第32話 今日は何も決まらない日のはずなのに、放課後の約束がまた増えました
翌朝、目を覚ました時に最初に思い出したのは、ライゼルのことではなかった。
薄いカーテン越しに差し込む朝日を眺めながら、昨夜リビアと読んでいた本の一節が頭へ浮かんだ。古い無属性結界に使われていた維持式の分離構造と、三層構成の結界術式が似ていたこと。あの後も二人で頁を行ったり来たりしながら、同じ部分について随分長く話した。
結局、答えは出なかった。
でも、それが嫌ではなかった。
「……今日は何も決まらない日か」
ベッドから起き上がりながら呟く。
学園側がライゼルと次の確認面談をするのは明日だ。結果を俺たちへ説明するのは、その翌日以降になる。
追加測定の日程も決まっていない。
交換実習の班分けも内容も決まっていない。
ライゼルと会うかどうかも、もちろん決まっていない。
こうして並べてみると、決まっていないことばかりだった。
以前の俺なら、たぶん少し落ち着かなかったと思う。予定が分からないなら確認したいし、危険があるなら先に潰したい。分からないことがあるなら、自分で調べてでも答えを出したかった。
今も気になるものは気になる。
ただ、今日すぐに答えが出ないものを、朝から全部抱えていても仕方がないことくらいは分かるようになった。
着替えを済ませ、いつものように身体を動かす。
軽い柔軟。
木剣を使わない足運び。
体幹を意識した基本動作。
剣を握りたい気持ちはあったが、昨日は放課後の面談で頭をかなり使った。身体に疲れは残っていないものの、今朝まで無理に何かを足す必要はない気がした。
「今日はここまで」
誰も見ていない庭で、自分に向かって言う。
時間を見ると、いつもより少し短い。
でも、足りない感じはしなかった。
屋敷へ戻ろうとしたところで、後ろから声が飛んできた。
「ずいぶん早いな」
振り返ると、朝の巡回を終えたらしいグレイヴが立っていた。執事服の上着をきっちり整えたまま、俺が使っていた場所と、何も持っていない両手を順番に見る。
「剣は?」
「今日はなし」
「理由は?」
「身体は平気だけど、昨日ちょっと頭使ったから。足運びだけでいいかなって」
「そうか」
「何?」
「いや」
グレイヴの口元がほんの少し緩む。
「何だよ」
「何も言っていない」
「絶対何か思っただろ」
「以前なら、身体に疲労がないなら予定通りすべて行う、と答えただろうと思っただけだ」
「……やっぱり思ってるじゃん」
「成長を確認している」
「毎回確認しなくていいよ」
「お前が毎回違うことをするからな」
それを言われると、返しにくい。
「今日は放課後に何か予定があるのか?」
「まだない」
「まだ?」
「イザークと剣やるかもしれないし、リビアが図書館行くなら俺も本読もうかなって思ってるし」
「オリビア様が図書館へ行くなら、お前も行くのか?」
「……あ」
言われて気づいた。
「何だ?」
「別に一緒じゃなくてもいいのか」
「私に聞くな」
「そうだった」
リビアが図書館へ行く。
だから俺も行く。
それが嫌なわけではない。むしろ、一緒に本を読むのは好きだ。
でも、昨日の昼に話したばかりだ。
俺には俺のやりたいことが増えて、リビアにもリビアのやりたいことがある。
「じゃあ学校で決める」
「そうしなさい」
「グレイヴ」
「何だ?」
「俺、今日ちょっと剣やりたいかも」
「それも学校で決めろ」
「はい」
グレイヴが先に屋敷へ戻っていく。
俺もその後を追いながら、少し笑った。
決まっていない。
でも、それは悪いことではないらしい。
◇
「セス、今日どうする?」
朝食を終えて馬車へ乗ると、リビアからほとんど同じことを聞かれた。
「今、それ考えてた」
「何を?」
「放課後」
「剣?」
「やりたいかも」
向かいに座ったリビアが少し嬉しそうに目を細める。
「イザークと?」
「まだ誘ってない。朝の時点では決めてなかったから」
「じゃあ、学園で聞くのね」
「うん。リビアは図書館?」
「行こうと思ってる」
「昨日の続き?」
「それもあるけど、少し別の資料も見たいの」
「何?」
「選択透過型の結界について」
その言葉だけで興味が湧いた。
「昨日の三層結界と関係ある?」
「直接同じものではないと思うわ。でも、古い結界術式には『何を防いで、何を通すか』を細かく指定する考え方があるでしょう?」
「雨だけ逸らして空気は通すみたいな?」
「そう。前に私が使ったものは、そこまで複雑な指定じゃないけど」
「古いのは違う?」
「資料によると、魔力反応や物質の性質を条件にしているものもあるみたい。ただ、記述が曖昧なのよ」
「見たい」
反射的に言ってから、今朝グレイヴと話したことを思い出した。
「あ」
「どうしたの?」
「俺、剣やりたいんだった」
「両方やれば?」
「時間あるかな」
「剣を一時間やって、その後に図書館へ来る?」
「それだとリビア待たせるだろ」
「私は本を読んでるわよ」
「でも」
「セス」
「何?」
「私、図書館で一人でも大丈夫よ?」
「知ってる」
「本当に?」
「……知ってるって」
リビアが笑っている。
「じゃあ、私は図書館。セスは剣術場。終わったら、まだ私がいたら来る」
「帰ってたら?」
「屋敷で会う」
「そっか」
「簡単でしょう?」
「うん」
言われてみれば、それだけだった。
「でも、一時間やるかはまだ決めてない」
「身体は?」
「疲労ゼロ。痛みゼロ。朝は軽く動いただけ」
「じゃあイザークに聞いてからね」
「うん」
俺は窓の外を見る。
今日は、俺とリビアが別々のことをするかもしれない。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
昨日もそうだった。
俺が剣を振っている間、リビアは委員会の仕事をしていた。終わった後に迎えに行って、そこで何をしていたのか聞いた。
別々に過ごした時間があっても、その後に話せばいい。
「セス」
「何?」
「ちょっと楽しそう」
「剣?」
「それも」
「じゃあ何?」
「分からない」
「分からないのかよ」
「セスが最近よく言うから、使ってみたの」
「便利だろ?」
「便利ね」
リビアが楽しそうに笑った。
◇
教室へ入ると、イザークはすでに来ていた。
自分の席で何かを書いていたが、俺を見つけると手を止める。
「おはよう」
「おう。昨日どうだった?」
いきなり聞かれた。
でも、声は小さい。
近くには何人か生徒がいるが、わざわざ聞き耳を立てるような雰囲気ではない。
「少し変わってた」
「誰が?」
「ライゼル」
「へえ」
「でも、まだ会うとかは決まってない」
「そっか」
イザークはそれ以上聞かなかった。
俺は自分の鞄を置いてから、その机の横へ立つ。
「今日、剣やる?」
「やる」
「即答?」
「お前から誘ってくると思ってなかったからな」
「何で?」
「一昨日やったばっかりだろ」
「駄目?」
「駄目じゃない。むしろやりたい」
「じゃあ放課後」
「一時間?」
「今日は四十五分くらいにする?」
「何で減った?」
「その後、図書館行くかもしれない」
イザークの顔が少し変わる。
「パウリー嬢?」
「いると思う」
「なるほど」
「何だよ」
「いや。婚約者のところへ行く時間を残すわけか」
「本読みたいだけだぞ」
「一緒に?」
「たぶん」
「十分じゃないか」
「何が?」
イザークは答えず、近くで話を聞いていたミリアナが笑った。
「クルセス君、最近放課後忙しいね」
「そう?」
「剣術練習したり、図書館行ったり、委員会まで迎えに行ったり」
「委員会はリビアのだよ」
「迎えに行ったんでしょう?」
「約束したから」
「それが忙しいって言ってるの」
ナナリーも席へ来る。
「でも、よいのではないでしょうか。以前より学園生活を楽しんでいらっしゃるように見えます」
「俺、前そんなに楽しくなさそうだった?」
「最初は……」
ナナリーが困った顔になる。
「何?」
「お嬢様の護衛として学園へいらしているのかと思っていました」
「婚約者なんだけど」
「今は分かっております」
「今は?」
ミリアナが吹き出した。
「だって最初のセス君、完全に執事だったもん」
「今も執事だよ」
「そうじゃなくて」
「何が違うの?」
「そこから説明しないと駄目?」
「分からないから聞いてる」
ミリアナがナナリーを見る。
ナナリーは少し考えた後、首を横へ振った。
「私には難しいです」
「逃げた」
「クルセス様へ恋愛のお話を説明する自信がありません」
「何で恋愛になるんだよ」
「ほら」
ミリアナに言われても分からない。
「朝から何を騒いでいる」
後ろから聞き慣れた声がした。
アルフォルド殿下だった。
その隣にはカイゼル殿下とサザリーもいる。
「クルセスが学園生活を楽しんでるって話」
イザークが簡単に説明する。
「それで何で騒ぎになる?」
アルフォルド殿下が不思議そうに聞く。
「婚約者のところへ行くために剣術練習を四十五分で切り上げるらしい」
「本読むだけだって」
「ほう」
カイゼル殿下が面白そうな顔をする。
「何ですか?」
「いや。随分と自然になったものだと思ってね」
「何が?」
「婚約者との時間を自分の予定として組み込むことが」
「婚約者なんだから普通じゃないですか?」
一瞬。
周りが静かになった。
「……何?」
俺が聞くと、サザリーが額へ手を当てる。
「クルセス。それを半月ほど前の自分に聞かせてやれ」
「半月前?」
「『婚約者として何をすればいいか分からない』と言っていた頃だ」
「ああ」
そういえば。
「今も全部は分からないよ」
「そういう話ではないと思うが」
「では何です?」
「自分で考えろ」
「サザリーまでそれ言うようになった」
「誰の影響だと思っている」
リビアが隣で笑っている。
「それで」
アルフォルド殿下が俺を見る。
「剣術練習をするのか?」
「はい。イザークと」
「そうか」
ほんの少しだけ残念そうに見えた。
俺は一昨日の約束を思い出す。
「殿下も来ます?」
「いいのか?」
「前に今度って言ったでしょう」
「覚えていたのか」
「覚えてますよ」
アルフォルド殿下の表情が明るくなる。
「なら参加しよう」
「四十五分ですけど」
「構わない」
「殿下、本当に来るんですか?」
イザークが少し緊張した顔になる。
「何だ。不都合か?」
「いや、不都合じゃないですけど……第一王子殿下と放課後に剣振ることになるとは思ってなかったんで」
「学園では同じ生徒だ」
「そう言われても」
「俺も最初そうだった」
「お前は慣れるの早すぎるんだよ」
「そう?」
「お前、今普通に『殿下も来ます?』って誘ったぞ」
「駄目だった?」
「駄目じゃないけど」
イザークは複雑そうな顔をした。
「僕も見に行こうかな」
カイゼル殿下が言う。
「剣やるんですか?」
「いや。今日は見学」
「何で?」
「面白そうだから」
「なら俺も行こう」
サザリーまで言い出した。
「サザリー、剣やるの?」
「基礎程度ならな。ただ今日は見ている」
「じゃあ人数増えた」
「増えたわね」
リビアが言う。
「リビアは図書館だろ?」
「そうよ」
「来ない?」
何となく聞いた。
リビアが目を瞬く。
「いいの?」
「何で?」
「図書館へ行くって言ったから」
「予定変えてもいいだろ」
「でも、セスは?」
「俺?」
「私が見に行ったら嬉しい?」
その聞き方はずるいと思う。
「……嬉しい」
「じゃあ最初だけ見る」
「図書館は?」
「その後行く」
「時間足りる?」
「全部調べ終える必要はないでしょう?」
「あ」
それもそうだ。
今日全部やらなくてもいい。
「じゃあ決まりね」
リビアが笑う。
気づけば、放課後の予定が随分増えていた。
剣を振る。
リビアが少し見る。
アルフォルド殿下も参加する。
カイゼル殿下とサザリーは見学。
その後、時間があれば図書館。
「何か多くない?」
「お前が誘ったんだろ」
イザークに言われた。
確かにそうだった。
◇
午前の授業が終わり、昼休みになる頃には、放課後の剣術練習の話が少しだけ広がっていた。
第一王子が参加するからだ。
といっても、大騒ぎになるほどではない。アルフォルド殿下は普段から剣術の授業を受けているし、学園内で自主練習をすること自体も珍しくない。
ただ。
「クルセスと殿下がまた試合するのか?」
「いや、イザークもいるらしいぞ」
「この前イザークが一本取ったって聞いたけど」
「本当に?」
「剣術担当の先生が褒めてた」
教室のあちこちからそんな話が聞こえてくる。
「広がってる」
俺は昼食を食べながら呟いた。
今日は東棟の庭ではなく、教室で皆と食べている。
「昨日あれだけ気にしてたからな」
イザークが少し得意そうに笑う。
「一本だけだろ」
「一本は一本だ」
「次は取られない」
「俺も同じ手は使わない」
「じゃあ別ので来る?」
「当たり前だ」
思わず笑う。
楽しい。
まだ剣も握っていないのに、どうやって来るのか考えるだけで面白かった。
「セス」
隣のリビアが俺を見る。
「何?」
「顔」
「何?」
「すごく楽しそう」
「うん。楽しみ」
今度はすぐに答えられた。
リビアが嬉しそうに微笑む。
「よかった」
「何が?」
「前なら、放課後に剣を振るのも『訓練』って言ってたでしょう?」
「訓練でもあるよ」
「でも、今は?」
「遊びも入ってる」
「うん」
「負けたくないけど」
「そこは変わらないのね」
「勝負なんだから勝ちたいだろ」
「俺も同意する」
アルフォルド殿下が向かいから口を挟む。
「今日、クルセスと打ち合えるのか?」
「イザークが先ですよ」
「なぜだ?」
「俺が先に約束したからです」
イザークが緊張しながらも答える。
「なるほど。それなら仕方ない」
アルフォルド殿下が素直に引いた。
イザークが少し驚いている。
「殿下」
「何だ?」
「もっと『俺が先だ』とか言うかと思ってました」
「私を何だと思っている?」
「第一王子?」
「身分の話ではない」
周囲から笑いが起こる。
「それなら」
俺は考える。
「最初にイザークと俺。次に殿下とイザークは?」
「俺!?」
イザークが声を上げた。
「嫌?」
「嫌じゃないけど!」
「では受けよう」
アルフォルド殿下が即答する。
「待ってください、心の準備が」
「放課後まである」
「そういう問題じゃないです!」
今度は俺も笑った。
「セス、楽しそうね」
「うん」
「私、図書館へ行かなくてもいい気がしてきた」
「見てる?」
「迷う」
「別の日でも資料は逃げないだろ」
「そうね」
リビアが少し考える。
「じゃあ今日は見る」
「いいの?」
「私が見たいから」
「そっか」
その答えなら、俺が気にする必要はない。
「ただし」
「何?」
「四十五分は守ってね」
「分かってる」
「三人になると延びそうだから」
「あ」
俺とイザークとアルフォルド殿下が顔を見合わせる。
「……確かに」
イザークが言う。
「時間管理は必要だな」
アルフォルド殿下まで真面目に頷く。
「では私が測ろう」
サザリーが言った。
「何で?」
「お前たち三人へ任せるより確実だからだ」
「信用ないな」
「剣を持ったお前たちに時間管理の信用があると思うか?」
反論出来ない。
「四十五分」
リビアが念を押す。
「はい」
俺が答える。
「おう」
イザークも。
「分かった」
アルフォルド殿下まで。
カイゼル殿下が腹を抱えて笑っていた。
◇
午後の授業を終え、俺たちは第二剣術訓練場へ向かった。
一昨日と同じ場所だ。
西へ傾き始めた日差しが高い窓から差し込み、磨かれた床の一部を明るく照らしている。壁際には木剣や防具が並び、別の場所では上級生が二人、教師の指導を受けながら型を確認していた。
今日は人数が多い。
俺。
イザーク。
アルフォルド殿下。
リビア。
カイゼル殿下。
サザリー。
さらに話を聞いたミリアナとナナリーまで、「少しだけ」と見に来ている。
「増えすぎじゃない?」
俺が言うと、イザークが肩をすくめる。
「お前と第一王子殿下がやるって聞いたら、そりゃ見たいだろ」
「普通の練習なのに」
「お前の普通は信用されてない」
「最近ちゃんと普通だよ」
「昨日一本取られたしな」
「それ関係ある?」
「ある」
「ないだろ」
「始める前から喧嘩するな」
剣術担当の教師が呆れた声を出した。
一昨日も見ていた先生だ。
「今日はアルフォルド殿下も参加されると聞いています」
「ああ。通常の自主練習として扱ってくれ」
「承知しました。特別扱いはいたしません」
「その方がいい」
アルフォルド殿下が木剣を受け取る。
俺とイザークも自分に合うものを選んだ。
「条件は?」
先生に聞かれる。
「魔術なし。迅雷撃破なし。授業で認められてる身体強化だけ。一撃で自己申告」
俺が答える。
「一昨日と同じだな」
「はい」
「アルフォルド殿下も?」
「問題ない」
「無理に勝敗をつける必要はありません。危険だと判断したらこちらで止めます」
「はい」
三人で答える。
サザリーが壁際の時計を確認した。
「開始から四十五分だ。準備と片付けも含めるのか?」
俺はリビアを見る。
「含める」
先に答えたのはリビアだった。
「厳しくない?」
「終わってから片付ける時間を予定外にするつもり?」
「……含めます」
「よろしい」
「やっぱり先生みたい」
「婚約者です」
「それ便利だな」
先生が笑いを堪えている。
周囲の上級生までこちらを見ていた。
「まず準備運動からだ」
教師の声で、俺たちは散る。
身体を温めながら、俺は目の前の時間へ意識を切り替えた。
ライゼルの次の面談は明日。
結果はその後。
今考えても変わらない。
だったら今は、剣を振ればいい。
◇
最初は基本動作を合わせた。
一昨日、イザークと練習した力を受け流す動きも確認する。
「そこ、また使うのか?」
イザークが笑う。
「使うよ。でも今日は使いすぎない」
「反省した?」
「した」
「素直だな」
「同じのでまた取られたら悔しいから」
「結局そこか」
木剣を合わせる。
イザークの押し込みに対して、正面から受けず、角度をずらす。
前回より小さく。
必要な時だけ。
「今のは?」
「悪くない」
「何点?」
「八十」
「お前、パウリー嬢の真似気に入ってるだろ」
「分かりやすいから」
「俺は採点される側だから嫌なんだけど」
「じゃあ九十」
「上げればいいわけじゃない!」
見学していたリビアが笑っている。
「セス」
「何?」
「今のは七十五点」
「下がった!」
「受け流した後、足が少し残ってた」
「見てた?」
「見てた」
「じゃあもう一回」
イザークが呆れた顔をする。
「誰と練習してるんだよ」
「イザーク」
「なら俺を見ろ!」
「ごめん」
周囲から笑いが起こった。
でも、次はちゃんとイザークを見る。
打ち込み。
受け。
足。
重心。
剣だけではなく、肩や腰の動きも読む。
一昨日とは少し違う。
イザークも、俺が何を見るのか知っている。
だから、肩の動きと剣の軌道をわざとずらしてくる。
「それいいな」
「言うなよ!」
「何で?」
「試合中に褒められると調子狂う!」
「でも上手い」
「黙れ!」
木剣が重なる音が響く。
楽しい。
純粋にそう思った。
「では、一度やるか?」
教師が言った。
俺とイザークが同時に距離を取る。
「一本?」
「ああ。ただし今日は、その後に殿下との練習もある。長引かせるな」
「はい」
「分かりました」
開始位置へ立つ。
イザークの顔つきが変わる。
さっきまで笑っていたのに、木剣を構えた瞬間、目が真っ直ぐ俺へ向く。
俺も構える。
一昨日は、俺が新しく覚えた受け流しへ意識を向けすぎた。
今日は違う。
一つの技にこだわらない。
イザークが踏み込む。
最初の一撃は浅い。
受ける。
次が来る。
今度は強い。
流す。
でも追わない。
イザークが一歩引く。
俺も無理に詰めない。
周囲が静かになる。
木剣の音が止まった一瞬に、自分の呼吸が聞こえた。
イザークの左足が少し動く。
来る。
そう思った瞬間、上半身が逆へ揺れた。
また誘いか。
俺は踏み込まずに待つ。
「ちっ」
イザークが小さく舌打ちする。
「今の前と似てた」
「分かってる!」
そこから本当に来た。
今度は正面。
木剣を合わせる。
力がぶつかる。
流せる。
でも流さない。
半歩だけ下がり、剣先を外す。
イザークの身体が前へ出る。
俺は横へ回る。
木剣の先を肩へ。
触れる直前。
イザークの剣が下から跳ね上がった。
「うわ」
避ける。
肩への一撃は入らない。
「狙ってた?」
「当たり前だ!」
イザークが追う。
俺も下がる。
でも今度は、下がりながら剣を返した。
木剣の先が、イザークの腕へ軽く触れる。
「……あ」
止まる。
「一本」
教師の声が響いた。
一拍遅れて、見ていた生徒たちから拍手が起こる。
「取った!」
ミリアナの声まで聞こえた。
俺は息を吐き、剣を下ろす。
「よし」
「くそー!」
イザークが悔しそうに頭を抱える。
「一対一」
「通算にするな!」
「次決着?」
「やる!」
「今日はやらないぞ」
教師に止められた。
「分かってます」
俺たちは笑いながら木剣を下げる。
「イザーク」
「何だよ」
「最後の跳ね上げ、危なかった」
「当てたかった」
「次使って」
「言われなくても使う」
握手する。
一昨日は悔しかった。
今日は勝てた。
でも、勝ったことだけが嬉しいわけではない。
次にイザークが何をしてくるのか。
それを考える方が、もっと楽しみだった。
「次は私とイザークだったな」
アルフォルド殿下が立ち上がる。
「本当にやるんですね……」
イザークの顔から笑みが消えた。
「疲れているなら休んでもいい」
「やります!」
「無理はするな」
「クルセスに勝った後で殿下から逃げたって言われたくないです」
「俺は言わないぞ」
「周りが言う!」
「確かに」
「納得するな!」
また笑いが起きた。
◇
アルフォルド殿下とイザークの一本勝負は、思っていたより長く続いた。
殿下は前に俺と打ち合った時と同じく、相手を動かしてから取る。
自分から強引に崩さない。
剣先。
足。
視線。
少しずつ相手へ選択させ、その先に自分の狙いを置く。
イザークも最初は慎重だった。
でも、何度か誘われるうちに少しずつ前へ出る。
「行くな」
俺は思わず小さく言った。
「聞こえてるぞ」
カイゼル殿下が隣で笑う。
「だってあれ、殿下の間合いです」
「分かるのかい?」
「前にやったから」
「では、イザーク君も一度やれば覚えるさ」
「一本取られた後で?」
「経験とはそういうものだよ」
言った直後だった。
イザークが踏み込む。
アルフォルド殿下が半歩引く。
追う。
さらに半歩。
イザークの剣が伸びる。
その瞬間、殿下の身体が横へ外れた。
木剣が滑るようにイザークの剣を逸らし、そのまま肩へ向かう。
でも。
「っ!」
イザークが強引に身体を捻った。
肩への一撃を避ける。
完全ではない。
制服の布を木剣の先が掠めた。
「まだだ!」
イザークが剣を返す。
殿下が目を見開く。
ほんの一瞬。
イザークの剣先が、殿下の胸元へ伸びた。
届く。
そう思った。
でも、最後に殿下の剣が間へ入った。
乾いた音が響き、イザークの木剣が外へ弾かれる。
殿下の剣先が、その胸元へ止まった。
「一本」
教師が告げる。
周囲から大きな拍手が起きた。
「惜しい!」
俺も思わず声を出す。
イザークはしばらく動かなかった。
やがて大きく息を吐く。
「……全然見えなかった」
「最後か?」
アルフォルド殿下が剣を下ろす。
「はい」
「私も少し危なかった」
「本当ですか?」
「ああ。最初の回避は予想以上だった」
イザークの顔が少し明るくなる。
「でも負けた」
「なら次だ」
「次もやってくれるんですか?」
「もちろんだ」
アルフォルド殿下が手を出す。
イザークは一瞬迷った後、その手を握った。
「お願いします」
「ああ」
俺はそれを見ながら、何となく嬉しくなった。
殿下。
公爵令嬢。
伯爵家の養子。
普通の貴族家の生徒。
立場はいろいろ違う。
でも、今は同じ木剣を持って、次は勝ちたいと話している。
「セス」
隣へ来たリビアが俺を呼ぶ。
「何?」
「嬉しそう」
「今日それ何回目?」
「だって、本当にそう見えるもの」
「楽しいから」
「うん」
「リビアは?」
「楽しいわよ」
「剣やってないのに?」
「セスが楽しそうだから」
「それだけ?」
「イザーク君とアルフォルド殿下の試合も面白かったわ」
「だよな」
「それと」
「何?」
「セスが私を気にしないで剣を見てたのも、ちょっと嬉しかった」
「気にしてたよ」
「そうじゃなくて」
リビアは笑う。
「ずっと私の位置を確認してなかったでしょう?」
「あ」
言われて気づいた。
見学していることは知っていた。
でも、剣を合わせている間は見なかった。
「前なら?」
「もっと見てたかも」
「危なくないかとか?」
「うん」
「今日は?」
「先生いるし」
「うん」
「リビアなら自分で結界張れるし」
「うん」
「危なかったらカイゼル殿下たちもいる」
「うん」
「だから大丈夫だと思ってた」
リビアが目を細める。
「それ、嬉しい」
「何で?」
「信用してもらえてるから」
「前から信用してるよ」
「知ってる。でも、守ることと信用することが、前よりちゃんと別になってきた気がする」
俺は少し考える。
守りたい。
それは今も変わらない。
でも、リビアが何も出来ないとは思っていない。
むしろ、結界なら俺よりずっと上手い。
「リビア」
「何?」
「俺も守られるしな」
「うん」
「じゃあ同じか」
「そういうこと」
リビアが嬉しそうに笑った。
「そこ、婚約者同士の話は後にしてくれ」
サザリーの声が飛んできた。
「時間だ」
「え?」
時計を見る。
四十三分。
「まだ二分ある」
「片付けを含めて四十五分だ」
「あ」
「ほら」
リビアが笑う。
「片付けるぞ」
教師にも言われ、俺たちは木剣を戻す。
今日はちゃんと四十五分以内に終わった。
◇
訓練場を出る頃には、外の光が少し橙色に変わっていた。
身体疲労は二。
痛みなし。
魔力はほとんど使っていない。
イザークは疲労三。
アルフォルド殿下は二。
先生へ報告してから解散する。
「図書館は?」
俺がリビアへ聞く。
「今日はやめる」
「いいの?」
「うん。思ったより剣術が面白かったから最後まで見ちゃった」
「資料は?」
「明日か明後日」
「明日はライゼルの確認の日だけど」
「私たちは呼ばれてないでしょう?」
「そうだった」
「だから普通に過ごす」
「そっか」
「セスは?」
「俺?」
「図書館」
少し考える。
行きたい気持ちはある。
でも、今日は剣を振って満足した。
「今日は帰る」
「本は?」
「屋敷で読む」
「一緒に?」
「リビアが読みたいなら」
「読みたい」
「じゃあ一緒に」
「うん」
イザークたちは先に廊下を歩いている。
俺たちもその後を追う。
「クルセス!」
前からアルフォルド殿下が振り返った。
「次は私とも一本やるぞ」
「はい」
「いつだ?」
「まだ決めません」
「なぜだ?」
「今日決めなくてもいいからです」
殿下が少し黙る。
カイゼル殿下が笑い始めた。
「何ですか?」
「いや。君、その言葉を随分気に入ったね」
「便利なんですよ」
「確かに便利だが」
「次にお互い時間ある時でいいでしょう?」
アルフォルド殿下は少し考え、それから頷いた。
「分かった。では、その時に決めよう」
「はい」
「俺も次やるからな」
イザークが言う。
「分かってる」
「次は勝つ」
「俺も勝つ」
「両方勝つのは無理だろ」
「じゃあやって決める」
「そういうことだ」
また約束が増えた。
でも、日付は決めない。
今すぐ全部を予定表へ入れなくてもいい。
「私との剣は?」
隣からリビアが聞いた。
「あ」
「忘れてた?」
「忘れてない」
「本当に?」
「やるよ」
「いつ?」
「……また今度?」
「ふふ。分かった」
「リビアもそれでいいの?」
「いいわよ。楽しみは逃げないもの」
俺は少し笑った。
最近、待つことが増えた。
でも、それと一緒に楽しみも増えている気がした。
◇
正門を出る少し前、後ろからレイモンド先生に呼び止められた。
一瞬だけ、胸が固くなる。
ライゼルのことかと思った。
「クルセス、オリビア嬢」
「はい」
「何ですか?」
先生は俺たちのところまで来ると、手に持っていた書類を軽く上げた。
「先ほど、明日のライゼルとの確認面談について最終調整が終わった」
「明日ですよね?」
「ああ。予定通りだ」
「俺たちは?」
「来なくていい」
「はい」
「結果については、明日の面談終了後に整理する。二人への説明は早くても明後日だ」
「分かりました」
それだけらしい。
でも、レイモンド先生はすぐには去らなかった。
「もう一つ」
「何ですか?」
「明日の面談が予定通り行われても、結果によっては追加確認を行う可能性がある」
「じゃあ明日で終わらないかもしれない?」
「そうだ」
「分かりました」
俺は自然に答えた。
以前なら、どんな結果なら追加になるのか、いつまで続くのか、その場で細かく聞いたかもしれない。
でも、先生自身もまだ分からないのだろう。
「質問は?」
「今はないです」
俺が答える。
「オリビア嬢は?」
「私もありません」
「そうか」
レイモンド先生が少しだけ笑う。
「では、明日は普通に授業を受けなさい」
「言われなくても受けます」
「放課後に面談室の前で待っていたりするなよ」
「しませんよ!」
「クルセスなら少し前までやりかねなかった」
「……否定しにくい」
リビアが隣で笑っている。
「結果が出たら伝える。それまではこちらへ任せろ」
「はい」
先生が校舎へ戻っていく。
その背中を見送り、俺は息を吐いた。
「明日だね」
リビアが言う。
「うん」
「気になる?」
「気になる」
「私も」
「でも俺たち、やることない」
「うん」
「授業受けるだけ」
「放課後は?」
「どうする?」
「まだ決めない?」
「うん」
顔を見合わせる。
それから、ほとんど同時に笑った。
◇
帰りの馬車へ乗ると、身体を動かした後の心地よい疲れが少しずつ出てきた。
向かいではなく、今日はリビアが俺の隣へ座っている。
鞄から本を出そうとして、やめた。
「読まないの?」
「揺れるから」
「いつも読んでるでしょう?」
「今日は眠いかも」
「寝る?」
「屋敷までは起きてる」
「寝てもいいわよ」
「リビアは?」
「私は起きてる」
「じゃあ寝ようかな」
言ってから、自分でも少し驚いた。
馬車の中で寝る。
リビアが隣にいるのに。
護衛として考えるなら、たぶん以前の俺は絶対にしなかった。
「寝ていい?」
「もちろん」
「何かあったら起こして」
「うん」
「危なかったら」
「私が結界を張る」
「御者もいるし」
「護衛もいるわ」
「そっか」
目を閉じる。
でも、すぐには眠れなかった。
馬車の揺れ。
車輪の音。
隣にいるリビアの気配。
肩が少し触れる。
「セス」
「何?」
「眠れない?」
「まだ」
「頭、使ってる?」
「使ってない」
「じゃあ?」
「リビアが近い」
口にしてから、目を開けた。
リビアの顔が赤くなっている。
「……嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、そのままでいい?」
「うん」
また目を閉じる。
今度は、肩が触れていることを気にしないようにするのではなく、そのまま受け入れた。
少しすると、リビアの頭が俺の肩へ軽く乗った。
「リビア?」
「私も少し疲れた」
「寝る?」
「セスが寝たら」
「何で?」
「何となく」
「じゃあ寝る」
「うん」
俺は小さく息を吐く。
明日、ライゼルは先生たちと話す。
俺たちはそこにはいない。
何を聞かれるのか。
どう答えるのか。
前に言えたことを、もう一度自分の言葉で言えるのか。
気にならないわけではない。
でも、それを確認するのは先生たちの役目だ。
俺の役目ではない。
今日の俺は、授業を受けた。
友達と剣を振った。
一本取り返した。
アルフォルド殿下とイザークが戦うところを見た。
次の約束も出来た。
リビアが俺の剣を見ていた。
そして今、帰りの馬車で少し眠ろうとしている。
ライゼルの問題がまだ終わっていなくても、俺の一日はちゃんと俺のものだった。
「セス」
目を閉じたまま、リビアが小さく呼ぶ。
「何?」
「今日、楽しかった?」
「うん」
「私も」
「そっか」
「おやすみ」
「屋敷までだけど」
「それでも」
「……おやすみ」
馬車の揺れへ身体を預ける。
決まっていないことは、まだたくさんある。
でも、今日決めなくていいことを無理に決める代わりに、今日やりたいことを選ぶことは出来た。
明日もたぶん同じだ。
ライゼルの面談が行われている間も、俺たちは俺たちの一日を過ごす。
そして結果を聞く時が来たら、その時にまた考えればいい。
隣から伝わる温かさを感じながら、俺はいつの間にか、本当に眠りへ落ちていた。




