第2話 第一王子殿下、婚約者のいる公爵令嬢へ求婚するのは無理があります
第一王子アルフォルド・エルモア殿下がパウリー公爵家の屋敷へ到着したのは、先触れが届いてから四半刻ほど後のことだった。
その頃には、空に残っていた夕日の赤みもほとんど消え、屋敷の外には夜の色が広がり始めていた。正門から玄関前へ続く広い道には一定の間隔で魔導灯が灯され、刈り揃えられた庭木と石造りの噴水を淡い光で照らしている。
屋敷の正面玄関には、旦那様をはじめ、執事長である義父、数人の使用人、そして俺が並んでいた。
本来であれば、お嬢様もここで殿下を出迎えるべきなのだろう。
だが、第一王子殿下の突然の来訪に対応するため、現在はマリアと共に急いで身支度を整えている。学園から帰宅したばかりの制服姿で王族を迎えるわけにはいかないという判断だった。
もっとも、先ほどのお嬢様の表情を見る限り、単純に支度へ時間がかかっているわけではないだろう。
できることなら、一刻でも殿下と顔を合わせたくない。
そんな感情が、あの大きなため息からはっきりと伝わってきた。
「クルセス」
隣に立つ義父から、周囲には聞こえないほどの小さな声で名を呼ばれた。
「はい」
「姿勢が僅かに乱れている」
「申し訳ございません」
俺はすぐに背筋を伸ばし直した。
先ほどから、どうしても頭の中が落ち着かない。
旦那様から突然告げられた、お嬢様との結婚。
お嬢様自身が望んだという言葉。
そして、その理由を聞く前に訪れた第一王子殿下。
考えなければならないことが多すぎる。
その中でも、今最も大きな問題は、殿下がお嬢様へ求婚している人物の一人だということだった。
俺とお嬢様の婚約について、殿下はまだ知らない。
そもそも、正式な婚約式は来月の予定であり、現段階では王家や他家へ公表されていないはずだ。
公爵家の内部で決まったばかりの話を、今日のうちに第一王子へ伝えるのか。それとも正式な手続きを終えるまで伏せるのか、旦那様からは何も説明されていない。
旦那様の横顔を盗み見る。
王国でも有数の権力を持つ公爵は、いつも通りの厳格な表情で正門の先を見つめていた。
落ち着いている。
とても数刻前に、娘を執事見習いへ嫁がせると宣言した人物には見えない。
もしかすると、あれは本当に俺の聞き間違いだったのではないだろうか。
「クルセス」
「はい」
「今度は旦那様を盗み見るな」
「……申し訳ございません」
義父にはすべてお見通しらしい。
俺が前を向き直るのとほぼ同時に、正門の向こうから馬車の音が聞こえてきた。
規則正しい蹄の音が次第に近づき、やがて王家の紋章を掲げた白い馬車が敷地内へ入ってくる。その前後には、白銀の鎧を身につけた近衛騎士が付き従っていた。
王家の紋章は、翼を広げた黄金の鷹。
魔導灯の光を受け、馬車の側面で眩しいほどに輝いている。
馬車が玄関前で止まると、同行していた従者が素早く扉を開いた。
最初に降りてきたのは、濃紺の礼服を身につけた年配の侍従だった。周囲へ目を配り、安全を確認した後、再び馬車へ向かって一礼する。
その手に支えられ、一人の少年が地面へ降り立った。
年齢は俺やお嬢様と同じ十五歳。
王家を象徴する金色の髪を短く整え、切れ長の青い瞳を持つ、整った顔立ちの少年である。学園で多くの令嬢から人気を集めているという話にも納得できる容姿だった。
その立ち姿には、若さに似合わない堂々とした威厳がある。
彼こそ、この国の第一王子。
アルフォルド・エルモア殿下だ。
旦那様が一歩前へ出る。
「ようこそお越しくださいました、アルフォルド殿下」
「突然の訪問となってしまい、申し訳ない、パウリー公爵」
殿下は王族らしい余裕のある笑みを浮かべた。
だが、その視線はすぐに玄関周辺へ向けられた。
何かを探している。
いや、誰を探しているのかは考えるまでもない。
「オリビアは?」
出会って最初の言葉が、それだった。
旦那様の眉が僅かに動く。
「娘は現在、殿下をお迎えするために身支度を整えております」
「そうか。学園で会ったばかりなのだから、そこまで気を遣わなくてもよいのだが」
「我が家の礼儀でございますので」
「パウリー公爵は相変わらず堅いな」
「殿下は少々、自由すぎるかと存じます」
笑顔を浮かべる殿下に対し、旦那様の声は平坦だった。
言葉だけを聞けば、王族に対してかなり厳しい。しかし、パウリー公爵家ほどの家格と影響力があれば、この程度のやり取りは許されるらしい。
殿下も気分を害した様子はない。
むしろ、慣れたものだと言わんばかりに小さく肩をすくめた。
「本日は、オリビアへ話があって来た」
「先触れには、私用としか書かれておりませんでしたが」
「内容は本人へ直接伝えたい」
「娘が望む内容であればよろしいのですが」
「心配はいらない。オリビアにとっても、悪い話ではない」
殿下の自信に満ちた声を聞き、俺は嫌な予感を覚えた。
お嬢様へ求婚している人物が、お嬢様本人へ直接伝えたい話。
しかも、本人にとって悪い話ではないと断言している。
これで求婚以外の内容だったら、俺は玄関前で逆立ちしてもいい。
「立ち話もなんです。中へお入りください」
「うむ」
旦那様の案内を受け、殿下が屋敷へ足を踏み入れる。
俺たち使用人は頭を下げ、その後ろを静かに進んだ。
案内されたのは、重要な来客を迎えるために使われる大応接室である。
赤を基調とした絨毯が敷かれ、中央には上質な革張りのソファと、艶やかな木製の卓が置かれている。壁にはパウリー公爵家の歴代当主を描いた絵画が並び、窓際には季節の白い花が飾られていた。
旦那様と殿下が向かい合って座る。
義父は旦那様の後ろへ控え、殿下付きの侍従は殿下の斜め後ろへ立った。
そして俺は、用意しておいた茶を運ぶため、一度部屋を離れた。
厨房へ戻ると、すでに温められた茶器と焼き菓子が並べられていた。
今日使用するのは、王家との正式な会談でも使われる最高級の白磁である。薄い金の縁取りが施され、中央にはパウリー家の紋章である青い獅子が描かれている。
茶葉は北方の高地でしか採れない、淡い花の香りを持つもの。
殿下がこの茶を好むことは、過去の訪問記録から確認済みだ。
「クルセス」
茶器を確認していると、厨房長が低い声で呼びかけてきた。
「殿下が突然来られたと聞いたが、大丈夫なのか?」
「何がでしょうか?」
「お嬢様のことだ」
厨房長は周囲へ目を配り、さらに声を落とした。
「学園で求婚されているという噂は、使用人の耳にも入っている。旦那様は殿下との婚姻をお考えなのか?」
「……」
俺は答えに詰まった。
旦那様が考えている婚姻相手は、殿下ではなく俺だ。
しかし、それを話していいのかは分からない。
「俺には分かりかねます」
「そうか」
厨房長は納得していない顔をしながらも、それ以上は追及しなかった。
代わりに、並べられた焼き菓子を一つ指差す。
「お嬢様がお好きな果実の焼き菓子も用意してある。殿下の分とは別にしてあるから、間違えるなよ」
「承知しております」
「それと、殿下の茶は少し薄めだ。以前、濃すぎると残された」
「記録で確認済みです」
「お嬢様の茶には蜂蜜を少量」
「疲れておられる日は二匙、普段は一匙。今日は学園帰りですので二匙にいたします」
俺が答えると、厨房長は一瞬目を丸くした後、苦笑した。
「お前は本当に、お嬢様のことになると完璧だな」
「専属に近い役目を任されておりますので、当然です」
「そういう意味ではないんだが」
「?」
「いや、何でもない」
厨房長はなぜか呆れたように首を振り、別の仕事へ戻っていった。
俺は疑問を抱きながらも、茶を淹れる準備へ意識を戻す。
湯の温度を確かめ、茶葉を量り、時間を正確に計る。僅かな違いでも香りや渋みに影響が出るため、気を抜くことはできない。
茶が最も良い状態になったところで、銀の盆へ茶器と菓子を並べる。
大応接室へ戻ろうと厨房を出たところで、廊下の向こうからマリアとお嬢様が歩いてくるのが見えた。
お嬢様は学園の制服から、淡い水色のドレスへ着替えていた。
華美すぎないが、柔らかな布地が動くたびに揺れ、シルバーブルーの髪とよく似合っている。髪も緩く編み込まれ、白い小花を模した髪飾りが添えられていた。
公爵令嬢として、どこから見ても完璧な姿だ。
ただし、その顔には心底嫌そうな表情が浮かんでいる。
「お嬢様」
声をかけると、お嬢様は俺の姿を認めた瞬間、表情を柔らかくした。
「クルセス」
「お支度が整われたのですね」
「ええ。どうかしら?」
お嬢様は僅かに両腕を広げ、俺へ問いかけた。
どうかと聞かれても、返事は一つしかない。
「大変よくお似合いでございます」
「……それだけ?」
「はい?」
お嬢様の眉が僅かに下がる。
何か足りなかったらしい。
「とても美しくていらっしゃいます」
付け加えると、お嬢様の頬が少し赤くなった。
「そう。それならいいわ」
今度は満足してくれたようだ。
隣にいるマリアが、なぜか疲れたような表情を浮かべている。
「お嬢様、殿下をお待たせしております」
「分かっているわ」
「分かっていらっしゃる方が、廊下の途中で三度も足を止めるでしょうか」
「髪飾りが気になったのよ」
「一度目は髪飾り、二度目は袖、三度目は靴でしたね」
「すべて大切でしょう?」
「クルセスに見ていただくために、ですか?」
「マリア!」
お嬢様が慌てた声を上げる。
俺は二人のやり取りの意味が分からず、首を傾げた。
「俺に何か問題でもございましたか?」
「何でもありません!」
お嬢様が即答した。
顔がさらに赤くなっている。
本当に熱があるのではないだろうか。
「お嬢様、体調が優れないのであれば、殿下との面会は延期していただくよう旦那様へ」
「体調は悪くありません!」
「ですが、お顔が」
「クルセスのせいです!」
「また俺ですか!?」
先ほども同じことを言われた。
身に覚えがなさすぎる。
マリアは口元へ手を当て、小さく笑っていた。
「お二人とも、続きは後ほどになさってくださいませ」
「……そうね」
お嬢様は不満そうにしながらも、再び公爵令嬢の表情へ戻った。
俺は盆を持ち直し、お嬢様たちと共に応接室へ向かう。
扉の前で立ち止まり、先に俺が室内へ入った。
「失礼いたします」
旦那様と殿下の前へ茶を置く。
続いてお嬢様が入室すると、殿下の顔が目に見えて明るくなった。
「待っていたぞ、オリビア」
「お待たせして申し訳ございません、アルフォルド殿下」
お嬢様は完璧な礼をした。
声も表情も穏やかで、廊下で見せていた嫌そうな様子は一切ない。
ただし、殿下から呼ばれた愛称には反応しなかった。
「堅苦しい挨拶は必要ない。学園で毎日会っている仲ではないか」
「殿下と私は、同じ学園へ通う学生というだけでございます」
「その慎ましさも、そなたの美点だな」
「……」
お嬢様の笑顔が僅かに固まった。
俺には分かる。
あれは、相手の言葉を全く理解できないときのお嬢様の顔だ。
殿下は気づいていない。
むしろ、照れているとでも思ったのか、満足そうな笑みを浮かべていた。
「こちらへ」
旦那様が隣のソファを示す。
お嬢様が腰を下ろしたのは、旦那様の隣だった。
俺はお嬢様の前へ茶を置く。
「どうぞ、お嬢様」
「ありがとう、クルセス」
お嬢様は俺へだけ向ける柔らかな笑顔で礼を言った。
その瞬間、向かい側から鋭い視線を感じる。
顔を上げると、殿下が俺を見ていた。
「その者は?」
「娘付きの執事見習いでございます」
旦那様が答える。
殿下は俺を上から下まで観察した。
値踏みするような目だ。
「以前も見たことがあるな」
「何度か、お茶をお出ししております」
俺は一礼した。
「クルセス・シルフィールと申します」
「シルフィール?」
殿下が僅かに眉を上げる。
「パウリー家の執事長と同じ名だな」
「養子として迎えていただいております」
「なるほど。元は平民か」
「はい」
隠すことではない。
だが、その言葉を聞いたお嬢様の瞳が細くなった。
殿下の声に侮蔑が含まれていたわけではない。それでも、お嬢様は俺が平民であることを他者から指摘されるのを好まない。
「クルセスは、大変優秀な者です」
お嬢様が言った。
「私の身の回りのことだけではなく、剣術や魔術、学問にも通じております」
「オリビアが使用人を褒めるとは珍しい」
「優秀な者を正当に評価しているだけでございます」
「そうか」
殿下は俺から興味を失ったように、お嬢様へ視線を戻した。
俺は旦那様たちの後ろへ下がり、義父の横へ控える。
お嬢様は茶へ口をつけた。
すぐに一瞬だけ目を細める。
蜂蜜を二匙入れたことに気づいたのだろう。
俺と視線が合うと、お嬢様は小さく笑った。
殿下が再び俺を見た。
先ほどよりも、明らかに厳しい目だった。
「それで、殿下」
旦那様が口を開く。
「本日は娘にお話があるとのことでしたが」
「ああ」
殿下は茶器を卓へ置き、姿勢を正した。
先ほどまでの柔らかな雰囲気が消え、王族としての威厳が表情へ現れる。
「オリビア」
「はい」
「そなたへ正式に伝えたいことがある」
殿下の声に、お嬢様は僅かに身体を強張らせた。
何を言われるのか、すでに分かっているのだろう。
旦那様は無表情。
義父も動かない。
殿下付きの侍従だけが、誇らしげに胸を張っている。
「そなたも十五歳となった」
「はい」
「学園での成績、剣術、魔術、いずれにおいても申し分ない。公爵令嬢としての振る舞いも、王国の令嬢たちの模範となっている」
「過分なお言葉でございます」
「私の隣に立つ者として、そなた以上に相応しい女性はいない」
殿下は迷いなく言い切った。
お嬢様の指先が、膝の上で僅かに動く。
「近いうちに、父上へそなたとの婚約を正式に願い出るつもりだ」
「……」
「今日ここへ来たのは、王家からの正式な申し入れの前に、そなた本人へ私の意志を伝えるためだ」
殿下は立ち上がった。
そしてお嬢様の前へ移動し、片膝をつく。
第一王子が公爵令嬢へ跪く姿に、室内の空気が変わった。
殿下付きの侍従は感極まったように目を潤ませている。
「オリビア・パウリー」
殿下は胸へ手を当て、まっすぐお嬢様を見上げた。
「私の妃になってほしい」
予想通りの言葉だった。
それでも、実際に王族の口から発せられると重みがある。
王太子妃。
未来の王妃。
国中の令嬢が憧れる立場だ。
お嬢様の家柄、能力、人柄を考えれば、誰もが相応しいと認めるだろう。
もし俺とお嬢様の婚約話がなければ、旦那様も真剣に検討したかもしれない。
室内に沈黙が流れる。
殿下は自信に満ちていた。
断られる可能性など、少しも考えていない顔だ。
お嬢様はしばらく殿下を見つめていた。
その表情からは、感情を読み取れない。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「お断りいたします」
「……うむ」
殿下が満足そうに頷いた。
一拍遅れて、その顔が固まった。
「今、何と?」
「お断りいたしますと申し上げました」
お嬢様は、先ほどよりもはっきりと言った。
殿下付きの侍従が息を呑む。
義父は動かない。
旦那様も表情を変えなかった。
俺だけが、どう反応すればいいのか分からず立ち尽くしていた。
「聞き間違いだろう」
「いいえ」
「遠慮する必要はない」
「遠慮ではございません」
「王太子妃という立場に不安があるのか? そなたならば問題ない。私が支える」
「立場への不安ではございません」
「では、なぜだ?」
殿下は本気で理解できないようだった。
お嬢様は一度、旦那様へ視線を向けた。
旦那様が僅かに頷く。
その瞬間、お嬢様の頬が少し赤くなった。
そして、次に見たのは俺だった。
嫌な予感がする。
とても嫌な予感だ。
「殿下」
「なんだ」
「私は、すでに結婚したいと願う相手を決めております」
「……誰だ?」
殿下の声が低くなる。
お嬢様は立ち上がった。
ゆっくりと俺の方へ歩いてくる。
なぜだろう。
逃げなければならない気がする。
しかし、義父の横に控えている以上、勝手に動くことはできない。
お嬢様は俺の前で足を止めた。
「お嬢様?」
「クルセス」
俺の名前を呼び、お嬢様は両手で俺の腕を掴んだ。
殿下の視線が突き刺さる。
殿下付き侍従の口が大きく開く。
旦那様は静かに見守っている。
「私が結婚したいのは、この人です」
「……え?」
殿下が呟いた。
俺も心の中で同じ声を上げた。
「クルセス・シルフィール。私の執事であり、私が最も信頼する人です」
「待て」
殿下が立ち上がった。
「その者は平民出身の使用人ではないか」
「現在はシルフィール伯爵家の養子です」
「それでも元は平民だ」
「それが何か?」
お嬢様の声が冷たくなる。
殿下は一瞬言葉を失ったが、すぐに首を振った。
「オリビア、これは冗談では済まされない」
「私も冗談で申し上げておりません」
「公爵令嬢が、執事と結婚するなど」
「殿下」
旦那様の声が割って入った。
静かだが、重い声だった。
「我が娘が望む相手を侮辱することは、パウリー家に対する侮辱と受け取ります」
「パウリー公爵まで、本気なのか?」
「はい」
「王家との婚姻より、その執事を選ぶと?」
「娘が望むのであれば」
殿下の顔から余裕が消えた。
信じられないものを見る目で、俺を見ている。
俺だって信じられない。
なぜ、旦那様もお嬢様も、ここまで堂々としていられるのだろう。
俺はまだ一度も、婚約を承諾した覚えがない。
「クルセスと言ったな」
「はい」
殿下から直接名を呼ばれ、俺は背筋を伸ばした。
「そなたは、オリビアをどう思っている?」
「俺は……」
お嬢様が俺の腕を掴む力を僅かに強める。
横を見ると、不安そうな瞳が俺を見上げていた。
先ほどまで殿下へ向けていた堂々とした姿とは違う。
まるで、俺の答えを恐れているようだった。
「お嬢様は、俺にとって何よりも大切な主君でございます」
「主君?」
殿下の口元が僅かに緩む。
「恋人ではないのだな」
「現在は、そのような関係ではございません」
「クルセス!」
お嬢様が悲鳴に近い声を上げた。
「ですが」
俺は続けた。
「お嬢様を守ることは、俺の役目です。お嬢様が望まれる限り、俺は生涯お側にいたいと考えております」
「……」
お嬢様が黙った。
顔が見る見る赤くなっていく。
なぜだろう。
今のは執事として当然の決意を述べただけだ。
「生涯……」
お嬢様が小さく呟く。
「お側に……」
「お嬢様?」
「何でもないわ!」
そう言いながら、口元は隠し切れないほど緩んでいる。
一方、殿下の表情は険しさを増していた。
「その程度の言葉で、オリビアの婚約者を名乗るつもりか?」
「まだ名乗ってはおりません」
「では、婚約を断れ」
「殿下?」
「身の程を知れ。そなたがオリビアの隣へ立てば、彼女が笑われることになる」
その言葉に、俺は反論できなかった。
俺自身が、ずっと考えていたことだからだ。
お嬢様には相応しい相手がいる。
王族や高位貴族の中から、家柄も能力も整った人物を選ぶべきだ。
俺では釣り合わない。
お嬢様を守るためなら命を捨てられる。
だが、お嬢様の隣に立つことで彼女の名誉を傷つけるのなら、俺は離れるべきではないのか。
俺が黙ると、お嬢様の表情から笑みが消えた。
「セス」
初めて呼ばれた愛称だった。
幼い頃、お嬢様が俺をそう呼んでいた時期がある。
成長し、主従としての立場を意識するようになってからは、いつしか呼ばれなくなった名前。
「私を見て」
お嬢様の声に促され、俺は顔を向けた。
「私は、あなたが隣に立つことで笑われるとは思っていません」
「ですが」
「他人が何を言おうと、私には関係ないわ」
お嬢様は俺の腕から手を離し、今度は俺の手を取った。
柔らかな指が、俺の手を包む。
「私が隣にいてほしいと思うのは、あなたです」
「お嬢様……」
「オリビア」
殿下が低い声で名を呼んだ。
「その男に何を吹き込まれた?」
「何も」
「弱みを握られているのか?」
「いいえ」
「では、なぜその者なのだ!」
殿下が声を荒らげる。
室内の空気が震えた。
扉の外に控えている使用人たちにも聞こえただろう。
お嬢様は怯まなかった。
「私が好きだからです」
時間が止まった。
少なくとも、俺にはそう感じた。
お嬢様は今、何と言った?
好き。
誰が。
誰を。
「……」
俺はお嬢様を見る。
お嬢様は自分が何を口にしたのか、ようやく気づいたらしい。
顔が一気に真っ赤になった。
「い、今のは!」
「お嬢様?」
「違わないけど違うの!」
「どちらでしょうか?」
「好きなのは本当だけど、そういうことではなくて、いえ、そういうことでもあるけれど、今ここで言う予定では!」
お嬢様が混乱している。
いつも完璧な公爵令嬢が、言葉を探しながら視線を泳がせていた。
その姿を見た殿下は、さらに顔を険しくした。
「その者が、オリビアを惑わせたのだな」
「違います!」
「ならば決闘だ」
「……はい?」
殿下の唐突な言葉に、今度は全員が止まった。
殿下は俺を指差す。
「クルセス・シルフィール。私と勝負しろ」
「何の勝負でしょうか?」
「剣でも魔術でも構わない。私が勝てば、オリビアとの婚約を辞退しろ」
「殿下、何を勝手に決めているのですか!」
お嬢様が殿下へ詰め寄ろうとする。
俺は咄嗟に、その腕を掴んだ。
「お嬢様、お待ちください」
「セス?」
再び愛称で呼ばれ、妙に胸がざわつく。
だが、今はそれを考えている場合ではない。
「殿下」
俺は一歩前へ出た。
「仮に俺が勝った場合は、どうされるのでしょうか?」
「私が負けることはない」
「条件を決めずに勝負を受けることはできません」
殿下の眉が寄る。
少し考えた後、強い口調で言った。
「私が負けた場合は、今日の求婚を取り下げる」
「今日の、という部分が気になります」
「……今後一年間、オリビアへ求婚しない」
「一年だけですか?」
「王族の私に、これ以上の譲歩を求めるか?」
「では、勝負をお断りいたします」
「なっ!?」
「俺にとって利点がございません」
勝てば一年間だけ求婚を止める。
負ければ婚約を辞退する。
あまりにも釣り合わない。
「貴様、逃げるのか!」
「必要のない危険を避けることは、逃げとは申しません」
「私が怖いのだろう!」
「はい」
即答すると、殿下の表情が僅かに緩んだ。
お嬢様が驚いた顔で俺を見る。
「王族と争えば、勝敗に関係なく俺の立場が悪くなります。殿下御本人よりも、周囲の方々が許さないでしょう。俺は自分の身分を理解しておりますので」
「……」
「それに、お嬢様の意思を勝敗で決めること自体が間違っております」
殿下の表情が再び固まった。
「お嬢様は物ではございません。俺が勝ったから得られるものでも、負けたから譲るものでもない」
「セス……」
「誰と結婚するかを決めるのは、お嬢様御自身です」
俺がそう言うと、お嬢様は目を見開いたまま動かなくなった。
殿下も黙っている。
室内に長い沈黙が落ちた。
やがて、旦那様が低く笑った。
本当に僅かな笑い声だったが、俺は初めて聞いた。
「よく言った、クルセス」
「旦那様?」
「殿下」
旦那様は殿下へ向き直る。
「本日のところは、お引き取りいただけますか」
「パウリー公爵」
「娘の意志は、御理解いただけたかと存じます」
「私は認めない」
殿下は強く言い切った。
「その男がオリビアに相応しいとは思えない」
「それを決めるのは殿下ではございません」
「私は諦めぬぞ」
殿下は俺を睨んだ。
「クルセス・シルフィール。必ず、そなたがオリビアに相応しくないことを証明してみせる」
「俺が相応しくないことは、俺自身が一番理解しております」
「セス!」
お嬢様が怒った声を上げる。
「ですが、殿下」
俺は続けた。
「お嬢様を悲しませる行為をされるのであれば、俺はお止めいたします」
殿下と視線がぶつかる。
青い瞳に、怒りと敵意が浮かんでいる。
「覚えておけ」
「承知いたしました」
殿下は踵を返した。
侍従が慌てて後を追う。
旦那様と義父も、殿下を見送るために部屋を出ていった。
扉が閉まる。
応接室に残ったのは、俺とお嬢様、マリアの三人だけだった。
「……」
「……」
お嬢様と俺の間に、気まずい沈黙が落ちる。
先ほどのお嬢様の言葉が、何度も頭の中で繰り返されていた。
私が好きだからです。
あれは、どういう意味だったのだろう。
お嬢様は顔を赤くしたまま、俺を見たり、床を見たりしている。
マリアは少し離れた場所で、期待するような目を向けていた。
「あの、お嬢様」
「リビア」
「はい?」
「先ほど、セスと呼びました」
「そうですね」
「ですから、あなたも私をリビアと呼んで」
「なぜそのような話になるのでしょうか」
「婚約者になるのだから、愛称で呼び合うのは当然でしょう?」
「まだ正式な婚約者ではございません」
「来月にはなるわ」
「俺はまだ了承しておりませんが」
お嬢様の目から、すっと光が消えた。
「……了承しないの?」
「いえ、その、そういう意味ではなく」
「私とは結婚したくない?」
「滅相もございません!」
「なら、するの?」
「お嬢様、話が極端です!」
「リビア」
「お嬢様」
「リビア」
「……」
「リビア」
お嬢様が下から覗き込むように俺を見る。
瞳が僅かに潤んでいた。
絶対にわざとだ。
俺が、この表情に弱いと知っている。
「……リビア」
観念して愛称を呼ぶ。
途端に、お嬢様の顔が花開くように明るくなった。
「はい、セス!」
無邪気な笑顔を向けられ、胸が強く鳴った。
その音が聞こえてしまうのではないかと不安になる。
「これからは、二人のときはずっとそう呼んでね」
「家の中では難しいです」
「では、学園で」
「学園?」
聞き慣れない言葉が混じった。
俺が聞き返すと、お嬢様は先ほどとは違う、どこか悪戯を成功させた少女のような笑みを浮かべた。
「あら、お父様から聞いていないの?」
「何をでしょうか」
「明日から、あなたも王立学園へ通うのよ」
「……はい?」
「私の婚約者として、同じクラスに入ってもらいます」
また、時間が止まった。
今日は何度、俺の頭の中の時間を止めれば気が済むのだろう。
「聞いておりません」
「そうなの?」
「旦那様は一言もおっしゃいませんでした!」
「では、驚かせたかったのね」
「旦那様がそのような可愛らしい理由で黙っていたとは思えません!」
俺の叫びが、応接室へ響く。
お嬢様は楽しそうに笑い、マリアも口元を押さえていた。
「制服も用意してあります」
「いつの間に!?」
「入学試験は朝一番だから、今日は早く休んでね」
「試験まであるのですか!?」
「同じクラスに入れなかったら困るもの。ちゃんと合格してね」
「特進クラスですよね!?」
「セスなら大丈夫よ」
「信頼が重い!」
お嬢様は、何の疑いもない顔で俺を見ている。
本当に、俺ならできると思っているのだ。
その期待を裏切りたくないと思ってしまう自分がいる。
「それと、学園では敬語も禁止ね」
「なぜですか!?」
「婚約者同士なのに、ずっと主従のように話していたら不自然でしょう?」
「実際に主従です!」
「婚約者でもあります」
「まだ正式には!」
「細かいことは気にしないで」
「人生に関わる部分を細かいことで片づけないでください!」
お嬢様は耳を塞いだ。
「聞こえません」
「子供ですか!」
「セスが私をリビアと呼ぶまで聞こえません」
「先ほど呼びました!」
「もう一度」
「リビア!」
「はい!」
お嬢様は満足そうに笑った。
俺は大きなため息を吐く。
明日から、俺は王立学園へ通う。
公爵令嬢の婚約者として。
第一王子をはじめ、お嬢様へ求婚する高位貴族たちが通う場所へ。
どう考えても、平穏な学園生活になるはずがない。
「俺、明日まで命があるかな……」
思わず漏れた呟きに、お嬢様は首を傾げた。
「大丈夫よ」
「何を根拠に?」
「私が守るもの」
お嬢様は胸へ手を当て、堂々と言った。
「セスに手を出す者がいたら、家ごと潰すわ」
「大丈夫ではありません!」
俺の声に、お嬢様の楽しそうな笑い声が重なった。
こうして俺の知らないところで決められた婚約話は、第一王子へまで知られることとなった。
そして翌日。
俺は、自分を敵視する王子や高位貴族の子息たちが待つ王立学園へ、足を踏み入れることになる。




