第34話 会ってもいいと言われたのに、会う日をすぐ決めなくてもいいそうです
朝、目を覚ました時に最初に感じたのは、緊張ではなかった。
昨日剣を振らなかったおかげか、身体に残っていた重さがほとんど消えている。肩を回しても背中を伸ばしても違和感はなく、痛みもない。窓の外では朝日が庭へ差し込み始めていて、鳥の声に混じって、少し遠くから使用人たちが仕事を始める気配が聞こえていた。
身体疲労はゼロ。
魔力疲労もゼロ。
頭は――たぶん一。
そこまで確認してから、今日の放課後にライゼルの再確認面談について説明を受けることを思い出した。
「……緊張は三かな」
昨日の帰宅時より下がっている。
ただ、放課後が近づけば上がる気はした。
ベッドから降り、着替えを済ませる。昨日は朝の剣を休んだし、身体の疲れも消えているから、今日は少しくらい振ってもよさそうだった。
けれど、窓から庭を眺めながら考える。
今日は午前中に魔術実技がある。
午後には通常授業。
放課後には学園長室。
さらに、昨日借りた本の続きも読みたい。
「……今日はいいか」
朝稽古はやめた。
疲れているからではない。
やりたくないわけでもない。
ただ、今日は剣を振らなくてもいいと思った。
その代わり、昨日図書館から借りた古い魔力測定の本を開く。朝食まで長く読むつもりはなく、机の上の時計を確認してから椅子へ座った。
昨日見つけた百年以上前の測定器具について、頁を少し戻す。
古い測定法では、術者から流れる魔力量そのものだけでなく、魔石の発光が変化するまでの時間を記録していたらしい。正確な時間単位は現在と異なるが、二属性持ちの術者に見られた「切り替えの遅延」を観察出来た可能性はある。
俺の場合はどうなのか。
火から水へ変える時。
水から風へ変える時。
自分ではほとんど間を感じない。
でも、自分が感じないだけで、外から測ればわずかな差があるのかもしれない。
その考えを紙へ書き加えたところで、時計を見る。
「……もう終わりか」
もう少し読みたい。
けれど朝食へ遅れるほどではない。
本を閉じる。
昨日グレイヴに四十分で止めてもらった時より、少しだけ簡単だった。
◇
「今日は自分で止められたのね」
食堂で俺の話を聞いたリビアが、妙に嬉しそうな顔をした。
「朝から何の確認だよ」
「だって昨日、二人ともグレイヴに止められたでしょう?」
「リビアもだろ」
「私はあと二行だったもの」
「俺だってあと一頁だった」
「一頁と二行は違います」
「でも止められなかったのは同じじゃん」
「……それはそうだけど」
リビアが少し不満そうにスープを口へ運ぶ。
朝の食堂には柔らかな日差しが入り、白いテーブルクロスの上を明るく照らしている。今日は旦那様も最初から席へ着いていて、俺たちのやり取りを聞きながら新聞を畳んだ。
「二人とも、読書を止められた程度で成長を競うな」
「競ってません」
「競ってないです」
同時に答えた。
旦那様の口元が少し緩む。
「息は合っているようだな」
「旦那様まで」
「事実だろう」
隣に控えていたグレイヴは何も言わなかったが、わずかに笑っているように見えた。
「セス」
「何?」
「今日は朝稽古もしていないな」
「何で分かるの?」
「オリビア様ほど髪を見ているわけではない」
「グレイヴ!」
リビアが頬を赤くした。
昨日の話を覚えていたらしい。
「では何で?」
「庭から報告がない」
「ああ」
「昨日は休養。今日は?」
「魔術実技あるし、本読みたかったから」
「身体疲労は?」
「ゼロ」
「なら、自分で選んだということだな」
「うん」
「結構」
そこで終わる。
剣を振らなかった理由を細かく説明する必要もない。
俺はパンを一口食べた。
「今日だな」
旦那様が静かに言った。
何が、とは聞かなかった。
「はい」
「昨日、学園からこちらにも短い連絡が届いている。再確認面談が予定通り終了したことと、今日二人へ説明を行うことだけだ」
「結果は?」
「聞いていない」
旦那様はあっさり答えた。
「今日も?」
「今日もだ」
「聞こうと思えば聞ける?」
「おそらくな」
「でも聞かなかった?」
「お前たちが先に聞くべきだろう」
前回と同じだった。
旦那様が先回りして結果を知り、帰宅した俺たちへ教えることも出来るはずなのに、それをしていない。
「ありがとうございます」
リビアが言う。
「だから礼はいらん」
旦那様は苦笑した。
「それより、聞いた後に帰宅してすぐ答えを求められると思うな。私からも聞きたいことはあるが、二人が話したくなければ明日でも構わない」
「はい」
「セスもだ」
「分かってます」
「本当に?」
「最近ちゃんと待てるよ」
「それを自分で言うと少し怪しいな」
「何で?」
リビアが笑った。
朝食はそのまま、今日の授業の話へ移った。
午前は魔術実技。
昨日の夜に確認した時間割では、基礎制御の継続課題を行う予定だった。
「今日は五属性全部使うの?」
「先生次第」
「追加測定じゃないんだから、全部はやらないんじゃない?」
「たぶん」
「勝手に増やさないでね」
「しないよ」
「本当に?」
「リビアまで信用ないな」
「あるから確認してるの」
グレイヴと同じことを言われた。
俺は少し笑いながらパンへ手を伸ばした。
放課後のことは気になる。
でも、まだ朝だ。
今日もそこまでの時間を飛ばす必要はなかった。
◇
学園へ向かう馬車の中では、昨日のように本を広げなかった。
午前に魔術実技があるから、そこで何をするのか話していた。
「もし自由課題だったら?」
リビアが聞く。
「基礎の属性切り替えかな」
「五属性?」
「三つくらい」
「どうして三つ?」
「全部やる必要ないだろ」
リビアが一瞬黙った。
「何?」
「セスが自分から『全部やる必要ない』って」
「そんな驚く?」
「少し」
「最近そればっかりだな」
「だって前なら、出来るなら全部やってたでしょう?」
「そうかも」
「それで先生に止められてた」
「今は止められる前に止めるよ」
「うん」
嬉しそうに頷かれる。
馬車の窓から見える街は、朝の活気に満ちていた。荷車が商店へ品物を運び、道の端では店員たちが開店準備をしている。制服姿の生徒も増え始め、その中に見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「あれ、イザーク?」
「どこ?」
「右」
リビアが窓へ少し近づく。
「本当だ」
イザークは別の男子生徒と一緒に歩いている。こちらの馬車には気づいていないらしい。
「今日、剣誘われるかな」
「やるの?」
「今日はやらない」
「結果を聞くから?」
「それもあるけど、魔術実技あるし」
「じゃあ断る?」
「うん」
以前なら、誘われる前から断ることを考えるのは変な感じがしたかもしれない。
今はそうでもない。
やりたい。
でも今日はやらない。
それだけだ。
「リビアは放課後、図書館行かないよな?」
「今日は行かない」
「結果聞いた後は?」
「その時の疲れ次第」
「俺も本読むかはそれで決める」
「うん」
馬車が学園の正門をくぐる。
今日の放課後。
ライゼルのこと。
気にはなる。
それでも、正門を通った瞬間にまず考えたのは、午前の魔術実技だった。
◇
第三魔術訓練場には、朝の少し冷たい空気が残っていた。
高い天井の下に複数の標的が並び、床には生徒同士の間隔を保つための線が引かれている。周囲の安全結界はすでに起動していて、薄い魔力の膜が壁沿いに揺れていた。
エレナ先生が前へ立つ。
「今日は継続制御と切り替えを行います」
俺は思わずリビアを見る。
リビアもこっちを見た。
「朝話したやつ」
「声に出さない」
「はい」
先生に聞こえたらしく、こちらを見られた。
「クルセス」
「はい」
「今日の課題は追加測定ではありません」
「分かってます」
「聞く前に五属性全部を試そうとしない」
「三つにしようと思ってました」
訓練場が少しざわつく。
エレナ先生が眉を上げた。
「自分で?」
「はい」
「理由は?」
「全部やる必要ないから」
一瞬、先生が黙った。
「……何ですか?」
「いや。成長したと思っただけ」
「先生まで」
近くにいたミリアナが笑いを堪えている。
「何で皆そんな驚くんだよ」
「クルセス君だからじゃない?」
「理由になってない」
エレナ先生が手を叩き、教室全体の意識を戻した。
「私語はそこまで。今日見るのは、一つの術式を一定時間安定させた後、完全に解除して次の術式へ移る場合と、魔力流を維持したまま術式を切り替える場合の差です」
俺の意識が一気に先生へ向く。
「先生」
「まだ質問は禁止」
「まだ何も言ってません」
「顔で分かる」
リビアが隣で小さく笑った。
課題が始まる。
最初は火属性。
掌の前へ小さな火球を作り、一定の大きさを保つ。
十呼吸。
解除。
少し間を空けて、水球。
次は風。
先生の指示に従い、今度は魔力の流れそのものを止めずに術式だけを切り替える。
火。
水。
風。
俺にとって切り替え自体は難しくない。
ただ、今日は速さを競うわけではない。
変わる瞬間を意識する。
火の術式を解く。
基礎の魔力流は残す。
水へ変える。
自分の中では、確かに一瞬だけ「何の属性にもなっていない」ような感覚がある。
でも、それが本当に無属性の状態なのか。
どれくらいの時間なのか。
分からない。
「クルセス」
「はい」
「止めなさい」
「え?」
「今、考えながら繰り返そうとしたでしょう」
手を見る。
無意識にもう一度火へ戻そうとしていた。
「……はい」
「今日は観測機器を使っていません。自分の感覚だけで結論を出さない」
「分かりました」
「疑問は?」
「あります」
「書いておきなさい」
「はい」
魔法を解除する。
以前なら、せっかく気づいたのだからもう一回だけ、と続けていたかもしれない。
今はノートへ書けばいい。
少し離れた場所では、リビアが無属性結界を展開していた。
薄い透明な膜が彼女の前で安定し、その形がほとんど揺れない。次の指示で一度解除し、別の構成へ切り替える。
俺とは違う。
属性を変えるのではなく、同じ無属性の魔力で術式の役割を変える。
それも気になる。
見ていたら、リビアと目が合った。
彼女が少しだけ眉を上げる。
――後で。
たぶんそういう意味だ。
俺も頷いた。
授業中に始めると長くなる。
分かってきた。
◇
魔術実技が終わった後、イザークに声をかけられた。
「今日どうする?」
予想通りだった。
「剣?」
「ああ」
「今日はやらない」
「了解」
あっさり返ってきた。
「理由聞かないの?」
「聞いてほしい?」
「いや」
「じゃあ聞かない」
「そっか」
何となく拍子抜けする。
「明日は?」
「明日の状態見てから」
「分かった」
「イザークは?」
「今日は一人で基礎やる。昨日休んだし」
「先生に見てもらう?」
「ああ。足運び直したい」
「今度見せて」
「お前もな」
「うん」
そこで会話が終わる。
断った。
でも、次の約束がなくなったわけではない。
イザークが不機嫌になるわけでもない。
それが普通になり始めている。
「セス」
後ろからリビアが来る。
「断れた?」
「うん」
「偉い」
「子供みたいに言うなよ」
「前より偉いもの」
「じゃあリビアは今日、図書館行かない?」
「行かない」
「偉い」
「それは違うでしょう?」
「同じじゃん」
「私は最初から行かないって決めてたもの」
「俺も剣やらないって決めてた」
「……同じね」
二人で笑った。
放課後まで、まだ長い。
◇
昼休み。
今日はいつもの仲間が何人か集まった。
イザーク、ナナリー、ミリアナ、サザリー。それに俺とリビア。
アルフォルド殿下とカイゼル殿下は王族関係の用事で別室へ呼ばれているらしい。
「昨日の実務基礎、先生から聞いたぞ」
昼食を食べ始めてすぐ、サザリーが俺へ言った。
「何を?」
「お前の回答」
「何で?」
「先生に質問した」
「サザリーも?」
「ああ」
昨日の課題。
橋。
街道。
備蓄倉庫。
「先生、何て?」
「クルセスは条件分岐を増やしすぎる傾向がある、と」
「悪い?」
「悪いとは言っていない。ただ、実務では情報を待てない場合もあるから、最後は現状の情報だけで暫定判断を出す練習も必要だそうだ」
「ああ」
昨日の授業でも似たことを言われた。
「サザリーは?」
「私は逆だ」
「逆?」
「判断が早すぎる傾向があるらしい」
意外だった。
「サザリーが?」
「私は与えられた情報から最も合理的だと思う案を早く選ぶ。その分、まだ得られる情報があるのに切り捨てることがあるそうだ」
「じゃあ二人でやったらちょうどいい?」
ミリアナが言う。
俺とサザリーは同時に彼女を見る。
「どういう意味?」
「クルセス君が『もう少し調べよう』って言って、サザリー様が『そろそろ決めよう』って言えば」
「なるほど」
俺は納得した。
サザリーも少し考えている。
「確かに、悪くないかもしれない」
「じゃあ今度一緒に課題やる約束、ちょうどいいじゃん」
「そうだな」
以前話した勉強の約束だ。
「いつにする?」
「今決めるか?」
「今日は放課後予定ある」
「知っている。別の日だ」
「じゃあ明後日?」
言いかけて止まる。
明日の放課後に何を聞く――ではない。
今日だ。
今日の放課後に結果を聞く。
その後の疲れが明日へ残るかもしれない。
「……待って」
「何だ?」
「今日の話聞いてから決めたい」
「構わない」
サザリーはそれ以上何も聞かなかった。
ナナリーが少しだけ微笑む。
「クルセス様、本当に予定をすぐ埋めなくなりましたね」
「皆に言われる」
「悪い意味ではありません」
「分かってる」
「以前は誘われると全部受けていたものね」
ミリアナが続ける。
「そんなに?」
「そんなに」
「私たちが心配になるくらい」
「何で?」
「断らないから」
昨日も似た話をした。
断れる人の方が誘いやすい。
「今なら?」
「普通に誘える」
「断るかもしれないよ」
「それでいいの」
ミリアナが笑う。
昼休みの教室には、他の生徒たちの話し声も満ちている。窓際では別のグループが来月の実技確認について話し、後方では剣術の成績を気にしている生徒たちが騒いでいた。
俺たちの卓だけが特別に静かなわけではない。
ライゼルの話も出なかった。
リビアも出さない。
俺も出さない。
だからといって忘れているわけではなかった。
昼食を食べ終え、時計を見た時だけ。
放課後まで、あと何時間だろうと思った。
◇
午後の授業が終わる頃には、予想通り緊張が上がっていた。
最後の授業は王国史だった。
先生が黒板へ書いた年号をノートへ写しながら、何度か時計へ目が行く。
内容が頭に入らないほどではない。
ただ、いつもより意識が散る。
授業終了の鐘が鳴る。
教室の空気が一気に緩み、生徒たちが帰り支度を始めた。
「セス」
リビアが隣へ来る。
「うん」
「いくつ?」
「五」
「私も五」
「同じだな」
「うん」
昨日より高い。
でも、動けないほどではない。
鞄へ教科書を入れる。
「クルセス」
イザークが木剣用の袋を肩へ掛けながら近づいてきた。
「行ってくる」
「うん」
「お前も行ってこい」
「うん」
何の話かは、それだけで分かった。
「また明日な」
「また明日」
ナナリーとミリアナも、昨日と同じように深く聞かなかった。
「また明日です」
「また明日ね」
「うん」
サザリーだけは少し立ち止まる。
「勉強の日程は後でいい」
「分かってる」
「今日は考えるな」
「そこまで?」
「お前は一つ予定が空くと別の予定を入れそうだからな」
「最近しないって」
「なら問題ない」
そう言って去っていく。
教室に残る生徒が少なくなる。
「行こうか」
リビアが言う。
「うん」
廊下へ出る。
昨日は学園長室へ続く廊下をそのまま通り過ぎた。
今日はそこへ向かう。
足取りが重いわけではない。
でも、曲がり角を一つ越えるごとに胸の奥が少しずつ固くなる。
「リビア」
「何?」
「怖い?」
彼女は少し考えた。
「少し」
「俺も」
「でも行ける?」
「うん」
「私も」
今日は手を求められなかった。
俺も出さない。
その代わり、歩く速さを合わせた。
肩が触れるほどではない。
でも、少し横を向けばすぐ顔が見える距離。
それで十分だった。
◇
学園長室には、前回と同じ三人がいた。
オズワルド学園長。
レイモンド先生。
エレナ先生。
机の上には前回より多い書類が置かれている。
俺とリビアが入ると、エレナ先生が椅子を示した。
「座って」
「はい」
「失礼します」
並んで腰を下ろす。
前回と同じ位置。
けれど今日は、机の上の紙を見ただけで少し緊張した。
「先に状態確認をするわ」
エレナ先生が俺を見る。
「クルセス」
「身体疲労ゼロ。魔力疲労は一くらい。午前に実技があったので。痛みなし。頭の疲れ二。緊張五です」
「オリビア嬢」
「身体、魔力ともに問題ありません。頭の疲れは二。緊張五です」
「話を聞ける状態?」
「はい」
「俺も」
「途中で上がったら言って」
「はい」
確認が終わる。
学園長が一枚目の書類を手に取った。
「では、昨日行ったライゼル・シュザーの再確認面談について説明する」
部屋の空気が変わった。
俺は無意識に背筋を伸ばす。
「まず、前回と同じ質問を複数行った。質問の順序は変えている。また、前回の本人の回答は見せていない」
「覚えてるか見るため?」
「それだけではない。前回と同じ表現を再現出来るかではなく、考え方が維持されているかを見るためだ」
「はい」
「最初に確認したのは、事実と本人の推測の区別だ」
前回。
ライゼルは、リビアが自分で俺を選んだと言ったことを「事実」として挙げた。
俺がリビアを惑わせているという考えについては、根拠がないと認めた。
「昨日も、ライゼルはオリビア嬢が自分の意思でクルセスとの婚約を望んだと発言したことを、事実として認めた」
リビアの肩が少しだけ下がる。
「変わらなかったんですね」
「ああ」
「その後は?」
俺が聞く。
「今回は我々から『クルセスが惑わせた可能性はないのか』と、あえて尋ねた」
「先生たちから?」
「ああ」
「何て答えたんですか?」
レイモンド先生が記録を開く。
「『そう思っていた。でも、それを証明出来るものは自分にはない』」
前回と近い。
「続けて、『では可能性はあると思うか』と聞いた」
「はい」
「ライゼルはしばらく考えた後、『可能性があるかないかを自分が決めても意味がない。オリビア本人が選んだと言っているなら、まずそれを聞くべきだった』と答えた」
リビアの目が少し大きくなる。
俺も、すぐには何も言えなかった。
「……前より進んでないですか?」
「我々も前進と評価している」
学園長が答える。
「ただし、そこで終わりではない」
「はい」
「『では、オリビア嬢がクルセスを選んだことに納得したのか』とも聞いた」
胸の奥が少し固くなる。
「何て?」
「『納得はしていない』」
やっぱり。
リビアの表情も少し曇る。
「でも」
レイモンド先生が続けた。
「今回はその後、自分からこう付け加えた」
先生が記録へ目を落とす。
「『自分が納得出来ないことと、オリビアが選んだことは別だと思う』」
リビアが息を吐いた。
ゆっくり。
長く。
「……そうですか」
声が少し震えている。
「オリビア嬢」
エレナ先生が呼ぶ。
「大丈夫?」
「はい。緊張は……四になったかもしれません」
「下がった?」
「少し」
「分かった」
俺もたぶん下がった。
全部ではない。
ライゼルは、まだ俺とリビアの婚約に納得していない。
なぜ俺なのかも理解出来ていない。
でも。
分からないから否定する。
納得出来ないから間違っている。
そこからは、少し離れ始めているらしい。
「次に」
学園長が続ける。
「謝罪について確認した」
「俺への?」
「二人への、だ」
リビアが姿勢を正す。
「ライゼルには、謝罪した結果、二人から許されなかった場合どうするかを聞いた」
「何て?」
「前回は『謝罪することと許されることは別だと理解している』と答えていた。今回は具体的に、『クルセスが許さないと言ったらどうする』『オリビア嬢が会いたくないと言ったらどうする』と分けて聞いた」
俺は自分の膝へ視線を落とす。
許すか。
まだ決めていない。
「ライゼルは?」
リビアが尋ねた。
「クルセスについては、『許してもらうために謝るわけではない。許さないと言われても、それを変えろとは言えない』」
「……はい」
「オリビア嬢については、『会いたくないなら会わない。謝罪文を渡すことも、本人が嫌ならしない』」
リビアが黙る。
「どう?」
エレナ先生が聞いた。
「……前よりは」
「うん」
「私が嫌だと言ったら、止まってくれるなら」
そこで言葉が切れる。
「嬉しい?」
先生は急かさない。
リビアは少し考えてから首を横へ振った。
「嬉しい、とは違います」
「じゃあ?」
「安心、かもしれません」
「うん」
「でも、まだ本当に出来るのかは分からないです」
「その通り」
エレナ先生が頷く。
「だから安全対策を外すことはしない」
そこは変わらない。
「もう一つ」
レイモンド先生が言う。
「オリビア嬢への謝罪理由を、再度確認した」
前回。
ライゼルは、自分の考えをリビア本人の意思より優先したことについて謝る必要があると言った。
「今回は、こちらから父親の話を出さなかった」
「どうして?」
「父親に言われた答えを再現するかではなく、自分の言葉で話せるかを見るためだ」
「はい」
「ライゼルは、『オリビアが嫌だと言ったことを、自分は本心ではないと勝手に決めた。それはオリビアの言葉を聞いていなかったことになる』と答えた」
リビアの唇が少し開く。
「……聞いていなかった」
「ああ」
「自分で?」
「少なくとも昨日の面談では、自分からそう表現した」
リビアは何も言わない。
俺も横から見守る。
少しして、彼女が小さく息を吐いた。
「私、それは……聞いてほしかった言葉かもしれません」
「謝罪の言葉として?」
「分かりません」
リビアは正直に答えた。
「でも、ずっと嫌だったんです。私が何を言っても、『本当は違う』って決められるのが」
「うん」
「だから、聞いてなかったって自分で分かったなら……」
そこでまた止まる。
「少し、会って話してもいいと思いました」
俺はリビアを見る。
彼女もこちらを見た。
「今?」
「今は」
「決定?」
「まだ」
「そっか」
「セスは?」
「俺も、前よりは」
でも、そこで止まる。
先生たちも答えを急かさなかった。
「まだ報告はある」
学園長が言う。
「次は攻撃時の認識についてだ」
俺の意識が戻る。
「ライゼルは、自分がなぜクルセスへ攻撃したのかについて、前回より踏み込んだ話をした」
「守るため?」
「それだけではない、と本人が話した」
リビアの眉がわずかに動く。
「何だったんですか?」
「怒りだ」
短い答えだった。
でも学園長は、そこで話を切らなかった。
「クルセスが編入してきたこと。オリビア嬢と婚約していたこと。自分が知らないところで二人の関係が進んでいたこと。そして、オリビア嬢から明確に拒絶されたこと。それらに腹を立てたと認めた」
俺は黙って聞く。
「嫉妬も?」
エレナ先生がライゼルへ実際に聞いたらしい。
「本人は最初、その言葉を嫌がったそうだ」
「嫌がった?」
「ああ」
「何で?」
「そこまでは本人も明確に説明出来なかった。ただ、最終的には『嫉妬していなかったとは言えない』と答えた」
「……そっか」
俺は少し変な気持ちになった。
ライゼルがリビアを好きだった。
それは前から分かっていた。
俺が婚約者になったのが気に入らなかった。
それも分かっていた。
でも本人は、それを「リビアを守るため」という形にしていた。
「じゃあ」
俺はゆっくり尋ねる。
「守るためだけじゃなかったって、自分で言ったんですか?」
「そうだ」
「俺が嫌だったから?」
「それも認めた」
「今も?」
「嫌いだそうだ」
あまりに普通に言われて、少しだけ目を瞬いた。
「……そうですか」
「どうした?」
「いや。そこは変わってないんだなって」
「変わる必要があるか?」
学園長に聞かれる。
考える。
「別にないです」
「うん」
「俺もライゼルと友達になりたいわけじゃないし」
「そうだな」
「嫌いでも、攻撃しなければ」
「その点も本人へ確認した」
「何て?」
「『嫌いだからといって攻撃していいわけではない』」
俺は頷く。
「じゃあ、それでいいかも」
「クルセス」
エレナ先生が俺を見る。
「今の言葉は、『過去の攻撃を許す』という意味ではないわね?」
「違います」
「うん」
「これから俺を嫌いでも、それだけなら別にいいってことです」
「分かった」
自分でも、そこははっきりしていた。
好きになってほしいわけではない。
認めてほしいとも、今はあまり思わない。
リビアが俺を選んだことを、ライゼルが理解出来なくてもいい。
それを理由にリビアの言葉を否定したり、俺へ攻撃したりしなければ。
「魔力状態についても説明する」
エレナ先生が記録を取った。
「昨日は前回より意図的に感情が動く質問を増やした。クルセスへの嫌悪、オリビア嬢から拒絶された時の感情、自分が婚約相手になると思い込んでいた理由についても聞いている」
「魔力上がった?」
「小さな上昇はあった」
俺とリビアの身体が同時に少し固くなる。
「でも」
先生がすぐ続ける。
「攻撃魔法へ移る兆候はなかった。本人も途中で自分の感情が強くなっていることを申告した」
「自分から?」
「一度はね」
「一度?」
「もう一度はこちらから指摘した」
「じゃあ完璧じゃない?」
「もちろん」
エレナ先生はあっさり言った。
「でも、自分から一度申告出来たことは評価している」
「その時どうしたんですか?」
「質問を止め、休憩を入れた」
「ライゼルは嫌がらなかった?」
「少し不満そうではあった。でも従った」
「再開出来た?」
「出来た」
俺は息を吐く。
休む。
止まる。
自分で状態を言う。
何だか、最近俺がずっと教えられていることに似ている。
「ライゼルも数字つけてるんですか?」
「そこまではしていない」
「そっか」
「お前の基準を全員に広めるな」
レイモンド先生が苦笑した。
「便利なのに」
「便利ではあるがな」
「じゃあいいじゃないですか」
「今はその話ではない」
「はい」
少しだけ部屋の空気が緩んだ。
けれど、学園長が次の紙を取ると、また自然に静かになる。
「最後に、面会そのものについて確認した」
来た。
胸の奥が少し強く鳴る。
「ライゼルには、面会が行われた場合の条件を説明した」
「前に俺たちが聞いたやつ?」
「ほぼ同じだ。学園内の指定された部屋。教師複数名が同席。魔力監視と結界を使用。出入りは別。どちらかが終了を求めた場合は、その時点で終える。オリビア嬢の発言を遮らない。クルセスへ挑発的な言動をしない。謝罪への返答を求めない」
「父親は?」
「同席しない」
「そこも変わらない?」
「ああ」
前回、ライゼルが父親の前で「正しい答え」を探す可能性があるから、シュザー家当主は同席しない方針になった。
「本人は?」
「条件を了承した」
「嫌がったものは?」
「教師が複数同席することについて、『そこまで必要なのか』とは言った」
少し不安になる。
「でも?」
「こちらが必要だと答えると、それ以上は反論しなかった」
「俺たちが途中で帰るのも?」
「了承した」
「リビアが話してる時に遮らない?」
「了承した」
「俺が許さないって言っても?」
「返答を強要しないと答えた」
俺は一度息を吐いた。
条件としては。
前よりかなり整っている。
学園長が書類を机へ置いた。
そして俺たちを見る。
「以上を踏まえて、学園側の判断を伝える」
リビアの背筋が伸びた。
俺も膝の上で指を組む。
「現時点で、厳格な条件を設けた上での短時間の面会は実施可能と判断する」
言葉が落ちる。
すぐには意味が身体へ入ってこなかった。
「……会ってもいい?」
俺が確認する。
「学園の安全判断としては、だ」
「絶対安全?」
「それは言わない」
「ですよね」
「だから条件を付ける」
学園長の声は落ち着いている。
「実施する場合、時間は最大二十分。場所は第二応接室。私、レイモンド、エレナのうち最低二名が室内または即時介入可能な位置にいる。魔力検知と結界を使用する。ライゼルは先に入室し、二人は別経路から入る。終了時も別にする」
前に聞いた安全案が、より具体的になっている。
「座る位置は?」
リビアが尋ねる。
「二人は並んで座る。ライゼルとはテーブルを挟む。クルセスをオリビア嬢の前へ配置することはしない」
「はい」
「私、自分で結界を張ってもいいですか?」
「必要なら許可する。ただし、最初から維持し続ける必要はない。こちらでも防護を用意する」
「分かりました」
「セス」
リビアが俺を見る。
「何?」
「私の前に立たないでね」
「……状況による」
言った瞬間、エレナ先生に見られた。
「クルセス」
「分かってます」
「今の顔は分かっていない」
「でも何か飛んできたら」
「教師が止める」
「間に合わなかったら」
「オリビア嬢も結界を使える」
「俺も使えます」
「だから三人で同時に前へ出る必要はない」
「……はい」
リビアが小さく笑う。
「セス」
「何?」
「頼って」
「うん」
俺は少し考えてから言い直す。
「何かあったら、まず先生とリビアもいるって思い出す」
「うん」
「それでも必要なら動く」
「それならいい」
エレナ先生も頷いた。
「そのくらいでいいわ」
全部任せる。
何もしない。
それも違う。
一人で全部やる。
それも違う。
「それから」
学園長が続ける。
「これは重要だから、はっきり言っておく」
「はい」
「学園が『実施可能』と判断したことと、二人が『面会しなければならない』ことは別だ」
俺は頷く。
「はい」
「今日、答えを出す必要もない」
「……今日じゃなくていい?」
「ああ」
「でも、会えるって分かったんですよね?」
「そうだ」
「じゃあ日程決めないんですか?」
「二人が会うと決めてからだ」
当然のことなのに。
少し驚いた。
「俺たち待ち?」
「そうなる」
「ライゼルは?」
「面会が実施されるかどうかは、二人の意思次第だと伝えてある」
「何て?」
「『分かった』と答えた」
「いつまで待つとかは?」
「聞かなかった」
「本当に?」
「ああ」
学園長が俺を見る。
「クルセス。お前は、会える状態になったらすぐ会うと決めなければならないと思っていたのか?」
「……ちょっと」
「なぜ?」
「待たせるから」
「誰を?」
「ライゼルを」
「それはお前が負うべき問題か?」
言葉が止まる。
違う。
たぶん。
「違います」
「そうだ」
「でも、先生たちも予定空けないと」
「それは日程が決まってから我々が調整する」
「部屋も」
「空いている日を使う」
「……はい」
「何でも自分が早く決めれば周囲の負担が減ると考える癖は、まだ残っているようだな」
少し恥ずかしくなる。
「すみません」
「謝る必要はない。気づけばいい」
「はい」
隣を見る。
リビアは俺を責める顔ではなかった。
「私も少し思った」
「リビアも?」
「うん。ここまで先生たちが準備してくれたなら、会った方がいいのかなって」
「同じじゃん」
「同じね」
「オリビア嬢も」
エレナ先生が穏やかに言う。
「準備したことと、あなたが会う義務は別よ」
「はい」
「実施しなくても、準備が無駄になるわけではない。安全に出来るか検討すること自体が必要だったのだから」
「分かりました」
「今の気持ちは?」
リビアは少し考える。
俺も答えを待つ。
「……会ってみたいです」
前より、はっきりしていた。
「理由は?」
「ライゼルが、私の言葉を聞いていなかったって自分で言ったから」
「うん」
「本当にそう思っているなら、私が直接言った時にも聞けるのか確かめたい」
「納得させたい?」
「違います」
リビアはすぐに首を横へ振った。
「私がセスを選んだ理由を理解してもらう必要はないと思っています」
「うん」
「でも、私は自分で選んだ。それを、今度は勝手に別の意味へ変えずに聞いてほしいです」
「分かった」
「ただ」
リビアが俺を見る。
「今日、会うって決定はしなくていいですか?」
「もちろんだ」
「じゃあ、一度帰って考えたいです」
「それでいい」
次に学園長の視線が俺へ向く。
「クルセスは?」
俺はすぐには答えなかった。
会ってもいい。
前からそう思い始めていた。
今日の話を聞いて、その気持ちは少し強くなった。
ライゼルはまだ俺を嫌っている。
婚約にも納得していない。
でも、それは別にいい。
俺が聞きたいのは。
「俺も、会ってみたいです」
「理由は?」
「ライゼルが俺を嫌いなのは別にいいって、本人に言いたいかもしれない」
「かもしれない?」
「その時になったら言わないかもしれないから」
学園長が少し笑う。
「それでいい」
「あと」
自分の胸の中を探す。
「謝罪を聞いたら、俺がどう思うのか知りたいです」
「今は分からない?」
「分からないです」
「許すか?」
「それも」
「なら、面会までに決める必要はない」
「面会しても決めなくていい?」
「もちろんだ」
「謝られて、『分かりました』だけでも?」
「構わない」
「何も返さなくても?」
「構わない」
「……そっか」
謝罪されたら。
許す。
許さない。
どちらかを答えなければならないと思っていた。
でも、違うらしい。
「俺も帰ってから考えます」
「そうしなさい」
そこで面会の話は一度終わった。
◇
「謝罪文は?」
俺は机の上の紙を見ながら尋ねた。
「前回の?」
「書き直したやつ」
「さらに修正している」
レイモンド先生が答えた。
「また?」
「ああ」
「今度は?」
「前回問題になった『状況を誤解し、感情的になった』という表現について、本人なりに書き直した」
「見せてもらえますか?」
「今日は内容の一部だけ伝える」
「はい」
先生が紙を取る。
「『オリビアの言葉より、自分の考えの方が正しいと決めつけた。そのことに腹を立て、クルセスへ魔法を使った。周囲にいた者まで危険に晒した。オリビアを守るためだったという言葉で、自分の行動を正しいものにしようとしていた』」
部屋が静かになる。
俺は何度か頭の中で繰り返した。
「……前より、かなり違いますね」
「ああ」
「先生たちが直した?」
「表現上の誤字以外は直していない」
「じゃあ本人が?」
「本人が書いた」
リビアが紙を見る。
「私へのことは?」
「別に書いてある」
「何て?」
「『オリビアが嫌だと言ったことを、本心ではないと勝手に決めた。自分の方がオリビアの気持ちを分かっていると思い、本人の言葉を聞かなかった。それについて謝りたい』」
リビアの目が伏せられる。
今度は、手を求められなかった。
代わりに、制服の膝部分を指先で軽くつまんでいる。
「リビア」
「うん」
「大丈夫?」
「うん。今は」
少ししてから、彼女は顔を上げた。
「先生」
「何?」
「その手紙、面会するなら先に読むんですか?」
「それも選べる」
「選べる?」
「事前に受け取る。面会時に本人から読み上げてもらう。本人が口頭で謝罪し、手紙は後から受け取る。あるいは手紙そのものを受け取らない」
「そんなに?」
「謝罪の方法をライゼルだけで決める必要はないからな」
学園長が答えた。
「二人が受け取りやすい方法を選べばいい」
「俺とリビアで別でも?」
「構わない」
また別々。
俺たちは婚約者だけど。
何でも同じにしなくていい。
「今日はそれも決めなくていい?」
「決めなくていい」
「分かりました」
答えると、レイモンド先生が少し笑った。
「今日はよく確認するな」
「後で『決めると思ってた』ってなるよりいいかなって」
「その通りだ」
少しだけ嬉しい。
「他に質問はあるか?」
学園長が聞く。
リビアが先に手を上げた。
「一つあります」
「どうぞ」
「ライゼルが『なぜセスを選ぶのか分からない』って言うこと自体は、面会中も禁止しないんですか?」
いい質問だと思った。
「禁止はしない」
学園長は答える。
リビアの眉が少し寄る。
「ただし」
続きがある。
「それを理由に、オリビア嬢の選択を否定する発言へ進んだ場合は制止する」
「例えば?」
「『理解出来ない』は本人の感情だ。『だからお前の選択は間違っている』『本心ではないはずだ』となれば、条件に反する」
「ああ」
リビアの表情が少し緩む。
「それなら大丈夫です」
「嫌なら、その時点で終了してもいい」
「はい」
「クルセスは?」
「俺?」
「ライゼルから嫌いだと言われる可能性はある」
「それは別に」
「侮辱された場合は?」
「どのくらい?」
「今から想定問答を始めるな」
「すみません」
少し笑いが起きる。
「嫌だったら嫌って言います」
「それでいい」
「殴らないです」
「当然だ」
「魔法も使わない」
「当然だ」
「先生が止める前に俺が言い返すのは?」
「会話の範囲なら好きにしろ」
「そっか」
「ただし、勝負を始めるな」
「しませんよ」
「剣の?」
リビアが聞く。
「何で剣にするんだよ」
「セスだから」
「やらないって」
また少し空気が軽くなった。
今日の話は重い。
でも、ずっと息を詰めている必要はなかった。
「最後に」
学園長が書類をまとめる。
「処分と通常授業への復帰については、前回から変更はない」
「まだ審議中?」
「ああ」
「面会出来るようになったのとは別?」
「別だ」
「通常授業は?」
「まだ認めない」
「分かりました」
「面会が問題なく終了したとしても、それだけを理由に復帰させることはない」
リビアも頷く。
「では、今日はここまでだ」
「はい」
「面会については、明日答えを出す必要もない。二人で話してもいいし、それぞれで考えてもいい。家族へ相談しても構わない」
「いつまで?」
俺が聞く。
学園長が少しだけ目を細めた。
「今のところ期限は設けない」
「一週間でも?」
「構わない」
「もっと?」
「必要ならな」
「……そんなに待たせても?」
「クルセス」
「はい」
「また始まっているぞ」
「あ」
ライゼルを待たせる。
先生たちを待たせる。
日程を止める。
「すみません」
「だから謝るな」
「はい」
「お前たちが決めるまで、学園側は通常の指導を続ける。それだけだ」
「分かりました」
俺は息を吐いた。
会ってもいい。
でも、今すぐ会わなくていい。
何だか変な感じだった。
◇
学園長室を出た後、俺とリビアは廊下をゆっくり歩いた。
まだ外は明るい。
窓から差し込む午後の光が床へ長い四角を作り、その中を細かな埃が漂っている。授業を終えた校舎は静かで、遠くから部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえていた。
「セス」
「うん」
「どうする?」
「今決める?」
「決めない」
「じゃあ何で聞いたの?」
「聞いてみただけ」
「リビアも変わったな」
「何が?」
「前なら俺に『セスはどうしたい?』って先に聞いて、自分の答え後にしただろ」
リビアが少し考える。
「そうだったかも」
「今は?」
「私は会ってみたい」
足を止めずに言った。
「まだ決定じゃないけど」
「うん」
「セスは?」
「俺も会ってみたい」
「じゃあ同じ?」
「今のところは」
「うん」
それだけ。
まだ正式に先生へ返事はしていない。
日程も決めていない。
「庭行く?」
俺が聞く。
リビアは少し考えて首を横へ振った。
「今日は帰りたい」
「疲れた?」
「頭が五くらい」
「上がった?」
「話を聞いてる間は下がったけど、終わったら疲れた」
「俺も四くらい」
「じゃあ帰ろう」
「うん」
庭へ寄らない。
本も読まない。
ただ帰る。
それを選んだ。
◇
正門までの道を歩きながら、俺は今日聞いたことを思い返していた。
ライゼルは俺を嫌いなまま。
リビアが俺を選んだ理由にも納得していない。
でも、納得出来ないことと、リビアが選んだ事実は別だと言った。
俺を攻撃した理由についても、リビアを守るためだけではなく、自分が腹を立て、嫉妬し、俺を嫌っていたことを認めた。
それを聞いて、俺はどう思ったのか。
「セス」
「何?」
「難しい顔してる」
「考えてた」
「ライゼル?」
「うん」
「何を?」
「前より、嫌じゃなくなったかも」
リビアが少し驚く。
「ライゼルのこと?」
「違う」
「何?」
「嫌われてること」
「ああ」
「前は、何でそこまで嫌われるのか分からなかったから、俺が何か悪いことしたのかなって」
「うん」
「今は、俺が悪いから嫌いなんじゃなくて、ライゼルが俺を嫌いなんだって分かった」
言葉にすると変だった。
でも、俺の中ではかなり違う。
「それ、同じじゃない?」
「違うよ」
「どう違うの?」
「俺が悪いなら直さないといけないだろ」
「うん」
「でも、俺が悪くないのに嫌いなら、俺が直すものないじゃん」
リビアが足を止めた。
俺も少し先で止まる。
「何?」
「……セス」
「うん」
「それ、すごく大事なこと言ってると思う」
「そう?」
「うん」
リビアが俺のところまで追いつく。
「私も、ライゼルに嫌われたくないって思ってたのかもしれない」
「リビアが?」
「嫌われたくないというより……」
彼女は少し考える。
「ちゃんと分かってもらわないと、私が悪いみたいな気がしてた」
「ああ」
「でも、分かってもらえなくてもいいんだね」
「うん」
「嫌われても?」
「それは嫌?」
「ちょっとは」
「俺も嫌われるより好かれる方がいい」
「そうよね」
「でも全員に好かれるの無理だろ」
「うん」
「俺、アルフォルド殿下にも最初はすごい警戒されてたし」
「今も婚約については複雑だと思うわよ」
「でも友達」
「……セスがそう言うなら、たぶん」
「殿下も否定してなかった」
「そうね」
また歩き出す。
「ライゼルとは友達にならなくていい」
「うん」
「でも、話せるくらいになったら?」
「それで十分かも」
今は。
その先は分からない。
決める必要もない。
◇
帰りの馬車では、リビアが俺の隣へ座った。
向かいではなく。
それだけで少し意外だった。
「今日はこっち?」
「嫌?」
「全然」
「じゃあいいでしょう?」
「うん」
手は繋がない。
肩が触れそうなくらいの距離で座る。
馬車が動き出すと、車輪の振動が座席から伝わってきた。窓の外では学園の正門が遠ざかり、夕方の街並みが流れていく。
「疲れた」
リビアが言う。
「俺も」
「何かしたわけじゃないのにね」
「話聞いた」
「それだけで疲れるのね」
「頭使ったんじゃない?」
「セス、今いくつ?」
「四」
「私、五」
「帰ったら休む?」
「うん」
「本は?」
「今日は読まない」
「俺も」
即答した。
「剣は?」
「やらない」
「魔術は?」
「やらない」
「勉強は?」
「宿題だけ」
「……満点」
「何の?」
「休み方」
「昨日八十八だったのに?」
「別の採点です」
「採点多くない?」
「いいの」
リビアが少し笑った。
その後、しばらく二人とも黙って窓の外を見ていた。
会話がなくても気まずくない。
馬車の揺れに合わせて、ときどき肩が触れる。
そのたびに少し意識する。
でも離れようとは思わなかった。
「セス」
「何?」
「面会するなら、いつがいい?」
「今決めないんじゃなかった?」
「日程を決めるんじゃなくて、条件」
「ああ」
考える。
「授業終わった後」
「私も」
「次の日が休みだと楽?」
「そこまで必要かな」
「二十分だし」
「でも疲れるかもしれない」
「じゃあ次の日の予定軽い日」
「うん」
「剣の約束ない日」
「それはセスだけでしょう?」
「リビアも委員会ない日がいいだろ」
「そうね」
「先生たちの予定もある」
「それは先生たちに任せる」
「あ」
「また全部考えようとした」
「今のは普通じゃない?」
「少しだけね」
「いいと思う」
リビアが窓へ視線を戻す。俺もそれ以上予定を組み立てるのをやめ、馬車の揺れに身体を預けながら、流れていく街並みを眺めた。
会うと決めたわけではないのに、いつなら会えるかを考え始めていた。
それはたぶん、俺の中ではもう「会うかどうか」より、「会うならどうしたいか」の方へ気持ちが少し進んでいるからなのだと思う。
「私ね」
しばらくして、リビアが静かに口を開いた。
「面会するなら、ライゼルに一つだけちゃんと言いたい」
「自分で俺を選んだ?」
「それも」
「他に?」
彼女は少し迷ったように唇を閉じ、窓の外から俺へ視線を戻した。馬車が角を曲がったことで肩が軽く触れたけれど、どちらも離れない。
「私がセスを選んだ理由を、分かってもらうために説明はしないって」
「言うの?」
「うん。前なら、いっぱい説明しようとしてたと思うから」
「俺のいいところ?」
「そう。セスがどれだけ優しいとか、昔からどんなことをしてくれたとか、私がどうして好きになったのかとか。全部話したら、いつか分かってくれるんじゃないかって思ってたかもしれない」
リビアはそこまで言ってから、小さく息を吐いた。
「でも、それって変なのよね。私が誰を好きになるかは、ライゼルに認めてもらうために決めることじゃないもの」
「うん」
「だから、『私はセスを自分で選びました』とは言う。でも、その理由を全部説明して納得してもらおうとはしない」
「そっか」
「分かってもらえなかったとしても、それで私の選択が変わるわけじゃないから」
さっき学園から正門へ向かう途中に話したことと繋がっている。
俺が悪いからライゼルに嫌われているわけではないなら、俺が直す必要はない。
リビアが間違っているからライゼルに理解されないわけではないなら、リビアが説明し続ける必要もない。
「でも」
「何?」
「俺は聞きたい」
リビアが瞬きをした。
「……何を?」
「リビアが俺を選んだ理由」
「え?」
「だって、今いっぱいあるって言っただろ」
「言ったけど」
「聞きたい」
ライゼルに説明する必要はなくても、俺には教えてほしい。
そんな意味で言ったつもりだったのに、リビアの顔が見る間に赤くなった。
「セス、それ……今聞くの?」
「今じゃなくてもいいよ」
「そういう問題じゃなくて」
「嫌?」
「嫌じゃないけど!」
声が少し大きくなり、リビアが慌てて口元へ手を当てる。御者台まで聞こえたかもしれないと気にしたらしく、しばらく前方を見ていたが、御者から何か反応が返ってくることはなかった。
「じゃあ、いつか」
「簡単に言うわね……」
「だって俺、知らないし」
「前にも少し話したでしょう?」
「でも全部じゃない」
「全部聞きたいの?」
「全部あるの?」
「あるわよ」
「どのくらい?」
「数えたことない!」
また少し声が大きくなった。
俺が笑うと、リビアが恨めしそうにこちらを見る。
「セスは面白がってるでしょう?」
「面白がってないよ」
「笑ってる」
「リビアが慌てるから」
「誰のせいよ」
「俺?」
「そうよ」
それなら仕方がない。
「じゃあ、今度」
「約束まではしません」
「何で?」
「恥ずかしいからです」
妙に丁寧な口調で断られた。
でも、本当に嫌そうではない。
だったら、急がなくてもいいのだと思う。
いつか聞ければいい。
そう思ったところで、リビアがじっと俺を見ていることに気づいた。
「何?」
「セスは?」
「何が?」
「私が婚約者でよかったって、前に言ってくれたでしょう?」
「うん」
「どうして?」
今度は俺が答える番だった。
すぐに言葉が出てこない。
一緒にいると落ち着く。
楽しい。
大切だと思う。
手を繋ぎたい時がある。
別々に過ごした後、会えると嬉しい。
リビアに魔法を教わるのも好きだし、俺が知ったことを話すのも楽しい。守りたいと思うし、最近はリビアに守られることも、前ほど嫌ではなくなった。
学園へ来てからは、俺が知らなかったリビアをいくつも知った。
委員会で仕事をしているところ。
ナナリーやミリアナと話しているところ。
魔術のことになると夢中になるところ。
俺が無茶をすると本気で怒るところは昔から知っていたけれど、最近は俺が自分で止まれただけで嬉しそうにする。
他にもある。
たぶん、まだ言葉に出来ないものも。
「……いっぱいある」
俺が答えると、リビアの目が大きくなった。
「いっぱい?」
「うん」
「例えば?」
「今?」
「今」
「恥ずかしい」
「私には聞こうとしたでしょう!」
「聞きたいのと、自分で言うのは違うじゃん」
「ずるい!」
「じゃあリビアが先に言ったら俺も言う」
「もっとずるい!」
馬車の中にリビアの声が響き、今度こそ御者台の方から小さな咳払いが聞こえた。
二人とも同時に黙る。
顔を見合わせる。
少しして、どちらからともなく笑った。
今日、ライゼルとの面会が出来ると聞いた。
ずっと閉じていた扉が、ようやく開けられる状態になったような感じがする。
でも、その扉を今日すぐ通らなくてもいい。
扉の前で立ち止まって、どうするか考えている間に、こんな話をしていてもいい。
◇
屋敷へ戻ると、旦那様はまだ執務室にいるらしく、玄関ホールにはグレイヴがいた。
いつものように俺たちを迎えた義父は、俺とリビアの顔を一度ずつ見ただけで、すぐに表情を少し引き締めた。
「疲れたか?」
「頭は四」
「私は五くらいです」
「身体は?」
「ゼロ。魔力もほとんど残ってない」
「私も身体は問題ありません」
グレイヴはそれ以上細かく確認せず、一度だけ頷いた。
「なら、今日は休め」
「うん」
即答すると、なぜかグレイヴが一瞬黙った。
「何?」
「いや」
「最近、その反応多くない?」
「お前が変わったからだ」
「もう慣れてよ」
「十五年近くかけて出来上がった認識を、数週間で変えろと言うのか?」
言われてみれば無理がある。
俺が休まなかった時間の方が、今みたいに自分から休む時間よりずっと長い。
「……それは無理か」
「そういうことだ」
横でリビアが楽しそうに笑っている。
「学園の話は?」
グレイヴが尋ねた。
「今、聞く?」
「お前たちが話せる範囲でいい。疲れているなら夕食後でも明日でも構わん」
旦那様だけではなく、グレイヴも急かさない。
それなら結論だけは伝えておこうと思った。
「条件付きで、会ってもいいって」
グレイヴの表情が少しだけ引き締まる。
「学園がそう判断したのか?」
「うん。最大二十分。先生が最低二人。結界と魔力監視も使う。俺たちとライゼルは別々に入って、終わった後も別に出る」
「シュザー家当主は?」
「来ない」
「そうか」
「でも、俺たちはまだ会うって正式には答えてない」
「そうか」
それだけだった。
もっと何か聞かれると思っていた俺は、少し待ってしまう。
「何だ?」
「いや……会うのか、とか聞かないの?」
「今聞く必要があるか?」
「ない、かな」
「なら聞かん」
学園長室を出てから何度も聞いた言葉と同じだった。
今決めなくていい。
「旦那様には?」
「私から、学園側が条件付きで面会可能と判断したことだけ伝える。お前たちがどう考えているかは、自分たちから話したくなった時に話せばいい」
「分かった」
「夕食までどうする?」
「部屋で休む」
「本は?」
「今日は読まない」
「剣は?」
「やらない」
「魔術は?」
「やらない」
今度こそグレイヴがはっきり黙った。
「何?」
「熱でもあるのか?」
「ひどくない!?」
リビアが吹き出した。
「グレイヴ!」
「冗談だ」
「グレイヴが冗談言うと分かりにくいんだよ」
「お前も少しは父親の冗談を見抜け」
「父さんの顔、変わらないじゃん」
「努力しろ」
「俺が?」
「親子で何をしているの」
リビアが笑っている。
その声を聞いていたら、学園長室を出た直後には四くらいあった頭の疲れが、少しだけ軽くなった気がした。
◇
自室へ戻り、制服から楽な服へ着替える。
机の上には昨日借りた本が置いてあった。その隣には、今朝まで読んでいた古い魔力測定についての研究書もある。
どちらも読みたい。
特に朝に気づいた、属性切り替えの瞬間については続きを確認したい。
けれど、今日は開かなかった。
ベッドへ横になり、枕へ頭を預ける。
窓の外から聞こえるのは、庭で働く使用人たちの声と、時折吹く風が木々を揺らす音くらいだった。
目を閉じる。
すると、今日学園長室で聞いた言葉が順番に浮かんでくる。
ライゼルは、俺を嫌いなままだ。
俺とリビアの婚約にも納得していない。
なぜリビアが俺を選ぶのかも分からない。
それでも、自分が納得出来ないことと、リビアが俺を選んだことは別だと言った。
リビアの言葉を聞かず、自分の考えの方が正しいと決めつけていたことも認めた。
俺を攻撃した理由についても、リビアを守るためだけではなく、自分が腹を立てたからだと認めている。
謝罪文も変わった。
――オリビアを守るためだったという言葉で、自分の行動を正しいものにしようとしていた。
あの日のことを思い出す。
火球。
風の刃。
火槍。
最後に広がったフレイムストーム。
周囲にいた生徒たち。
リビア。
俺が炎の中へ入ったこと。
以前なら、思い出しただけで「次に同じことが起きたらどうするか」を考え始めていたかもしれない。
どの魔法なら防げる。
どの距離なら間に合う。
迅雷撃破をどこまで使えば安全に止められる。
今は、そこまで考えなかった。
面会するなら先生がいる。
結界もある。
魔力監視もある。
リビア自身も結界を使える。
もし何か起きても、俺一人で最初から最後まで止める前提ではない。
「……嫌いか」
小さく呟く。
ライゼルは今も俺を嫌っている。
それを聞いて、思ったより傷つかなかった。
むしろ、少し楽だった。
俺が何か悪いことをしたから嫌われているのではない。
俺がリビアの婚約者だから。
俺が気に入らないから。
そういう感情まで、俺が直すことは出来ない。
誰かに嫌われた時、必ず自分に原因があって、それを直さなければならないわけではない。
そんな当たり前のことを、俺は今まであまり考えたことがなかった。
スラムにいた頃は、誰かを怒らせれば危険だった。
拾われてからは、執事として相手を不快にさせないことを教わった。
どちらも必要だったと思う。
でも、婚約者としても、友達としても、学園の生徒としても、全員から好かれる必要はない。
アルフォルド殿下だって、俺とリビアの婚約を喜んでいるわけではない。
それでも今は普通に話せる。
剣を振る約束だってしている。
ライゼルと同じになるとは思わない。
なる必要もない。
「会ってみたい、か」
自分で口にした言葉を思い返す。
今も、その気持ちは変わっていなかった。
だからといって、今日中に決めなくてもいい。
目を閉じたまま、しばらく何も考えないようにしてみる。
完全に頭が空になるわけではない。
それでも、本を開くよりは休めている気がした。
◇
夕食の席では、旦那様からライゼルの話を聞かれることはなかった。
グレイヴから最低限の報告を受けているはずなのに、旦那様が話題にしたのは、今日の魔術実技と、来月予定されている学年の実技確認についてだった。
「通常の実技確認でも、五属性すべてを使うのか?」
「まだ分からないです。エレナ先生は追加測定とは別だって言ってました」
「なら、学年全体の基準に合わせる部分と、お前だけ別に見る部分を分けるのだろうな」
「たぶん」
「迅雷撃破は禁止なんでしょう?」
リビアが確認する。
「うん。普通の実技確認だから使わないって」
「それは安心ね」
「そんなに?」
「セスの場合、『使えるなら使った方が正確に評価出来るのでは』とか言い出しそうだったもの」
「今は言わないよ」
「今は、ね」
「信用して」
旦那様が小さく笑った。
「信用と確認は両立するそうだぞ」
「グレイヴの言葉じゃないですか」
「便利なので借りた」
そんな話をしながら夕食を終える。
ライゼルについて何も話さない時間が、不自然ではなかった。
今日の一番大きな出来事ではある。
でも、今日あったことはそれだけではない。
魔術実技もあった。
サザリーとの勉強の話もあった。
イザークの誘いを断った。
朝には古い測定法の本も読んだ。
夕食後、部屋へ戻ろうとしたところで旦那様に呼び止められた。
「セス、オリビア」
「はい?」
「今日の話について、一つだけ確認していいか?」
俺とリビアは顔を見合わせる。
「大丈夫です」
「私も」
「面会可能と判断されたこと自体について、二人はどう感じている?」
会うのか、とは聞かれなかった。
俺は少し考える。
「……安心した、が近いかもしれません」
「何に?」
「ライゼルが、前より話を聞けるようになってるって分かったから」
「そうか」
「でも、まだ納得してないし、俺のことは嫌いらしいです」
「それは問題か?」
「前よりは、問題じゃないと思えるようになりました」
旦那様は俺を見たまま、ゆっくり頷いた。
「オリビアは?」
「私は……嬉しいとは違います。でも、少し安心しました」
「理由は?」
「ライゼルが、自分は私の言葉を聞いていなかったと認めたからです」
「そうか」
「だから、今は会ってみたい気持ちがあります」
リビアが自分から言った。
俺も続ける。
「俺もです」
「決めたのか?」
「まだ」
「まだです」
また同時だった。
旦那様の口元が少し緩む。
「なら、それでいい」
「それだけ?」
「それだけだ」
「いつ決めるか聞かないんですか?」
「聞いた方がいいか?」
「……いや」
「なら聞かん」
今日だけで何度目だろう。
急かされない。
それが少しずつ普通になってきた。
◇
夕食後しばらくして、リビアが俺の部屋へ来た。
今日は本を持っていない。
いつもなら何か一冊抱えていることが多いから、それだけで本当に今日は読む気がないのだと分かった。
「入っていい?」
「うん」
椅子を勧めようとしたら、リビアは窓際に置かれた小さなソファへ向かった。
「こっちでいい?」
「いいよ」
二人で並んで座る。
少し間を空けているけれど、馬車の時と同じくらい近い。
いつもなら俺が茶を淹れるところだが、夕食後に飲んだばかりだし、今日は何かをするために集まったわけでもない。
「休めた?」
リビアが聞く。
「うん。三くらいまで下がった」
「私は四」
「まだ高い?」
「考えてたから」
「面会?」
「うん」
「俺も」
昼間から何度も考えた。
会いたいのか。
会いたくないのか。
怖いのか。
何を言いたいのか。
何を聞きたいのか。
全部に答えが出たわけではない。
「セス」
「何?」
「今、会いたい?」
学園長室を出た直後なら、まだ考えたいと答えていたかもしれない。
馬車の中でも、正式には決めなかった。
屋敷へ帰って、少し休んで。
夕食を食べて。
今。
「うん」
思ったより自然に答えが出た。
「会ってみたい」
リビアが俺を見る。
その表情には驚きより、安心に近いものがあった。
「私も」
「じゃあ決める?」
聞くと、リビアはすぐには答えなかった。
窓の外へ目を向ける。
夜の庭には等間隔に灯りが点き、遠くで使用人が歩く影が見えた。昼間より静かな屋敷の中では、廊下を通る足音も時折聞こえる。
「……明日の朝まで待ちたい」
「何で?」
「一晩寝ても同じ気持ちか確かめたい」
「ああ」
それはいいと思った。
今は会いたい。
でも、今日はいろいろ聞いた直後だ。
安心した勢いで決めている可能性もある。
「じゃあ俺も」
「セスは今決めてもいいのよ?」
「でも、明日変わるかもしれない」
「うん」
「だったら朝でいい」
「うん」
そこで終わる。
明日の朝。
起きて。
それでも会いたいと思ったら。
学園へ伝える。
それくらいでいい。
「日程は先生たちに任せよう」
俺が言う。
「うん」
「俺たちが空いてる条件だけ言う」
「次の日があまり忙しくない方がいい」
「剣の予定は後から入れればいい」
「委員会も調整出来る」
「でも全部こっちに合わせてもらわない」
「うん」
「先生たちと部屋と、ライゼルの予定もあるし」
「そこは学園に任せる」
「うん」
自分たちで全部を決めない。
自分たちが決めるべきことと、先生たちへ任せることを分ける。
それも、最近少しずつ覚えたことだった。
「セス」
「何?」
「今日、手を繋がなかったね」
急に話が変わった。
「そうだな」
「嫌だった?」
「何が?」
「繋がないの」
「別に」
「私も」
「でも、ずっと近くにはいた」
「うん」
馬車でも隣だった。
今も同じソファに座っている。
廊下でも、手を繋がずに並んで歩いた。
「前は」
俺は少し考えながら続ける。
「手を繋ぐと、リビアがここにいるって分かる感じがしてた」
「今は?」
「繋がなくても分かる」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
リビアはもっと恥ずかしかったらしく、頬だけでなく耳まで赤くなっていた。
「セス」
「何?」
「最近、本当にそういうことを普通に言うようになったわね」
「変だった?」
「変じゃないけど……困る」
「何で?」
「嬉しいから」
「嬉しいならいいじゃん」
「セスは分かってない」
「何を?」
「それが分かってないの」
また分からないことが増えた。
でも、今すぐ答えを聞く必要はない。
「これも好きかも」
「何が?」
「手を繋がなくても、こうやって近くにいるの」
リビアが一度目を伏せ、それから少しだけ俺の方へ身体を寄せた。
肩が触れる。
「……私も」
「そっか」
「うん」
そのまま座る。
何か特別なことをするわけではない。
会話も少し途切れた。
でも、不思議と落ち着いた。
明日の朝。
たぶん俺たちは、ライゼルと会うかどうかを決める。
それは大きなことだと思う。
事件が起きたあの日から、ずっと続いていたものが少し先へ進む。
でも、会ったから終わるわけではない。
謝られたから許すとも限らない。
ライゼルが俺を好きになる必要もない。
俺がライゼルを友達だと思う必要もない。
リビアが自分の選択を理解させる必要もない。
ただ話す。
相手の言葉を聞く。
嫌なら止める。
分からなければ、そのまま持ち帰る。
それでいい。
「リビア」
「何?」
「明日の朝、俺がやっぱり会いたくないって言ったら?」
リビアは驚かなかった。
「それでいいと思う」
「リビアだけ会う?」
今度は少し考えた。
「その時、また考える」
「そっか」
「セスは? 私がやめたら?」
「俺もその時考える」
「一人で会うかもしれない?」
「分からない」
「うん」
「でも、リビアがやめるなら俺も絶対やめる、とは今決めない」
言ってから、少し変な感じがした。
以前の俺なら、リビアが行かないなら俺も行かないと、ほとんど考えずに答えていたはずだ。
リビアを守る。
リビアに合わせる。
それが正しいと思っていたから。
「私も」
リビアが答える。
「セスが行かなくても、私は会いたいと思うかもしれない」
「うん」
「嫌?」
少し考える。
心配はする。
ライゼルが過去に何をしたのか知っている以上、何も感じないわけではない。
それでも、今の面会はあの日と同じ状況ではない。
「心配はする」
「うん」
「でも先生いるし」
「うん」
「リビアも強いし」
「うん」
「だから、俺が嫌だから行くなとは言わない」
リビアがゆっくり笑った。
「ありがとう」
「まだ別々になるって決まってないけど」
「それでも」
肩がまた触れる。
俺はそのままにした。
ライゼルとの面会について話しているのに。
その話をしながら、俺たちは相手と同じ答えを出さなくてもいいことまで確認している。
婚約者だから一緒にいる。
でも、婚約者だから全部同じにする必要はない。
最近、そんなことを何度も知っている気がした。
「明日の朝だな」
「うん」
「起きてから決める」
「うん」
「朝食で話す?」
「二人で先に話したい」
「じゃあ馬車?」
「それでもいい」
「分かった」
そこまで決めて、今度こそ面会の話を終えた。
「本、明日読めるかな」
俺が言うと、リビアが笑う。
「面会の返事をした後に?」
「授業あるし、その後」
「疲れてなければね」
「うん」
「剣は?」
「明日はまだ入れない」
「サザリーとの勉強は?」
「明日決める」
「予定いっぱいね」
「でも全部、今決めなくていい」
「そうね」
リビアがソファの背へ少し身体を預ける。
俺も同じようにした。
明日の答えは、たぶんもう決まりかけている。
それでも、一晩置く。
会ってもいいと言われたから、すぐ会うのではない。
先生たちが準備したから、応えなければならないのでもない。
ライゼルが少し変わったから、許さなければならないのでもない。
俺たちが、自分で決める。
そのための一晩くらい、誰も急かさない。
俺自身も、もう急かさなくていい。
窓の外で夜風に木々が揺れた。
隣ではリビアが静かに座っている。
手は繋いでいない。
それでも、その距離は遠くなかった。
明日の朝になっても同じ気持ちなら、今度は俺たちの方から会ってみたいと伝えよう。
そう思いながらも、今夜のうちにそれを決定にはしなかった。
決められることと、今すぐ決めることは、同じではない。
それをようやく、俺は少しずつ分かり始めていた。




