第40話 大きな話が終わっても、次の日の授業と友達との昼食は普通にやってきます
目を覚ました瞬間、昨日のことを思い出した。
第二応接室。
向かい側に座っていたライゼル。
最初にリビアへ謝り、それから俺を見て「嫌いだ」と言った時の顔。自分が納得出来ないことと、リビアが俺を選んだことは別だと認めた声。俺への攻撃には嫉妬もあったと、自分の言葉で話したこと。
そして、最後にもう一度聞いた謝罪。
全部が一度に頭へ戻ってきた。
「……夢じゃなかったな」
当たり前だけれど、声に出してみる。
昨日の面会は本当に終わった。
だからといって、朝になった瞬間に気持ちまで綺麗に整理されているわけではない。
謝罪を聞けてよかったと思う。
でも、許したのかと聞かれたら、まだ分からない。
ライゼルが少し変わったのかと聞かれても、一度話しただけで判断出来ない。
また会いたいかも、今は分からない。
ただ一つ、昨日よりはっきりしていることがある。
俺は、ライゼルと話したことを後悔していなかった。
そこまで考えてから身体を起こす。
昨日の疲れが残っている。
剣を振った後のような筋肉の重さではなく、頭の奥に薄い膜が張っているような疲れだった。身体そのものは軽いのに、何かを深く考えようとすると少し億劫になる。
「頭、四くらいかな」
昨日の面会直後は七だった。
一晩眠ってかなり下がった。
緊張はもうほとんどない。
魔力にも違和感はない。
朝の剣は――。
「やめとこう」
迷いはほとんどなかった。
剣を振れないほど疲れているわけではない。
振ろうと思えば出来る。
でも、今日やる必要がない。
昨日は面会があった。
今日は普通に授業がある。
昼には皆と食事をする約束もしている。
剣なら明日でもいい。
そう決めると、以前みたいに空いた時間を何かで埋めたくなる感じもなかった。
机を見る。
古い魔力測定の本が置かれている。
ベルナルト先生が見つけたという中継板の構造図も気になる。
けれど、それも今日すぐでなくていい。
「……何しよう」
何もしないという選択肢もある。
昨日の朝と同じように窓辺へ行き、カーテンを開けた。
今日はよく晴れている。
庭には朝露が残り、昇り始めた太陽の光を受けて葉の先が細かく光っていた。庭師が植え込みの状態を確認しながら歩き、少し離れたところでは使用人が物干し台を整えている。
いつもの朝だった。
昨日、俺はライゼルと会った。
それでも庭師は今日も庭を整えるし、料理人は朝食を作る。
俺もこれから朝食を食べて学園へ行く。
妙な感じがする。
でも、嫌ではなかった。
◇
「おはよう、セス」
「おはよう」
朝食の席で顔を合わせたリビアは、俺より少し眠そうだった。
「眠れた?」
「途中で一回起きた」
「何時?」
「分からない。時計見なかったから」
「また寝られた?」
「うん。セスは?」
「朝まで寝た」
「頭は?」
「四」
「私も四くらい」
昨日の夜よりかなり下がっている。
「剣は?」
リビアが聞く。
「やってない」
「本は?」
「読んでない」
「本当に?」
「本当に」
疑われた。
「何してたの?」
「窓から庭見てた」
「……セスが?」
「何だよ、その反応」
「だって、朝に時間があって、剣も本もやらずに庭を見てたの?」
「うん」
「成長したね」
「そんな大げさなこと?」
「セスの場合は」
向かいで新聞を開いていた旦那様も、少しだけ紙面を下げる。
「私も同意見だ」
「旦那様まで」
「以前のお前なら、その時間で剣を振り、余った数分で本を読んでいただろう」
「そこまでじゃないですよ」
言ってから考える。
「……やってたかもしれません」
「だろうな」
グレイヴが紅茶を用意しながら頷いた。
俺はパンへ手を伸ばす。
「リビアは?」
「何が?」
「朝」
「十五分だけ結界の本を読んだ」
「読んだんだ」
「読みたかったから」
「頭四なのに?」
「十五分なら大丈夫だと思ったし、読んでみて疲れたらやめようと思ってた」
「疲れた?」
「少し。でも悪くない」
「じゃあいいのか」
「うん」
同じように疲れていても、俺は読まなかった。
リビアは十五分読んだ。
どちらが正しいということでもないのだと思う。
「昨日のことは」
旦那様が静かに口を開いた。
俺とリビアがそちらを見る。
「今朝になって何か話したいことはあるか?」
少し考える。
「まだ、あんまり」
「私もです」
「なら聞かない」
旦那様は新聞へ視線を戻した。
グレイヴも何も言わない。
「ただ」
俺は自分から続けた。
「会ってよかったとは思ってます」
新聞が少し下がる。
「そうか」
「許したかは分かりません」
「ああ」
「また会いたいかも、まだ分からない」
「それも今決める必要はない」
「はい」
リビアも頷く。
「私も、話せてよかったと思っています。でも、謝罪文を読んだからとか、昨日直接謝られたからとか、それだけで全部終わった感じはしません」
「当然だろう」
旦那様の声は穏やかだった。
「人の気持ちは手続きではない。謝罪を受け取ったから次は許す、という順番通りに進む必要はない」
「はい」
「それと」
グレイヴが俺を見る。
「学園側の処分や今後の指導について、自分の感情と混ぜるなよ」
「どういうこと?」
「お前が許せないから重く罰してほしい、あるいは謝罪を受けたから軽くしてほしい、と無理に結びつける必要はないということだ」
「ああ」
昨日、学園長も似たことを言っていた。
「学園が決めるんだよね」
「そうだ」
「俺たちに意見を聞くかもしれないけど」
「その時は、その時のお前の意見を言えばいい」
「分かった」
今日はそれで終わった。
朝食の後、いつも通り学園へ向かう。
◇
馬車へ乗ると、俺とリビアは向かいに座った。
昨日は隣だった。
今日は自然といつもの位置へ戻っていた。
「セス」
「何?」
「昨日のこと、学校で皆に聞かれたらどうする?」
「どうしよう」
考えていなかった。
イザークたちは、面会があることを知っている。
詳しい内容までは知らない。
「俺は、話せたってくらいなら言っていいかな」
「私も」
「謝罪の内容は?」
「全部は言いたくない」
「俺も」
「セスがライゼルに何を言ったかも、私からは言わない」
「俺もリビアが言ったことは勝手に話さない」
「じゃあそれで」
簡単に決まった。
「でも」
リビアが少しだけ楽しそうに笑う。
「セスが昨日、私のことをどう言ったかは、私だけ知ってればいいの?」
嫌な予感がする。
「何の話?」
「誰より大事」
「……」
「一緒にいるのが好き」
「リビア」
「手を繋ぐのも好き」
「朝からやめて」
「婚約者じゃなくなるのは嫌」
「全部覚えてるじゃん」
「覚えてるよ」
リビアの頬も少し赤い。
からかっているだけではないらしい。
「忘れて」
「嫌」
「何で」
「嬉しかったから」
そう言われると、何も返せない。
窓の外を見る。
朝の街並みが流れている。
「……好きかは分からないって言ったけど」
「うん」
「怒ってない?」
「怒ってない」
「本当に?」
「セスが分からないって言ったの、誤魔化したんじゃないでしょう?」
「うん」
「ならいい」
「待たせてる気がする」
「私が待つって決めてるの」
リビアはそう言ってから、少しだけ首を傾げた。
「でも、いつか分かったら教えてね」
「うん」
「私じゃなくても」
「え?」
「セスが誰を好きなのか分かったら」
胸の奥が妙にざわつく。
「リビアじゃなかったら?」
思わず聞いた。
彼女の笑みが少し薄くなった。
「嫌だけど」
「嫌なんだ」
「当然でしょう」
「そっか」
「でも、セスが自分で分かったことなら、ちゃんと聞く」
その言葉を聞いて、なぜか胸が苦しくなった。
俺が別の誰かを好きになる。
想像しようとする。
ナナリー。
ミリアナ。
学園の誰か。
知らない誰か。
その人と手を繋ぐ。
リビアではなく。
「……変な感じ」
「何が?」
「いや」
まだ分からない。
だから、無理に答えを作らない。
「分かったら言う」
「うん」
◇
教室へ入った瞬間、イザークがこちらを見た。
昨日と同じだ。
でも今日はすぐに近づいてきた。
「おはよう」
「おはよう」
「来たな」
「来るよ」
「いや、そうだけど」
イザークは俺の顔を少し見る。
「どうだった?」
予想していた質問。
「話せた」
「最後まで?」
「うん。二十分」
「怪我は?」
「ない」
「魔法は?」
「途中でライゼルの魔力がちょっと上がったけど、先生に言われて下げた」
イザークの表情が少し硬くなる。
「攻撃は?」
「なかった」
「そっか」
それだけ確認すると、肩から力を抜いた。
「じゃあ、どう思った?」
「まだ分からない」
「何が?」
「色々」
「許したとか?」
「それも」
「そっか」
イザークはそれ以上聞かなかった。
「今日、剣やる?」
「やらない」
「即答だな」
「頭四」
「じゃあなし」
「明日は?」
「明日になってから決めろ」
「最近皆それ言う」
「いいことだろ」
ナナリーとミリアナも来る。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨日……」
ナナリーが言いかける。
「話せたよ」
俺から言った。
「二十分。途中で終わらずに」
「そうですか」
ナナリーはほっとしたように息を吐いた。
「それなら……良かった、でいいんでしょうか」
「俺も分からない」
「では」
彼女は少し考える。
「お疲れさまでした」
「うん。ありがとう」
それが一番しっくりきた。
良かった。
悪かった。
成功した。
失敗した。
まだ、そんな言葉で決めなくていい。
昨日は疲れた。
だから「お疲れさま」でいい。
「昼、一緒に食べるんだよね?」
ミリアナが確認する。
「うん」
「じゃあ今日は面会の話だけじゃなくて、普通の話もしよう」
「普通の話って?」
「来月の実技確認とか」
「それも結構真面目じゃない?」
「じゃあ食堂の新しい焼き菓子」
「昨日も焼き菓子食べた」
「何で?」
「面会後に食べようってリビアと決めてた」
ミリアナが目を丸くする。
「そんな予定立ててたの?」
「うん」
「何それ、可愛い」
「可愛い?」
「二人とも」
リビアが少し照れたように笑う。
「大事な予定だったの」
「美味しかった?」
「美味しかった」
話題が昨日の面会から焼き菓子へ移る。
それが心地よかった。
◇
一時間目は法学だった。
教師が黒板へ今日の題材を書く。
契約の撤回と再交渉。
前回まで扱っていた責任分配とは少し違う内容だ。
「契約は、一度成立したからといって永遠に同じ条件で続くとは限らない。状況の変化、当事者の合意、履行不能などによって、条件の見直しが必要になる場合がある」
教師の説明を聞きながら、ノートを取る。
今日はちゃんと集中出来ている。
昨日のことが頭から消えたわけではない。
でも、授業の内容も入ってくる。
「では、両者が一度合意した条件を後から変更する場合、最も重要なのは何か」
数人が手を上げる。
俺も少し考えた。
教師に指名されたのはサザリーだった。
「変更後の条件について、双方が改めて意思を確認することです。一方が以前の合意を根拠に、相手の現在の意思まで固定することは出来ません」
「その通りだ」
教師が黒板へ言葉を足す。
現在の意思。
俺はそこへ線を引いた。
昨日のライゼルを思い出す。
昔どう思っていたか。
何を期待していたか。
それだけで、今のリビアの意思を決めることは出来ない。
でも、そこで思考を止めた。
何でもライゼルの話へ繋げなくていい。
今は授業だ。
俺は黒板へ視線を戻した。
◇
二時間目の魔術理論が終わった後、ベルナルト先生に呼ばれた。
「クルセス」
「はい」
「昨日の面会は終わったそうだな」
「はい」
「体調は?」
「身体は大丈夫です。頭四くらい」
「なら、今日は構造図を見せない」
「え」
思わず声が出た。
リビアが隣で笑う。
「何で?」
「頭四なのだろう」
「見るだけなら」
「見れば考える」
「……考えます」
「質問もする」
「します」
「なら明日以降だ」
「明日なら?」
「明日の状態次第だ」
昨日も同じことを言われた気がする。
「資料、逃げませんよ」
リビアが楽しそうに言う。
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるけど気になるんだよ」
ベルナルト先生は少しだけ笑う。
「気になる状態のまま待つのも勉強だ」
「そういう勉強あるんですか?」
「今作った」
「先生」
「ただし、昨日確認した資料から一つ訂正がある」
俺はすぐ先生を見る。
「何です?」
「中継板の材質名について、現代の既知素材との対応候補が一つ見つかった。だが確定ではない」
「何ですか?」
「今日はそこまでだ」
「先生!」
リビアが完全に笑っている。
「それ、一番気になるやつじゃないですか」
「だからこそ、明日まで覚えていられるだろう」
「忘れませんよ」
「なら問題ない」
ベルナルト先生はそのまま行ってしまった。
「絶対わざとだ」
「セスが質問始めるからでしょう?」
「でも材質候補だよ?」
「今日は見ない」
「分かってる」
気になる。
すごく気になる。
でも、追いかけなかった。
◇
昼休み。
昨日約束した通り、皆で食堂へ集まった。
俺、リビア、イザーク、ナナリー、ミリアナ、サザリー。
少し遅れてアルフォルド殿下とカイゼル殿下も来る。
「昨日はどうだった?」
アルフォルド殿下が席へ着くなり尋ねた。
「話せました」
「それ以上は?」
「まだ分かりません」
「そうか」
殿下は頷くだけだった。
カイゼル殿下は俺とリビアを交互に見る。
「二人とも思ったより普通の顔してるね」
「昨日は頭七でした」
「今は?」
「四」
「オリビアは?」
「私も四くらいです」
「その数字、すっかり定着したね」
「便利ですよ」
「僕も使おうかな」
「何を測るんです?」
「退屈度」
「やめてください」
ミリアナが笑う。
「今は?」
「一」
「楽しいんですね」
「もちろん」
カイゼル殿下が涼しい顔で答える。
「授業中は?」
「それは秘密だよ」
「先生に聞かれますよ」
食卓に笑いが広がる。
ライゼルの話だけをする昼食にはならなかった。
来月の実技確認。
食堂の新しいメニュー。
イザークの退き足。
ナナリーが昨日提出した課題で計算を一つ間違えた話。
サザリーとの共同課題。
そして、カイゼル殿下が「普通の学園生は放課後に何をしているのか」と言い出したところから、なぜか全員の放課後の過ごし方の話になる。
「俺は剣」
イザーク。
「知ってる」
「クルセスに言われたくない」
「俺は最近色々だよ。剣、本、図書館、リビアとお茶」
「最後だけ雰囲気違うな」
「そう?」
「違う」
ミリアナが即答する。
「オリビア様は?」
ナナリーが尋ねる。
「図書館が多いかな。結界の資料を読んだり、委員会があったり。あとはセスと一緒に帰る」
「ほら」
ミリアナが俺を見る。
「何が?」
「二人とも自然に相手が入ってる」
「婚約者だから?」
「そういうところ」
「どういうところ?」
分からない。
リビアは隣で嬉しそうにしている。
アルフォルド殿下が小さく笑った。
「クルセス」
「はい」
「昨日の面会で、ライゼルに何を言われたかは聞かない」
「はい」
「ただ、お前自身が今日ここにいて、いつも通り食事が出来ているなら、それで十分だ」
「ありがとうございます」
「オリビアもな」
「はい」
リビアが答える。
その後は本当にライゼルの話をしなかった。
◇
午後の授業を終えた頃には、頭の疲れは四から三くらいまで下がっていた。
不思議だ。
休めば疲れが下がるのは分かる。
でも今日は授業を受け、友達と話し、ノートも取っている。
それでも朝より楽になっていた。
たぶん、普通に過ごせたこと自体が良かったのだと思う。
帰り支度をしていると、イザークが来る。
「今日は帰るんだよな?」
「うん」
「確認しただけ」
「明日は剣やるかも」
「かも、か」
「朝の状態見てから」
「成長したな」
「皆それ言うな」
「じゃあ明日、出来そうなら声かけろ」
「うん」
その横からサザリーも声をかける。
「昨日の課題は?」
「今日、十分だけ復習しようかな」
「新しい条件を足すなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「橋の下流に市場があった場合は考えない」
サザリーが眉を上げる。
「やはり考えていたのか」
「昨日ちょっと」
「足すな」
「はい」
「次は条件変更をこちらから出す」
「いつ?」
「三日後なら空いている」
俺は反射的に予定を考えそうになる。
三日後。
剣。
魔術。
リビアとの予定。
委員会は俺にはない。
「今決めなくてもいい?」
口にすると、サザリーが少し驚いた。
「構わない」
「今日帰って予定見て、明日返事する」
「ああ」
「それでいい?」
「むしろ普通だ」
「普通なんだ」
「普通だ」
また一つ知った。
◇
教室を出ると、リビアが待っていた。
「帰る?」
「うん」
「図書館は?」
「行かない」
「私も」
並んで廊下を歩く。
昨日は、この時間に第二応接室へ向かった。
同じ廊下。
同じ夕方の光。
でも今日は玄関へ向かう。
「セス」
「何?」
「昨日の部屋、あっちだね」
リビアも同じことを考えていたらしい。
「うん」
「見に行く?」
「何で?」
「何となく」
俺は少し考える。
「行かなくていいかな」
「私も」
「終わったし」
「うん」
忘れるわけではない。
なかったことにするわけでもない。
ただ、わざわざ確認しに行く必要はない。
俺たちはそのまま玄関へ向かった。
◇
帰りの馬車では、リビアが本を出した。
「読むの?」
「十分だけ」
「じゃあ俺も」
俺も鞄から本を出す。
「測定器?」
「違う。剣術の方」
「珍しい」
「測定器読むと止まらなくなりそうだから」
「自分で分かってるんだ」
「最近分かってきた」
リビアは結界の本。
俺は剣術書。
向かい合って、それぞれ違うものを読む。
馬車が揺れる。
ページをめくる音が時々重なる。
十分ほど経ったところで、リビアが先に本を閉じた。
「終わり」
「俺も」
俺も栞を挟む。
「何読んでた?」
「間合いを詰める時の視線。相手の剣先ばっかり見ない方がいいって」
「セス、見てないでしょう?」
「普段はね。でもイザークとやってると、足見る時ある」
「退き足?」
「うん。最近直してるから」
「研究者みたい」
「剣だよ」
「セス、何でも観察するね」
「リビアも結界見てるだろ」
「私は研究だから」
「俺も剣研究」
「じゃあそういうことにしておく」
少し笑う。
昨日の帰りとは全然違う。
手も繋いでいない。
肩も触れていない。
でも、向かいにリビアがいる。
それで落ち着いている。
「ねえ、セス」
「何?」
「昨日のこと、今はどんな感じ?」
俺は窓の外を見る。
夕方の街。
昨日と同じ道。
「昨日より遠い」
「遠い?」
「忘れたって意味じゃなくて」
言葉を探す。
「昨日は、ライゼルの言葉がずっと頭の近くにあった。今は、思い出そうと思えばすぐ思い出せるけど、ずっと目の前にある感じじゃない」
「……分かる」
「リビアも?」
「うん」
彼女は膝の上の本を撫でる。
「昨日の夜は、謝罪文の言葉と本人の言葉を何度も比べてた」
「違った?」
「少し。でも、大きくは違わなかった」
「そっか」
「今朝はまだ考えてたけど、授業受けて、皆とお昼食べてたら、ずっと考えなくてもいいんだって思った」
「うん」
「また考えたくなったら考える」
「それでいいな」
「うん」
◇
屋敷へ戻ると、グレイヴが玄関で俺たちを迎えた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「ただいま戻りました」
いつもの挨拶。
昨日みたいに待ち構えていたわけではない。
「セス」
「何?」
「今日は?」
「身体一。魔力ゼロ。頭三」
「朝より下がったのか」
「うん」
「何をした?」
「授業」
「それだけか?」
「昼に皆と飯食って、帰りに十分本読んだ」
「剣は?」
「なし」
「魔術研究は?」
「なし」
「ベルナルト先生から資料は?」
「見せてもらえなかった」
「良い判断だ」
「グレイヴまで」
「明日以降にしろ」
「分かってる」
リビアも自分の状態を伝える。
彼女も頭三程度まで下がっていた。
「では今日は普通に?」
「うん」
「夕食まで少し休む」
「俺も」
グレイヴが頷く。
「それでいい」
◇
自室へ戻って着替えた後、俺は机へ向かった。
昨日の四つのメモがまだ置いてある。
一、俺がリビアを惑わせていないことを証明しようとしない。
二、ライゼルが俺を嫌っていても、それだけなら問題にしない。
三、謝罪を聞いても、その場で許すか決めなくていい。
四、何かあっても自分一人で対処しようとしない。
全部、昨日の面会で役に立った。
一つ目。
俺は自分がリビアを惑わせていないと証明しなかった。
二つ目。
ライゼルに嫌いだと言われた。
少し刺さったけれど、それだけなら問題ではなかった。
三つ目。
まだ許したか分からない。
それでいい。
四つ目。
ライゼルの魔力が上がった時、俺は動かなかった。
エレナ先生が止めた。
リビアも自分でそこにいた。
「……出来たな」
誰に言うでもなく呟く。
この紙をどうしよう。
捨てる?
残す?
少し考えて、引き出しへ入れた。
もう机の上に置いておく必要はない。
でも、捨てる必要もない。
それでいい。
次に、サザリーとの課題を出す。
十分だけ。
昨日の条件を見直す。
橋の損傷。
市場への物流。
予算。
仮復旧。
住民への説明。
新しい条件は足さない。
十分後。
まだ少し考えたい。
でも、紙を閉じる。
「続きは明日」
それから本を取ろうとして、やめた。
夕食まで少し時間がある。
ベッドへ横になる。
眠るほどではない。
ただ休む。
天井を見ていると、昨日のライゼルの顔が浮かんだ。
『俺は、お前が嫌いだ』
やっぱり少し嫌な言葉だ。
嫌われて嬉しいわけではない。
でも。
「仕方ないか」
ライゼルが俺を嫌うことまで、俺が直す必要はない。
その代わり、攻撃しない。
リビアの意思を勝手に否定しない。
それは必要だ。
昨日のライゼルは、それを分けようとしていた。
次も出来るかは分からない。
だから、今後のことは先生たちが見る。
俺は俺の生活へ戻る。
◇
夕食後、リビアが俺の部屋へ来た。
手には昨日とは違う本を持っている。
「何それ?」
「結界じゃないよ」
「じゃあ何?」
「小説」
「リビア、小説読むんだ」
「読むよ。セス、私を何だと思ってるの?」
「結界の本ばっかり読んでるから」
「セスだって魔術と剣と法律ばっかりでしょう」
「俺も小説読むよ」
「最近読んだ?」
「……読んでない」
「でしょう?」
リビアが勝ったような顔をする。
「面白い?」
「まだ最初」
「どんな話?」
「旅に出た騎士が、行く先々で事件に巻き込まれる話」
「強い?」
「普通くらい」
「珍しい」
「何が?」
「主人公、最強じゃないんだ」
「小説の主人公が全員最強なわけないでしょう」
「そうだけど」
リビアはソファへ座る。
俺も隣へ行く。
「今日は一緒に読む?」
「別々に?」
「うん」
「じゃあ俺も何か小説探そうかな」
棚を見る。
魔術書。
剣術書。
法律。
領地経営。
歴史。
「……ない」
「本当に研究の本ばっかり」
「昔読んだやつ、どこいったかな」
「私の貸そうか?」
「リビアが読んでる途中だろ」
「別の持ってくる」
「そこまでしなくていいよ」
「じゃあ」
リビアが少し考える。
「一緒に読む?」
「一冊を?」
「うん」
「読みにくくない?」
「セスがページめくるの早すぎなければ」
「リビアに合わせる」
「じゃあこれ」
リビアが少し横へずれる。
俺も近づく。
肩が触れる。
彼女が本を開く。
「最初から?」
「まだ二十ページくらいだから」
「戻ってくれるの?」
「セスも読んだ方が後で話せるでしょう?」
「うん」
リビアが最初のページを開く。
二人で読む。
文字を追う。
少しして、俺が読み終わる。
でもページはめくらない。
リビアがまだだから。
「読んだ?」
「うん」
「待って」
「うん」
少ししてページがめくられる。
次。
また次。
剣も魔術も結界もライゼルも関係ない話。
旅に出た騎士が最初の町で馬を逃がし、宿代を払えなくなって働く話だった。
「この人、旅向いてないんじゃない?」
「まだ始まったばっかり」
「馬逃がしてるよ」
「そのうち成長するの」
「リビア、もう知ってる?」
「知らない」
「じゃあ一緒だ」
「うん」
また読む。
気づけば、三十分以上経っていた。
でも頭が疲れている感じはなかった。
「今日はここまでにする?」
リビアが尋ねる。
「もう?」
「セス、続き読みたい顔してる」
「読みたい」
「でも明日もあるよ」
「じゃあ明日?」
「時間あったら」
「うん」
本を閉じる。
続きがある。
明日読むかもしれない。
読まないかもしれない。
それでいい。
「セス」
「何?」
「昨日、ライゼルに会ったでしょう?」
「うん」
「今日、皆とお昼食べたでしょう?」
「うん」
「今、一緒に小説読んでるでしょう?」
「うん」
「何か、不思議」
「俺も朝思った」
「何を?」
「大きいことがあっても、次の日って普通に来るんだなって」
「うん」
「前は、一個問題があると、それ終わるまで他のことしちゃいけない気がしてた」
「してたね」
「今は」
少し考える。
「終わってなくても、別のことしていいんだな」
「ライゼルのこと?」
「うん。まだ処分も決まってないし、俺が許したかも分からない。あっちがこれからどうなるかも分からない」
「うん」
「でも、剣やってもいいし、本読んでもいいし、リビアと小説読んでもいい」
「当たり前だよ」
「最近、その当たり前を覚えてる気がする」
リビアが柔らかく笑う。
「じゃあ、もっと覚えよう」
「どうやって?」
「明日も普通に学校行く」
「それだけ?」
「それだけ」
「剣出来そうなら?」
「やっていい」
「ベルナルト先生の資料は?」
「頭が大丈夫なら見せてもらえば?」
「リビアの結界は?」
「私も先生に聞く」
「昼は?」
「皆と食べる?」
「うん」
「放課後は?」
「まだ決めなくていい」
俺は少し笑った。
「それ、最近よく言うな」
「便利でしょう?」
「うん」
何でも先に決めなくていい。
明日の放課後は、明日になってから考えてもいい。
「そろそろ戻る?」
「うん」
リビアが立ち上がる。
俺も一緒に扉まで行く。
「おやすみ、セス」
「おやすみ」
「明日ね」
「うん。また明日」
扉が閉じる。
俺は一人になった部屋へ戻る。
机の引き出しには、昨日まで使っていた四つのメモ。
机の上には、途中の課題。
棚には、まだ読んでいない魔術書。
そして、さっきまでリビアと読んでいた小説の続きもある。
やることはたくさんある。
でも全部、今夜やる必要はない。
魔導灯を消し、ベッドへ入る。
ライゼルとの面会は終わった。
それで全部が解決したわけではない。
許したわけでもない。
友達になったわけでもない。
明日からライゼルが普通に教室へ戻ってくるわけでもない。
学園側の判断も、シュザー家の話も、まだ続いている。
それでも、俺の日常まで止めて待つ必要はない。
明日は授業がある。
イザークと剣を振るかもしれない。
ベルナルト先生から古い測定器の構造図を見せてもらえるかもしれない。
昼には友達と食事をする。
夜には、リビアと小説の続きを読むかもしれない。
そんなことを考えているうちに、昨日の第二応接室の景色は少しずつ遠ざかっていった。
消えるのではない。
俺の中に残ったまま、今日や明日の隣へ移っていく。
大きなことが一つ終わっても、次の日は普通に来る。
そして俺は、その普通の明日を少し楽しみにしながら目を閉じた。




