第48話 古い資料の言葉が少し繋がっても、分かったことより分からないことの方が増えました
翌朝、目を覚ました俺は、枕元の時計を確認してから天井を見上げた。
昨夜は寝る直前まで考え込んでいたわけではない。リビアへの気持ちについて、急がないけれど逃げもしないと決めたところで考えるのを止め、そのまま眠った。
だから睡眠時間も足りているし、頭痛もない。
身体にも妙な重さはなかった。
(今日は剣、いいかな)
昨日の朝に二十五分振っている。
アルフォルド殿下との剣術交流までは三日だが、昨日の授業で聞いたように、何でも直前に詰め込めばいいわけではない。むしろ今の状態なら、今日は普通に過ごした方がいい気がした。
身体を起こし、窓辺まで歩く。
朝の空は薄い雲に覆われていた。
雨が降るほどではなさそうだが、昨日より光が弱く、庭に落ちる影も淡い。
窓を少し開けると、冷たい空気が部屋へ流れ込んだ。
「……よし」
今日は朝の訓練なし。
代わりに何か勉強する必要もない。
身支度を整えて、いつもより少し早く部屋を出た。
◇
朝食室へ向かう途中、階段の手前でリビアと会った。
「おはよう、セス」
「おはよう」
今日は俺が先に見つけた。
淡い青色の普段着に、銀青色の髪をいつものように整えている。昨日の朝みたいに寝過ごした様子もない。
ただ、それを見た瞬間。
(可愛いな)
自然にそう思った。
昨日なら、そのまま口へ出していたかもしれない。
今日は一度止まった。
リビアが俺の顔を見る。
「何?」
「いや」
「また?」
「今日は言ってないだろ」
「顔が昨日と同じだった」
「俺、そんなに分かりやすい?」
「最近はちょっと」
困る。
でも、隠したいわけでもない。
「可愛いなって思った」
結局言った。
「……心の準備」
「出来た?」
「出来てない」
「昨日、させてって言ってたから一回待ったんだけど」
「そういう問題じゃないの!」
リビアの声が少し上ずる。
俺は笑ってしまった。
「でも、昨日よりは待ったよ」
「待てばいいわけじゃないから」
「難しいな」
「セスが難しくしてるの」
そう言いながらも、リビアは嫌そうではなかった。
頬を赤くしたまま、俺の隣へ並ぶ。
「今日は剣やった?」
「やってない」
「三日前なのに?」
「昨日やったし」
「うん」
「今日は普通でいいかなって」
リビアが少しだけ目を見開いた。
でも、すぐに柔らかく笑う。
「そっか」
「何?」
「何でもない」
「今の俺と同じじゃん」
「本当に何でもないもの」
「絶対何かある」
「嬉しかっただけ」
「何が?」
「セスが、自分で今日はやらないって決めたこと」
俺は一瞬返事に迷った。
「……それ、そんなにすごい?」
「前よりは」
「前の俺、どれだけだったんだろ」
「今の方がいいから大丈夫」
階段を下りながら、リビアがそう言った。
俺は彼女の横顔を見る。
また綺麗だと思った。
今度は言わなかった。
毎回口にしたら、たぶん朝食まで辿り着けなくなる。
◇
馬車へ乗り込むと、俺はいつものようにリビアの隣へ座った。
もう、そのことで理由を考えることも少なくなっている。
向かい側が空いていても、隣へ座りたい。
それだけだ。
「今日、ベルナルト先生のところ行くんだよね?」
「うん。昼休みの後半」
昨日、先生から短い連絡が届いていた。
灰透晶という古い名称について、比較出来そうな資料がいくつか見つかったらしい。
ただし、研究を進めるための実験ではない。
あくまで文献上の確認。
俺とリビアが見ても問題ない部分だけを先生が先に選び、今日の昼休み後半に見せてもらえることになっている。
「リビアも来る?」
「行く。私の方でも見たい言葉があるし」
「『減りに応じて戻す』?」
「うん。昨日エレナ先生に聞いたら、魔術的な意味まではベルナルト先生と確認した方がいいって」
「そっか」
古い測定器。
古い結界。
同じ古代魔術の資料ではある。
でも、同じ技術だったとは限らない。
似ている言葉が出てきても、すぐ繋げない。
それはもう何度も確認している。
「今日は何分?」
リビアが聞いた。
「先生が三十分までって」
「短いね」
「昼休みだからね」
「延長は?」
「しない」
「即答出来るようになった」
「俺だって成長するよ」
「知ってる」
リビアが笑う。
その笑顔を見ていると、昨日の夜に考えたことがまた頭へ浮かんだ。
俺は、彼女を好きなのかもしれない。
いや。
たぶん、もう「かもしれない」より先まで来ている。
それでも、今ここで答えを出す必要はない。
(逃げない。でも急がない)
そのくらいでいい。
◇
午前中は通常授業だった。
一限目の数学では、複数の条件から必要な数値だけを抜き出す問題が出た。
以前なら全部の条件を一度整理してから解こうとしていた気がするが、今日は先に問われている内容を確認してから必要なものだけ拾った。
結果、いつもより少し早く終わった。
隣の席では、カイゼル殿下が答案用紙を見ながら眉間へ皺を寄せている。
「クルセス」
「何です?」
「ここ、条件が一つ余っていません?」
「余ってますよ」
「やっぱり?」
「たぶん、全部使わせようとしてる問題じゃないです」
「性格が悪いですね」
前方から先生の声が飛んできた。
「聞こえていますよ、カイゼル殿下」
「褒めています」
「そういうことにしておきましょう」
教室に小さな笑いが広がる。
俺も笑いながら答案へ戻った。
こういう時間は普通だ。
誰かに襲われる心配もない。
何か重大な判断を迫られているわけでもない。
ただ授業を受けて、友達と少し話して、問題を解く。
最近、それが前より好きになっている気がする。
◇
二限目の剣術授業では、二人一組で間合いの確認を行った。
今日の相手はイザークではなく、別の男子生徒だった。
攻撃そのものは行わず、指定された構えから一歩で届く範囲を互いに確認する。剣先へ布を巻いた模擬剣を使い、相手へ当てるのではなく、届く直前で止める練習だ。
「クルセス、速くしすぎるなよ」
担当教師に言われる。
「はい」
「今日は速度を見る授業ではない」
「分かってます」
「ならいい」
相手の生徒が少し緊張している。
「普通にやるから大丈夫だよ」
「クルセス様の普通が少し怖いんですが」
「何で?」
「何ででしょうね……」
周りから笑い声が聞こえた。
俺は納得出来ないまま構える。
踏み込む。
止める。
相手の胸元より少し手前。
「もう少し短く」
教師の指示。
「はい」
今度は歩幅を狭める。
昨日の朝に一定の足運びを繰り返したおかげか、調整はしやすかった。
「そこ。覚えておけ」
「はい」
次は相手。
俺は受ける側へ回る。
剣先が届く直前で止まる。
距離を見る。
相手の身長は俺より少し高いが、踏み込みは浅い。
単純に腕の長さだけでは分からない。
授業で聞いた通りだ。
(アルフォルド殿下も、実際に向かい合わないと分からないな)
思い浮かんだのはそれだけだった。
だからといって、授業後に殿下の過去の試合記録を集めようとは思わない。
当日見ればいい。
必要なら、その場で対応する。
それも剣術だと思う。
◇
昼休み。
今日は食事を少し早めに済ませる必要がある。
「ベルナルト先生のところだっけ?」
ナナリーが聞いた。
「うん」
「例の古い道具?」
「資料だけだけどね」
「危なくない?」
「読むだけ」
「クルセス様の場合、読むだけから何か始まりそうなので……」
「ナナリーまで」
俺が抗議すると、向かいのミリアナが笑った。
「でも今日はリビア様も一緒なんでしょう?」
「うん」
「なら安心かな」
「どういう意味?」
「止める人が二人いるから」
「ベルナルト先生とリビア?」
「そう」
「俺、そんなに止められる前提なの?」
サザリーが静かにスープを飲んでから口を開いた。
「止められることを嫌がらなくなったのだから、問題ないのでは?」
「それ、褒めてる?」
「褒めている」
「じゃあ受け取っとく」
以前なら、少し引っかかったかもしれない。
でも今は、本当にそう思える。
誰かに止められることは、俺が出来ないという意味ではない。
危ない時に止めてもらえるなら、その方がいい。
「そういえば」
イザークがパンをちぎりながら言った。
「殿下との剣、あと三日だよな」
「うん」
「明日は?」
「まだ決めてない」
「振るなら付き合うぞ」
「ありがとう。朝起きてから決める」
「分かった」
それで話は終わった。
今ここで予定を全部決めなくてもいい。
体調と授業の内容を見て、明日決めればいい。
「クルセス君」
ミリアナが妙に楽しそうな顔をしている。
「何?」
「最近、リビア様の隣にいるのすごく自然になったよね」
俺は自分の座っている位置を見る。
リビアが隣。
確かにそうだ。
「前から一緒に昼食食べてただろ?」
「そうじゃなくて、距離」
「距離?」
「前はもうちょっと『婚約者だけど元主人だから』みたいな感じだった」
「そんなの分かるの?」
「分かるよ」
ナナリーも小さく頷いた。
「最近は、クルセス様の方からリビア様の近くへ行かれることが増えた気がします」
「そうかな」
「そうですね」
リビアを見る。
目が合う。
彼女は何も言わないが、少しだけ頬が赤い。
俺もたぶん似たような顔をしている。
「……近くにいたいから」
口にすると、ミリアナの手が止まった。
ナナリーも目を丸くする。
イザークはパンを持ったまま固まり、サザリーだけが静かに瞬きをした。
「何?」
「いや」
ミリアナが俺とリビアを交互に見る。
「前ならそこで絶対、何か理由つけてたなって」
「理由はあるよ」
「何?」
「一緒にいたいから」
「それを理由って言うようになったんだ……」
なぜか遠い目をされた。
「変?」
「変じゃない。むしろ」
ミリアナが途中で言葉を止め、リビアを見る。
リビアが小さく首を振った。
「何?」
「何でもない!」
「今日それ多くない?」
みんなが笑う。
俺にはよく分からなかった。
でも、否定したいとは思わなかった。
リビアの近くにいたい。
それは本当だから。
◇
昼食を終えた俺とリビアは、ベルナルト先生のいる資料室へ向かった。
以前見た教師用資料室とは別で、今日は古い文献の写本を扱う小さな閲覧室だった。
窓は細く、日光が直接資料へ当たらないよう厚い薄布がかけられている。部屋の中央には大きな机が一つあり、その上へ数冊の写本と、先生が用意した比較表が並べられていた。
「来ましたね」
ベルナルト先生が眼鏡の位置を直す。
「時間は三十分です」
「はい」
「延長はありません」
「分かってます」
「先に言っておきます。今日は何も確定しません」
「はい」
「灰透晶と薄灰晶石が同一物質だと証明されたわけではありません」
「はい」
「古い測定器が属性切り替えを測定していたと判明したわけでもありません」
「はい」
「パウリーの結界研究と直接繋がったわけでもありません」
「はい」
先生が少し黙る。
「今日は返事が早いですね」
「何回も言われてますから」
「良いことです」
リビアが隣で笑った。
「先生、それで何が見つかったんですか?」
「まずこちらです」
先生が一枚の写本を指す。
「およそ百八十年前の魔導具材料目録の写しです。例の測定器より後代の資料ですが、ここに『灰透晶』という名称があります」
俺とリビアが机へ近づく。
古い文字の横へ、現代語の注釈が付けられている。
「用途……流れを整える?」
俺が読む。
「そう訳せる可能性があります。ただし、ここでいう『流れ』が魔力そのものなのか、魔導具内部の伝達なのかは不明です」
「その下は?」
リビアが指を近づける。ただし紙には触れない。
「『急なる入りを和らげ、石の濁りを避く』?」
「その部分は比較的読みやすいですね」
ベルナルト先生が頷く。
「魔力を蓄積する主材料ではなく、急激な流入を和らげる補助材として使われていた可能性があります」
「それって薄灰晶石と似てますよね?」
「似ています」
俺は先生を見る。
「でも同じとは言えない」
「その通りです」
先回り出来た。
「名称が似ていて、用途の記述にも共通点がある。ですが、同一物質である証拠にはなりません。古い名称が後世に別材料へ転用された可能性もありますし、似た性質の別物質かもしれません」
「産地は?」
「そこが一つ目の問題です」
先生が別の紙を出す。
「この目録には産地がありません」
「ないんですか」
「ありません。別の材料には産地記載があるものもありますが、灰透晶にはない」
「じゃあ比較出来ない」
「現時点では」
俺は頷いた。
分からない。
でも、それでいい。
「もう一つあります」
先生が次の写本を開く。
「こちらは魔導具職人の作業記録です。年代は先ほどの目録よりさらに古く、例の測定器記録と比較的近い時代です」
「灰透晶が出るんですか?」
「名称は出ません」
「出ない?」
「代わりに、『薄き中継板』について記述があります」
俺は思わず身を乗り出しかけた。
先生がこちらを見る。
止まる。
「……この距離で見ます」
「よろしい」
リビアが口元を押さえて笑っている。
「何?」
「ちゃんと止まったなって」
「俺だって止まれるよ」
「知ってる」
先生が写本の一節を示す。
「ここです」
古い言葉を追う。
全部は読めない。
先生が現代語へ近い形で説明する。
「『板は厚すぎれば変わりを鈍らせ、薄すぎれば乱れを拾う』。おおむねそのような意味だと考えられます」
「厚さ……」
俺は呟いた。
以前見た図面。
術者からの魔力。
中継板。
その先の小さな魔石。
そして、板を通して「揺れを見る」という記述。
「厚さで反応が変わる?」
「可能性はあります」
先生がすぐ続ける。
「ただし、この作業記録に描かれている魔導具が、以前見せた測定器と同じ種類だとは確認出来ません」
「中継板って呼び方が同じでも?」
「『中継する板』という一般的な部品名だった可能性があります」
「そっか」
また分からない。
でも、一つ増えた。
中継板は、厚ければ変化を鈍らせ、薄ければ乱れを拾う。
(……じゃあ、ちょうどいい厚さがあった?)
そこまで考えたところで止める。
推測だ。
「先生」
「何です?」
「この記録で、その板の厚さは書いてありますか?」
「良い質問です」
先生がページをめくる。
「数値はありません。ただし、『用途ごとに板を選ぶ』という記述があります」
「用途ごと」
「はい。つまり、少なくともこの職人は、すべての魔導具へ同じ中継板を使っていたわけではない可能性があります」
「材料も違う?」
「そこは分かりません」
「加工方法は?」
「分かりません」
「形は?」
「クルセス」
リビアに呼ばれた。
「あ」
質問が増えていた。
「三つ目だった」
「うん」
「すみません」
先生は怒らず、小さく笑った。
「疑問が増えるのは悪いことではありません。ただ、今日の時間内で全部追う必要はない」
「はい」
「記録しておきなさい」
俺はノートへ書く。
中継板。
厚すぎる→変化を鈍らせる。
薄すぎる→乱れを拾う。
用途ごとに板を選ぶ可能性。
材料・加工・具体的厚さ不明。
例の測定器と同一系統か不明。
書いてみると、分かったことより不明の方が多い。
でも不思議と嫌ではなかった。
◇
「次はパウリーの方ですね」
残り時間を確認したベルナルト先生が、別の写本を手元へ寄せる。
リビアが姿勢を少し正した。
「例の『減りに応じて戻す』という表現ですが、別系統の写本と比較しました」
「ありました?」
「完全に同じ文章ではありません。ただ、近い表現があります」
先生が二つの文章を並べる。
「こちらは以前あなたが見つけたもの。こちらは別地域で保存されていた写しです」
俺も横から見る。
リビアがゆっくり読む。
「『外を常に満たすことなく、失われし分を返す』……?」
「その訳が現時点では最も自然です」
リビアの目が少し大きくなる。
「じゃあ、本当に常時満たしていたわけじゃない?」
「その可能性は上がりました」
「でも確定じゃない?」
「はい」
先生が頷く。
「二つの写本が同じ原典から派生した可能性もあります。また、『外』が結界の外層を意味するかどうかも、前後の文章が欠けているため断定出来ません」
「それでも、一つだけだった時よりは」
「有力にはなりました」
リビアがノートへ丁寧に書き込む。
その横顔は真剣だった。
俺は口を挟まずに見ていた。
「セス?」
「何?」
「また見てる」
「うん」
「資料は?」
「見てるよ」
「今は私見てたでしょう?」
「見てた」
否定しない。
ベルナルト先生が一瞬だけこちらを見た。
「研究中です」
「すみません」
「パウリーも笑わない」
「はい……」
リビアが慌てて資料へ視線を戻す。
でも耳が少し赤い。
俺もノートへ戻った。
(集中しよう)
今は研究だ。
◇
残り十分。
ベルナルト先生は二つの資料を机の中央へ並べた。
「ここで一つ注意します」
俺とリビアが先生を見る。
「今日、二人の資料に共通して『変化に応じる』ように読める言葉が出ています」
俺は頷く。
中継板は、入ってくる魔力の変化をどう扱うか。
古い結界は、失われた分に応じて戻す可能性。
「だからといって、同じ原理だとは考えないでください」
「はい」
リビアも頷く。
「一方は測定または魔導具内部の伝達に関する部品。もう一方は結界維持に関する可能性がある記述です。『変化へ応じる』という大きな概念だけで結びつければ、ほとんどの制御魔術が同じものになってしまいます」
「確かに」
「似ているから同じ、ではない」
「はい」
「ただし」
先生が指先で二つの写本の間を軽く示す。
「古い魔術技術において、常に最大量を流し続けるのではなく、状態変化に合わせて調整するという考え方が複数分野に存在した可能性はあります」
俺は少し息を止めた。
「それは調べてもいいんですか?」
「文献上なら」
「実験は?」
「しません」
「はい」
「早いですね」
「もう分かってますから」
先生が少し笑う。
「では、次に探すなら『同じ技術』ではなく、『同じ時代の制御思想』です」
「制御思想?」
リビアが聞く。
「当時の魔導技術者が、魔力をどう扱うことを良しとしていたのか。大量に流すのか、一定に保つのか、必要な時だけ補うのか、変化を拾うのか。個別技術を直接繋ぐ前に、背景となる考え方を確認する」
「それなら、違う技術でも比較出来る」
「そうです。ただし、それも授業や他の活動を潰してまで急ぐ必要はありません」
「はい」
俺とリビアの返事が重なった。
「今日はここまで」
ちょうど三十分。
俺はノートを閉じる。
もう少し読みたい。
でも終わりだ。
資料も先生が片づける。
「次はいつですか?」
「未定です」
「分かりました」
「それだけ?」
「それだけです」
ベルナルト先生が満足そうに頷いた。
「本当に成長しましたね」
「最近、みんなそれ言います」
◇
教室へ戻る途中、リビアはずっと機嫌が良さそうだった。
「嬉しい?」
「うん」
「写本二つになったから?」
「それもあるけど、私が読んだ意味が完全に外れてはいなさそうだったから」
「『失われた分を返す』」
「うん。でも、まだ外層か分からない」
「前後も欠けてる」
「そう」
リビアはそう言いながらも、足取りが軽い。
「次、何調べたい?」
「同じ時代の別の結界記録かな。『外』って言葉がどう使われてるか確認したい」
「俺は中継板」
「厚さ?」
「うん。でも具体的な数値探すより、どんな道具で使われてたかかな」
「先生が言ってた制御思想も?」
「気になる」
「増えたね」
「増えた」
二人で笑う。
「でも今日はやらない」
「私も」
「午後授業あるし」
「帰ったら?」
「俺は借りた本の続き読むかも」
「私は今日のノートだけ整理する」
「何分?」
「二十分くらい」
「俺もそれくらいにする」
誰に命令されたわけでもない。
自然にそう決めた。
◇
午後の授業を終えた後、俺たちはそのまま帰ることにした。
今日は剣術練習もない。
図書館にも寄らない。
昇降口へ向かう途中、後ろからイザークに呼び止められた。
「クルセス!」
「何?」
「明日どうする?」
「まだ決めてない」
「本当に朝決めるんだな」
「うん」
「じゃあ、やるなら昼までに言ってくれ。放課後なら付き合える」
「分かった。ありがとう」
「おう」
イザークが手を振って去っていく。
リビアがその背中を見送った。
「いい友達だね」
「うん」
すぐ答えられた。
「イザークだけじゃなくて、みんな」
「そうだね」
「学園来てよかった」
口から自然に出た。
リビアがこちらを見る。
「本当に?」
「うん。最初は、俺が来ていい場所なのかって思ってたけど」
「今は?」
廊下を歩きながら考える。
「来ていいと思う」
「……うん」
「リビアの婚約者だからじゃなくて」
「うん」
「俺が学生としてここにいていい」
言葉にしてみると、思った以上にしっくりきた。
スラム出身だから。
平民だったから。
執事だから。
そういう理由で、自分がいる場所を狭く考える癖はまだ残っている。
でも、少しずつ変わってきた。
「それ聞けて嬉しい」
リビアが静かに言った。
「俺も」
そのまま歩く。
昇降口を出ると、朝から空を覆っていた雲の切れ間から夕方の光が差していた。
◇
帰りの馬車。
今日もリビアの隣へ座る。
馬車が動き出して少しすると、彼女が肩を俺へ預けた。
「疲れた?」
「少し」
「寝る?」
「寝るほどじゃない」
「じゃあこのまま?」
「うん」
俺も少し身体の力を抜く。
肩越しに伝わる重さが心地いい。
「セス」
「何?」
「昼に言ってたこと」
「どれ?」
「私の近くにいたいって」
「ああ」
「みんなの前でも言えるんだね」
「本当だから」
「恥ずかしくない?」
「恥ずかしくはある」
「あるんだ」
「あるよ」
「じゃあ何で言えたの?」
窓の外を見る。
夕方の街が流れている。
「否定する方が嫌だったから」
リビアの肩がわずかに動いた。
「前なら、たぶん適当な理由つけてたと思う」
「うん」
「婚約者だからとか、護衛しやすいとか、話す予定があるとか」
「うん」
「でも今は、それじゃ違うから」
俺は隣を見る。
近い。
青い目が俺を見ている。
「一緒にいたいから近くにいる。それでいいと思う」
リビアはしばらく何も言わなかった。
やがて、俺の肩へもう一度ゆっくり頭を預ける。
「……嬉しい」
「うん」
「すごく」
「そっか」
それ以上は言わない。
俺も彼女から離れなかった。
◇
屋敷へ戻ってから、約束通り今日の資料について二十分だけ整理した。
灰透晶。
急激な流入を和らげる可能性。
薄灰晶石との性質の類似。
ただし同一物質とは未確認。
別資料の中継板。
厚すぎると変化を鈍らせる。
薄すぎると乱れを拾う。
用途ごとに板を選ぶ可能性。
例の測定器との関連は未確認。
そこまで書いて、ペンを置いた。
まだ二十分より少し早い。
でも十分だ。
残りは次に先生から資料を見せてもらえる時でいい。
夕食後は、グレイヴと少し話した。
「今日は剣を振らなかったそうだな」
「うん」
「三日後だが?」
「昨日振ったから」
「そうか」
それだけ。
「何か言わないの?」
「何をだ?」
「休めるようになったとか」
「毎回言われたいのか?」
「いや」
「なら言わん」
「……そうだよね」
グレイヴが僅かに笑った。
「お前が自分で決められているなら、それをいちいち特別扱いする必要もない」
「うん」
その方がいい気がした。
休むことも、剣を振ることも、普通に自分で決めればいい。
◇
夜。
今日はリビアとは一緒に本を読まなかった。
夕食の後、彼女は少し眠そうだったから、自室で休むと言っていた。
「おやすみ」
「おやすみ。また明日」
それだけ言って別れた。
俺も部屋へ戻り、一人で借りた本を少し読む。
寂しくないわけではない。
でも、昨日まで何度も一緒にいたからといって、毎晩一緒でなければならないわけでもない。
明日また会える。
そう思えば落ち着いていられる。
ページをめくりながら、昼間の資料を思い出す。
一つ分かると、分からないことが増える。
灰透晶が薄灰晶石と似ていると分かった。
だから同じなのかが分からなくなった。
中継板の厚さで反応が変わるらしいと分かった。
だから、どんな厚さで、どんな用途に使っていたのかが気になった。
リビアの古い結界記録も、似た文章がもう一つ見つかった。
だからこそ、それが本当に外層を指しているのかを確かめる必要が出てきた。
(分かるって、全部終わることじゃないんだな)
むしろ次の疑問が見える。
俺は本を閉じた。
そして、ふと笑う。
「……同じにするなって言われそうだけど」
人の気持ちを研究と同じにするな。
サザリーにもベルナルト先生にも、似たような注意をされそうだ。
だから同じだとは考えない。
ただ。
俺自身についても、一つ分かるたびに次のことが見えてきた。
リビアが大事。
一緒にいたい。
会いたい。
見たい。
近くにいたい。
触れたい日もある。
触れなくても一緒にいたい日もある。
婚約者でよかった。
婚約者でなくなるのは嫌だ。
綺麗だと思う。
可愛いと思う。
彼女がいる場所へ帰りたい。
友達に聞かれても、もうそれを否定したくない。
(……ここまで分かってる)
俺はベッドへ腰を下ろした。
胸が少し速く鳴っている。
好きという言葉を、自分の気持ちへ重ねてみる。
以前ほど遠く感じない。
むしろ、ほとんど重なっている。
ただ、まだ口に出すところまでは行かない。
怖いからなのか。
大事すぎるからなのか。
言ってしまえば何かが変わると思っているのか。
そこは、まだ分からない。
でも。
(分からないところが分かったなら、それでいいか)
今夜はそこまでにする。
明日は明日。
アルフォルド殿下との剣術交流まで、あと二日になる。
剣を振るかどうかも朝決める。
リビアに会ったら、たぶんまた近くに行く。
それを理由で隠すこともしない。
俺は灯りを落とし、ベッドへ横になった。
答えはまだ口にしていない。
けれど以前のように、どこにあるのかすら分からないものではなくなっていた。
たぶんもう、手を伸ばせば届くくらいのところにある。




