第46話 全力より加減する方が難しいのは、俺だけではなかったみたいです
翌朝、窓を開けると、昨日より少し冷たい風が部屋へ入ってきた。
空は晴れているものの、庭の芝にはまだ夜露が残っている。遠くでは使用人たちが朝の仕事を始めており、荷車の車輪が石畳を転がる音や、庭師が誰かへ声をかけるのがかすかに聞こえていた。
俺は着替えを終えてから、いつものように身体の状態を確かめた。
頭は問題なし。
腕にも脚にも痛みはない。
昨日は朝に二十分、放課後にもイザークと軽く剣を振っている。
(今日は振らなくていいか)
身体が動かないわけではないし、疲れているわけでもない。それでも、六日後――昨日から数えれば、もう五日後になったアルフォルド殿下との剣術に向けて、毎朝練習しなければならない理由はなかった。
むしろ昨日、イザークへ自分で言ったばかりだ。
全部を先に決めなくなった、と。
それなのに、殿下との予定が決まった途端、毎日剣を振ると決めてしまったら少しおかしい。
「……じゃあ何しよう」
口に出してから、少し笑ってしまった。
以前なら、空いた時間を見つけた瞬間に何かを詰め込んでいた。剣を振らないなら魔術書、魔術書を読まないなら授業の予習、それもなければ執事の仕事を探したかもしれない。
今朝は、どれも急ぎではない。
窓際の椅子へ座る。
昨日ベルナルト先生に見せてもらった古代測定器の断面図が頭へ浮かんだけれど、自分で調べないと約束している。響晶についても、先生が資料を選んでくれるまでは待つ。
(待ってる間に考えるくらいならいいんだろうけど、考え始めたらたぶん止まらないな)
だったら今はやめておく。
机の上には旅騎士の小説が置いてあった。
昨夜リビアと一緒に読んだ本だ。
手を繋がず、肩と腕を触れさせながら読んだ。
ページを見ていると、その時の温かさまで思い出す。
(今日も会えるんだよな)
当然だ。
同じ屋敷に住んでいるし、同じ学園へ通っている。
それでも、そう考えた時に少し嬉しくなる。
俺は本へ手を伸ばしかけて、やめた。
これは続きをリビアと読みたい。
一人で読んではいけない約束なんてしていないけれど、俺がそうしたかった。
「……これも、やりたいことか」
小さく呟く。
それから朝食の時間まで、俺は何も始めなかった。
◇
「今日は剣を振ってないの?」
朝食の席に着いてすぐ、リビアに聞かれた。
「うん。昨日二回やったから」
「身体は痛い?」
「全然。でも今日はいいかなって」
リビアは少し驚いたように俺を見たあと、嬉しそうに笑った。
「何?」
「別に」
「絶対何かある顔してる」
「セスが自分でそう決めたんだなって思っただけ」
「昨日二回振ってるんだから普通だろ?」
「うん。今はね」
最後の一言が妙に引っかかる。
反論しようかと思ったけれど、昔の自分なら「痛くないなら出来る」と考えた可能性が高い。
「……今は普通」
「そういうことにしておく」
リビアがパンをちぎる。
旦那様は向かい側で書類へ目を通しており、グレイヴは少し離れた場所で朝食の進み具合を見ていた。二人とも会話へ口を挟んでこないけれど、グレイヴの口元がほんの少し動いたような気がする。
「それより、リビア」
「何?」
「昨日の委員会の雨の日の経路、今日も何かするの?」
「先生が案を確認するって。実際に歩いてみるかは、その後かな」
「そっか」
「今日は委員会自体はないよ」
「じゃあ放課後は?」
「図書館へ行こうかなって思ってる。結界の本、返却期限が近いから」
「俺も行こうかな」
「響晶?」
「違う」
「本当に?」
「先生に勝手に探すなって言われたばっかりだよ」
「セスなら一日経ったら『関連する一般資料ならいいのでは?』って考えそうだから」
思わず黙る。
実際、言われてみれば少し考えそうだった。
「……探さない」
「今ちょっと考えた?」
「探さないって」
リビアが笑う。
「じゃあ何読むの?」
「まだ決めてない。剣術でもいいし、領地運営でもいいし」
「一緒に行く?」
「うん」
答えた時、昨日の夜に考えたことが浮かんだ。
俺はリビアの隣にいたい。
だから一緒に図書館へ行く。
理由として、それで足りる。
そう思えたことが少し嬉しかった。
◇
馬車の中でも、俺は自然にリビアの隣へ座った。
もう向かい側へ座ってから理由を考えることもない。
朝の街は昨日より乾いており、店先では商人たちが軒下へ出していた雨除けを片づけていた。雲の切れ間から光が差すたび、濡れた屋根が白く光る。
「そういえば」
リビアが窓から俺へ視線を戻す。
「昨日、婚約のこと考えてるって言ってたでしょう?」
「うん」
「何か分かった?」
胸の奥が少し跳ねた。
でも、問い方は柔らかい。
答えを要求しているわけではないのが分かる。
「まだ全部は」
「そっか」
「でも」
そこで一度息を吸う。
「昨日より分からなくなったわけじゃないよ」
リビアが目を瞬いた。
「むしろ、分かってることは増えてると思う」
「例えば?」
「……それ聞く?」
「聞きたいけど、言いたくなかったら言わなくていい」
少し考える。
言いたくないわけではない。
恥ずかしいだけだ。
「昨日も言ったけど、リビアの隣にいたいのは分かってる」
「うん」
「今日も一緒に図書館行きたいって思ったし、朝起きた時も今日会えるって考えた」
言葉にするほど顔が熱くなる。
リビアの頬も少し赤くなっていた。
「それから?」
「まだ聞くの?」
「セスが話してくれるなら」
「……旅騎士の本、一人で続きを読まなかった」
「え?」
「机に置いてあったから読もうと思ったけど、リビアと読みたいからやめた」
しばらく返事がない。
横を見ると、リビアは口元を手で隠していた。
「何?」
「嬉しい」
「そんなに?」
「そんなに」
声が少し震えている。
泣くほどではないけれど、かなり嬉しいらしい。
「でも、まだ『好き』って言うところまでは分からない」
「うん」
リビアはすぐに頷いた。
「それでいいよ」
「前より近い気はする」
自分で言ってから、さらに恥ずかしくなった。
「何に?」
「……答えに」
リビアはそれ以上聞かなかった。
ただ、膝の上で重ねていた手を少し動かし、小指だけを俺の手の横へ触れさせた。
握らない。
俺も握らなかった。
でも離さない。
馬車が学園へ着くまで、その小さな接触だけが続いていた。
◇
一限目を終えたところで、教室へエレナ先生が入ってきた。
次は魔術基礎実習だったので、そのまま全員を第二魔術訓練場へ移動させるらしい。
「今日は来月の実技確認に向けた練習を少し入れます。ただし、本番形式をそのままやるわけではありません」
教室の空気が変わる。
緊張というほどではない。
でも、皆が少し真面目な顔になった。
「指定された出力へ合わせて維持する練習です。全力を出す授業ではありません。むしろ、自分が普段使っている出力より弱くする生徒もいるでしょう」
何人かが俺を見る。
「何で俺見るの?」
小声で言うと、隣のイザークが笑った。
「お前のための授業みたいだから」
「全員やるって言ってるだろ」
「でも一番苦労しそうなの、お前じゃん」
「そうかな」
「そうだろ」
前の席にいたミリアナまで振り返って頷いている。
「クルセス君、全力禁止より『このくらいにして』の方が難しそう」
「そんなことないと思うけど」
「昨日もみんなで言ったでしょう?」
「言われたけど」
エレナ先生が教卓からこちらを見る。
「そこ、楽しそうね」
「すみません」
「クルセスは特に話を聞いておきなさい」
「はい」
結局、俺が一番注意されるらしい。
◇
第二魔術訓練場には、一定間隔で円形の練習区画が並んでいる。
床には術式補助用の線が刻まれ、正面には魔術を受け止めるための標的が設置されていた。今日は攻撃威力を見るのではないため、普段より小さな標的の横に、魔力出力を大まかに示す測定具が置かれている。
古代のものではない。
現代の一般的な測定具だ。
魔力量に応じて目盛りが上下するだけの単純なもの。
昨日見た断面図とはまるで違う。
(……気にしない)
響晶のことを考え始めそうになり、意識を先生へ戻す。
「今日は三段階」
エレナ先生が説明する。
「低、中、高ではありません。便宜上、一、二、三とします。皆さんには、自分の通常使用範囲を基準にして事前に教師側で目標値を設定しています」
生徒全員が同じ魔力量を出すわけではないらしい。
「最初は一。五秒維持。次に二へ上げて五秒。その後、一へ戻して五秒。最後に停止します」
単純に見える。
ただ、全力で魔術を撃つより、指定値へ合わせ続ける方が制御は必要になる。
「属性は各自一つ。得意属性で構いません。攻撃術式を完成させる必要はありません。今日は純粋な属性魔力の形成と維持だけです」
俺は手元の札を見る。
雷。
指定されていた。
「クルセス」
「はい」
「あなたは雷だけ。今日は切り替えなし」
「分かりました」
「迅雷撃破も当然なし」
「使いません」
「念のためよ」
エレナ先生はそう言って次の生徒へ向かった。
俺たちは順番に区画へ入る。
最初はナナリーだった。
彼女の得意属性は水。
掌の上へ青い魔力を形成し、測定具の目盛りを一へ合わせる。
「少し低いです」
先生に言われ、ナナリーが慎重に魔力を増やす。
目盛りが一を越えた。
「あっ」
「慌てない。戻して」
「はい」
ゆっくり下がる。
今度は範囲内。
五秒。
二へ。
そこではかなり安定した。
「ナナリーは低出力の微調整が課題ですね。二以上は安定しています」
「はい」
本人がノートへ書き込む。
次はミリアナ。
風属性。
一への到達は早い。
二も早い。
でも維持中に少しずつ上がっていく。
「ミリアナ、最初に合わせた後で押し続けています」
「え?」
「魔力を出すことと、増やすことは別です」
「はい!」
慌てて下げすぎる。
周囲から小さな笑いが起きた。
「笑っている人も後でやりますよ」
エレナ先生の一言で静かになる。
俺も笑ってはいなかったけれど、少し口元が緩んでいたので戻した。
(みんな違うところで難しいんだな)
出力が大きいか小さいかだけではない。
合わせるまで。
合わせた後。
上げる時。
下げる時。
止める時。
見るところはいくつもある。
イザークは土属性。
最初の一はかなり安定していたけれど、二へ上げる時に一気に三近くまで跳ねた。
「剣と同じで踏み込みすぎです」
「魔術でも言われるんですか、それ」
「性格が出ますね」
「うわ……」
周囲が笑う。
「クルセス、笑ったな?」
「ちょっとだけ」
「お前も絶対失敗しろ」
「何でだよ」
俺の番は、その少し後だった。
◇
区画の中央へ立つ。
掌を前へ出す。
測定具の目盛りを見る。
俺に設定された一の範囲は、普段使う雷属性魔力よりかなり低い。
(このくらいかな)
魔力を流す。
無属性の基礎状態から雷へ変換。
淡い紫白色の光が掌の上へ集まる。
目盛りが上がる。
一。
越える。
「あ」
「クルセス、下げて」
「はい」
少し下げる。
今度は範囲内へ入った。
「そのまま」
五秒。
維持。
「二」
魔力を増やす。
目盛りが上がり、二の範囲へ入る。
ここは問題ない。
「維持」
五秒。
「一へ戻して」
下げる。
今度は一を下回った。
「低い」
「はい」
戻す。
範囲内。
「停止」
魔力を切る。
掌の光が消えた。
エレナ先生が記録板を見る。
「予想通りね」
「駄目ですか?」
「駄目ではないわ。ただ、一回目は低出力への合わせ込みで上下に振れた」
「二は?」
「安定していた」
「一が苦手?」
「現時点ではそう見える。ただし一回で決めない」
「はい」
「あなたの場合、弱くしすぎないように意識すると少し多くなり、多いと思って下げると今度は下げすぎる傾向があるわね」
言われてみれば、その通りだった。
(全力出すより難しい)
イザークが後ろで笑っている気配がする。
振り返ると、本当に笑っていた。
「何?」
「失敗した」
「お前も三まで上がっただろ」
「俺は勢いが良かっただけ」
「それ失敗じゃん」
「二人とも、話は後」
「はい」
エレナ先生に止められた。
区画を出る。
リビアとすれ違う。
「どうだった?」
「一が難しい」
「見てた」
「見てたの?」
「うん」
「……そっか」
失敗したところも見られた。
少し恥ずかしい。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「リビアは?」
「これから」
「見る」
「うん」
彼女が区画へ入る。
◇
リビアが選んだのは無属性だった。
今日は結界そのものではなく、純粋な魔力形成。
掌の少し上へ透明に近い魔力が集まる。
目で見ると分かりにくい。
でも魔力感知でははっきり分かる。
一。
ほとんど揺れない。
二へ。
上げ方も滑らかだ。
維持。
また一へ。
ほんの少しだけ下がりすぎた。
すぐ戻る。
「今の修正、良かったです」
エレナ先生が言う。
「ありがとうございます」
「パウリーは二から一へ戻す時、最初の一より少し弱くなりました。おそらく二の感覚を基準にして下げたためでしょう。次は最初の一の感覚を保持してください」
「はい」
完璧ではない。
でも上手い。
(やっぱりリビア、制御綺麗だな)
魔力量で押さない。
必要なところへ合わせる。
剣と似ている。
相手の力を正面から全部受けるのではなく、ずらして必要な位置へ動く。
俺は気づけばじっと見ていた。
リビアが区画から戻ってくる。
「どうだった?」
「綺麗だった」
「魔力?」
「うん。二から一に戻す時だけ少し下がったけど、すぐ戻してた」
「先生と同じところ見てる」
「だって分かりやすかったから」
「セスは一で上下してたね」
「見てたんだろ?」
「見てた」
「次は合わせる」
「私も次は下げすぎないようにする」
そこで、互いに少し笑った。
俺だけが練習するわけではない。
リビアも失敗する。
俺が彼女を見るように、彼女も俺を見る。
その感じが心地よかった。
◇
全員の一巡目が終わると、二巡目に入った。
今度は教師が一人ずつ細かく指示を出す。
俺のところへ来たエレナ先生は、測定具の目盛りを指した。
「クルセス。次は最初から一へぴったり合わせようとしないで」
「どういうことですか?」
「あなたは目標を見た瞬間に、そこへ一回で到達しようとしている」
「駄目ですか?」
「結果として越えているでしょう?」
「はい」
「低いところから少しずつ近づけなさい。ただし、遅すぎても実技確認では評価が下がる可能性があります」
「難しい」
「だから練習するの」
確かにそうだ。
「時間は?」
「今日は三秒以内を目安。厳密な本番基準ではないわ」
「分かりました」
もう一度、雷属性魔力を形成する。
最初は目標より低く。
そこから少し上げる。
目盛りを見る。
まだ低い。
もう少し。
一の範囲へ入る。
「止めて」
増加を止める。
維持。
さっきより安定している。
「二」
上げる。
ここは問題ない。
「一」
今度は下げすぎないように、最初の一の感覚を思い出す。
目盛りが落ちる。
一の上端。
少し高い。
わずかに下げる。
中央近く。
「維持」
五秒。
「停止」
消す。
エレナ先生が頷いた。
「一回目よりずっと良い」
「三秒以内でした?」
「最初はぎりぎり。戻す方は少し超えた」
「じゃあ戻す方が課題?」
「そうね。ただし今日の目的は時間競争ではない。正確さを崩して速さだけ追わないこと」
「はい」
「それから」
先生が俺を見る。
「今、二へ上げる時だけ随分楽そうだったでしょう?」
「楽でした」
「あなたにとって二の方が自然な使用域に近いんでしょうね」
「たぶん」
「なら一を『二より弱い状態』として覚えるのではなく、一そのものの感覚として覚えなさい」
「一そのもの?」
「比較だけで制御すると、直前の出力に引っ張られる。パウリーが二から一へ戻す時に少し下げすぎたのも似た理由よ」
リビアの方を見る。
少し離れた区画で先生の指導を聞いていた彼女も、こちらを見ていた。
(同じところで失敗してるのか)
程度は違う。
でも課題の根っこは少し似ている。
前の状態からどれくらい動かすかではなく、目的の状態そのものを覚える。
「先生」
「何?」
「これ、属性切り替えでも同じですか?」
エレナ先生が少しだけ眉を上げる。
「考え方としては関係する可能性がある。ただし今日はそこへ広げない」
「はい」
「古代測定器にも広げない」
「まだ何も言ってません」
「顔に出てる」
周囲から笑い声が聞こえた。
「そんなに?」
リビアに聞く。
「ちょっと」
「どんな顔?」
「面白いこと見つけた顔」
「普通じゃない?」
「セスの普通は信用出来ないの」
「ひどい」
でも、自分でも否定しきれなかった。
◇
授業の最後、エレナ先生は全員を集めた。
「今日やったのは、実技確認の一部に近い練習です。ただし本番の課題、数値、時間はまだ確定していません」
皆がノートを開く。
「今日の結果だけで評価を予想しないこと。出来なかったところは、出来なかったと確認出来た時点で練習の意味があります」
イザークが小さく俺を見る。
「何?」
「別に」
「絶対何か言おうとしただろ」
「クルセスも失敗して安心したとか思ってない」
「思ってたんじゃん」
「静かに」
「はい」
また注意された。
エレナ先生は少し呆れた顔をしながら続ける。
「それと、他人の数値と比較しない。設定値は個人ごとに違います。クルセスの一とナナリーの一は、同じ魔力量ではありません」
これは大事だ。
「評価するのは、求められた範囲へ合わせられるか、維持出来るか、指示に応じて変更出来るか、停止出来るか。出力の大きさそのものを競う課題ではありません」
全力より、合わせること。
俺にはそちらの方が難しい。
でも、俺だけではない。
ナナリーは低出力調整。
ミリアナは維持。
イザークは上げる時の勢い。
リビアは下げた後の再現。
皆それぞれ違う。
(面白いな)
同じ授業なのに、練習する場所が違う。
学園へ来る前は、魔術の訓練といえば自分の出来ることを増やすものだと思っていた。
今は、出来ることを狙った形で使う練習もある。
それも悪くない。
◇
昼休み。
いつものように皆で昼食を取っていると、当然、午前の魔術実習の話になった。
「クルセスが一を越えた瞬間、ちょっと嬉しかった」
イザークが言う。
「性格悪いな」
「いつも何でも出来るからだよ」
「何でもは出来ない」
「そう言うと思った」
ミリアナが笑う。
「でも今日ので証明されたね。クルセス君にも苦手なことがある」
「低出力調整が苦手ってほどじゃないよ。二回目は出来たし」
「そういうところ」
「何が?」
「負けず嫌い」
「これ勝負じゃないだろ」
「じゃあ出来なくてもいい?」
「出来るようにはなりたい」
「ほら」
何が「ほら」なのか分からない。
ナナリーが小さく笑っている。
「私はクルセス様より一への調整に時間がかかりました」
「でも二はすごく安定してたよ」
「ありがとうございます。クルセス様は二への移行がとても滑らかでした」
「イザークは三まで行ったけど」
「言うなよ」
「自分で俺の失敗笑ったからだろ」
昼食の席に笑いが広がる。
アルフォルド殿下も参加していた。
「俺も上げる方が少し強くなったな」
「殿下も?」
「ああ。光属性は普段、ある程度以上の出力で使うことが多い。弱い状態を一定に保つのは意外と難しい」
「カイゼル殿下は?」
「僕は維持かな。最初と最後で少し違った」
「殿下たちも普通に失敗するんですね」
言ってから、少し失礼だったかと思う。
カイゼル殿下が笑った。
「何だと思ってたの?」
「いや、殿下だから」
「王族は魔力の目盛りが勝手に合わせてくれる、とか?」
「そこまでは思ってません」
「残念」
サザリーが静かに食事をしながら、こちらへ視線を向けた。
「今日の課題、昨日の共同学習に少し似ていたな」
「どこが?」
「最大値を出せばいいわけではないところだ」
「ああ」
「必要な量を、必要な時に出す」
「確かに」
「領地運営も魔術も同じってこと?」
イザークが聞く。
俺とサザリーは一瞬顔を見合わせた。
「同じにはしない」
「同じではないな」
ほぼ同時だった。
「何でそこだけ息合うんだよ」
「昨日、似たような話したから」
俺が答える。
サザリーも頷く。
「考え方を参考にすることと、同じものとして扱うことは別だ」
「難しいな」
「剣なら?」
俺が聞く。
イザークが少し考える。
「全力で振ればいいわけじゃない」
「それ」
「あ、分かった」
「結局剣だと分かるんだ」
「俺だからな」
得意なものへ置き換えると分かる。
それも人によって違うのかもしれない。
◇
午後の授業が終わったあと、俺とリビアは予定通り図書館へ向かった。
今日は委員会もない。
剣術もやらない。
俺は朝から一度も剣を振っていないけれど、それを埋めるために放課後練習する気にはならなかった。
魔術実習で集中した。
それで今日は十分だ。
図書館へ入ると、紙と木の匂いに包まれる。
窓際の席には午後の柔らかな光が差し、ページをめくる音があちこちから聞こえていた。
「私、返却してくるね」
「うん」
「セスは?」
「剣術の棚見てくる」
「響晶は?」
「見ないって」
「確認」
「信用ないな」
「研究になるとね」
リビアは笑って返却台へ向かった。
俺も別の棚へ行く。
剣術。
何冊か背表紙を見る。
五日後のアルフォルド殿下との剣術があるから、対人戦の本を選ぼうかと思う。
でも、手を伸ばしかけて止めた。
(これ、殿下との勝負のためだけに読むことになるな)
悪いわけではない。
ただ、今読みたいかと言われると少し違う。
隣の棚へ移る。
身体操作。
さらに隣。
訓練理論。
一冊の題名が目に入った。
『反復訓練における感覚基準の形成』
午前の授業を思い出す。
一を、一そのものとして覚える。
剣にも関係しそうだ。
「これにしよう」
手に取る。
席へ戻ると、少し遅れてリビアも来た。
彼女は古い結界資料ではなく、現代の基礎結界術の本を持っている。
「今日はそっち?」
「うん。古いのばっかり読んでると、現代の基本が頭の中で混ざりそうだから」
「それ分かる」
「セスは?」
本の表紙を見せる。
「アルフォルド殿下対策?」
「最初はそういう本にしようと思ったけど、やめた」
「どうして?」
「まだ五日あるし、殿下も変わるから。それに今はこっちの方が気になった」
「感覚基準?」
「今日の魔術で、一を一として覚えろって言われただろ? 剣でも同じようなことあるのかなって」
「面白そう」
「読む?」
「今は自分の読む」
「うん」
それぞれ本を開く。
同じ机。
別の本。
時々、ページをめくる音が重なる。
少し離れたところでは他の生徒が小声で司書へ質問している。窓の外からは運動場の声がかすかに届いていた。
しばらく読み進める。
本には、反復練習で「前回より強く」「前回より速く」という比較だけを使い続けると、基準が徐々にずれる場合があると書かれていた。
一定の姿勢。
一定の速度。
一定の距離。
それ自体を身体へ覚えさせる。
(魔術と似てる)
面白い。
さらに読みたい。
でも、今日は全部読まなくてもいい。
栞を挟む。
顔を上げると、リビアもほぼ同時にこちらを見た。
「終わり?」
「今日はここまでにしようかな」
「私も」
「何分くらい?」
「四十分くらい」
「同じくらいだ」
時計を見ると、本当にその程度だった。
「借りる?」
「うん。続き読みたい」
「私も借りる」
二人で立ち上がる。
その時、リビアの本の題名が目に入った。
『基礎障壁術――厚さと面積による維持効率』
「それ、次の練習に使う?」
「使えるかもしれない。でも、読んだからってすぐ新しいことはしないよ」
「薄くする練習の続き?」
「うん。まず安定させる」
「分かった」
「セスも勝手に先へ行かないでね」
「行かないよ」
「お互いにね」
「うん」
その一言が自然だった。
◇
図書館を出たところで、廊下の向こうからサザリーが歩いてきた。
「二人とも今帰りか?」
「うん」
「サザリーは?」
「教師へ昨日の共同学習の報告書を出してきたところだ」
「もう書いたの?」
「短いものだ」
「俺、昨日の紙見返しただけ」
「それでいい。提出を求められているのは俺だけだ」
「何書いた?」
「お前が気になるところは分かるが、今聞くとまた検討を始めるだろう」
言われて、口を閉じる。
リビアが横で笑った。
「最近みんなセスの扱い上手くなってない?」
「俺そんな扱いにくい?」
「研究と勉強に関しては少し」
「サザリーまで?」
「否定はしない」
ひどい。
でも、サザリーの言っていることも分かる。
「じゃあ聞かない」
「それがいい」
サザリーは少しだけ表情を緩めた。
「ただ、一つだけ。昨日の判断を今日の情報で採点し直す必要はない」
「うん。今日見返して、それは思った」
「なら十分だ」
「次、俺が課題作るやつは?」
「やってみたいか?」
「ちょっと」
「では候補としてハロルド先生へ相談しておく。まだ決定ではない」
「分かった」
「決まってから考えろ」
「まだ何も考えてないよ」
「本当か?」
「……少しだけ」
「やはりな」
リビアがまた笑った。
◇
帰りの馬車でも、俺はリビアの隣へ座った。
今日は一日、かなり普通だったと思う。
授業を受けた。
魔術で少し失敗した。
友達と昼食を食べた。
図書館で本を読んだ。
それだけだ。
でも、退屈ではない。
「セス」
「何?」
「今日の魔術、悔しかった?」
「最初の一?」
「うん」
「ちょっと」
「やっぱり」
「でも二回目は良くなったし、次またやればいいかな」
「昔だったら?」
「放課後に練習してたかも」
「絶対してたと思う」
「そこまで?」
「先生に止められなかったら」
否定しようとして、やめる。
「……してたかもしれない」
「今日はしなかったね」
「図書館行きたかったから」
「私と?」
「うん」
すぐ答えた。
リビアが黙る。
「何?」
「セス、本当にそういうの普通に言うようになったね」
「何が?」
「私と行きたかったって」
「だって行きたかったから」
「うん」
リビアが嬉しそうに笑う。
その顔を見て、俺も笑った。
「前は言ってなかった?」
「言ってくれる時もあったけど、もっと理由がついてた」
「理由?」
「私が行くから、とか。資料を探したいから、とか。護衛とか」
「ああ……」
確かに。
「今は?」
「リビアと行きたかったから」
「うん」
また笑う。
「それが嬉しい」
胸の奥が温かくなる。
午前の魔術実習で、一を一そのものとして覚えるよう言われた。
何かと比べるのではなく、その状態そのものを知る。
リビアといたい気持ちも、似たようなものなのだろうか。
婚約者だから。
幼馴染だから。
昔から仕えているから。
守りたいから。
そういう理由と比べなくても。
(俺がリビアといたい)
それ自体を、そのまま認めればいい。
そこまで考えて、昨日の古代測定器へ頭が繋がりそうになったので止めた。
「今、何か考えた?」
「魔術と気持ちを一緒に考えそうになったからやめた」
リビアが吹き出した。
「何それ」
「サザリーに、人間関係と領地運営を一緒にするなって言われたから」
「魔術とも一緒にしない方がいいと思う」
「だよね」
二人で笑う。
馬車の揺れに合わせて肩が触れる。
今日も離れなかった。
◇
屋敷へ戻ると、玄関ホールでグレイヴに呼び止められた。
「セス」
「はい」
「アルフォルド殿下との剣術交流について、学園から正式な通知が届いている」
「はい。今日、殿下からも聞きました」
「五日後の放課後。第二剣術訓練場。レイモンド先生立会い。条件は確認したか?」
「迅雷撃破なし、攻撃魔術なし、通常の身体強化まで。模擬剣、防具あり。準備込み一時間以内です」
「よろしい」
「何か追加ありますか?」
「公爵家からはない」
「じゃあ普通にやっていい?」
「学園の規定内ならな」
「分かりました」
グレイヴは一度俺を見てから続ける。
「それで、今日は練習するのか?」
「しません」
即答した。
少しだけ眉が上がる。
「理由は?」
「昨日二回振ったし、今日は魔術実習で集中したから。それに図書館で読みたい本も借りてきた」
「そうか」
「明日は身体見て決めます」
「分かった」
それだけ。
何も注意されない。
俺も「本当にいいのか」と確認しない。
自分で決めた。
それで終わりだ。
「あと、父さん」
「何だ?」
「俺、殿下との剣術で勝つために五日間全部使わなくてもいいよね?」
聞いてから、少し変な質問だったと思う。
グレイヴはすぐには答えず、俺を見る。
「お前はどう思う?」
「使わなくていいと思う」
「なら、なぜ聞いた?」
「確認したかった」
「そうか」
グレイヴの表情が少しだけ柔らかくなる。
「勝負の日まで日常を捨てなければ勝てない相手なら、五日間日常を捨てたところで急に勝てるようにはならん」
「確かに」
「必要な準備はしろ。ただし、準備と生活を取り違えるな」
「はい」
短い言葉だった。
でも十分だった。
◇
夕食後、自室で今日借りた本を開いた。
朝は何も詰め込まなかった。
放課後は図書館で四十分読んだ。
今は続きを読みたい。
だから読む。
十五分ほど進めたところで、扉が叩かれた。
「セス?」
リビアだ。
「入っていいよ」
扉が開く。
彼女の手には旅騎士の小説がある。
「読む?」
「うん」
俺はすぐに自分の本へ栞を挟んだ。
まだ読みたい。
でも、旅騎士の続きもリビアと読みたい。
どちらかを捨てたわけではない。
「今日はこっち?」
「こっち」
「即答だね」
「朝から続きを読まないで待ってたから」
リビアが少し照れたように笑う。
「じゃあ読もう」
今日は自室のソファへ並んだ。
昨夜と同じくらいの距離。
肩が触れる。
腕も少し触れる。
手は繋がない。
それでも十分近い。
物語の中では、騎士と村人たちが仮設の渡し場を作っていた。
最初の案では上流へ橋を作る予定だったらしい。
しかし雨量が増え、地盤が緩んだため場所を変える。
「条件変わった」
俺が小声で言う。
「セス、昨日の課題に見え始めてない?」
「ちょっとだけ」
「小説だよ」
「分かってる」
ページをめくる。
騎士は自分の案を捨てることに迷ったけれど、村人の老人から「橋を作るのが目的ではなく、向こう岸へ渡れるようにするのが目的だ」と言われる。
「サザリーみたい」
「分かる」
「でもサザリーならもっと難しく言いそう」
「それも分かる」
二人で声を抑えて笑う。
しばらく読んだところで、俺はふと本から目を離した。
リビアの横顔が近い。
彼女はまだ文章を読んでいる。
銀青色の髪が頬へ少しかかっていた。
(綺麗だな)
思った瞬間、自分で驚いた。
今までだってリビアが綺麗だと思ったことはある。
公爵令嬢として。
礼装を着た時。
剣を振る姿。
笑った顔。
でも今は、ただ本を読んでいるだけだ。
特別な服でもない。
何かすごいことをしているわけでもない。
それなのに目が止まった。
「セス?」
視線に気づいたらしい。
「読んだ?」
「あ……まだ」
「また考え事?」
「うん」
「今日は何?」
答えるか迷う。
婚約のことは、分かったら話すと言った。
でもこれは、その答えなのか分からない。
「リビア見てた」
「それは分かった」
「綺麗だなって思ってた」
リビアが固まった。
本を押さえていた指まで止まる。
「……今?」
「うん」
「私、普通に本読んでただけだよ?」
「うん」
「髪も屋敷に戻って少し崩れてるし」
「そう?」
「そう」
俺にはあまり分からない。
「でも綺麗だと思った」
「……セス」
「何?」
「ちょっと待って」
「うん」
リビアが本で顔の下半分を隠した。
耳まで赤い。
「大丈夫?」
「誰のせいだと思ってるの?」
「俺?」
「そう」
「ごめん」
「謝らないで」
「じゃあどうすればいい?」
「少し待って」
「分かった」
言われた通り待つ。
窓の外では、夜風が木の葉を揺らしている。
しばらくして、リビアが本を下げた。
まだ頬は赤い。
「……もう大丈夫」
「読む?」
「読む」
またページを見る。
でも今度は俺の方が内容に集中出来ない。
(綺麗って思った)
それ自体はおかしくない。
リビアは綺麗だ。
たぶん皆そう思う。
でも、さっきは誰かと比べてそう思ったわけではなかった。
ただ隣にいる彼女を見て、そう思った。
胸の鼓動が少し速い。
肩が触れているところも、いつもより気になる。
「セス」
「ん?」
「今度は読めた?」
「……もう一回」
「やっぱり」
リビアが笑った。
恥ずかしそうだけれど、嬉しそうでもある。
俺も笑うしかなかった。
◇
読書を終え、リビアを部屋の前まで送る。
「おやすみ、セス」
「おやすみ」
彼女が扉を開ける。
その前に、少しだけ振り返った。
「さっきの」
「綺麗って言ったやつ?」
「自分から言わないで」
「ごめん」
「だから謝らないで」
「難しいな」
「もう」
リビアは困ったように笑った。
「でも、嬉しかった」
「そっか」
「うん」
扉が閉まる。
俺は自室へ戻った。
机の上には、途中まで読んだ訓練理論の本がある。
続きを読むことも出来る。
でも今は、さっきのことが頭から離れない。
ベッドへ腰を下ろす。
(綺麗だった)
また思う。
胸が熱くなる。
会いたい。
隣にいたい。
触れたい時がある。
婚約者でなくなるのは嫌だ。
自分が婚約者でよかったと思う。
今日会えると思うと嬉しかった。
一緒に図書館へ行きたかった。
一人で小説の続きを読まず、彼女と読みたかった。
剣を振るところを見てほしい。
彼女の剣を見るのも好きだ。
そして、何もしていない横顔を見て、綺麗だと思った。
(……これ、あと何が分かれば答えになるんだ?)
そこまで考えて、思わず額へ手を当てた。
分からない。
いや。
本当に分からないのか。
胸の奥にあるものは、前よりずっと形を持っている。
名前だけが、まだ口から出てこない。
無理に言う必要はない。
リビアも待つと言ってくれた。
でも、以前のように「全然分からない」と言うのは、もう違う気がした。
(前より近い)
朝、馬車で自分が言った言葉を思い出す。
答えに近づいている。
たぶん、本当にそうなのだ。
窓の外を見る。
月は雲の間に半分だけ見えていた。
五日後にはアルフォルド殿下との剣術がある。
来月には実技確認もある。
古い測定器の研究も、結界の練習も続く。
明日になれば、また普通に授業がある。
だから、この答えだけを急いで探す必要はない。
それでも。
今夜、リビアを見て綺麗だと思ったことだけは、忘れないでおこうと思った。
俺は途中だった本を閉じたまま机の端へ置き、灯りを消した。
目を閉じても、さっきの横顔がしばらく残っていた。




