第49話 勝負の二日前なのに、婚約者と普通に過ごす時間の方が気になっています
朝、目を覚まして最初に確認したのは身体の状態だった。
頭痛はない。
腕や脚にも重さはなく、昨日は剣を振っていないから筋肉にも気になる張りはない。ベッドから起きて何度か肩を回してみても、普段と変わらなかった。
アルフォルド殿下との剣術交流まで、あと二日。
(今日は振ろうかな)
昨日は休んだ。
今日は身体も動かしたい。
それなら、振ればいい。
ただ、殿下との勝負が近いから長くする必要はない。むしろ二日前に疲労を残す方がおかしい。
準備と片づけまで含めて二十分。
基本動作と足運び。
最後に数回だけ、相手がいることを想定した踏み込み。
そこまで決めて、俺は訓練着へ着替えた。
◇
朝の訓練場には薄い霧が残っていた。
空は晴れ始めているが、夜の冷気がまだ地面付近へ残っている。石畳の端には小さな水滴がつき、庭の木々から時折雫が落ちていた。
模擬剣を手に取る。
最初はゆっくり。
構え。
踏み込み。
戻る。
左右への移動。
前に読んだ訓練理論の内容を思い出し、速くすることより、同じ動きを再現することへ意識を向ける。
一歩目。
二歩目。
最後の踏み込み。
以前は最後だけ少し速くなっていた。
今日は最初からかなり揃っている。
(これならいいな)
数回続ける。
今度は相手を想定する。
正面から剣が来る。
半歩ずらす。
受ける。
返す。
もちろん実際の相手はいないので、動作だけだ。
アルフォルド殿下ならどう来るか。
考えそうになって、やめる。
殿下が以前と同じ動きをする保証はない。
だったら今は、自分の動きを整える。
それで十分だ。
「今日は振ってるね」
聞き慣れた声がした。
俺は動きを止めて振り返る。
リビアが訓練場の入口に立っていた。
「おはよう」
「おはよう、セス」
「今日も散歩?」
「うん。最近、朝ここに来るとセスがいる日といない日があるから、ちょっと気になって」
「探しに来た?」
「……少しだけ」
その答えに、胸の奥が温かくなる。
「そっか」
「嬉しそう」
「嬉しいよ」
リビアが少し目を見開く。
「探しに来てくれたんだろ?」
「うん」
「なら嬉しい」
「……最近、本当に隠さないね」
「隠す必要ある?」
「ないけど」
彼女の頬が少し赤くなる。
俺は模擬剣を下ろしたまま、リビアを見る。
朝の霧の向こうから差し始めた光が、銀青色の髪へ薄く当たっている。
(綺麗だな)
また思った。
今度は口へ出さない。
「今、何か思った?」
「何で分かるの?」
「顔」
「そんなに?」
「うん」
「……綺麗だなって」
「言うんだ……」
「聞いたから」
「聞いたけど」
リビアが片手で頬を押さえる。
「心の準備は?」
「聞いた方が悪いと思う」
「それはそうかも……」
二人で少し笑った。
「あとどのくらい?」
「五分くらい」
「じゃあ見てる」
「うん」
俺は再び構えた。
見られている。
でも緊張はしない。
むしろ少し嬉しい。
だからといって、速くしたり難しい動きを入れたりはしない。
今日やると決めたことだけ。
最後の踏み込みを終え、時計を見る。
「終わり」
「まだ少し出来るんじゃない?」
「二十分って決めたから」
「そっか」
リビアが笑う。
「何?」
「普通になったね」
「何が?」
「自分で終わるの」
「前から終わってたよ」
「前は『あと少しだけ』が多かった」
「……そうだったかも」
模擬剣を片づける。
今日はこれで終わり。
アルフォルド殿下との勝負が近いからといって、追加はしない。
「朝食行こう」
「うん」
俺たちは並んで訓練場を出た。
◇
朝食の席では、旦那様から剣術交流について一度だけ確認された。
「セス、明後日だったな」
「はい」
「アルフォルド殿下との剣術交流」
「そうです」
「緊張しているか?」
少し考える。
「楽しみの方が強いです」
「勝ちたいか?」
「勝ちたいです」
「そうか」
旦那様はそれだけ言って紅茶へ口をつけた。
「何か注意とかないんですか?」
「学園の教師が立ち会うのだろう?」
「はい」
「なら学園の規則に従え」
「それだけ?」
「それだけだ」
隣でリビアが笑う。
「セス、みんなに何か言われないと落ち着かないの?」
「そういうわけじゃないけど」
グレイヴが少し離れた場所から口を開く。
「以前は言わなければ止まらなかったからな」
「父さんまで」
「今は自分で止まる。なら言うことは減る」
「……そっか」
それでいい。
いつまでも同じ注意をされ続ける必要はない。
俺が変わったなら、周りの接し方も変わる。
「セス」
「何?」
「明日は剣振る?」
リビアに聞かれる。
「分からない」
「前日だよ?」
「朝起きてから決める」
「うん」
それ以上聞かれなかった。
◇
学園へ向かう馬車では、珍しくリビアが先に俺の肩へ寄った。
完全に預けるほどではなく、腕同士が触れる程度。
俺も離れない。
「今日は放課後どうする?」
「何も決めてない」
「私は委員会」
「そっか」
「一時間くらいだと思う」
「じゃあ俺は……」
図書館。
剣術。
魔術。
いくつか候補が浮かぶ。
でも、どれも絶対にやりたいわけではない。
「先に帰ろうかな」
「待たないの?」
「リビアが一時間委員会なら、待つ理由ないし」
「うん」
「帰ったら会えるし」
リビアが少し笑う。
「寂しくない?」
「少しは」
素直に答える。
「でも、昨日も別々に夜過ごしたし」
「うん」
「毎回一緒じゃなくても大丈夫」
「私も」
「委員会頑張って」
「うん」
別々の時間を過ごすことは、離れることではない。
前より自然にそう思える。
◇
一限目は魔術基礎だった。
今日も先日の出力調整の続きを行うらしい。
第二魔術訓練場へ移動すると、前回と同じ測定具が並んでいた。
エレナ先生が全員を集める。
「今日は前回と同じ一、二、一に加えて、最後に教師が指定した時点で即時停止してもらいます」
前回は五秒ずつ維持してから停止だった。
今日は途中で止められるらしい。
「実技確認では、予定した手順を最後までやり切ることだけが評価ではありません。指示された時に止められることも重要です」
俺は頷く。
「特にクルセス」
「はい」
「返事だけは一番良いですね」
周囲から笑いが起きる。
「ちゃんと止まりますよ」
「それを確認する授業です」
「はい」
今日は俺の順番が比較的早かった。
区画へ入る。
属性は前回と同じ雷。
掌を前へ。
魔力を形成する。
一。
前回より早く範囲へ入った。
「維持」
目盛りがほとんど揺れない。
「二」
上げる。
ここは元々安定している。
「一」
下げる。
前回は少し下げすぎた。
今日は、一そのものの感覚を思い出す。
目盛りが範囲内へ入る。
「停止」
予定より早い。
反射的に次の維持へ入ろうとした意識を切り、魔力を消す。
光が消えた。
「良いですね」
エレナ先生が記録板へ書く。
「前回より一への到達も安定しています。停止指示への反応も問題なし」
「ありがとうございます」
「ただ、停止を言われた瞬間、ほんの僅かに維持へ入ろうとしましたね」
「分かりました?」
「見ていますから」
「はい」
「身体へ手順が入り始めると、予定通り続けたくなることがあります。だからこそ、外部指示で止まれることが必要です」
「分かりました」
区画を出る。
リビアが次の方に並んでいる。
「どうだった?」
「前より良かった。でも止められた瞬間、一回続けそうになった」
「セスらしい」
「リビアもやるかもしれないだろ」
「気をつける」
数人後、リビアの番になる。
無属性。
一。
二。
また一。
エレナ先生が突然「停止」と言う。
リビアの結界になる前の純粋な魔力がすぐ消えた。
「反応は良好。ただし、二から一への下降がまだ少し深いですね」
「はい」
彼女も完璧ではない。
それでも前回より滑らかだった。
戻ってきたリビアへ小声で言う。
「停止、速かった」
「ありがとう。セスも一、前より綺麗だったよ」
「見てた?」
「もちろん」
それだけで嬉しい。
◇
全員の実習が終わった後、エレナ先生がまとめに入る。
「前回より改善した生徒が多いですね。ただし、ここから必要以上に自主練習を増やす必要はありません」
何人かの視線が俺へ向く。
「何でみんな俺見るの?」
小声で言う。
イザークが隣で笑う。
「代表だから」
「何の?」
「自主練しそうな人」
「今日はもうやらないよ」
「剣は?」
「朝やった」
「魔術は?」
「今やった」
「じゃあ本当に何もしない?」
「授業は受けるよ」
「そういう意味じゃねえよ」
エレナ先生がこちらを見る。
「会話は終わりましたか?」
「はい」
俺とイザークの返事が重なった。
◇
昼休み。
アルフォルド殿下がいつもの席へ来た。
剣術交流まで二日。
それでも、話題は最初から剣ではなかった。
「昨日の数学、最後の条件を使わなかっただろう?」
カイゼル殿下が言う。
「ああ」
「僕、最後まで使う場所を探したんですけど」
「余剰条件だったな」
「先生、性格悪いですよね」
「また聞かれるぞ」
「今日は先生いません」
カイゼル殿下が周囲を確認する。
ミリアナが笑った。
「殿下、昨日怒られてたのに」
「怒られたわけではありません。教育的指導です」
「同じじゃないですか?」
「違います」
そんな会話を聞きながら食事をする。
途中でアルフォルド殿下と目が合った。
「クルセス」
「はい」
「今朝は剣を振ったか?」
「二十分だけ」
「そうか」
「殿下は?」
「三十分。普段通りだ」
「明日は?」
「朝の状態次第だな」
思わず少し笑った。
「何だ?」
「俺も同じです」
「そうか」
「前日だから休むって決めてるわけでもないし、絶対振るとも決めてません」
「俺もだ」
カイゼル殿下がこちらを見る。
「二人とも、意外と普通ですね」
「何を期待してたんですか?」
「決戦前夜みたいな雰囲気」
「ただの剣術交流ですよ」
「勝負ではあるがな」
アルフォルド殿下が静かに付け足す。
「勝つつもりですか?」
俺が聞く。
「当然だ」
「俺もです」
目が合う。
少しだけ空気が変わる。
嫌な緊張ではない。
楽しみだ。
「おお」
イザークが嬉しそうに声を上げる。
「今のちょっといいな」
「何が?」
「ライバルっぽい」
「友達でもあるだろ」
俺が言うと、アルフォルド殿下が一瞬だけ目を見開いた。
「……殿下?」
「いや」
「違いました?」
「違わない」
アルフォルド殿下の表情が少し緩む。
「友人であり、剣では競う相手だ」
「はい」
「なら二日後は遠慮しない」
「俺もです」
「迅雷撃破はなしでね」
リビアが横から入る。
「分かってるよ」
「セス、今ちょっと格好つけてたから確認」
「格好つけてない」
「ちょっとつけてた」
ミリアナまで笑う。
せっかくいい雰囲気だったのに。
◇
午後は領地運営の基礎授業があった。
担当はハロルド先生。
共同学習以来なので、俺は少しだけ姿勢を正した。
「今日は共同学習ではありません」
先生が教室へ入って最初にそう言った。
何人かが俺とサザリーを見る。
「なぜこちらを見るんです?」
サザリーが静かに言う。
「だって二人がやってたから」
ミリアナが答える。
ハロルド先生は黒板へ今日の題目を書く。
備蓄管理。
「領地運営で重要なのは、何かが起きた時に正しい答えを突然思いつくことではありません。起きる前に、どこまで準備しておくかです」
俺はノートを開く。
「ただし、すべての危険へ最大限備えることは出来ません。金も人も場所も有限です」
前にサザリーとやった課題を思い出す。
橋。
農業。
鉱山道。
全部を最大には出来なかった。
「今日は穀物備蓄を例にします。収穫量、人口、保存損失、輸送日数。これらから必要量を考えます」
数字が並ぶ。
俺は問題を解く。
以前なら、最悪の場合を先に考えて最大備蓄を選びたくなったかもしれない。
でも保存にも費用がかかる。
余りすぎれば廃棄も出る。
必要量を見積もる。
余裕も持たせる。
ただし無限には増やさない。
「クルセス」
「はい」
「あなたの回答は?」
「基準備蓄を人口三十日分。そこに輸送遅延七日分を追加します。収穫不良の最大想定まで全部備蓄すると保存施設の拡張費が大きすぎるので、そこは周辺領との融通協定を別に用意します」
「理由は?」
「一つの倉庫だけで全部の危険を受けようとしないためです」
先生が少しだけ頷く。
「以前より分けて考えていますね」
「はい」
「ただし、周辺領も同時に不作となる可能性は?」
「あります」
「なら?」
「融通協定だけを第二手段にせず、保存性の高い別穀物も少量持つ……ですか?」
「候補にはなります。正解を一つに固定する必要はありません」
「はい」
ノートへ追加する。
全部を一つで解決しない。
これも最近よく考えるようになった。
でも、これを人間関係へ繋げるのはやめておく。
先生に言われる前に。
◇
授業後、サザリーが俺の席へ来た。
「今、最後に何か考えて止めただろう」
「何で分かるの?」
「顔だ」
「最近みんな顔で分かるって言うんだけど」
「分かりやすくなったのでは?」
「前より?」
「おそらく」
「何考えてたか聞く?」
「人間関係へ繋げそうになってやめたのだろう」
「……正解」
サザリーが小さく息を吐く。
「成長したな」
「それ今日も言われた」
「では言わない方がよかったか?」
「いや、褒められるのは嫌じゃない」
「そうか」
サザリーは少しだけ笑った。
「次の共同学習について、ハロルド先生へ相談はした」
「本当?」
「ああ。ただしまだ日程も内容も決まっていない」
「俺が課題作るのは?」
「候補として伝えた」
「先生何て?」
「面白いとは言っていた」
「じゃあ考えていい?」
「決まってからにしろ」
「少しくらい」
「クルセス」
「……決まってからにする」
「それがいい」
やっぱり扱いが上手くなっている気がする。
◇
放課後。
リビアは予定通り委員会へ向かった。
「じゃあ行ってくるね」
「うん」
「先帰る?」
「帰る」
「分かった。また屋敷で」
「また後で」
それだけ。
俺は一人で昇降口へ向かう。
途中、第二剣術訓練場の近くを通った。
二日後にアルフォルド殿下と剣を交える場所。
少しだけ足が止まる。
(見ていく?)
訓練場の状態を確認する。
床を見る。
広さを測る。
そういうことも出来る。
でも、今日は必要ない。
本番前に先生から説明がある。
俺はそのまま通り過ぎた。
「クルセス?」
後ろから声がした。
振り返るとイザークだった。
「何してる?」
「帰るところ」
「訓練場見てた?」
「一瞬だけ」
「入らないの?」
「入らない」
「本当に?」
「朝やったから」
「じゃあ一緒に門まで行こうぜ」
「うん」
並んで歩く。
「緊張してる?」
イザークが聞いた。
「少しは」
「勝てると思う?」
「分からない」
「お前でも?」
「やってないから分からないよ」
「前なら?」
「前?」
「相手の強さとか、自分の出来ることとか、全部考えて勝率みたいなの出してそう」
「そこまではしないよ」
「似たことはするだろ」
否定しきれない。
「今は、当日見ればいいかなって」
「余裕だな」
「余裕っていうか、今考えても殿下が当日どう動くか分からないし」
「そりゃそうだ」
「勝ちたいけどね」
「それでいいんじゃね?」
「うん」
門の前で別れる。
「じゃあ明日な」
「また明日」
イザークが別方向へ歩いていく。
俺は迎えの馬車へ乗った。
◇
一人で乗る馬車は少し広く感じる。
いつも隣にリビアがいるからだ。
向かい側へ座る。
窓の外を見る。
(ちょっと寂しいな)
でも嫌ではない。
リビアは委員会。
俺は先に帰る。
あとで屋敷で会う。
それだけだ。
むしろ帰ったら何を話そうかと考える。
今日の魔術実習。
ハロルド先生の授業。
サザリーの共同学習候補。
たぶんリビアからは委員会の話を聞ける。
(聞きたいな)
彼女が何をしていたのか。
それを知りたい。
管理するためではない。
ただ聞きたい。
馬車が屋敷へ着く。
俺は先に自室へ戻った。
◇
帰宅後は何も訓練しなかった。
借りた本を二十分ほど読む。
その後、執事見習いとして必要な確認を少しだけ行い、夕食までの時間を普通に過ごす。
夕方。
廊下から馬車が到着した音が聞こえた。
俺は読んでいた本から顔を上げた。
(リビア帰ってきた)
気づいた瞬間、立ち上がりかける。
そこで一度止まった。
迎えに行く必要はない。
体調が悪いと聞いているわけでもない。
委員会が終わって普通に帰ってきただけだ。
(でも、会いたい)
だったら行ってもいいのではないか。
義務ではない。
必要でもない。
俺が会いたい。
それなら。
部屋を出る。
玄関ホールへ向かう途中で、ちょうど階段下にリビアが見えた。
鞄をメイドへ預けたところらしい。
「リビア」
呼ぶ。
彼女が振り返る。
「セス?」
少し驚いた後、笑った。
「おかえり」
「ただいま」
それだけなのに嬉しい。
「迎えに来てくれたの?」
「馬車の音聞こえたから」
「うん」
「会いたくなった」
リビアの動きが止まる。
「……また普通に言う」
「駄目だった?」
「駄目じゃない」
「ならいいじゃん」
「私の心臓にはあんまりよくない」
「体調悪い?」
「そういう意味じゃない!」
少し大きな声になり、近くにいた使用人が笑いを堪えている。
リビアがそれに気づき、さらに顔を赤くした。
「セスのせいだからね」
「何が?」
「もういい」
でも怒ってはいない。
「委員会どうだった?」
「雨の日の移動経路、先生の確認が終わったよ」
「どうなった?」
「 covered corridor――」
リビアが言いかけて、首を傾げる。
「屋根付き通路の方は、一部だけ一方通行にする案になりそう。まだ確定じゃないけど」
「混雑するところ?」
「うん。あと、実技確認当日に雨だった場合の待機教室を一つ増やせるか確認するって」
「そっか」
「セスは?」
「ハロルド先生の授業あった。あとサザリーが、次の共同学習の候補を先生に話してくれた」
「セスが課題作るやつ?」
「まだ候補」
「もう考えてる?」
「考えようとしたら止められた」
「サザリーに?」
「うん」
リビアが笑う。
「正しいと思う」
「リビアまで」
「決まってからでいいでしょう?」
「そうだけど」
「今日は何したの?」
「本読んでた」
「剣は?」
「朝だけ」
「魔術は?」
「授業だけ」
「じゃあ普通だね」
「普通」
その言葉が少し嬉しかった。
◇
夕食後。
今日はリビアから俺の部屋へ来た。
手には旅騎士の小説がある。
「読む?」
「読む」
いつものようにソファへ並ぶ。
今日は肩が触れる前に、リビアが少しだけこちらへ寄った。
俺も自然に寄る。
本を開く。
物語の騎士たちは次の町へ向かっていた。
大きな事件はない。
街道を歩き、途中で昼食を取り、旅商人と話し、日が暮れる前に宿へ入る。
「今日は平和だね」
リビアが言う。
「ずっと事件だと疲れるしね」
「セスが言うと説得力ある」
「何で?」
「最近いろいろあったから」
「ああ……」
ライゼルとのこと。
研究。
実技確認。
いろいろある。
「こういう回も好き」
「私も」
何も大きなことが起きない。
でも、騎士たちは楽しそうだ。
旅商人から土地の話を聞いたり、知らない料理を食べたりしている。
「俺たちも、どっか行けたらいいね」
自然に口から出た。
「どこか?」
「うん。学園とか仕事とか落ち着いた時に」
「二人で?」
「二人でもいいし……」
そこまで言って、考える。
旦那様やグレイヴと一緒でも楽しいだろう。
友達と行くのもいい。
でも今、最初に浮かんだのはリビアと二人だった。
「二人がいいかも」
言い直す。
リビアがページから顔を上げる。
「どこ行きたい?」
「まだ分からない。海とか?」
「セス、海見たことある?」
「ない」
「私も遠くから少しだけ」
「じゃあ見に行きたい」
「うん」
「リビアと」
「……うん」
彼女が笑う。
少しだけ目が潤んでいるように見えた。
「泣く?」
「泣かない」
「本当?」
「嬉しいだけ」
「そっか」
俺は少し迷ってから、手をソファの上へ置いた。
リビアの手の近く。
「手、繋ぐ?」
聞く。
「うん」
彼女の指が重なる。
握る。
温かい。
昨日は一緒に本を読まなかった。
今日は繋ぎたいと思った。
それでいい。
片手で本を支えながら続きを読む。
少し読みにくい。
でも今日は、このままがいい。
◇
本を読み終える前に、今日は栞を挟んだ。
「続きは明日?」
「明日はどうしよう」
「前日だよ?」
「剣術交流の?」
「うん」
「普通に読んでもいいんじゃない?」
「セスがいいなら」
「読みたくなったら読む」
「うん」
予定を決めすぎない。
明日のことは明日決める。
手はまだ繋いだままだ。
「リビア」
「何?」
「さっきの旅行」
「海?」
「うん」
「行きたい?」
「行きたい」
「本当に?」
「うん」
「いつか?」
「いつか」
すぐには無理だろう。
学園もある。
旦那様やグレイヴの予定もある。
俺たちはまだ十五歳だ。
でも、未来の話をすること自体は出来る。
「俺、前はこういうの考えてなかった」
「旅行?」
「リビアと先のこと」
婚約は決まっていた。
でも俺はずっと、自分でいいのかと考えていた。
婚約者になること自体が無理だと思っていた。
だから、その先を自分から想像することは少なかった。
「今は?」
「考える」
「どんなこと?」
聞かれて、少し恥ずかしくなる。
「……一緒にいること」
「うん」
「学園卒業した後とか」
「うん」
「その後も」
リビアの指が少し強く俺の手を握った。
「それ、嫌じゃない?」
「嫌なわけないでしょう」
「そっか」
「むしろ、ずっと聞きたかった」
「何を?」
「セスが、自分から私との先を考えてくれるの」
声が少し震えている。
俺はリビアを見る。
嬉しそうだ。
でも、少し泣きそうでもある。
「今までは?」
「婚約してくれた。でも、セスはずっと『俺でいいのかな』って考えてたでしょう?」
「うん」
「だから私が未来の話をしすぎたら、セスを追い込む気がしてた」
「……そっか」
知らなかった。
リビアはずっと待っていた。
俺が自分で選ぶまで。
「ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「今、考えてくれてるでしょう?」
「うん」
「なら嬉しい」
リビアが笑う。
俺は繋いだ手を見る。
その指を少し握り直す。
「俺、リビアと一緒にいたい」
「うん」
「今だけじゃなくて」
言葉にすると、胸の奥が熱くなる。
怖くはない。
むしろ、言いたい。
「先も」
「……うん」
「それは分かった」
リビアの目から、一滴だけ涙が落ちた。
「泣いた」
「セスのせい」
「ごめん」
「だから謝らないで」
笑いながら涙を拭く。
俺も少し笑った。
好き。
その言葉はまだ出ない。
でも、今言ったことは嘘ではない。
今だけではなく、先も一緒にいたい。
それが何を意味するのか。
もう、本当はかなり分かっている気がした。
◇
リビアを部屋まで送った後、自室へ戻る。
明後日はアルフォルド殿下との剣術交流。
明日は前日。
普通なら、そのことを一番考えていてもおかしくない。
でも今夜、頭に残っているのは剣ではなかった。
海。
旅行。
卒業した後。
その先。
リビアと一緒にいる未来。
(俺、普通に考えてたな)
無理だとは思わなかった。
公爵令嬢と元平民だから。
主人と執事だから。
そんな理由で、自分から打ち消さなかった。
行けたらいい。
一緒にいたい。
そう思った。
机の上には、アルフォルド殿下との剣術交流の正式通知が置いてある。
二日後。
俺はそれを確認して、引き出しへ戻した。
もう条件は覚えている。
何度も見る必要はない。
ベッドへ腰を下ろす。
(好き、か)
またその言葉を考える。
今日は以前より近い。
リビアと今だけではなく、先も一緒にいたい。
もしそれを失う未来を考えれば、嫌だと思う。
彼女が別の誰かの隣へ行くことを想像すると、胸の奥が落ち着かない。
俺がその隣にいたい。
(……たぶん、もう答えは分かってる)
初めて、そこまで考えた。
心臓が強く鳴る。
でも口には出さない。
今夜、一人で勢いだけで決めたくはなかった。
リビアへ言うなら、自分で納得してから言いたい。
分からないふりは、もうしない。
答えがないふりもしない。
たぶんある。
もう見えている。
あとは、それを自分の言葉として受け取れるかどうか。
俺は灯りを落とした。
剣術交流の二日前なのに、最後に思い浮かんだのはアルフォルド殿下の剣ではなかった。
俺の手を握って、未来の話を聞きながら泣いたリビアの顔だった。




