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第1話 旦那様、平民執事に公爵令嬢との結婚を命じるのは無理があります



「娘と結婚してほしい」


 その言葉を聞いた瞬間、俺は自分の耳が壊れたのだと思った。


 夕刻を少し過ぎたパウリー公爵家の執務室には、窓から差し込む橙色の光が長く伸びていた。壁際に並ぶ書棚には、領地経営や王国法、過去の外交記録をまとめた分厚い本がぎっしりと収められ、磨き上げられた床には三人分の影が落ちている。


 その部屋の中央で、俺は背筋を伸ばして立っていた。


 正面にある大きな執務机には、この屋敷の主であるアルセス・パウリー公爵が座っている。


 旦那様は机に両肘をつき、組んだ手を口元へ添えたまま、深刻な会議でも始めるような重々しい顔をしていた。戦争でも始まるのか、領地で大規模な災害でも起きたのかと思うほどの雰囲気である。


 だが、その口から飛び出したのは、戦争よりも災害よりも俺にとって恐ろしい言葉だった。


「……」


「……」


 旦那様と俺の間に、沈黙が落ちる。


 窓の外では、庭師たちが一日の仕事を終えようとしていた。遠くから箒で石畳を掃く音が聞こえ、どこかの木に止まった鳥が、のんきに鳴いている。


 世界は何事もなく動いている。


 どうやら時間が止まったのは、俺の頭の中だけらしい。


「クルセス」


 背後から低い声が飛んできた。


 旦那様の斜め後ろに控えているのは、パウリー公爵家の執事長を務めるグレイヴ・シルフィール伯爵である。白髪交じりの濃い灰色の髪を後ろへ撫でつけ、背筋を一本の棒のように伸ばした人物だ。


 彼は俺の義理の父でもある。


 もっとも、俺が彼を父上と呼ぶことは滅多にない。屋敷の中では執事長と見習い執事であり、彼自身が公私を厳しく分ける人だからだ。


 その義父が、握った拳を口元へ添えて小さく咳払いをした。


 どうやら返事をしろという意味らしい。


 返事。


 返事とは、いったい何を返せばいいのだろう。


 俺は少し前まで、旦那様から今日の仕事について何か注意を受けるのだと思っていた。銀器の磨き方が甘かったのか、来客用の茶葉を選び間違えたのか、それとも廊下で使用人同士が話していたときに笑い声が大きすぎたのか。


 どれも覚えがないわけではない。


 だが、娘と結婚してほしいと言われるような覚えは、天地がひっくり返ってもなかった。


「だ、旦那様」


 ようやく絞り出した声は、自分でも情けなくなるほど震えていた。


「い、今、なんとおっしゃいましたか?」


 旦那様の眉がわずかに動いた。


「聞こえなかったのか?」


「聞こえはしたのですが、理解が追いついておりません」


「ならば、もう一度言おう」


 旦那様は組んでいた手を解き、椅子の背へゆっくり身体を預けた。


 その目は冗談を言っている者の目ではない。


「我が娘、オリビア・パウリーと結婚してほしい」


 やはり聞き間違いではなかった。


 むしろ二度目のほうが、よりはっきり耳へ届いてしまった。


「……オリビアお嬢様と、ですか?」


「この家に私の娘は一人しかいない」


「存じております」


「ならば、ほかに誰がいる?」


「おりません」


「では問題ないな」


「問題しかございませんが!?」


 思わず大きな声が出た。


 言った直後、俺は両手で口を押さえた。


 旦那様の前で声を荒らげるなど、執事見習いとしてあるまじき行為だ。背後にいる義父から凍るような視線を感じ、俺は慌てて頭を下げた。


「も、申し訳ございません! ですが、あまりにも突然のことでございまして!」


「突然ではない」


「俺にとっては突然でございます!」


「私にとっては三日ほど考えた末の結論だ」


「三日で公爵令嬢の結婚相手を決めないでくださいませ!」


 また声が大きくなった。


 しかし、今度の旦那様は怒るどころか、面倒そうに目を細めただけだった。


「何が不満だ?」


「不満などございません!」


「ならばよいではないか」


「そういう話ではありません!」


「娘では不満なのか?」


「滅相もございません!」


 即答だった。


 それだけは、考えるまでもない。


 オリビア・パウリーお嬢様は、俺がこの世で最も敬愛する主君である。


 今は亡き奥様と同じシルバーブルーの美しい髪。旦那様によく似た少し鋭い目元。公爵家の一人娘として幼い頃から礼儀作法を身につけ、学問、剣術、魔術、社交のどれにおいても高い評価を受けている。


 それでいて、身分の低い使用人にも穏やかに声をかけ、領内の孤児院や救護院への支援にも熱心だ。


 俺のようなスラム出身の孤児にも、初めて会った頃から一度たりとも蔑むような態度を見せたことはない。


 不満などあるはずがない。


 むしろ、俺などがお嬢様に不満を持つこと自体が不敬だ。


「お嬢様は、とても素晴らしい方です」


「うむ」


「お優しく、聡明で、気品にあふれ、容姿も美しく、将来はパウリー公爵家を背負うに相応しい御方です」


「当然だ。私の娘だからな」


 旦那様がわずかに胸を張った。


 娘のことになると少しだけ表情が緩むのは、この屋敷で働く者なら誰もが知っている。普段は厳格で近寄りがたい旦那様だが、オリビアお嬢様にはとことん甘い。


「だからこそ、俺では釣り合いません」


 そう告げると、旦那様の表情から僅かに緩んでいたものが消えた。


「何が釣り合わない?」


「すべてでございます」


 俺は自分の胸へ手を当てた。


「俺は平民の生まれです。しかも、物心ついた頃には王都のスラムで暮らしていた孤児でございます。現在はグレイヴ様の養子としてシルフィール家に迎えていただいておりますが、血筋まで変わったわけではありません」


「血筋だけで人間の価値が決まると思っているのか?」


「思ってはおりません。ですが、貴族社会が血筋を軽んじないことも事実でございます」


 公爵令嬢と結婚する。


 その意味を、俺が理解していないわけではない。


 ただ好き合った男女が一緒になるのとは違う。そこには家と家の繋がりがあり、領地があり、政治があり、王国全体の均衡がある。


 お嬢様ほどの立場なら、婚姻相手は王族か、少なくとも同格に近い高位貴族から選ばれるのが普通だ。


 それなのに、相手がスラム出身の執事見習い。


 他家から笑われるだけでは済まないだろう。


 何か裏があると疑われ、パウリー公爵家を貶めるための材料にされるかもしれない。


 何より、お嬢様にはすでに多くの求婚者がいる。


 この国の第一王子アルフォルド・エルモア殿下。


 宰相を務めるラルド公爵家の嫡男サザリー・ラルド様。


 騎士団長を父に持つガルア侯爵家の嫡男イザーク・ガルシア様。


 魔法師団長の息子であるシュザー侯爵家嫡男ライゼル・シュザー様。


 さらに、現在この国へ留学している隣国の第二王子カイゼル・ブルーム殿下。


 名を並べるだけで胃が痛くなる者ばかりだ。


 そんな彼らを差し置き、俺が婚約者になったとする。


 どうなるだろうか。


 考えるまでもない。


 死ぬ。


 主に俺が。


「旦那様」


「なんだ」


「お嬢様には、第一王子殿下をはじめとする多くの御方が求婚されております」


「知っている」


「その中から、どうして俺なのでしょうか?」


 旦那様は答えなかった。


 代わりに、視線だけを少し横へ動かした。


 その先にいる義父も、何も言わない。


 二人の間に何かしらの共通認識があることだけは分かった。だが、それが何なのかは俺には分からない。


「クルセス」


「はい」


「お前は、私の娘をどう思っている?」


 問いの意味が分からず、俺は少し考えた。


「先ほど申し上げた通り、素晴らしい御方だと思っております」


「それだけか?」


「俺がお仕えする、大切な主君でございます」


 旦那様の眉間に皺が寄った。


 背後で義父が、微かに息を吐いたような気がした。


 何か間違えただろうか。


「では、仮に娘が危険にさらされたらどうする?」


「命に代えてもお守りいたします」


 これは迷わない。


「相手が王族でもか?」


「お嬢様へ危害を加えるのであれば、身分は関係ございません」


「自分が死ぬとしても?」


「お嬢様が助かるのであれば」


 旦那様はしばらく俺の顔を見つめていた。


 やがて椅子の背から身体を起こし、執務机の上に置いてあった書類へ手を伸ばした。


「ならば問題ない」


「なぜその結論になるのでしょうか?」


「私が問題ないと言っているからだ」


「旦那様、それは説明になっておりません」


「説明する必要はない」


 旦那様は書類を一枚めくった。


 どうやら、この話はもう終わりらしい。


 俺の人生に関わる重大な決定を下したばかりだというのに、旦那様は今にも領地から届いた報告書を読み始めようとしている。


「グレイヴ」


「はい、旦那様」


「来月には婚約式を行う。準備を進めておけ」


「かしこまりました」


「かしこまらないでください、父上!」


 思わず振り返ると、義父はいつもの無表情で俺を見ていた。


「屋敷内では執事長と呼べ」


「今はそれどころではありません!」


「旦那様の御前だ。声を抑えろ」


「では父上からも旦那様を止めてください!」


「なぜだ?」


「なぜって……俺とお嬢様の婚約ですよ!?」


「旦那様がお決めになり、お嬢様も望まれている。私が反対する理由はない」


「お嬢様も望まれている?」


 俺の問いに、義父は口を閉ざした。


 旦那様も、書類へ視線を落としたまま動かない。


 今、明らかに何かを隠した。


「旦那様」


「話は終わりだ」


「ですが」


「クルセス」


 低い声で名を呼ばれ、俺は口を閉じた。


 旦那様は顔を上げると、先ほどまでとは違う真剣な眼差しを向けてきた。


「娘を不幸にしたら、お前を斬る」


「……はい?」


「泣かせても斬る」


「旦那様?」


「ほかの女に目移りしても斬る。娘を置いて危険な場所へ行っても斬る。娘の誕生日を忘れた場合は、斬る前に領地中を引き回す」


「待ってくださいませ。まだ婚約を受け入れるとも申しておりません!」


「娘では不満なのか?」


「その質問に戻らないでください!」


 俺の必死な訴えを無視し、旦那様は義父へ顔を向けた。


「下がらせろ」


「かしこまりました。クルセス、旦那様はお忙しい」


「この状況で仕事へ戻られる旦那様の精神力を尊敬いたします!」


「褒めても何も出ん」


「褒めておりません!」


 結局、俺は義父に肩を押されるようにして執務室から追い出された。


 重厚な扉が閉じる。


 廊下に一人残された俺は、しばらく扉を見つめたまま動けなかった。


「……一体、何が起きているんだ?」


 呟いた声が、長い廊下へ虚しく響く。


 壁に並ぶ燭台へは、夕刻の仕事を始めた使用人たちが順番に火を灯していた。窓の外では日が沈み始め、庭園の影が濃くなっている。


 今日は朝から何もおかしなことはなかったはずだ。


 いつも通り夜明け前に起床し、義父から礼儀作法の指導を受け、朝食の配膳を手伝った。お嬢様を王立学園へ送り出した後は客室を確認し、厨房へ注文品を運び、午後には旦那様の執務に使う書類を届けた。


 その結果が、なぜ公爵令嬢との婚約になるのか。


 俺が知らない間に、世界の仕組みでも変わったのだろうか。


「クルセス!」


 背後から、明るい声が響いた。


 振り返るより先に、廊下を駆けてくる軽い足音が聞こえる。


 見れば、玄関広間の方向から一人の少女がこちらへ向かってきていた。


 シルバーブルーの長い髪が、走るたびに背中で柔らかく揺れている。王立学園の濃紺の制服を身につけ、片手で鞄を持ち上げながら、もう片方の手をこちらへ振っていた。


 オリビア・パウリーお嬢様。


 たった今、旦那様から結婚しろと言われた相手である。


「お嬢様!?」


 俺は反射的に背筋を伸ばし、一礼した。


「お帰りなさいませ」


「ただいま、クルセス!」


 お嬢様は俺の目の前まで来ると、少し弾んだ息を整えながら笑った。


 公爵令嬢が廊下を走ってよいのかという疑問はある。だが、この笑顔を前にすると注意する気にはなれない。


 お嬢様は普段、学園や社交の場では完璧な公爵令嬢として振る舞っている。


 背筋を伸ばし、静かな微笑みを絶やさず、誰に対しても隙を見せない。目元が少し鋭いため、初対面の者には冷たい印象を与えることもあるが、実際はとても明るく、よく笑う方だ。


 少なくとも、俺の前では。


「どうしたの?」


「何がでしょうか?」


「難しい顔をしていたでしょう。お父様に叱られたの?」


 お嬢様が俺の顔を下から覗き込む。


 距離が近い。


 昔からお嬢様は、俺に対してだけ距離が近いことがある。幼い頃から一緒にいるため、使用人というより気心の知れた相手だと思われているのだろう。


 それはありがたい。


 ありがたいのだが、今日に限っては心臓に悪い。


「いえ、叱られたわけではございません」


「では、何を話していたの?」


「それは……」


 婚約の話を、その本人へどう伝えればよいのだろう。


 まさか、お嬢様は知らないのか。


 旦那様が勝手に決めたのなら、まず本人の意志を確認するべきだ。たとえ旦那様が認めても、お嬢様が望まなければ成立するはずがない。


「あの、お嬢様」


「なあに?」


「旦那様から、その……」


 俺が言葉を選んでいると、お嬢様の瞳がわずかに輝いた。


 口元も少しだけ緩んだように見える。


「聞いたのね?」


「……ご存じなのですか?」


「ええ」


 お嬢様は両手を背中へ回し、少しだけ身体を左右に揺らした。


 どこか落ち着かない様子で、それでも嬉しそうに俺を見上げている。


「では、本当に俺とお嬢様が……」


「ここでは話しづらいわ。私の部屋へ来てちょうだい」


「かしこまりました」


 お嬢様は満足そうに頷くと、くるりと身体を翻した。


 シルバーブルーの髪から、花に似た柔らかな香りが漂う。


 俺はいつも通り一歩後ろを歩き始めた。


 しかし、お嬢様は数歩進んだところで足を止めると、こちらを振り返った。


「クルセス」


「はい」


「隣を歩いて」


「しかし、俺は使用人でございます」


「今はいいの」


「ですが、ほかの者の目もございますので」


「命令よ」


 少し頬を膨らませて言われ、俺は逆らえなくなった。


「かしこまりました」


 お嬢様の隣へ並ぶ。


 するとお嬢様は、先ほどよりもさらに機嫌を良くした様子で歩き始めた。


 廊下ですれ違う使用人たちが、俺たちを見て僅かに目を見開く。だが、すぐに頭を下げ、何も見なかったように通り過ぎていった。


 絶対に見ている。


 明日の朝には、屋敷中へ噂が広がっているだろう。


 ただでさえ執事見習いの俺がお嬢様の専属に近い役目をしていることを、不思議に思う者は多い。それが隣を歩いていたとなれば、何かあったと勘づかれてもおかしくない。


「ねえ、クルセス」


「はい、お嬢様」


「学園はどういう場所だと思う?」


「王国の将来を担う貴族子息令嬢が、学問や礼儀、剣術、魔術などを学ぶ場所だと認識しております」


「そういう答えではなくて、楽しそうかしら?」


「俺には分かりかねます」


「行ってみたいと思わない?」


「俺が、でございますか?」


「ええ」


 何かを探るような問いだった。


 俺は正直に答える。


「興味がないわけではございませんが、俺には屋敷での務めがございます。それに、学園へ通えるような立場ではありません」


「立場なら問題ないでしょう? あなたはシルフィール伯爵家の養子なのだから」


「形式上はそうですが、元は平民です」


「またそれを言うのね」


 お嬢様の声が少しだけ低くなった。


 横を見ると、先ほどまで浮かべていた笑顔が消えている。


「お嬢様?」


「私は、あなたが平民だからと軽んじたことは一度もないわ」


「存じております」


「お父様も、グレイヴも、屋敷の皆も同じでしょう?」


「はい」


「なら、あなた自身が自分を低く見るのはやめて」


 足を止めたお嬢様が、まっすぐ俺を見た。


 その瞳には、冗談も気まぐれもない。


「あなたは、誰よりも努力してきたわ。剣も、魔術も、学問も、礼儀作法も。私が知っている中で、あなたほど自分に厳しい人はいないもの」


「買いかぶりでございます」


「買いかぶりではありません」


 お嬢様はきっぱりと言い切った。


「少なくとも、私はそう思っているわ」


 夕日が窓から差し込み、お嬢様の髪を淡く照らす。


 その姿を見ていると、なぜか胸の奥が少し熱くなった。


 俺は、お嬢様のこういうところを心から尊敬している。


 身分に関係なく人を見るところ。


 誰かの努力を笑わないところ。


 それが自分に向けられると、どう返してよいのか分からなくなるが。


「ありがとうございます」


 俺が頭を下げると、お嬢様は少し不満そうに唇を尖らせた。


「そういうところなのよね」


「何がでしょうか?」


「何でもないわ。行きましょう」


 再び歩き始めたお嬢様の耳が、僅かに赤くなっていた。


 体調が悪いのだろうか。


 あとでマリアに確認しておこう。


 お嬢様の部屋へ到着すると、俺は扉を開けて中へ入るよう促した。


「どうぞ、お嬢様」


「クルセスも入って」


「失礼いたします」


 お嬢様の部屋は、淡い青と白を基調に整えられている。


 窓辺には小さな花が飾られ、壁際には本棚と机が置かれていた。どれも公爵令嬢の部屋に相応しい上品な品々だが、一つだけ大きく雰囲気を壊しているものがある。


 寝台の上に置かれた、特大の熊のぬいぐるみだ。


 俺が幼い頃、町の露店で見つけ、お嬢様の誕生日に贈ったものである。


 当時の俺には、質の良い品を買う金などなかった。何日も小遣いを貯め、露店の店主に値引きを頼み込み、ようやく手に入れた。


 今では少し古くなり、片方の耳にはマリアが直した跡がある。


 それでも、お嬢様はずっと大切にしてくれていた。


 お嬢様は寝台へ腰を下ろすと、その熊を抱き締めた。


 公爵令嬢としての姿から、一人の少女へ戻る瞬間だ。


「そこへ座って」


 勧められた椅子へ腰を下ろす。


 お嬢様は熊の頭へ顎を乗せ、じっと俺を見ていた。


「お父様から、どこまで聞いたの?」


「お嬢様と結婚してほしいと」


「それだけ?」


「来月には婚約式を行うので準備を進めるよう、グレイヴ様へ命じておられました」


「ほかには?」


「お嬢様を泣かせたら斬る、ほかの女性へ目移りしても斬る、誕生日を忘れた場合は領地中を引き回すと」


「お父様……」


 お嬢様は片手で顔を覆った。


 どうやら旦那様の発言は、お嬢様にとっても恥ずかしいものだったらしい。


「その……お嬢様は、この婚約を御存じだったのですね」


「ええ」


「そして、反対はされなかったのですか?」


 お嬢様の肩が僅かに揺れた。


「反対?」


「俺のような者との婚約です」


「あなたのような者とは、どういう意味?」


「ですから、元はスラム出身の平民で、現在も執事見習いにすぎない俺では、公爵令嬢であるお嬢様には釣り合いません」


「またそれ?」


 お嬢様は熊を抱く腕へ力を込めた。


「俺には、なぜ旦那様がこのような決断をされたのか分かりません。何か政治的な理由があるのでしょうか」


「違うわ」


「では、ほかの求婚者を避けるためでしょうか」


 お嬢様は黙った。


 完全な否定ではないらしい。


「第一王子殿下をはじめ、お嬢様へ求婚されている方々は、いずれも高い身分と能力をお持ちです。ですが、その中から一人を選べば、ほかの家との関係が悪化する可能性がある。そこで、どの勢力にも属さない俺を仮の婚約者にして時間を稼ぐ、と」


「仮ではないわ」


 お嬢様の声が、部屋の中へはっきりと響いた。


 俺は言葉を止めた。


「お嬢様?」


「仮の婚約者ではありません」


 熊の陰から覗くお嬢様の頬が、少しずつ赤くなっていく。


「お父様も、本当にあなたと私を婚約させるつもりよ」


「なおさら理由が分かりません」


「それは……」


 お嬢様は口を開きかけ、すぐに閉じた。


 熊を抱く腕がさらに強くなる。


 視線が泳ぎ、俺から窓へ、窓から床へ、床からまた俺へと動いていた。


 何か言いづらい事情があるようだ。


「お嬢様?」


「……」


「もしかして、旦那様に無理やり命じられたのでしょうか」


「違います!」


 お嬢様が勢いよく顔を上げた。


「私が望んだの!」


 その声の大きさに、俺は思わず背筋を伸ばした。


 お嬢様自身も口にしてから驚いたらしい。顔を真っ赤にし、逃げるように熊へ顔を埋めてしまう。


「お嬢様が?」


「……ええ」


「なぜですか?」


「それは……」


 再び沈黙が落ちた。


 部屋の外から、使用人たちの足音が微かに聞こえる。窓辺のカーテンが風に揺れ、花瓶の花が小さく傾いた。


 俺は、お嬢様の言葉を待った。


 だが、いつまで経っても続きが出てこない。


 熊の向こうから見える耳まで、真っ赤になっている。


「体調が優れないのでしょうか?」


「違うわ!」


「では、熱があるのでは」


「ありません!」


「ですが、お顔が赤く」


「クルセスのせいよ!」


「俺が何かいたしましたか!?」


 全く覚えがない。


 俺が慌てて立ち上がりかけた、そのときだった。


 扉を控えめに叩く音が響いた。


「お嬢様、入ってもよろしいでしょうか?」


 聞き慣れた女性の声である。


 お嬢様は熊から顔を上げ、乱れてもいない髪を慌てて手で整えた。


「え、ええ。大丈夫よ」


「失礼いたします」


 入ってきたのは、お嬢様の専属メイドであるマリアだった。


 赤茶色の髪を後ろでまとめた、落ち着いた雰囲気の女性である。年齢はお嬢様より三つ上で、幼い頃から身の回りの世話をしてきたため、お嬢様にとって姉のような存在でもある。


 マリアは部屋へ入ると、まずお嬢様を見た。


 次に俺を見た。


 最後に、お嬢様が抱き締めている熊を見た。


 それだけで何かを理解したらしく、僅かに眉を下げた。


「お話の途中で申し訳ございません」


「何かあったの?」


「先ほど先触れが参りました」


 マリアの表情が少しだけ曇った。


「第一王子アルフォルド殿下が、間もなく御到着されるとのことです」


「……」


 お嬢様の顔から、先ほどまでの赤みが一瞬で消えた。


 代わりに、心の底から面倒そうな表情が浮かぶ。


 公爵令嬢が人前では絶対に見せない顔だ。


「今日、来る予定だったかしら?」


「予定にはございません」


「断れない?」


「すでに王城を出られた後とのことです」


「途中で馬車が壊れたりしないかしら」


「お嬢様」


「冗談よ」


 絶対に半分は本気だった。


 お嬢様は大きく息を吐くと、熊を寝台へ戻して立ち上がった。


「分かったわ。マリア、着替えを手伝って」


「かしこまりました」


「クルセスは、お茶の準備をお願い」


「かしこまりました」


 俺は一礼し、部屋を出ようと扉へ向かった。


 だが、背後から呼び止められる。


「クルセス」


「はい、お嬢様」


 振り返ると、お嬢様は何かを言いたそうに俺を見ていた。


 先ほどの問いの答えをくれるのかと思ったが、結局その口から出たのは別の言葉だった。


「あとで、話の続きをするわ」


「承知いたしました」


「絶対よ」


「はい」


 俺が返事をすると、お嬢様はようやく小さく頷いた。


 部屋を出て扉を閉める。


 廊下には、先ほどよりも濃くなった夕闇が広がっていた。燭台の火が揺れ、窓には自分の困惑した顔が映っている。


 旦那様からは、お嬢様と結婚しろと言われた。


 お嬢様自身も、それを望んだという。


 そして今、そのお嬢様へ求婚している第一王子殿下が屋敷へ来ようとしている。


「……本当に、どうなるんだ?」


 俺は小さく呟いた。


 答えは出ない。


 ただ一つだけ、確信していることがある。


 このままでは、俺の平穏な執事見習い生活は終わる。


 もしかすると、平穏どころか命そのものが終わるかもしれない。


 そんな不吉な予感を抱きながら、俺は殿下を迎えるための茶を用意すべく、厨房へ向かって歩き始めた。

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