第38話 明日会うことになったので、言いたいことより帰ってきた後の予定を考えます
目を覚まして最初に思ったのは、今日の授業のことでも、昨日サザリーと解いた領地運営の課題でもなかった。
明日。
その二文字が、まだ薄暗い部屋の中で妙にはっきり浮かんだ。
窓の外には夜明け前の青みが残っている。昨日までの雨雲はすっかり消え、庭の木々の向こうには淡い橙色が広がり始めていた。鳥の声も戻っていて、遠くでは早番の使用人たちが動き始める気配がする。
明日の放課後、俺とリビアはライゼルと会う。
候補ではない。
昨日、正式に決まった。
「……緊張、四くらいかな」
ベッドの上で身体を起こし、自分の状態を確かめる。
身体の疲れはほとんどない。昨日の朝に二十分弱だけ剣を振ったけれど、筋肉に痛みも張りも残っていなかった。魔力疲労もなく、昨日サザリーとの勉強で少し使った頭も、一晩眠ったおかげで軽くなっている。
体調だけなら問題ない。
ただ、胸の奥には昨日までより少し大きな緊張がある。
今日、レイモンド先生たちから面会当日の最終的な条件を聞く予定だ。
部屋。
先生たちの配置。
ライゼルがどこに座るか。
俺たちがどこから入るか。
途中でやめたい時にどうするか。
分かっていることも多いけれど、今日は実際の流れまで確認するらしい。
「……剣はやめとくか」
身体は動かしたい。
けれど明日が面会なら、今日わざわざ朝から剣を入れなくてもいい。
昨日も少し振っている。
俺は制服へ着替えた後、机の上に置いてある古い魔力測定の本へ目を向けた。
こっちは読みたい。
時計を見る。
朝食まで二十五分ほど。
「十五分だけ」
椅子へ座り、昨日までに付けた印を確認しながら本を開いた。
今日は新しい章へ進まない。
古い測定器で使われていた中継板について、これまで読んだ部分だけをもう一度確認する。魔力を直接魔石へ流した場合と、中継板を通した場合では、発光直前の揺らぎに差が出るらしい。
その差が何を意味するのかは書かれていない。
測定誤差を減らしていたのか。
余計な魔力の揺らぎを除いていたのか。
それとも、今とは違う何かを測っていたのか。
分からない。
だから面白い。
けれど十五分が経ったところで、俺は栞を挟んだ。
「続きはまた今度」
声に出して本を閉じる。
明日の面会があるからやめるわけではない。
時間を決めたから終わる。
それだけだった。
◇
「明日ね」
朝食の途中、リビアがそう言った。
俺たちの間では、何のことか確認する必要もなかった。
「うん」
「昨日より緊張してる?」
「四くらい」
「私も四」
「同じだ」
「朝起きた時は五だったけど、朝食食べてたら少し下がった」
「何で?」
「セスがパンにバター塗りすぎてたから」
「それで緊張下がるの?」
「いつも通りだなって思ったの」
俺は自分の皿を見る。
確かに少し多かったかもしれない。
「セス」
グレイヴが俺の手元を見た。
「何?」
「塗りすぎだ」
「グレイヴまで?」
「午後に胃が重くなっても知らんぞ」
「このくらいで?」
「お前は食事に関しては妙に雑なところがある」
向かいに座る旦那様が新聞を少し下げる。
「緊張しているからではないのか?」
「違います。普通に塗っただけです」
「なら余計に問題では?」
「旦那様まで何でそっち側なんですか」
リビアが口元を押さえて笑っている。
明日、ライゼルと会う。
その前日の朝なのに、俺はバターの量で注意されていた。
それが悪くなかった。
「今日は学園から最終説明を受けるんだったな」
旦那様が新聞を畳む。
「はい。たぶん放課後です」
「説明を聞いて、気になることがあれば確認してこい」
「はい」
「ただし」
旦那様が俺を見る。
「質問を百個作っていく必要はないぞ」
「作ってません」
「何個だ?」
「まだゼロです」
「まだ?」
「……言い方間違えました」
グレイヴが小さく息を吐く。
「疑問が出れば聞けばいい。出なければ無理に作る必要はない」
「分かってる」
「今日の放課後は?」
「説明だけ。終わったら帰るつもり」
「図書館は?」
リビアが尋ねる。
「今日は行かない」
「剣は?」
「やらない」
「本は?」
「家で読むかもしれないけど、長くは読まない」
「決めてるね」
「明日は面会だから」
口にした後、少し考える。
「……いや、それだけじゃないか」
「何が?」
「昨日サザリーと勉強したし、今日は説明もあるから、普通に頭休ませたい」
明日のためだけに今日を空っぽにするのではない。
今日の自分が疲れすぎないようにする。
似ているようで、少し違う気がした。
グレイヴも何も訂正しなかった。
「リビアは?」
「私も説明の後は帰る。今日は図書館へ行かない」
「本読みたくない?」
「読みたい」
「じゃあ何で?」
「家でセスと読みたいから」
俺は一瞬言葉に詰まった。
「……それなら俺も読む」
「一人でも読むでしょう?」
「読むけど」
「じゃあ別にいいじゃない」
「いいけど」
リビアが楽しそうに笑う。
旦那様は紅茶を飲みながら、なぜか遠くを見るような顔をしていた。
◇
馬車へ乗ってからも、俺たちは明日の面会について細かな予想をしなかった。
リビアは昨日の結界資料を持ってきていたけれど、読むのではなく、鞄の中へ入れたままにしている。俺も本を持ってきているものの、取り出さなかった。
朝の街を眺めながら、今日の授業予定について話す。
「午前、魔術理論あるよね」
「うん。今日は複合術式の基礎だったかな」
「セス、絶対質問するでしょう?」
「授業聞く前から決めないでよ」
「する?」
「たぶん」
「ほら」
「リビアだってするかもしれないだろ」
「私は必要ならする」
「俺も必要ならだよ」
「セスの『必要』は範囲が広いの」
反論しようとして、少し考えた。
「……否定出来ない」
「でしょう?」
馬車が緩やかに揺れる。
今日は俺たちが向かい合って座っている。
手は繋いでいない。
昨日の夜も、一昨日の夜も、必要な時には繋いだ。
だから今朝まで同じにする必要はない。
「リビア」
「何?」
「明日、面会の前はどうする?」
「どうするって?」
「手」
リビアが自分の手を見てから、俺を見る。
「その時に決める」
「ああ」
「セスは?」
「俺もそれでいい」
不安だから必ず繋ぐ、と今から決める必要はない。
繋ぎたければ、その時に言えばいい。
「でも」
リビアが少し笑う。
「セスから言ってくれたら嬉しい」
「……覚えてたら」
「そこは覚えてて」
「緊張してたら忘れるかもしれない」
「じゃあ私から聞く」
「それなら大丈夫」
「大丈夫なの?」
「たぶん」
二人で笑った。
◇
学園へ着くと、朝の教室はいつも通り騒がしかった。
窓際では数人の生徒が昨日の課題を見せ合い、後ろではイザークが友人と剣術の話をしている。ナナリーとミリアナは机を挟んで何かの紙を見ていた。
「おはよう」
俺が声をかけると、イザークが振り返った。
「おはよう。今日は剣誘わないからな」
「まだ何も言ってない」
「明日だろ?」
「うん」
「なら今日はなし」
「足は?」
「張り一。ほぼ戻った」
「じゃあ――」
「なし」
「分かったよ」
イザークが笑う。
「終わって、またやりたくなったら声かけろ」
「うん」
「翌日じゃなくていいからな」
「分かってる」
「本当に?」
「皆それ言うのやめてくれない?」
「信用を積め」
「最近結構積んでるだろ」
「昔の借金がでかい」
「そんなに?」
「そんなに」
近くで聞いていたミリアナが笑った。
「でも、前よりすごく変わったよね」
「何が?」
「予定。前は空いてる時間全部使おうとしてたでしょう?」
「今も使いたい時は使うよ」
「でも昨日、サザリー様との勉強の後そのまま図書館に籠もらなかったんでしょう?」
「エレナ先生に帰れって言われた」
「自分で帰ったんじゃないじゃん」
「言われる前から帰るつもりだったよ」
「本当?」
「本当」
イザークが疑わしそうな目を向ける。
「……たぶん」
「たぶんになったぞ」
また笑われた。
その時、アルフォルド殿下とカイゼル殿下も教室へ入ってきた。
「朝から何の話だ?」
アルフォルド殿下が尋ねる。
「クルセスがちゃんと休めるようになったかどうか」
イザークが答えた。
「重要な議題だな」
「殿下まで」
「明日は面会だと聞いている。今日は無茶をするな」
「しませんよ」
「ならいい」
アルフォルド殿下はそれ以上触れなかった。
カイゼル殿下は俺の顔をしばらく見た後、首を傾げる。
「思ったより普通だね」
「何がです?」
「もっと顔が固くなっているかと思った」
「緊張はしてます」
「どのくらい?」
「四」
「なるほど」
もう誰も数字で答えることへ突っ込まなくなってきた。
「明日になったら七くらいかもしれません」
「十なら?」
「会わない」
「そこは変わらないんだ」
「はい」
自分で答えてから、少し安心した。
明日になって緊張が上がっても、会わなければならないわけではない。
日程が決まったから絶対に実施するわけでもない。
逃げ道ではなく、選択肢として残っている。
◇
午前の魔術理論は、リビアの予想通り複合術式の基礎だった。
教師は黒板へ二つの術式構造を書き、それぞれを同時に維持する場合と、一つの術式内部で複数の働きを持たせる場合の違いを説明していく。
「複合術式という言葉は広く使われるが、二つの魔法を同時に使えばすべて同じ仕組みになるわけではない。術式同士が独立しているのか、途中で接続しているのか、それとも最初から一つの術式として構築されているのかで、制御方法も危険性も変わる」
俺はノートへ三種類の違いを書き写す。
火と風。
水と風。
土と水。
属性を組み合わせる場合もあれば、同じ属性で役割を分ける場合もある。
「先生」
気づけば手を上げていた。
隣からリビアの視線を感じる。
やっぱり、という顔だ。
「何だ、クルセス」
「属性切り替えの途中で二つの術式を接続する場合って、変換前の魔力は一回共通の状態に戻るんですか?」
教室が少し静かになる。
教師もすぐには答えなかった。
「お前の場合の話か?」
「一般的な複数属性術者でもです」
「そこは術者による。そもそも『共通の状態へ戻る』という表現が正しいかどうかも、現在の魔術理論では統一されていない」
「じゃあ、火から水へ変える時に――」
「待て」
教師が手を上げる。
「その先は、お前が現在受けている追加観察とも関係するだろう」
「あ」
「授業では一般論までにする」
「はい」
止められた。
でも、少しも不満ではない。
「一般的な複数属性術者の場合、属性変換を一度解除してから別属性へ移る者もいれば、ほぼ連続的に切り替えられる者もいる。本人の感覚だけでは切り替え時間を正確に測れないため、外部観測が必要になる場合もある」
「昔の測定器みたいに?」
「それも候補の一つだろう。ただし古い装置がそのまま使えるとは限らない」
「はい」
「今日はそこまでだ」
俺は頷いてノートへ戻る。
隣から小さな声が聞こえた。
「やっぱり質問した」
「必要だった」
「うん。今日は必要だったと思う」
「今日は?」
「今日は」
少しだけ悔しい。
◇
授業後、廊下へ出たところでベルナルト先生に呼び止められた。
長い茶色の髪を後ろで束ねた先生は、数枚の紙を抱えている。
「クルセス、少しいいか」
「はい」
リビアも一緒に足を止める。
「昨日エレナ先生から聞いたと思うが、古い測定器の構造記録らしきものが見つかった」
「はい」
「確認したところ、完全な設計図ではなかった」
「違ったんですか?」
「一部だけだ。魔力を受ける部分と、例の中継板周辺の断面図らしい」
それでも十分気になる。
「見られます?」
「面会が終わってからだ」
俺は一瞬黙った。
「危ない資料なんですか?」
「資料そのものは危なくない」
「じゃあ何で?」
「お前が見れば質問が十個増えるからだ」
「十個で済むか分からないです」
「だからだ」
リビアが吹き出した。
「先生、それは正しいと思います」
「リビアまで」
ベルナルト先生もわずかに口元を緩める。
「別に罰として見せないわけではない。明日の面会前に、新しい研究課題を頭へ詰め込む必要がないと判断しただけだ」
「明後日なら?」
「面会後の状態次第だ」
「その次は?」
「クルセス」
「はい」
「今、日程を最後まで決めようとしたな」
「……しました」
「資料は逃げない」
「分かりました」
俺は素直に引いた。
「ただし、一つだけ先に教えておく」
ベルナルト先生が紙の一枚を軽く叩く。
「中継板は、単純な魔力減衰器ではない可能性が高い」
「本当ですか?」
思わず一歩近づく。
「材質名が古く、現代の呼称との対応がまだ確定していない。ただ、記録上は入力された魔力の一部を消すのではなく、特定の変化を強調して魔石へ伝えていたように読める」
「変化を強調?」
「まだ仮説だ」
「属性切り替えの揺らぎとか?」
「だから先走るな」
「はい」
止められたけれど、頭の中ではもういくつか可能性が浮かんでいる。
リビアが俺の袖を軽く引いた。
「セス」
「分かってる。試さない」
「ならいい」
ベルナルト先生がリビアを見る。
「オリビア嬢の結界資料についてもエレナ先生から聞いている」
「外層の魔力供給ですか?」
「ああ。そちらも面白い。ただし、『周囲の魔力密度に応じて自動調整していた』と断定するには資料が足りない」
「はい。私もそう思っています」
「別系統の記録を探しておく」
リビアの表情が明るくなる。
「ありがとうございます」
「二人とも、明日は別の用事があるのだろう」
先生はそれだけ言った。
ライゼルの名前は出さない。
「研究は明日で終わるわけではない。焦る必要はない」
「はい」
俺とリビアは同時に答えた。
◇
昼休みは、中庭で食べることが出来た。
昨日までの雨で芝生の一部はまだ湿っているけれど、石造りの休憩場所は乾いている。雲の少ない空から柔らかな日差しが降り、風にも昨日までの湿気があまり残っていなかった。
俺とリビア、イザーク、ナナリー、ミリアナ、サザリーが同じ卓を囲む。
アルフォルド殿下とカイゼル殿下は王族関係の用事があるらしく、今日は別だった。
「昨日の課題、復習したか?」
サザリーが尋ねる。
「まだ」
「意外だな」
「頭四だったから」
「エレナ先生にも休めって言われた」
「なら正しい」
「今日やってもいい?」
「面会前日に?」
「復習くらいなら」
サザリーは少し考える。
「十分だけなら止めない。ただし、新しい条件を追加して考え始めるな」
「何で分かるの?」
「お前なら『もし橋の下流に別の市場があったら』とか始めるだろう」
俺は黙った。
「考えてた?」
ミリアナが笑う。
「ちょっと」
「本当に分かりやすいね」
「そんなに?」
ナナリーも笑っている。
「でも、クルセス様らしいです」
「褒めてる?」
「もちろんです」
サザリーが食事を続けながら言う。
「昨日の課題は、面会が終わってからでも残っている」
「測定器もそう言われた」
「なら今日は増やすな」
「皆同じこと言う」
「皆が同じことを言うなら、お前側に理由があるのでは?」
「……あるかも」
俺は諦めてスープを飲んだ。
その横で、リビアが小さく笑っている。
「リビアも結界調べるんだろ?」
「今日は家で少し読むだけ」
「少しって?」
「三十分」
「俺も本三十分にしようかな」
「張り合わなくていいの」
「張り合ってないよ」
「昨日は五分早くやめたとか競ってたでしょう?」
イザークが怪訝な顔をする。
「何の勝負だ?」
「本を予定より早く閉じた方が偉い勝負」
「意味が分からない」
「俺たちには大事なんだよ」
「そうか……」
イザークが納得していない顔のまま頷いた。
昼食の途中、ふと明日のことが頭へ浮かぶ。
ライゼルも今頃、別の場所で授業を受けているのだろうか。
明日の面会について説明を受けているのかもしれない。
そう思うと、胸の奥に少し重さが戻った。
「セス?」
リビアが気づいた。
「何?」
「今、ちょっと顔変わった」
「ライゼルのこと考えた」
隠さず言う。
「緊張上がった?」
「五くらい」
イザークたちの前だったけれど、言ってもいいと思った。
誰も大げさな反応はしなかった。
「飯食える?」
イザークが聞く。
「食える」
「なら食え」
「うん」
それだけだった。
俺はパンをちぎる。
数分すると、緊張はまた少し下がっていた。
◇
午後の授業が終わると、俺とリビアはレイモンド先生に呼ばれた。
昨日と同じように廊下で簡単に話すのではなく、今日は小さな指導室へ案内される。
中にはオズワルド学園長とエレナ先生もいた。
机の上には第二応接室の簡単な見取り図が置かれている。
それを見た瞬間、明日の面会が一気に現実へ近づいた。
「座りなさい」
学園長に促され、俺とリビアは並んで椅子へ腰を下ろした。
「今日は明日の流れを最終確認する」
「はい」
「まず、昨日の説明に一部紛らわしい言い方があったため、時間について改めて確認しておく」
レイモンド先生が見取り図の横へ指を置く。
「面会そのものは最大二十分だ。一時間ではない。前後の状態確認、移動、終了後の確認まで含めた拘束時間が長くなる可能性はあるが、三人が同室で話す時間は二十分を上限とする」
「二十分」
俺は繰り返した。
前に聞いていた条件と同じだ。
「短いと思うか?」
「……今は分からないです」
「それでいい」
学園長が答える。
「五分で終わっても構わない。逆に二十分経って話し足りないと感じても、その場で延長はしない」
「続きが必要なら?」
「後日改めて検討する」
「分かりました」
「オリビア嬢もいいか?」
「はい」
リビアの声は少し硬い。
俺は横目で見る。
彼女は見取り図をじっと見ていた。
「次に入室だ」
レイモンド先生が説明を続ける。
「ライゼルは先に第二応接室へ入れる。君たちは別室で状態確認を受けた後、別の廊下から移動する。廊下で鉢合わせることはない」
図の上を指が動く。
「室内ではライゼルがこちら側。クルセスとオリビア嬢は並んで反対側へ座る。テーブルを挟む」
俺は座席を見る。
俺とリビアが横並び。
向かいにライゼル。
オズワルド学園長とレイモンド先生が少し離れた位置。
エレナ先生は魔力監視を担当する。
「俺、リビアより前に座かなくていいんですよね」
「ああ」
レイモンド先生が即答する。
「お前を盾として配置しない」
「はい」
「オリビア嬢自身も結界を使える。ただし、最初から維持し続ける必要はない。室内には学園側の結界がある」
エレナ先生が続ける。
「魔力の変化は私が見るわ。ライゼルだけではなく、二人もね」
「俺たちも?」
「当然でしょう。あなたが緊張して無意識に魔力を高める可能性だってあるもの」
「ああ」
「迅雷撃破は禁止?」
聞いてから、禁止に決まっていると思った。
「原則使わない」
エレナ先生は真面目な顔で答える。
「ただし、もし学園側の安全措置がすべて破られ、生命へ直接危険が迫るような事態になれば、あなたが自分やオリビアさんを守る行動まで禁止するつもりはない」
「でも先に先生たち」
「そう。あなた一人で処理しようとしない」
「分かりました」
そこは何度も確認している。
でも明日を前に、もう一度聞いておく意味はある。
「ライゼルには、攻撃魔法の構築を始めた時点で即座に面会終了と伝えてある」
学園長の声は落ち着いている。
「明確な攻撃意図がなくとも、感情の急激な高まりや魔力制御の乱れが見られれば、こちらの判断で中断する場合がある」
「本人は?」
「了承している」
「不満は?」
「条件そのものへの異議は出していない」
それ以上は聞かなかった。
「発言について」
レイモンド先生が次の項目へ進む。
「ライゼルには、オリビア嬢の発言を遮らないよう改めて伝える。クルセスへの挑発も禁止だ」
「嫌いって言うのは?」
俺が尋ねる。
「それ自体は禁止しない」
「ですよね」
「『お前が嫌いだ』『婚約に納得していない』『なぜオリビアが選んだか分からない』。本人の感情として述べるだけなら、直ちに止める理由はない」
俺は頷いた。
もう、それは大丈夫だと思う。
「ただし、『だから婚約は間違っている』『オリビア嬢は本心ではない』『クルセスが惑わせたに違いない』と、根拠なく本人の意思を否定する方向へ戻れば制止する」
「はい」
隣でリビアがゆっくり息を吐いた。
「私が答えたくないことを聞かれた場合は?」
「答えなくていい」
「理由も言わなくていいですか?」
「必要ない」
「『どうしてセスを選んだ』と聞かれても?」
「答えたくなければ、『答えない』でいい」
リビアの肩から、ほんの少し力が抜けた。
「分かりました」
「クルセスも同じだ」
「俺も?」
「当然だ。何を聞かれても答える義務があると思うな」
「はい」
言われてみれば、俺も聞かれたら答えようとしていたかもしれない。
「謝罪については?」
学園長が俺たちを見る。
「昨日までに説明した通り、方法を選べる。まだ決めていなかったな」
俺とリビアは顔を見合わせた。
謝罪文。
事前に読む。
ライゼル本人に読んでもらう。
口頭で謝罪を聞いてから受け取る。
受け取らない。
「俺は……」
少し考える。
今なら決められる気がした。
「先に読まなくていいです」
「理由は?」
「本人がどう言うか聞きたいから」
「文書は?」
「終わった後に、欲しいと思ったら受け取ってもいいですか?」
「構わない」
「じゃあそれで」
学園長が頷く。
「オリビア嬢は?」
リビアはすぐには答えなかった。
膝の上で指先を重ね、一度視線を落とす。
「私は……先に読みたいです」
俺は少し驚いて横を見る。
リビアも俺を見た。
「セスと違ってもいいでしょう?」
「もちろん」
むしろ、違う答えが出たことが少し嬉しかった。
「理由を聞いても?」
学園長が尋ねる。
「明日、本人の前で初めて謝罪の内容を全部聞くと、その言葉を受け止めることだけで頭がいっぱいになるかもしれないからです」
リビアはゆっくり言葉を選ぶ。
「先に文面を読んでおけば、何について謝ろうとしているのかは分かります。その上で、本人が私の前でどう話すのかを聞きたいです」
「分かった」
「でも、文面を読んだからといって、本人に同じ文章を読むよう求めるつもりはありません」
「それでいい」
レイモンド先生が机の端に置かれていた封筒を一つ取る。
「オリビア嬢宛ての部分を含む最新版だ。教師側は誤字など最低限しか触れていない」
リビアは封筒を見る。
すぐには手を伸ばさなかった。
「今読む必要ありますか?」
「ない。持ち帰ってもいいし、ここで読んでもいい。受け取った後で読むのをやめても構わない」
「持ち帰ります」
リビアが封筒を受け取る。
その指先が、ほんの少しだけ強張っていた。
俺は何も言わなかった。
代わりに、リビアが封筒を鞄へしまうまで待つ。
「セス」
彼女が小さく呼ぶ。
「何?」
「帰ったら、一緒にいてくれる?」
「うん」
「読む時」
「読む?」
「隣にいてほしい。でも、中身は見なくていい」
「分かった」
俺はすぐ答えた。
それでいい。
リビアが読みたい。
俺はまだ読みたくない。
でも、隣にはいられる。
学園長たちはそのやり取りを急かさず待っていた。
「最後に、終了方法を確認する」
レイモンド先生が言う。
「二人のどちらかが『終わりたい』と口にすれば、その時点で終了する。理由は必要ない」
「声出せなかったら?」
俺が尋ねる。
「合図を決めておく」
「合図?」
「テーブル上に小さな呼び鈴を置く。鳴らせば終了だ」
「魔道具じゃない?」
「普通の鈴だ」
「何で?」
「魔力が乱れている時でも使えるからだ」
「ああ」
単純だけれど、その方が確実かもしれない。
「手を上げるだけでもいいし、私たちへ視線を向けてもいい。何らかの異変があればこちらからも止める」
エレナ先生が付け加える。
「黙って耐え続ける必要はないわ」
「はい」
「特にあなたね、クルセス」
「分かってます」
「オリビアさんもよ」
「はい」
「二人とも、自分より相手を気にして無理をする可能性があるから」
俺とリビアは顔を見合わせた。
否定出来ない。
「じゃあ」
俺はリビアを見る。
「明日、どっちかが止めたいって思ったら、相手に確認しないで止めてもいいことにする?」
リビアが少し考える。
「うん」
「『セスはまだ話したいかも』って考えない」
「セスも『リビアがまだ話したいかも』って考えない」
「分かった」
「でも、終わった後に怒らない」
「怒らないよ」
「約束」
「うん」
エレナ先生が小さく微笑んだ。
「それが一番いいと思うわ」
◇
説明が終わって指導室を出ると、廊下には夕方の光が長く差し込んでいた。
生徒の数はもう少なくなっている。遠くから運動部の掛け声が聞こえ、窓の外では風に木々が揺れていた。
俺とリビアはしばらく黙って歩く。
「緊張、上がった?」
俺から聞いた。
「六」
「俺も五」
「やっぱり上がったね」
「うん」
「帰る?」
「帰ろう」
迷わなかった。
図書館へ行かない。
剣もやらない。
説明を聞いた直後に、何かで気を紛らわせる必要もない。
ただ帰る。
階段を下り、玄関へ向かう。
途中でイザークと会った。
剣術場へ向かうところらしく、木剣を持っている。
「説明終わった?」
「うん」
「どう?」
「緊張五」
「上がったな」
「でも大丈夫」
そこまで言ってから、少し付け足す。
「今のところは」
イザークが頷く。
「じゃあ帰るのか?」
「うん」
「分かった。またな」
「イザークは剣?」
「軽くな」
「足は?」
「もうほぼ平気」
「無理すんなよ」
「お前に言われる日が来るとはな」
「俺だって言うよ」
「じゃあお互いな」
「うん」
それだけで別れた。
以前なら、イザークが剣を振りに行くと聞いたら、少し参加したくなったかもしれない。
今もやりたい。
でも今日は帰る。
剣は明日でなくても出来る。
◇
帰りの馬車では、俺とリビアは隣に座った。
最初からそう決めていたわけではない。
乗り込んだリビアがいつものように奥へ座り、俺も自然にその隣へ腰を下ろした。
肩が少し触れる。
手はまだ繋いでいない。
リビアの鞄には、ライゼルの謝罪文が入っている。
俺はそれを意識していた。
たぶんリビアも。
「セス」
「うん」
「帰ったら読む」
「うん」
「怖い」
小さな声だった。
俺は横を見る。
リビアは窓の外を見ている。
「読むのやめてもいいんだよな」
「うん」
「途中でも」
「うん」
「俺、隣にいる」
「ありがとう」
それ以上、何を言えばいいか分からなかった。
励ます?
大丈夫と言う?
ライゼルは変わっていると言う?
どれも違う気がした。
だから、ただ隣にいた。
しばらくすると、リビアの手が座席の上で少し動いた。
俺の手の近くまで来る。
でも触れない。
「繋ぐ?」
今日は俺から聞いた。
リビアがこちらを見る。
少し驚いた後、ゆっくり頷く。
「うん」
俺から手を伸ばした。
指を絡める。
彼女の手はいつもより少し冷たかった。
「冷たい」
「緊張してるからかな」
「俺は?」
リビアが俺の手を少し握る。
「暖かい」
「じゃあちょうどいい?」
「うん」
肩を寄せ合うほどではない。
ただ手を繋いで、隣に座る。
馬車の外では、夕暮れの街がゆっくり流れていた。
◇
屋敷へ戻った後、俺たちは着替えてからリビアの私室へ移った。
彼女の部屋へ入ること自体は珍しくなくなっているけれど、今日はいつもと空気が違う。
窓辺のテーブルには紅茶が用意されている。
侍女がカップを置き、リビアの様子を確認するように一度だけ視線を向けてから静かに退室した。
部屋に二人だけになる。
リビアが鞄から封筒を出した。
白い封筒。
表には彼女の名前だけが書かれている。
俺はソファの隣へ座った。
「本当に見なくていい?」
「うん」
「読み終わった後、話したくなったら聞く」
「うん」
「話したくなかったら?」
「聞かない」
「ありがとう」
リビアは封を開けた。
中から数枚の紙を取り出す。
俺は視線を窓へ向けた。
読まないと決めたから、見ない。
部屋が静かになる。
紙を開く小さな音。
外から聞こえる鳥の声。
廊下を誰かが歩く足音。
俺はそれらを聞きながら待った。
最初の数分、リビアは何も言わなかった。
時々、紙が動く。
呼吸が少し深くなる。
俺は横を見たい気持ちを抑えた。
見るなと言われたわけではない。
でも今は、リビアが一人で文章を受け取る時間だと思った。
「……セス」
呼ばれた。
俺は初めて振り向く。
「うん」
リビアは紙を膝の上へ置いていた。
泣いてはいない。
怒っているようにも見えない。
でも、目元には複雑な色があった。
「読み終わった?」
「うん」
「どうだった?」
聞いてから、それも答えたくなければ答えなくていいと思った。
「……前よりは」
リビアが言葉を探す。
「ちゃんと、私に謝ろうとしてると思う」
「そっか」
「でも、嬉しいとは違う」
「うん」
「すっきりもしない」
「うん」
「『本人の言葉を聞かなかった』って書いてある」
リビアの指が紙の端を軽く押さえる。
「先生から聞いていたけど、実際に文字で見ると……変な感じ」
「嫌?」
「嫌じゃない」
彼女は首を振る。
「ずっと、それを分かってほしかったはずなの。私が嫌だと言ったのに、勝手に本心じゃないって決められたこと。それが嫌だった」
「うん」
「だから、謝罪文に書かれてるのは……たぶん、良かった」
そこでリビアは黙った。
俺も急かさない。
「でも」
しばらくして、彼女が続ける。
「だからって、明日すぐ許せるかは分からない」
「許さなくていいんじゃない?」
「うん」
「先生も言ってた」
「分かってる」
リビアが少しだけ笑う。
「セス、前なら『許した方がいいのかな』って考えた?」
「たぶん」
「今は?」
「リビアが決めることだと思ってる」
「セス自身は?」
「俺もまだ分からない」
俺は謝罪文を読んでいない。
明日、本人の言葉を聞く。
その時に何を思うかは分からない。
「リビア」
「何?」
「明日、ライゼルがこの文章と違うこと言ったら?」
彼女は少し考えた。
「その時は、その時に考える」
「そっか」
「文章を読んだから、明日も絶対同じことを言うって決めつけない」
「うん」
「でも、もしちゃんと同じことを自分の言葉で言えたら……聞く」
「うん」
「それだけ」
リビアは紙を封筒へ戻した。
机へ置く。
それで終わりだった。
「もう一回読まない?」
「今日はいい」
「じゃあ何する?」
リビアは少し考え、テーブルに置かれた紅茶を見る。
「飲む」
「冷めたかな」
「少し」
俺たちはカップを取った。
ライゼルの謝罪文を読んだ直後なのに、紅茶の温度の話をする。
でも、それでよかった。
◇
夕食では、リビアが謝罪文を読んだことを旦那様とグレイヴへ伝えた。
内容について詳しく話すことはしなかった。
旦那様も聞かなかった。
「明日、会う意思は変わったか?」
「変わっていません」
リビアが答える。
「俺も」
「ならいい」
それだけだった。
食事が進む。
今日の授業の話になり、俺が古い測定器の一部構造図が見つかったと話すと、グレイヴの眉が少し動いた。
「お前、明日面会なのに新しい研究へ手を出していないだろうな」
「出してないよ」
「本当か?」
「先生たちに止められた」
「自分では?」
「俺もやらないって決めてる」
「ならいい」
「面会終わったら見せてもらえるかもしれない」
「その日のうちに見に行くなよ」
「行かないよ」
答えてから考える。
「たぶん」
「セス」
「行かない」
リビアが笑う。
「終わった後の状態次第でしょ?」
「あ」
そうだった。
「じゃあ、行けそうなら?」
「翌日以降にしなさい」
「何で?」
「面会直後に研究資料を見て頭を切り替えられるか分からないでしょう?」
「切り替えられるかもしれない」
「切り替えられたとしても、疲れてるかもしれない」
「……そっか」
旦那様が俺たちを見ながら笑っている。
「リビアに管理されているな」
「管理じゃないです」
リビアが少し頬を膨らませる。
「セスが予定を詰めようとするからです」
「俺、まだ予定入れてないよ」
「入れようとしたでしょう?」
「ちょっとだけ」
「ほら」
明日の面会前日の夕食は、思ったより普通だった。
◇
食後、俺とリビアは談話室へ移った。
今日は本を読むつもりだった。
でも二人ともソファへ座ったまま、しばらく本を開かなかった。
窓の外には月が見える。
昨日までの雨が嘘みたいに、夜空はよく晴れていた。
「明日」
リビアが言う。
「うん」
「終わった後、どうする?」
面会で何を言うかではなかった。
「帰る」
「それはそう」
「屋敷帰って……夕食?」
「時間によるね」
「じゃあ、その後」
「何したい?」
俺は少し考えた。
今まで、明日の面会で何を言うかは考えていた。
でも終わった後のことは、あまり考えていなかった。
「何もしないかも」
「本も?」
「その時次第」
「剣は?」
「絶対やらない」
「魔術は?」
「やらない」
「勉強は?」
「宿題だけなら……」
「セス」
「分かった。宿題も急ぎじゃなければ次の日」
リビアが満足そうに頷く。
「私は、お菓子食べたい」
「面会の後?」
「うん」
「何のお菓子?」
「分からない」
「じゃあ料理長に頼む?」
「今から?」
「明日何か甘い物残しておいてって」
リビアが少し笑った。
「いいかも」
「面会終わって、食べたくなかったら?」
「次の日食べる」
「それならいいな」
「セスも食べる?」
「食べる」
「じゃあ決まり」
明日、ライゼルと会った後。
俺たちは屋敷へ帰って、食べられそうなら甘い物を食べる。
それだけ。
何だか、すごくいい予定に思えた。
「俺、明日の後って、何か答え出さないといけないと思ってたかも」
口にすると、リビアがこちらを見る。
「許すかどうか?」
「それも。あと、ライゼルが本当に変わったかとか」
「一回会っただけじゃ分からないよ」
「うん」
「明日分かるのは、明日のライゼルがどう話したかだけだと思う」
「そっか」
「セスがどう感じたかも、その場ですぐ言葉に出来ないかもしれない」
「リビアも?」
「うん」
リビアはソファの背へ少し身体を預けた。
「だから、帰ってお菓子食べる」
「すごい結論だな」
「大事でしょう?」
「大事かも」
俺も笑う。
「何がいい?」
「焼き菓子」
「重くない?」
「小さいの」
「じゃあクッキーとか?」
「それもいい」
「料理長に聞いてみる?」
「後で頼もう」
明日の面会より、面会後のお菓子を相談している。
でも、それは逃げている感じではなかった。
明日が終わった後にも時間は続く。
そのことを、具体的に想像出来る。
「セス」
「何?」
「明日、私が泣いたら?」
「隣にいる」
「それだけ?」
「ハンカチ渡す」
「セスらしい」
「抱きしめた方がいい?」
聞いた瞬間、自分で少し恥ずかしくなった。
リビアも目を丸くした。
「……聞くの?」
「勝手にやらない方がいいかなって」
「その時は聞かなくてもいいかも」
「どっち?」
「私がセスの方に寄ったら」
「ああ」
「それなら」
「分かった」
リビアの頬が少し赤い。
俺もたぶん同じだ。
「俺が泣いたら?」
何となく聞いてみる。
リビアは真剣に考えた。
「抱きしめる」
「俺には聞かないの?」
「嫌?」
「……たぶん嫌じゃない」
「ならそうする」
「俺だけ条件違わない?」
「セスは放っておくと『大丈夫』って言うから」
「最近言わないよ」
「前よりはね」
否定しきれなかった。
◇
部屋へ戻る前、料理長へ明日の焼き菓子を少し残しておいてほしいと頼んだ。
「明日の夕方ですか?」
「うん。俺とリビアの分」
「何かお好みは?」
俺とリビアは顔を見合わせる。
「甘すぎないもの」
リビアが言う。
「小さいやつ」
俺も加える。
「承知しました」
料理長は理由を聞かなかった。
たぶん屋敷の大人たちは、明日何があるか知っている。
それでも、特別な顔をしないでいてくれる。
廊下でリビアと別れる。
「おやすみ、セス」
「おやすみ」
「明日ね」
「うん」
彼女が自室へ戻っていく。
俺も自分の部屋へ向かった。
◇
机の上には、古い魔力測定の本がある。
今日は三十分読むつもりだった。
でも、椅子へ座って本へ手を伸ばしたところで止まる。
今は、あまり読みたい気分ではなかった。
「……じゃあ読まなくていいか」
本をそのままにする。
代わりに、昨日書いた四つのメモを見る。
一、俺がリビアを惑わせていないことを証明しようとしない。
二、ライゼルが俺を嫌っていても、それだけなら問題にしない。
三、謝罪を聞いても、その場で許すか決めなくていい。
四、何かあっても自分一人で対処しようとしない。
追加することはあるだろうか。
今日の説明を聞いて、いくつか思いつく。
答えたくない質問には答えなくていい。
止めたければ止めていい。
リビアが退出したい時、その理由を勝手に決めない。
でも、それを書き始めると、また増えそうだった。
俺はペンを持たなかった。
四つで十分。
それ以外は、明日の俺が考える。
窓を開けると、夜の涼しい風が入ってきた。
明日。
もう一日ではない。
次に学園へ行き、授業を受け、その放課後になればライゼルと会う。
怖さはある。
怒りも、完全に消えたわけではない。
フレイムストームの熱。
魔力の圧力。
リビアを背にした時の感覚。
あの時のことを思い出せば、今でも身体の奥が少し固くなる。
でも、明日会うライゼルは、あの日とまったく同じ状態ではないらしい。
だからといって、別人になったわけでもない。
俺を嫌っている。
婚約に納得していない。
リビアが俺を選んだ理由も理解出来ない。
それでも、自分が納得出来ないことと、リビアが選んだ事実は別だと言った。
俺は、それを本人の前で確かめたいのかもしれない。
でも、試験するために会うわけでもない。
失敗を待つためでもない。
俺もまだ、全部は分かっていない。
「……まあ、明日だな」
小さく呟く。
未来を全部予想しなくていい。
サザリーの課題と同じではないけれど、少しだけ似ているところはある。
今ある情報で、俺は会うと決めた。
明日、実際に話す。
その時に感じたことは、その時に受け取る。
許すかどうかは、その後でいい。
答えが出なければ、出ないままでもいい。
そして終わったら。
「焼き菓子」
思い出して、少し笑った。
明日の放課後に何があっても、屋敷へ帰る。
リビアと食べられそうなら、小さな焼き菓子を食べる。
たぶんグレイヴも旦那様もいる。
次の日になれば授業がある。
イザークとの剣もまた出来る。
サザリーとの課題も続きがある。
ベルナルト先生が見つけた構造図も残っている。
リビアの結界研究も途中だ。
俺たちの生活は、明日の面会だけで終わるわけではない。
そう思うと、胸の奥にあった硬さが少しだけ緩んだ。
俺は本を開かないまま、魔導灯を落とす準備をした。
今夜は早く寝よう。
明日のためだけではない。
眠い時に眠って、起きたら朝食を食べて、学園へ行く。
授業を受ける。
友達と話す。
そして放課後になったら、ライゼルと会う。
そのくらいでいい。
明日の俺が何を思うのかは、まだ分からない。
分からないまま、俺はベッドへ入った。
窓の向こうに見える月は静かで、夜の屋敷もいつもと変わらない。
目を閉じる直前、最後に浮かんだのはライゼルの顔ではなかった。
明日、面会が終わった後にリビアと食べる、小さな焼き菓子のことだった。




