第45話 昔の測定器が見ていたものは、魔力の量だけではなかったのかもしれません
翌朝、目を覚ました時には、昨日の共同学習で感じていた頭の重さはほとんど残っていなかった。
身体を起こして肩を回してみても違和感はなく、魔力を軽く巡らせても普段と変わらない。窓の外では昨夜まで降っていた雨が上がっており、濡れた庭木の葉が朝日を反射していた。
(今日は剣を振っても大丈夫そうだな)
そう判断してから、俺はすぐに着替え始めた。
昨日は休んだ。
一昨日は練習した。
今日は身体も問題ない。
なら、朝の基本練習をする。
以前なら「出来るならやる」だけだった気がするけれど、最近は「昨日何をしたか」「今日何があるか」まで考えてから決めるようになった。
それが特別なことだとはもう思わない。
庭へ出ると、夜の雨が残した湿った土の匂いがした。訓練用の場所は水捌けがいいので大きな水溜まりこそないものの、芝の端にはまだ細かな雫が残っている。
木剣を握り、最初はゆっくり身体を動かした。
足運び。
重心移動。
素振り。
踏み込み。
それから、イザークとの練習で指摘された後退時の足運びを確かめる。
以前より引っかからない。
前へ出る時よりも、下がる時に重心が浮きやすかったけれど、最近はかなり減っている。
(イザークも上手くなってたんだよな)
あいつの足を見て、自分も修正した。
俺だけが教えるわけでも、俺だけが勝つわけでもない。
そういう相手が学園にいるのは楽しい。
木剣を振りながら、六日後に仮予定を入れているアルフォルド殿下との剣術を思い出した。
まだ正式な許可は出ていない。
今日あたり返事があるかもしれない。
(殿下も練習するって言ってたし、楽しみだな)
ただし、そのために今日から毎日練習量を増やす必要はない。
今朝は二十分。
迅雷撃破は使わない。
基本動作と足運びだけ。
決めた範囲を終えたところで木剣を下ろすと、身体にはほどよい熱が残っていた。呼吸は少し速くなっているものの苦しくはなく、腕や脚にも妙な張りはない。
「よし」
そこで終える。
もう十分だった。
◇
朝食の席へ向かうと、今日はリビアが先に来ていた。
「おはよう、セス」
「おはよう。今日は早い」
「昨日が遅かっただけでしょう?」
「十二分」
「覚えてなくていいの」
少し頬を膨らませるリビアを見ながら席へ座ると、向かい側で新聞を読んでいた旦那様が小さく笑った。
グレイヴは何も言わず俺の前へ紅茶を置いたけれど、その顔にもほんの少し笑みがある。
「今日は剣を振ったの?」
リビアが聞いてくる。
「二十分くらい。基本だけ」
「調子は?」
「普通。頭も身体も問題ない」
「昨日は結構疲れてたでしょう?」
「帰った時は六くらいだったけど、リビアの部屋で休んで四くらいまで下がった。その後も早く寝たから、今朝は一くらいかな」
「それならよかった」
リビアはそう言ってから、自分の皿へ視線を戻した。
昨日、彼女の部屋で手を繋いだことを思い出す。
用事があったわけではない。
会いたかった。
話したかった。
それから、昨日は手も繋ぎたかった。
(俺、前よりずっと自分からリビアのところに行くようになったな)
そう考えた瞬間、胸の奥が少しくすぐったくなる。
昨日の夜、自室で考えたことも残っている。
最初は無理だと思っていた婚約。
今は婚約者でなくなる方が嫌だ。
その変化を、もう否定する気はなかった。
「セス?」
「ん?」
「パン取って」
「あ、ごめん」
近くにあった籠を渡す。
「考え事?」
「ちょっと」
「昨日の課題?」
「それもあるけど」
そこで言葉を止める。
リビアが待っている。
急かさない。
「婚約のこと」
言ってから、自分でも少し恥ずかしくなった。
リビアの手が止まる。
「……朝から?」
「昨日の夜から」
「どんなこと?」
「まだ上手く言えない」
「そっか」
それ以上聞いてこない。
でも、リビアの口元は少しだけ緩んでいた。
「分かったら話す」
「うん。待ってる」
その返事が嬉しくて、俺も少し笑った。
◇
馬車へ乗ると、今日も俺はリビアの隣を選んだ。
向かい側へ座る理由がない。
リビアももう確認しなかった。
ただ俺が隣へ腰を下ろすと、ほんの少しだけ身体をこちらへ寄せて場所を空けてくれる。
窓の外では、雨上がりの道が朝日を受けて薄く光っていた。車輪が小さな水溜まりを踏むたびに水音がして、時折、窓ガラスへ細かな飛沫が跳ねる。
「今日は図書館?」
俺が聞くと、リビアは首を横へ振った。
「今日は委員会。実技確認の移動経路について少し話すの」
「雨の日の?」
「それも。昨日みたいに前日の夜から雨が降った場合、訓練場までの道が滑りやすくなる場所があるでしょう?」
「ああ、東側の渡り廊下を出たところ?」
「そこ。人数が多いと危ないから、雨天時だけ別経路にする案が出てる」
「委員会でそこまで決めるんだ」
「先生が最終的に決めるけど、生徒側から混雑しやすい場所を出すの」
「なるほど」
リビアにはリビアの役割がある。
結界研究だけでもない。
俺の婚約者であることだけでもない。
そういう彼女の話を聞くのが、最近は前より好きになっている気がする。
「セスは?」
「今日は特に予定ない。授業終わったらイザークと剣するかもしれないけど」
「アルフォルド殿下との予定、返事来るかな?」
「たぶん」
「見に行ってもいい?」
「正式に決まったらね」
「うん」
リビアが楽しそうに頷く。
「でもセス」
「何?」
「私が見てるからって格好つけて無茶しないでね」
「しないよ」
「本当に?」
「迅雷撃破も使わないし、怪我するような勝負にはしないって殿下とも話してる」
「それならいいけど」
「それに」
少し考えてから続ける。
「リビアが見てるなら、怪我するところよりちゃんと剣振ってるところ見せたい」
言った後で、自分の言葉に気づく。
リビアも一瞬黙った。
「……それ、結構嬉しい」
「そう?」
「うん」
彼女は窓の方へ顔を向けた。
耳が少し赤い。
俺の顔も熱くなってきたので、しばらく二人とも外を見た。
◇
学園へ着き、午前の授業を受ける。
一限目の歴史では北方諸領の旧街道整備について扱い、昨日の共同学習で考えた物流の話を少し思い出した。ただし今日は条件を勝手に増やさず、教師が説明している内容だけをノートへ書く。
二限目の魔術基礎では、複数属性を扱う術者の訓練順序について簡単に触れられた。
単属性を十分に安定させた後、二属性目へ移る。
複数適性者であっても、一つずつ制御を身につけるのが一般的。
俺の場合は幼い頃から色々使っていたので、あまり実感がない。
(普通は切り替えること自体を練習するんだよな)
古い測定記録のことが頭に浮かぶ。
火から風へ。
風から火へ。
切り替えにわずかな時間差が記録されていた二属性術者。
俺自身はほとんど遅れを感じない。
だからこそ、昔の測定器が何を見ていたのかが気になる。
授業が終わったところで、教卓の近くにいたベルナルト先生が俺を呼んだ。
「クルセス。昼休み、少し時間はあるか?」
「あります」
「パウリーも一緒で構わない」
隣で教科書を片づけていたリビアが顔を上げる。
「測定器ですか?」
「察しがいいな」
「本当ですか?」
思わず身を乗り出しかける。
ベルナルト先生が俺の顔を見る。
「まず確認するが、今日は頭は?」
「一くらいです」
「身体は?」
「問題ありません。朝、二十分だけ剣を振りました」
「その後は?」
「普通です」
「よし」
先生は頷いた。
「昼食を食べてから来い。急いで食べるな。昼休み後半二十分ほどだ」
「はい」
「それと、見るだけだ」
「触らない?」
「触る物そのものがない」
「じゃあ資料?」
「そうだ」
先生はそこで少し笑った。
「ようやく見せても、お前がその場で倒れるほど考え込まない状態になったからな」
「倒れません」
「比喩だ」
「分かってます」
リビアが横で笑っていた。
◇
昼食では、ベルナルト先生から呼ばれたことを皆には詳しく話さなかった。
研究途中の資料だからだ。
ただ、俺がいつもより時計を気にしていたらしく、イザークにはすぐ気づかれた。
「今日なんかあるのか?」
「昼休み後半にベルナルト先生のところ」
「魔術?」
「うん」
「また難しいやつ?」
「まだ分からない」
「お前が難しいって言うやつ、俺には絶対分からないから聞かない」
「聞いてみたら分かるかもしれないだろ」
「じゃあ一言で説明してみろ」
「昔の魔力測定器に入ってた中継板が、入力された魔力の量をそのまま伝えてたんじゃなくて、変化の一部を強調して魔石へ送ってた可能性があって――」
「やっぱり聞かない」
「まだ途中なのに」
ミリアナが笑い、ナナリーも口元を押さえる。
サザリーは少し興味を持ったらしい。
「変化というのは属性切替か?」
「それも候補。でも、まだ何の変化を拾ってたのか分からない」
「なら測定結果そのものの解釈が変わる可能性があるのか」
「そう」
「サザリー、何で分かるんだよ」
「今の説明なら分かるだろう」
「俺には分からん」
イザークが首を振る。
「剣で言ってくれ」
「剣?」
少し考える。
「相手の剣がどれくらい重いか測ってると思ってた道具が、実は剣が当たった瞬間の衝撃の変化を大きく見せる道具だったかもしれない、みたいな感じ?」
「ああ、それなら分かる」
「合ってる?」
リビアを見る。
「大まかには」
「よかった」
アルフォルド殿下も会話を聞いていたらしく、食事の手を止めた。
「そういえばクルセス。剣術の件だが、許可が出た」
「本当ですか?」
「ああ。予定通り六日後の放課後、第二剣術訓練場。レイモンド先生が立ち会う」
「分かりました」
「条件も予定通りだ。迅雷撃破なし、攻撃魔術なし、通常の身体強化まで。模擬剣を使用して、防具あり」
「はい」
「時間は?」
「準備込みで一時間以内。実際に剣を合わせるのはもっと短い」
「分かりました」
正式に決まった。
嬉しくなって、思わず笑う。
「楽しみです」
「俺もだ」
アルフォルド殿下も笑った。
カイゼル殿下がすぐに口を挟む。
「見学は?」
「教師の邪魔をしない範囲なら構わないそうだ」
「行く」
「僕も見たいです」
イザークも即答する。
リビアは俺を見る。
「私も」
「うん」
見てもらえる。
さっき馬車で話したことを思い出して、少しだけ胸が熱くなった。
(ちゃんとしたところ、見せたいな)
勝つところ、ではない。
強いところだけでもない。
俺が今どんな剣を振っているのかを、見てほしいと思った。
◇
昼食を終え、俺とリビアはベルナルト先生の研究室へ向かった。
魔術研究棟の二階。
窓から差し込む昼の光が廊下へ長く伸び、雨上がりの湿った風が少しだけ入り込んでいる。
扉を叩く。
「入れ」
中にはベルナルト先生だけでなく、エレナ先生もいた。
机の上には数枚の写本と、一枚の大きな紙が広げられている。
「エレナ先生も?」
「安全確認役というより、今回は現代魔術側の確認ね」
「実験はしないんですよね?」
「しないわよ」
「よかった」
「残念そうにも見えるけど?」
「気にはなります」
「正直ね」
エレナ先生が笑う。
俺とリビアは机の前へ並んだ。
ベルナルト先生が大きな紙をこちらへ向ける。
「これが以前話した部分断面図の写しだ」
初めて見る。
古い記号が並び、その中央を一本の細い経路が通っている。
左側。
入力部。
そこから細い管状の構造。
中央に、薄い板。
その先に小さな魔石らしい図。
さらに右側にも線は続いているが、途中で紙そのものが欠損している。
「ここが中継板?」
俺が指を近づける。
「触らないなら指していい」
「はい」
薄い板の横には、古い文字で注記がある。
読めない部分も多い。
「これ、厚さ?」
リビアが先に気づいた。
「そうだ」
ベルナルト先生が頷く。
「正確な単位換算はまだ出来ない。ただし、他の部品との比率を見る限り、かなり薄い」
「魔力を弱めるためなら、もっと厚くてもいい?」
俺が聞く。
「素材次第だがな。少なくとも、この記録だけから減衰板と断定する理由は薄くなった」
先生が別の写本を置く。
「そして、問題の古称素材だ」
そこには一つの単語が書かれていた。
古代文字。
横に現代語で複数の候補。
「候補が三つ?」
「訳語としては三つ。ただし、素材名として対応する可能性があるのは現時点で一つだ」
「どれですか?」
ベルナルト先生が一番下を指す。
「仮に『響晶薄片』と呼んでいる」
「響晶?」
聞いたことがある。
でも魔術道具の主要素材としてはあまり使わない。
「音に使うやつですか?」
「現代ではな」
エレナ先生が答える。
「微細な振動を拾う性質があるから、精密な音響魔道具や、一部の警報器に使われることがある。ただし高価だし脆い。普通の魔力測定器にはまず使わない」
「魔力にも反応するんですか?」
「そこが問題なのよ」
エレナ先生が腕を組む。
「現代の響晶は、魔力そのものを大量に通す素材としては優秀じゃない。でも、一定の魔力を流した状態で入力が急に変化すると、ごく小さな共振が出ることがある」
俺は断面図へ目を戻した。
(一定の魔力じゃなくて、変わった瞬間に反応する?)
火から風へ切り替える。
その途中。
属性が変わる境目。
そこを拾っていたなら。
「先生」
「何だ?」
「古い測定器って、魔力の量を測ってたんじゃなくて、変わった瞬間を見てた可能性あります?」
ベルナルト先生はすぐには答えなかった。
嬉しそうでも否定的でもない。
慎重に断面図を見る。
「可能性はある」
「じゃあ――」
「ただし」
言葉を重ねられ、俺は口を閉じる。
「まだ三段階ほど飛ばした」
「三段階」
「第一に、古称素材と現代の響晶が本当に同一系統か確認出来ていない。第二に、仮に同系統でも古代の加工法によって性質が違う可能性がある。第三に、この板が変化を拾っていたとしても、何の変化を拾っていたのかは分からない」
「魔力量かもしれない?」
「そうだ。属性かもしれない。流量かもしれない。魔力圧かもしれない。複数の要素かもしれない」
「なるほど……」
面白い。
ものすごく面白い。
でも先生の言う通り、まだ分からない。
リビアが断面図をじっと見ている。
「リビア?」
「これ……結界の記録と少し似てる」
「どこが?」
「同じ素材って意味じゃないよ」
リビアが自分の鞄から小さなノートを出す。
開いたページには、彼女が以前調べていた古い結界の機能分離について書かれていた。
「古い結界って、一枚の障壁ですべてを止めるんじゃなくて、外側と内側で役割を分けていた可能性があるでしょう?」
「うん」
「外側で衝撃を受けて、内側で魔力干渉を抑えるとか」
「ああ」
「選択透過の記録も、全部の魔力を見るんじゃなくて、基準になる反応との差を見て通すか止めるか決めてた可能性がある」
リビアの指が、中継板の図の上で止まる。
「これも、全部をそのまま測定部へ送るんじゃなくて、必要な変化だけ取り出すための層だったとしたら、考え方は似てない?」
「……」
俺は図を見る。
ベルナルト先生を見る。
エレナ先生を見る。
二人とも黙っている。
「先生?」
「続けろ」
「俺が?」
「今、パウリーの話を聞いて何を考えた?」
もう一度図を見る。
(必要なものだけを見る)
量全部ではない。
変化。
差。
境目。
「古い記録にあった切り替え時間って……」
ゆっくり言葉にする。
「術者が火から風に変えるのにかかった時間じゃなくて、測定器が『火の状態から変化が始まった』のを拾って、『風として安定した』って判断するまでの時間だった可能性もあります?」
ベルナルト先生が頷く。
「それが、今考えている仮説の一つだ」
「じゃあ昔の記録と俺の感覚が違うのも――」
「待て」
「はい」
「また飛んだ」
「……はい」
思わず背筋を伸ばす。
エレナ先生が笑いを堪えている。
「クルセス。そこは変わらないわね」
「気になるんです」
「知ってる」
ベルナルト先生が古い記録を指す。
「お前と古代の二属性術者は別人だ。魔力量も技量も属性も違う。そもそもお前の感覚が客観的な時間と一致している保証もない」
「はい」
「だから『古い測定器のせいで遅く見えた』と結論づけることは出来ない」
「でも可能性はある?」
「ある」
「じゃあ調べられますよね?」
「そのために見せた」
胸が弾む。
「何からやります?」
「今日は何もしない」
「え?」
「資料を見る日だ」
「でも――」
「クルセス」
リビアに呼ばれる。
「はい」
「先生、最初に見るだけって言ってたでしょう?」
「……言ってた」
「じゃあ見るだけ」
「はい」
エレナ先生が吹き出した。
「パウリーに教えられると素直ね」
「先生でも聞きますよ」
「本当?」
「たぶん」
「そこは『はい』でしょう」
研究室の空気が少し緩む。
ベルナルト先生も小さく息を吐いてから、別の紙を取り出した。
「次に確認するなら、実物の再現ではない」
「じゃあ何を?」
「現代の響晶が、魔力入力の変化にどう反応するか。すでにある研究記録を探す」
「新しく流さない?」
「まだな」
「なるほど」
「それから、古称素材が響晶と同系統かどうか、別の資料から照合する。少なくとも二系統以上の記録が欲しい」
「分かりました」
「お前がやるのは?」
「資料探し?」
「教師が選んだ資料を読むところまでだ」
「選ぶのは先生?」
「そうだ」
「自分で書庫漁るのは?」
「まだ駄目だ」
「どうして?」
「古い素材名は同じ語が別物を指す場合がある。お前が一つ見つけて喜んで結論へ走るのが目に見える」
「走りません」
三人から同時に見られた。
「……たぶん」
「正直でよろしい」
エレナ先生が笑った。
◇
そこからは、実際に何かを試すのではなく、断面図そのものを二人で読み込んだ。
入力部から中継板までの距離。
板の前後に書かれた注記。
魔石の位置。
欠損している先の構造。
リビアは結界研究で古い資料に慣れているからか、俺が見落としていた小さな記号へ何度も気づいた。
「これ、同じ印じゃない?」
「どれ?」
「ここ。板の前と、魔石の横」
「本当だ」
同じような小さな三角形がある。
ベルナルト先生が身を乗り出した。
「よく気づいたな」
「意味は?」
「分からん」
「分からないんですか?」
「分からないものは分からない」
即答だった。
「ただ、同じ記号が二箇所にあること自体は記録しておく価値がある」
リビアがノートへ写す。
「同じ機能?」
俺が聞く。
「かもしれないし、同じ素材を示す記号かもしれない。測定点かもしれない。組立番号かもしれない」
「候補多いな」
「だから決めつけない」
「はい」
昨日の共同学習と同じだ。
情報が足りない。
だからといって全部の可能性を同時に追う必要はない。
(今分かってるのは、同じ記号が二箇所にあることだけ)
それでいい。
「セス」
「何?」
「こっちも」
リビアが紙の端を指す。
欠損部分のすぐ手前。
薄く残った線が、一本ではなく二本に分かれている。
「分岐?」
「そう見える」
「魔石の後で二つに?」
「でも紙が切れてるから、その先は分からない」
「うわ、気になる」
「分かる」
二人で同時に欠損部分を見る。
何もない。
紙がないのだから当然だ。
「見ても生えてこないぞ」
ベルナルト先生に言われた。
「分かってます」
「セス、本当に紙の端ずっと見てたね」
「リビアもだろ」
「私はセスより先にやめた」
「ほんの少しじゃん」
エレナ先生が笑っている。
でも、こうしてリビアと同じ資料を見るのは楽しかった。
俺は魔力変換の側から見る。
リビアは結界や機能分離の側から見る。
同じ紙なのに、気づく場所が違う。
(リビアが一緒でよかった)
自然にそう思った。
「リビア」
「何?」
「一緒に見てもらえてよかった」
口にすると、リビアが少し目を丸くする。
「私も楽しいよ」
「俺だけだったら、たぶん中継板ばっかり見てた」
「私は逆に、セスがいなかったら属性切り替えとの関係はそこまで考えなかったと思う」
「じゃあちょうどいい?」
「うん」
彼女が笑う。
その顔を見た瞬間、資料とは別のところで胸が温かくなった。
俺はすぐに断面図へ目を戻したけれど、その感覚はしばらく消えなかった。
◇
二十分は思っていたより早く過ぎた。
「今日はここまで」
ベルナルト先生が紙を回収する。
「もう?」
「二十分と言った」
「あと五分くらい」
「駄目だ」
「三分」
「値切るな」
「研究時間って値切れるんですか?」
「今お前がやっただろう」
リビアが肩を震わせる。
「セス、帰ろう」
「分かった」
名残惜しい。
でも、今日は見るだけ。
次に何を確認するかも決まった。
現代の響晶に関する既存研究。
古称素材との照合。
断面図にある同じ記号。
欠損直前の分岐。
十分だ。
研究室を出る直前、俺はベルナルト先生へ振り返った。
「先生」
「何だ?」
「資料見つかったら教えてください」
「お前の状態と授業予定を見てからな」
「はい」
「それと、自分で響晶を買うなよ」
「買いません」
「魔道具屋で探すな」
「探しません」
「グレイヴ殿に頼むな」
「頼みません」
「パウリー公爵家の倉庫を確認するな」
「しませんって」
「ならよし」
リビアが俺を見る。
「セス」
「何?」
「ちょっと考えたでしょう?」
「何を?」
「倉庫にあるかなって」
「……一瞬だけ」
「やっぱり」
研究室の中からエレナ先生の笑い声が聞こえた。
◇
午後の授業を終える頃には、朝から晴れていた空に薄い雲が戻ってきていた。
雨になるほどではなさそうだ。
今日はリビアが委員会。
俺はイザークと第二剣術訓練場へ向かった。
「殿下とのやつ決まったんだろ?」
「うん。六日後」
「俺も見に行く」
「授業とか予定なければね」
「絶対空ける」
「無理に空けなくていいだろ」
「友達が第一王子と剣でやり合うんだぞ。見るだろ普通」
「普通?」
「普通」
その普通が本当に普通なのかは分からない。
でも、見に来てくれるのは嬉しい。
今日は互いに基本動作を中心にして、最後に軽く打ち合う。
迅雷撃破はなし。
強い身体強化もなし。
俺が前へ出ると、イザークが受けて下がる。
以前より足が乱れない。
「やっぱり上手くなってる」
「お前に言われると腹立つな」
「褒めてるのに」
「分かってるから余計にだ」
今度はイザークが前へ出る。
俺が下がる。
足を交差させない。
重心を浮かせない。
相手の肩と腰を見る。
木剣がぶつかり、乾いた音が訓練場へ響く。
何度か往復してから、イザークが距離を取った。
「六日後、どう戦う?」
「まだ決めてない」
「珍しい」
「殿下も練習するって言ってたから、今決めても変わるかもしれないし」
「じゃあ当日?」
「前日くらいには考える」
「お前、前より適当になった?」
「違うと思う」
「じゃあ何だ?」
少し考える。
「全部先に決めなくなった」
「それ、同じじゃないのか?」
「違う」
「分からん」
俺も説明しようとして、やめた。
「俺もまだ上手く説明出来ない」
「じゃあいい」
イザークは木剣を肩へ乗せた。
「当日、面白い試合にしろよ」
「殿下にも言って」
「言う」
「両方に言うの?」
「どっちが勝っても面白ければいい」
それはイザークらしい。
◇
訓練を終え、着替えてから昇降口へ向かう。
委員会はまだ終わっていないらしい。
リビアを待つか。
先に帰るか。
昨日は彼女が俺を待たずに帰った。
今日は俺の方が早い。
(待ちたいかな)
疲れているわけではない。
急いで帰る理由もない。
なら待ってもいい。
ただ、終わる時間が分からないまま一時間も二時間も待つのは違う。
俺は委員会で使っている部屋の近くまで行き、廊下にいた担当教師へ声をかけた。
「すみません。委員会、あとどれくらいですか?」
「あと十五分ほどだと思うぞ」
「ありがとうございます」
十五分。
なら待つ。
近くの窓際に長椅子がある。
そこへ座り、鞄から剣術の本を出す。
待つために何かをしなければならないわけではないけれど、読みたいから読む。
ページを開く。
五分ほど読んだところで、昼に見た断面図が頭へ浮かんだ。
(響晶……)
気になる。
ものすごく気になる。
でも、自分で探さないと約束した。
剣術の本へ意識を戻す。
さらに何ページか進んだ頃、廊下の向こうで扉が開いた。
数人の生徒が出てくる。
リビアもいた。
彼女は俺を見つけると、一瞬足を止めた。
「セス?」
「お疲れ」
「待ってたの?」
「うん。あと十五分って聞いたから」
「先に帰っててもよかったのに」
「今日は待ちたかった」
そう言うと、リビアがゆっくり笑った。
「そっか」
「昨日はリビアが先に帰ったし、毎日同じじゃなくていいだろ?」
「うん」
彼女が俺の隣まで来る。
「剣どうだった?」
「イザークと軽く。殿下との日程も正式に決まった」
「本当?」
「六日後。第二剣術訓練場」
「行く」
「委員会なければね」
「確認する」
「無理に変えなくていいよ」
「分かってる。でも見たいから、予定がなければ行く」
「うん」
それでいい。
◇
帰りの馬車では、リビアが今日の委員会について話してくれた。
雨天時の移動経路は、東側の渡り廊下を避ける案が有力。
ただし別経路は階段が狭いため、学年全体を一度に動かさず班ごとに時間をずらす必要がある。
「まだ決定じゃないよ」
「先生が確認する?」
「うん。あと、実際に雨の日に歩いてみるかもしれない」
「リビアも?」
「委員の何人かで」
「滑らない靴で行ってね」
「分かってる」
俺が言うと、リビアが笑う。
「セス、そこは心配するんだ」
「するよ」
「止めはしない?」
「必要な確認なら」
「成長したね」
「何でも止めてたみたいに言わないで」
「前は結構言ってたよ」
「……そうかも」
否定出来ない。
「昼の資料、面白かったね」
リビアが話題を変える。
「うん」
「まだ考えてる?」
「ちょっと」
「響晶?」
「うん」
「買っちゃ駄目だよ」
「買わないって」
「倉庫も駄目」
「先生と同じこと言わないで」
笑いながら返す。
「でも、リビアが結界の話してくれたの助かった」
「機能を分けるってところ?」
「うん。俺、一人だったら属性切り替えのことばっかり考えてたと思う」
「私は逆だった」
「じゃあやっぱり一緒でよかった」
「うん」
馬車が少し揺れる。
肩が触れた。
離れない。
リビアも離れなかった。
窓の外を流れる町並みを見ながら、俺はそのまま座っていた。
(こういうのも好きだな)
直接言葉にするほど大きなことではない。
でも、肩が触れていること。
同じ資料を見たこと。
別々のことをしてから一緒に帰っていること。
全部、心地いい。
◇
屋敷へ戻り、夕食まで少し時間があった。
自室へ入る。
机の引き出しを開けると、昨日の共同学習の紙が入っている。
「そうだった」
昨日、今日見ると決めた。
取り出す。
机へ広げる。
最初の案。
追加条件後の案。
最終案。
赤く書き直した部分。
見返してみると、昨日ほど「もっと良い答えがあったんじゃないか」という気持ちは強くない。
(今なら別の案も考えられる。でも、それは今日だからだ)
昨日は昨日の情報と時間で決めた。
それでいい。
ただ、次に似た課題をやるなら、変更した理由をもう少し短く書けそうだ。
それだけ余白へ記す。
十分もかからなかった。
紙を閉じる。
次に、今日の古代測定器について書きたくなる。
でもベルナルト先生から、資料を勝手に広げるなと言われている。
自分が見た範囲を整理するだけならいいだろうか。
少し迷って、ノートへ四つだけ書いた。
『中継板は薄い』
『響晶系素材の可能性。ただし未確定』
『同じ記号が中継板前と魔石横にある』
『魔石後に分岐らしき線。先は欠損』
それ以上は書かない。
仮説を書き始めると増える。
「今日はここまで」
ノートを閉じた。
◇
夕食後。
俺はリビアと小さな談話室へ行った。
今日は本を持っている。
前に二人で読んでいた旅騎士の小説だ。
「続き読む?」
「読む」
一冊を二人の間へ置く。
ソファに並ぶ。
前と同じように、互いの読む速さを気にしながらページを進める。
物語の中では、主人公の騎士が山間の村へ到着したところだった。
崩れた橋。
雨。
村人。
「昨日の課題みたい」
俺が言う。
「本当だ」
「橋直すのかな」
「騎士一人で?」
「魔術使える」
「土属性?」
「主人公、風と土」
「便利だね」
二人で読み進める。
主人公は橋を直さなかった。
村人と一緒に、上流に仮設の渡し場を作り始めた。
「直さないんだ」
「時間かかるからかな」
「雨まだ降るみたいだしね」
昨日の課題を思い出す。
でも答え合わせをしている気分にはならない。
物語は物語。
課題は課題。
俺たちの生活は、どちらでもない。
何ページか進んだところで、リビアがページの端を押さえている指へ目が行った。
細い指。
今日は手を繋いでいない。
繋ぎたいか考える。
(今日は、このままがいいかな)
一緒に本を持っている。
肩も触れている。
それで十分だった。
「セス」
「何?」
「読んだ?」
「あ、ごめん。もう一回」
「考え事してた?」
「うん」
「研究?」
「違う」
「剣?」
「違う」
「じゃあ何?」
少し迷う。
でも隠すほどでもない。
「リビアの手見てた」
彼女の指が止まる。
「……どうして?」
「手繋ぎたいかなって考えてた」
「それで?」
「今日はこのままでいいかなって」
「そっか」
「嫌だった?」
「ううん」
リビアは少しだけ俺側へ身体を寄せた。
肩だけだった接触が、腕まで触れる。
「じゃあ今日はこれで」
「うん」
また読む。
文字へ視線を戻したのに、少しの間だけ内容が頭へ入らなかった。
隣が温かい。
それが気になる。
嫌ではない。
むしろ、離れないでほしい。
(俺、本当に変わったな)
最初の頃なら、こんな距離で座るだけでも理由を探していた気がする。
婚約者だから。
リビアが望むから。
公爵令嬢だから。
主人だから。
そういう理由。
今は違う。
俺がここにいたい。
それだけで座っている。
その違いを、昨日より少しはっきり感じた。
◇
読書を終え、自室へ戻る。
窓の外には雲の切れ間から月が見えていた。
机の上には剣術の本。
古代測定器について書いたノート。
昨日の共同学習の紙。
全部違う。
剣も。
魔術も。
領地運営の勉強も。
リビアと読む小説も。
学園へ来てから、やりたいことが増えた。
会いたい人も増えた。
イザークと剣を振りたい。
サザリーとまた課題をやってみたい。
ベルナルト先生と古い測定器を調べたい。
エレナ先生に魔術のことを聞きたい。
アルフォルド殿下とも剣を合わせたい。
そして。
(リビアの隣にいたい)
それは、他のどれより自然に浮かんだ。
胸の奥に残る感覚へ、まだ名前はつけない。
つけなくても消えないことは、もう分かっている。
昔の俺は、自分が公爵令嬢の婚約者になるなんて無理だと思っていた。
今は、その昔の答えを思い出しても、以前ほど正しいとは感じない。
むしろ。
(どうして、あんなに無理だって決めてたんだろう)
身分が違うから。
俺が元平民だから。
執事だから。
リビアが公爵令嬢だから。
理由はいくつもあった。
今でも、その事実自体は変わっていない。
俺の生まれが変わったわけではないし、リビアが公爵令嬢でなくなったわけでもない。
変わったのは、たぶん俺の見方だ。
昨日の課題とは違う。
新しい条件が追加されたわけではない。
最初からあったものを、俺が少しずつ見られるようになっただけなのかもしれない。
リビアが俺を選んだこと。
俺が彼女といると楽しいこと。
離れていれば会いたいと思うこと。
隣に座りたいこと。
触れたい日もあれば、触れなくても一緒にいるだけで満足出来ること。
婚約者でなくなる未来を想像すると嫌だと思うこと。
そして、俺自身が婚約者であることを、以前ほどおかしいと思わなくなっていること。
(まだ分からないことはある)
でも、それでいい。
昔の測定器だって、今日だけでは答えが出なかった。
中継板が何を拾っていたのか。
響晶なのか。
同じ記号は何なのか。
欠けた先に何があったのか。
分からないから調べる。
人の気持ちを魔術道具と同じにするつもりはないけれど、分からないからといって、無理に答えを作る必要がないところだけは似ている気がした。
俺は窓を閉め、机の灯りを落とす。
六日後にはアルフォルド殿下との剣術がある。
古代測定器の調査も続く。
リビアとの結界練習も、まだ始まったばかりだ。
明日になれば、また授業がある。
全部を急いで終わらせなくていい。
今分かっていることを一つずつ確かめて、分からないものは分からないまま持っていけばいい。
ベッドへ入る直前、今日リビアと並んで本を読んでいた時のことを思い出した。
肩と腕が触れていた。
手は繋がなかった。
それでも離れたくなかった。
その記憶だけで、胸の奥が少し温かくなる。
(明日も会える)
当たり前のことなのに、それが嬉しかった。
俺はその気持ちに無理やり名前をつけることなく、今夜はそのまま目を閉じた。




