剣を持ち、こちらへ何度も視線を向けていた。
「セス」
お嬢様が俺の正面へ立つ。
手には、先ほど俺へ渡したものとは別の木剣。
「私と組みましょう」
「いいのか?」
「何が?」
「実力の近い相手と組むよう言われた」
「私とセスなら、ちょうどよいでしょう?」
「俺はリビアの剣を見たことがない」
「では、今日見せてあげる」
お嬢様は自信に満ちた笑みを浮かべた。
木剣を片手で軽く回し、正面へ構える。
先ほどまでの可愛らしい少女の姿が消えた。
重心は低く、足の位置に隙がない。
剣先は真っ直ぐ俺の喉元へ向いている。
「お嬢様は強いぞ!」
近くを通ったバルガス先生が笑う。
「剣術だけなら、イザークと同等か少し下。だが、魔術と結界を含めれば、この学年でも上位だ!」
「先生」
お嬢様が笑顔を向ける。
「余計なことをおっしゃらないでくださいませ」
「事実だろう!」
「セスを驚かせたかったのです」
「そうだったのか! すまん!」
全く悪びれていない。
先生は笑いながら別の生徒たちのところへ向かった。
「リビア」
「何?」
「俺より強いんじゃないか?」
「どうかしら」
「剣術がイザーク様と同等なら、少なくとも簡単には勝てない」
「だから、ちょうどいいでしょう?」
お嬢様は嬉しそうだった。
俺と戦えることを心から楽しみにしているように見える。
「遠慮しないでね」
「リビアもな」
「もちろん」
俺も木剣を構えた。
向かい合う。
お嬢様の瞳が、細くなる。
少し離れた場所から、ディラン先生が俺たちへ視線を向けていた。
「始め!」
合図が響く。
先に動いたのは、お嬢様だった。
一歩。
そう見えた瞬間には、すでに距離が消えていた。
速い。
木剣が右下から斬り上げられる。
受ける。
乾いた音と共に、腕へ強い衝撃が走った。
「重いな!」
「私より強いのでしょう?」
「誰が言った!」
「私よ!」
お嬢様は楽しそうに笑い、すぐに次の一撃へ繋げる。
横薙ぎ。
振り下ろし。
突き。
イザーク様とは異なり、攻撃の前に無駄な動きがない。
相手の反応を見て、瞬時に軌道を変えてくる。
俺が横へ避けると、その先を読んだように足を払ってきた。
跳んで避ける。
着地した瞬間、木剣の先が胸元へ迫る。
俺は剣の腹で受け流した。
「どう?」
「強い」
「それだけ?」
「驚いた」
「もっと褒めて」
「戦いながら求めるな!」
俺が反撃へ出る。
正面から振り下ろす。
お嬢様は受けず、半歩横へずれた。
肩口を狙う。
木剣の先で弾かれる。
そのまま剣同士が絡み合う。
顔が近づく。
「捕まえた」
お嬢様が囁いた。
何を、と思った瞬間、俺の右足へ自分の足をかける。
体勢が崩れる。
咄嗟にお嬢様の腕を掴んだ。
「きゃっ」
二人揃って倒れそうになる。
俺は地面へ手をつき、何とか身体を支えた。
お嬢様は俺の腕の中に収まるような形で止まっている。
「……」
「……」
顔の距離は、僅か。
お嬢様のシルバーブルーの髪が、俺の腕へ触れていた。
青い瞳が大きく見開かれている。
頬が、みるみる赤くなっていく。
「大丈夫か?」
「え、ええ」
「立てる?」
「少し待って」
「どこか痛めたか?」
「違うの」
小さな声。
お嬢様は俺の胸元を見つめたまま、動こうとしない。
周囲が妙に静かだ。
顔を上げる。
訓練場にいる生徒たちが、全員こちらを見ていた。
木剣を構えたまま固まっている者。
口を開けている者。
顔を赤くしている令嬢。
額を押さえるディラン先生。
なぜか嬉しそうに笑うバルガス先生。
そして、少し離れた場所では、イザーク様が木剣を握り締めて震えていた。
「離れろぉぉぉぉぉ!」
絶叫が訓練場へ響き渡る。
お嬢様はその声に驚き、俺の胸へ顔を埋めた。
「リビア?」
「びっくりしただけよ!」
さらに誤解を招く姿勢になった。
イザーク様の顔が真っ赤になる。
「貴様! オリビアに何をしている!」
「倒れないよう支えただけです」
「今すぐ離せ!」
「リビアが立たないと離せません」
「オリビア、立て!」
「命令しないでくださいませ!」
俺の腕の中から、お嬢様が怒鳴り返す。
「それに、セスの腕の中は落ち着きますので、あと少しこのままでいます!」
「リビア!?」
今度は俺が驚く番だった。
お嬢様は本当に俺の制服を掴み、離れる気配がない。
「授業中だぞ」
「転びかけたので休憩しています」
「休憩は立ってできる」
「今は無理なの」
「なぜだ?」
「セスには分からないわ!」
理不尽だ。
観戦席から、女子生徒たちの抑えきれない声が上がる。
「オリビア様が抱き締められているわ!」
「違います、転びかけただけですわ!」
「でも離れませんよ?」
「婚約者ですもの!」
「素敵……」
「セス、早く立たせろ!」
イザーク様が叫ぶ。
お嬢様はさらに俺の制服を掴む。
「絶対にあの方の命令では立たないわ」
「なら俺が頼む。立ってくれ」
「セスがお願いするなら」
あっさりと腕を解いた。
俺は先に立ち上がり、手を差し出す。
お嬢様はその手を取り、ゆっくり立ち上がった。
ただし、立った後も手を離さない。
「リビア」
「何?」
「授業を続けるぞ」
「もう少し休憩しましょう」
「元気そうだが」
「胸が苦しいの」
「やっぱり怪我をしたのか?」
「そうではなくて……もう、いいわ」
お嬢様は溜息を吐いた。
俺には理解できない事情らしい。
ディラン先生が手を叩いた。
「全員、授業へ戻りなさい! クルセスとオリビアも、必要以上に密着しない!」
「必要な範囲でしたわ!」
「教師の判断です!」
「不服です」
「不服でも従いなさい!」
お嬢様は納得していない顔だったが、ようやく俺の手を離した。
その後の授業では、俺とお嬢様は何度か打ち合った。
勝敗はつかなかった。
純粋な剣術だけなら俺のほうが僅かに優位だと思うが、お嬢様は攻撃を読む力と対応の速さが高い。魔術や結界まで使われれば、どちらが勝つか分からない。
授業終了の合図が出る頃には、俺の制服には土埃がつき、額には汗が浮かんでいた。
お嬢様も呼吸を弾ませている。
だが、その顔はとても楽しそうだ。
「次は魔術も使って勝負しましょう」
「訓練場を壊さない範囲でな」
「大丈夫よ。結界を張るもの」
「それは周囲を守るためか、俺を逃がさないためか?」
「両方ね」
「後者は必要ない」
木剣を返却するため、武器庫へ向かう。
その途中で、クラスメイトたちが次々と俺へ声をかけてきた。
「クルセス様、すごかったですわ!」
「本当に編入初日なのか?」
「バルガス先生から一本取った話も本当だったんだな!」
「どこで剣術を学んだのですか?」
「五属性すべて使えるという噂も本当?」
一度に多くの声をかけられ、俺は返答に困った。
少し前まで、俺へ近づくことを迷っていた生徒たちだ。
模擬戦を見て、話しかけやすくなったのだろう。
お嬢様が言っていた。
イザーク様へ勝てば、周囲が実力を認め、クラスへ馴染みやすくなると。
最後に鬱憤を晴らしたいという本音も混ざっていたが、考え自体は間違っていなかったらしい。
「皆様」
お嬢様が俺の横へ並ぶ。
笑顔は穏やかだが、俺の腕をしっかりと抱えていた。
「セスも疲れておりますので、質問は一人ずつお願いいたしますわ」
「オリビア様」
ミリアナ様が苦笑する。
「それでは、どなたも近づけません」
「近づく必要はございません。聞こえる距離から話せますもの」
「質問とは、そういうものではないと思います」
「では、ミリアナが代表して尋ねてちょうだい」
「独占する気を隠されなくなりましたね」
「何のことでしょう?」
お嬢様は完璧な笑顔を浮かべた。
その目は、全く笑っていない。
クラスメイトたちは危険を察したように、少しだけ距離を取った。
その中で、栗色の髪の令嬢だけが一歩前へ出た。
彼女は先ほどから、何度も俺を見ていた。
俺も気になっていた。
どこかで会ったような気がする。
だが、どうしても思い出せない。
「あの」
令嬢の声は小さく、少し震えていた。
「シルフィール君」
「はい」
俺が答えると、彼女の瞳が潤んだ。
「本当に、クルセス・シルフィールさんなのですか?」
「そうですが」
「王都の南地区へ行ったことはありますか?」
南地区。
商店が多く並ぶ大通りと、その裏側に古い倉庫街や貧民街が残る地域だ。
俺は屋敷の仕事や、旦那様から命じられた調査で何度も足を運んでいる。
「あります」
「二年ほど前にも?」
「何度か」
令嬢の両手が、胸の前で強く握られる。
「誘拐された子供たちを、助けたことは?」
記憶の奥に、古い倉庫の光景が浮かんだ。
子供を狙う誘拐事件。
旦那様の命で調べていた犯罪組織。
踏み込んだ倉庫の中に、何人もの子供が閉じ込められていた。
その中には、身なりの良い一人の少女もいた。
「……あります」
俺が答えた瞬間、令嬢の目から涙が溢れた。
「やっぱり」
小さく呟く。
次の瞬間、彼女は走り出していた。
「え?」
避ける間もなく、胸へ飛び込んでくる。
俺は咄嗟に受け止めた。
細い腕が背中へ回される。
「やっと会えた」
令嬢は、泣きながら何度も繰り返した。
「ずっと、会いたかったんです」
周囲の声が、完全に消えた。
クラスメイトたちも、近くにいた教師も、動きを止めている。
俺は状況を理解できないまま、腕の中で泣く令嬢を見下ろした。
「どなたでしょうか?」
尋ねると、令嬢の身体が僅かに固まった。
「私のことを、覚えていないのですか?」
「申し訳ありません」
「そんな……」
悲しそうに顔を上げる。
その瞬間、隣から凄まじい冷気を感じた。
実際に温度が下がったわけではない。
だが、そう錯覚するほど強い視線だった。
ゆっくりと横を見る。
お嬢様が立っている。
先ほどまで浮かべていた笑顔は消えていた。
青い瞳から、綺麗に光が失われている。
「セス」
「リビア」
「その方は、どなた?」
「俺も分からない」
「抱き締めているのに?」
「抱きつかれたんだ」
「避けなかったの?」
「急だったから」
「そう」
お嬢様が一歩近づく。
足元を中心に、薄い魔力の膜が広がった。
「なるほど」
「リビア?」
「よく分かりました」
何を理解したのだろう。
俺には何も分からない。
お嬢様は令嬢の肩へ手を置いた。
動作だけを見れば、優しく触れたように見える。
しかし、令嬢の身体が俺からゆっくり引き離された。
「きゃっ」
「申し訳ございません」
口調は丁寧。
声も穏やか。
笑顔まで浮かべている。
ただし、目は全く笑っていない。
「私の婚約者から、離れていただけますか?」
令嬢は涙を拭いながら、お嬢様を見た。
「婚約者……?」
「ええ」
お嬢様は俺の腕へ両手を絡め、身体を寄せる。
「クルセス・シルフィールは、私の婚約者ですわ」
「でも、この方は」
令嬢は俺を見た。
頬を赤くし、涙の残る瞳でまっすぐ見つめてくる。
「私の王子様です」
訓練場の空気が、もう一度凍った。
お嬢様の指が、俺の腕へ食い込む。
「王子様?」
「私を助けてくださった、大切な方です」
「そう」
お嬢様が、にっこりと笑った。
美しい笑顔だった。
今まで見た中で、一番恐ろしい笑顔でもあった。
「詳しく、お話を伺う必要がありそうですわね」
俺は思う。
今日、学園へ来たとき。
第一王子や高位貴族の子息たちに命を狙われるのではないかと心配していた。
だが、どうやら本当に警戒すべき相手は、彼らではなかったらしい。
「セス」
お嬢様が笑顔のまま、俺を見上げる。
「逃げないでね?」
「逃げるつもりはない」
「本当に?」
「ああ」
「よかった」
お嬢様の笑みが、さらに深くなる。
「では、ゆっくり説明してもらいましょうか」
何をどう説明すればよいのか。
俺自身、目の前の令嬢の名前すら知らない。
その事実を伝えたところで、お嬢様の機嫌が直るとは到底思えなかった。




