第43話 婚約者に魔法を教えてもらうだけなのに、近すぎると集中する場所が変わります
翌朝、目を覚ました俺は、昨日の夜のことをかなり鮮明に覚えていた。
リビアと一緒に小説を読んだこと。
俺から会いに行こうと部屋を出たら、向こうも同じことを考えて歩いてきたこと。
肩が触れる距離で座って、俺から手を繋ぎたいと言ったこと。
それから。
『リビアと一緒にいたいんだと思う』
『今は、婚約者でよかったって思う』
「……言ったな」
枕へ顔を半分埋めたまま呟く。
昨日はちゃんと言えた。
嘘でもない。
今になって撤回したいとも思わない。
ただ、朝になって改めて思い出すと、ものすごく恥ずかしい。
「何であんなに言えたんだろ……」
夜だったからだろうか。
二人だけだったからかもしれない。
手を繋いでいたせいもある気がする。
でも、言った内容そのものは今も変わらない。
俺はリビアと一緒にいたい。
婚約者でよかった。
そこまでは分かった。
好き、という言葉についてはまだ自分の中で完全には繋がっていないけれど、だからといって昨日分かったことまでなかったことにする必要はない。
俺は布団から起き上がり、窓を開けた。
朝の空気は昨日より少し暖かい。空は薄く雲が広がっているものの、雨が降るような色ではなく、庭からは使用人たちが朝の準備を始める小さな物音が聞こえてきた。
身体の疲れはほとんどない。
昨日は剣術の授業があっただけで、自主練はしていない。
頭も軽い。
「今日は剣やるか」
そう決めて、訓練着へ着替える。
ただし長くはやらない。
昨日の授業で教師から言われた、実技確認で見せるのに適した速度を確かめておきたい。
最大まで上げるのではなく、指定された範囲へ収める。
魔術だけではなく、剣でも同じ。
今日はそこを意識する。
◇
朝の訓練場へ出ると、薄い雲の隙間から朝日が差し始めていた。
木剣を持ち、身体を温める。
昨日の授業で疲労は残っていないけれど、それと準備を省いていいことは別だ。
肩。
肘。
手首。
腰。
膝。
足首。
一通り動かしてから、基本の構えを取る。
「全力じゃなくて、手抜きでもなくて……」
昨日の教師の言葉を思い出す。
実技確認では、俺がどこまで速く動けるかだけを見たいわけではない。
基本姿勢。
足運び。
攻防判断。
指定された形式の中で、どれだけ正確に動けるか。
だから今日は速さを上げる練習ではなく、一定の速さを保つ。
一歩。
振る。
止める。
戻す。
もう一度。
今度も同じ。
三回目も。
意外と難しい。
速くするなら、身体が動くままに任せればいい。
でも同じ速度を維持しようとすると、一回ごとの踏み込みや腰の回転まで意識しなければならない。
「魔術と似てるな」
指定出力三十なら三十。
二十でも五十でも駄目。
剣も、教師が求めている速度と動作へ合わせる。
何度か繰り返したところで、少し感覚が掴めてきた。
そこから速くしたくなる。
もう少しだけ。
さらに一段。
身体は動く。
でも今日はそれをする日ではない。
俺は木剣を構え直し、同じ速度へ戻した。
十五分ほど基本動作を続け、最後に足運びを確認する。
予定していた時間になった。
「終わり」
木剣を下ろす。
今日は「あと一回」が出る前に終われた。
少し嬉しい。
木剣を片づけ、屋敷へ戻った。
◇
朝食の席へ入る。
リビアはもう座っていた。
目が合った。
「おはよう、セス」
「おはよう」
普通の挨拶。
なのに昨日の夜を思い出す。
リビアも同じなのか、俺を見ていた目が少しだけ逸れた。
俺も席へ座る。
何となく落ち着かない。
「今日は剣やった?」
「うん」
「何分?」
「三十分くらい」
「何したの?」
「実技確認用の速度を意識して基本」
「全力出さない練習?」
「そう」
「ちゃんと出来た?」
「たぶん」
いつもの会話だ。
少しずつ落ち着いてくる。
グレイヴが朝食を並べながら、俺とリビアを一度ずつ見た。
「何かありましたか?」
「何が?」
「いえ」
「何?」
「何でもありません」
絶対何か気づいている。
「グレイヴ」
「はい」
「今、何で俺とリビア見たの?」
「朝からお二人とも妙に静かでしたので」
「静か?」
リビアが聞き返す。
「普段ならクルセス様が朝の訓練についてもう二つほど話し、お嬢様が一つ注意する頃かと」
「そんなに決まってる?」
「大体は」
旦那様まで新聞越しにこちらを見る。
「喧嘩でもしたか?」
「してません!」
俺とリビアの声が重なった。
余計に怪しくなった。
旦那様が新聞を少し下げる。
「ならいい」
「本当に何もないです」
「聞いていないぞ」
「でも」
「セス」
リビアが小さな声で止める。
「説明しなくていいから」
「あ」
危なかった。
何を説明するつもりだったんだ、俺。
昨日、手を繋いで小説を読んで、婚約者でよかったと言って――。
絶対に朝食の席で報告する内容ではない。
「何でもないです」
「そうか」
旦那様は新聞へ戻った。
口元が少し笑っているように見える。
リビアが俺の方へ身を寄せ、小声で囁く。
「セス、顔赤い」
「リビアも」
「セスのせい」
「何で俺?」
「昨日あんなこと言うから」
「リビアだって言っただろ」
「私は前から言ってるもの」
「……そうだった」
リビアはずっと俺が好きだと言っている。
俺だけが最近になって少しずつ追いついている。
「それより」
リビアが声を戻す。
「今日、放課後どうする?」
「まだ決めてない」
「明日はサザリーとの勉強でしょう?」
「うん」
「なら今日は?」
「朝剣やったし、放課後は剣しなくていいかな」
「図書館?」
「それもまだ」
そこで思い出す。
「リビア」
「何?」
「前に約束してた結界」
「結界?」
「俺に教えてくれるって話」
リビアの目が少し大きくなる。
「あ」
「忘れてた?」
「忘れてないよ。ただ最近いろいろあったから」
「俺も」
ライゼルの面会準備。
古い魔術資料。
剣。
学年実技確認。
いくつも重なって、以前約束していた結界の練習が後ろへ回っていた。
「今日やる?」
俺が聞く。
「いいよ」
「場所どうする?」
「学園でエレナ先生に聞いて、空いてる訓練室があれば借りようか」
「うん」
「でもセス」
「何?」
「私が教えるんだから、勝手に先へ進まないでね」
「分かってる」
「本当に?」
「先生役はリビア」
「よろしい」
少し嬉しそうだ。
俺も楽しみになってきた。
◇
馬車では、昨日の夜についてほとんど話さなかった。
避けているわけではない。
ただ、朝から改めて話すのは恥ずかしかった。
代わりに今日の結界練習について話す。
「何からやる?」
「セスが今出来るのは、単純な無属性障壁でしょう?」
「うん」
「どのくらい維持出来る?」
「出力次第」
「そうじゃなくて」
「何?」
「今日は最初からそういう答え禁止」
「まだ始まってないよ」
「今のうちに言っておくの」
「じゃあ、普通に使うくらいならかなり長く」
「それも曖昧」
「一時間以上?」
「やったことある?」
「ない」
「じゃあ言わない」
「はい」
先生が厳しい。
「今日やりたいのは、薄くすること」
「薄く?」
「うん。セスの結界って、丈夫だけど少し厚いの」
「厚い方が強くない?」
「単純な正面防御ならね。でも、全部の攻撃に最大の厚さが必要なわけじゃないでしょう?」
「必要なところだけ?」
「そう。薄く広く張って、必要なところだけ補強する方が効率がいい場合もある」
「動的補強?」
「そこまではまだやらない」
「やらないの?」
「セス」
「はい」
「先へ行かない」
「はい」
昨日の実技確認と同じだ。
出来ることを全部やるのではなく、今見るものだけ。
「今日は薄くするだけ?」
「まずはね。出来たら次を考える」
「分かった」
「あと」
「まだある?」
「私の結界を真似しすぎない」
「何で?」
「セスと私は魔力の感覚も得意な制御も違うから。形だけ真似しても合わないかもしれない」
「じゃあ教えてもらう意味は?」
「考え方と方法を教えるの。最後はセスが自分に合う形を探す」
「なるほど」
面白い。
早くやりたい。
「顔が楽しそう」
「楽しみだから」
「私も」
リビアが笑う。
その笑顔を見た瞬間、昨日の夜とは別の温かさが胸へ広がった。
まただ。
最近、こういうことが増えている。
でも今は、結界のことを考える。
◇
教室へ入ると、サザリーがすでに席についていた。
俺を見ると軽く手を上げる。
「明日、予定通りでいいか?」
「うん。体調も問題ないし、他の予定も入ってない」
「第二学習室を一時間確保した」
「ありがとう」
「今回は途中で条件を変える」
「前に聞いた」
「覚えていたか」
「楽しみにしてる」
「楽しむ課題なのかは分からないが」
「サザリーも楽しんでるだろ?」
「否定はしない」
いつもの返しだ。
「何を持っていけばいい?」
「筆記具だけでいい。資料はこちらで用意する」
「参考書は?」
「不要だ」
「計算用紙?」
「用意する」
「定規は?」
「クルセス」
「何?」
「筆記具だけでいいと言った」
「念のため」
「その『念のため』を減らす課題でもある」
「……分かった」
サザリーが笑う。
「今のは半分冗談だ」
「半分は本気?」
「ああ」
明日は明日。
今日から準備しすぎない。
「じゃあ筆記具だけ」
「それでいい」
そこへアルフォルド殿下が近づいてきた。
「クルセス」
「はい」
「先日話した剣術の件だが、来週の予定が一日確定した」
「本当ですか?」
「ああ。六日後の放課後なら空いている」
「俺も今のところ空いてます」
「なら仮にそこへ入れておくか?」
すぐに頷きかけて、少し止まる。
六日後。
学園行事は。
サザリーとの共同課題は明日。
実技確認は来月。
追加魔術評価の日程はまだ未定。
「仮ならお願いします。ただ、追加評価が入ったら相談してもいいですか?」
「もちろんだ」
「ありがとうございます」
「場所は第二剣術訓練場を考えている。教師にも確認しておこう」
「はい」
イザークが会話を聞きつけて寄ってくる。
「決まった?」
「六日後、仮」
「見に行く」
「まだ時間も場所も確定じゃないよ」
「決まったら教えろ」
「うん」
カイゼル殿下もやってくる。
「僕も見たいな」
「殿下も?」
「前にイザークとアルフォルド殿下がやった時は面白かったからね」
「見世物ではないぞ」
アルフォルド殿下が苦笑する。
「でもクルセスと殿下なら、見る人増えそう」
ミリアナまで加わった。
「増えなくていいよ」
「どうして?」
「緊張する」
皆が一斉に俺を見る。
「何?」
「クルセスでも緊張するんですね」
ナナリーが言う。
「するよ」
「戦う時は平気そうなのに」
「平気じゃない」
「迅雷撃破で突っ込んでいく人が?」
イザークが言う。
「それとこれとは別」
ライゼルの炎へ入った時だって怖くなかったわけではない。
必要だったから動いた。
「試合は楽しみだけど、見られるのは普通に緊張する」
「なら実技確認も?」
「緊張すると思う」
「意外」
「何で皆、俺を何だと思ってるの?」
「普通の執事」
カイゼル殿下が即答した。
「それ俺が言うやつです」
教室に笑いが広がった。
◇
午前の授業では、魔術理論で結界の基礎構造を扱った。
今日の放課後にリビアから教えてもらう予定だから、余計に集中して聞く。
教師が黒板へ単純な障壁の構造を書く。
「基本的な無属性障壁は、魔力によって面を形成し、外部から加わる力を受け止める。初学者は強度を上げようとして、とにかく魔力を多く流そうとする傾向がある」
俺は少し耳が痛い。
「しかし、魔力量を増やせば必ず効率が上がるわけではない。必要以上に厚く形成すれば、維持費が増えるだけだ」
隣のリビアがちらっと俺を見る。
「見ないで」
小声で言う。
「何も言ってないよ」
「顔が言ってる」
「昨日セスが私に言ったやつ」
教師の説明が続く。
「優れた障壁とは、最大強度の障壁ではない。目的に対して必要な強度、範囲、維持時間を満たすものだ」
昨日から似た話が続く。
剣。
魔術実技。
結界。
全部、最大であればいいわけではない。
必要なものを、必要なだけ。
ノートへ書く。
授業後、リビアが俺のノートを見る。
「今日の練習、ちょうどいいね」
「うん」
「先生の説明聞いたから、私が最初から全部説明しなくて済む」
「じゃあ次やる?」
「やらない」
「何で?」
「薄くする練習から」
「覚えてたか」
「先生だからね」
「厳しいな」
「セス相手ならこれくらいでちょうどいいの」
◇
昼休み。
食堂で食事をしながら、明日のサザリーとの共同学習の話になった。
「明日なんだ」
ミリアナが言う。
「うん」
「また領地の問題?」
「そうらしい」
「今度は何?」
「知らない」
「聞かなかったの?」
「聞いたけど教えてくれなかった」
サザリーが向かいから訂正する。
「教えないのが課題の一部だからだ」
「セス、聞いたんだ」
リビアが笑う。
「一回だけ」
「朝は定規まで持っていくか聞かれた」
「それは準備」
「筆記具だけでいいと言ったのにだ」
「定規くらいいいだろ」
「使う課題とは限らない」
「持ってると安心する」
「そこだ」
「何が?」
「必要か分からないものを増やす癖だ」
「定規一本だよ?」
「領地運営なら、その定規一本が情報十個になる」
「……なるほど」
確かに。
「でも」
イザークが口を挟む。
「サザリーも前は情報切るの早すぎたんだろ?」
「ああ」
「今度はどうする?」
「私は逆に、クルセスから『この情報があれば判断が変わる』と言われた場合、一度待つことを課題にする」
「二人で逆の練習するんだ」
ナナリーが感心したように言う。
「面白そう」
「見学する?」
俺が聞く。
「集中出来るの?」
「俺は大丈夫」
「サザリーは?」
「今回は二人でやった方がいいだろう」
「だよな」
俺もそう思う。
見られるのが嫌なわけではない。
ただ、前回から続く二人の課題だ。
「終わったら結果教えてください」
「うん」
「失敗したら?」
ミリアナが聞く。
「それも話す」
「嫌じゃない?」
「何で?」
「失敗でしょう?」
「課題だから」
答えてから、自分で少し驚いた。
前なら、失敗しないために事前準備を増やしていたかもしれない。
「間違えたところ分かった方が、次直せるし」
サザリーが俺を見る。
「明日はその気持ちを忘れるな」
「何で?」
「課題が始まった途端、正解を探し始めそうだからだ」
「……気をつける」
「正解を探すなとは言っていない。時間内に決めろということだ」
「分かってる」
たぶん。
◇
午後の授業を終えた後、俺とリビアはエレナ先生を探した。
魔術棟の廊下で見つける。
「先生」
「何だ?」
「今日、リビアに結界教えてもらいたいんですけど、空いてる訓練室ありますか?」
「オリビアがクルセスに?」
「はい」
先生がリビアを見る。
「何を教える予定だ?」
「基本障壁を薄く形成する練習です。動的補強や選択透過はやりません」
「よろしい」
「先生、俺が先へ行かないように朝から何回も言われてます」
「必要だろう」
「皆同じ反応する」
「実績だ」
まただ。
「第四小訓練室が空いている。三十分なら使っていい」
「三十分?」
「足りないか?」
「たぶん」
答える前にリビアが言った。
「十分です」
「先生は俺じゃなくてリビアに聞いたんじゃ」
「教える側が十分なら十分だ」
「はい」
「それから、攻撃魔術を当てて強度確認はするな」
「しません」
「物を投げるな」
「しません」
「身体ごとぶつかるな」
「やりません」
「よし」
「俺、どんな練習すると思われてるんだろ」
「効率良く結果を確かめようとする練習」
リビアが答えた。
否定しにくかった。
◇
第四小訓練室は、普段の実技で使う場所よりずっと狭かった。
石造りの壁。
床には魔術練習用の円が描かれ、壁際に簡単な測定具が置かれている。
窓は高い位置に二つ。
午後の光が斜めに差し込み、床の一部を明るくしていた。
「じゃあ始めるよ」
「お願いします、先生」
「ふざけないの」
「本当に教えてもらうから」
「それならちゃんと聞いてね」
「はい」
俺は練習円の中央へ立つ。
リビアは少し離れた正面。
「まず、いつもの結界を出して」
「分かった」
無属性の魔力を広げる。
身体の前へ、半透明の障壁を形成する。
普段使う基本的なものだ。
厚さは意識していない。
必要な強度になるように魔力を流している。
リビアが近づく。
「触っていい?」
「うん」
彼女が結界へ指先を触れる。
表面に小さな波紋が広がった。
「やっぱり厚い」
「そんなに?」
「私の基本障壁よりかなり」
「でも魔力消費はそんなに気にならないよ」
「セスは魔力量が多いからでしょう?」
「ああ」
「それが一番分かりにくくしてるの」
リビアが俺を見る。
「減っても困らないから、効率悪くても気づきにくい」
「なるほど」
「今日はこれを半分くらいまで薄くしてみて」
「強度を?」
「厚さを。強度は今は気にしなくていい」
「壊れない?」
「壊して確かめないから」
「そっか」
俺は一度結界を消す。
もう一度。
今度は流す魔力を減らす。
「違う」
「早い」
「薄くするのと、単純に魔力を減らすのは違うよ」
「どう違う?」
「面を作る時の密度を変えるの」
「密度?」
リビアが自分の手を上げる。
「私が見せるね」
彼女の前へ結界が現れる。
俺のものより薄い。
でも輪郭が綺麗だ。
「魔力を減らしてるわけじゃない?」
「全体では減ってる。でも、ただ流す量を落としてるんじゃなくて、最初から薄い面として作る」
「……分かるような、分からないような」
「触ってみる?」
「いいの?」
「うん」
俺はリビアの結界へ近づく。
指先で触れる。
滑らかだ。
俺の結界より薄いのに、表面の魔力が均一に感じる。
「これ、どうやってるの?」
「だから、それを今教えてるの」
「そうだった」
リビアが笑う。
「セス、自分の結界を板みたいに作ってない?」
「板?」
「厚さのある板」
「たぶん」
「布だと思ってみて」
「布?」
「薄い布を広げる感じ」
俺は少し考える。
板ではなく布。
「やってみる」
一度消す。
魔力を出す。
前へ押し固めるのではなく、薄く広げる。
「……こう?」
結界が出来る。
さっきより薄い。
「近い」
「本当?」
「でも右側が厚い」
「右?」
自分では分からない。
魔力感知を向ける。
確かに右端へ少し偏っている。
「何で分かった?」
「見れば分かる」
「俺には分からなかった」
「慣れ」
「もう一回」
「うん」
消す。
形成する。
今度は左右を意識する。
「左が厚い」
「何で逆になるんだ」
「右を気にしすぎたからじゃない?」
「難しい」
「でしょう?」
リビアが少し得意そうだ。
「リビア、これ上手いな」
「結界は得意だもの」
「知ってたけど」
もう一度。
今度は左右だけでなく上下も見る。
「下」
「また?」
「さっきよりいいよ」
「もう一回」
「セス」
「何?」
「急がない」
「はい」
息を吐く。
まだ三十分あるわけではない。
もう十数分経っている。
でも今日完成させなくていい。
「じゃあ、一回自分で確認してから見てもらう」
「うん」
形成。
感知。
右。
少し厚い。
直そうとする。
「待って」
「何?」
「形成した後に直すんじゃなくて、一回消して」
「何で?」
「今は最初から均一に作る練習だから」
「補強とは分ける?」
「そう」
「分かった」
消す。
もう一度。
少しずつ感覚を変える。
五回目。
六回目。
七回目。
「今の」
リビアが言う。
「いい?」
「かなり」
「本当?」
「うん。見て」
彼女が俺の横へ来る。
「ここから魔力感知してみて」
「横から?」
「正面だけだと厚さ分かりにくいでしょう?」
「ああ」
リビアの言う位置へ身体をずらす。
同時に彼女も結界の端を指すため近づいた。
肩が触れる。
「……」
「……」
二人とも止まる。
昨日の夜と同じくらい近い。
いや、今は立っているから顔も近い。
「セス?」
「何?」
「結界」
「あ」
集中する。
横から見る。
薄い。
確かに最初よりずっと薄い。
上下左右の偏りも減っている。
「出来てる」
「でしょう?」
「リビアすごいな」
「セスが出来たんでしょう?」
「教え方がいい」
「……ありがとう」
リビアが少し顔を逸らす。
でも距離はそのままだ。
近い。
髪から微かにいつもの香りがする。
昨日、手を繋いだ時より心臓が速い。
何で?
手を繋ぐ方が触れているはずなのに。
「セス」
「うん」
「また止まってる」
「ごめん」
「何考えてるの?」
「近いなって」
言った瞬間、リビアの顔が赤くなった。
俺もたぶん同じだ。
「離れる?」
小さく聞かれる。
昨日なら、離れたくないとすぐ思った。
今も。
「……このままでもいい」
「結界の練習出来る?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「じゃあちょっと離れる」
「うん」
二人で半歩ずつ離れた。
何だか惜しい。
でも先生役のリビアに教えてもらっている途中だ。
「続きやろう」
「うん」
◇
残りの時間で、俺は薄い結界を何度か作った。
完璧ではない。
右が厚くなる時もあるし、意識しすぎると今度は左へ偏る。
それでも最初よりは明らかに薄く、均一に作れるようになった。
「今日はここまで」
リビアが言う。
「もう?」
「三十分」
「本当に?」
「時計見て」
本当だった。
「あと一回」
「駄目」
「一回だけ」
「今日はここまで」
「先生厳しい」
「次もあるから」
「次いつ?」
「セスの予定と私の予定が合う時」
「明日はサザリー」
「私は図書館か委員会」
「明後日?」
「まだ決めなくていいでしょう?」
「……そうだった」
すぐ予定を埋めようとした。
「今日出来たところまで覚えておけばいいよ」
「忘れないかな」
「忘れたらまたやる」
「そっか」
道具を使っていないので片づけるものはほとんどない。
訓練室を出る前に、俺はもう一度だけ振り返った。
「面白かった」
「結界?」
「うん」
「よかった」
「また教えて」
「もちろん」
リビアが嬉しそうに笑う。
「今度はセスが私に剣教えてね」
「教える?」
「約束してたでしょう?」
「二人でやるって話じゃなかった?」
「それでもいい」
「じゃあ、リビアの剣も見たい」
「今日の授業でも見てたでしょう」
「もっと」
リビアが一瞬黙る。
「……分かった」
「何で赤いの?」
「セスのせい」
「また?」
「最近ずっとそう」
俺にはまだ理由が全部分からない。
◇
エレナ先生へ訓練室を使い終えた報告をすると、簡単に今日の内容を聞かれた。
「薄い形成は?」
「最初より出来ました。でも左右に偏ります」
「オリビアから見て?」
「最後の数回はかなり良くなっていました。ただ、本人が厚さを気にしすぎると別の場所が偏ります」
「典型的だな」
「そうなんですか?」
「ああ。一点を直そうとして別の点へ力が入る。最初はよくある」
「次は?」
「オリビアと続けていい。ただし、今は薄く均一に作るところまでだ」
「補強は?」
「まだ」
「動的補強は?」
「まだ」
「選択透過は?」
「まだだ」
「全部まだ」
「当然だ」
リビアが隣で笑う。
「先生と同じこと言ったでしょう?」
「うん」
「私の教え方、間違ってなかった」
「最初から疑ってないよ」
「本当?」
「本当」
エレナ先生が俺たちを見比べる。
「オリビア」
「はい」
「クルセスが勝手に進めそうになったら止めろ」
「はい」
「クルセス」
「はい」
「オリビアが研究熱に入って先へ進みそうになったら、お前が止めろ」
「リビアも?」
「お前ほどではないが、結界のことになると似たところがある」
「先生!」
今度は俺が笑う番だった。
「じゃあお互い止める」
「そうしろ」
訓練室の使用記録へ名前を書き、魔術棟を出た。
◇
今日は二人とも放課後の別予定がなかったので、そのまま一緒に帰る。
馬車へ乗り込む。
向かいの席は空いている。
俺は一瞬迷ってから、リビアの隣へ座った。
昨日までは本を一緒に見る時など理由があることも多かった。
今日は何もない。
ただ、隣に座りたかった。
リビアが俺を見る。
「今日はこっち?」
「うん」
「どうして?」
聞かれる。
昨日なら答えに困ったかもしれない。
「隣がいいから」
口にした後、やっぱり恥ずかしい。
でも言えた。
「……そっか」
リビアは窓の方を向く。
耳が赤い。
「嫌だった?」
「全然」
「ならよかった」
馬車が動き出す。
肩は触れていない。
少しだけ間がある。
でも向かいに座っている時より近い。
「結界、難しかった?」
「難しい。でも面白い」
「セス、すぐ出来ると思ってた?」
「ちょっと」
「やっぱり」
「無属性障壁は使えるから」
「厚くするのと薄くするのは別でしょう?」
「今日分かった」
「次はもっと均一に出来るよ」
「リビアが教えてくれるなら」
彼女がまたこちらを見る。
「何?」
「セス、最近そういうこと普通に言うようになったね」
「どういうこと?」
「私とやりたいとか、私に教えてほしいとか」
「駄目?」
「逆」
「逆?」
「嬉しい」
「ああ」
それならいい。
「俺も嬉しい」
「何が?」
「リビアに教えてもらえるの」
「うん」
「俺、教える側になること多かったから」
剣。
魔術。
執事の仕事。
もちろんグレイヴや教師から教わることも多い。
でも同年代の相手から、自分より得意なことを教えてもらう経験はそこまで多くなかった。
「リビアの方が上手いもの、もっとある?」
「いっぱいあるよ」
「例えば?」
「結界」
「それは知ってる」
「礼儀作法」
「俺も出来る」
「貴族令嬢としてのものは私の方が詳しい」
「それは勝てない」
「刺繍」
「俺も出来る」
「セス、出来るんだった」
「執事だから」
「普通の執事は刺繍まで出来るの?」
「服の補修することあるし」
「それは刺繍と違うよ」
「じゃあ料理」
「私、セスより下手」
「でもお菓子なら?」
「……セスの方が上手い」
「勉強」
「科目による」
「剣」
「セスの方が強い」
「魔術」
「セスの方が規格外」
「規格外って言わないで」
リビアが笑う。
「でも、私がセスに教えられること、ちゃんとあるでしょう?」
「うん」
「だから何でも一人で出来ると思わないでね」
「思ってないよ」
「本当に?」
「最近は」
「最近は、ね」
「前は……」
少し考える。
「一人で出来ると思ってたっていうより、自分でやらなきゃって思ってた」
「うん」
「今は聞いた方が早いなら聞く」
「それでいいの」
「リビアにも」
「うん」
「じゃあまた教えて」
「何回でも」
その言葉が嬉しかった。
◇
屋敷へ戻ると、玄関でグレイヴと会った。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「今日はお二人ご一緒でしたか」
「うん。リビアに結界教えてもらった」
「お嬢様から?」
「薄い障壁の作り方」
「いかがでした?」
「難しかった」
グレイヴが少し意外そうな顔をする。
「クルセス様が素直に難しいと言うのは珍しいですね」
「だって難しかったから」
「それは何よりです」
「何より?」
「まだ学ぶものがあると分かるのは良いことでしょう」
「うん」
「お嬢様、クルセス様は勝手に先へ進みませんでしたか?」
「進もうとはしました」
「リビア」
「事実でしょう?」
「ちょっと聞いただけ」
「動的補強と選択透過をやりたがりました」
「やりたがったんじゃなくて、次か聞いただけ」
「似たようなものです」
グレイヴが笑う。
「先生役がお嬢様で正解でしたね」
「俺もちゃんと止まったよ」
「それも良いことでしょう」
否定されなかった。
「明日はサザリーとの共同学習だったな」
「うん」
「一時間?」
「その予定」
「帰宅は少し遅くなるか」
「たぶん。でも一時間で終わる」
「延長は?」
「しない」
「サザリー様が延長を提案された場合は?」
「……相談する」
「明日の目的が時間内での判断なら、延長した時点で課題の意味が薄れませんか?」
「あ」
そうだった。
「じゃあ延長しない」
「それがよろしいかと」
明日のことは明日考える。
でも、決まっている条件くらいは覚えておく。
◇
夕食後。
俺は今日はリビアを待たなかった。
待つ必要がないと思ったからではない。
会いたいなら自分から行けばいいと、昨日分かったからだ。
小説を読むかどうかは決めていない。
ただ少し話したい。
部屋を出る。
昨日と同じ廊下。
今日は向こうからリビアは来ない。
そのまま彼女の部屋の前まで歩く。
扉を叩く。
「はい」
「俺」
「セス?」
「入っていい?」
「ちょっと待って!」
中で何か音がする。
少しして扉が開いた。
「どうしたの?」
リビアは部屋着だった。
髪も普段より少し緩くまとめている。
「……」
「セス?」
「いつもと違う」
「部屋なんだから当たり前でしょう?」
「そっか」
「何?」
「似合ってる」
言ってから、自分でも驚いた。
リビアも固まった。
「……セス」
「何?」
「今日どうしたの?」
「何が?」
「急に」
「変だった?」
「変じゃないけど」
彼女が頬へ手を当てる。
「心臓に悪い」
「体調悪い?」
「違う!」
強く否定された。
「それで、どうしたの?」
「少し話したくて」
「小説?」
「今日はどっちでもいい」
「じゃあ入る?」
「いいの?」
「うん」
部屋へ入る。
リビアの私室へ入ったこと自体は初めてではない。
幼い頃から何度もある。
それでも、婚約者になってから二人きりで入ると、以前とは少し違って感じる。
机の上には結界の本。
横には今日の委員会資料。
窓際には小さなソファ。
「何話す?」
「決めてない」
「決めてないのに来たの?」
「うん」
リビアが笑う。
「セスが?」
「そんなに変?」
「嬉しい」
「また?」
「嬉しいこと多いから」
ソファへ座る。
今日は少し距離を空けた。
昨日近すぎて本が読みにくかったから――という理由ではない。
今日は本を持っていない。
「明日、サザリーとの勉強だね」
「うん」
「緊張する?」
「ちょっと」
「楽しみ?」
「それも」
「イザークが言ってた通りだ」
「何が?」
「緊張と楽しみ、一緒にあっていいって」
「ああ」
「失敗してもいいと思ってる」
「本当に?」
「課題だから」
「すごいね」
「でも始まったら正解探すかもしれない」
「サザリーが止めてくれるんじゃない?」
「たぶん」
「じゃあ大丈夫」
少し黙る。
「リビアは明日何する?」
「放課後?」
「うん」
「図書館に行くと思う。今日、結界練習したから、外層補強の資料は明日に回したの」
「俺と練習したせい?」
「せいじゃないよ。私もやりたかったから」
「そっか」
「終わる時間近かったら一緒に帰る?」
「サザリーと一時間だから、リビアの方が早いかも」
「じゃあ待たない」
「うん。先帰っていいよ」
「でも」
「何?」
「帰ってから会いたい」
リビアが黙る。
俺も言ってから恥ずかしくなる。
でも昨日と同じ。
嘘ではない。
「……うん」
彼女の声が少し柔らかくなる。
「私も」
胸が温かくなる。
昨日より、その理由が少し分かる気がする。
「セス」
「何?」
「手、繋ぐ?」
昨日ならすぐ頷いた。
今日は少し考える。
繋ぎたい。
でも。
「今日はいい」
「そっか」
「嫌じゃないよ」
「分かってる」
「ただ、話したい」
「うん」
リビアは笑う。
以前の俺なら、断った後に相手が傷ついていないか何度も確認していた。
今は一度伝えれば分かってくれると思える。
「じゃあ何話す?」
「冬の朝」
「何で!」
「昨日聞いたから気になってる」
「忘れてよ!」
「布団から出たくないリビア」
「セスだってあるでしょう?」
「俺は起きる」
「寒くても?」
「剣やるなら」
「そういうところだよ」
「何が?」
「冬になったら絶対一回休ませる」
「体調悪くなければやるよ」
「雪でも?」
「積もってなければ」
「雨は?」
「弱ければ」
「寒波は?」
「程度による」
「ほら!」
何が「ほら」なのか分からない。
二人でくだらない話をする。
実技確認でもない。
古代魔術でもない。
ライゼルでもない。
将来でもない。
冬の朝に俺が剣を振るか、リビアが布団から出られるか。
そんな話。
でも楽しい。
◇
三十分ほどして、俺は立ち上がった。
「そろそろ戻る」
「うん」
「明日もあるし」
「サザリーに負けないでね」
「勝負じゃないよ」
「分かってる」
「でも頑張る」
「頑張りすぎないで」
「普通にやる」
「最近それ言えるようになったね」
「うん」
扉まで歩く。
開ける前に、リビアが俺を呼んだ。
「セス」
「何?」
「今日、来てくれてありがとう」
「話したかったから」
「うん」
「また来てもいい?」
「いつでも」
「リビアも来ていいから」
「うん」
それだけ言って、部屋を出る。
自室へ戻る廊下。
歩きながら、少し考える。
昨日は、リビアに会いたいと思った。
今日は、その気持ちを理由に自分から部屋へ行った。
手は繋がなかった。
小説も読まなかった。
それでも楽しかった。
つまり、俺が欲しかったのは手を繋ぐことでも、小説を読むことでもなかったらしい。
リビアと一緒にいる時間そのもの。
それが欲しかった。
「……また一個分かった」
小さく呟く。
好き。
その言葉はまだ口にしない。
でも、その言葉の周りにあるものは、前よりずっと増えた。
会いたい。
一緒にいたい。
近くにいると落ち着く。
見つけると嬉しい。
触れたい時がある。
触れなくても一緒にいられれば楽しい。
婚約者でよかった。
婚約者でなくなるのは嫌だ。
リビアが自分の得意なことを教えてくれるのも嬉しい。
俺も彼女の剣をもっと見たい。
全部が何へ繋がるのか。
たぶん、もうかなり近いところまで来ている。
それでも急がない。
明日はサザリーとの共同学習がある。
六日後にはアルフォルド殿下との剣術も仮予定に入った。
結界練習の続きもある。
古い中継板の調査も進んでいる。
学年実技確認も来月だ。
俺の学園生活には、リビア以外のこともたくさんある。
それでいい。
たくさんあるものの中で。
今日、何の用事もないのにリビアのところへ行きたいと思った。
それを自分で選んで、本当に行った。
今夜は、そのことだけ覚えておけば十分だった。




