第30話 待っている日に普通に楽しんでもいいと分かったので、今日は剣を振ります
翌朝、目を覚ました時に最初に思い出したのは、ライゼルのことではなかった。
薄いカーテンの向こうから入ってくる朝日が思っていたより明るくて、今日は雨が降らなさそうだと思った。その次に、昨日読みかけた地理の本を机へ置いたままだったことを思い出し、それからようやく、今日は学園で先生たちがライゼル本人と話す予定の日だったと気づいた。
ベッドから起き上がり、身体の状態を確かめる。
腕も脚も重くない。
昨日は剣を振らなかったから、筋肉に残っている疲れもほとんどなかった。頭の方も、昨夜リビアと話した後はシュザー家のことを延々と考え続けることもなく、そのままいつも通り眠ることが出来た。
身体疲労はゼロ。
頭の疲れも、たぶん一くらい。
緊張は。
「……二?」
誰もいない部屋で呟いてから、少し考える。
今日、俺とライゼルが会うわけではない。
先生たちが話すだけだ。
その結果が俺たちへ伝えられるのも、早くて明日だと言われている。
なら、今から緊張していても仕方がない。
そう思って立ち上がり、着替えようとしたところで、ふと窓の外へ目が向いた。
庭の木々が朝の風で揺れている。
訓練するにはちょうどよさそうな天気だった。
昨日は休んだ。
身体も問題ない。
時間もある。
「……軽くならいいか」
誰に許可を求めるでもなく、自分で決める。
着替えを済ませて庭へ出た。
◇
朝の庭には、夜の冷たさがまだ少し残っていた。
芝には薄く露が降り、踏むたびに靴底へ湿り気が伝わってくる。東側の空から差し込む光はまだ柔らかく、屋敷の影が長く庭へ伸びていた。
俺は木剣を一本だけ持ってきた。
魔術は使わない。
迅雷撃破も当然使わない。
今日は型と足運びだけ。
時間も長くしない。
そこまで頭の中で決めてから、軽く身体をほぐす。
肩を回し、脚を伸ばし、木剣を握った。
最初はゆっくり振る。
上段から。
斜め。
横。
突き。
剣先の位置を確かめながら、同じ動きを繰り返す。
以前なら、身体が温まったところで速度を上げていただろう。
速度を上げれば、今度はもっと正確にしたくなる。
正確になれば、足運びを加えたくなる。
それが出来れば仮想の相手を置き、攻撃を避けて反撃するところまで続ける。
そして気づけば、朝食の時間ぎりぎりまで動いている。
今日はそこまでやらない。
昨日、頭が疲れたから休んだ。
今朝は身体が軽い。
だから少しだけやる。
それでいい。
木剣を振りながら、昨日の学園長室で聞いた話が一瞬だけ頭へ浮かんだ。
ライゼルが、父親の前で何を答えれば叱責されないか探している可能性。
オリビアとの婚姻を、正式な約束もないのに将来の選択肢として強く意識していたこと。
それがどこから来たのかは、まだ分からない。
剣先がわずかに下がった。
俺は一度動きを止める。
「今考えることじゃないな」
先生たちが今日確認する。
俺は明日以降に結果を聞く。
今の俺が考えても、新しい情報は増えない。
なら、剣へ戻る。
もう一度構えた。
今度は足を一歩だけ動かす。
踏み込みではない。
重心の移動を確かめる程度だ。
昨日までの自分なら、考え事をしながらでも身体を動かせた。
だから問題ないと思っていた。
でも今は、考え事をしているなら一度止まる方がいいと思える。
「……これで終わり」
予定していた型を一通り終え、木剣を下ろす。
息はほとんど乱れていない。
まだ出来る。
もっと振れる。
身体も動きたがっている。
だからこそ終わる。
「本当に終わったのか?」
後ろから声がした。
振り返ると、庭へ続く石畳の上にグレイヴが立っていた。
「終わったよ」
「まだ朝食まで時間はあるが」
「知ってる」
「体調は?」
「問題ない」
答えてから、言い直す。
「身体疲労ゼロ。痛みなし。今の練習で少し身体が温まったくらい」
「魔術は?」
「使ってない」
「迅雷撃破は?」
「使うわけないだろ」
「そうだな」
グレイヴは俺の持っている木剣を見る。
「何をした?」
「型と足運びだけ。速さも上げてない」
「それで終わりか?」
「うん」
「……そうか」
「何?」
「いや」
「最近それ多くない?」
「私が驚くようなことを、お前が立て続けにしているからだ」
「普通に練習終わっただけだよ」
「以前のお前にとって、それが普通ではなかったから言っている」
「もう前の話だろ」
「まだ数日だ」
「そうだっけ?」
「そうだ」
グレイヴが小さく息を吐く。
「だが、自分で決めた範囲を守ったなら、それでいい。木剣を戻して朝食へ来なさい」
「分かった」
歩き出そうとして、俺は少し考える。
「父さん」
「何だ?」
「今日、イザークと剣やってもいい?」
グレイヴの眉がわずかに上がった。
「なぜ私に聞く?」
「……あ」
まただ。
昨日、リビアにも似たようなことを言われた。
友達と放課後に剣術練習をする。
屋敷の仕事や予定に影響があるなら相談する必要がある。
体調に問題があるならやめる。
でも、何でも許可を取らなければならないわけではない。
「今日、帰ってから何か仕事ある?」
「お前でなければ出来ない仕事はない」
「旦那様の予定は?」
「夕食前に来客が一組あるが、お前を付ける予定ではない」
「じゃあ、練習してくる」
「ああ」
「身体が大丈夫なら」
「それも自分で確認しろ」
「うん」
グレイヴの横を通り過ぎる。
「クルセス」
「何?」
「楽しんでこい」
足が止まった。
振り返る。
グレイヴはもう屋敷へ向かっている。
「……うん」
剣の練習へ行く息子に、楽しんでこい。
そんな言葉を父さんから聞いたことがあっただろうか。
いや、たぶんあった。
俺が覚えていないだけかもしれない。
昔から剣を振るのは好きだったらしい。
俺自身が、それを必要な訓練だと思い込んでいただけで。
木剣を握り直し、俺も屋敷へ戻った。
◇
朝食の席でリビアに今日の予定を話すと、予想していたより簡単に話がまとまった。
「じゃあ、私は放課後に図書館へ行ってくるわ」
「一人で?」
聞いた瞬間、自分で気づいた。
リビアも気づいた。
二人の視線が合う。
「……行ってらっしゃい」
「修正が早くなったわね」
「言った後だけど」
「前はその後に『本当に大丈夫?』まで続いたもの」
「今日は言ってない」
「えらいえらい」
「子供扱いするなよ」
「ふふ、ごめんなさい」
向かい側に座るリビアが楽しそうに笑う。
朝食の席には旦那様とグレイヴもいるが、旦那様は新聞へ目を落としたまま、口元だけ少し笑っている。
「何を借りるの?」
「前に話した無属性結界の古い記録よ。昨日はシュザー家の話があったから、まだちゃんと読み始められていないの」
「前に借りたやつ?」
「それとは別。前の資料に引用されていた記録があって、図書館の先生に聞いたら閉架書庫にあるそうなの」
「へえ」
「今日、閲覧許可が下りる予定なの」
「持って帰れる?」
「古いから館内だけだと思う」
「じゃあ読むの時間かかりそう?」
「少しだけ確認して、続きは別の日にするつもり」
「何で?」
「セスとイザークの練習も少し見たいから」
「図書館優先でいいよ」
「分かってる」
「ならいいけど」
「私が見たいから行くの」
「そっか」
「うん」
以前なら、俺の練習を見に来ると言われたら、リビアの予定を奪っているような気がしたかもしれない。
でも、リビアは自分で図書館へ行く。
自分の調べたいことを調べる。
その後で、俺の剣を見たいから来る。
なら、それでいい。
「終わってたら?」
「その時は仕方ないわ」
「待ってなくていい?」
「練習を延長してまで待つのは駄目」
「分かった」
「でも、終わった後に少しくらい待ってくれるなら嬉しい」
「じゃあ終わってたら待つ」
「うん」
俺はパンを一口食べる。
その横で、旦那様がようやく新聞を畳んだ。
「二人とも、ずいぶん予定の相談が上手くなったな」
「そうですか?」
「以前なら、セスが『お嬢様のご予定に合わせます』と言い、リビアが『セスの好きなことをして』と言い、互いに譲って決まらなかっただろう」
「……そんなことありました?」
「何度もな」
旦那様が平然と答える。
リビアが少し気まずそうに視線を逸らした。
「お父様、覚えていたの?」
「父親だからな」
「忘れてください」
「無理だ」
「お父様」
「良い思い出だ」
「私は恥ずかしいです」
リビアの頬が赤くなる。
俺は少し考えてから、隣のグレイヴを見る。
「俺もそんな感じだった?」
「旦那様の説明はかなり穏当だ」
「もっと酷かった?」
「お嬢様が『セスは何がしたい?』と聞いているのに、『お嬢様がお望みのことを』と三度繰り返したことがある」
「いつ?」
「十一歳の頃だ」
「昔じゃん」
「去年も似たことをしていた」
「……覚えてない」
「だから直す必要があった」
反論出来ない。
リビアが笑いを堪えている。
「リビアもだろ」
「私は何?」
「俺に合わせてたって旦那様言った」
「私はセスと一緒なら何でもよかったの」
「それも同じじゃない?」
「……少し違うわ」
「どこが?」
「気持ちが違うの」
「分からない」
「そのうち分かるわ」
「またそれか」
朝食の席に笑い声が広がった。
今日、先生たちはライゼルと話す。
そのことは誰も口にしなかった。
忘れているわけではない。
俺もリビアも、旦那様もグレイヴも知っている。
それでも、朝食の全部をその話で埋める必要はなかった。
◇
学園へ着くと、昨日とは違って朝から少し騒がしかった。
シュザー家の件ではない。
来月行われる学年別の実技確認について、掲示板へ予定表が張り出されたからだった。
「クルセス、見たか?」
教室へ入るなりイザークが寄ってくる。
「何を?」
「実技確認」
「まだ」
「剣術と魔術、両方あるぞ」
「毎年?」
「ああ。別に順位だけ決める試験じゃないけどな。授業でどこまで出来るようになったか確認するやつ」
「へえ」
鞄を置いてから、俺はイザークと一緒に廊下の掲示板へ向かった。
すでに何人かの生徒が集まっている。
掲示には剣術、基礎魔術制御、座学の確認日程が並び、その横に注意事項が書かれていた。
「魔術は……」
読んでいると、後ろから聞き慣れた声がする。
「クルセスの場合、通常枠で測れるのか?」
振り返るとサザリーがいた。
「何で?」
「むしろ、なぜ測れると思うんだ」
「基礎魔術制御だろ?」
「五属性を順番に切り替える人間を、一般生徒と同じ評価表へ入れてよいのかという話だ」
「俺も普通にやればいいんじゃない?」
「また普通と言ったね」
今度はカイゼルまで来た。
朝から人数が増える。
「普通だろ。書いてあるの、標的への基礎術式、出力維持、制御精度だぞ」
「君はその三つが普通じゃないんだよ」
「じゃあ手加減?」
「そういう話でもないと思うけどね」
カイゼルが肩をすくめる。
「追加測定中なんだから、たぶん先生方が別に考えるんじゃない?」
「追加測定と実技確認は別じゃないの?」
「目的は別だろうね。ただ、同じ内容を何度もやらせても意味がない」
サザリーが掲示を見ながら言う。
「むしろ剣術の方が面白そうだ」
「何で?」
「君がどこまで普通の学年評価へ収まるか」
「それ、俺が普通じゃない前提になってない?」
「今さら?」
背後からアルフォルドの声までした。
「殿下まで」
「朝から面白そうな話をしているから来ただけだ」
「俺の評価が面白いんですか?」
「お前が『普通に受ければいい』と言っているところが面白い」
「皆酷くないですか?」
「安心しろ」
アルフォルドが笑う。
「剣術なら私も同じ枠だ。少なくとも、魔術ほど一人だけ妙なことにはならんだろう」
「殿下も強いじゃないですか」
「だから競う価値がある」
「順位つかないってイザーク言ってましたよ」
「評価に順位がなくても、勝負は出来る」
「殿下」
サザリーが静かに止める。
「実技確認を私闘へ変えないでください」
「分かっている」
「本当に?」
「サザリーは最近、私への信用が低くないか?」
「以前から適正です」
「ひどいな」
周囲の生徒たちから笑いが起きる。
俺も笑った。
その時、教室側からリビアとナナリー、ミリアナが歩いてくる。
「何の集まり?」
「俺が普通かどうか」
「普通じゃないわよ」
「リビアまで?」
「だって五属性でしょう?」
「そこだけなら」
「迅雷撃破」
「それは実技確認で使わない」
「剣術」
「剣術は普通」
「編入初日にイザーク君に勝ったでしょう?」
「一本取っただけ」
「その後、アルフォルド殿下とも普通に打ち合ってたじゃない」
「普通に打ち合ったんだから普通だろ」
「その普通の使い方がおかしいのよ」
リビアが呆れたように笑う。
「じゃあ、俺の普通って何?」
何となく聞いた。
リビアはすぐには答えなかった。
周囲も少しだけ静かになる。
「……朝、自分で練習を終わらせられるようになったこと?」
「そこ?」
「友達と剣をするのを楽しみにしてること」
「それも?」
「授業で面白いものを見つけて、帰ってから本を読むこと」
リビアは指を折りながら続ける。
「疲れたら休むこと。分からなかったら聞くこと。私と別々に行動しても、後で会えばいいって思えること」
「能力の話じゃないんだ」
「セスが聞いたんでしょう?」
「そうだけど」
「私はそっちの方が普通でいてほしい」
返す言葉がすぐには出なかった。
「……じゃあ、それでいいか」
「いいの?」
「リビアがそう思うなら」
「そこは自分で決めて」
「あ」
周りから一斉に笑われた。
「今のは罠だろ!」
「自分から入ったんだよ、クルセス」
イザークが腹を抱えて笑っている。
「じゃあ訂正する。俺もそれでいい」
「うん」
リビアが嬉しそうに頷く。
予鈴が鳴った。
「戻ろう」
皆で教室へ向かう。
掲示板に残された実技確認の日程を、俺はもう一度だけ振り返った。
少し楽しみだった。
試験だからではない。
今の自分がどこまで出来るのか。
他の皆が何を出来るのか。
それを見るのが面白そうだった。
◇
午前の授業は、領地経営に関する応用算術だった。
今日の課題は、前回より条件が多い。
人口八百人ほどの小領地。
主な産業は麦と羊毛。
冬まで三か月。
今年は長雨で麦の収穫量が平年より二割少ない。
領内を通る主要街道の橋が損傷し、修繕にはまとまった費用が必要。
さらに井戸の一つから濁りが出ている。
手元の予算ですべてを同時に解決することは出来ない。
「正解は一つではない」
教師が教壇から説明する。
「何を優先し、何を後へ回し、どの危険を受け入れるか。その理由まで書きなさい。数字だけ合わせても評価しない」
問題用紙を見た瞬間、俺は少し楽しくなった。
まず食料。
麦が二割少ないなら、冬までに不足する量を計算する。
でも全部を外から買えば金が足りない。
羊毛を先に売る?
いや、街道の橋が壊れている。
輸送費が上がる。
井戸はどうする。
濁りの原因が分からないなら放置は危険だ。
でも井戸が複数あるなら、問題の井戸だけ一時閉鎖して別の水源へ回せるかもしれない。
俺は条件欄をもう一度読む。
井戸は三つ。
問題があるのは一つ。
残り二つだけで人口八百人を賄えるか。
平常時の利用率が書いてある。
「……ぎりぎり足りる」
小さく呟く。
なら、濁った井戸は閉鎖。
調査は必要だが、大規模修繕は原因判明後。
橋は。
完全に落ちてはいない。
重量制限を設ければ人と軽荷車は通れる。
なら、全面修繕を今すぐやるより、応急補強。
浮いた金で食料を確保する。
ただし、冬前に雪が降る地域なら橋の悪化が。
地図を見る。
降雪量は少ない。
「クルセス」
隣からサザリーの声がする。
「何?」
「楽しそうだね」
「そう?」
「さっきから口元が上がっている」
「問題解いてるだけだよ」
「それを楽しそうと言うんだ」
「サザリーは?」
「私も嫌いではない」
「何優先した?」
「それを今聞いたら課題の意味がないだろう」
「終わった後なら?」
「構わない」
「じゃあ後で見せて」
「君もね」
教師がこちらを見る。
俺たちは揃って口を閉じた。
課題へ戻る。
条件を一つずつ整理して、俺は自分なりの案を書いた。
食料不足への対応を最優先。
ただし一度に全量購入せず、羊毛の販売と価格推移を見ながら三回に分ける。
橋は応急補強と重量制限。
濁った井戸は即時使用停止し、残る二つへ給水を振り分ける。調査費だけ先に確保。
さらに、冬前に橋の損傷が悪化した場合の予備費を残す。
書き終えて見直す。
全部は直せない。
でも、全部を今直す必要もない。
何となく、最近覚えたことと似ている。
問題がある。
だから全部すぐ解決する。
そうしなくてもいい。
今やること。
後でやること。
分からないから調べること。
条件が変わったら見直すこと。
「……同じだな」
今度は声に出さない。
少しだけ笑って、答案を裏返した。
◇
昼休み。
今日はリビアと二人きりではなく、教室で皆と食べることにした。
別に決めていたわけではない。
午前最後の授業が終わったところでイザークが「今日ここで食わない?」と言い、俺が「いいよ」と答えたら、そのままそうなった。
机をいくつか寄せる。
俺、リビア、イザーク、ナナリー、ミリアナ。
少し遅れてサザリーも加わった。
アルフォルドとカイゼルは別の用事があるらしく、今日は来ない。
「クルセス、午後の剣術終わったらやるんだよな?」
イザークがパンをちぎりながら聞く。
「うん。朝の体調は問題なかった」
「昨日は?」
「休んだ」
「知ってる。だから今日は本気で」
「軽め」
「何でだよ」
「授業の後だから」
「元気なんだろ?」
「元気だけど、元気だから全部使う必要ないだろ」
イザークが固まる。
「……お前、本当にクルセス?」
「何だよ」
「数日前なら絶対言わなかったぞ、それ」
「皆それ言う」
「だって変わったもの」
ミリアナが笑う。
「悪い方に?」
「いい方」
「ならいいけど」
俺は昼食の肉を口へ運ぶ。
「今日は時間決めよう」
「どのくらい?」
「三十分」
「短くない?」
「授業でも剣やるだろ」
「まあ」
「その後三十分なら十分じゃない?」
「……じゃあ三十分」
イザークは少し不満そうだが、拒否はしなかった。
「一本勝負?」
「三本やりたいって昨日言ってたじゃん」
「覚えてたのか」
「覚えてるよ」
「じゃあ三本」
「ただし、一回ごとに少し休む」
「分かった」
「木剣」
「当たり前だ」
「魔術なし」
「お前と剣でやるのに魔術使う気ないぞ」
「なら決まり」
「何だろうな」
イザークが苦笑する。
「前より細かいのに、前より誘いやすくなった気がする」
「何で?」
「前のお前、何でも『いいよ』だったから」
「誘いやすいじゃん」
「違うんだよ。何でもいいって言われると、本当にやりたいのか分からないんだ」
俺は手を止めた。
「そうなの?」
「そうだよ」
「でも今は?」
「三本やりたいって言ったら、三本はやる。でも三十分で終わるってお前が決めた」
「うん」
「だから、お前もやりたいんだなって分かる」
そんなものなのか。
「友達というのは、案外そういうものかもしれませんね」
ナナリーが静かに言った。
「相手へ合わせていただくだけですと、こちらも申し訳なくなりますから」
「ナナリーも?」
「はい。私もクルセス様へ何かお願いする時、以前より少し気が楽です」
「俺、断ったことあった?」
「そこです」
「え?」
ミリアナが笑い出す。
「クルセス君、断らないから頼みにくかったの」
「意味分からない」
「断っていい人の方が頼みやすいの」
「何で?」
「断れない人にお願いしたら、本当は嫌でもやってくれちゃうでしょう?」
「出来るならやればよくない?」
「それで自分の予定潰す人が言うと説得力ないよ」
「……」
何も言えない。
リビアが隣で笑っている。
「リビア、知ってた?」
「もちろん」
「教えてよ」
「何度も教えたわ」
「そうだっけ?」
「セスは昔、私が『本を取って』と言っただけで、別の仕事を途中で止めて取りに来たのよ」
「頼まれたから」
「近くにいた侍女に頼めばよかったのに」
「リビアが俺に言ったから」
「だからでしょう?」
「……難しい」
「でも今は分かってきたでしょう?」
「少し」
サザリーが食後のお茶へ口をつけながら、俺たちの会話を聞いていた。
「クルセス」
「何?」
「今度、領地経営の課題を一緒に検討しないか?」
「やる」
「即答だね」
「やりたいから」
「では、今度時間を決めよう」
「うん」
言ってから気づく。
頼まれたからではない。
俺がやりたい。
だから受けた。
「……なるほど」
「何が?」
「今ちょっと分かった」
「何を?」
「断れる方が頼みやすいって話」
イザークが笑った。
「遅い」
「今分かったんだからいいだろ」
「まあな」
昼休みの残り時間は、そのまま朝の領地経営課題の話になった。
俺は食料を優先。
サザリーは橋の補強を俺より一段階強くする案。
ナナリーは井戸の問題を重く見た。
ミリアナは周辺領地との共同輸送を提案した。
答えが違う。
でも、理由を聞けばどれも分かる。
どれが絶対に正しいという話ではない。
条件次第で変わる。
気づけば昼休み終了の鐘が鳴るまで、俺たちはずっとその話をしていた。
◇
午後の剣術授業は、二人一組での基本的な攻防練習だった。
今日は勝敗をつけない。
一方が三回攻撃し、もう一方が受けるか避ける。
その後に交代。
攻撃側も全力ではなく、相手が反応出来る速度を保つ。
俺の相手はイザークではなく、別の男子生徒だった。
「クルセス、速すぎたら言うからな」
「分かった。最初かなり遅くする」
「かなりはやめろ。普通でいい」
「普通ってどのくらい?」
「……先生!」
いきなり呼ばれた教師がこちらを見る。
「どうした?」
「クルセスの普通が分かりません!」
周囲から笑いが起きた。
「クルセス」
「はい」
「相手の動きを見て、最初はお前の感覚で三割程度に落とせ」
「三割」
「それで相手に確認しろ」
「分かりました」
基準が出来れば簡単だ。
構える。
「行くよ」
「来い」
最初の一撃。
相手は受けた。
「どう?」
「もうちょい速くていい」
「じゃあ少し上げる」
二撃目。
今度も受ける。
三撃目は少し角度を変えた。
相手の木剣が遅れて追いつく。
「今くらい」
「分かった」
交代する。
相手が打ち込んでくる。
俺は受ける。
次は避ける。
三撃目。
反射的に踏み込みそうになって、止めた。
今日は反撃の練習ではない。
「……今、何かしようとした?」
「反撃しそうになった」
「怖っ」
「してないだろ」
「顔がしたそうだった」
「顔で分かる?」
「何となく」
また笑われる。
でも、悪くない。
俺は強い攻撃を出すだけではなく、相手に合わせて速度を変える。
相手も俺に合わせる。
その中で、少しずつ出来ることが増える。
こういう練習も面白い。
授業の最後、教師から全体へ声がかかった。
「来月の実技確認について質問が多いので説明しておく。通常の授業内容を確認するものであり、特別な技を披露する場ではない。クルセス」
「何で俺を見るんですか?」
「迅雷撃破は禁止だ」
「使いませんよ!」
また笑いが起きた。
「五属性については?」
誰かが聞く。
「現在、学園側で追加測定を行っているため、クルセスだけ一部の評価方法を変更する可能性がある。決まり次第本人へ伝える」
「俺だけ?」
「お前だけだ」
「普通に受けたかった」
「お前の普通については今朝から議論になっていると聞いたぞ」
「先生まで知ってるんですか?」
「教室で騒げば聞こえる」
逃げ場がない。
授業が終わると、イザークがすぐに寄ってきた。
「三十分な」
「覚えてる」
「三本」
「覚えてるって」
「今日は一本取る」
「昨日も似たこと言ってなかった?」
「今日は取る!」
「分かった」
俺は笑いながら木剣を持ち直した。
◇
放課後の練習場は、授業直後ということもあって何人かの生徒が残っていた。
俺たちは端の空いている区画を借りる。
教師にも自主練習をすることを伝えた。
「三十分だな?」
「はい」
「終わったら片付けて帰れ。熱くなって延長するなよ」
「はい」
教師がイザークを見る。
「お前もだ」
「何で俺まで」
「二人でやるからだ」
「はい」
イザークも素直に返事をする。
俺たちは向かい合った。
最初の一本。
イザークは以前より明らかに慎重だった。
最初から俺へ飛び込んでこない。
木剣の間合いぎりぎりを保ちながら、俺の足を見る。
俺も動かない。
「来ないの?」
「その手には乗らない」
「何の手?」
「お前、俺が先に動いた方がやりやすいだろ」
「まあ」
「だから動かない」
「じゃあ俺から行く?」
「……それはそれで嫌だな」
「どっちだよ」
周囲で見ていた生徒から笑いが起きる。
でも、イザークの目は笑っていない。
集中している。
なら、俺から行く。
一歩。
速さは抑える。
正面。
イザークが受ける。
そのまま押さずに、俺は一度引く。
イザークが追う。
そこで切り返す。
「っ!」
イザークが身体を捻った。
木剣が制服の肩をかすめる。
「今の避けた」
「危なかった!」
「前なら当たってた」
「言うな!」
でも、本当にそうだ。
イザークは変わっている。
俺が何をするか見ている。
前にやったことを覚えて、次へ使っている。
面白い。
もう一度踏み込む。
イザークが下がる。
俺が追う。
さらに下がる。
端へ追い込むつもりだった。
その瞬間、イザークの足が止まった。
来る。
俺が気づいた時には、イザークが一歩前へ出ていた。
下がり続けると思わせてからの踏み込み。
木剣が俺の脇腹へ伸びる。
身体を捻る。
避ける。
でも。
「当たった!」
木剣の先が制服をほんの少し擦った。
「……当たったな」
「よっしゃあ!」
「浅いけど」
「当たった!」
「一本判定?」
「一本だろ!」
近くで見ていた生徒たちが騒ぎ始める。
「今の一本でいいんじゃない?」
「クルセス避け切れてなかったぞ」
「イザークやるじゃん!」
「聞いたか!」
イザークが嬉しそうに笑う。
俺は自分の脇腹を見る。
痛くはない。
でも、確かに触れた。
「一本」
「認めた!」
「当たったから」
「よし!」
イザークが木剣を握ったまま拳を上げる。
俺も笑っていた。
「もう一回」
「おう!」
「でも休憩」
「今!?」
「一回ごとに休むって決めただろ」
「……そうだった」
イザークが勢いを失う。
周囲からまた笑いが起きた。
俺たちは練習場の端へ移動し、水を飲む。
「どうだった?」
俺が聞く。
「何が?」
「今の」
「お前が追ってくると思ったから、ずっと下がってた」
「わざと?」
「そう。昨日は途中で焦って打ちに行ったから、今日は我慢した」
「へえ」
「お前、追い込めると思ったら少し前に出るだろ」
「……出るかも」
「そこ狙った」
「すごいな」
「だろ?」
イザークが得意そうに笑う。
「次は引っかからないけど」
「言うなよ!」
「だって今聞いたから」
「聞いたお前が悪い!」
「何で?」
笑いながら水を飲む。
負けた。
一本取られた。
なのに嫌ではない。
むしろ次にどうするか考えるのが楽しい。
二本目。
今度は俺が追いすぎない。
イザークも同じ手は使わない。
互いに一度ずつ打ち込み、受け、距離を取る。
最後はイザークが俺の肩を狙ったところを受け流し、そのまま木剣を胴へ当てた。
「一本」
「くそ!」
「一対一」
「次!」
「休憩」
「分かってるよ!」
今度は自分からイザークが練習場の端へ向かった。
「学習した」
「俺だって学習する」
「いいことだ」
「何で上からなんだよ」
二度目の休憩。
残り時間を見る。
まだ十分以上ある。
「三本目出来るな」
「当然」
「終わったら終わり」
「分かってる」
イザークが水筒を置く。
「なあ」
「何?」
「お前、今日楽しそうだな」
「うん」
「即答?」
「楽しいから」
「……そっか」
「イザークは?」
「楽しいに決まってるだろ」
「じゃあいいな」
「おう」
三本目へ向かう。
その時、練習場の入口に人影が見えた。
銀青色の髪。
リビアだ。
腕には二冊の本を抱えている。
俺は一瞬そちらを見る。
目が合った。
リビアが笑って、小さく手を振る。
来た。
そう思っただけなのに、胸の辺りが少し軽くなる。
「クルセス」
「え?」
「今、完全にパウリー様見てただろ」
「見てた」
「隠せよ!」
「何で?」
「勝負中だぞ!」
「まだ始めてないだろ」
「そうだけど!」
周囲から笑い声が上がる。
リビアも聞こえたらしく、少し頬を赤くしながら見学用のベンチへ座った。
俺は木剣を構える。
「今度は見ない」
「絶対だぞ」
「始まったらな」
「よし」
三本目。
イザークが来る。
今度は迷いがない。
最初から速い。
俺は一撃目を受け、二撃目を避ける。
三撃目。
フェイント。
昨日までなら引っかからなかったかもしれない。
でも、さっき一本取られたことで、俺もイザークの動きを少し警戒しすぎている。
木剣が途中で止まり、別の角度から来る。
「っ」
受ける。
少し遅れた。
イザークがさらに踏み込む。
面白い。
反射的に速度を上げたくなる。
でも、今日は全力で叩き潰す勝負ではない。
相手の動きを見る。
次。
右。
いや、左。
俺は一歩下がった。
イザークの木剣が空を切る。
そこへ踏み込む。
木剣を首筋の手前で止めた。
「……参った」
イザークが息を吐く。
「二対一」
「負けた」
「でも一本取られた」
「そこは忘れんなよ」
「忘れない」
木剣を下ろす。
教師が遠くから声をかける。
「時間だぞ!」
壁の時計を見る。
三十分。
本当にちょうどだった。
「終わり」
俺が言う。
イザークも時計を見る。
「もう一本……」
「三本って決めた」
「だよなあ」
「また今度」
「いつ?」
「予定見て決めよう」
「分かった」
イザークは少し名残惜しそうだったが、木剣を片付け始める。
俺も一緒に片付ける。
まだ身体は動く。
もう一本出来る。
たぶん三本でも四本でも出来る。
でも、今日はここまで。
そして不思議なことに、以前ほど「まだ出来るのにもったいない」とは思わなかった。
次があるからだ。
「セス」
片付けを終えたところでリビアが来る。
「図書館終わった?」
「今日はね。全部は読めなかったけど」
「本持ってる」
「これは借りられた方。閉架書庫の記録は持ち出し禁止だったわ」
「面白かった?」
「面白いというか……気になることが増えた」
「何?」
「昔の無属性結界は、今より術式を細かく分けていたみたいなの」
「細かく?」
「うん。今は一つの結界術式として扱うものを、外側、内側、維持、干渉防止みたいに別々に組んでいた記録があって」
「それ、重ねるの?」
「たぶん。でもまだ全部読めてないから、断定しない」
「じゃあ続き読む?」
「明日か明後日に」
「いいな」
「セスも読む?」
「読みたい」
「じゃあ、借りた方は後で貸す」
「俺の五属性の本も貸すよ」
「約束してたものね」
「うん」
話していると、イザークが木剣を戻して帰ってきた。
「パウリー様、見ました?」
「最後だけだけど」
「俺、一本取りました!」
「見てないところで?」
「はい!」
「残念」
「クルセス、証言しろ!」
「取られたよ」
「本当に?」
「脇腹に先が当たった」
「すごいわ、イザーク君」
「ですよね!」
イザークが嬉しそうだ。
「でも二対一で俺」
「それ今言う必要あるか!?」
「結果聞かれたら困るだろ」
「誰も聞いてない!」
リビアが声を上げて笑う。
周囲に残っていた生徒たちもつられて笑った。
俺も笑う。
楽しい。
素直にそう思う。
◇
練習場を出る頃には、夕方の光が校舎の窓へ反射していた。
イザークは途中で別れ、俺とリビアは二人で正門へ向かう。
今日は手を繋いでいない。
俺は右手に鞄、リビアは胸元に本を二冊抱えている。
「セス」
「何?」
「今日、私が来た時、見たでしょう?」
「見たよ」
「すぐ気づいた?」
「うん」
「どうして?」
「銀青色の髪、目立つから」
「……それだけ?」
リビアの声が少し不満そうになる。
「それだけじゃないけど」
「じゃあ何?」
何だろう。
練習場には他にも人がいた。
入口へ誰か来るたびに見ていたわけではない。
でも、あの時は気づいた。
「来るって言ってたから、ちょっと待ってたのかも」
「……私を?」
「うん」
リビアが黙る。
「何?」
「何でもない」
「顔赤いけど」
「夕日のせい」
「こっち日陰だよ」
「セス」
「何?」
「そういうところだけ鋭いのやめて」
「何で?」
「何でもないの!」
分からない。
でも、リビアが怒っているわけではなさそうだ。
「図書館、もっといたかった?」
「ううん。今日は区切りのいいところまで読めたから」
「俺のせいで切り上げたんじゃない?」
「セス」
「はい」
「今の質問、一回だけならいいわ」
「うん」
「私は自分で、今日はそこまでにしたの。それでセスの練習を見に行った」
「分かった」
「だから謝らないで」
「まだ謝ってない」
「今から言いそうだった」
「……ちょっと」
「でしょう?」
リビアが笑う。
「でも、聞いてくれたのは嬉しい」
「何で?」
「勝手に『俺のせいで切り上げさせた』って決めなかったから」
「あ」
「ちゃんと私に聞いたでしょう?」
「うん」
「それならいいの」
「そっか」
正門が近づく。
俺は少し考えてから、リビアの抱えている本を見る。
「一冊持とうか?」
「これは?」
「荷物持ちの執事として」
「嫌」
「即答?」
「婚約者なら?」
「……持とうか?」
「ふふ」
「何?」
「同じ言葉なのに」
「じゃあ婚約者として持つ」
「お願いします」
一冊受け取る。
思ったより重い。
「重いじゃん」
「二冊くらい平気よ」
「知ってる。でも一冊持つ」
「うん」
並んで歩く。
片方の手が本で塞がったから、今日は手を繋がない。
それでも距離は近い。
「セス」
「何?」
「今日、ライゼルのこと何回考えた?」
急な質問だった。
「朝一回。訓練中一回。あと……今」
「授業中は?」
「ほとんど考えてない」
「昼も?」
「領地経営の話してた」
「剣の時は?」
「イザークのことしか見てなかった」
「私が来てからは?」
「リビアも見た」
「そこは嬉しい」
リビアが小さく笑う。
「リビアは?」
「朝と、お昼に少し。それから図書館で一度」
「結構少ない」
「うん」
「今日、先生たちが話してるのに」
「うん」
「いいのかな」
俺が言うと、リビアは少し考える。
「いいんじゃない?」
「何で?」
「私たちが考え続けても、今日の話し合いの内容は変わらないもの」
「……そうだな」
「先生たちへ任せたんでしょう?」
「うん」
「なら、任せてる間は自分たちのことをしていいと思う」
「そっか」
「セス、今日楽しかった?」
「楽しかった」
「剣?」
「剣も。授業も」
「領地経営?」
「うん。サザリーと今度一緒に課題やることになった」
「よかったわね」
「リビアは?」
「図書館楽しかった」
「結界?」
「うん。昔の術式の考え方、今と全然違うの」
「後で教えて」
「セスも五属性の本の話を教えてね」
「うん」
俺たちはそれぞれ別のことをしていた。
俺は授業を受けて、友達と昼を食べ、剣を振った。
リビアは授業を受け、図書館で自分の魔術について調べた。
途中から俺の練習を見に来た。
そして今は一緒に帰る。
それが妙に心地いい。
「リビア」
「何?」
「毎日ずっと一緒じゃなくてもいいんだな」
リビアが俺を見る。
「……急にどうしたの?」
「今日思った」
「うん」
「別々にやりたいことやって、後で話すのも楽しい」
「うん」
「前は、リビアの予定に俺が全部合わせるのが普通だと思ってた」
「知ってる」
「今は、俺もやりたいことある」
「うん」
「でも、リビアと一緒にいたくないわけじゃない」
言った後で、少しだけ胸がざわつく。
リビアは何も言わない。
「むしろ」
続ける。
「別々にいた後で会うと、何してたか聞けるから面白い」
「……うん」
「リビアが図書館で何見つけたとか」
「うん」
「俺がイザークに一本取られたとか」
「そこはちゃんと覚えておくわ」
「忘れていい」
「嫌」
「何で?」
「セスが負けた貴重な記録だから」
「負けてない。二対一」
「一本は取られた」
「イザークと同じこと言ってる」
リビアが笑う。
俺も笑った。
そのまま馬車へ向かう。
◇
屋敷へ戻ると、玄関でグレイヴが待っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。クルセス」
「ただいま戻りました」
「ただいま」
俺が持っている本を見て、グレイヴが一瞬だけ眉を動かす。
「図書館の資料です」
リビアが先に説明する。
「セスが持ってくれました」
「そうですか」
「婚約者として」
「お嬢様」
「何?」
「大変結構でございます」
「でしょう?」
何で二人とも満足そうなんだ。
「父さん」
「何だ」
「剣やってきた」
「見れば分かる」
制服は乱れていないが、少し汗をかいたからだろう。
「三十分で終わった」
「そうか」
「三本やった」
「結果は?」
「二対一」
「お前が二本か」
「うん」
「一本取られたのか?」
「……何でそこ食いつくの?」
「イザーク君に一本取られたのよ」
「お嬢様!」
「事実でしょう?」
グレイヴの目が少し細くなる。
怒っているわけではない。
むしろ興味を持っている顔だ。
「どのように?」
「下がるふりされて、追ったら踏み込まれた」
「なるほど」
「次は取られない」
「そう言い切るな。相手も次を考える」
「……それもそうか」
「良い相手を見つけたな」
俺は少しだけ驚いた。
「うん」
すぐに答えた。
「友達だから」
「そうか」
グレイヴはそれだけ言って頷いた。
以前なら、俺の剣の相手は父さんだった。
屋敷の護衛たちだった。
訓練のために剣を振った。
今は学園に、次も一緒にやりたいと思える相手がいる。
「それと」
グレイヴが続ける。
「学園から連絡が入っている」
俺とリビアの空気が少しだけ変わった。
「今日の?」
俺が聞く。
「ライゼル・シュザーとの面談は予定通り実施されたそうだ」
「結果は?」
「詳細は明日、学園で説明するとのことだ」
「それだけ?」
「ああ」
「面会出来るかどうかは?」
「その連絡には記載されていない」
「そっか」
胸の中へ、ほんの少しだけ緊張が戻る。
でも。
「明日か」
「そうだ」
「分かった」
それ以上は聞かない。
グレイヴも推測を言わない。
「セス」
リビアが俺を見る。
「うん」
「明日、一緒に聞こうね」
「うん」
「今は?」
俺は少し考える。
「着替える」
「その後は?」
「リビアの本読む?」
「その前に汗流してきて」
「分かってるよ」
「それからお茶にしましょう」
「うん」
明日になれば、結果を聞く。
その結果によっては、ライゼルと会うことになるかもしれない。
逆に、まだ会わないことになるかもしれない。
俺の気持ちが変わる可能性もある。
リビアだって同じだ。
でも、それは明日の話だ。
◇
着替えを済ませた後、俺たちはいつもの談話室へ移動した。
今日は俺がお茶を淹れた。
執事だからではない。
「俺が淹れたいから」
そう言ったら、リビアが妙に嬉しそうな顔をした。
テーブルの上には二冊の本がある。
一冊はリビアが図書館から借りてきた無属性魔術に関する古い研究書。
もう一冊は、俺が部屋から持ってきた五属性魔術の基礎研究書だ。
「交換する?」
「うん」
俺は自分の本をリビアへ渡す。
リビアも自分の本を俺へ差し出した。
「でも、セス」
「何?」
「これ、かなり難しいわよ」
「読んでみる」
「分からなかったら?」
「聞く」
「私も分からないかもしれない」
「じゃあ先生に聞く」
「うん」
「リビアも俺の本で分からなかったら聞いて」
「誰に?」
「俺?」
「ふふ。分かった」
俺は借りた本を開く。
古い本ではあるが、閉架書庫の資料ほどではないらしく、紙もしっかりしている。
最初の頁には、無属性魔術の分類について書かれていた。
「結界って、こんなに種類あるんだな」
「今はもっとまとめて教えるの」
「何で?」
「術式が改良されて、一つの構成で複数の機能を持たせられるようになったからだと思う」
「昔は?」
「一つずつ別に組んでいたみたい」
「それ、重ねたらどうなる?」
「今日、私もそこが気になった」
リビアが身を乗り出す。
「外側で衝撃を受けて、その内側で魔力干渉を防いで、さらに内側で術者側への反動を減らす構成があったの」
「三枚?」
「記録上は三層」
「リビア、今も重ねられるよね?」
「出来る。でも今の私が使う多重結界は、基本的には同系統の結界を複数重ねて強度を上げる方法なの」
「じゃあ違う機能を重ねるのは?」
「出来なくはないと思う。でも、維持が難しい」
「魔力?」
「それもあるけど、制御の方」
リビアが自分の指先を見る。
「一枚目と二枚目で術式が違うと、それぞれ別に維持しなければならないでしょう?」
「うん」
「三枚なら三つ」
「俺の属性切り替えと似てる?」
聞くと、リビアが少し考えた。
「似てる部分はあるかもしれない。でも、セスは一つの基礎魔力を変換点で切り替えている可能性があるんでしょう?」
「ベルナルト先生はそう言ってた」
「私の場合は同時維持だから、少し違うと思う」
「そっか」
「でも」
リビアが俺の持っている本へ目を落とす。
「考え方を比べるのは面白いかも」
「じゃあ今度先生に聞こう」
「うん」
俺は本へ戻る。
少し難しい。
知らない術式記号もある。
でも、面白い。
向かい側ではリビアが俺の本を読んでいる。
時々眉を寄せる。
何か気になったらしい。
「セス」
「何?」
「これ」
本をこちらへ向ける。
「属性変換前の魔力は無属性状態に近い、って書いてあるでしょう?」
「うん」
「それなら、無属性結界で変換前の魔力へ干渉したらどうなるの?」
俺の手が止まった。
少し前の追加測定で出た話を思い出す。
俺は五属性を別々に持っているのではなく、一つの基礎魔力を共通の変換過程で属性へ変えている可能性がある。
もし、その共通部分を乱されたら。
「……それ、俺で試すの禁止されてるやつに近くない?」
リビアも止まった。
「……そうかも」
「やらない方がいいな」
「やらない」
「絶対?」
「セスこそ」
「俺もやらない」
二人で顔を見合わせる。
「先生に聞こう」
「うん」
「ベルナルト先生?」
「エレナ先生にも」
「じゃあ次の測定の時」
「それがいいわ」
本を閉じる必要はない。
考えるのをやめる必要もない。
でも、自分たちだけで試さない。
それだけだ。
「リビア」
「何?」
「こういうのも楽しいな」
「本?」
「一緒に読むの」
リビアが少し目を丸くする。
「……うん」
「剣も楽しいし、授業も面白いし」
「うん」
「学園、思ってたよりやること多い」
「嫌?」
「全然」
むしろ。
「もっと早く来てもよかったかも」
リビアが本を置いた。
「セス」
「何?」
「それ、本当に?」
「うん」
「私が無理に連れてきたからじゃなくて?」
「最初はリビアが行けって言ったから来たけど」
「……うん」
「今は俺が来てよかったと思ってる」
リビアの目が少し潤む。
「また泣く?」
「泣かない」
「昨日もそんな顔してた」
「セスが最近、私がずっと聞きたかったことを急に言うからでしょう」
「何?」
「来てよかったってことも」
「うん」
「婚約者でよかったってことも」
「うん」
「自分のせいじゃないって言えたことも」
「うん」
「全部」
リビアは少し困ったように笑う。
「嬉しいの」
「そっか」
「うん」
俺は少し迷ってから、テーブルの上へ手を出した。
リビアが見る。
「手?」
「うん」
「本読むんじゃないの?」
「読むけど」
「片手で?」
「頁めくる時だけ離す」
リビアが笑う。
「効率悪いわよ」
「嫌ならいいけど」
「嫌なんて言ってない」
リビアの手が重なる。
指が絡む。
最近、手を繋ぐことは増えた。
でも今日は、何か不安だったからではない。
学園長室へ行くからでもない。
ライゼルの話をするためでもない。
ただ、繋ぎたかった。
「セス」
「何?」
「今、どうして繋いだの?」
聞かれる。
少し前なら答えられなかったかもしれない。
今日は。
「繋ぎたかったから」
「……うん」
「それじゃ駄目?」
「全然」
リビアが少しだけ俺の手を強く握る。
「それが一番嬉しい」
「そっか」
片手では本が読みづらい。
確かに効率は悪い。
でも、今日はそれでもよかった。
◇
翌日になれば、先生たちからライゼルとの話し合いの結果を聞く。
会うのか。
まだ会わないのか。
会うなら、いつなのか。
その時、俺は何を言うのか。
分からないことは残っている。
でも今日は、イザークに一本取られた。
サザリーと領地経営の課題を一緒に考える約束をした。
授業で新しい実技確認の予定を知った。
リビアは図書館で昔の結界術式を見つけた。
俺たちは本を交換した。
朝は自分で訓練を終えられた。
放課後も決めた時間で剣を置けた。
そして今、俺はリビアと手を繋ぎながら、借りた本を読んでいる。
待っている日だからといって、その日まで止まる必要はない。
まだ答えが出ていない問題があっても、楽しいと思っていい。
誰かが俺たちのために確認してくれている間は、その人たちへ任せて、自分の時間を過ごしていい。
そんな当たり前のことを、俺は今まであまり知らなかった。
「セス」
「何?」
「頁、さっきから変わってないわよ」
「……考え事してた」
「ライゼル?」
「違う」
「じゃあ何?」
俺は少し考えてから、正直に答える。
「今日楽しかったなって」
リビアが目を細める。
「うん」
「明日も楽しいといいな」
「そうね」
「話聞くから、ずっと楽しいは無理かもしれないけど」
「それでもいいでしょう?」
「うん」
嫌な時間があってもいい。
緊張する時間があってもいい。
楽しい時間までなくす必要はない。
俺はようやく一頁めくった。
繋いでいた手が一度離れる。
頁を押さえる。
すると、リビアの方からもう一度手が伸びてきた。
「戻すの?」
「駄目?」
「駄目じゃない」
「じゃあ」
もう一度、指が絡む。
明日の答えは、明日聞けばいい。
今はまだ、今日の続きをしていていい。
俺はそう思いながら、リビアと一緒に次の頁を読み始めた。




