第39話 話すために会いに来たので、許すかどうかは今日決めなくてもいいそうです
目を覚ました時、まだ外は暗かった。
いつもより早い。
枕元の時計を見ると、起きる予定の時間まで三十分近く残っている。
「……早いな」
もう一度眠ろうとして目を閉じたけれど、眠気は戻ってこなかった。
理由は分かっている。
今日だ。
今日の放課後、ライゼルと会う。
昨日までは「明日」だったものが、眠って起きただけで「今日」になった。
それだけなのに、胸の奥の感覚がまるで違う。
身体を起こし、ゆっくり息を吐く。
身体に痛みはない。
疲れもない。
魔力の違和感もない。
頭痛もない。
ただ、緊張は六くらいある。
昨日寝る前は五くらいだったから、少し上がった。
「六なら……まだ大丈夫」
十なら会わない。
そんな話を何度もしてきた。
でも六だから必ず会う、という意味でもない。
朝食を食べる。
学園へ行く。
授業を受ける。
その途中で八や九になれば先生へ言う。
身体の調子が悪くなっても同じ。
今は六。
それだけだ。
ベッドから降りて、カーテンを少し開ける。
夜明け前の庭には薄い霧がかかっていた。昨日までの雨で地面に残った湿気が冷やされたのか、植え込みの向こうがぼんやり霞んでいる。
剣を振る気にはならなかった。
本も、今は読みたくない。
だから制服へ着替えた後、そのまま窓際の椅子へ座った。
何もしない。
少し前なら落ち着かなかった時間。
今日は、むしろそれがよかった。
鳥の声が一つずつ増えていく。
空が少しずつ明るくなる。
庭の輪郭が見えるようになる。
今日、ライゼルと会う。
考えないようにする必要はない。
でも、今から会話を頭の中で何度も練習する必要もない。
昨日までに決めたことはある。
リビアを惑わせていないと証明しようとしない。
ライゼルが俺を嫌っていても、それだけなら問題にしない。
謝罪を聞いても、その場で許す必要はない。
何かあった時、自分一人で全部対処しない。
それで十分だ。
言われた言葉に対して、その時の俺が答える。
それ以上の準備は、たぶん出来ない。
◇
朝食の席へ行くと、リビアはすでに座っていた。
「おはよう、セス」
「おはよう」
顔を見ただけで分かった。
リビアも緊張している。
いつものように微笑んでいるけれど、カップを持つ指先が少し硬い。
「何時に起きた?」
俺が尋ねる。
「いつもより二十分くらい早く」
「俺、三十分」
「負けた」
「勝負じゃないだろ」
リビアが少し笑った。
それだけで、張っていた空気が少し緩む。
「緊張は?」
「六」
「俺も」
「同じね」
「朝ご飯食べられそう?」
「うん。セスは?」
「普通に腹減った」
「それなら大丈夫そう」
向かいに座る旦那様は、俺たちのやり取りを黙って聞いていた。
グレイヴもいつもの位置に控えている。
「二人とも」
旦那様が口を開く。
「今朝の時点で、会いたいという意思は変わっていないか?」
俺は自分の中を確認する。
緊張はしている。
怖さもある。
でも。
「変わってません」
「私もです」
リビアも答えた。
「なら、朝の確認はそれでいい」
旦那様は本当にそれ以上聞かなかった。
「え、それだけですか?」
思わず俺が尋ねる。
「何だ。もっと質問してほしいのか?」
「いや、そうじゃないですけど」
「なら食べなさい」
「はい」
パンを取る。
今日はバターを少なめに塗った。
昨日注意されたからだ。
それを見たリビアが笑う。
「今日は適量」
「昨日もそんなに多くなかっただろ」
「グレイヴ」
「昨日は多かった」
「味方いないな」
「私はセスの味方よ?」
「今はバターの話」
「バターについてはグレイヴの味方」
「じゃあ味方じゃないじゃん」
旦那様が新聞の向こうで笑っている。
今日の放課後にライゼルと会う。
それでも朝食は朝食だった。
◇
屋敷を出る前、グレイヴに呼び止められた。
「セス」
「何?」
リビアは少し先で待っている。
グレイヴは俺の制服の襟元を一度確認し、わずかな乱れを直した。
「体調に変化があれば?」
「先生に言う」
「オリビア様だけに言うのではなく?」
「先生にも言う」
「何か起きた時は?」
「先生たちが先」
「お前が前へ出る必要は?」
「基本ない」
「面会中、ライゼル殿に腹が立ったら?」
少し考える。
「腹が立ったって自覚する」
「その後は?」
「言葉で返せるなら返す。無理なら黙るか終わらせる」
「よし」
グレイヴが頷いた。
それから、いつもより少しだけ柔らかな声になる。
「帰ってこい」
「……うん」
「何を話したか、すぐ報告する必要はない」
「分かった」
「帰ってきて、飯を食って、休め」
「焼き菓子もある」
「聞いている」
「料理長から?」
「昨日、お前たちが頼んだ直後に嬉しそうに話していた」
「そんなに?」
「『お二人で召し上がるそうです』とな」
少し恥ずかしい。
「帰って食べるよ」
「ああ」
グレイヴの手が一瞬だけ俺の肩へ触れた。
「行ってこい」
「行ってきます」
◇
馬車では、俺とリビアは最初から隣に座った。
手は繋いでいない。
昨日の謝罪文は、リビアの鞄に入っている。
持っていく必要があるのか聞いたら、「持っていたい」と言った。
それならいい。
「セス」
「うん」
「手、どうする?」
昨日話したことを覚えていたらしい。
俺は自分の手を見る。
繋ぎたいか。
少し考える。
「今はいいかな」
「私も」
「面会前は?」
「その時決める」
「うん」
馬車の窓から朝の街を見る。
人々が店を開き、荷車が行き交っている。
俺たちが今日ライゼルと会うことを、街の人たちは知らない。
当たり前だけれど、それが少し不思議だった。
「今日、授業ちゃんと聞けるかな」
リビアが呟く。
「俺もそれ思った」
「ぼーっとしたら?」
「ノート見せ合う?」
「いいね」
「二人ともぼーっとしたら?」
「友達に借りる」
「ああ」
それでいい。
自分たちだけで何とかしなくてもいい。
◇
朝の教室へ入ると、イザークが最初にこちらを見た。
何か言いかけたけれど、俺とリビアの顔を見てから、普通に手を上げる。
「おはよう」
「おはよう」
「今日だな」
「うん」
「緊張?」
「六」
「オリビア様も?」
「六です」
「そっか」
それだけだった。
「今日の剣術の授業、基礎中心らしいぞ」
「本当?」
「ああ。先生が次の実技確認に向けて姿勢見るって」
「じゃあ助かる」
「面会前に本気の打ち合いとかやりたくないだろ?」
「うん」
ナナリーとミリアナも近づいてくる。
「クルセス様、おはようございます」
「おはよう」
「オリビア様も」
「おはよう」
ナナリーは少し心配そうだったけれど、面会について詳しく聞かなかった。
「今日は授業終わったら、そのまま先生のところですか?」
「うん」
「では」
ナナリーは少し考えた後、微笑む。
「また明日」
その言葉が妙に嬉しかった。
「うん。また明日」
ミリアナも続く。
「明日の昼、一緒に食べようね」
「うん」
今日の面会が終わった後にも、明日の約束がある。
たった昼食だけれど、それでいい。
◇
午前の授業は、思ったより普通に受けられた。
最初の歴史では、一度だけライゼルのことを考えて教師の話を聞き逃した。
でも隣のリビアのノートを見ると、彼女も同じところが空白になっていた。
「リビアも?」
「うん」
「後で誰かに聞く?」
「ナナリーにお願いしよう」
休憩時間に頼むと、ナナリーはすぐ見せてくれた。
「ここです」
「ありがとう」
「いえ」
俺とリビアはそれぞれ不足分を書き写す。
以前なら、授業を聞き逃した自分をもっと責めたかもしれない。
今日は、聞けなかったなら借りればいいと思えた。
次の魔術基礎では、単純な魔力操作だけだった。
俺は火、水、風の三属性だけを使う。
追加の観察はしない。
切り替えの瞬間に意識が向きそうになったけれど、今日は調べる日ではないと自分で戻した。
リビアも基本結界の展開と解除だけ。
授業後、エレナ先生が近づいてくる。
「二人とも、今は?」
「俺、五」
「私は六です」
「朝より?」
「俺は一つ下がりました」
「私は同じ」
「体調は?」
「問題ないです」
「私も」
先生は頷く。
「放課後にもう一度確認するわ。それまでは普通に授業を受けて」
「はい」
特別扱いされすぎないことも、ありがたかった。
◇
昼休み。
俺たちはいつもの友人たちと食堂へ行った。
今日はアルフォルド殿下とカイゼル殿下もいる。
サザリーは俺を見るなり言った。
「今日は課題の話をしない」
「何で?」
「お前が考え始めるからだ」
「ちょっとくらいなら」
「明日だ」
「分かった」
カイゼル殿下が笑う。
「サザリーがクルセスの扱いに慣れてきたね」
「扱いって何ですか」
「餌を見せない」
「俺、動物じゃないですよ」
「面白い課題を見せるとすぐ食いつくじゃないか」
「それは……」
否定しにくい。
アルフォルド殿下が静かにスープを飲んでから俺を見る。
「クルセス」
「はい」
「面会の前に、一つだけ」
空気が少し変わる。
「何ですか?」
「お前がライゼルを許すかどうかは、私たちには関係ない」
真っ直ぐな言葉だった。
「はい」
「私が何を思っているかも、気にする必要はない」
「殿下は……」
聞きかけて、やめた。
アルフォルド殿下はそれに気づいたらしい。
「私自身の考えはある。だが、それを今日のお前へ渡すつもりはない」
「何で?」
「それを聞けば、お前は少なからず意識するだろう」
確かに。
第一王子であるアルフォルド殿下が「許した方がいい」と言えば、俺は考える。
逆に「許すな」と言われても考える。
「自分で決めろ」
「はい」
「オリビアもだ」
「もちろんです」
リビアが答える。
カイゼル殿下が少しだけ笑みを薄くした。
「僕からは一つ。分からなかったら、分からないって言えばいいと思うよ」
「分からない?」
「許せるか分からない。信じていいか分からない。どう返したらいいか分からない。何でも」
「それでもいいですか?」
「少なくとも、僕なら無理に答えを作るよりそっちの方がいいと思う」
「……分かりました」
サザリーも頷く。
「昨日の課題と同じではないが、判断を保留すること自体が一つの判断になる場合もある」
「それ、昨日言ってよ」
「昨日は領地運営の授業だ」
「今日は?」
「友人として言っている」
一瞬、言葉が止まった。
サザリーが自然に言ったからだ。
「友人」
「何だ」
「いや」
少し嬉しくなった。
「ありがとう」
「礼を言われるほどのことではない」
サザリーはそう言って視線を料理へ戻した。
イザークが笑う。
「顔に出てるぞ」
「何が?」
「嬉しいって」
「……今日は出てもいい」
「そうだな」
◇
午後の剣術は、イザークから聞いていた通り基礎確認だった。
来月の実技確認を見据え、構え、踏み込み、受け、退き、剣筋を教師が順番に見ていく。
俺は普段より意識して速度を落とした。
「クルセス」
「はい」
「まだ速い」
「これでも?」
「一般的な確認速度に合わせろ」
「はい」
さらに落とす。
隣ではイザークが退き足を確認されている。
以前外へ流れていた右足が、かなり真っ直ぐになっていた。
見ていると試したくなる。
放課後に少し打ち合えば――。
そこまで考えて、自分でやめた。
今日は面会だ。
イザークもこちらを見た。
目が合う。
たぶん同じことを考えた。
でも彼は木剣を軽く上げるだけで、何も誘わなかった。
俺も頷く。
それで終わる。
授業の最後、教師から来月の実技確認について簡単な説明があった。
「剣術は基本動作と短時間の対人確認を予定している。勝敗だけを見るものではない。特にクルセス、お前は速度と出力を評価者が確認出来る範囲へ落とすこと」
「はい」
「イザークは修正中の退き足を崩さないこと」
「はい」
「オリビアは?」
リビアも剣術を取っている。
「基本動作は問題ない。対人時に結界へ逃げる癖を付けるな。今回は剣術の確認だ」
「はい」
リビアが少し悔しそうに返事をする。
俺は思わず笑った。
「何?」
「リビアも注意されるんだなって」
「されるわよ」
「完璧なのに」
「セスの中の私は何なの?」
「すごい人」
答えると、リビアが一瞬黙った。
「……そういうの、急に言わないで」
「本当だろ」
「本当でも」
少し頬を赤くしている。
その顔を見ていたら、面会前なのに笑えた。
◇
最後の授業が終わった。
鐘が鳴る。
教室の空気が一斉に緩み、生徒たちが鞄をまとめ始める。
俺は席に座ったまま、しばらく動かなかった。
来た。
放課後。
胸の奥が強く鳴る。
「セス」
リビアが隣へ来る。
「うん」
「今、七」
「俺も七くらい」
「行ける?」
すぐには答えなかった。
自分の身体を見る。
手は少し冷たい。
呼吸は出来る。
頭も働いている。
怖い。
でも。
「行きたい」
「私も」
そこへレイモンド先生が教室へ来た。
「二人とも、準備は?」
「はい」
「お願いします」
俺たちは立ち上がる。
イザークがこちらを見る。
「また明日」
「うん」
ナナリーとミリアナも手を振る。
「また明日です」
「明日ね」
「うん」
サザリーは短く頷いた。
アルフォルド殿下とカイゼル殿下も、何も言わず見送る。
俺とリビアは教室を出た。
◇
案内されたのは、第二応接室とは別の小さな待機室だった。
エレナ先生が先に待っている。
「座って」
「はい」
俺とリビアは並んで座る。
体調確認。
身体。
魔力。
頭。
緊張。
「クルセス?」
「身体一。魔力ゼロ。頭二。緊張七」
「オリビアさんは?」
「身体一。魔力一。頭二。緊張七です」
「会いたい意思は?」
「あります」
「私も」
「どちらかが相手に合わせている?」
「いいえ」
「違います」
エレナ先生が俺たちの魔力状態も確認する。
「大きな乱れはないわ」
レイモンド先生が時計を見る。
「ライゼルはすでに第二応接室へ入っている」
その言葉で緊張が八近くまで上がった。
俺は息を吐く。
「上がった?」
リビアが聞く。
「八」
「私も」
レイモンド先生は急かさない。
「中止するか?」
「……まだ行きたいです」
「私も」
「分かった」
俺は隣のリビアを見る。
手。
朝はその時に決めると言った。
「リビア」
「うん」
「手、繋ぎたい」
俺から言った。
リビアの表情が少しだけ緩む。
「私も」
手を伸ばす。
指が触れる。
絡める。
リビアの手も冷たい。
「二人とも冷たいな」
「そうね」
「意味ない?」
「あるよ」
温めるためだけじゃない。
そこにいると分かる。
少しの間、そのままでいた。
「行けそうか?」
レイモンド先生が尋ねる。
俺とリビアは顔を見合わせる。
「はい」
「行きます」
立ち上がる。
手は、廊下へ出る前に一度離した。
でも。
「セス」
「何?」
「部屋入るまで繋いでもいい?」
「うん」
もう一度繋ぐ。
レイモンド先生とエレナ先生が先を歩く。
俺たちはその後ろ。
廊下は静かだった。
授業を終えた生徒たちの多くが別棟や校庭へ移動しているため、この辺りにはほとんど人がいない。
一歩。
また一歩。
第二応接室が近づく。
扉の前にはオズワルド学園長が立っていた。
「二人とも」
「はい」
「最後に確認する。今から入る必要はない」
俺はリビアの手を握った。
強くではない。
「入ります」
「私も」
学園長が頷く。
「分かった」
リビアと手を離す。
扉が開いた。
◇
ライゼルがいた。
部屋の奥。
テーブルの向こう側。
紫色の髪。
見慣れた学園の制服。
でも、最後に近くで見た時とは雰囲気が違う。
少し痩せたように見えた。
背筋は伸びている。
両手は膝の上。
俺たちが入った瞬間、身体がわずかに硬くなったのが分かった。
俺の身体も反応した。
あの日。
魔力。
炎。
風。
フレイムストーム。
ほんの一瞬だけ記憶が重なる。
「クルセス?」
エレナ先生の声。
「大丈夫です」
反射で言いかけて、止める。
「……緊張上がりました。八くらい。でも入れます」
「分かった」
俺とリビアは指定された席へ座った。
横並び。
俺が前ではない。
テーブルの中央には小さな銀色の呼び鈴が置かれている。
手を伸ばせば届く。
ライゼルは俺たちを見ていた。
最初にリビア。
次に俺。
またリビア。
誰もすぐには話さない。
オズワルド学園長が少し離れた位置へ座る。
レイモンド先生もいる。
エレナ先生は魔力監視。
部屋の壁には学園側の結界がある。
俺が一人で守る必要はない。
「ライゼル」
学園長が静かに呼ぶ。
「事前に確認した条件は覚えているな」
「……はい」
久しぶりに聞く声だった。
「二人が退出を希望すれば、その時点で終了する。お前も終了を申し出て構わない。相手の発言を遮らない。回答を強要しない。理解したか」
「はい」
「では」
学園長が俺たちを見る。
「始めなさい」
静かになった。
ライゼルが口を開こうとして、閉じる。
もう一度息を吸う。
「……オリビア」
リビアの肩が少し動いた。
「うん」
「それから……クルセス」
「うん」
俺も返す。
ライゼルの手が膝の上で握られた。
「まず、謝りたい」
俺は黙って聞く。
「俺は……オリビアが嫌だと言ったことを、本心じゃないと勝手に決めた」
声が少し震えている。
「クルセスとの婚約も、学園へ来たことも……お前が選んだと言っていたのに、俺は聞かなかった」
リビアは何も言わない。
「俺の方が、お前のことを分かっていると思っていた」
ライゼルの視線が一度下がる。
「違った」
長い沈黙。
「……それについて、謝る。すまなかった」
リビアの指が膝の上で少し動く。
でも、返事を急がない。
ライゼルも催促しなかった。
次に、俺を見る。
その目には、やっぱり好意なんてない。
「クルセス」
「うん」
「俺は、お前が嫌いだ」
予想していた。
でも、直接言われると少し胸に刺さる。
「うん」
「今も、好きじゃない」
「分かった」
「お前がオリビアの婚約者なのも……納得してない」
隣でリビアの空気が少し硬くなる。
でも、ライゼルは続けた。
「でも」
言葉を探すように、何度か息をする。
「俺が納得してないことと、オリビアが選んだことは……別だと思う」
先生から聞いた言葉。
でも今は、本人の声だった。
「前は、それが分からなかった」
ライゼルが俺を見る。
「お前が来たから、全部変わったと思った」
「俺が?」
「ああ」
「学園に?」
「それも。婚約も」
声に少し苛立ちが混じる。
エレナ先生の視線が鋭くなった。
でも、止めない。
「俺はずっと……自分がオリビアの隣にいると思ってた」
ライゼルは唇を噛む。
「誰にも、正式にそう決めたって言われてないのに」
俺は何も言わない。
「父上にも言われた。婚約の約束なんてしてないって」
声が低くなる。
「分かってる」
拳が少し強く握られる。
「今は、分かってる。でも……」
俺を見る目に、悔しさがある。
「それでも、お前が嫌いだ」
「うん」
「何で怒らない」
「嫌いって言われたから?」
「ああ」
「別に」
「別に?」
「嫌いなのは、ライゼルの気持ちだろ」
自分でも驚くほど自然に言えた。
「俺が変えろって言うことじゃない」
ライゼルが黙る。
「ただ、嫌いだから魔法撃っていいわけじゃない」
「……分かってる」
「それなら今はいい」
「よくないだろ」
「何が?」
「俺はお前を――」
ライゼルの声が少し大きくなる。
同時に、空気の中の魔力がわずかに揺れた。
エレナ先生がすぐ反応する。
「ライゼル」
「……っ」
「魔力が上がっている。落として」
「はい」
ライゼルが目を閉じる。
呼吸。
一度。
二度。
少しずつ魔力が下がる。
俺は動かなかった。
前へ出ない。
迅雷撃破も使わない。
リビアを見ると、彼女も俺を見た。
大丈夫か。
声にはしない。
俺は小さく頷く。
リビアも頷いた。
「続けられる?」
エレナ先生がライゼルへ聞く。
「……はい」
「二人は?」
「俺は大丈夫です」
「私も」
面会は続く。
◇
今度はリビアが口を開いた。
「ライゼル」
「……何だ」
「私も言いたいことがある」
ライゼルの身体が少し硬くなる。
「うん」
リビアは一度息を吸った。
「私はセスを自分で選びました」
はっきりした声だった。
「お父様に命令されたからでもない。セスに何かされたからでもない。私が選んだの」
ライゼルは黙っている。
「あなたが理解出来るかどうかと、私が選んだことは別です」
昨日まで何度も考えていた言葉。
でも今、本人を前にした声は、俺が想像していたより静かだった。
「……何で」
ライゼルが呟く。
リビアの目が少し細くなる。
「何で、クルセスなんだ」
先生たちは止めない。
質問すること自体は禁止されていない。
リビアもすぐには答えなかった。
俺は口を挟まない。
これはリビアへの質問だ。
「答えない」
やがてリビアが言った。
ライゼルが顔を上げる。
「何で」
「それも答えない」
「……」
「私がセスを選んだ理由を、あなたが納得出来る形に説明する必要はないと思ってる」
ライゼルの表情が歪む。
悔しいのか。
怒っているのか。
悲しいのか。
俺には分からない。
決めつけない。
「そうか」
しばらくして、ライゼルが言った。
それだけだった。
リビアが少し驚いたように瞬きをする。
「聞かないの?」
「聞いた」
「もっと」
「……聞きたい」
正直な答えだった。
「でも、答えないって言った」
「うん」
「だから……」
ライゼルはそこで言葉を切る。
「もう聞かない」
リビアの膝の上に置かれていた手から、少しだけ力が抜けた。
「ありがとう」
その言葉に、ライゼルの方が驚いた顔をした。
◇
「クルセス」
今度は俺が呼ばれた。
「何?」
「お前は」
ライゼルが一度視線を逸らす。
「オリビアのこと、どう思ってる」
胸が跳ねた。
「ライゼル」
レイモンド先生が低く名前を呼ぶ。
「答えを強要するな」
「……はい」
ライゼルは俺を見る。
「答えたくないならいい」
俺は迷った。
答えなくていい。
先生にも言われている。
でも、答えたくないか。
それとも。
「大事だよ」
口から出た。
隣でリビアが息を止めたのが分かる。
「誰より大事」
ライゼルの眉が動く。
「それだけ?」
「それだけって?」
「好きなのか」
今度こそ胸が強く鳴った。
リビアを見る。
彼女も俺を見ている。
頬が少し赤い。
「……分からない」
俺は正直に言った。
ライゼルが目を見開く。
リビアは驚かなかった。
「分からない?」
「うん」
「婚約者なのに?」
「婚約者でも分からないものは分からない」
「じゃあ何で――」
ライゼルが言いかける。
俺は続けた。
「でも、リビアが婚約者でよかったと思ってる」
隣でリビアの顔がさらに赤くなる。
「一緒にいるの好きだし、手繋ぐのも好きだし、リビアが別のことしてても後で話したいって思う」
言っているうちに、自分の顔まで熱くなってきた。
「リビアが俺の婚約者じゃなくなるのは……」
想像する。
少し前なら、身分差があるからその方が正しいと思っていたかもしれない。
今は。
「嫌だと思う」
部屋が静かになった。
ライゼルだけではない。
先生たちまで黙っている気がする。
「でも、それを何て呼ぶのかはまだ分からない」
俺はライゼルを見る。
「だから分からないって答える」
ライゼルはしばらく俺を見ていた。
それから。
「……ずるい」
「何が?」
「俺より近くにいるのに」
その声には、さっきとは違う苦さがあった。
「分からないとか言って、それでもオリビアの隣にいる」
「うん」
「俺はずっと……」
ライゼルの視線がリビアへ向く。
でも、すぐ逸れた。
「俺の方が分かってると思ってた」
拳がまた握られる。
「でも何も分かってなかった」
今度は魔力が大きく上がらない。
エレナ先生は見ているけれど、止めなかった。
「クルセス」
「うん」
「お前を攻撃したこと」
俺の身体が少し硬くなる。
「すまなかった」
ライゼルは俺を見たまま言った。
「嫌いだった。今も嫌いだ。オリビアを奪われたと思った」
奪われた。
その言葉にリビアの眉が動く。
ライゼルも気づいたらしい。
「……違う」
自分で言い直した。
「俺が勝手にそう思った」
部屋の空気が静かになる。
「お前が学園に来て、婚約者だって聞いて、オリビアがお前を選んだって言って……腹が立った」
「うん」
「お前がいなければって思った」
あの日の魔法を思い出す。
「だから魔法を使った」
ライゼルの声が震える。
「守るためだったって言った」
「うん」
「でも……違った」
長い息。
「嫉妬してた」
聞き取りで認めたと聞いていた。
本人から聞くと、重さが違う。
「それで、お前を攻撃した。周りにいた奴も危険にした」
「うん」
「すまなかった」
俺はすぐに返事をしなかった。
許す。
許さない。
どちらも、今は出てこない。
ライゼルが不安そうに俺を見る。
以前なら、ここで何か返さなければと思ったかもしれない。
謝られたのだから。
でも。
「謝罪は聞いた」
俺は言った。
「……それだけか」
「今は」
「許さない?」
「分からない」
ライゼルの表情が固まる。
「分からない?」
「うん」
「怒ってるのか」
「たぶん、まだ怒ってるところもある」
言葉にしてみる。
「あの日、リビアも周りの人も危なかった」
「……はい」
「俺も怪我した」
「はい」
「だから、今謝られたから全部いいとは思えない」
ライゼルが視線を落とす。
「でも、謝罪を聞きたくなかったわけじゃない」
顔が上がる。
「聞けてよかったとは思う」
これは本当だった。
「それ以上は、まだ分からない」
「……そうか」
「うん」
「許せって言わない」
「分かった」
「いつか許せとも……」
ライゼルが一瞬詰まる。
「言わない」
「うん」
それでよかった。
◇
壁際の時計を見ると、思っていたより時間が経っていた。
レイモンド先生も確認する。
「残り五分だ」
五分。
もう十五分近く話していたらしい。
長く感じたような、短く感じたような。
「何か、まだ伝えたいことはあるか」
学園長が三人へ尋ねる。
俺は考える。
ライゼルに何を言いたい。
怒り。
謝罪。
婚約。
リビア。
「一つ」
俺が言った。
「ライゼル」
「何だ」
「俺、婚約したこと自体は悪いと思ってない」
ライゼルの顔が少し強張る。
「前は、俺なんかがリビアの婚約者になるのはおかしいって思ってた」
リビアがこちらを見る。
「身分違うし、俺は元平民だし、執事見習いだし」
「セス」
「でも」
俺は続ける。
「今は、婚約したことを謝るつもりはない」
自分で言って、胸が少し熱くなった。
「リビアが俺を選んだことも、俺が婚約者になったことも、ライゼルに悪いことしたとは思わない」
ライゼルが黙って聞いている。
「魔法を使わせたのが俺のせいだとも思ってない」
ここは言っておきたかった。
「俺が学園に来たからとか、婚約したからとか、それでライゼルが怒ったとしても、攻撃したのはライゼルが決めたことだ」
「……ああ」
「でも」
俺は少し考える。
「今こうして話してるのも、ライゼルが決めたんだろ?」
ライゼルが目を上げる。
「先生に言われたからじゃなくて」
「……会いたいとは言った」
「何で?」
「謝りたかった」
「そっか」
「それと」
ライゼルはリビアを見る。
「本人の言葉を、今度は聞こうと思った」
リビアが少しだけ息を呑む。
「聞けた?」
彼女が尋ねる。
「……全部は分からない」
「うん」
「何でクルセスなのかも分からない」
「うん」
「でも」
ライゼルは苦しそうに、それでも言った。
「お前が選んだって言ったことは、聞いた」
リビアの表情が変わる。
笑ったわけではない。
泣いたわけでもない。
ただ、肩から少し力が抜けた。
「それでいい」
静かな声だった。
「今は、それでいい」
ライゼルが頷いた。
◇
「時間だ」
レイモンド先生が告げた。
終わり。
誰も鈴を鳴らさなかった。
途中で中断もしなかった。
だからといって成功とか、合格とか、そういうものでもない。
ただ二十分話した。
「今日はここまでとする」
学園長が立ち上がる。
「ライゼルは先に残れ。クルセスとオリビア嬢は別室へ戻る」
「はい」
俺とリビアも立つ。
ライゼルは座ったままだった。
扉へ向かおうとして、俺は一度だけ振り返る。
ライゼルもこちらを見ていた。
「クルセス」
「何?」
「……すまなかった」
二度目だった。
「うん」
俺はそれだけ返した。
リビアもライゼルを見る。
「ライゼル」
「……何だ」
「私は、今日話せてよかったと思ってる」
ライゼルの目がわずかに揺れる。
「でも、許したって意味じゃないから」
「分かってる」
「うん」
リビアはそれ以上言わなかった。
俺たちは部屋を出た。
◇
廊下へ出た瞬間、身体から力が抜けた。
「……疲れた」
思わず声に出た。
レイモンド先生が振り返る。
「当然だ」
「身体じゃなくて、頭」
「まず待機室へ戻るぞ」
「はい」
隣のリビアも静かだった。
「大丈夫?」
聞いてから、すぐに付け足す。
「……じゃなくて、今どう?」
リビアが少し笑った。
「疲れた」
「俺も」
「泣いてない」
「うん」
「でも、ちょっと泣きそうかも」
「そっか」
待機室へ戻る。
エレナ先生が水を用意してくれた。
「すぐ帰さないわよ」
「何で?」
「状態確認」
「ああ」
椅子へ座る。
身体一。
魔力一。
頭七。
緊張は。
「……三?」
自分でも意外だった。
「一気に下がった?」
「終わったから」
リビアは頭七、緊張四。
「気分が悪い?」
「ないです」
「魔力の違和感は?」
「ありません」
俺も同じ。
学園長が少し離れたところから俺たちを見る。
「今、面会について結論を出す必要はない」
「結論?」
「ライゼルを許すか。今後また会うか。通常授業への復帰をどう思うか。そういったことだ」
「復帰は俺たちが決めるんですか?」
「決めない」
「ですよね」
「意見を聞く可能性はある。だが判断は学園側が行う」
「分かりました」
「今日の面会が問題なく終わったからといって、明日から制限を解除することもない」
リビアが小さく頷く。
「良かったです」
「なぜ?」
「私たちが会ったことで、全部終わったことにされたくないからです」
「その予定はない」
学園長の声ははっきりしていた。
「今日確認出来たのは、一定の条件下で三人が二十分話せたという事実だけだ」
「それだけ?」
俺が聞く。
「それだけだ。そして、それは小さくない」
俺は少し考える。
確かに。
何も解決していないようで、前とは違う。
「謝罪文は?」
レイモンド先生が俺を見る。
「受け取るか?」
俺は迷った。
本人の謝罪は聞いた。
文章も読んでみたいか。
「……今日はいいです」
「受け取らない?」
「今は」
「分かった。後から希望しても構わない」
「はい」
今は本人の声だけで十分だった。
◇
学園を出た頃には、夕日がかなり傾いていた。
俺とリビアは並んで馬車へ向かう。
会話はほとんどない。
疲れている。
でも嫌な沈黙ではなかった。
馬車へ乗る。
今日は迷わず隣へ座った。
扉が閉まり、馬車が動き始める。
「セス」
「うん」
「手」
俺から伸ばした。
リビアも重ねる。
指を絡める。
しばらく、そのまま黙っていた。
街の音が窓越しに聞こえる。
「どうだった?」
リビアが小さく尋ねる。
「まだ分からない」
「私も」
「でも」
「うん」
「話せてよかったと思う」
「私も」
それだけで十分だった。
「ライゼル、俺のこと本当に嫌いなんだな」
「そこ?」
「結構はっきり言われた」
「私、ちょっと腹立った」
「何で?」
「セスのこと嫌いって言ったから」
「それはいいだろ」
「私は嫌なの」
「リビアが嫌がるのは自由か」
「そう」
少し笑った。
「でも、セスもすごいこと言ってた」
「何?」
「分からない」
「何が?」
「私のこと好きかって聞かれて」
俺の顔が熱くなる。
「あれは……」
「分からないの?」
「まだ」
「そっか」
リビアは怒らなかった。
少しだけ俺の手を握る。
「でも、婚約者じゃなくなるのは嫌なんでしょう?」
「うん」
「一緒にいるのも好き?」
「うん」
「手を繋ぐのも?」
「好き」
「なら今はそれでいい」
「いいの?」
「うん」
「リビアは待つ?」
「前にも言ったでしょう?」
彼女が笑う。
「待つよ」
胸の奥が熱くなる。
でも、今はまだ言葉に出来ない。
それでいいらしい。
◇
屋敷へ戻ると、旦那様とグレイヴが玄関近くにいた。
待っていたのだと思う。
「ただいま」
「ただいま戻りました」
「お帰り」
旦那様が俺たちを見る。
「話せたか?」
「はい」
俺が答える。
「二十分、最後まで」
「そうか」
それだけ。
「今は?」
グレイヴが尋ねる。
「頭七。身体一。魔力一」
「気分は?」
「分からない」
「それでいい」
リビアも同じように答える。
旦那様は面会内容を聞かなかった。
「食事は?」
「食べられます」
「俺も」
「なら先に着替えてこい」
「はい」
階段へ向かいかけて、俺は思い出す。
「焼き菓子」
旦那様が笑った。
「用意してある」
「本当?」
「料理長が朝から張り切っていたぞ」
リビアが少し笑う。
「じゃあ後で食べよう」
「うん」
◇
夕食は普通に食べられた。
途中で面会のことを思い出して黙る時もあった。
リビアも同じだった。
でも旦那様もグレイヴも、無理に話題を戻さなかった。
今日の授業。
剣術の実技確認。
ベルナルト先生の古い測定器。
そんな話をする。
食後。
談話室のテーブルには、小さな焼き菓子が並べられていた。
一口か二口で食べられる大きさ。
蜂蜜を使ったもの。
木の実が入ったもの。
少し酸味のある果実を使ったもの。
「すごい」
リビアの目が少し明るくなる。
「どれ食べる?」
「これ」
「じゃあ俺こっち」
向かいではなく、同じソファへ座る。
一つ取る。
食べる。
「美味しい」
「うん」
甘い。
それだけなのに、身体の力が少し抜ける。
「セス」
「何?」
「今日、終わったね」
「うん」
「明日、学校あるね」
「うん」
「昼、皆と食べる?」
「約束した」
「じゃあ行かないと」
「行きたい」
「私も」
二人で二つ目の焼き菓子へ手を伸ばす。
今日ライゼルと話した。
謝罪を聞いた。
リビアは自分の意思を伝えた。
俺も、婚約したことを悪いと思っていないと言った。
許したか。
分からない。
これからライゼルがどうなるか。
分からない。
また会うのか。
それも分からない。
でも。
「今日決めなくていいんだよな」
俺が呟く。
「うん」
「明日でも?」
「決めなくていい」
「来週でも?」
「必要なら」
「ずっと分からなかったら?」
リビアは少し考えた。
「その時は、その時じゃない?」
「そっか」
俺は焼き菓子を一つ食べる。
甘い。
今日の俺には、それで十分だった。
ライゼルとの面会は終わった。
でも、俺たちの学園生活は明日も続く。
剣もある。
魔術もある。
研究もある。
友達もいる。
リビアもいる。
だから今夜は、今日のことを全部整理しなくてもいい。
隣を見ると、リビアも焼き菓子を食べている。
目が合う。
「何?」
「いや」
俺は少し笑った。
「帰ってきてよかったなって」
リビアの表情が柔らかくなる。
「うん」
それ以上は言わなかった。
俺たちはそのまま、用意してもらった焼き菓子をゆっくり食べた。
今日の答えを出すためではなく。
今日を終えて、明日へ戻るために。




