第37話 三日後を選んだからって、それまで全部を面会のために使う必要はありません
昨日一日降り続いた雨は、夜のうちにすっかり上がっていた。
朝の窓を開けると、冷たさを残した空気が部屋へ入り込んでくる。庭の芝や低木にはまだ細かな雫が残り、東から差し込み始めた朝日を受けるたび、葉の先が小さく光っていた。
俺は窓辺で一度大きく息を吸い、身体の状態を確認する。
痛みはない。
身体の疲れもほぼゼロ。
魔力疲労もない。
眠気も特に残っていなかった。
頭の中については、昨日より少しだけ騒がしい。
「三日後……じゃなくて、今日からなら二日後か」
昨日、レイモンド先生から示された面会候補日は三日後と五日後だった。
夕食後にリビアとそれぞれ考え、俺たちはどちらも早い方を希望することにした。今日先生へ伝え、そのまま学園側の調整が通れば、ライゼルとの面会は二日後の放課後になる。
そう考えると、昨日より現実味が増した。
緊張は三くらい。
まだ低い。
ただ、二日後という言葉を頭の中で繰り返すと、胸の奥がわずかに固くなる。
「……でも今日は今日だな」
今日はサザリーとの約束がある。
放課後、図書館の第二学習室で一時間。
領地運営に関する課題を二つ用意してくれているらしい。
俺が情報を集めすぎる場合と、サザリーが早く判断しすぎる場合。その違いを比べてみようという話だった。
昨日から楽しみにしていた。
面会が二日後になりそうだからといって、それをやめる理由はない。
そう考えたところで、庭の端にある訓練場所へ視線が向いた。
身体の疲れはない。
昨日は剣を振っていない。
少しくらいならやってもいい。
ただし、今日は放課後にも頭を使う予定がある。
「二十分だけにするか」
誰かに許可を取る必要はない。
体調を確認して、今日の予定を考えて、自分で決める。
木剣を手に庭へ出ると、雨上がりの空気には湿った土と草の匂いが混じっていた。石畳の一部にはまだ水が残っているため、滑らない場所を選んで立つ。
最初の五分は足運び。
次に基本の素振り。
最後の数分だけ、イザークとの最近の打ち合いを思い出しながら、相手の反撃を想定した動きを確認した。
以前なら、そこからもう一種類、さらにもう一種類と増やしたかもしれない。
今日は時計を見て、十九分ほどで木剣を下ろした。
「よし」
まだ動ける。
だから終わる。
それにも、もうあまり違和感はなかった。
◇
「今日は剣を振ったのね」
朝食の席へ着いた途端、リビアに言われた。
「何で分かるの?」
「髪」
「昨日もそれ言ってなかった?」
「昨日は振っていないから、髪が整っていたもの」
「今日は?」
「少し跳ねてる」
自分では整えたつもりだった。
隣に控えていたグレイヴを見ると、こちらの意図を察したらしく淡々と答える。
「右後ろだ」
「本当?」
「直してきたつもりだったのに」
「甘いわね」
「リビアは俺の髪の何を見てるの?」
「セスを見てるの」
さらっと返された。
俺の手が止まる。
リビアも自分で言ってから気づいたらしく、ほんの少し頬を赤くした。
「……そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「いつも見ているから分かるって意味」
「それも結構すごくない?」
「婚約者だもの」
「そうだけど」
最近、婚約者という言葉を聞くたびに少し嬉しくなる。
以前なら、先に身分差や立場の違いを考えていた。
今は、リビアがそう言うと、そのまま受け取れる時が増えている。
「それで、何分だ?」
グレイヴが話を戻した。
「十九分くらい」
「二十分ではなく?」
「時計見たら十九分だったから終わった」
「あと一分やろうとは思わなかったのか?」
「ちょっと思った」
「やらなかった?」
「一分増やしても大して変わらないし」
グレイヴの口元が、ごくわずかに緩んだ。
「それでいい」
「今日の放課後はサザリー様との勉強でしょう?」
リビアがパンへジャムを薄く塗りながら言う。
「うん。一時間」
「楽しみ?」
「かなり」
「昨日からずっと楽しそうね」
「課題二つ用意したって言ってたから」
向かいに座る旦那様が紅茶のカップを置いた。
「領地運営の課題だったか?」
「はい」
「セスが情報を集めすぎる場合と、サザリー殿が判断を急ぐ場合を比べるとか」
「ほう」
旦那様の目に少し興味が浮かぶ。
「面白い試みだな」
「旦那様もそう思います?」
「実務では、情報不足のまま決断せねばならないこともあれば、確認不足の決断が大きな損失につながることもある。どこまで調べ、どこで決めるかは難しい」
「じゃあ、正解ない?」
「課題次第だ」
「やっぱり面白そう」
「お前は本当にそこを楽しむのだな」
旦那様まで少し呆れたように笑った。
「ただし、机上の課題と実際の領地運営は違う。数字の向こうに人がいることだけは忘れるな」
「はい」
橋を直す。
道路を整える。
倉庫を補強する。
紙の上では一行で済む。
でも、その橋を毎日渡る人がいる。
道路を使って荷物を運ぶ人がいる。
倉庫へ収穫物を預ける人がいる。
前の授業でも考えたことだった。
「ところで」
旦那様の視線が俺とリビアを順番に向く。
「面会日については決めたのか?」
食卓の空気が少しだけ変わった。
さっきまで領地運営の話をしていた頭に、二日後という言葉が戻ってくる。
「早い方を希望します」
俺が答える。
「私もです」
リビアも続いた。
「二人で相談して合わせたのか?」
「話す前に、リビアは三日後って決めてました」
「セスも、自分で考えてから同じ答えになったの」
「理由は?」
旦那様に尋ねられ、俺とリビアは昨日話したことをそれぞれ説明した。
準備する時間は足りると思うこと。
必要以上に先へ延ばすと、かえって考え続けてしまいそうなこと。
怖いから早く終わらせたいわけではないこと。
そして、会いたいという気持ちは今も変わっていないこと。
旦那様は途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「なら、その希望を伝えればいい」
「はい」
「ただし、正式に決まっても変更出来ることは忘れるな」
「昨日先生にも言われました」
「当日でも?」
グレイヴが確認する。
「中止出来るって」
「ならいい」
グレイヴはそれ以上何も言わなかった。
今日は面会についての長い確認会にはならない。
必要なことだけ話して、朝食へ戻る。
それが今の俺にはちょうどよかった。
◇
学園へ向かう馬車の中では、俺とリビアは面会の話をほとんどしなかった。
代わりに、昨日それぞれ見つけた魔術資料について話した。
「外層への魔力供給を変える方式なんだけど、昨日読んだ資料だけだと、自動で変わるのか術者が調整するのか分からなかったの」
リビアは膝の上にノートを開き、昨日図書館で写してきた部分を俺へ見せる。
「『外圧に応じて供給を増減する』って書いてある」
「でしょう?」
「術式が勝手にやるならすごいな」
「でも、それなら制御部分の記述があるはずなのよ」
「術者がやるなら?」
「ずっと外の状態を見ながら調整することになる」
「大変そう」
「だから、どちらなのか知りたい」
俺は文字を追いながら、自分が読んでいる古い測定器の中継板を思い出した。
「俺の方も似てるかも」
「中継板?」
「うん。何をしてる板なのか分からない」
「魔力を弱める?」
「それなら測定したい変化まで消えそうじゃない?」
「逆に、余計な揺らぎだけ除くとか」
「ああ……」
その可能性は考えていなかった。
ノートへ書こうとして、今日は自分のノートを出していないことに気づく。
「貸そうか?」
「いい。覚えておく」
「セスが?」
「何その言い方」
「気になることが増えると、三つ前の質問を忘れる時があるでしょう?」
「……貸して」
リビアが笑いながら紙を一枚渡してくれた。
俺はそこへ「中継板=不要な揺らぎ除去の可能性?」と書く。
「これも先生に聞く」
「うん」
「資料庫の確認、今日分かるかな」
「分からなかったら待つ」
「分かってるよ」
俺が返すと、リビアは満足そうに頷いた。
その時、馬車が学園へ続く大通りへ入った。
正門が見える。
今日、俺たちはレイモンド先生へ面会希望日を伝える。
でも、それは今日やることの一つだ。
それだけではない。
◇
朝の教室へ入ると、イザークが自分の席で足首を回していた。
「おはよう」
「おはよう。足どうした?」
「昨日の練習」
「痛めた?」
「違う。先生に足運び見てもらって、少し使い方変えたから張ってるだけ」
「どのくらい?」
「疲れ二。痛みゼロ」
「なら――」
「今日はやらない」
先に言われた。
「まだ何も言ってないよ」
「顔が『じゃあ今日試す?』だった」
「先生たちと同じこと言うなよ」
イザークが笑う。
「お前、分かりやすいんだよ」
「そうかな」
「剣の時は特に」
「じゃあ次いつやる?」
「それを今決めないって最近言ってるの、お前だろ」
「そうだった」
「俺の足の張りがなくなって、お前も暇な時」
「分かった」
以前なら、その場で次の日程を決めたくなっていたと思う。
でも、約束は逃げない。
リビアとの剣も、アルフォルド殿下との試合も、イザークとの次の打ち合いも残っている。
全部、今週中にやる必要はない。
「クルセス様」
ナナリーがこちらへ来る。
「今日、サザリー様とお勉強でしたよね?」
「うん」
「何をするんですか?」
「領地運営」
「楽しそうですね」
「ナナリーも?」
「いえ、クルセス様が」
「俺?」
「顔が」
「また?」
ミリアナまで笑いながら近づいてきた。
「今日はずっとそれ言われそうだね」
「そんなに顔に出てる?」
「出てるよ」
「面会の時も出るかな」
何気なく口にした瞬間、三人の表情が少し変わった。
詳しい事情までは話していない。
でも、ライゼルとの件がまだ続いていることは知っている。
イザークが声を少し落とした。
「何か決まった?」
「まだ正式じゃないけど、候補日が出た」
「そっか」
「今日、希望を先生に言う」
「緊張してる?」
「三くらい」
「三なんだ」
「日が正式に決まったら上がると思う」
ミリアナは少し心配そうな顔をしたものの、すぐに何かを言おうとはしなかった。
「無理しないでね」
それだけだった。
「うん」
ナナリーも頷く。
「何か出来ることがあれば言ってください」
「ありがとう。でも今は大丈夫」
「はい」
誰も、どうして会うのかと問い詰めない。
何を話すのかも聞かない。
それがありがたかった。
そこへサザリーが教室へ入ってくる。
俺と目が合うと、軽く手を上げた。
「今日、予定通りでいいか?」
「うん」
「面会の方は?」
「候補日決まった。たぶん二日後」
「なら今日は?」
「勉強する」
サザリーは一度だけ俺の顔を見た。
「無理をしているわけではないな?」
「楽しみにしてたから」
「なら予定通りだ」
それで話は終わった。
◇
午前の授業が二つ終わったところで、レイモンド先生が教室へ来た。
授業間の休憩時間だったため、生徒たちは次の教科書を出したり、廊下へ出たりしている。先生は教室へ入らず、入口から俺とリビアを呼んだ。
「昨日の件だ」
「はい」
俺たちは廊下へ出る。
「希望は決まったか?」
「早い方でお願いします」
俺が答えた。
「私も同じです」
リビアも続く。
レイモンド先生は手に持っていた書類へ目を落とした。
「二人とも、最短日を希望ということでいいな」
「はい」
「理由を聞いても?」
昨日と同じ説明を簡単にする。
先生は途中で否定も肯定もせず聞いていた。
「分かった」
書類へ何かを書き込む。
「では、学園側としてもその日程で進める」
胸の奥が少し強く鳴った。
「決定?」
「ああ」
レイモンド先生が顔を上げる。
「二日後の放課後。場所は第二応接室。通常授業終了後、二人はいったん別室へ来てもらう。そこで当日の状態を確認してから、面会を実施するか最終判断する」
二日後。
正式に決まった。
昨日まで候補だった日付が、急に形を持ったように感じる。
「ライゼルは?」
リビアが尋ねた。
「同じ日程を伝える。向こうも面会前に別室で確認を受ける。三人を最初から同じ部屋へ集めることはしない」
「先生は誰がいますか?」
「面会室には私、学園長、エレナ先生が同席する予定だ」
第一回、第二回の聞き取り結果を説明してくれた三人だ。
「シュザー卿は?」
「入らない」
そこも変わっていない。
「時間は?」
「最初から長時間を予定していない。最大でも一時間以内。ただし、一時間続けることが目的ではない」
「十分で終わっても?」
「構わない」
「五分でも?」
「必要ならな」
「俺たちが途中で出ても?」
「構わない」
「ライゼルが――」
「クルセス」
先生に止められた。
「はい」
「当日の細かい条件は明日改めて説明する」
「明日?」
「ああ。今日ここですべて確認すると、次の授業に遅れる」
言われて廊下の時計を見る。
確かに、休憩時間はもう半分以上終わっている。
「すみません」
「質問すること自体は悪くない。だが、今でなくていい質問もある」
「はい」
「今日のところは、日程が正式に決まったことだけ覚えておけばいい」
先生はリビアにも視線を向ける。
「オリビア嬢は何かあるか?」
リビアは少し考えた。
「……緊張が上がりました」
質問ではなかった。
レイモンド先生も一瞬だけ目を瞬かせる。
「どの程度だ?」
「五くらいです」
「クルセスは?」
「四」
「分かった。授業に支障が出るほどでは?」
「ないです」
「私も大丈夫です」
「なら今日は通常通り過ごしなさい。もし変われば言うこと」
「はい」
先生はそこで話を終えた。
俺とリビアは教室へ戻る。
入口へ入る直前、リビアが小さな声で言った。
「決まったね」
「うん」
「二日後」
「うん」
それだけ言って、俺たちはそれぞれの席へ戻った。
◇
次の授業は地理だった。
王国北西部の河川と交易路。
いつもなら好きな内容だ。
でも、最初の十分くらいは、さっき聞いた「二日後」が頭の隅に残っていた。
教師が地図へ主要河川を書き込み、春先の雪解けによる水量変化を説明している。
俺はノートを取る。
文字は書ける。
話も聞こえる。
でも、意識の一部が別のところへ行く。
二日後。
第二応接室。
最大一時間。
ライゼルがいる。
「……」
俺は一度ペンを置いた。
呼吸する。
別に忘れようとしなくていい。
今は授業中。
面会は二日後。
先生が川沿いの街を指す。
「この街が発展した理由を考えてみろ。単に川があるから、では足りないぞ」
そこから意識が戻った。
水運。
街道との交差。
周辺農村。
橋。
税。
考え始めると、面会のことが少し遠くなる。
教師に指名された生徒が「水運に適しているから」と答え、追加の理由を求められて困っている。
俺は地図を見る。
川の東に街道が一本。
北には山地。
南は穀倉地帯。
あ。
「クルセス」
「はい」
「何か気づいた顔をしているな」
「また顔ですか?」
教室に小さな笑いが起きる。
「答えてみろ」
「南の穀倉地帯から集めた物を川で運べるのと、北の山地から来る道がここで合流してます。あと橋があるなら、川を渡る人もこの街を通るから、宿とか市場も増えたんじゃないですか?」
「概ねその通りだ」
教師が地図へ印を加える。
「さらに、この川はここから下流で大型船が使える。上流から小型船で集めた荷を積み替える地点としても発展した」
「積み替え」
「サザリーとの課題で使えそうだな」
斜め前からイザークが小声で言った。
「授業中」
「お前が言うな」
俺は笑いそうになるのを堪えた。
気づけば、さっきまで頭にあった面会のことは薄くなっていた。
◇
昼休み。
今日はリビアも委員会がないため、いつもの友人たちと一緒に昼食を取った。
雨上がりで中庭の芝はまだ濡れているため、校舎内の休憩室を使う。窓が少し開けられていて、湿り気のある風が薄いカーテンを揺らしていた。
アルフォルド殿下、カイゼル殿下、サザリー、イザーク、ナナリー、ミリアナもいる。
「二日後になったのか」
アルフォルド殿下が静かに言った。
俺が面会日だけ伝えると、殿下はそれ以上詳細を求めなかった。
「はい」
「そうか」
短い返事だった。
カイゼル殿下も珍しくすぐには冗談を言わない。
「緊張は?」
「四です」
「数字で答えるの、すっかり定着したね」
「分かりやすいですよ」
「十になったら?」
「面会しません」
俺が答えると、リビアがすぐ横で頷いた。
「私も」
「なら、それでいいんじゃない?」
カイゼル殿下はそれ以上何も言わず、料理へ戻った。
サザリーも俺の顔を見た。
「放課後は?」
「やる」
「確認しただけだ」
「俺、そんなに無理してるように見える?」
「今は見えない。ただ、面会日が正式に決まった直後だからな」
「楽しみにしてるよ」
「なら一時間だ」
「延長は?」
「しない」
「まだ何も言ってない」
「言う顔をしている」
「今日それ四回目くらい」
皆が笑った。
リビアまで肩を揺らしている。
「セス、本当に分かりやすくなったのかも」
「前からじゃない?」
「前は隠していたもの」
「何を?」
「疲れたとか、怖いとか、やりたいとか」
笑っていた声が少しだけ柔らかくなる。
「今は顔にも出るし、言葉にもするでしょう?」
「……そうかも」
「私は今の方が好きよ」
リビアが自然に言った。
俺の手が止まる。
まただ。
最近、この言葉に前より反応する。
リビアもそれに気づいたらしい。
「何?」
「いや」
「顔赤いよ」
「リビアが急に言うからだろ」
「何を?」
「好きって」
「好きだもの」
今度は逃げなかった。
リビアは少しだけ頬を赤くしながら、それでも俺を見ている。
俺の方が先に視線を外した。
「……昼食中」
「知ってる」
「皆いる」
「それも知ってる」
カイゼル殿下が咳払いをした。
「僕たちは消えた方がいい?」
「消えなくていいです!」
「そう?」
「何で楽しそうなんですか」
「面白いから」
アルフォルド殿下は額を押さえている。
サザリーは完全に料理へ視線を落としていた。
イザークは笑いを堪えている。
ナナリーとミリアナは明らかに楽しそうだった。
「もう別の話しましょう」
俺が言う。
「じゃあ剣?」
イザークが助け舟なのか分からない話題を出す。
「足の張りあるんだろ」
「だから今日はしない」
「アルフォルド殿下との試合もまだだよな」
カイゼル殿下が殿下を見る。
「ああ。日程は決めていない」
「面会終わってからでいいですか?」
俺が聞くと、アルフォルド殿下はすぐ頷いた。
「当然だ。だが、面会が終わった翌日に必ずやる、という意味ではないぞ」
「分かってます」
「本当に?」
「殿下まで?」
また笑いが起きる。
二日後には、ライゼルと会う。
その事実は消えない。
でも、昼食の間ずっとそれだけを話す必要もなかった。
◇
午後の授業を終える頃には、面会が正式に決まった直後の緊張は少し下がっていた。
四から三くらい。
身体は疲れ一。
頭は二。
まだ余裕がある。
「第二学習室、行くぞ」
サザリーが鞄を持って俺の席へ来た。
「うん」
俺も立ち上がる。
リビアは今日は図書館へ行くかまだ決めていないらしい。
「一時間後?」
「終わったら図書館寄るかも」
「私は先に帰っているかもしれないわ」
「分かった」
「待たなくていいからね」
「うん」
それだけ確認して、俺とサザリーは教室を出た。
図書館の第二学習室は、普段俺たちが本を読む閲覧席より奥にある。四人ほどで使える小さな部屋で、壁際には黒板と資料棚があり、中央には大きめの机が一つ置かれていた。
サザリーはすでに必要な資料を用意していた。
「本当に準備いいな」
「お前が途中で必要情報を増やすと予想したから、関連資料も持ってきた」
「見ていい?」
「最初は駄目だ」
「何で?」
「課題に書かれている情報だけで、まず考えてもらう」
「追加質問は?」
「出来る。ただし、質問回数に制限を付ける」
「面白い」
「その反応になると思った」
机へ二枚の紙が置かれる。
「一問目。質問は三回まで」
「三回?」
「ああ」
「少ないな」
「だから意味がある」
紙を受け取る。
そこには、ある小さな領地の状況が書かれていた。
領内を流れる川に架かる木橋が老朽化している。
完全に壊れてはいないが、重い荷馬車の通行に制限が出始めている。
橋の東には三つの農村。
西には市場町。
今年は例年より収穫量が多い見込み。
領の予算では、橋を全面改修する費用をすぐには出せない。
選択肢は三つ。
一つ、税を一時的に上げて全面改修。
二つ、応急補修を行い、来年度まで重量制限を継続。
三つ、別の場所に仮設橋を設け、既存橋の利用を減らす。
「これだけ?」
「これだけだ」
「農村から市場まで他の道は?」
「質問一回目でいいか?」
俺は口を閉じた。
「……待って」
サザリーが少し笑う。
危なかった。
三回しか聞けない。
なら、一番必要な情報を選ばないといけない。
俺は紙を読む。
橋。
農村。
市場。
収穫増。
予算不足。
全面改修には増税。
応急補修なら重量制限。
仮設橋。
「仮設橋の費用は?」
「一回目、それでいいか?」
「……いや」
「慎重だな」
「三回しかないから」
何を知らないと決められないのか。
考える。
全面改修の費用。
仮設橋の費用。
応急補修の安全性。
迂回路。
重量制限による運送への影響。
増税額。
住民の負担。
全部知りたい。
でも三つしか聞けない。
「じゃあ一つ目。既存橋を使わない場合、農村から市場町まで別の道はある?」
「ある。ただし、通常の経路より片道二時間長くなる」
サザリーが答える。
俺は紙へ書く。
「二つ目。応急補修した場合、来年度まで安全に使える見込みはどのくらい?」
「通常の軽量馬車と徒歩なら高い。ただし、大雨や増水があった場合は再点検が必要」
これも書く。
最後。
何を聞く。
仮設橋の費用か。
増税額か。
今年の収穫量が多いなら、運べない損失がどの程度か。
「三つ目」
「決めたか?」
「重量制限を続けた場合、今年の収穫物を市場へ運ぶのにどのくらい影響が出る?」
サザリーの目が少し細くなる。
「通常の大型荷馬車が使えないため、小型馬車へ分散する必要がある。輸送回数は約一・七倍。人員と馬の追加確保が必要で、収穫期には遅延が予想される」
「分かった」
「質問終了だ」
「仮設橋の値段聞きたかった」
「だから三回だ」
「増税額も」
「全部は分からない」
俺は紙を見る。
全面改修。
応急補修。
仮設橋。
正解を探そうとする。
でも、全部の情報はない。
「決める?」
「ああ。理由も書け」
「期限は?」
「十五分」
「短い」
「実務ではもっと短い場合もある」
「分かった」
俺は考える。
全面改修は一番確実そうだ。
でも増税が必要。
どの程度の増税か分からない。
仮設橋も魅力がある。
でも費用を聞けなかった。
応急補修なら今年を乗り切れる可能性は高いが、収穫物の輸送が遅れる。
俺なら。
「……二番」
紙へ書く。
応急補修。
ただし、そのままではない。
収穫期だけ輸送を分散する。
市場側や商人と協議して受け入れ時間を延ばす。
小型馬車の共同利用。
必要なら一部を迂回路へ。
その間に来年度の全面改修資金を準備する。
「出来た」
「早いな」
「でも条件付けた」
サザリーが紙を読む。
「応急補修か」
「うん」
「増税してでも全面改修とは考えなかった?」
「増税額が分からないから怖い」
「仮設橋は?」
「費用分からないし、作る場所によって農村から遠くなるかもしれない」
「なるほど」
「サザリーなら?」
「私も二番だ」
「同じじゃん」
「理由は違う」
「どう違う?」
サザリーは自分の紙を見せた。
「全面改修が必要なこと自体は認める。ただ、今年の収穫期直前に増税を実施すれば、農家の現金負担が増える可能性がある。仮設橋は費用だけでなく、建設期間も不明だ。ならば、現時点で安全性が一定程度確認出来る応急補修を選び、来年度の全面改修を前提に資金計画を組む」
「俺より短い」
「お前は輸送方法まで考えている」
「必要だろ?」
「必要だ。ただ、最初の判断段階では、そこまで同時に決めなくてもいい」
「ああ……」
「応急補修を選ぶ。その後、輸送対策を別に検討する。それでもいい」
「一回で全部決めなくていい?」
「そういうことだ」
俺は自分の紙を見る。
確かに、橋の判断を求められているのに、俺は市場の受け入れ時間まで考えていた。
「悪い?」
「悪くはない。ただ、判断が遅れる原因にはなる」
「なるほど」
サザリーが次の紙を出す。
「二問目は逆だ」
「逆?」
「今度は質問回数に制限はない」
「本当?」
「ただし、二十分で最終判断まで出す」
「……それ、俺に有利じゃない?」
「そう思うか?」
少し嫌な予感がした。
紙を受け取る。
今度は、領内の山間部にある小さな村についてだった。
冬になると雪で主要道が閉ざされることがある。
今年、村から備蓄倉庫の増設要望が出た。
領の担当者は「過去五年間、深刻な食料不足は発生していない」として優先度を低く見ている。
一方で、今年は主要道沿いの斜面で小規模な崩落が二回発生している。
予算は倉庫増設か、斜面補強工事のどちらか一方にしか使えない。
「倉庫か斜面」
「ああ」
「質問何回でも?」
「時間内ならな」
「じゃあ、過去五年より前に食料不足は?」
「八年前に一度。主要道が十二日間閉鎖され、村の備蓄が残り二日分まで減った」
すぐ次。
「今年の崩落原因は?」
「長雨による地盤の緩みと推定。ただし調査は簡易的なものだけ」
「冬の積雪予想は?」
「平年並み。ただし長期予報の精度は高くない」
「倉庫の今の備蓄量は?」
「村全体で約十八日分」
「増設したら?」
「三十日分まで可能」
「斜面補強したら道は絶対閉じない?」
「保証出来ない。危険箇所の一つを補強出来るだけだ」
「危険箇所、一つだけ?」
「確認されている大きな危険箇所は三つ」
「じゃあ一つ補強しても他が崩れるかも?」
「そうだ」
「村への別ルートは?」
「徒歩と荷馬なら使える山道がある。ただし冬季は危険で、大量輸送には向かない」
質問する。
答えが増える。
でも、増えるほど迷う。
倉庫を増やせば、道が閉じても耐えられる。
斜面を補強すれば、閉鎖する可能性を下げられる。
でも危険箇所は三つ。
倉庫は十八日分ある。
八年前は十二日閉鎖。
なら十八日で足りる?
でも今年は崩落が二回。
「残り八分」
「もう?」
「質問に十二分使った」
「まだ聞きたい」
「聞いてもいい」
「村の人口変化は?」
「ここ十年で一割減少」
「冬に医薬品が必要な人は?」
「高齢者が多く、定期的な薬の補給が必要な住民が複数いる」
「食料だけじゃないじゃん」
「そうだな」
「倉庫に薬も置ける?」
「保管条件を整えれば一部は可能」
「その費用は増設費に入ってる?」
「入っていない」
「じゃあ――」
「残り六分」
「待って」
サザリーが笑った。
「お前、楽しそうだな」
「今それ言う?」
「言う」
俺は紙へ戻る。
全部知りたい。
でも時間がない。
どちらか選ぶ。
倉庫。
斜面。
「……倉庫」
俺は書いた。
理由。
斜面補強は一箇所だけで、道の完全な安全を保証出来ない。
倉庫なら、道が閉鎖した場合の影響を直接減らせる。
十八日分でも過去の十二日閉鎖には耐えられる計算だが、今年はすでに崩落があり、閉鎖期間が長くなる可能性を無視出来ない。
ただし医薬品など食料以外の備蓄は別途検討。
「出来た」
「残り二分」
「危なかった」
サザリーが読む。
「私は斜面補強を選んだ」
「違った」
「ああ」
「何で?」
「倉庫増設は村だけを守る。主要道は村民だけでなく、林業、郵便、巡回、周辺集落への移動にも使われる。斜面補強は一箇所だけとはいえ、最も危険な場所を優先するなら、道全体の利用者へ効果がある」
「でも他の二箇所が崩れたら?」
「その可能性はある」
「じゃあ倉庫の方が――」
「正解を決める課題ではない」
俺は口を止めた。
「そうだった」
「私は道路機能を優先した。お前は、道路が失われる可能性を完全には消せない以上、失われた後の耐久力を上げる方を選んだ」
「どっちもあり?」
「条件だけならな」
「じゃあ、実際なら?」
「追加調査が必要だ」
「結局調べるんじゃん」
「もちろんだ」
サザリーが笑う。
「だが、重要なのは『追加調査が終わるまで何もしない』とは限らないことだ」
「ああ」
「崩落が続いているなら、調査を待つ間に通行制限を入れることも出来る。倉庫増設を決める前に、既存倉庫へ一時的に備蓄を増やすことも出来る」
「決める前に出来ることがある?」
「そういうことだ」
俺は二枚の課題を並べた。
一つ目は、質問が三回。
二つ目は、質問し放題だけれど時間制限。
どちらも全部の情報は手に入らない。
「面白かった」
「感想が最初にそれか」
「だって面白かった」
「何が一番?」
「全部分からなくても決められるところ」
言ってから、少しだけ自分で驚いた。
前なら、全部分からないことが気持ち悪かった。
知らないなら調べる。
分からないなら確かめる。
それ自体は今も変わっていない。
でも。
「分からないままでも、条件付けて選べるんだな」
「そうだな」
「あと、選んだ後でまた変えてもいい?」
「状況が変われば当然だ」
「……そっか」
サザリーが俺を見る。
「何か別のことを考えたか?」
「ちょっと」
「面会?」
「うん」
俺は正直に頷いた。
「ライゼルがどこまで変わったか、全部は分からない」
「そうだろうな」
「会ったらどうなるかも分からない」
「ああ」
「でも、今ある情報で会うって決めた」
「それでいいんじゃないか?」
「途中で違うって思ったら、変えていい」
「領地運営と人間関係を完全に同じにするのは勧めないが」
「分かってるよ」
「ならいい」
サザリーは机の上の紙を揃える。
「ただ、共通するところはある。判断は、未来を完全に当てることではない」
「未来を当てることじゃない……」
「今ある情報で選び、必要なら修正する。それだけだ」
俺はその言葉をノートへ書いた。
「それ、領地運営の話?」
「今はな」
「今は?」
「お前が何に使うかまでは知らない」
サザリーらしい答えだった。
◇
一時間は思っていたより早く終わった。
「もう終わり?」
「一時間だ」
「もう一問ない?」
「ない」
「作れない?」
「今日は作らない」
「俺が作る?」
「帰れ」
サザリーが資料を鞄へしまう。
「次は?」
「まだ決めない」
「……俺が言われる側になった」
「少しは学習したらしいな」
「またやりたい」
「私もだ」
サザリーはそう言ってから、一瞬だけ照れたように視線を逸らした。
「こういう比較は私にも役に立つ」
「サザリーも?」
「私は決断が早すぎることがある。特に、条件を整理出来たと思った時ほどな」
「今日の斜面も?」
「ああ。私は最初の数分で補強を選んでいた」
「早い」
「その後、お前の質問を聞いて倉庫側の利点も増えた」
「じゃあ途中で変えた?」
「最終的には変えなかった。だが、最初より迷った」
「俺の質問、役に立った?」
「かなり」
それが嬉しかった。
俺がサザリーから教えてもらうだけではない。
俺の考え方も、相手の役に立つことがある。
「またやろう」
「ああ。ただし来週以降だ」
「何で?」
「お前には面会もあるし、私にも予定がある」
「分かった」
部屋を出る。
図書館の閲覧席を覗くと、リビアの姿はなかった。
先に帰ったらしい。
俺も今日は追加で本を読む気分ではなかった。
頭は四くらい疲れている。
領地課題が面白くて使いすぎた。
「帰るか」
自分でそう決めた。
◇
校舎を出る前、廊下でエレナ先生と会った。
「あら、クルセス」
「先生」
「ちょうどよかったわ。昨日話していた古い測定器の件、聞いたわよ」
「資料ありました?」
「構造図らしきものが一つ見つかったそうよ」
「本当ですか?」
疲れていた頭が一気に反応する。
「見られます?」
「今日は駄目」
「明日?」
「まだ駄目」
「何で?」
「まず先生側で確認するから」
エレナ先生は俺が何か言う前に続けた。
「古い資料は、今と記号や材料名が違うの。構造図に見えても、そのまま現代の魔導具へ置き換えられるとは限らないわ」
「じゃあ先生たちで読む?」
「ベルナルト先生と、魔導具担当の先生にも見てもらう」
「俺は?」
「その後」
「いつ?」
「まだ決めない」
「最近そればっかりだ」
「便利な言葉でしょう?」
先生が笑った。
「ただ、資料そのものを隠すつもりはないわ。安全に読める状態になったら、あなたとオリビアさんにも見せる予定よ」
「リビアも?」
「興味があるのでしょう?」
「あります」
「なら二人で見ればいい。ただし先生同席」
「はい」
俺はすぐ頷いた。
「それと、属性切り替えの遅延についてもベルナルト先生へ話したわ」
「どうでした?」
「目視では判断出来ない可能性が高いそうよ」
「やっぱり測る?」
「測れるならね。ただ、今の学園設備で必要な精度が出るかは分からない」
「古い測定器が使えるかも?」
「そこを先走らない」
「まだ言ってないです」
「顔に出てる」
「今日何回目だろ」
「数えているの?」
「途中から」
エレナ先生が小さく笑った。
「とにかく、今は資料確認まで。面会も近いのだから、魔術の新しい実験まで同時に入れるつもりはないわ」
「面会終わるまで何もしない?」
「必ずそうするとは言っていない。でも、急がない」
「分かりました」
「今日の状態は?」
「身体一。魔力ゼロ。頭四」
「四?」
「サザリーと一時間、領地課題やってました」
「楽しかった?」
「かなり」
「なら、今日はもう頭を休ませなさい」
「本は?」
「軽く読むくらいなら止めないけれど、追加で三時間調べ物はしない」
「三時間はしません」
「一時間半は?」
「……しないです」
「今の間は何?」
「ちょっと考えた」
「帰りなさい」
「はい」
先生に追い払われるように正門へ向かった。
◇
帰りの馬車では、一人だった。
リビアはもう屋敷へ戻っているはずだ。
鞄の中には、今日サザリーと使った課題の写しが入っている。本人が「復習したいなら持っていけ」とくれたものだ。
読み返したい。
でも頭は四。
エレナ先生にも休めと言われた。
「……帰ってからでいいか」
鞄は開けなかった。
代わりに窓の外を見る。
夕方の空は昨日より明るい。
雨で洗われた街路樹の葉が風に揺れ、道の端では溜まった水を店員たちが掃き出している。
二日後。
ライゼルと会う。
正式に決まった。
そのことを考えると、やっぱり少し緊張する。
でも、今日一番長く考えていたのは橋と倉庫だった。
昼にはリビアの「好き」で顔が熱くなった。
授業では川沿いの街について考えた。
エレナ先生からは古い測定器の構造図が見つかったと聞いた。
一日の中に、いろいろある。
面会が近いからといって、他のことが消えるわけではない。
◇
屋敷へ戻ると、リビアは談話室にいた。
ソファに座り、本を読んでいる。
俺が入ると顔を上げた。
「お帰り」
「ただいま。先帰ってたんだ」
「うん。今日は図書館に行かなかった」
「何で?」
「帰りたい気分だったから」
「そっか」
それだけでいい。
「勉強どうだった?」
「すごい面白かった」
「顔で分かる」
「今日それ何回言われるんだよ」
リビアが笑う。
「何したの?」
「橋と倉庫」
「……それだけ聞くと分からない」
「説明する」
俺は向かいのソファへ座り、二つの課題について話した。
質問三回だけの橋。
質問はいくらでも出来るけれど時間制限がある倉庫と斜面。
俺とサザリーで同じ答えになったもの。
違う答えになったもの。
正解が一つではなかったこと。
リビアは途中で何度も質問しながら聞いてくれた。
「私なら倉庫かな」
「二問目?」
「うん」
「俺と同じ」
「でも、医薬品の話を聞く前でも倉庫を選ぶかも」
「何で?」
「道を守る方法が一箇所の補強だけなら、他が崩れた時の備えが必要でしょう?」
「そうなんだよ」
「でも、サザリー様の道路を使う人全体を見る考え方も分かる」
「だろ?」
「面白いね」
「リビアもやる?」
「今度ね」
「三人で?」
「セスが質問を全部使う前に、私の分を残して」
「別々にした方がいいかも」
「それも楽しそう」
また予定が一つ増えた。
でも日程は決めない。
そのうち。
「それと、測定器の構造図らしいの見つかったって」
俺が言うと、リビアの目が輝いた。
「本当に?」
「先生たちが先に確認する」
「見られる?」
「安全に読める状態になったら、俺たちも先生同席で」
「いつ?」
「未定」
「……見たい」
「俺も」
さっきまで領地運営の話をしていたのに、今度は魔術の話で二人とも前のめりになる。
それがおかしくて、少し笑った。
「何?」
「いや。面会二日後なのに、俺たち普通だなって」
リビアも少し考えてから笑う。
「普通でいいんじゃない?」
「うん」
そこで、彼女の表情が少しだけ変わった。
「でも、決まった時は緊張した」
「俺も」
「今は?」
「三くらい」
「私は四」
「朝より上がった?」
「正式に決まったから」
「そっか」
俺たちはしばらく黙った。
窓の外では夕暮れの光が庭を橙色に染めている。使用人が廊下を歩く足音が遠くから聞こえ、どこかの部屋で時計が鳴った。
「明日、条件説明あるって」
「うん」
「聞いたらまた上がるかな」
「上がるかも」
「怖い?」
「少し」
「俺も」
昨日と同じような答え。
でも、同じ会話ではない。
昨日は日程が候補だった。
今日は決まった。
一日ずつ、近づいている。
「セス」
「何?」
「当日、私が途中で出たいって言ったら?」
「一緒に出る」
反射的に答えかけて、止まった。
リビアが俺を見る。
「……いや」
「うん?」
「まず、リビアが一人で出たいのか、俺にも出てほしいのか聞く」
リビアの目が少し大きくなる。
「一緒に出てほしいなら出る。リビアだけ先に出たいなら、先生が付いてくれるなら俺は残るかもしれない」
「残りたい?」
「その時にならないと分からない」
「そっか」
「リビアは?」
「セスが出たいって言ったら、私も同じように聞く」
「一緒に出てほしいか?」
「うん」
「分かった」
前の俺なら、リビアが立ち上がった瞬間についていったと思う。
それが守ることだと思っていた。
でも、本人が何を望んでいるか聞く。
たったそれだけなのに、俺には結構時間がかかった。
「今の、嬉しかった」
リビアが言った。
「何が?」
「私が出たいって言った時、理由を決めなかったこと」
「理由?」
「怖くなったからだ、とか。傷ついたからだ、とか」
「ああ」
「ただ出たいって言うかもしれないでしょう?」
「うん」
「その時に聞いてくれるの、嬉しい」
俺は少し照れくさくなって、膝の上の手を見る。
「リビアが前に言ったから」
「何を?」
「俺が、リビアの意思を勝手に決めないようになったって」
ライゼルのことで話した時。
リビアは、俺が以前より「どうしたい?」と聞くようになったと言った。
それを覚えている。
「だから聞く」
「うん」
リビアの声が柔らかくなる。
「ありがとう」
◇
夕食後、グレイヴと旦那様にも正式な日程を伝えた。
「二日後か」
旦那様は静かに頷く。
「はい」
「今の気持ちは?」
「会いたいのは変わってません」
「緊張は?」
「三」
「私は四です」
リビアが続ける。
旦那様は二人の顔を見た。
「なら、今日はそれでいい」
「明日、当日の条件説明があります」
「聞いてからまた考えればいい」
「はい」
グレイヴは俺へ視線を向ける。
「今日の疲労は?」
「身体一、魔力ゼロ、頭四」
「原因は?」
「サザリーとの勉強」
「面会ではなく?」
「面会も少しあるけど、課題が面白くて」
「なら今日は早めに休め」
「本、三十分だけ読んでいい?」
「私に聞くな」
「あ」
またやった。
「自分で決めろ」
「……三十分読む」
「理由は?」
「読みたいから。でも頭四だから三十分でやめる」
「いいだろう」
グレイヴが頷く。
俺は少し笑った。
「まだ聞いちゃうな」
「長年の癖だ。すぐには消えない」
「うん」
「ただ、聞いた後に自分で決め直せるようにはなった」
それなら、少しずつでいい。
◇
夜。
自室へ戻って、古い測定器の本を開いた。
予定通り三十分。
今日は新しい疑問を増やしすぎないよう、昨日までに読んだ部分を整理する。
中継板。
魔石。
発光変化。
術者ごとの揺らぎ。
属性切り替えの遅延。
現代設備で測れるか。
古い構造図との比較。
ノートへ項目を書き並べる。
十五分ほど経ったところで、面会のことが頭に浮かんだ。
二日後。
ライゼル。
第二応接室。
俺はペンを止める。
少しだけ考えた。
今日サザリーが言ったことを思い出す。
判断は、未来を完全に当てることではない。
今ある情報で選び、必要なら修正する。
俺はライゼルが当日何を言うのか知らない。
自分が何を感じるかも分からない。
それでも、会うと決めた。
途中で無理なら出る。
怒ったら、怒ったと自覚する。
怖ければ先生へ言う。
リビアの代わりに答えない。
自分の気持ちも、リビアに決めてもらわない。
今のところ、それでいい。
俺は時計を見る。
残り十二分。
「……本読もう」
面会について考えるのをやめ、資料へ戻った。
三十分が来たところで、本を閉じる。
あと一ページ。
読みたい。
でも閉じた。
昨日はグレイヴに止めてもらった。
今日は自分で止められた。
「よし」
小さく呟いて立ち上がる。
窓の外には、雨上がりの夜空が広がっていた。
雲はかなり薄くなり、その向こうにいくつか星が見える。
二日後。
ライゼルと会う。
明日は先生から当日の条件を聞く。
たぶん緊張はもう少し上がる。
でも明日の授業もある。
リビアもいる。
友達もいる。
読みたい本もある。
サザリーとの次の課題も、いつかやりたい。
古い測定器の構造図も見たい。
イザークとも、アルフォルド殿下とも、また剣を振りたい。
リビアとの約束も残っている。
ライゼルとの面会は、その全部を止めてしまうほど大きなものではない。
かといって、小さなことでもない。
だから俺は、二日後に向けて全部を捧げるのではなく、二日後になった時に必要な分だけ向き合えばいいのだと思う。
今夜はもう休む。
明日は明日で、やることがある。
そして二日後になったら。
その時の俺自身の言葉で、ライゼルと話そうと思った。




