第47話 婚約者の結界を手伝うだけなのに、近くで見ていると妙に落ち着きません
翌朝、目を覚まして最初に思い出したのは、剣でも魔術でもなかった。
昨夜、自室のソファで本を読んでいたリビアの横顔だった。
窓から入る朝の光を眺めながらしばらく布団の中にいたものの、記憶は妙にはっきりしている。本へ落とされた青い瞳も、頬へ少しかかっていた銀青色の髪も、俺が「綺麗だなって思ってた」と言った後で耳まで赤くなった顔まで、余計なところまで覚えていた。
(……やっぱり綺麗だったんだよな)
もう一度そう考えると、胸の辺りが落ち着かなくなる。
別に間違ったことを言ったとは思わない。
リビア自身も嬉しかったと言っていたのだから、取り消す必要もない。それなのに、本人を前にした時と同じように顔が少し熱くなるのは困った。
身体を起こして窓を開ける。
朝の空気は冷たかったが、空はよく晴れている。庭の木々はほとんど揺れておらず、昨日より風も弱いらしい。
俺は着替えを済ませ、軽く身体を伸ばした。
頭痛はない。
身体にも痛みはない。
昨日は剣を振っていない。
アルフォルド殿下との剣術交流までは四日。
(今日は振りたいな)
そう思った。
殿下との勝負があるからやらなければならない、ではない。
単純に剣を振りたい。
なら、やればいい。
ただし長くする必要はない。
準備と片づけまで含めて二十五分くらい。
迅雷撃破は使わない。
今日は足運びと、昨日借りた本に書かれていた「一定の動きを基準として身体へ覚えさせる」という部分を少し試してみる。
そこまで考えて、俺は苦笑した。
「結局、読むと試したくなるんだよな……」
でも、危険な研究とは違う。
剣の基本動作なら、普段の訓練範囲だ。
それでも何か新しいことを増やすのではなく、いつもの足運びを一定の速度で繰り返すだけにしておこう。
◇
朝の訓練場には、まだ薄い影が残っていた。
模擬剣を握り、最初は身体を温める。
踏み込む。
戻る。
右へ。
左へ。
昨日の魔術実習を思い出しながら、速くするのではなく、同じ距離、同じ速度、同じ姿勢を意識する。
何度か繰り返すと、自分が無意識に最後の一歩だけ速くしていることへ気づいた。
(あれ?)
もう一度。
やはり少し速い。
相手がいる時なら、その変化が攻撃へ繋がることもある。
でも今は一定の動きを作る練習だ。
速くしない。
遅くもしない。
同じにする。
昨日の魔術で、一の出力へ合わせた時と似ている。
比較ではなく、その状態そのものを覚える。
「……これ、意外と難しいな」
呟いて、もう一度踏み込む。
今度は少し良い。
そこから数回繰り返したところで、背後から足音が聞こえた。
「今日は振っているのね」
振り返る。
訓練場の入口にリビアが立っていた。
「おはよう」
「おはよう、リビア。早いね」
「目が覚めたから庭を歩いてたの。音が聞こえたから」
「そっか」
リビアが近づいてくる。
朝の光を受けた銀青色の髪が揺れる。
その瞬間、昨夜のことを思い出した。
(……綺麗)
まただ。
俺は一瞬だけ視線を逸らした。
「セス?」
「何?」
「今、何で目逸らしたの?」
「……何でもない」
「本当に?」
「本当」
嘘ではない。
何でもなくはないけれど、体調が悪いわけではない。
リビアは少し不思議そうな顔をしたものの、それ以上は追及しなかった。
「今日はどのくらいやるの?」
「準備と片づけ込みで二十五分くらい。もう十五分くらいやった」
「じゃああと十分?」
「うん」
「見てていい?」
「もちろん」
その答えはすぐ出た。
むしろ見ていてほしい。
俺は再び構える。
リビアが少し離れた場所へ移動する。
踏み込み。
戻る。
横移動。
一定の速度。
一定の距離。
何度か繰り返した後、リビアが首を傾げた。
「今日は速くしないの?」
「しない」
「珍しいね」
「昨日借りた本に、比較だけで練習すると基準がずれることがあるって書いてあったから、同じ動きを繰り返してる」
「昨日の魔術みたいに?」
「うん。でも魔術と剣を同じものにはしないよ」
「先に言われた」
リビアが笑う。
俺も笑ってから、また踏み込んだ。
最後の一歩が少し速い。
戻る。
もう一度。
「セス」
「ん?」
「今の方が揃ってたと思う」
「本当?」
「うん。その前は最後だけ少し速かった」
「やっぱり分かる?」
「見てれば」
「じゃあもう一回見てて」
「いいよ」
もう一度。
今度はかなり揃った。
リビアが小さく頷く。
それを見て、少し嬉しくなる。
彼女に褒められたいから剣を振っているわけではない。
でも、見ていてほしい。
良かったところに気づいてもらえると嬉しい。
(これも、もう分かってることなんだよな)
考えながら最後の数回を終える。
時計を見る。
二十四分ほど。
「終わり」
「あと一分あるよ?」
「片づけるから」
「うん」
模擬剣を戻し、軽く汗を拭く。
リビアが待っていてくれた。
「朝食行こうか」
「うん」
並んで歩き始める。
訓練場を出たところで、リビアがこちらを見た。
「ねえ、セス」
「何?」
「さっき目を逸らしたの、やっぱり何かあるでしょう?」
「まだ気にしてたの?」
「気になるもの」
「……体調じゃないよ」
「それは分かってる」
「じゃあいいじゃん」
「よくない」
少しだけ頬を膨らませる。
その顔まで可愛いと思った。
(……可愛い?)
足が止まりかける。
「セス?」
「いや」
「また何か考えた」
「……リビアって、可愛いよね」
「え?」
今度はリビアが止まった。
朝の廊下に二人分の足音だけが消える。
「今、何て?」
「可愛いって」
「聞こえたけど」
「じゃあ何で聞いたの?」
「確認したかったの!」
声が少し大きくなり、リビア自身が慌てて口元を押さえた。
朝の廊下には使用人もいる。
少し先を歩いていたメイドがこちらを見かけ、何も見なかったように視線を戻した。
「……セス」
「はい」
「昨日は綺麗って言ったよね」
「うん」
「今日は可愛いって言うの?」
「思ったから」
「どうして急にそんなこと言えるようになったの?」
「俺にも分からない」
「分からないの?」
「でも思ったのは分かる」
リビアはしばらく俺を見たあと、両手で顔を覆った。
「朝からずるい……」
「何が?」
「分からないならいい」
耳が赤い。
昨日と同じだ。
俺は少し考えてから、ようやく最初に視線を逸らした理由を話すことにした。
「さっき目逸らしたのも、それ」
「え?」
「リビア見たら、昨日の夜みたいに綺麗だと思ったから」
「……」
「それでちょっと恥ずかしくなった」
リビアが完全に黙った。
「リビア?」
「朝食行く」
「うん」
「早く」
「何で?」
「いいから!」
少し早足で歩き始める。
俺はその横へ追いついた。
逃げているわけではないらしい。
俺が隣へ並んでも何も言わない。
ただ、朝食室へ着くまで、頬の赤みは消えなかった。
◇
学園へ向かう馬車では、しばらく昨夜の小説の話をした。
朝の件を俺から蒸し返すことはしなかったし、リビアも触れなかった。ただ、いつもより少しだけ俺との距離が近い気がする。
肩が触れる。
離れない。
窓の外では朝の街が流れている。
「今日、放課後どうする?」
リビアが聞いた。
「剣は朝やったからやらない」
「図書館?」
「今日は行かなくてもいいかな。借りた本あるし」
「じゃあ帰る?」
「リビアは?」
「私、結界の練習を少ししたいの」
「学園で?」
「うん。昨日借りた本の内容を、先生に聞いてから試してみたい」
「薄くするやつ?」
「正確には、同じ面積のまま厚さを少し変えて、維持のしやすさを見るだけ。古い結界の再現じゃないよ」
「先生に見てもらう?」
「もちろん」
「じゃあ俺も見てていい?」
リビアが俺を見る。
「セスが?」
「うん」
「剣、やらなくていいの?」
「朝やった」
「図書館は?」
「今日はいい」
「……私の結界見たいの?」
「見たい」
またすぐ答えた。
リビアの目元が少し緩む。
「じゃあ、先生に確認してみる」
「うん」
「でも手伝わせるかは先生が決めるからね」
「分かってる」
「勝手に魔力流したりしないでね」
「しないよ」
「研究っぽくなるとセスは危ないから」
「みんな同じこと言うな」
「みんな分かってきたんだよ」
少し納得出来ない。
でも、否定する材料もあまりなかった。
◇
午前の授業は歴史と数学、それから剣術理論だった。
剣術理論では、相手との間合いについて扱った。
単純な腕の長さや剣の長さだけではなく、踏み込み速度、重心、得意な攻撃方向によって実質的な間合いは変わる。
先生が前で二人の生徒を使って説明する。
「同じ距離に立っていても、同じ危険度とは限らない。相手の一歩がどれだけ伸びるかを見ろ」
俺はノートへ書きながら、アルフォルド殿下との剣術を思い浮かべた。
殿下は正面からの踏み込みが強い。
剣筋も素直で速い。
ただ、以前見た時より変わっている可能性がある。
(四日前から決めつけない)
昨日グレイヴに言われたことも思い出す。
必要な準備はする。
でも日常を全部勝負へ変えない。
今は授業を受ける。
それでいい。
休み時間になると、イザークがすぐ俺の机へ来た。
「今朝振った?」
「振った」
「何分?」
「二十五分くらい」
「じゃあ今日は放課後なし?」
「なし」
「殿下との勝負近いのに?」
「四日あるから」
「前のお前なら毎日やってそう」
「リビアにも似たこと言われた」
「みんな思ってるんだよ」
イザークが俺の机へ片手をつく。
「で、何やった?」
「一定の足運び」
「殿下対策じゃなくて?」
「違う。昨日借りた本読んで気になったから」
「何の本?」
「反復訓練の感覚基準」
「また難しそうなの読んでるな」
「そんな難しくないよ。毎回『前より速く』とか『前より強く』だけでやると、基準がずれることがあるって」
イザークが少し考える。
「剣でもあるな」
「やっぱり?」
「ある。速く振ることばっか考えてると、いつの間にか構えが浅くなったりする」
「ああ」
「逆に形ばっか気にすると遅くなる」
「じゃあ今度一緒にやろう」
「いいぞ。でも今日はやらないんだろ?」
「やらない」
「偉い」
「何で上からなんだよ」
イザークが笑う。
俺も笑った。
普通の会話だった。
アルフォルド殿下との勝負が近いからといって、友達との剣が全部その準備になる必要はない。
◇
昼休みには、いつもの顔ぶれが集まった。
ミリアナとナナリー、イザーク、サザリー。それにアルフォルド殿下とカイゼル殿下もいる。
「クルセス」
食事が始まって少ししてから、アルフォルド殿下が俺を呼んだ。
「はい」
「剣術交流の条件、正式通知は届いたか?」
「昨日届きました」
「問題は?」
「ありません」
「そうか」
殿下が頷く。
「俺の方も変更なしだ。四日後、よろしく頼む」
「こちらこそお願いします」
それだけで終わる。
対策を聞かれることも、互いに探り合うこともない。
「意外と普通だね」
ミリアナが言った。
「何が?」
「もっと『絶対負けない』とか言うのかと思った」
俺とアルフォルド殿下が顔を見合わせる。
「言う必要ある?」
「ないな」
「二人とも真面目すぎる」
カイゼル殿下が笑った。
「でもアルフォルドは勝つ気でしょう?」
「当然だ」
「クルセスも?」
「勝ちたいです」
「ほら。ちゃんと勝負じゃない」
「勝ちたいけど、それだけじゃないですよ」
「何があるの?」
「殿下が今どういう剣を振るのか見たいです」
アルフォルド殿下の眉が少し上がる。
「俺の剣を?」
「はい。前に見た時から時間も経ってますし」
「そういうお前も変わっているだろう」
「たぶん」
「楽しみにしている」
「俺もです」
素直にそう思う。
勝ちたい。
でも、負けたら全部駄目になるわけではない。
何が通じるか。
何が通じないか。
殿下がどう変わったか。
俺自身がどう変わったか。
それを確かめられるなら面白い。
「クルセス君、前より勝負の前に怖い感じしなくなったね」
ミリアナが言った。
「怖かった?」
「怖いっていうか、全部準備しそうだった」
「全部って何?」
「朝も放課後も剣振って、相手の癖調べて、先生に質問して、本も読んで」
否定出来ない。
「今日は朝だけ」
「それ聞いて安心した」
「何でミリアナが安心するんだよ」
「友達だから?」
軽い調子で言われた。
でも、その言葉に少し胸が温かくなる。
「……そっか」
「そこで照れるの?」
「照れてない」
「今ちょっと照れた」
「昼食食べよう」
「逃げた」
周りから笑い声が上がった。
◇
午後の魔術理論では、昨日の出力調整実習について簡単な振り返りがあった。
ベルナルト先生が黒板へ三つの言葉を書く。
到達。
維持。
変更。
「昨日皆さんが行ったのは、この三つです」
教室が静かになる。
「目標へ届くことと、そこに留まることは別です。また、別の状態へ移ることも別の技術になります」
俺はノートへ写す。
「魔術に限った話をします。ここから領地運営や人間関係へ広げる必要はありません」
何人かが俺を見る。
「先生」
「何です?」
「俺の方見て言いました?」
「気のせいでしょう」
絶対違う。
隣でリビアが肩を震わせている。
「笑ってる?」
「ちょっと」
「ひどい」
「だって先生まで分かってるんだもの」
ベルナルト先生は何事もなかったように授業を続けた。
「クルセスについては、昨日の一回の結果だけで特別な問題があるとは判断しません。低出力で少し調整幅が大きかっただけです」
「はい」
「ただし、来月の実技確認へ向けては、指定範囲へ合わせる練習を通常授業内で続けます」
「自主練習は?」
「必要ありません」
即答された。
教室の何人かが笑う。
「まだ何もするって言ってないのに」
「聞き方が自主練習したい生徒のそれです」
「確認しただけです」
「なら答えも確認出来ましたね」
「はい」
完全に先回りされた。
◇
放課後。
俺とリビアは第三魔術訓練場へ向かった。
ここは結界練習でもよく使われる場所で、床の区画が広めに取られている。壁際には訓練用の木製標的や軽い衝撃具が並び、事故防止用の固定結界も張られていた。
今日リビアの練習を見るのはエレナ先生だ。
「パウリーから内容は聞いています」
先生が記録板を確認する。
「同一面積、同一形状。厚さだけを三段階で変える。維持時間は各十秒。今日は耐久試験をしません」
「はい」
「衝撃も加えない。魔力消費量の精密測定もしない」
「はい」
「クルセス」
「はい」
「あなたは見学」
「分かってます」
「魔力を流さない」
「流しません」
「結界へ触れない」
「触れません」
「新しい測定方法を提案しない」
「……しません」
最後だけ少し間が空いた。
「今、考えたでしょう?」
「少しだけ」
「考えるのは自由です。今日は提案しないでください」
「はい」
リビアが隣で笑っている。
「何?」
「先生の方がセスの扱い上手い」
「最近そればっかり言われる」
「成長した証拠じゃない?」
「誰の?」
「周りの」
「俺じゃないの?」
「セスも」
エレナ先生が咳払いする。
「始めますよ」
「はい」
二人で返事をした。
◇
リビアが訓練区画の中央へ立つ。
俺は少し離れた観察位置。
最初は基準となる結界。
彼女が両手を前へ出すと、透明な膜がゆっくり形成された。
四角形。
人一人を正面から守れる程度の大きさ。
魔力感知を使えば、均一に広がった魔力が分かる。
「十秒」
エレナ先生の声。
リビアは結界を維持する。
揺れはほとんどない。
「解除」
結界が消える。
「次。厚さを八割程度に」
「はい」
もう一度形成。
見た目ではほとんど分からない。
でも魔力感知では違う。
薄い。
面積は同じ。
形も同じ。
魔力の密度だけが少し変わっている。
(綺麗だな)
今度は結界の話だ。
たぶん。
でも、その向こうに立つリビアまで見えてしまう。
(集中しよう)
今日は手伝いではなく見学だ。
「解除」
二つ目が終わる。
リビアが一度息を吐いた。
「負担は?」
エレナ先生が聞く。
「ありません。ただ、基準より薄くしようとすると、端が少し内側へ寄る感じがあります」
「面積を維持しようとして中央へ魔力を足している?」
「たぶん」
「次はそこを意識してください。薄くすることと、狭くすることを混同しないように」
「はい」
三つ目。
さらに薄くする。
形成の途中で、右上の角が少し内側へ歪んだ。
リビアの眉がわずかに寄る。
すぐ修正する。
「そのまま」
十秒。
解除。
「どう?」
「さっきより難しいです」
「でしょうね」
エレナ先生が記録板へ書く。
「薄くすると維持が楽になる、と単純には言えません。形状を維持するための制御負荷が上がれば、本人の集中はむしろ増える場合があります」
「はい」
リビアが額へ落ちた髪を耳へかける。
息は乱れていない。
魔力にも問題はなさそうだ。
「もう一回やっていいですか?」
「同じ三段階をもう一巡まで。その後は終わりです」
「分かりました」
俺は口を挟まない。
見ている。
それだけ。
二巡目。
基準。
八割。
さらに薄く。
三つ目の形成時、今度は角がほとんど歪まなかった。
「良いですね」
エレナ先生が言う。
「ただし、これで薄い方が優れているとは判断しないように」
「はい」
「耐久性も、衝撃への応答も、魔力干渉への反応も見ていません。今日確認したのは、あなたが同じ面積で厚さを変えられるということだけです」
「分かっています」
リビアが結界を解除する。
俺は思わず拍手しそうになって、手を止めた。
でもエレナ先生に見られた。
「拍手しても構いませんよ」
「していいんですか?」
「なぜ駄目だと思ったんです?」
「訓練中だから」
「もう終わりました」
なら。
軽く手を叩く。
広い訓練場に二、三度だけ音が響いた。
リビアが目を丸くしたあと、少し照れたように笑った。
「ありがとう」
「二回目、すごく綺麗だった」
「どこが?」
「最後の薄いやつ。最初は右上が少し内側に入ったけど、二回目はほとんど揃ってた」
「そこまで見てたの?」
「見たいって言っただろ?」
「……うん」
リビアが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、俺の胸もまた温かくなった。
◇
「クルセス」
片づけが終わったところで、エレナ先生に呼ばれた。
「はい」
「せっかくなので一つだけ手伝ってください」
「何を?」
「パウリーの結界へ、ごく弱い非属性魔力を近づけます。触れさせません。距離の確認だけです」
リビアを見る。
「いい?」
「先生がいいなら」
「では一度だけ」
エレナ先生が床の位置を指定する。
リビアが基準の厚さで結界を張る。
俺は正面へ立つ。
「魔力形成。昨日の一よりさらに弱く」
「はい」
掌へごく小さな無属性魔力を集める。
「そのまま一歩」
近づく。
「止まって」
結界まで腕一本より少し遠い。
「パウリー、変化は?」
「ありません」
「クルセスも?」
「特に」
「もう半歩」
進む。
結界は変わらない。
「停止。解除」
俺の魔力を消す。
「今日はここまで」
「これ何の確認ですか?」
「次回以降、外部魔力が近くにある状態でも厚さを一定に保てるかを見る可能性があります。そのための距離確認です」
「触れないんですね」
「今日は触れません」
「次回は?」
「決まっていません」
「はい」
聞きたいことはある。
でも決まっていないなら、それで終わりだ。
「クルセス」
「何です?」
「今、質問を一つで止めましたね」
「……はい」
「良いことです」
「そこ評価されるんですか?」
「されます」
リビアが笑った。
「今日はみんなセスを褒める日だね」
「そんな褒められてる?」
「朝も時間で止めたし、授業でも自主練しないって確認出来たし、今も質問一個で止めた」
「それ、昔の俺どれだけ信用なかったの?」
エレナ先生とリビアが一瞬だけ視線を合わせた。
「……何で黙るの?」
「帰りましょうか」
「先生?」
「お疲れさまでした」
「絶対ごまかした」
でも、追いかけて聞くほどでもない。
◇
訓練場を出る頃には、廊下へ夕方の光が長く差し込んでいた。
俺とリビアは並んで昇降口へ向かう。
「疲れた?」
「少しだけ。魔力より集中した方かな」
「頭痛は?」
「ないよ」
「帰ったら休む?」
「うん。お茶飲みたい」
「俺も」
「今日は本読む?」
「夜?」
「うん」
「読みたい」
「旅騎士?」
「昨日の続き」
「分かった」
そこでリビアが少し黙る。
何か言いたそうだ。
「どうしたの?」
「セス、今日ずっと見てたね」
「結界?」
「それも」
「それも?」
「……何でもない」
「何?」
「朝も、訓練中も、時々私の顔見てた」
ばれていた。
「嫌だった?」
「逆」
リビアは前を向いたまま答える。
「嬉しかった」
「そっか」
「でも、何で見てたのかなって」
理由。
考える。
結界を見たかった。
練習が上手くいくか気になった。
リビア自身を見たかった。
どれも本当だ。
「見たかったから」
「私を?」
「うん」
リビアが歩きながら俺を見る。
「理由、それだけ?」
「たぶん」
「……そっか」
頬が少し赤い。
「リビアも俺のこと見るだろ?」
「見るよ」
「好きだからって言ってた」
「言ったね」
「俺も、何で見るのか前より分かってきた気がする」
言葉にした途端、心臓が少し速くなる。
リビアの足がわずかに遅くなった。
俺も合わせる。
「それって……」
「まだ全部は言えない」
「うん」
「でも、分からないから見てるわけじゃないと思う」
以前なら、そこで言葉が止まった。
今はもう少しだけ続けられる。
「リビアを見たいんだよ。剣も、結界も、普通に本読んでる時も」
リビアは何も言わない。
夕方の廊下を、他の生徒たちが何人か通り過ぎる。少し離れた教室から机を動かす音が聞こえ、窓の外では部活動へ向かう生徒の声が響いていた。
「それで、見てると嬉しい」
「……うん」
「だから、たぶん」
喉が少し乾く。
でも、無理に先へ行く必要はない。
「答えに近づいてるんだと思う」
リビアがゆっくり息を吐いた。
「それで十分」
「本当に?」
「うん。セスが自分で分かっていくのを待つって決めたから」
「ありがとう」
「でも」
「何?」
「綺麗とか可愛いとか急に言うのは、少しだけ心の準備させて」
「どうやって?」
「……それは私にも分からない」
「じゃあ無理じゃない?」
「セス!」
思わず笑う。
リビアも少し遅れて笑った。
俺たちはそのまま並んで歩いた。
◇
屋敷へ戻り、お茶を飲んだ後は、それぞれの部屋へ戻った。
俺は朝に使った剣の記録だけ簡単につける。
二十五分。
一定の足運び。
最後の一歩が速くなる癖あり。
後半改善。
それだけ。
アルフォルド殿下への対策表は作らない。
四日後。
それは覚えている。
十分だ。
夕食を終え、少し休んでから自室へ戻る。
机の上には借りた訓練理論の本。
続きを二十分ほど読む。
そこで止めた。
もっと読める。
でも、そろそろリビアが来るかもしれない。
そう思った直後、扉が叩かれた。
「セス?」
自然に笑ってしまった。
「どうぞ」
扉が開く。
リビアが旅騎士の本を抱えている。
「待ってた?」
「うん」
隠す必要もない。
「そろそろ来るかなって思ってた」
「……そういうの」
「心の準備?」
「無理だった」
リビアが困ったように笑う。
今日もソファへ並ぶ。
肩が触れる距離。
本を開く。
しばらくは普通に読めた。
物語の中では、昨日作り始めた渡し場が完成し、騎士たちが村を出る準備をしている。
次の町へ行くらしい。
「この人たち、ずっと旅するのかな」
リビアが小声で言う。
「題名が旅騎士だから、しばらくするんじゃない?」
「でも、どこかに帰る場所はあるのかな」
「最初の方に王都の騎士団所属って書いてなかった?」
「書いてた。でも帰りたい場所と所属って同じなのかなって」
ページから目を上げる。
「違うこともあるんじゃない?」
「セスは?」
「俺?」
「帰りたい場所」
考える。
昔なら、パウリー公爵家と即答しただろう。
今もそれは変わらない。
ここが家だ。
グレイヴがいて、旦那様がいて、リビアがいる。
でも。
「場所だけじゃないかも」
「どういうこと?」
「この屋敷には帰りたい。でも、たぶん誰がいるかも大事」
「……誰?」
聞かなくても分かっているような顔をしている。
それでも答える。
「父さんと、旦那様と」
「うん」
「リビア」
彼女の目が少し揺れた。
「リビアがいるところに帰りたい」
言ってから、自分の胸の奥が熱くなる。
でも取り消したいとは思わない。
「それって」
リビアが小さな声を出す。
「うん?」
「すごく嬉しい」
「そっか」
「うん」
彼女が笑う。
俺はその顔を見る。
やっぱり可愛い。
今度は口には出さなかった。
でも、たぶん顔に出た。
「何?」
「何でもない」
「今日のセスの『何でもない』は信用出来ない」
「本当に何でもないよ」
「私の顔見ながら?」
「見たかったから」
「もう……」
リビアが本へ視線を戻す。
耳が少し赤い。
俺も本へ戻る。
肩は触れたままだった。
◇
その夜、リビアが部屋へ戻った後、俺は窓際に立っていた。
月は昨日よりよく見える。
アルフォルド殿下との剣術交流まで四日。
実技確認は来月。
古代測定器の資料は先生が選ぶまで待つ。
リビアの結界練習も、今日少し進んだ。
いろいろある。
でも今、俺の頭に一番残っているのは別のことだった。
(リビアがいるところに帰りたい)
自分で言った。
誰かに言わされたわけではない。
婚約者だからそう答えるべきだと思ったわけでもない。
本当にそう思った。
朝には可愛いと思った。
昨夜は綺麗だと思った。
今日は何度も見た。
見たいと思った。
見ていると嬉しかった。
以前なら、それぞれ別のこととして考えたかもしれない。
でも、もう全部が繋がっているように感じる。
「……俺、本当にあと何が分からないんだろ」
小さく呟く。
昨日も同じようなことを考えた。
名前だけが出てこない。
いや。
名前そのものは知っている。
リビアが俺へ何度も言ってくれた言葉だ。
好き。
その言葉を知らないわけではない。
意味だって分かる。
ただ、自分の中にあるものへ、その名前をつける直前で止まっている。
(怖いのかな)
考えてみる。
リビアを好きだと認めることが。
でも、嫌ではない。
むしろ、その答えだったら嬉しいような気さえする。
それなら何が引っかかっているのか。
すぐには分からない。
それでも以前とは違う。
分からないから遠ざけたいのではなく、ちゃんと知りたいと思っている。
リビアに言われたからではない。
俺が知りたい。
自分が彼女をどう思っているのか。
窓を閉める。
明日も学園がある。
四日後には剣術交流。
だから今夜中に答えを出す必要はない。
けれど、このままずっと名前をつけずにいるつもりもなかった。
(もう少しだけ、ちゃんと考えてみよう)
急がない。
逃げもしない。
そう決めて、俺は灯りを消した。




