第42話 全力を出さない試験も難しいし、婚約者を見ていたい理由はもっと分かりません
翌朝、目を覚ました俺は、しばらく天井を見ていた。
身体に疲れはない。昨日は朝に三十分、放課後に十二分だけ剣を振ったけれど、筋肉にも関節にも痛みは残っていなかったし、魔力も使っていないから流れに違和感はなかった。
頭も軽い。
一か、ほとんどゼロ。
なら朝の剣を――と考えたところで、昨日の夜に決めたことを思い出した。
明日何をするかは、明日決める。
だから今、決めればいい。
「……今日はどうしよう」
窓の外は晴れている。
剣を振りたい気持ちはある。
でも昨日は朝と放課後の両方で振った。短時間とはいえ、二日続けて朝練をする必要があるわけでもない。
それより、昨日ベルナルト先生から見せてもらった古い測定器の図面が気になる。
灰透晶。
現代の薄灰晶石との対応候補。
術者と魔石の間に挟まれた中継板。
魔力を直接魔石へ流すのではなく、一度板を通して「揺れ」を見るという古い記録。
ただし、これも今すぐ自分で調べられるものではない。
古い資料は学園にある。
材質の同定もベルナルト先生と文献を確認しながら進める。
屋敷にある本を片っ端から探したところで、同じ記録があるとは限らない。
「じゃあ……何もしなくてもいいか」
少し前なら、剣をしないなら本、本を読まないなら勉強、と次の予定を探していた。
今日は、そのどちらもしないことにした。
窓を開ける。
朝の冷たい空気が部屋へ入り、薄いカーテンが揺れた。庭の木々はほとんど動いていないけれど、遠くから鳥の声が聞こえる。
椅子を窓際へ移し、座る。
十分くらい。
本当に何もしない。
昨日の古い資料についても、ライゼルについても、リビアについても、考えようとしない。
もちろん、考えが完全に消えるわけではない。
途中で、昨日リビアと肩を触れさせながら小説を読んだことが浮かんだ。
離れたくないと思った。
何だったんだろう。
そう考え始めそうになって、やめる。
急いで答えを作らなくていい。
そのまま庭を見る。
十分後、立ち上がった。
「よし」
何が「よし」なのかは自分でもよく分からない。
でも、悪くない朝だった。
◇
朝食の席へ行くと、リビアはすでにいた。
俺を見るなり、彼女は少し首を傾げる。
「今日は剣やってない?」
「何で分かった?」
「髪」
「髪?」
「朝に剣やった日は、ちゃんと整えてても少し違う」
自分では分からない。
手で触ってみる。
「どこ?」
「今触ったところじゃない」
「じゃあどこ?」
「教えない」
「何で?」
「私だけ分かればいいから」
よく分からない理由だった。
でも、リビアは少し楽しそうだ。
「今日は何してたの?」
「十分くらい窓から庭見てた」
「また?」
「うん」
「本は?」
「読んでない」
「研究は?」
「してない」
「セスが二日続けて朝に何もしない時間を作った」
「昨日は剣やったよ」
「でも、その前の日も庭見てたでしょう?」
「ああ」
面会翌日の朝だ。
「最近増えたね」
「何もしない時間?」
「うん」
「別に毎日やるつもりじゃないけど」
「それでいいんじゃない?」
リビアはパンへジャムを塗る。
「何もしないことを今度は毎日の課題にしたら、セスの場合また変になるもの」
「……やりそう」
「でしょう?」
危なかった。
休むことまで予定にして、毎朝何分と決め始めたら、結局やっていることは前とあまり変わらないかもしれない。
「リビアは?」
「今日は何もしてない」
「珍しい」
「昨日、図書館で本借りたけど、夜はセスと小説読んだし、朝は眠かったから」
「眠かったんだ」
「少し」
「寝不足?」
「ちゃんと寝たよ。ただ、布団から出たくなかっただけ」
「リビアでもそういうことあるんだ」
「あるよ」
「完璧な公爵令嬢なのに」
「セスの中の公爵令嬢、朝に強すぎない?」
グレイヴが紅茶を置きながら、わずかに笑う。
「お嬢様は幼い頃から冬の朝は苦手でしたよ」
「グレイヴ!」
「そうなの?」
「セスも知ってるでしょう!」
「知らない」
「昔、朝のお稽古で私がなかなか来なかったことあったじゃない」
「体調悪いと思ってた」
「寒かったの!」
「そうだったの?」
「今さら知るの?」
幼馴染なのに知らないことがあった。
それが少し面白い。
「今年の冬、見てみよう」
「何を?」
「リビアが布団から出てこないところ」
「部屋には入れないよ」
「じゃあ朝食に遅れてくるところ」
「最近はちゃんと起きてる!」
少し離れた席で新聞を読んでいた旦那様が咳払いをした。
笑いを隠しているように見える。
「お父様まで笑わないでください」
「笑っていない」
「絶対笑ってます」
朝食の席に、いつもの穏やかな空気が流れる。
ライゼルの面会から三日。
まだ三日しか経っていない。
それでも、こういう朝が戻っている。
「そういえば」
旦那様が新聞を畳んだ。
「学園から来月の実技確認について、保護者向けの案内が届いていたぞ」
「もう?」
リビアが反応する。
「学生向けにも今日か明日には正式説明があるだろう」
「内容は?」
「私は先に言わない方がいいだろうな」
旦那様が俺を見る。
「気になるか?」
「気になります」
「なら学園で聞け」
「はい」
正しい。
でも気になる。
「剣と魔術と学業だよね?」
俺がリビアを見る。
「前に聞いた範囲ではね。委員会では会場の動線くらいしか扱ってないから、試験内容までは知らないよ」
「今日説明あるかな」
「たぶん」
新しい予定が一つ増えた。
◇
学園へ向かう馬車の中で、俺は実技確認について考えていた。
順位を決めるだけの試験ではない。
これまで授業で身につけたものを確認し、今後の指導へ使うためのもの。
剣術。
基礎魔力制御。
学業。
俺の場合、魔術は普通の生徒と同じ方法では評価しにくい可能性がある。
五属性すべてに適性があることも、学園側の一部は把握している。
迅雷撃破は高出力禁止。
複合魔術も許可された範囲だけ。
「セス」
「何?」
「もう考えてるでしょう」
「実技確認?」
「うん」
「少し」
「何を?」
「魔術どうなるかなって」
「先生たちが決めるんじゃない?」
「そうなんだけど」
「セスが試験内容を自分で作らなくていいよ」
「作ってない」
「頭の中で候補並べてない?」
「……三つくらい」
「作ってるじゃない」
「予想だよ」
「同じ」
リビアが呆れたように笑う。
「リビアは気にならない?」
「気になるよ」
「剣?」
「剣も。魔術も」
「リビアの結界って、基礎魔力制御に入るのかな」
「分からない。でも、剣術確認で結界を使っていいって言われても、私は使わないつもり」
「何で?」
「剣術を見てもらうなら、剣術を見てもらいたいから」
すぐに答えが返ってきた。
「結界使った方が強いのに?」
「強いかどうかだけを見る試験じゃないでしょう?」
「そっか」
「セスも同じだよ」
「俺?」
「剣術確認で迅雷撃破使ったら駄目」
「使わないよ」
「分かってる。でも、速ければいいって話じゃないってこと」
「ああ」
俺は少し考える。
全力を出せることと、今見てもらうべきものを見せることは違う。
「難しいな」
「何が?」
「全力出さない方が」
「セスは特にね」
「手を抜くのとは違うんだよね?」
「うん。必要なものをちゃんと見せるの」
それなら少し分かる。
剣の試合でも、ただ速く動けばいいわけではない。
魔術でも、最大出力だけが制御力ではない。
「リビアの剣、見たいな」
「実技確認?」
「うん」
「同じ時間だったら見られないかも」
「そっか」
少し残念に思った。
「そんなに見たい?」
「見たい」
「どうして?」
「リビアの剣、好きだから」
言った後、リビアが黙った。
「……何?」
「今の、もう一回」
「また?」
「うん」
「リビアの剣が好き」
「剣が?」
「うん」
リビアの頬が少し膨らむ。
「何?」
「何でもない」
「何かあるだろ」
「セスらしいなって思っただけ」
「どういう意味?」
「秘密」
最近、秘密が多い。
◇
教室へ着くと、いつもより少しざわついていた。
黒板の端に、新しい掲示が貼られている。
学年実技確認について。
「来た」
俺が近づくと、すでにイザークが読んでいた。
「おはよう」
「おはよう。これ見た?」
「今見る」
掲示には、実施予定日と大まかな項目が書かれている。
剣術。
基礎魔力制御。
学科確認。
ただし、適性や履修状況、既存の個別評価によって内容を一部変更する場合がある。
「個別変更」
思わずそこを読む。
「クルセス、それ絶対お前だろ」
イザークが言う。
「俺だけとは限らない」
「少なくともお前は入る」
「リビアも?」
「オリビア様は結界あるけど、基礎魔力制御なら普通に受けられるんじゃないか?」
「たぶん」
後ろからリビアが答える。
さらに読んでいく。
剣術確認では、基本姿勢、足運び、攻防判断、指定された形式での実戦的確認。
魔術では、出力だけでなく安定性、精度、維持、停止、指示への対応。
学科は通常授業範囲。
「停止」
俺は魔術の項目を見る。
「そこ大事だな」
イザークが横から言う。
「俺だけ見て言ってる?」
「少し」
「最近止まってるよ」
「だから点取れるんじゃない?」
「そういう点なの?」
「知らん」
ナナリーとミリアナも掲示を見に来た。
「緊張しますね」
ナナリーが小さく息を吐く。
「ナナリー、魔術得意じゃん」
「得意でも試験は緊張します」
「俺も剣は緊張する」
イザークが言う。
「嘘」
「何でだよ」
「楽しみにしてる顔」
「緊張と楽しみは一緒にあっていいだろ」
その言葉に、俺は少し引っかかった。
緊張と楽しみ。
一緒にあっていい。
面会前にも似たことがあった。
怖いけれど会いたい。
別々に過ごせるけれど少し寂しい。
感情は一つだけでなくていいらしい。
「クルセス?」
「何?」
「また考え込んでる」
ミリアナに言われた。
「ちょっとだけ」
「実技確認?」
「半分」
「残り半分は?」
「秘密」
リビアの真似をしてみる。
彼女が少し目を丸くしてから笑った。
◇
一時間目が始まると、担任から実技確認について正式な説明があった。
「掲示を見た者も多いと思うが、来月、学年全体の確認を行う。勘違いするな。これは一位から最下位までを並べるためだけの試験ではない」
教室の空気が少し引き締まる。
「もちろん成績には反映される。しかし目的は、現時点で何が出来ていて、何が不足しているかを確認することだ。剣術が得意な者にも課題はある。魔術が得意な者にも課題はある。学科が得意でも、理解の偏りがあれば今後の指導へ反映する」
俺はノートを取る。
「また、能力や適性の都合で一般形式が適切でない者については個別内容を設定する」
何人かの視線が俺へ来た。
「こっち見ないで」
小声で言うと、近くの生徒が笑う。
先生も気づいたらしい。
「クルセスだけとは言っていない」
「はい」
「ただしクルセスは後で魔術科教員から説明を受けろ」
「やっぱり俺じゃないですか」
教室に笑いが広がった。
「他にもいる。安心しろ」
「何を安心するんです?」
「一人ではない」
「そういう問題ですか?」
先生も少し笑う。
空気が柔らかくなったところで説明が続く。
「剣術確認については、普段使っている武器種を基本とする。ただし特殊な身体強化や魔術併用については事前許可制だ。許可のない能力は使用しないこと」
俺はすぐ迅雷撃破の横へ「使用しない」と書く。
「魔術は、指定された出力での発動、維持、標的への精度、途中停止などを確認する。最大出力を競うものではない。勝手に威力を上げるな」
また何人かが俺を見る。
「何で?」
「心当たりないの?」
ミリアナが小声で聞く。
「今はない」
「昔は?」
「……ある」
「でしょう?」
先生の説明が終わる頃には、実技確認の輪郭がかなり見えてきた。
でも、俺の魔術だけはまだ分からない。
◇
二時間目の後、エレナ先生に呼ばれた。
ベルナルト先生も一緒にいる。
「クルセス。実技確認の説明は聞いたな?」
「はい」
「お前の魔術確認について、現時点の案を伝える」
「決まったんですか?」
「案だ。まだ最終決定ではない」
俺は頷く。
ここを勝手に確定だと思わない。
「まず、五属性すべてを高出力で見せる必要はない」
「はい」
「むしろやらせない」
「はい」
「基本は指定出力での単属性制御。火、水、風、土、雷のうち、当日こちらが指定する」
「一つ?」
「複数になる可能性はあるが、全部とは限らない」
「分かりました」
「次に属性切替」
俺は少し姿勢を正す。
「やるんですか?」
「安全な範囲でな。現在、お前の属性変換過程は追加評価中だ。だから実技確認で研究用の特殊試験を兼ねるつもりはない」
「別なんですね」
「当然だ」
ベルナルト先生が答える。
「成績確認と研究観察を混ぜれば、何を評価したのか分からなくなる」
「じゃあ普通の切り替え?」
「指定された二属性を、低出力で順番に発動する程度を想定している」
「遅延は測らない?」
「測らない」
「中継板も?」
「使わない」
「薄灰晶石も?」
「使わない」
「分かりました」
エレナ先生が少し呆れたように俺を見る。
「残念そうだな」
「ちょっと」
「実技確認は実験の日ではない」
「はい」
「それから迅雷撃破」
「使いません」
「最後まで聞け」
「はい」
「使用禁止だ」
「はい」
「低出力も?」
聞くと、先生の眉が動いた。
「今、使いませんと言った直後だな?」
「確認です」
「低出力も禁止。剣術確認でも魔術確認でも使わない」
「分かりました」
「複合魔術は?」
「許可されたものだけ?」
「今回は原則なしの方向だ」
「はい」
「目的は、お前がどれだけ派手なことを出来るかを見ることではない。指定された条件で、指定された範囲へ収められるかを見る」
指定された範囲へ収める。
俺にはそっちの方が難しいかもしれない。
「先生」
「何だ」
「出力を下げすぎたら駄目ですか?」
「駄目だ」
「やっぱり」
「手を抜けばいいわけではない。指定された値へ合わせろ」
「例えば三十なら三十?」
「そうだ。二十でも五十でも減点になる」
「難しい」
「だから確認する」
納得した。
「停止も?」
「指示があれば即座に止める」
「途中でも?」
「途中だからこそだ」
「分かりました」
エレナ先生が腕を組む。
「今のお前なら、以前よりは出来るだろう」
「魔術の話?」
「魔術だけではない」
一瞬意味が分からなかった。
でもすぐ気づく。
止める。
決められた範囲に収める。
出来るからといって全部やらない。
「……頑張ります」
「頑張りすぎるな」
「じゃあ普通にやります」
「それでいい」
先生は頷いた。
◇
昼休み。
食堂で皆へ俺の実技確認案を話すと、イザークが最初に笑った。
「クルセスに一番難しい試験じゃん」
「何が?」
「全力出すな。でも手も抜くな。指定通りやれ」
「やっぱり?」
「俺もそう思う」
サザリーまで頷く。
「そんなに?」
「お前は出来る範囲が広すぎるからな。上限を目指す方が簡単なのだろう」
「上限も簡単じゃないよ」
「だが方向は一つだ。最大まで出せばいい」
「まあ」
「指定値へ合わせるなら、自分で止めなければならない」
「ああ」
確かに。
「剣も同じじゃない?」
ナナリーがイザークを見る。
「剣?」
「強く打てばいいだけではないのでしょう?」
「もちろん」
「ではイザーク様も似たようなものでは?」
「俺はクルセスほど極端じゃない」
「極端って」
「お前、速くしようと思えば急に速くなるだろ」
「迅雷撃破なしならそこまでじゃない」
皆が黙った。
「何?」
「基準が違うんだよ」
ミリアナが言う。
「そう?」
「そう」
リビアは隣で楽しそうに聞いている。
「リビアは剣、どうする?」
俺が尋ねる。
「普通に受けるよ」
「結界なし?」
「うん」
「魔術は?」
「基礎制御と結界の両方を見る可能性があるって、エレナ先生から言われた」
「いつ?」
「さっき廊下で」
「聞いてない」
「今言ったでしょう?」
「そうだけど」
「セスが全部知ってる必要ないの」
「知りたいだけ」
「後で話すよ」
俺は頷く。
「剣術確認、時間分かった?」
「まだ」
「見られるなら見たい」
「朝も言ってたね」
「うん」
イザークが俺を見る。
「オリビア様の剣そんなに好きなの?」
「好き」
「即答だな」
「綺麗なんだよ」
リビアが少し俯いた。
「動きが?」
「うん。無駄が少ないし、力だけじゃなくて相手見て変えるし。俺とやる時も前より――」
「セス」
「何?」
「もういい」
「何で?」
「恥ずかしいから」
俺は口を閉じる。
褒めただけなのに。
「でもセス」
ミリアナがにやにやしている。
「何?」
「オリビア様の剣を見たいだけ?」
「どういう意味?」
「別に」
「最近皆それ多くない?」
「何が?」
「言いたいことあるのに教えてくれない」
ナナリーまで笑っている。
俺だけ分かっていない気がする。
◇
午後は剣術の授業だった。
実技確認が告知された直後だからか、いつもより皆の動きに力が入っている。
「試験前だからと急に張り切るな!」
教師の声が訓練場へ響いた。
「今日だけ上手くなろうとするな! 普段通りやれ!」
何人かが気まずそうに動きを緩める。
俺も少しだけ力が入っていたことに気づいた。
「クルセス」
「はい」
「お前もだ」
「分かりました」
見つかった。
今日は基本の足運びと、防御から反撃へ移る動作。
二人一組になる。
俺の相手はイザークだった。
「試験前にちょうどいいな」
「うん」
「迅雷撃破なし」
「普段から使ってない」
「念のため」
木剣を構える。
教師の合図。
イザークが先に来る。
速い。
でも昨日見た退き足とは違い、今日は踏み込み。
俺は剣を受け、横へ流す。
反撃。
イザークが退く。
足を見るな。
剣先。
肩。
腰。
全体。
追う。
木剣が触れる直前、イザークが角度を変えた。
「っ」
俺の剣が空を切る。
イザークの木剣が俺の肩へ近づく。
半歩下がって避ける。
「今のいい」
「喋るな」
「ごめん」
もう一度。
今度は俺が防御から反撃へ移る。
強く打ちすぎない。
でも遅くもしない。
相手が対応出来る範囲で、授業の課題を成立させる。
これも実技確認と似ている。
全力ではない。
手抜きでもない。
必要な範囲。
何度か繰り返した後、教師が止めた。
「クルセス」
「はい」
「今の最後の三回くらいの速度、覚えておけ」
「何でです?」
「お前の基礎を見るなら、あれくらいがちょうどいい」
「もっと上げたら?」
「イザークとの試合なら好きにしろ。確認では不要だ」
「分かりました」
「イザーク」
「はい」
「退く時の右足、かなり直ったな」
「ありがとうございます」
イザークの顔が明るくなる。
俺も嬉しくなった。
「本当に良くなったよ」
「お前に言われると腹立つな」
「何で?」
「ずっと見てたから」
「褒めてるのに」
「分かってる」
授業の後半は相手を替えながら基礎を確認した。
終わる頃には適度に汗をかいていたけれど、疲労はほとんどない。
◇
授業終了後、俺は無意識に女子側の訓練場所を探していた。
リビアは少し離れた場所で、別の生徒と組んでいる。
ちょうど最後の確認をしていた。
見る。
相手が踏み込む。
リビアは正面から力で受けず、剣を滑らせるように外へ逃がす。そのまま半歩だけ位置を変え、相手の側面へ木剣を運んだ。
速い。
でも、俺とは違う。
必要以上に追わない。
相手の動きが終わる場所を先に取るような剣だ。
「見すぎ」
横から声がした。
イザークだ。
「何が?」
「オリビア様」
「剣見てる」
「知ってる」
「上手いだろ?」
「上手い」
「だよな」
「嬉しそうだな」
「婚約者だから?」
「俺に聞くなよ」
教師が終了を告げる。
リビアが相手へ礼をしてから、こちらへ気づいた。
目が合う。
彼女が少し笑った。
俺も手を上げる。
それだけ。
なのに胸の辺りが少し温かくなる。
「……何だろ」
「何が?」
「何でもない」
「今度はお前がそれ言うのか」
「まだ分からないから」
「ふーん」
イザークはそれ以上聞かなかった。
◇
放課後。
今日は剣術授業があったので、自主練はしないことにした。
イザークも同じだった。
「じゃあ帰る?」
リビアに聞く。
「今日は委員会あるの」
「あ」
忘れていた。
「実技確認の動線、正式日程出たから最終確認するって」
「どのくらい?」
「一時間くらいかな」
「じゃあ俺、図書館行こうかな」
「待っててくれるの?」
「待つっていうか、俺も調べたいものあるし」
「灰透晶?」
「それも。でも勝手に古い資料触れないから、普通の鉱物目録」
「ベルナルト先生に確認した?」
「まだ」
「じゃあ先に聞いた方がいいんじゃない?」
「普通の図書館の本も?」
「調べるだけならいいと思うけど、先生がすでに見た本を同じように探すなら二度手間かも」
「確かに」
そこまで考えていなかった。
「じゃあ別の本読む」
「何?」
「まだ決めてない」
「それで図書館行くの?」
「行ってから決める」
リビアが笑う。
「セスが?」
「何?」
「図書館へ行くのに読む本を決めてない」
「そんなに変?」
「前なら目的三つくらい決めてた」
「今も候補はあるよ」
「何個?」
「……四つ」
「やっぱり」
でも、その中から全部読むつもりはない。
「一冊だけにする」
「本当に?」
「たぶん」
「二冊になりそう」
「一冊」
「じゃあ後で確認する」
「試験?」
「今作った」
「またそれ」
リビアは委員会へ。
俺は図書館へ向かった。
◇
放課後の図書館は、いつもより少し人が多かった。
実技確認が発表されたからか、試験範囲に関係する本を探している生徒もいる。
静かな話し声。
紙の匂い。
窓から差し込む夕方の光。
俺は棚の間を歩く。
魔術。
剣術。
法律。
領地運営。
古代史。
候補は本当にいくつもある。
最初に手を伸ばしたのは魔術書だった。
でも止める。
昨日、古い測定器を見た。
今日は魔術実技の説明も受けた。
魔術は十分だ。
剣術も午後にやった。
なら。
領地運営の棚へ行く。
三日後、サザリーとの共同学習がある。
ただし、課題の条件を事前に調べるのは違う。
基礎的な意思決定についての本ならどうだろう。
一冊抜く。
『領地行政における優先順位と暫定判断』
「……これだな」
閲覧席へ座る。
最初の章を読む。
情報が不足している時、すべてが揃うまで待つのではなく、「今決めなければ損失が増えること」と「情報を待ってもよいこと」を分ける。
サザリーとの前回の課題そのものに近い。
面白い。
読み進める。
でも途中で気づく。
これを読みすぎたら、三日後の課題で有利になりすぎないか?
いや、課題内容は知らない。
一般論なら勉強していい。
でも、サザリーが俺の「情報を集めすぎる癖」を見るために課題を作っているのに、対策本を読み込むのは少し違う気もする。
「……どうしよう」
自分一人で考える。
読むのをやめる必要はない。
でも、課題の攻略法として読むのではなく、普通の勉強として読む。
それならいい。
ページを進める。
気づけば四十分ほど経っていた。
そこで本を閉じた。
まだ続きはある。
でも今日はここまで。
一冊だけ。
リビアとの約束ではないけれど、少し達成感がある。
◇
図書館を出ると、ちょうど廊下の向こうからリビアが歩いてきた。
「セス」
「終わった?」
「うん。今」
「俺も」
「何冊?」
「一冊」
「本当に?」
「一冊」
「何読んだの?」
「領地運営」
「魔術じゃないんだ」
「今日は魔術いっぱい考えたから」
リビアが少し驚いた顔をする。
「セス、自分で分けたの?」
「うん」
「すごい」
「そんなに?」
「すごい」
褒められると少し照れる。
「リビアは委員会どうだった?」
「実技確認の移動経路がほぼ決まった。雨だった場合だけ、魔術棟と剣術場の間を少し変えるかも」
「前に言ってたやつ?」
「うん」
「雨だと地面滑る?」
「それもあるし、屋根のある通路に人が集中するから」
「人数分ける?」
「その予定」
「開始時間ずらす?」
「候補にはあるけど――」
リビアが俺を見る。
「セス」
「何?」
「委員会の仕事、手伝わなくていいよ」
「分かってる。聞いてるだけ」
「本当に?」
「うん。リビアが今日何してたか知りたいから」
言うと、彼女が少し黙った。
「……それなら話す」
「何で今ちょっと止まったの?」
「何でもない」
「また?」
「また」
今日は秘密が多い。
◇
帰りの馬車では、向かいに座った。
リビアは委員会の資料を鞄へしまい、俺は図書館で借りなかった本の話をする。
「借りなかったの?」
「三日後までに読み込んだら、サザリーの課題のための対策みたいになりそうだったから」
「でも普通の勉強でしょう?」
「うん。だから途中までは読んだ」
「全部読んでもよかったんじゃない?」
「そうかもしれない」
「じゃあ何でやめたの?」
「今日はそこまででいいと思った」
自分で言って、少し不思議になる。
明確な理由がなくても止められた。
疲れたからでもない。
禁止されたからでもない。
時間切れでもない。
ただ、今日はここまででいいと思った。
「セス」
「何?」
「今日、本当に調子いいね」
「そう?」
「うん」
「頭は二くらい」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ何?」
「何か、余裕ある」
「余裕?」
「前より」
窓の外へ目を向ける。
夕方の街を人が歩いている。
店先に灯りがつき始めていた。
「そうかな」
「うん」
「自分じゃ分からない」
「私は分かる」
朝、髪を見ただけで剣をしていないと分かった。
今も俺より先に何かを感じている。
「リビアって、俺のことよく見てるよな」
「見てるよ」
「何で?」
聞いてから、答えが分かっている気がした。
リビアは俺を好きだと言っている。
だから見る。
たぶん、そういうことなのだろう。
彼女も同じことを考えたのか、少し頬が赤くなる。
「好きだから」
やっぱり。
「……そっか」
「うん」
馬車の車輪が石畳を踏む音が続く。
俺は窓の外へ視線を戻す。
今日、俺もリビアを見ていた。
剣術の授業が終わった後。
女子側の訓練場所を探して。
リビアの剣を見た。
目が合って、嬉しかった。
委員会が終わって廊下から歩いてくる姿を見つけた時も、少しほっとした。
昨日は肩が触れているのを意識した。
離れたくないと思った。
俺もリビアをよく見ている。
それは。
「セス?」
「何?」
「また考えてる」
「うん」
「何を?」
答えようとして、まだ止めた。
「もう少し考える」
「分かった」
リビアは急かさなかった。
◇
屋敷へ戻った後、夕食までは自室で休んだ。
今日は剣術授業もあったし、実技確認の説明も受けた。
頭の疲れは二。
身体は一くらい。
無理に何かする必要はない。
机の前へ座り、今日の実技確認について必要なことだけメモする。
剣術――迅雷撃破なし。特殊強化なし。基礎を見る。
魔術――指定出力。安定性。精度。維持。停止。
属性――当日指定。全部とは限らない。
属性切替――低出力、二属性程度の可能性。研究試験とは分離。
複合――原則なし方向。
書き終えて、紙を見る。
「これでいいか」
追加で予想問題を作る必要はない。
練習計画も、先生から正式な内容を聞いてからでいい。
紙を閉じる。
次に小説のことを思い出す。
今日も読むだろうか。
リビアが来るかは分からない。
俺から行ってもいい。
そこまで考えた時、少し胸が動いた。
俺から?
今までもリビアの部屋へ行ったことはある。
婚約者になる前から、幼馴染として何度も。
それなのに、今日は少し違う感じがする。
小説の続きを読みたい。
それも本当だ。
でも、それだけだろうか。
リビアと読みたい。
昨日と同じように、隣で。
肩が触れるくらい近くで。
「……」
また胸が熱くなる。
分からない。
でも。
分からないから何もしない、という必要もない。
◇
夕食を終えた後、俺は少し迷ってから自室へ戻った。
小説はリビアが持っている。
来るかな。
待つ。
五分。
来ない。
十分。
まだ来ない。
「……何してるんだ、俺」
約束したわけではない。
時間があれば読むと言っただけだ。
リビアにもやることがある。
結界の本を読むかもしれない。
今日は疲れているかもしれない。
なら、自分のことをすればいい。
机へ向かう。
魔術書へ手を伸ばす。
でも、開く気にならない。
剣術書。
それも違う。
サザリーとの課題。
今日はもう領地運営の本を読んだ。
「……会いたいのかな」
声に出した瞬間、自分で驚いた。
会いたい。
リビアに。
今日、ずっと一緒だった。
朝食。
馬車。
授業。
昼食。
帰り。
それでも、今も会いたい。
昨日までなら「小説の続きが読みたい」と言い換えていたかもしれない。
でも、今は。
「リビアと読みたい」
小説だけではない。
リビアと。
立ち上がる。
部屋を出る。
廊下へ出たところで、向こうから誰かが歩いてきた。
銀青色の髪。
手には例の小説。
リビアだった。
俺たちは廊下の真ん中で止まる。
「セス?」
「リビア」
「どこ行くの?」
聞かれて、一瞬だけ迷う。
でも、誤魔化す理由はない。
「リビアのところ」
「え?」
「小説、読みたいから」
「あ、うん」
「……リビアと」
彼女の目が少し大きくなる。
俺の胸も急にうるさくなる。
「リビアと読みたくて、部屋行こうと思ってた」
言ってしまった。
でも、嫌ではない。
恥ずかしいけれど、嘘ではない。
リビアの頬が少しずつ赤くなる。
「私も」
「え?」
「セスの部屋に行こうと思ってた」
彼女が手の小説を少し持ち上げる。
「続き、一緒に読みたくて」
「そっか」
「うん」
二人で廊下に立ったまま、少し黙る。
どちらも同じことを考えて部屋を出て、途中で会った。
それだけのことなのに、妙に嬉しい。
「じゃあ」
俺は自分の部屋の方を見る。
「俺の部屋で読む?」
「うん」
並んで歩く。
距離は近い。
手は繋いでいない。
でも今日は、それで十分だった。
◇
ソファへ座り、小説を開く。
昨日と同じ。
肩が触れる距離。
でも、俺の中では昨日と少し違う。
昨日は、触れていることに途中で気づいた。
今日は最初から分かっている。
分かった上で、ここへ座った。
「近い?」
リビアが小さな声で聞く。
「ううん」
「本当に?」
「このくらいがいい」
口にすると、また胸が熱くなる。
リビアも少し俯いた。
「私も」
小説を開く。
主人公はようやく馬を迎えに行く。
でも途中で別の騒動へ巻き込まれる。
「やっぱり旅向いてない」
「まだ町から出てもいないよ」
「それが一番問題じゃない?」
「そのうち出るって」
「いつ?」
「知らない」
二人で笑う。
ページをめくる。
今日は昨日より内容が頭へ入る。
それでも、肩の温かさもずっと分かる。
嫌ではない。
離れたいとも思わない。
むしろ。
もう少し近くても。
そこまで考えて、心臓が大きく鳴った。
「セス?」
「何?」
「顔赤い」
「暑い?」
「部屋、普通だよ」
「じゃあ何だろ」
「分からない?」
「……少しだけ分かるかもしれない」
リビアの呼吸が止まったように見えた。
「何が?」
すぐには答えられない。
好き。
その言葉まで行くには、まだ何か足りない気がする。
でも。
「俺」
自分の手を見る。
「リビアと一緒にいたいんだと思う」
言葉にすると、胸の奥にあったものが少しだけ形になる。
「婚約者だからとか、守らなきゃとかじゃなくて」
リビアは何も言わず、俺の続きを待っている。
「今日もずっと一緒だったのに、夜になってリビアが来なかったら、会いたいって思った」
恥ずかしい。
でも、止めたくない。
「小説も読みたかった。でも、一人で別の本読むんじゃなくて、リビアとこれ読みたかった」
「……うん」
「剣の授業でも、リビアがどこにいるか探した」
「うん」
「見つけたら嬉しかった」
リビアの目が少し潤んでいるように見える。
泣いているわけではない。
でも、笑おうとしている口元がわずかに震えている。
「まだ、好きって言葉がどういう感じなのか、全部分かったわけじゃない」
「うん」
「だから、まだそれを言うのは違うと思う」
「うん」
「でも」
俺はリビアを見る。
「一緒にいたいのは、分かった」
しばらく返事がなかった。
不安になる。
「リビア?」
「ちょっと待って」
「何で?」
「嬉しいから」
彼女が目元を指で軽く押さえる。
「泣いてる?」
「泣いてない」
「でも」
「泣いてないの」
「分かった」
「今見ないで」
「どこ見ればいい?」
「本」
「読めないよ」
「じゃあ前」
言われた通り正面を見る。
少しして、隣でリビアが息を整える音がした。
「もういいよ」
見る。
頬は赤い。
でも、笑っている。
「セス」
「うん」
「ありがとう」
「何が?」
「ちゃんと考えてくれて」
「待たせてるけど」
「待つって言ったでしょう?」
「うん」
「それに、今ので十分嬉しい」
「好きって言ってないのに?」
「言われたらもっと嬉しいけど」
「正直だな」
「でも、分からないのに言われるより、今の方がずっといい」
「そっか」
「うん」
少し沈黙する。
肩は触れたまま。
俺は自分の手を見る。
今日は手を繋ぐ必要はない。
不安を落ち着かせるためでもない。
でも。
「リビア」
「何?」
「手」
俺が右手を少し差し出す。
「繋ぎたい?」
「うん」
「私も」
リビアの左手が重なる。
指が触れる。
ゆっくり絡む。
温かい。
面会前とは違う。
怖いからではない。
何かを確認したいからでもない。
ただ、今はこうしていたい。
「本、読める?」
リビアが笑う。
「片手で持てる?」
「重い」
「じゃあ俺持つ」
「ページめくれる?」
「リビアがやって」
「分かった」
俺が本を持ち、リビアがページをめくる。
繋いだ手はそのまま。
かなり読みにくい。
「これ、効率悪いな」
「離す?」
聞かれる。
俺は手に少し力を入れた。
「このままでいい」
「うん」
リビアの声が嬉しそうだった。
◇
結局、その日はあまり先まで読めなかった。
片手で本を持つのは疲れるし、ページをめくるたびに二人の姿勢が少し崩れる。
それでも、いつもより早く本を閉じた時、不満はなかった。
「今日はここまで?」
「うん」
「全然進まなかったね」
「五ページくらい?」
「七ページ」
「数えてた?」
「何となく」
リビアが本を閉じる。
でも、手はまだ繋いだまま。
「セス」
「何?」
「離さないの?」
言われて初めて気づく。
「……離した方がいい?」
「私はどっちでも」
「じゃあ、もう少し」
「うん」
何をするでもなく、二人で座っている。
静かな部屋。
魔導灯の柔らかな光。
窓の外では夜風が木々を揺らし、葉の擦れる音が微かに聞こえる。
会話もない。
でも気まずくない。
むしろ、ずっとこうしていられる気がする。
「リビア」
「うん?」
「俺、前より分かってきてる?」
「何が?」
「自分のこと」
リビアは少し考える。
「うん」
「どのくらい?」
「数字にするの?」
「しない」
「よかった」
彼女が笑う。
「前はね、セスって、自分が何をしたいかより、何をするべきかを先に考えてたでしょう?」
「うん」
「最近は、やりたいって言うこと増えた」
「剣とか?」
「剣も。本も。研究も」
「それ前からじゃない?」
「前は、役に立つからとか、必要だからって理由をつけることが多かったの」
「そうだった?」
「そうだった」
自分では分からなかった。
「最近は、剣やりたい、資料見たい、小説読みたいって言う」
「うん」
「今日は、私に会いたいって言った」
また顔が熱くなる。
「そこ繰り返さなくていいよ」
「私は嬉しかったから何回でも思い出す」
「馬車でも同じこと言ってたな」
「何が?」
「嬉しかったこと覚えてるって」
「覚えてるよ」
「俺がライゼルの前で言ったことも?」
「全部」
「忘れて」
「嫌」
「やっぱり」
笑う。
少しして、俺は繋いだ手を見る。
「リビア」
「何?」
「今は、婚約者でよかったって思う」
彼女の指が少し動いた。
「今は?」
「前から嫌だったわけじゃないよ」
「分かってる」
「でも前は、俺でいいのかなって方が強かった」
「うん」
「今も完全になくなったわけじゃない」
元平民。
執事見習い。
公爵令嬢の婚約者。
身分差は消えていない。
俺が急に別人になったわけでもない。
「でも」
リビアを見る。
「リビアの婚約者じゃなくなる方が嫌だって、前より分かる」
「……うん」
「だから、婚約者でよかった」
リビアはしばらく何も言わなかった。
それから、繋いでいた手を少し強く握る。
「私も」
「うん」
「セスが婚約者でよかった」
胸の奥が温かくなる。
好きなのか。
まだ、その言葉を自分の中で確定するところまでは行っていない。
でも、以前より近いところまで来ている気がする。
分からないままでもいい。
ただ、分かったことまで否定する必要はない。
俺はリビアと一緒にいたい。
会えないと少し寂しい。
見つけると嬉しい。
近くにいると落ち着く。
触れていたい時がある。
婚約者でなくなるのは嫌だ。
そして今は、リビアの婚約者でよかったと思っている。
そこまでは、もう分かる。
「そろそろ戻る?」
リビアが聞く。
「うん」
返事をする。
でも手は離れない。
「セス?」
「……あとちょっと」
「うん」
少しだけ。
もう少しだけ。
結局、その「少し」が何分だったのかは分からない。
時計を見なかったから。
でも今日は、それでよかった。




