第31話 少し変わったと聞いたのに、それだけで会ってもいいとは決められません
翌朝、食堂へ入ると、窓の外には薄い雲が広がっていた。
雨が降るほど暗くはないものの、昨日までの明るい朝とは違い、庭を覆う光は少し白っぽい。開けられた窓から入ってくる風もひんやりしていて、テーブルへ並べられた温かいスープから立つ湯気が、いつもよりはっきり見えた。
「おはよう、セス」
「おはよう」
先に席へ着いていたリビアへ挨拶し、俺もいつもの場所へ座る。
旦那様はすでに新聞を読んでいて、グレイヴは使用人から朝食の準備について短い報告を受けていた。いつもと変わらない朝のはずなのに、椅子へ腰を下ろしたところで、俺は昨日の帰宅時に聞いたことを思い出した。
学園側とライゼル本人との面談は、予定通り行われた。
詳しい結果は今日聞く。
そこまで考えたところで、向かい側のリビアと目が合った。
「思い出した?」
「うん」
「私も」
リビアはそう言ってから、パンへ手を伸ばした。声に強い緊張はなかったが、指先がほんの少しだけ止まったのを見て、まったく気にしていないわけではないことは分かる。
「緊張は?」
「朝から聞くの?」
「最近よく聞かれるから」
「先生みたいになってきたわね」
リビアは困ったように笑った後、少しだけ考え込んだ。
「三くらい。セスは?」
「二か三」
「どっち?」
「まだ分からない」
「それでもいいんじゃない?」
「そっか」
数字にし始めた頃は、ちゃんと一つに決めないと意味がないと思っていた。でも、別に測定器で測っているわけではない。今の自分が落ち着いているのか、疲れているのか、それを考えるための目安なら、二と三の間でも困らない。
「二人とも」
新聞を畳んだ旦那様がこちらを見る。
「学園から昨夜届いた連絡については、グレイヴから聞いたな?」
「はい」
「聞きました」
「詳細について、こちらから先に問い合わせることはしていない。学園が今日二人へ説明するということだったからな」
旦那様の言葉に、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
もしかしたら旦那様なら、俺たちより先に詳しい内容を聞いているのではないかと思っていた。でも、昨日のグレイヴと同じように、先回りはしていないらしい。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではない。お前たち自身に関わる話だ」
旦那様はそこで一度リビアへ目を向け、それから俺にも視線を戻した。
「ただし、聞いた後で相談したくなったなら、私でもグレイヴでも構わん。今日中に答えを出す必要があると思うな」
「はい」
リビアが先に頷き、俺も続いた。
今日、話を聞く。
それだけだ。
何度も言われてきたことなのに、朝にもう一度確認すると少し安心する。
「それで、セス」
今度はグレイヴが俺を見る。
「何?」
「今日は放課後の予定を入れているのか?」
「入れてない」
「そうか」
「イザークとも剣の約束してないし、サザリーとの課題もまだ日を決めてない。リビアは?」
「私も今日は図書館へ行かないわ。昨日借りた本もまだ途中だし」
「俺の本は?」
「昨夜少し読んだわよ」
「どこまで?」
「朝食中に始める話ではない」
グレイヴに止められた。
「ちょっとだけなのに」
「その『ちょっと』から属性変換の話へ進むだろう」
「進むかも」
「食事をしなさい」
「はい」
リビアが口元を押さえて笑っている。
俺もパンを取った。
今日、ライゼルの話を聞く。
でも、それまでは普通に朝食を食べて、学園へ行けばいい。
昨日一日で覚えたことを、今日も忘れなくていいらしい。
◇
学園へ向かう馬車の中では、昨日交換した本の話をした。
ライゼルの話ではない。
リビアが読んだ五属性魔術の研究書には、単一属性しか持たない術者でも、魔力を術式へ流し込む直前にわずかな性質変化が起こるという古い説が載っていたらしい。ただし、それが俺のような複数属性持ちの変換と同じなのかは分からず、研究者自身も結論を出していない。
「だから、昨日の話と合わせると気になるの」
向かいに座るリビアが、膝の上で指を組みながら言う。
「無属性に近い基礎魔力へ結界側から干渉出来るなら、属性へ変わる前のところへ触れられる可能性があるでしょう?」
「でも試さない」
「試さないわよ」
「確認」
「セスこそ試さないでね」
「試さないって」
「昨日、本を読みながらすごく興味ありそうな顔してたもの」
「興味はあるよ」
「私もある」
「じゃあ同じじゃん」
「だから二人とも危ないの」
リビアが真顔で言うので、俺は少し笑った。
「先生に聞けばいいだろ」
「うん。ベルナルト先生とエレナ先生に」
「次の追加測定、いつだろ」
「まだ決まってないわね」
「今日聞く?」
「今日の話が終わった後で、余裕があればね」
「そっか」
俺は窓の外へ目を向けた。
街路には朝の人通りが増え始めていて、商店の前では店員が看板を出し、荷車がゆっくり道を進んでいる。学園へ近づくにつれて制服姿の生徒も増え、その中に知っている顔がいないか何となく探している自分に気づいた。
以前なら、学園へ向かう途中で探すのはリビアの安全に関係するものばかりだった。
怪しい人はいないか。
馬車の進路に危険はないか。
周囲に変な魔力はないか。
今も確認はする。
でも、それだけではなくなった。
イザークが歩いていないか。
アルフォルド殿下たちの馬車が来ていないか。
ナナリーやミリアナがいないか。
そういうものも見るようになった。
「セス」
「何?」
「今日の説明、何時かしら」
「放課後ってだけ聞いてる」
「そうよね」
「気になる?」
「少し」
「俺も」
リビアが小さく息を吐く。
「でも、授業は授業ね」
「うん」
「今日は魔術理論あったでしょう?」
「ある」
「寝ないでね」
「寝たことないだろ」
「セス、興味ある内容だと前のめりになりすぎるから、逆の意味で心配してるの」
「何を?」
「先生へ質問しすぎて授業を止めないか」
「……そんなにしてない」
「ベルナルト先生の授業で三回続けて質問したでしょう?」
「あれは必要だった」
「そういうところ」
リビアが笑う。
馬車は学園の正門へ近づいていく。
今日の結果がどうであっても、その前に授業がある。
俺たちの一日は、ライゼルのためだけにあるわけではなかった。
◇
午前の魔術理論では、複数の術式を連続使用する際の魔力効率について扱った。
ベルナルト先生はいつものように黒板へ術式図を描きながら、同じ属性の魔法を続けて使う場合と、異なる構成の術式を切り替える場合では、術者にかかる負担が変わると説明していく。
「重要なのは、単純な消費魔力量だけではありません」
細長い指で黒板を軽く叩き、先生が教室全体を見渡した。
「一つの術式を維持したまま別の術式を構築するのか。一度完全に解除してから次へ移るのか。それによって必要となる制御が異なります。魔力量に余裕があるからといって、複数の処理を無制限に並行出来るわけではありません」
俺はそこで、昨日リビアから聞いた古い多層結界を思い出した。
外側。
内側。
干渉防止。
反動軽減。
それぞれ別の術式なら、同時に維持する負担はどうなるのか。
手を挙げようとして、止める。
隣からリビアの視線を感じた。
「何?」
小声で聞く。
「今、古い結界のこと考えたでしょう?」
「何で分かった?」
「顔」
「そんなに分かる?」
「私には」
少し嬉しそうに言われた。
前の席のイザークが振り返りかけたが、先生の視線に気づいてすぐ前へ戻る。
俺は改めて手を挙げた。
「先生」
「クルセス君」
「異なる機能の結界を三つ同時に維持する場合も、今の話と同じですか?」
ベルナルト先生の眉が少し上がった。
「なぜ急に三つなのです?」
「昨日、リビアが古い無属性結界の資料を見つけて」
「クルセス君」
「はい」
「授業後に聞きましょう」
「長くなりそうですか?」
「君の場合は、ほぼ確実に」
教室のあちこちから笑いが起きた。
俺も少し恥ずかしくなって手を下ろす。
「すみません」
「質問すること自体は悪くありません。ただ、今は全員が理解すべき基礎を先に進めます」
「はい」
授業へ戻る。
それからはちゃんと黙って聞いた。
途中、何度か別の疑問が浮かんだが、ノートの端へ書いておく。
授業が終わると、ベルナルト先生の方から俺たちを呼んだ。
「先ほどの質問ですが、資料を見ないことには何とも言えません」
「持ってきてないです」
「今日はそれで構いません。オリビアさん、どの年代の資料ですか?」
リビアが覚えている範囲で答えると、先生は少し考えるように顎へ指を当てた。
「その頃の無属性術式は、現代より機能分離が強いものが多かった時期ですね。三層を別々に維持するなら、単純な三倍ではありませんが、かなり高い制御能力を要求されたはずです」
「今の術式へ応用出来ますか?」
「可能性はあります。ただし、古式をそのまま再現しようとはしないこと」
「はい」
リビアがすぐ頷く。
俺も続いて頷いた。
「それと先生」
「まだありますか?」
「一個だけ」
「聞きましょう」
「変換前の魔力へ無属性結界から干渉する話なんですけど」
ベルナルト先生の表情が変わった。
さっきまでの穏やかな興味とは違う。
「誰かで試しましたか?」
「試してません」
「絶対に?」
「はい」
リビアも横から答える。
「昨日、可能性に気づいただけです。セスと二人では試さないと決めました」
先生の肩から少し力が抜けた。
「それなら結構です」
「やっぱり危ないですか?」
「危険かどうかも含めて、まだ分かりません」
ベルナルト先生は声を落とし、俺たち以外の生徒がほとんど教室を出たことを確認してから続けた。
「以前の測定で話した通り、クルセス君の五属性が一つの共通過程を経て変換されているなら、その前段階へ外部から干渉することで、複数属性へ同時に影響が出る可能性はあります。しかし、それはあくまで仮説です」
「じゃあ次の測定で?」
「検討はします。ただし、いきなり干渉試験はしません」
「何から?」
「まず、非侵襲的な観測方法を考えます」
「見るだけ?」
「最初はね」
先生の答えに、俺は少し納得した。
分からない。
だから試す。
ではなく。
分からない。
だからまず見る方法を考える。
最近、何にでも似た考え方が出てくる気がする。
「追加測定の日は?」
「現在調整中です。来月の実技確認との重複もありますから、無駄に同じ測定を繰り返さないようにします」
「分かりました」
「決まり次第伝えます。それまでは、自分で試さないように」
「はい」
「オリビアさんも」
「はい」
俺たちは教室を出た。
廊下へ出たところで、リビアが小さく笑う。
「聞けたわね」
「うん」
「今日、ライゼルの話だけじゃなくなった」
「朝からそうだっただろ」
「そうね」
次の授業へ向かう生徒たちの流れに混ざる。
今日の放課後には、たぶん少し重い話を聞く。
それでも午前中には、新しい疑問について先生へ聞けた。
そのことが、思っていたより嬉しかった。
◇
昼休みは、久しぶりにリビアと二人で東棟の庭へ行った。
最近は教室で皆と食べる日も増えたが、今日は朝のうちにリビアから「二人で食べたい」と言われていた。
空は朝より明るくなり、薄い雲の切れ間から柔らかな日差しが落ちている。庭の花壇では小さな白い花が風に揺れ、少し離れた場所では別の学年の生徒たちが数人、芝生の端で昼食を広げていた。
俺たちはいつものベンチへ並んで座る。
「今日はこっちなんだ」
「嫌だった?」
「全然」
「よかった」
リビアが包みを開く。
俺も昼食を取り出した。
しばらくは授業の話をした。
午前の応用史では、昔の街道整備と領地間の交易について扱った。昨日の領地経営課題と少し繋がる部分があり、俺がその話をすると、リビアは「本当に好きなのね」と笑った。
「セス、将来、領地経営も出来そう」
「俺が?」
「伯爵家の養子でしょう?」
「父さんの家はあるけど」
「継ぐかどうかは別としても、知っていて損はないでしょう?」
「まあ」
「執事以外に興味が出てきた?」
聞かれて、パンを持った手が少し止まる。
「執事やめたいわけじゃないよ」
「分かってる」
「でも、領地のこと考えるのは面白い」
「うん」
「剣も好きだし」
「うん」
「魔術も、最近もっと知りたい」
「うん」
「……増えたな」
「何が?」
「やりたいこと」
自分で言って、少し不思議だった。
以前は、やるべきことならたくさんあった。
執事の仕事。
剣。
魔術。
勉強。
リビアを守ること。
旦那様やグレイヴの役に立つこと。
でも、やりたいことと聞かれると、よく分からなかった。
今は少し違う。
「いいことじゃない?」
「たぶん」
「私は嬉しいわ」
「何で?」
「セスが自分のために時間を使えるから」
リビアの声は穏やかだった。
前なら、そこで俺は「でもリビアの方が大事」と言っていたかもしれない。
今も大事なのは変わらない。
でも、だから自分のやりたいことを全部捨てる必要はない。
「リビアも結界の研究したいだろ?」
「したい」
「じゃあ同じだな」
「うん」
少し風が吹き、リビアの銀青色の髪が頬へかかる。
彼女は指でそれを耳へ掛けてから、俺を見た。
「セス」
「何?」
「放課後のこと、今はどれくらい気になってる?」
来た。
午前中はあまり考えていなかった。
でも、昼になって残り時間が短くなると、少しずつ意識するようになってきた。
「四くらい」
「緊張?」
「気になる方」
「緊張は?」
「三」
「私は四かな」
「上がった?」
「少し」
「怖い?」
「少しだけ」
リビアは視線を膝の上へ落とした。
「昨日、先生たちがライゼルと話したでしょう?」
「うん」
「もし、『会っても大丈夫そうです』って言われたら、私、たぶん迷うと思う」
「会いたいって言ってたのに?」
「言ったわ」
「変わった?」
「会いたい気持ちはある。でも、『大丈夫そう』って聞いた瞬間に、本当に会うところを想像すると思うの」
「ああ」
何となく分かる。
会うかもしれない。
と。
会える状態になった。
は、少し違う。
「怖くなったら、やめる?」
「分からない」
「そっか」
「セスは?」
「俺も分からない」
俺は素直に答えた。
「昨日は会ってみようかなって思ってた」
「うん」
「今も、それはある。でも、今日の話聞いたら変わるかもしれない」
「うん」
「逆に、もっと会ってもいいと思うかもしれない」
「うん」
「だから聞いてから」
リビアが少し笑う。
「同じね」
「最近多いな」
「何が?」
「二人とも分からないって言うの」
「前は違った?」
「俺は何でも大丈夫って言ってた」
「私はセスに合わせようとしてたかも」
「じゃあ今の方がいい?」
「私は好きよ」
心臓が一つ、少し強く鳴った。
リビアは続ける。
「今の方が」
「ああ」
そっち。
分かっていたはずなのに、一瞬だけ別の意味に聞こえた。
「どうしたの?」
「何でもない」
「顔赤い?」
「日差し」
「セス、昨日私に同じこと言ったわよね?」
「……言った」
「ここ、木陰よ」
「知ってる」
リビアが俺の顔を覗き込む。
近い。
「セス?」
「近いって」
「どうして赤くなったの?」
「分からない」
「本当に?」
「……今は聞くな」
リビアが止まる。
それから、頬を少し赤くしながら元の位置へ戻った。
「分かった」
追及しない。
でも、嬉しそうだ。
俺は残っていたパンを食べる。
味はちゃんと分かる。
ただ、さっきより心臓が少し速い。
緊張の数字を聞かれたら、ライゼルとは別の理由で一つ増えている気がした。
◇
午後の授業が終わった。
教室の時計の針が進む音が聞こえた気がしたのは、たぶん意識しすぎていたからだ。
帰り支度をする生徒たちの声が重なり、部活動へ向かう者たちが次々と廊下へ出ていく。俺も教科書を鞄へ入れたが、昨日のように剣術練習の準備をする必要はない。
「今日だっけ?」
イザークが自分の机から声をかけてきた。
「うん」
「結果聞くの」
「そう」
「そっか」
イザークは少しだけ迷った後、俺の肩を軽く叩いた。
「じゃあまた明日な」
「うん」
「剣は?」
「明日の状態見てから」
「分かった」
昨日までなら「やろうぜ」と先に誘っていたイザークも、それ以上は言わない。
「クルセス様」
ナナリーも鞄を抱えながらこちらを見る。
「今日は、お帰りになった後にゆっくり出来るとよいですね」
「うん。ありがとう」
「パウリー様も」
「ありがとう」
ミリアナは何も詳しく聞かず、「また明日ね」と手を振った。
それがありがたかった。
心配されるのが嫌なわけではない。
でも、毎回深刻な顔で送り出されるより、明日も普通に会う前提で「また明日」と言われる方が、今は落ち着く。
「行こうか」
リビアが俺を見る。
「うん」
教室を出る。
今日は、すぐには手を繋がなかった。
廊下にはまだ生徒が多く、窓の外から運動場へ向かう声も聞こえる。俺たちはその流れから少し外れ、学園長室のある校舎へ向かった。
「セス」
「何?」
「緊張、上がった」
「俺も」
「いくつ?」
「四」
「私、五」
「手、いる?」
聞く。
リビアは一瞬俺を見た。
「……今日は、今は大丈夫」
「そっか」
「でも、聞いた後に欲しくなるかも」
「分かった」
それでいい。
手を繋がないから遠いわけではない。
俺たちは肩が触れそうな距離で並んだまま、静かな廊下を進んだ。
◇
学園長室へ入ると、前回と同じ三人が待っていた。
オズワルド学園長。
レイモンド先生。
エレナ先生。
机の上には数枚の書類が置かれている。前回より枚数は少ないが、一枚だけ別に置かれた紙があることに気づいた。
「来たか。座りなさい」
「失礼します」
「失礼いたします」
俺とリビアは並んでソファへ座る。
エレナ先生はすぐに話を始めず、俺たちの顔を順番に見た。
「先に状態確認。クルセス」
「身体疲労ゼロ。魔力疲労ゼロ。痛みなし。緊張四くらいです」
「オリビア嬢」
「身体は問題ありません。緊張五です」
「朝から変化は?」
「少し上がりました」
「理由はこれから聞く内容?」
「はい」
「分かりました」
エレナ先生が頷く。
今日はそこで終わった。
同じ確認でも、以前ほど「また聞かれた」とは思わなくなった。今の自分がどういう状態で話を聞くのか、先生たちも知っていた方がいいのだろう。
「では始めよう」
オズワルド学園長が手元の書類を一枚取った。
「昨日、予定通りライゼル・シュザー本人との面談を行った。出席者は私、レイモンド、エレナ、記録担当者一名。ライゼル本人だ。シュザー家当主は同席していない」
「はい」
前に聞いていた通りだ。
「最初に結論だけ言う。昨日の面談だけを理由に、我々は『もう問題ない』とは判断していない」
俺の肩が少し下がった。
安心したのかもしれない。
自分でも意外だった。
「ただし、以前とまったく同じでもない」
今度は少し身体が固くなる。
「何が変わったんですか?」
俺が聞くと、学園長はレイモンド先生へ視線を向けた。
先生が手元の記録を開く。
「まず、我々はライゼルに、事件当日のことを改めて説明させた」
「また?」
「ああ。ただし、今回は少し方法を変えた」
「どうやって?」
「『事実として起きたこと』と、『その時、自分が考えていたこと』を分けて話させた」
俺は少し考える。
「分ける?」
「例えば、『オリビア嬢がクルセスに惑わされていた』というのは事実か、当時のライゼルの考えか」
「ああ」
分かった。
前は混ざっていた。
ライゼルの中では、自分がそう思ったことが、そのまま事実になっていた。
「最初はかなり詰まった」
レイモンド先生が続ける。
「何度か、『それは起きたことか、お前がそう考えたことか』と確認する必要があった」
リビアが膝の上で手を組み直す。
「それで、出来たんですか?」
「全部ではない」
「……はい」
「だが、以前より分けられた部分はある」
先生が一枚の紙へ目を落とした。
「ライゼルが事実として挙げたものは、クルセスが編入してきたこと。オリビア嬢とクルセスが婚約していること。オリビア嬢本人がその婚約を望んでいると発言したこと。自分がクルセスへ攻撃魔法を使用したこと。周囲の生徒を危険へ晒したこと。最終的にフレイムストームを使用したことだ」
俺は黙って聞く。
少なくとも。
リビアが自分で婚約を望んでいると言った。
そこを、事実として言えた。
「以前は?」
リビアが尋ねる。
「以前は、『オリビア嬢はそう言わされている可能性がある』という話がすぐに続いた」
「今回は?」
「最初の事実確認の間は、続かなかった」
リビアの指が少し緩む。
「じゃあ、信じたんですか?」
俺が聞く。
「そこは違う」
エレナ先生が答えた。
「事実として『オリビア嬢がそう発言した』ことと、ライゼルがその内容を感情的に受け入れたことは別です」
「あ」
「彼は、オリビア嬢がそう言った事実そのものは否定しなかった。でも、その後に『なぜそう選んだのかは理解出来ない』と話した」
リビアの表情が少し曇る。
「まだ、セスに惑わされたと思っているんですか?」
「そこも聞いた」
エレナ先生は急がずに答える。
「以前のように、『クルセスが惑わせたに違いない』とは言わなかった」
「じゃあ?」
「『そうだと思っていた。でも、今は分からない』」
部屋が静かになった。
窓の外から、遠くで鳥が鳴く声が聞こえる。
「分からない……」
俺は小さく繰り返した。
「それ、前にも言ってましたよね?」
「ああ」
学園長が頷く。
「だから、その言葉だけなら大きな変化とは判断しない」
「違いがあるんですか?」
「今回は、なぜ分からないのかを聞いた」
「何て?」
レイモンド先生が記録を確認する。
「『オリビアが自分でクルセスを選んだと言っている。それを嘘だと決める根拠を、自分は持っていない』」
リビアが息を止めたのが分かった。
俺もすぐには言葉が出なかった。
「……それ、ライゼルが?」
「そうだ」
「本当に?」
「記録にも残っている」
俺は少しだけ身体を前へ傾ける。
「じゃあ、俺が惑わせてるっていうのは?」
「続きがある」
レイモンド先生は俺を止めるように片手を上げた。
「その後、ライゼルは『それでも納得は出来ない』とも言った」
胸の中に生まれかけた何かが止まる。
「……納得出来ない?」
「ああ」
「何が?」
「なぜオリビア嬢がクルセスを選ぶのか。なぜ自分ではないのか」
リビアの眉が寄る。
「それは……」
声が少し硬くなる。
「私が決めることです」
「そうだ」
エレナ先生がすぐに答える。
「我々もそう伝えた」
「ライゼルは?」
「黙った」
「反発は?」
「以前ほど強くはなかった。ただ、『分からない』と繰り返した」
俺はソファへ背を戻す。
変わった。
でも、変わっていない。
そんな感じがする。
「先生」
「何だ?」
「それって、良くなったんですか?」
自分でも変な質問だと思った。
学園長はすぐに答えなかった。
「一部は前進と見ている」
しばらくしてから、慎重に言葉を選ぶ。
「自分の推測を事実と同一視せず、『根拠がない』と口に出来た点は以前にはなかった。ただし、自分が納得出来ないことを、相手の選択を否定する理由にしてはいけないという理解は、まだ十分とは言えない」
「じゃあ半分?」
「人間の理解を点数にするな」
「すみません」
「ただ、感覚として『全部分かったわけではない』という意味なら近い」
俺は頷いた。
少し変わった。
それだけで全部終わったわけではない。
「オリビア嬢」
エレナ先生がリビアを見る。
「今の話を聞いて、どう感じた?」
リビアはすぐには答えなかった。
膝の上で組んでいた手を一度ほどき、指先を見つめる。
「……少し安心しました」
「どの部分?」
「私が『自分で選んだ』と言ったことを、少なくとも言った事実としては認めているところです」
「うん」
「でも」
リビアの視線が上がる。
「『なぜセスを選ぶのか分からない』って言われるのは、やっぱり嫌です」
声は大きくない。
でも、はっきりしていた。
「私が誰を好きになるかとか、誰と結婚したいと思うかって、ライゼルに理解してもらわないと成立しないものじゃないでしょう?」
「その通りよ」
エレナ先生が静かに答える。
「だから、そこはあなたが説明して納得させる責任はない」
「はい」
「会うとしても、そのために会う必要はない」
「はい」
リビアは少し息を吐いた。
俺は隣から横顔を見る。
怒っている。
でも、前みたいに全部を背負おうとしてはいない。
「もう一つ、重要な確認をした」
レイモンド先生が話を続ける。
「謝罪についてだ」
俺の身体が少し固くなる。
「俺への?」
「まずはな」
先生が別の紙を手に取る。
「以前、ライゼルが自分で書いた謝罪文には、『オリビア嬢を守ろうとして我を失った』という趣旨の記述があった。あれは送らなかったと伝えたな」
「はい」
「昨日、なぜあの表現が問題だったと思うか聞いた」
「分かったんですか?」
「完全ではない」
また、その言葉だ。
でも今日は、それを聞いても苛立たなかった。
「ライゼルは最初、『自分がオリビアを守れる立場ではなかったから』と答えた」
「……それだけ?」
リビアの声が低くなる。
「我々も同じ反応をした」
レイモンド先生が苦笑する。
「そこで、『立場があれば攻撃してよかったのか』と聞いた」
「何て?」
「否定した」
「すぐ?」
「少し考えてからだ」
先生は記録を見ながら続ける。
「その後、『守るためだったと言えば、自分がしたことの理由になると思っていた』と話した」
俺は眉を寄せた。
「理由?」
「正当化との違いについても話した」
エレナ先生が補足する。
「なぜそうしたのかを説明することと、だから仕方なかったと言うことは違う。ライゼル自身、その二つを混同していた可能性がある」
「今は?」
「『守るためだったから仕方なかったとは言えない』ところまでは言えた」
「でも?」
「『守りたかった気持ち自体は本当だ』とも言った」
リビアが目を閉じた。
俺はすぐには何も言わなかった。
たぶん、嫌なんだろう。
俺も少し嫌だ。
「リビア」
「うん」
「大丈夫?」
「……今のは、ちょっと嫌」
「うん」
「守ってほしいなんて頼んでないもの」
「うん」
「私を守りたいって言えば、私の意思を無視しても綺麗な理由になるみたいで嫌」
指先が少し震えている。
俺は手を出しかけて、止めた。
さっき廊下で、今は手を繋がなくて大丈夫だと言っていた。
でも今は。
「手、いる?」
小さく聞く。
リビアが俺を見る。
一瞬迷ってから、頷いた。
「……うん」
俺は手を差し出す。
リビアの指が重なる。
強く握りすぎない。
ただ、そこにある。
「オリビア嬢」
エレナ先生は、俺たちが落ち着くまで少し待ってから話を再開した。
「その反応は、面会を判断する上でも重要だから覚えておいて」
「はい」
「ライゼルが少し理解を進めたからといって、あなたが嫌だと思う言葉まで受け入れる必要はない」
「はい」
「面会をするなら、今のように途中で止めてもいい」
リビアがゆっくり頷いた。
「分かりました」
「そして」
レイモンド先生が、机の上で別に置かれていた一枚の紙へ手を伸ばす。
「昨日、ライゼルは新しい謝罪文を書いた」
俺は紙を見る。
「それ?」
「ああ」
「見ていいんですか?」
「まだ渡さない」
「じゃあ何で?」
「内容について説明するためだ」
やっぱり、すぐには渡さないらしい。
「前よりは改善している」
「どこが?」
「『オリビアを守るためだった』という表現は消えた。クルセスへ攻撃したこと、周囲を危険に晒したこと、フレイムストームを使用したことを、自分の行為として書いている」
「それなら……」
「ただし」
先生が続ける。
「まだ問題がある」
「何ですか?」
「『状況を誤解し、感情的になった』という表現だ」
俺は首を傾げる。
「駄目なんですか?」
「それ自体が嘘というわけではない」
エレナ先生が答える。
「でも、その文章だけだと、何を誤解したのかが曖昧なの。場合によっては『状況さえ正しく理解していれば攻撃しなかった』という話だけで終わってしまう」
「実際そうじゃないんですか?」
俺が聞くと、先生は少し考えてから頷いた。
「一部はそうでしょう。でも、問題はそれだけではない。自分が納得出来ないからといって、他人の意思を否定し、攻撃へ進んだ判断そのものにも向き合う必要がある」
「ああ……」
分かるような気がする。
俺が本当にリビアを惑わせていたかどうか。
そこだけを問題にしたら。
もし本当に俺が悪かったなら、ライゼルの攻撃は正しかったことになる。
でも、そうではない。
「じゃあ、まだ渡さない?」
「現時点ではな」
「書き直させるんですか?」
「我々が正解を教えて書き直させることはしない」
「前と同じ?」
「ああ。なぜその表現で止まっているのかを、本人に考えさせる」
俺は紙を見つめる。
そこに何が書いてあるのか、少し気になる。
でも、今見なくてもいい。
「それと」
学園長が静かに言った。
「オリビア嬢への謝罪についても確認した」
リビアの手に力が入った。
「何て?」
俺が代わりに聞きそうになったが、リビア自身が口を開いた。
「ライゼルは、何と言いましたか?」
「以前は、なぜ自分がオリビア嬢へ謝罪する必要があるのか、十分に理解していなかった」
「はい」
「昨日は、『自分の考えをオリビア本人の意思より優先したことについては謝る必要があると思う』と話した」
リビアの目が少し大きくなる。
俺も驚いた。
「それ、本当に?」
「ああ」
「誰かに言われたからじゃなくて?」
「そこを判断するために、理由も聞いた」
「何て?」
学園長は記録へ視線を落とした。
「『オリビアが嫌だと言っていたのに、自分は本心ではないと思った。自分の方がオリビアを分かっていると思っていた』」
リビアの指が俺の手の中で止まる。
「……そこまで」
「続きがある」
「はい」
「『今も、なぜクルセスを選ぶのかは分からない。でも、分からないことと、オリビアがそう選んだことを否定するのは別だと父に言われた』」
父親に言われた。
俺はそこが少し引っかかった。
「それ、自分で分かったんじゃない?」
「我々も確認した」
レイモンド先生が答える。
「『父親に言われたから正しいと思っているだけではないか』と」
「何て?」
「かなり長く黙った」
「それで?」
「『最初はそうだったかもしれない』と答えた」
部屋の中が静かになる。
「今は?」
リビアが聞く。
「『オリビアが自分の言葉を勝手に変えられたら嫌だと思う。自分も、父親に自分の考えを決められるのは嫌だから』」
リビアが何も言わなくなった。
俺もすぐには反応出来なかった。
少しだけ。
本当に少しだけ。
ライゼルが自分の側から考えたように聞こえた。
「先生」
「何だ?」
「それは、結構変わったんじゃないですか?」
俺が聞くと、学園長は頷きも首振りもしなかった。
「重要な変化ではある」
「でも、まだ?」
「ああ」
「何が足りないんですか?」
「一度そう言えたことと、その理解が定着していることは同じではない」
「……そっか」
「特にライゼルは、父親や教師から問い詰められた時に『正しい答え』を探す傾向がある可能性が出ている。昨日の言葉が、自分の中でどこまで理解として根付いているかは、もう少し確認が必要だ」
「じゃあ、昨日一回言えたから会えるとはならない?」
「ならない」
はっきりした答えだった。
俺はなぜか安心した。
少し変わった。
だからすぐ会わせよう。
そう言われたら、たぶん困った。
「ただし」
学園長が俺たちを交互に見る。
「面会へ進むための条件の一部は、以前より整ってきたと考えている」
今度は胸の奥が少し緊張する。
「一部?」
「ああ。昨日の時点で、ライゼルは面会の目的を『許してもらうこと』とは答えなかった」
「何て?」
「『謝罪すること。二人の話を聞くこと』」
「俺たちの?」
「そうだ」
「言い返さず?」
「そこも確認した。特にオリビア嬢が話している間は遮らないよう求めたところ、了承した」
「出来ると思います?」
「それを確認する必要がある」
エレナ先生が言う。
「約束出来ることと、実際に感情が動いた時に守れることは別だから」
「魔力は?」
「昨日の面談中、強い上昇はなかった」
「怒らなかった?」
「不快そうな反応は何度かあった。でも、攻撃魔法へ繋がるような魔力変化は確認されていない」
「じゃあ安全?」
「一回の面談だけで安全とは言わない」
「ですよね」
もう、その答えにも慣れてきた。
「学園としては」
学園長が一度言葉を切る。
「あと一度、ライゼル本人との確認を行いたい」
「もう一回?」
「ああ」
「何を?」
「昨日と同じ質問を一部、時間を空けて再度行う」
「答えが変わるか見る?」
「それもある。正解を暗記していないか、理解が維持されているかを見る」
俺は納得した。
「その後で、面会出来るか決める?」
「学園として、安全面から実施可能かどうかを判断する」
「俺たちが会うか決めるのは、その後?」
「そうだ」
順番がある。
ライゼルが会える状態か。
俺たちが会いたいか。
同じではない。
「いつ確認するんですか?」
「明後日を予定している」
「明日じゃないんだ」
「時間を空ける意味もある」
「なるほど」
「結果説明は、その翌日以降になるだろう」
少なくとも、すぐではない。
俺は隣のリビアを見る。
彼女もこちらを見た。
「セス」
「うん」
「どう思った?」
先生たちの前で聞かれる。
俺は少し考えた。
「前より、会ってもいいかもって思った」
「うん」
「でも、今日決めるのは嫌」
「私も」
リビアがすぐに答えた。
「私も、前よりは話してみたいと思いました」
「どの部分で?」
エレナ先生が聞く。
「『分からないことと、私が選んだことを否定するのは別』って言ったところです」
「うん」
「でも、『なぜセスを選ぶのか分からない』っていう気持ちは残ってる」
「そうね」
「それを聞いたら、私、たぶん怒ると思います」
「怒ってもいい」
「……はい」
「ただし、怒った時にその場を続けるか、止めるかも選べる」
「はい」
リビアは俺の手を握ったまま、少し考える。
「先生」
「何?」
「もし会うことになったら、私、最初に言いたいことがあります」
「何を?」
「私はセスを自分で選んだって」
前にも言っていた。
昨夜も言った。
「それを言った後で、ライゼルが『分からない』って言ったら」
リビアは一度息を吸った。
「分からなくてもいいって言いたいです」
俺は横顔を見る。
「分かってもらわなくていいの?」
「うん」
「前は分かってほしいって」
「思ってた」
リビアの視線が俺へ向く。
「でも、今は、私の選択を理解出来なくても、それを勝手に否定しないなら、それでいいのかもしれないって思う」
「……そっか」
「もちろん、分かってくれたら嬉しいけど」
「うん」
「でも、それを私がやらなきゃいけないわけじゃない」
「うん」
リビアも変わっている。
ライゼルだけではない。
俺も。
たぶん、先生たちも。
最初の頃は、何とか問題を終わらせることばかり考えていた。
今は、終わっていなくても、それぞれが自分で考える時間を持っている。
「クルセスは?」
学園長が俺を見る。
「もし面会が可能になった場合、今の時点で伝えたいことはあるか?」
俺は考える。
昨日、リビアと話した。
俺のせいではない。
それをライゼルへ言うかもしれないと。
「……あります」
「何だ?」
「俺がリビアを惑わせてないって証明することじゃなくて」
「うん」
「俺がリビアの婚約者になったことは、悪いことじゃないって言いたいです」
口にすると、胸の奥が少し熱くなる。
「前は?」
「俺が学園に来なかったら、あの事件もなかったかもしれないって思ってた」
「今は?」
「それと、俺が悪いかは別です」
「うん」
「ライゼルが俺を嫌うのは自由だと思う。でも、それで攻撃していいわけじゃない」
学園長がゆっくり頷く。
「それは、お前自身の言葉だな」
「はい」
「なら、覚えておきなさい。面会を行う場合でも、必ず言わなければならないわけではない。その場で言いたければ言えばいい」
「はい」
言うことまで、今決めなくていい。
それも少し楽だった。
「他に質問は?」
レイモンド先生が聞く。
俺は一つ思い出す。
「処分は?」
「まだ審議中だ」
「面会出来そうになったから軽くなるとかは?」
「ない」
「分かりました」
リビアも質問する。
「通常授業への復帰は?」
「現在は認めない」
「面談が上手くいっても?」
「それだけでは戻さない」
「分かりました」
必要なことは聞いた。
それでも、頭の中にはまだ色々残っている。
「今日はここまでにしよう」
学園長が書類を閉じる。
「二人とも、今ここで面会の意思を確定する必要はない。次の確認結果を聞いた後で構わない」
「はい」
「それまでに気持ちが変わってもいい」
「はい」
「それと」
学園長が少しだけ表情を緩めた。
「クルセス」
「何ですか?」
「明日からこの件だけを考えて過ごす必要はないぞ」
「……昨日も普通に過ごしました」
「聞いている」
「誰から?」
「レイモンドから、昨日の剣術練習の話は聞いた」
俺はレイモンド先生を見る。
「何で知ってるんですか?」
「剣術担当から聞いた」
「一本取られたことも?」
「聞いた」
「何でそこまで報告されてるんですか!」
エレナ先生が吹き出す。
リビアまで笑っている。
「いいだろう。友人と健全な練習をしたという報告だ」
「俺が負けたみたいになってる」
「一本取られたんでしょう?」
「リビアまで!」
「二対一だったんでしょう?」
「そう!」
「ならいいじゃない」
「でも一本の方ばっかり皆覚えてる」
学園長まで口元を緩めている。
さっきまでライゼルの話をしていた部屋なのに、空気が少し軽くなった。
「次は取られないです」
「イザークも同じことを考えるだろう」
レイモンド先生が言う。
昨日グレイヴにも言われた。
「……そうでした」
「だから面白いんじゃないか?」
「はい」
それは素直に認められた。
「では帰りなさい」
「はい」
「ありがとうございました」
俺たちは立ち上がる。
リビアとはまだ手を繋いでいた。
でも、扉へ向かう前に彼女の方から一度離した。
不安が消えたわけではない。
ただ、もう握っていなくても歩けるらしい。
◇
学園長室を出た後、俺たちはすぐ正門へ向かわなかった。
リビアが「少し歩きたい」と言ったからだ。
向かったのは東棟の庭だった。
昼休みに来た時より日差しは傾き、芝生の上には長い影が伸びている。昼には何人かいた生徒たちも今はいなくなり、花壇の近くで庭師が道具を片付ける音だけが小さく響いていた。
俺たちは昼と同じベンチへ座った。
しばらく、どちらも話さない。
風が吹くたびに木の葉が擦れ、少し冷えた空気が制服の袖を撫でる。
「セス」
「うん」
「どうだった?」
「さっき先生に聞かれたのと同じ?」
「違う」
「何が?」
「先生に言わなかったこと」
なるほど。
俺は少し考える。
「……思ったより、ライゼルが変わってた」
「うん」
「でも、嬉しいって言っていいのか分からない」
「私も」
リビアが膝の上へ両手を置く。
「少し安心したの。私が言ったことを、言った事実として認めたって聞いた時」
「うん」
「オリビア本人がそう言ったって」
「うん」
「でも、その後に『なぜセスを選ぶのか分からない』って聞いたら、すごく嫌だった」
「うん」
「勝手だよね」
「何が?」
「変わってほしいと思ってたのに、少し変わったら『まだ足りない』って思ってる」
「それ、勝手なの?」
「分からない」
俺は少し考える。
「別にいいんじゃない?」
「どうして?」
「変わったら全部好きにならないといけないわけじゃないだろ」
リビアが俺を見る。
「一本取られたイザークはすごい。でも次は取られたくない」
「急に剣の話?」
「似てない?」
「……全然似てないと思う」
「そう?」
「でも、言いたいことは少し分かる」
リビアが小さく笑った。
「ライゼルが少し変わったのは、変わった。それは認める」
「うん」
「でも、リビアが嫌だったことが消えるわけじゃない」
「うん」
「俺も、攻撃されたの忘れたわけじゃない」
右腕へ目を落とす。
今は傷もない。
痛みもない。
でも、あの日の炎は覚えている。
周囲にいた生徒たち。
リビアの結界。
ライゼルの顔。
自分が炎の中へ入ったこと。
「怖かった?」
リビアが聞く。
「あの時?」
「うん」
前なら、たぶん大丈夫だったと言った。
今は。
「……ちょっと」
「ちょっと?」
「その時は考える暇なかった。でも後から思うと、失敗したらまずかったなって」
「セス」
「怒る?」
「少し」
「何で?」
「やっぱり怖かったから」
リビアの声が小さくなる。
「セスが炎の中へ入った時、本当に嫌だった」
「うん」
「止められなかった」
「うん」
「私も結界張ってたし、他の人もいたし、あの時はあれしかなかったかもしれないけど」
「うん」
「それでも、嫌だった」
俺は返事を急がなかった。
前なら。
でも必要だった。
俺なら出来た。
結果的に無事だった。
そう言ったかもしれない。
「ごめん」
「……うん」
「次、同じことあったら」
言いかけて止まる。
絶対にやらない。
それも違う。
誰かが危ないなら、また動くかもしれない。
「一人で決めない」
言い直す。
「先生がいたら先生に任せる。リビアがいたら、リビアにも頼る」
「うん」
「逃げられるなら逃げる」
「うん」
「それでも必要なら……」
「その時は?」
「ちゃんと戻る方法も考える」
リビアが少しだけ笑った。
「前よりいい」
「満点じゃない?」
「まだ」
「何点?」
「八十八点」
「結界より高い」
「だって大事だもの」
「俺の結界も大事だろ」
「セスの命の方が大事」
即答だった。
胸の奥が少し熱くなる。
「……うん」
今日は、それを否定しなかった。
俺たちはまた少し黙る。
夕方の庭は静かだった。
「セス」
「何?」
「もし、次の確認で先生たちが『会っても安全だと思う』って言ったら」
「うん」
「どうする?」
「今決める?」
「決めない」
「じゃあ、その時考える」
「うん」
「リビアは?」
「私も」
それで終わる。
前なら、今のうちに答えを出しておきたかった。
でも今は、情報が増えた時に考えればいいと思える。
「帰ろうか」
「うん」
立ち上がる。
少し歩いたところで、リビアが俺の袖を軽く引いた。
「セス」
「何?」
「手」
「欲しくなった?」
「うん」
廊下では、聞いた後に欲しくなるかもしれないと言っていた。
俺は笑って手を出す。
リビアの指が絡む。
「俺も繋ぎたい」
「……うん」
リビアの頬が少し赤くなる。
今日はもう、その理由を聞かれなくても分かっていた。
◇
帰りの馬車では、最初のしばらくライゼルの話をしなかった。
窓の外を眺めたり、明日の授業の話をしたり、イザークとの次の練習をいつにするか考えたりした。
「明日は剣やるの?」
「まだ分からない」
「今日の疲れは?」
「頭が四くらい」
「じゃあ朝になってから?」
「うん」
「私も明日、図書館行くか朝決める」
「いいな」
「一緒ね」
馬車が石畳の継ぎ目を越え、少しだけ揺れる。
繋いだ手も一緒に動いた。
「リビア」
「何?」
「ライゼル、変わると思う?」
聞いてから、答えにくい質問だったと気づく。
リビアはしばらく窓の外を見ていた。
「分からない」
「やっぱり?」
「うん。でも」
俺へ視線を戻す。
「変わるかどうかを、私がずっと見張らなくてもいいと思う」
「ああ」
「先生たちもいるし、シュザー家当主もいるし」
「うん」
「本人が考えることだもの」
「そうだな」
「セスは?」
「同じ」
俺は少し考えてから続ける。
「前は、ライゼルが俺を嫌ってる理由を全部知りたいと思ってた」
「今は?」
「ちょっとは知りたい」
「ちょっと?」
「でも、全部知らなくてもいいかも」
「どうして?」
「俺が悪くないって分かったから」
口にすると、まだ少し不思議な感じがする。
「ライゼルが俺を嫌う理由が何でも、俺がリビアの婚約者になったことは悪くない」
「うん」
「リビアが俺を選んだことも」
「うん」
「だから、理由が全部分からなくても、それは変わらない」
リビアの指が強くなる。
「セス」
「何?」
「今の、好き」
また心臓が強く鳴った。
「……言い方」
「何?」
「何でもない」
「また赤い」
「夕日」
「今度は本当に夕日ね」
「じゃあいいだろ」
「でも、それだけ?」
「リビア」
「ふふ、ごめん」
楽しそうに笑っている。
俺は窓の外へ顔を向けた。
夕日のせいだけではない。
たぶん。
でも、それが何なのかは、まだ考えなくてもいい。
◇
屋敷へ帰った後、旦那様とグレイヴへ今日の内容を簡単に話した。
学園側から正式な報告は別に届く予定なので、細かな記録まで説明する必要はない。俺とリビアがどう感じたのか、今どう考えているのかを中心に話した。
「つまり、ライゼルは以前より事実と自分の推測を分けられるようになってきた。しかし、理解が定着しているかは未確認。学園はもう一度面談する、ということだな」
旦那様が整理する。
「はい」
「二人は?」
「俺は、前より会ってもいいと思ってます。でもまだ決めません」
「私は、話してみたい気持ちはあります。でも、次の結果を聞いてから決めたいです」
旦那様は静かに頷いた。
「それでよい」
それだけだった。
もっと何か言われると思っていたので、少し拍子抜けする。
「旦那様は、どう思います?」
俺が聞くと、旦那様は少し眉を上げた。
「何についてだ?」
「ライゼルと会うこと」
「私が決めることではない」
「でも」
「父親として、リビアが危険な場へ行くことには当然意見を言う。お前についても同じだ。しかし、学園が安全上実施可能と判断した上で、それでも会いたいかどうかは二人の問題だ」
「そっか」
「ただし」
旦那様の声が少し低くなる。
「少し改善したからといって、過去の行為が消えたと思う必要はない」
「はい」
「逆に、過去に問題を起こしたからといって、その後の変化をすべて嘘だと決めつける必要もない」
俺は黙って聞く。
「両方見ればいい」
「両方」
「ああ。変わった部分と、変わっていない部分をな」
今日、先生たちから聞いたことと似ている。
「分かりました」
「なら今日は休め」
「本読むのは?」
「休むことに含めるなら構わん」
「リビアと読む」
「それならなおさら好きにしろ」
なぜか旦那様が笑った。
「何ですか?」
「いや。以前なら『お嬢様のお相手をします』と言っただろうと思ってな」
「……今日は一緒に読みたいから読むんです」
「それでいい」
隣を見ると、リビアがすごく嬉しそうだった。
◇
夕食後、昨日と同じ談話室へ行った。
でも今日は、すぐに本を開かなかった。
テーブルへお茶を置き、ソファへ並んで座る。
窓の外はもう暗く、庭に置かれた灯りがぼんやり木々を照らしている。屋敷の中も昼間より静かで、時折廊下を通る使用人の足音が遠く聞こえるくらいだった。
「今日は読む?」
俺が聞く。
「少しだけ」
「俺も」
「その前に」
「何?」
リビアがカップを両手で包む。
「今日聞いたこと、忘れないうちに一つだけ話したい」
「うん」
「ライゼルが、『自分も父親に考えを決められるのは嫌だから』って言ったでしょう?」
「うん」
「あれ、私、少し分かった気がしたの」
「何が?」
「ライゼルのことじゃなくて、私が何であんなに嫌だったのか」
俺は黙って待つ。
「私は、セスを選んだ」
「うん」
「でもライゼルは、それを『本当の私の考えじゃない』ってした」
「うん」
「私が言ったことより、自分が考えた『私』の方を本物だと思った」
リビアの視線がカップへ落ちる。
「それが、すごく嫌だったんだと思う」
「前から嫌って言ってたよ」
「うん。でも、今日は少し言葉に出来た」
「そっか」
「私、誰かに決めてもらいたくない」
「うん」
「公爵令嬢だからとか、女だからとか、昔から知ってるからとか、そういう理由で」
「うん」
「セスにも」
少し驚いた。
「俺にも?」
「うん」
リビアが顔を上げる。
「セスは最近、ちゃんと聞いてくれるでしょう?」
「何を?」
「私がどうしたいか」
「聞くようにしてる」
「だから嬉しい」
「前は?」
「勝手に守ろうとした」
「……はい」
「私の予定を全部自分へ合わせようとした」
「はい」
「私が一人で図書館へ行くだけでも心配した」
「はい」
「反省してます」
「責めてるんじゃないの」
リビアが笑う。
「セスは変わってくれたから」
「うん」
「だから、ライゼルにも同じように変われって言いたいわけじゃない。でも、自分の考えと私の考えを分けるところまでは、出来るようになってほしい」
「それなら会いたい?」
「……少し」
リビアは正直に答えた。
「今日の話を聞く前よりは」
「そっか」
「でも怖さもある」
「うん」
「両方あっていい?」
「いいだろ」
「セスも?」
「俺も似てる」
俺は自分のカップを置いた。
「少し会ってみたい。でも、また俺のことを『お前が悪い』って言われたら腹立つと思う」
「うん」
「リビアに変なこと言ったら、もっと腹立つ」
「セス」
「でも殴らない」
「そこは当然」
「魔術も使わない」
「当然です」
「先生に任せる」
「うん」
「それで、嫌なら帰る」
リビアが少し笑う。
「百点」
「さっき八十八だったのに?」
「今のは別採点」
「基準が分からない」
「私基準だから」
「ずるい」
「先生ですから」
「結界だけだろ」
「婚約者としても採点します」
「それは聞いてない」
笑い合う。
少し前まで、ライゼルの話をしていた。
でも、笑っていい。
そのことにももう迷わなくなった。
「セス」
「何?」
「本、読もう?」
「うん」
昨日交換した本を開く。
今日は手を繋がない。
俺は自分の本を両手で持ち、リビアも自分の本へ目を落とす。
それでも、時々どちらかが気になった箇所を見つけると、身体を寄せて同じ頁を覗き込んだ。
肩が触れる。
髪が近い。
リビアが指差した術式記号を追っていると、ふと横顔がすぐ近くにあることに気づいた。
「セス?」
「何?」
「そこ、読んだ?」
「……今読む」
「さっきから同じところ見てない?」
「読むって」
少しだけ距離を戻す。
心臓がまた変だ。
今日の昼にもあった。
馬車でもあった。
ライゼルの話をしている時とは違う。
怖いわけではない。
嫌でもない。
むしろ。
もう少し近くてもいいと思った。
「……何だろ」
「何が?」
「何でもない」
今はまだ分からない。
分からないなら、無理に答えを出さなくていい。
最近覚えたばかりの考え方を、自分の胸の中にも使ってみる。
俺は改めて本へ目を落とした。
明後日、先生たちはもう一度ライゼルと話す。
その後で、俺たちはまた結果を聞く。
ライゼルが本当に変わり始めているのか、それとも教えられた答えを覚えただけなのか、今の俺にはまだ分からない。
俺が実際に会いたいのかも、完全には決まっていない。
リビアも同じだ。
でも、今日分かったことはある。
少し変わったからといって、全部を許す必要はない。
まだ嫌なところが残っているからといって、変わった部分まで否定する必要もない。
そして、答えが出るまでの間に、俺たちの時間を止める必要もない。
「セス、ここ」
リビアがまた本を寄せてくる。
「何?」
「この術式、昨日話した三層構成と似てない?」
「どこ?」
「ここ。維持式の分離」
「あ、本当だ」
俺も身体を寄せる。
今度は肩が触れても離れなかった。
明日のことは、明日考える。
ライゼルのことは、次の結果を聞いてから考える。
今は、リビアと一緒にこの頁の続きを読みたい。
それが今日の俺にとって、一番はっきり分かっていることだった。




