第3話 公爵令嬢様、平民執事を隣の席へ座らせるのは無理があります
「なぜ俺が……」
翌朝。
王都の中心部から少し離れた丘の上で、俺は天を仰いでいた。
目の前にそびえているのは、王国中の貴族子息令嬢が集うエルモア王立学園である。高い石壁に囲まれた広大な敷地の正面には、剣と羽根ペンを組み合わせた学園章が刻まれた黒鉄の門があり、その向こうには白い石造りの校舎が朝日を受けて眩しく輝いていた。
校舎の中央には時計塔が建ち、その左右へ幾つもの棟が伸びている。学問を学ぶ本校舎だけでなく、剣術訓練場、魔法演習場、図書館、講堂、温室、学生食堂、さらに遠方から通う生徒のための寮まで存在するらしい。
学園というより、一つの小さな町だ。
門の前には、次々と豪華な馬車が到着していた。
家紋入りの馬車から制服姿の少年少女が降り、出迎えた友人たちと挨拶を交わしていく。従者から鞄を受け取る者もいれば、数人の護衛を連れたまま門を通る者もいた。
その中には、平民と思われる生徒の姿も僅かに見える。
王立学園には特待生制度があり、学問、剣術、魔術などで極めて優れた才能を示した者は、身分を問わず入学が認められている。とはいえ、全生徒の大半を占めるのは貴族であり、平民の特待生は毎年数名しか選ばれないと聞いている。
そんな場所へ、昨日まで執事見習いだった俺が通う。
しかも、ただの転入生としてではない。
パウリー公爵家令嬢の婚約者として。
改めて考えても、正気の沙汰ではない。
「セス」
背後から呼ばれた。
俺は反射的に振り返り、頭を下げる。
「はい、お嬢様」
「……」
返事がない。
顔を上げると、オリビアお嬢様が門の少し手前で立ち止まっていた。
今日のお嬢様は、王立学園の制服を身につけている。
白いシャツの上に濃紺の上着を羽織り、胸元には学年を示す青いリボン。膝下まである同色のスカートには細い銀色の線が入り、足元は黒い革靴で整えられていた。
シルバーブルーの長い髪は後ろで緩くまとめられ、朝の光を受けるたび淡く輝いている。
公爵家令嬢としての気品と、十五歳の少女らしい可憐さを併せ持つ姿だった。
しかし、その頬は少し膨らんでいる。
「どうかなさいましたか?」
「昨日、何度も言ったわよね?」
「何をでしょうか」
聞き返した瞬間、お嬢様の眉がわずかに上がった。
まずい。
これは本気で怒っているときの顔ではない。だが、明らかに不満を抱いている。
「学園では、私を何と呼ぶのだったかしら?」
「……」
思い出した。
愛称で呼べ。
敬語を使うな。
昨日、応接室で厳命された内容である。
「ですが、ここはすでに学園の門前です。多くの方が見ておりますので」
「だからでしょう?」
「だからこそです」
「婚約者同士が愛称で呼び合って、何がおかしいの?」
「婚約式はまだ先です」
「お父様も認めているわ」
「世間へ公表されておりません」
「今日、公表するもの」
お嬢様は何でもないことのように言った。
俺はしばらくその顔を見つめる。
「……今日?」
「ええ」
「誰が?」
「私が」
「どこで?」
「学園で」
「どの程度の範囲へ?」
「全員に」
「待ってください」
「待たないわ」
お嬢様は一歩近づいてきた。
目の前まで来ると、俺を見上げる。
「もう決めたもの」
「何をですか」
「今日からセスは、私の婚約者として学園へ通うの」
「それは昨日聞きました」
「なら、婚約者らしく振る舞わなければならないでしょう?」
「俺には執事らしく振る舞うほうが合っています」
「それをやめてほしいの」
お嬢様の声が少しだけ弱くなった。
先ほどまでの強引さが消え、代わりに寂しそうな色が瞳へ浮かぶ。
「家では、仕方がないと思っているわ。あなたはパウリー家の使用人で、私の身の回りのことを任されているもの。皆の前で急に態度を変えるのが難しいことも分かっている」
「でしたら」
「でも、学園でまでお嬢様と執事のままでは嫌なの」
朝の風が、お嬢様の髪を揺らした。
門前を通る生徒たちが、俺たちへちらちらと視線を向けている。公爵令嬢として有名なお嬢様が、見慣れない制服姿の少年と話しているのだから当然だろう。
俺は周囲の目が気になった。
だが、お嬢様は俺しか見ていなかった。
「昔みたいに話してほしいのよ」
昔。
まだ俺が正式に執事見習いとなる前。
お嬢様と俺が、互いの身分を深く意識していなかった頃のことだろう。
俺はスラムから拾われ、義父の屋敷で暮らし始めたばかりだった。
礼儀作法も知らず、文字も十分に読めず、食事の仕方すらまともではなかった。公爵家の屋敷へ連れてこられてからも、周囲に馴染めず、何をするにも怯えていた。
そんな俺へ最初に笑いかけたのが、お嬢様だった。
庭園の隅で一人になっていた俺へ近づき、名を尋ね、遊びに誘ってくれた。公爵令嬢とスラム出身の孤児という違いなど、何も気にしていなかった。
あの頃、お嬢様は俺をセスと呼び、俺は彼女をリビアと呼んでいた。
しかし、成長するにつれて立場の違いを理解した俺は、自然と愛称を使わなくなった。
今思えば、お嬢様からやめろと言われたわけではない。
俺が勝手に距離を取っただけだ。
「……分かったよ」
俺がそう答えると、お嬢様の瞳が僅かに見開かれた。
「今、何て?」
「学園では昔みたいに話す。これでいいか、リビア」
愛称を口にした途端、お嬢様の顔が明るくなった。
まるで背後に花でも咲いたかのような笑顔だ。
「ええ! それでお願い、セス!」
お嬢様は胸の前で両手を組み、心から嬉しそうに頷いた。
その姿を見ていると、少し恥ずかしいだけで断ろうとしていた自分が馬鹿らしく思えてくる。
しかし、俺が安心したのも束の間だった。
お嬢様は何かに気づいたように、俺を上から下まで見た。
「それにしても」
「何だ?」
「似合っているわ」
「何が?」
「制服よ」
お嬢様の視線につられ、俺も自分の服装を見下ろす。
今朝、義父から渡された王立学園の制服。
濃紺の上着に白いシャツ、黒いズボン。胸元には、お嬢様と同じ青い色の飾り紐がついている。
新入生ではなく、同学年への編入となるため、お嬢様と同じ学年を示す色らしい。
昨夜のうちに用意されたとは思えないほど、寸法は俺の身体に合っていた。
おそらく以前から仕立てが進められていたのだろう。
つまり、旦那様とお嬢様は昨日より前から、俺を学園へ通わせる準備をしていたことになる。
いつからだ。
考えるほど、恐ろしくなる。
「見慣れないから落ち着かないけどな」
「そんなことないわ。とても素敵よ」
「ありがとう」
「髪も整えてきたのね」
「父上に、制服姿で寝癖を残すなと朝から叱られた」
「グレイヴらしいわね」
お嬢様は楽しそうに笑う。
その直後、視線が俺の首元で止まった。
「少し曲がっているわ」
「何が?」
「飾り紐」
お嬢様は当然のように手を伸ばしてきた。
細い指が俺の胸元へ触れる。
「リビア?」
「動かないで」
言われるまま立っていると、お嬢様は飾り紐の位置を直し、上着の襟まで丁寧に整え始めた。
距離が近い。
顔を少し下げれば、お嬢様の額へ触れそうなほどだ。
近くを通っていた女子生徒たちが、こちらを見て小さく声を上げる。
「オリビア様が、男の方の服を……」
「あの方はどなた?」
「見たことがありませんわ」
「もしかして、昨日噂になっていた……」
囁き声が聞こえてくる。
お嬢様は気づいているはずだが、気にした様子はない。
「これでいいわ」
満足そうに俺の胸元を見た後、お嬢様は一歩下がった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「では、行きましょう」
お嬢様が俺の横へ並ぶ。
俺はいつもの癖で半歩後ろへ下がろうとしたが、すぐに袖を掴まれた。
「隣」
「……分かった」
並んで学園の門をくぐる。
それだけのことなのに、周囲から向けられる視線が一気に増えた。
お嬢様は学園でも有名な存在らしい。
現パウリー公爵の一人娘。
学問、剣術、魔術のすべてで優秀な成績を収め、美しい容姿を持ち、将来的には公爵家を継ぐ可能性も高い。
さらに、第一王子をはじめとした複数の高位貴族子息から求婚されている。
そんなお嬢様が、見知らぬ男と並んで登校している。
注目されないはずがない。
「オリビア様、おはようございます」
「おはようございます」
すれ違った令嬢がお嬢様へ挨拶をする。
お嬢様は公爵令嬢らしい穏やかな笑みで応じた。
しかし、その令嬢の視線はすぐに俺へ移る。
「あの、そちらの御方は……」
「後ほど皆様へ御紹介いたしますわ」
「そう、ですか」
令嬢は気になって仕方ない様子だったが、それ以上尋ねることはできず、友人たちと共に立ち去っていった。
少し進むたびに同じようなことが繰り返される。
男子生徒たちは警戒するように俺を見て、女子生徒たちは興味深そうに視線を向ける。中には、俺とお嬢様の間を何度も見比べる者もいた。
「思っていた以上に見られるな」
「気にしなくていいわ」
「リビアは慣れているかもしれないけど、俺は慣れていない」
「すぐに慣れるわよ」
「慣れるほど長く注目されたくないんだが」
「無理だと思うわ」
「なぜだ?」
「セスは目立つもの」
「俺のどこが?」
お嬢様は足を止めた。
信じられないものを見るような顔で俺を見ている。
「本気で言っているの?」
「何がだ?」
「……いいえ。セスはそのままでいて」
「よく分からないな」
「私だけが分かっていればいいの」
お嬢様は意味深なことを言い、再び歩き始めた。
俺は首を傾げながら後を追う。
本校舎へ入ると、外以上に多くの生徒が行き交っていた。
高い天井を持つ玄関広間には、歴代国王や学園創設者の肖像画が並び、中央には大きな案内板が置かれている。左右へ伸びる廊下の床は磨き上げられ、窓から差し込む朝日が白い石壁へ反射していた。
俺はまず入学試験を受けるため、学園長室の近くにある特別試験室へ向かうことになっている。
お嬢様も付き添うつもりらしく、俺と共に階段へ向かった。
「リビアは教室へ行かなくていいのか?」
「まだ時間があるわ」
「試験が終わるまで待つつもりか?」
「そのつもりだけど?」
「何時間かかるか分からないぞ」
「待っているわ」
「授業に遅れる」
「今日は先生方にも話が通っているもの」
どうやら、本当にすべて準備済みらしい。
俺だけが何も知らされていなかった。
「いつから俺を学園へ通わせるつもりだったんだ?」
尋ねると、お嬢様の肩が僅かに揺れた。
「さあ?」
「目を逸らすな」
「逸らしていないわ」
「窓の外を見ているだろ」
「朝の庭園が綺麗だったから」
「廊下から見えるのは校舎の壁だぞ」
「壁も綺麗ね」
誤魔化す気があるのだろうか。
俺が追及しようとしたところで、前方から一人の教師が歩いてきた。
年齢は四十代ほど。細身の身体に灰色の長衣をまとい、薄茶色の髪を後ろへ撫でつけている。手には幾つもの書類が抱えられていた。
「オリビア・パウリーさん」
「おはようございます、レイモンド先生」
お嬢様が足を止め、一礼する。
レイモンドと呼ばれた教師は俺へ視線を移した。
「彼が、例の編入希望者ですか?」
「はい。クルセス・シルフィールです」
俺も頭を下げる。
「初めまして。よろしくお願いいたします」
「レイモンド・ハーシェルです。二学年特進クラスの担任を務めています」
特進クラス。
お嬢様が所属している、学年上位の生徒だけを集めたクラスだ。
やはり、そこへ入れられるらしい。
レイモンド先生は手元の書類を確認する。
「昨日の夕刻、パウリー公爵家から正式な編入申請が届きました。本来であれば、これほど急な編入は認められません。しかし、シルフィール家で受けていた教育記録と、パウリー公爵からの推薦状を確認した上で、学園長が特別試験の実施を許可しました」
「ご配慮に感謝いたします」
「ただし、試験結果が基準へ届かなければ編入は認められません。仮に編入できても、特進クラスへ所属できるかは別問題です」
「承知しております」
「試験内容は筆記、魔術、剣術の三つです。いずれか一つでも著しく基準を下回れば、不合格となります」
厳しい条件だ。
だが、王立学園へ途中から入るのだから当然だろう。
「レイモンド先生」
お嬢様が口を開く。
「セスなら問題ありません」
「オリビアさん」
「はい」
「試験を受けるのは、あなたではありません」
「存じております」
「ならば、本人より自信に満ちた顔をするのはおやめなさい」
先生の指摘に、お嬢様は僅かに頬を膨らませた。
公爵令嬢へ臆することなく注意できるあたり、教師として信頼されているのだろう。
「こちらです」
案内された部屋には、机と椅子が一組だけ置かれていた。
壁際には時計があり、窓からは中庭が見える。机の上には、すでに数枚の試験用紙と筆記具が準備されていた。
「筆記試験は、王国史、政治、数学、魔術理論、一般教養の五科目です。制限時間は二刻」
「分かりました」
「オリビアさんは教室へ」
「私もここで待ちます」
「試験中に他者を同席させることはできません」
「では、廊下で待ちます」
「授業があります」
「本日は出席を免除されております」
お嬢様は平然と答えた。
レイモンド先生は深く息を吐く。
「パウリー公爵から、そのような話は聞いておりませんが」
「お父様なら許してくださいます」
「まだ許可されていないということですね」
「これから許していただきます」
「戻りなさい」
「ですが」
「戻りなさい」
同じ言葉を繰り返されたお嬢様は、しばらく先生と見つめ合った。
やがて、不満そうに俺へ顔を向ける。
「セス」
「何だ?」
「終わったら、すぐ教室へ来てね」
「合格できたらな」
「できるわ」
「まだ受けてもいない」
「絶対にできるもの」
そこまで信じられると、逆に失敗できなくなる。
「分かった。行ってこい」
「……」
「どうした?」
「行ってこい、ではなくて」
お嬢様は一瞬だけレイモンド先生の顔を見た。
それから少し恥ずかしそうに、俺の袖を掴む。
「頑張って、と言ってほしいの」
「俺が試験を受ける側だぞ?」
「だから私が先に言うわ。セス、頑張って」
「ありがとう。リビアも授業を頑張れ」
「ええ!」
お嬢様は満足そうに笑い、ようやく部屋を出ていった。
扉が閉まる。
俺とレイモンド先生だけが残された。
「……」
「……」
先生が何とも言えない顔で俺を見ている。
「何か?」
「いえ」
「今、何か言いたそうでしたが」
「試験を始めましょう」
どうやら、触れないほうがいいらしい。
俺は椅子へ座り、試験用紙を受け取った。
「始めてください」
時計の針が動く。
俺は最初の問題へ目を落とした。
王国史。
エルモア王国が建国された経緯と、初代国王が行った主要な改革について記述せよ。
義父から何度も教え込まれた内容だ。
俺は迷わず筆を動かした。
次の問題も、その次も、見覚えのあるものだった。
シルフィール家は代々パウリー公爵家へ仕える執事の家系である。義父は、ただ身の回りの世話ができるだけでは一流の執事とは言えないと常々語っていた。
主人が誰と会い、何を話し、どのような決断を下すのか。
その意味を理解するには、歴史や政治、経済の知識が必要となる。領地の収支を確認するには数学が必要であり、主人を守るためには魔術や剣術も欠かせない。
そのため俺は、幼い頃から朝は礼儀作法、昼は学問、夕方は剣術と魔術、夜は屋敷の仕事を教え込まれてきた。
当時は厳しすぎると思ったものだが、今になって初めて感謝した。
筆記試験は、制限時間をかなり残して終わった。
「見直しはよろしいのですか?」
「二度確認しました」
レイモンド先生が答案を受け取る。
その場で数問だけ目を通した後、眉を上げた。
「……少しお待ちください」
先生は部屋の外にいた別の教師を呼び、答案を渡した。
採点には時間がかかるため、その間に魔術試験を行うらしい。
案内されたのは、本校舎から渡り廊下で繋がる魔法演習棟だった。
内部には幾つもの訓練室があり、魔法の衝撃へ耐えられるよう壁や床に強固な結界が施されている。
俺が入った試験室の奥には、人の背丈ほどある石製の的が五つ並んでいた。
待っていたのは、深緑色の長衣を着た女性教師だった。
「クルセス・シルフィールですね」
「はい」
「私は魔術科のエレナ・ウォルグです。試験では、魔力量、制御力、属性適性、実戦的な応用力を確認します」
「よろしくお願いいたします」
「まず、この水晶へ手を触れてください」
台の上に置かれているのは、透明な測定水晶だった。
手を乗せ、魔力を流す。
水晶の内部へ淡い光が広がり、次第に輝きが強くなっていく。
教師が手元の記録板へ目を落とした。
直後、その表情が変わる。
「もう少し抑えてください」
「抑えるのですか?」
「測定器の上限へ近づいています」
「申し訳ございません」
魔力の流れを弱める。
水晶の光が落ち着くと、教師は何度か数値を確認した。
「この年齢としては、かなり多いですね」
「義父から、魔力鍛錬を毎日行うよう言われておりますので」
「鍛錬だけで、ここまで増えるものではありませんが……」
教師は小さく呟いた後、次の試験へ移った。
「属性適性を確認します。使用できる属性を申告してください」
「火、水、風、土、雷です」
「……五属性すべて?」
「はい」
「無属性魔法は?」
「簡単な身体強化と、魔力感知程度なら」
教師の手が止まった。
「少し待ってください」
「何か問題でしょうか」
「問題というより、確認です。五属性すべてに適性がある者は極めて稀です」
「そうなのですか?」
「知らなかったのですか?」
「義父から、使えるものはすべて使えるようにしろと教えられましたので」
「あなたの義父は、何を育てるつもりだったのでしょう」
「執事です」
「執事……」
教師は遠い目をした。
その後、各属性の初級魔法を一つずつ、的へ向けて使用するよう指示された。
「ファイアボール」
火球が石の的へ当たり、表面を焦がす。
「アクアバレット」
圧縮した水弾が、別の的へ深い傷を残す。
「ウィンドカッター」
風の刃が、的の中央へ細い線を刻む。
「ロックランス」
床から突き出した石の槍が、的を下から持ち上げる。
「サンダーアロー」
雷の矢が最後の的へ突き刺さり、石の表面を砕いた。
試験室へ静けさが広がる。
教師は記録板を持ったまま、動かなかった。
「エレナ先生?」
「……初級魔法ですよね?」
「そのつもりですが」
「威力を抑えましたか?」
「試験室を壊さない程度には」
「もう少し抑えていただいてもよかったかもしれません」
見ると、最後に雷魔法を受けた的には大きな亀裂が入っていた。
やりすぎたらしい。
「申し訳ございません」
「いえ。結界に問題はありません。ただ、次は制御力を確認しますので、威力を最小限にしてください」
次の課題は、空中へ浮かべられた五枚の薄い紙のうち、指定された一枚だけを燃やすというものだった。
紙は僅かな間隔で並んでおり、火力が強すぎれば周囲まで燃える。
俺は指先へ小さな火を生み出し、細く伸ばした。
中央の紙だけが静かに燃え落ちる。
残りの四枚は、端すら焦げていない。
「水」
次は、水滴を十個作り、床へ落とさず並べる。
「風」
羽根を一枚だけ浮かせ、決められた線の上を移動させる。
「土」
小さな石を、見本と同じ形へ整える。
「雷」
細い金属線だけへ電流を通し、先端の魔導灯を点灯させる。
すべて終えると、教師は記録板へ長い時間、何かを書き込んでいた。
「最後に、実戦応用です」
「はい」
「身体強化魔法を使用し、あちらの的へ接近してください。ただし、床に描かれた線から外れず、途中に現れる魔法障壁を回避すること」
床を見ると、細い白線が曲がりくねりながら奥の的まで続いている。
「開始します」
教師が杖を振った。
前方へ半透明の壁が幾つも出現し、一定の間隔で移動を始める。
俺は足へ雷の魔力を流した。
「迅雷撃破」
身体の内側を、鋭い刺激が駆け抜ける。
視界が澄み、周囲の動きが遅く感じられた。
最初の障壁を横へ避け、次を身を屈めてくぐる。足元から伸びた壁を跳び越え、空中で身体を捻りながら白線の上へ着地した。
最後の障壁が左右から閉じる。
速度を一段階上げ、その隙間を抜けた。
的の前で止まり、拳を寸前で静止させる。
風圧だけが的へ届き、表面の埃を吹き飛ばした。
「終わりました」
振り返る。
エレナ先生は、杖を上げた姿勢のまま固まっていた。
「先生?」
「今の魔法は、誰に教わったのですか?」
「義父と、自分で改良しました」
「雷属性を肉体へ流すのは、危険な行為です」
「伝達速度と筋肉の反応を同時に高め、余剰魔力を身体の外へ逃がすことで負担を減らしています」
「理論上は分かりますが、実際に行える者はほとんどいません」
「そうなのですか?」
「先ほどから、その返答ばかりですね」
教師は額へ手を当てた。
「魔術試験は終了です。次の剣術試験へ向かってください」
「結果は?」
「不合格にする理由があるように見えますか?」
「的を壊しかけました」
「その程度で不合格にしていたら、我が校は優秀な魔術師を育てられません」
どうやら問題なかったらしい。
剣術試験は、屋外の訓練場で行われた。
朝の授業が始まっている時間のため、広い訓練場には俺と試験官しかいない。
試験官を務めるのは、筋肉質な大柄の男性教師だった。
短く刈った黒髪に、左頬へ古い傷がある。教師というより、現役の騎士に見える。
「俺は剣術科主任のバルガスだ」
「クルセス・シルフィールです。よろしくお願いいたします」
「礼儀はいい。まずは素振りを見せろ」
渡された木剣を握る。
重さと長さを確かめ、構えた。
義父から教わった基本の型を、一つずつ繰り返す。
上段からの振り下ろし。
中段からの横薙ぎ。
斜めの斬り上げ。
突き。
足運びを交え、同じ動作を左右で行う。
バルガス先生は腕を組み、何も言わずに見ていた。
「止め」
指示に従い、木剣を下ろす。
「誰に習った」
「義父です」
「シルフィール伯爵か?」
「はい」
「あの男は執事だろう」
「剣も使えます」
「使えるという程度の型ではない。王国騎士団の正規剣術に近いが、実戦向けに余計な動きを削ってある」
「主人を守る執事に、見栄えの良い剣術は必要ないと教わりました」
「徹底しているな」
バルガス先生は訓練場の端に置かれた木剣を一本取り、俺の正面へ立った。
「次は俺と打ち合え」
「先生とですか?」
「俺の身体へ一本入れれば合格だ」
「先生は本気で?」
「編入試験の生徒相手に、本気を出す必要があるか?」
挑発するような笑みだ。
俺は木剣を構え直した。
「では、お願いいたします」
「来い」
一歩踏み込む。
正面からの斬撃。
先生は容易く受け止めた。
木剣同士がぶつかり、乾いた音が訓練場へ響く。
「軽い!」
押し返される。
俺は逆らわず後ろへ跳び、着地と同時に横へ回った。
先生の木剣が追ってくる。
肩を狙った一撃を受け流し、懐へ入ろうとする。しかし、先生は柄頭を使って俺の胸を狙った。
身体を捻って避ける。
「反応は悪くない!」
今度は連続した斬撃が襲ってきた。
上段、横薙ぎ、突き。
一撃ごとの重さが、先ほどとは比べものにならない。
編入生相手に本気を出す必要はないと言っていたが、少なくとも手加減だけで終わらせるつもりはないらしい。
俺は受けるのではなく、すべて流した。
力では相手が上。
正面から打ち合えば不利だ。
先生の右足が前へ出る。
次は斜め上から来る。
予測した通り、木剣が振り下ろされた。
俺は半歩だけ内側へ入り、剣の根元近くで受ける。
力が乗り切る前に軌道を逸らし、そのまま先生の横を抜けた。
振り返りながら、背中へ木剣を伸ばす。
だが、先生もすぐに反応した。
俺の木剣を自分の剣で弾き、身体を反転させる。
「惜しい!」
次の一撃が迫る。
俺は後ろへ下がらず、さらに前へ出た。
「何?」
剣が振り切られる前の腕へ、空いた左手を添える。
身体の向きを変え、先生の勢いを利用して横へ流す。
大柄な身体が僅かに崩れた。
その隙に、木剣の先を先生の喉元へ向ける。
寸前で止めた。
「……」
「一本でよろしいでしょうか」
先生は動かなかった。
しばらく俺の木剣を見た後、突然大きな声で笑った。
「ははははは!」
訓練場に笑い声が響く。
「面白い! 正面から勝てないと分かった瞬間、剣に拘らず体術を混ぜたか!」
「執事は剣士ではありませんので」
「何でもありということか?」
「主人を守れるなら」
「気に入った!」
先生は俺の木剣を手で下ろさせた。
「合格だ。いや、これで落としたら、俺が学園長に怒鳴り込む」
「ありがとうございます」
「だが、最後の動きはどこで覚えた?」
「スラムにいた頃、相手の力を利用しないと大人には勝てませんでした」
答えると、先生の笑顔が僅かに消えた。
俺は余計なことを言ったかと思ったが、先生は深く追及しなかった。
「そうか」
短く返し、俺の肩を叩く。
「過去がどうであれ、今のお前の腕は本物だ。学園では身分だけで相手を見る馬鹿もいるが、気にするな」
「はい」
「もっとも、お前なら自分で黙らせられそうだがな」
そう言って、先生は再び笑った。
三つの試験を終え、本校舎へ戻る。
特別試験室には、レイモンド先生と、白髪の小柄な老人が待っていた。
老人は黒い長衣をまとい、細い杖を手にしている。穏やかな顔をしているが、その瞳には人の内側まで見透かすような鋭さがあった。
「学園長のオズワルド・レインです」
「クルセス・シルフィールです」
俺が一礼すると、学園長は机の上に置かれた答案へ目を向けた。
「筆記試験は、五科目すべて満点でした」
「満点?」
自分でも驚いた。
間違いが一つくらいはあると思っていた。
「特に、王国法と領地経営に関する記述は、在校生の最上位層と比べても遜色ありません。魔術試験では五属性すべての適性と、高い制御力を確認。剣術試験では、バルガス先生から強い推薦が届いております」
「では」
「編入を認めます」
学園長は書類へ署名をした。
「所属は二学年特進クラスです」
「ありがとうございます」
「ただし」
学園長の声が少し重くなる。
「あなたがパウリー公爵家の推薦を受け、急遽編入したことを快く思わない生徒もいるでしょう。さらに、あなたの出自について心ない言葉を向けられる可能性もあります」
「承知しております」
「力を示せば黙る者もいますが、力を示すほど敵意を増す者もいます。学園は、剣や魔術の強さだけで問題を解決する場所ではありません」
「はい」
「何かあれば、必ず教師へ相談してください」
俺は少し迷った。
お嬢様へ求婚している相手の中には、第一王子をはじめ、宰相、騎士団長、魔法師団長の息子たちがいる。
その者たちと問題が起きた場合、教師へ相談して本当に解決できるのだろうか。
だが、今それを尋ねるのは失礼だ。
「心に留めておきます」
「よろしい」
学園長は穏やかに頷いた。
レイモンド先生の案内で、特進クラスへ向かう。
すでに一時限目は終わり、短い休憩時間へ入っていた。
廊下には教室から出てきた生徒たちの声が広がっている。俺が通るたび、見慣れない制服姿に気づいた者たちが視線を向けてきた。
「緊張していますか?」
前を歩くレイモンド先生が尋ねる。
「少しは」
「試験では堂々としていましたが」
「問題や試合には答えがあります。人間関係にはありません」
「なるほど」
先生は僅かに笑った。
「特進クラスには、良くも悪くも個性の強い生徒が集まっています。身分の高い者も多いですが、必要以上に萎縮する必要はありません」
「分かりました」
「特に、オリビアさんの周囲は騒がしいので注意してください」
「求婚者の方々ですか?」
先生の足が僅かに止まった。
「御存じでしたか」
「屋敷でも有名です」
「そうでしょうね」
先生は深く息を吐いた。
「教師としては、生徒同士の恋愛へ必要以上に口を出すつもりはありません。しかし、彼らの場合は家同士の事情まで関わります。あなたも不用意な発言は避けてください」
「努力します」
「努力、ですか」
「確約はできません」
お嬢様が侮辱された場合、黙っていられる自信はない。
レイモンド先生は俺の意図を察したのか、少し困った顔をした。
「教室はこちらです」
二学年特進クラス。
扉の向こうから、十数人分の話し声が聞こえてくる。
先生が扉を開いた。
それまで賑やかだった教室が、一瞬で静かになる。
中には、十人ほどの生徒がいた。
一般クラスより人数が少ないのは、成績上位者だけを集めているためだろう。座席は整然と並び、窓際の前方にはお嬢様が座っていた。
俺を見た瞬間、その顔がぱっと明るくなる。
立ち上がりそうになったが、隣の女子生徒に袖を掴まれ、何とか座ったまま耐えたようだ。
教室内の視線が、一斉に俺へ集まる。
興味。
警戒。
困惑。
好意的なものもあれば、明らかな敵意を含むものもあった。
特に、教室中央の席に座る青髪の少年から向けられる視線は鋭い。
細い銀縁の眼鏡をかけ、整った顔立ちをしている。机の上には分厚い本が数冊置かれ、手には羽根ペンが握られていた。
あれが、宰相の息子。
サザリー・ラルド様だろう。
お嬢様に求婚している五人のうちの一人。
俺と目が合うと、彼は僅かに眉を寄せた。
「皆さん、席へ戻ってください」
レイモンド先生の言葉で、生徒たちが姿勢を正す。
「本日から、新たな生徒がこのクラスへ加わります」
教室がざわめいた。
昨日のうちに噂が流れていたのか、驚きよりも納得したような表情をする者もいる。
「クルセス・シルフィール君です」
先生に促され、俺は一歩前へ出た。
「クルセス・シルフィールです。本日より皆様と共に学ばせていただくことになりました。急な編入となりましたが、よろしくお願いいたします」
頭を下げる。
再び、ざわめきが広がる。
「シルフィール?」
「パウリー家の執事長と同じ家名だ」
「養子という噂は本当だったのか」
「でも、どうして急に?」
「オリビア様と一緒に登校していた方よ」
小さな囁きが、教室の各所から聞こえてくる。
その中で、一人の女子生徒が熱心に俺を見ていた。
栗色の髪を肩の辺りで揃えた、柔らかな印象の令嬢である。
どこかで会ったことがあるだろうか。
しかし、思い出せない。
俺が視線を向けると、彼女は驚いたように顔を赤くし、慌てて俯いた。
「静かに」
先生の声で、教室が再び落ち着く。
「シルフィール君は、本日実施した特別試験において、特進クラスへの編入基準を満たしました。皆さんも、同じ学友として接するように」
先生は教室内を見回した後、空いている席を探す。
「席は……」
「先生」
お嬢様が手を上げた。
嫌な予感がする。
「何ですか、オリビアさん」
「セスの席は、私の隣でお願いいたします」
教室が完全に静まり返った。
先ほどまでのざわめきすら消える。
誰かが落とした羽根ペンの音が、やけに大きく響いた。
レイモンド先生は目を閉じた。
額へ手を当て、何かに耐えるように息を吐く。
「オリビアさん」
「はい」
「シルフィール君の席を決めるのは、私です」
「ですが、私の隣が空いております」
「窓際の一番後ろも空いています」
「私の隣のほうが、授業内容を教えやすいですわ」
「彼は試験で満点を取っています」
「学園生活の決まりは知らないかもしれません」
「それは私が説明します」
「婚約者同士を引き離すのは、教育上よろしくないと思います」
教室の空気が凍った。
今、言った。
お嬢様は、はっきりと言った。
婚約者。
俺は顔を覆いたくなった。
「こ、婚約者?」
一人の女子生徒が呟く。
「オリビア様の?」
「あの方が?」
「第一王子殿下ではなく?」
「いつ決まったのですか!?」
今度こそ教室中が騒然となった。
椅子を引く音、机へ身を乗り出す音、驚きの声。
先ほどまで俺を見ていた全員が、今度は俺とお嬢様を何度も見比べている。
青髪の少年、サザリー様の手元から、羽根ペンが折れる音がした。
お嬢様は満足そうな笑顔を浮かべていた。
「リビア」
「何かしら、セス?」
「全員に知らせるとは言っていたが、今なのか?」
「ちょうどよい機会でしょう?」
「俺には心の準備が必要だった」
「昨日から知っているではないの」
「一日では足りない」
「すぐに慣れるわ」
俺たちのやり取りに、教室のざわめきがさらに大きくなる。
「愛称で呼び合っているわ」
「本当に婚約者なの?」
「オリビア様があんな顔を……」
「初めて見た」
お嬢様が普段、学園でどのような態度を取っているのか知らない。
だが、周囲の反応を見る限り、今のような柔らかな笑顔は珍しいらしい。
「静かにしなさい!」
レイモンド先生が教卓を叩いた。
ようやく、教室の声が少しずつ収まる。
先生はお嬢様を見た後、俺を見る。
その顔には、諦めの色が浮かんでいた。
「シルフィール君」
「はい」
「オリビアさんの隣へ座ってください」
「よろしいのですか?」
「この状態で別の席へ座らせても、授業にならないでしょう」
「申し訳ございません」
「あなたが謝ることではありません」
先生の視線がお嬢様へ向く。
だが、お嬢様は何も気づいていないような顔で、自分の隣の椅子を引いていた。
「セス、こちらよ」
「見れば分かる」
俺は教室中の視線を受けながら、お嬢様の隣へ向かった。
席へ座る。
お嬢様はとても機嫌が良さそうだ。
「同じ教室ね」
「そうだな」
「隣の席ね」
「リビアが無理やり決めたんだろ」
「先生が決めたのよ」
「そういうことにしておく」
小声で話していると、前の席の女子生徒がゆっくり振り返った。
明るい金茶色の髪を三つ編みにした、快活そうな少女だった。
「オリビア様」
「何かしら?」
「本当に、その方が婚約者なのですか?」
「ええ」
お嬢様は迷いなく頷いた。
「クルセス・シルフィール。私の大切な婚約者ですわ」
「大切な」という部分を強調している。
俺の頬が僅かに熱くなる。
女子生徒は目を輝かせ、俺へ顔を向けた。
「初めまして。私はミリアナ・フォルテと申します。フォルテ侯爵家の次女です」
「クルセス・シルフィールです。よろしくお願いいたします」
「オリビア様とは、一学年の頃から親しくさせていただいております」
「そうなのですね」
「婚約のお話は全く聞いていなかったので、驚きました」
ミリアナ様が意味ありげにお嬢様を見る。
お嬢様は少しだけ視線を逸らした。
「昨日、決まったの」
「昨日!?」
「正確には、婚約式は来月だ」
俺が補足すると、ミリアナ様はさらに驚いた。
「昨日決まって、今日編入されたのですか?」
「俺も昨日知らされた」
「まあ……」
ミリアナ様はしばらく黙った後、同情するような目を俺へ向けた。
「大変ですわね」
「分かっていただけますか」
「ミリアナ?」
お嬢様の声が低くなる。
「何が大変なのかしら?」
「い、いえ! 婚約の準備などがお忙しいかと思いまして!」
「そういう意味なら、その通りね」
ミリアナ様は胸を撫で下ろした。
お嬢様の友人だけあって、危険を察するのが早い。
「授業を始めます」
レイモンド先生が教科書を開く。
生徒たちも渋々前を向いた。
しかし、視線までは止められない。
授業が始まってからも、教室中から何度も俺を見られているのが分かった。
特に強いのは、斜め前方に座るサザリー様の視線だ。
授業内容は王国経済と領地運営。
教師が黒板へ数字を書き、ある領地の年間収支について説明していく。
本来なら集中しなければならない。
だが、俺は別の意味で集中を強いられていた。
「セス」
隣から小さな声が聞こえる。
「何だ?」
「教科書、まだ受け取っていないでしょう?」
「そうだな」
「一緒に見ましょう」
お嬢様が自分の教科書を、机の中央へ移動させた。
必然的に、俺たちの距離が近くなる。
「黒板は見えるから問題ない」
「資料の図が必要よ」
「後で借りる」
「今、一緒に見ればいいでしょう?」
お嬢様は譲る気がないらしい。
俺は仕方なく椅子を少し寄せた。
肩が触れそうになる。
お嬢様は嬉しそうに教科書の頁を開いた。
周囲から、また小さなざわめきが起こる。
レイモンド先生の眉間に皺が寄った。
「そこ。授業中です」
「申し訳ありません」
俺が謝る。
お嬢様も一応、前を向いた。
だが、机の下で俺の袖を摘んだまま離さない。
何の意味があるのだろう。
俺が横を見ると、お嬢様は真剣な顔で黒板を見ていた。
ただし、口元だけは僅かに緩んでいる。
授業が進み、黒板へ一つの問題が書かれた。
ある領地における農作物の収穫量、税率、輸送費、市場価格から、翌年の予算案を求める問題である。
「では、この問題を」
レイモンド先生が教室を見回す。
嫌な予感がした。
「シルフィール君、解いてください」
「はい」
やはり俺だった。
試験で満点を取ったことが、本当に実力によるものか確認したいのだろう。
俺は席を立ち、黒板の前へ向かった。
教室中の視線が集まる。
問題へ目を通す。
収穫量は前年より増えているが、街道の一部が崩落して輸送費が上昇している。市場価格だけを見れば利益は増えるように見えるが、倉庫の維持費と冬季の備蓄分を考慮する必要がある。
さらに、税率を上げれば短期的な収入は増えるものの、翌年の作付面積が減る可能性が高い。
単純な計算問題ではない。
俺は黒板へ式を書き、順に説明を加えていった。
「税収のみを最大化する場合はこちらですが、領民の生活を圧迫し、翌年以降の収穫量が低下する可能性があります。そのため、今年度は税率を据え置き、輸送費増加分の一部を領主側が負担するべきです」
教師が腕を組む。
「その財源は?」
「西部の狩猟林から得られる木材収入を一部回します。ただし、伐採量を増やしすぎれば数年後に資源が不足するため、今年度のみです。同時に街道修繕を前倒しし、冬になる前に輸送費を元へ戻します」
「街道修繕に必要な人員は?」
「領都の職人だけでは不足するため、農閑期に入った村々から希望者を募ります。無償労働ではなく賃金を支払い、領民の冬季収入とします」
「費用がさらに増えますが」
「街道修繕が終われば商人の流入が増えます。翌春以降の市場税で回収できます」
先生はしばらく黒板を見ていた。
「正解です」
教室から小さな驚きの声が上がる。
「計算だけではなく、領民の生活と翌年以降の収支まで考慮できています。席へ戻ってください」
「はい」
振り返ると、クラスメイトたちが唖然としていた。
お嬢様だけは、当然だと言いたげな笑顔を浮かべている。
席へ戻ると、すぐに顔を寄せてきた。
「かっこよかったわよ、セス」
耳元で囁かれる。
吐息が触れ、身体が僅かに跳ねた。
俺は反射的にお嬢様の方を向く。
顔が近い。
お嬢様は悪戯に成功したような笑みを浮かべていた。
「急に耳元で話すな」
「どうして?」
「驚くだろ」
「それだけ?」
「それだけだ」
「ふうん」
お嬢様の目が楽しそうに細くなる。
何か気づかれた気がする。
俺は前を向いた。
その瞬間、斜め前から強烈な視線を感じた。
サザリー様が、折れた羽根ペンの端を齧りながら俺を睨んでいる。
あれは食べ物ではない。
身体に悪いと思う。
授業が終わると同時に、教室中の生徒が立ち上がった。
俺の席を囲もうと、何人かが近づいてくる。
しかし、誰よりも早くお嬢様が立った。
「セス、次は剣術の授業よ」
「分かっている」
「訓練場まで案内するわ」
「場所は先生から聞けば」
「私が案内するの」
俺の返事を待たず、お嬢様は腕を掴んだ。
「少し待て。皆が何か聞きたそうだ」
「後でいいわ」
「リビア」
「後で、ゆっくり、私がいるところで聞けばいいでしょう?」
妙に強調している。
俺とクラスメイトだけで話をさせるつもりはないらしい。
「オリビア様」
ミリアナ様が苦笑する。
「クルセス様が逃げるわけではありませんわ」
「分かっているわ」
「では、腕を掴まなくても」
「これは婚約者として普通のことよ」
「そうでしょうか」
「そうなの」
お嬢様は断言した。
俺は周囲を見る。
男子生徒たちは複雑な顔をしており、女子生徒たちは興味深そうにこちらを見ている。
その中で、先ほどから俺を見ていた栗色の髪の令嬢だけは、何かを思い出そうとするように眉を寄せていた。
やはり、どこかで会ったのだろうか。
だが、考える時間はなかった。
「待て」
低い声が響く。
振り返ると、サザリー様が席を立っていた。
折れた羽根ペンを机へ置き、こちらへ歩いてくる。
周囲の生徒たちが道を空けた。
「オリビア」
「何でしょうか、サザリー様」
お嬢様の声が変わった。
俺へ向けていた柔らかさは消え、公爵令嬢としての丁寧な口調へ戻っている。
ただし、表情には露骨な面倒くささが浮かんでいた。
「先ほどの話は、本当なのか?」
「どの話でしょうか」
「その男が、君の婚約者だという話だ」
「本当ですわ」
「私は聞いていない」
「お伝えしておりませんから」
「なぜだ」
「なぜ、婚約を決める前にサザリー様へお伝えする必要があるのでしょう?」
お嬢様の返答に、周囲から小さな息を呑む音が聞こえた。
サザリー様の眉が動く。
「私と君は、幼い頃から互いの家を行き来してきた」
「父同士が政務で交流しているからですわ」
「学園でも常に成績を競い合っている」
「競っているつもりはございません。私は毎回、一点差で負けて悔しいだけです」
「ならば、なおさら私へ相談するべきだった」
「なぜですか?」
本気で分からないという顔だった。
サザリー様の頬が僅かに引きつる。
「私は、君へ結婚を申し込んでいる」
「何度もお断りしております」
「正式な返答は、まだ保留されているはずだ」
「私の中では毎回、お断りしております」
容赦がない。
サザリー様は一瞬、目を閉じた。
気持ちを落ち着かせるように息を吸い、今度は俺へ顔を向ける。
「クルセス・シルフィール」
「はい」
「君は、どういうつもりでオリビアの婚約者になった?」
「どういうつもり、と申されましても」
「公爵家の財産か。地位か。それとも、彼女を利用して貴族社会へ入り込むつもりか」
教室の空気が変わった。
周囲の生徒たちが息を潜める。
お嬢様の表情から、完全に笑みが消えた。
「サザリー様」
凍えるような声だった。
「今の発言を取り消してくださいませ」
「私は彼に聞いている」
「セスを侮辱することは、私を侮辱することと同じです」
「君は騙されている」
「取り消しなさい」
お嬢様の周囲へ、薄い魔力が広がった。
空気が震える。
無属性魔法。
結界を得意とするお嬢様の魔力が、感情に反応して漏れ出している。
このままでは問題になる。
「リビア」
俺は掴まれていた腕を外し、代わりにお嬢様の手首へ軽く触れた。
「落ち着け」
「でも」
「俺は気にしていない」
「私は気にするわ」
「分かっている。だからこそ、今は抑えてくれ」
お嬢様はサザリー様を睨んだまま、しばらく動かなかった。
やがて、僅かに息を吐く。
周囲へ広がっていた魔力が収まった。
「ありがとう」
俺は小さく伝えた後、サザリー様へ向き直る。
「俺は、パウリー公爵家の財産にも地位にも興味はありません」
「口では何とでも言える」
「そうですね」
「認めるのか?」
「俺が何を言っても、今のサザリー様は信じないでしょう」
青い瞳が細くなる。
「ただ、一つだけ訂正させてください」
「何だ」
「俺が婚約者になったのは、俺から望んだからではありません」
「セス?」
お嬢様が不満そうな声を出す。
事実を言っただけなのだが。
「旦那様とリビアから命じられました」
「命じたのではなく、お願いしたのよ!」
「俺には命令に聞こえた」
「泣き落としはしたけれど、命令ではないわ!」
教室中の視線がお嬢様へ向く。
お嬢様は自分が余計なことを口にしたと気づき、顔を赤くした。
「泣き落とし?」
サザリー様が呟く。
「オリビア、君から公爵へ頼んだのか?」
「……ええ」
「なぜ、その男を」
お嬢様は一瞬だけ迷った。
俺の腕を再び掴み、サザリー様をまっすぐ見る。
「私がセスを好きだからですわ」
昨日に続き、二度目の告白だった。
教室が再び静まり返る。
俺の心臓が、一度だけ大きく鳴った。
昨日は第一王子へ言い返す流れで、勢い余って出た言葉だと思っていた。
しかし、今日は違う。
お嬢様は、自分の意志ではっきりと口にした。
俺を好きだと。
その意味を考えようとしたとき、廊下の向こうから大きな足音が近づいてきた。
「オリビア!」
教室の扉が勢いよく開く。
燃えるような赤い髪の少年が立っていた。
鍛えられた身体を制服へ包み、腰には訓練用の木剣を下げている。
周囲の生徒が一斉に顔を向けた。
「あいつが編入してきた黒髪か!?」
赤髪の少年は俺を指差した。
後ろには、剣術授業へ向かうらしい別のクラスの生徒たちが集まっている。
お嬢様が心底嫌そうな顔をした。
「イザーク様……」
「聞いたぞ! そいつがお前の婚約者だって!?」
騎士団長の息子。
イザーク・ガルシア。
お嬢様へ求婚している男の一人。
彼は教室へ入ると、俺の前まで真っ直ぐ歩いてきた。
そして俺を上から下まで見た後、鼻で笑う。
「こんな細い奴がお前の相手だと?」
「セスは細いのではなく、無駄な筋肉がないのです」
「俺にはひ弱にしか見えない」
「貴方の目が節穴だからでしょう」
「何だと?」
「何度でも申し上げますわ」
お嬢様とイザーク様の間に火花が散る。
サザリー様は冷たい目で俺を見たまま。
教室の外には、騒ぎを聞きつけた生徒たちが集まり始めている。
レイモンド先生は次の授業の準備で一度教室を離れていた。
誰も止める者がいない。
「ちょうどいい」
イザーク様が腰の木剣へ手を置いた。
「次は剣術の授業だろう」
「そうですわね」
「そいつが本当にお前の婚約者に相応しいか、俺が確かめてやる」
「必要ありません」
「逃げるのか?」
「セスが、貴方から?」
お嬢様が不思議そうに首を傾げた。
それから、口元へ手を添えて小さく笑う。
「あり得ませんわ」
「なら、俺と模擬戦をしろ!」
イザーク様が俺を指差す。
「クルセス・シルフィール! 剣術の授業で、俺と戦え!」
教室の内外から、どよめきが起こった。
俺は大きく息を吐く。
学園へ来て、まだ一時限しか受けていない。
それなのに、すでに二人の求婚者から敵意を向けられ、今度は決闘に近い模擬戦を申し込まれている。
平穏な学園生活。
そんなものは、門をくぐった瞬間から存在しなかったらしい。
「セス」
隣から、お嬢様が楽しそうに呼びかけてきた。
「何だ?」
「遠慮はいらないわ」
「まだ受けるとは言っていない」
「大丈夫よ」
「何がだ」
「あの赤いのを、ぼこぼこの雑巾にしてしまいなさい」
「公爵令嬢が口にしていい言葉ではないぞ」
「では、上品に言い直すわ」
お嬢様は優雅に微笑んだ。
「二度と私へ話しかける気力が湧かない程度に、徹底的に叩きのめしてくださいませ」
「何も上品になっていない」
俺の返答に、お嬢様は不満そうに頬を膨らませた。
その向こうで、イザーク様は自信に満ちた笑みを浮かべている。
サザリー様は黙ったまま、成り行きを見守っていた。
俺は頭を抱えたくなるのを堪え、訓練場へ向かうため立ち上がった。
こうして、俺の王立学園での最初の一日は始まった。
そしてどうやら、次の授業が終わる頃には。
俺の名前は、良くも悪くも学園中へ広まることになりそうだった。




