第29話 話を聞いたら答えが出ると思っていたのに、分からないことが増えました
翌日の放課後、最後の授業を終えた俺は、教科書を鞄へしまいながら窓の外を見た。
昼過ぎまで薄く広がっていた雲はいつの間にか切れ、西へ傾き始めた日差しが校舎の壁を淡い橙色に染めている。教室では帰宅する生徒たちが椅子を引き、部活動へ向かう者たちが友人を呼び合っていて、昨日とほとんど変わらない放課後の音が重なっていた。
けれど、俺の中には朝からずっと、小さく引っかかっているものがある。
昨日、レイモンド先生から聞いた話だ。
シュザー家当主と学園側の事前面談はすでに終わっている。
今日はその内容を俺とリビアが聞く。
それだけだ。
ライゼルは来ない。
シュザー家当主も来ない。
今日、何かを決める必要もない。
昨日の夜に何度も確認した内容を、朝になってからも思い出した。だからといって一日中そのことだけを考えていたわけではなく、授業中は授業へ集中出来たし、昼休みにはイザークから昨日の模擬戦について「次は三本勝負だからな」と言われて言い返す余裕もあった。
それでも、何も気にしていないわけではない。
昨日の夜、リビアへ言った通りだった。
少し緊張している。
「セス」
隣から呼ばれて顔を向ける。
リビアはすでに帰り支度を終えていたが、立ち上がらずに俺を見ていた。
「準備出来た?」
「うん」
「じゃあ行く?」
「うん」
俺も鞄を持って立ち上がる。
その時、前の席にいたイザークが振り返った。
「今日、学園長室だっけ?」
「うん」
「例の件?」
「そう」
詳しい内容を教室で話すつもりはないし、イザークもそれを分かっているらしい。それ以上は聞かず、少しだけ表情を引き締めた。
「そっか」
「うん」
「……じゃあ、剣の続きはまた今度な」
「明日は?」
「お前、今日の話聞いてから決めろよ」
「出来そうなら?」
「それならいいけど」
イザークは苦笑しながら鞄を肩へ掛ける。
「昨日の今日で『明日もやろう』って言えるなら元気そうだけどな」
「まだ話聞いてないから」
「それもそうか」
「終わってから決める」
「おう」
以前の俺なら、ここで先に約束していたかもしれない。
明日も出来る。
今日の話くらいで疲れるわけがない。
そう考えて予定を入れ、実際に疲れていてもそのままやっただろう。
でも、今は分からない。
なら、決めなくていい。
「クルセス様」
ナナリーが近くから声をかけてくる。
「はい」
「その……詳しいことは存じませんけれど、今日はお二人で行かれるのですよね?」
「うん」
「お気をつけて、というのも変かもしれませんが」
「今日は話聞くだけだから大丈夫」
そこまで言って、少し止まる。
大丈夫。
また便利な言葉を使いそうになった。
「……たぶん、身体的に危ないことはないよ。ライゼルも来ないって聞いてる」
「はい」
「話の内容は、まだ分からないけど」
ナナリーが一度瞬きをしてから、小さく笑った。
「はい。それなら、お帰りになった後はゆっくりなさってください」
「ありがとう」
「パウリー様も」
「ありがとう、ナナリー」
リビアも笑顔を返す。
そのやり取りを聞いていたミリアナが、机に頬杖をつきながら俺を見る。
「最近のクルセス君、『大丈夫』の使い方変わったね」
「そう?」
「前は何聞いても大丈夫だった」
「そんなに?」
「そんなに」
イザークまで頷く。
「剣でぶっ飛ばされても言いそうだった」
「それは怪我による」
「ほら、今は条件つけた」
「……悪い?」
「褒めてんだよ」
イザークが笑う。
教室の空気も重くはならない。
俺たちが何の話を聞きに行くのか知っている者はいる。それでも、腫れ物のように扱われることもなく、いつもと同じように送り出してくれる。
「じゃあ行ってくる」
「おう」
「また明日ね」
「はい、パウリー様」
俺とリビアは教室を出た。
◇
学園長室までの廊下は、昨日より静かだった。
授業を終えた生徒たちの多くは正門や部活動の施設へ向かっているらしく、こちら側の校舎には人影が少ない。窓から差し込む夕方の光の中を細かな埃がゆっくり漂い、遠くから聞こえる吹奏楽器の音が時々途切れながら届いていた。
リビアは俺の隣を歩いている。
今日はまだ手を繋いでいない。
何となく、俺から手を出す。
リビアが気づいて俺を見る。
「手」
「……うん」
指が触れる。
そのまま絡む。
昨日も、一昨日も、何度も繋いだ。
それでも、触れた瞬間に少し落ち着くのは変わらない。
「セス」
「何?」
「緊張、どれくらい?」
「数字?」
「数字でもいいわ」
考える。
「三くらい」
「十で?」
「うん。リビアは?」
「四」
「俺より高い」
「昨日から気になってたもの」
「眠れた?」
「眠れたわよ」
「先生に言わなくていい?」
「大丈夫」
リビアが答えてから、すぐに苦笑する。
「……今の大丈夫は、本当に大丈夫よ。睡眠不足もないし、朝ご飯も食べたし、授業中も普通だったから」
「条件ついた」
「セスのせいで私まで気にするようになったの」
「いいことじゃない?」
「たぶんね」
少し笑う。
それだけで、胸の奥にあった固さが少し緩んだ。
「リビア」
「何?」
「今日、何聞きたい?」
「お父様……じゃなくて、シュザー家当主が、ライゼルのしたことをどう考えているのか」
「うん」
「それと、ライゼルが家でどうしているのか。学園で先生たちに話した時と同じなのか、それとも家では違うのか」
「俺もそこ気になる」
「あと、今後どうするつもりなのか」
「監督とか?」
「うん」
リビアの指が俺の指へ少し強く絡む。
「それから……」
「うん」
「どうしてライゼルが、私のことをあんなふうに考えるようになったのか、何か分かったなら聞きたい」
俺はすぐには答えなかった。
それは俺も気になっている。
ライゼルは、リビアが自分で俺を選んだことを受け入れられなかった。
俺が惑わせている。
本当のリビアなら、元平民の執事を選ばない。
そんなことを言った。
でも、どうしてそこまで思ったのか。
「分かるかな」
「分からないかもしれない」
「そっか」
「でも、分からないなら、それも今日分かることよ」
「……なるほど」
「セスが最近言ってるでしょう? 分からないことと、分かってることを分けるって」
「俺、そんなに言ってる?」
「言ってる」
「そう?」
「うん」
リビアが笑う。
学園長室が見えてきた。
扉の前で一度止まる。
「入る?」
「うん」
「手は?」
俺が聞く。
「セスは?」
「このままがいい」
「私も」
なら、そのまま。
俺は空いている方の手で扉を叩いた。
「どうぞ」
学園長の声がする。
扉を開けた。
◇
学園長室には、オズワルド学園長、レイモンド先生、エレナ先生の三人がいた。
前回と同じ顔ぶれだ。
ベルナルト先生はいない。
机の上には数枚の書類が重ねられているが、以前の追加測定の時のような魔術関連の資料ではないらしい。
「失礼します」
「失礼いたします」
「来たか。二人とも、そこへ」
オズワルド学園長がソファを示す。
俺とリビアは並んで座った。
手を離すか少し迷ったが、リビアがそのままにしているので、俺も離さなかった。
レイモンド先生が向かい側へ座り、エレナ先生はその隣に腰を下ろす。
「まず確認する」
エレナ先生が俺を見る。
「体調は?」
「身体疲労ゼロ。魔力疲労ゼロ。痛みもありません」
「昨日の剣術練習の影響は?」
「朝は少し腕が重かったですけど、今はないです」
「それをゼロとする?」
聞かれて考える。
「今はゼロです。でも朝は一くらい」
「分かった」
エレナ先生が頷く。
「オリビア嬢は?」
「身体は問題ありません。緊張は四くらいです」
「十段階で?」
「はい」
「理由は今日の話?」
「そうです」
「睡眠や食事に影響は?」
「ありません」
「分かりました」
先生はそれ以上追及しなかった。
体調確認が終わると、オズワルド学園長が机の上の書類へ一度目を落とした。
「昨日伝えた通り、シュザー家当主との事前面談は一昨日行った」
「はい」
「出席者は私、レイモンド、エレナ。それから学園側の記録担当者一名。シュザー家からは当主本人と、家の文書を扱う従者一名だ」
俺は黙って聞く。
「まず、二人にとって重要と思われる部分から話そう」
学園長が顔を上げる。
「シュザー家当主は、ライゼルの行為について、改めて家として正式に謝罪した」
リビアの指がわずかに動く。
「内容は?」
俺が聞く。
「息子が学園内で攻撃魔法を使用し、複数の生徒を危険へ晒したこと。特にクルセスに対して継続して攻撃を行い、最終的にフレイムストームまで使用したことについて、理由の如何にかかわらず正当化出来ないと明言した」
「理由の如何にかかわらず?」
「ああ」
「俺がリビアを惑わせてるとか、そういうのが本当だったとしても?」
言ってから、隣のリビアの視線を感じた。
「仮にライゼルがそう信じていたとしても、だ」
学園長は俺の言葉を否定せず、そのまま答える。
「相手が気に入らない、自分の考えと異なる、誰かが不当に影響されていると思った。そのような認識があったとしても、学園内で攻撃魔法を向けてよい理由にはならない。シュザー家当主も、その点について異論は示さなかった」
「そっか」
少しだけ息が抜ける。
俺は、シュザー家当主が息子を守るために何か理由をつける可能性も考えていた。
貴族だから。
魔法師団長の息子だから。
リビアを思ってしたことだから。
そういう話になるかもしれないと思っていた。
「むしろ」
レイモンド先生が続ける。
「当主は、ライゼルが『オリビア嬢を守るためだった』と主張したとしても、それを理由に処分を軽くすることは望まない、と話した」
「……自分の息子なのに?」
「自分の息子だからこそ、という言い方だった」
俺は少し黙る。
リビアも何も言わない。
「それは……」
言葉を探す。
「厳しい人なんですか?」
学園長たちが一度視線を交わした。
すぐには答えが返ってこない。
「そこは慎重に分けて考えたい」
エレナ先生が口を開く。
「昨日の面談だけで、シュザー家当主が家庭内でどのような父親なのかまで断定することは出来ません」
「はい」
「魔法師団長として規律を重視する人物であることは事実です。ただ、それがそのまま家庭内の関係を示すわけではない」
「分かりました」
勝手に決めない。
また同じだ。
「じゃあ、ライゼルが家でどうしてたかは?」
俺が聞くと、レイモンド先生が手元の紙を確認した。
「事件後、シュザー家へ戻されてから、当主の判断で魔術訓練は停止されている」
「全部?」
「少なくとも攻撃魔法を含む通常訓練はな。本人だけで訓練出来ないよう、家の訓練設備についても使用を制限しているそうだ」
「ライゼル、納得してるんですか?」
「不満は示したらしい」
「やっぱり」
「ただし、無断で訓練しようとしたという報告はない」
「そっか」
「学園から課された課題と、通常科目の学習は続けている。外出についても家の管理下に置かれている」
リビアが少し身を乗り出す。
「家では、今回のことを何と言っているんですか?」
「そこが一番難しい部分だ」
レイモンド先生の声が少し低くなる。
「当初は、学園で我々へ話した内容と大きく変わらなかったらしい」
「セスが私を惑わせていると?」
「そうだ」
リビアの表情が固くなる。
「家族にも?」
「当主には、そう話したと聞いている」
「……そうですか」
リビアの声は落ち着いている。
でも、繋いでいる手から力が伝わる。
俺は握り返す。
守るためではない。
ここにいると伝えるくらいの力で。
「ただし」
レイモンド先生が続ける。
「当主は、その主張を受け入れなかった」
リビアが顔を上げる。
「受け入れなかった?」
「ああ。『オリビア嬢本人がそう言ったのか』と確認したそうだ」
「……」
「ライゼルは、直接そう言われたわけではないと答えた」
俺は眉を寄せる。
「じゃあ、何でそう思ったんですか?」
「当主も同じことを聞いた」
「答えは?」
「明確ではなかった」
「明確じゃない?」
「ライゼルは、オリビア嬢が以前と変わったこと、クルセスが学園へ来てからさらに距離が近くなったこと、自分の知っているオリビア嬢ならそのような選択はしないと思ったことなどを話したそうだ」
「……それ、前と同じですよね」
「基本的にはな」
「理由になってない」
俺が言うと、リビアが小さく息を吐いた。
「セス」
「何?」
「ううん。続けてください」
レイモンド先生が頷く。
「当主も、同じ点を指摘したそうだ。『お前が知っているオリビア嬢と、本人が何を望むかは別だ』と」
俺は少し驚いた。
「そこまで?」
「ああ」
「ライゼルは?」
「反発した」
やっぱり。
「何て?」
「詳細な言葉をすべて伝える必要はないと思うが、要旨としては『父上はクルセスを知らない』『あいつが普通ではないことを知らない』というものだったそうだ」
「……普通じゃない?」
「そこに引っかかるの?」
エレナ先生が呆れたように俺を見る。
「いや、だって」
「五属性を使って、迅雷撃破を使って、編入初日にあれだけのことをしておいて、そこ?」
「俺の話は今いいです」
「自分から聞いたのよ」
「……はい」
隣でリビアが少し笑った。
さっきまで固くなっていた指から、少しだけ力が抜ける。
「ライゼルが言う『普通ではない』は、能力だけの話ではない」
レイモンド先生が話を戻す。
「元平民でありながら伯爵家の養子となり、公爵家で執事見習いをしながらオリビア嬢の婚約者となったこと。それに加え、剣術や魔術で高い能力を持っている。そうしたクルセスの存在そのものを、ライゼルは自分の理解出来る枠へ収められていないようだ」
「俺が変だから、リビアも変になったって思ってる?」
「かなり乱暴にまとめれば、近い部分はあるかもしれない」
「ひどいまとめ方ね」
リビアが少し眉を寄せる。
「俺が言ったんだけど」
「セスが言っても駄目」
「何で?」
「私が変になったみたいだから」
「そういう意味じゃないよ」
「分かってるけど」
リビアが少しだけ頬を膨らませる。
エレナ先生の口元がわずかに緩んだ。
「少なくとも」
学園長が静かに続ける。
「シュザー家当主は、ライゼルの認識を事実として受け入れてはいない」
「はい」
「そして、ここが昨日の面談で新たに分かった点だ」
部屋の空気が少し変わる。
俺は自然と姿勢を正した。
「ライゼルは以前から、オリビア嬢との婚姻を自分の将来の選択肢として強く意識していたらしい」
リビアの眉が寄る。
「……私は、そのような約束をしたことはありません」
「分かっている」
学園長はすぐに答えた。
「シュザー家当主も、婚約の約束をした事実はないと明言している」
「では、どうして?」
「そこがまだ完全には分からない」
まただ。
分からないこと。
「シュザー家として、パウリー公爵家との婚姻を正式に進めていた事実はない。両家の間で具体的な交渉が行われたこともない。当主自身も、息子へ『オリビア嬢と結婚させる』と約束したことはないと話している」
「でもライゼルはそう思ってた?」
「少なくとも、可能性が高い将来だと考えていたようだ」
リビアが黙り込む。
俺も考える。
ライゼルは公爵令嬢のリビアを知っている。
自分は魔法師団長の息子。
昔から知り合いだった。
だから?
「誰かに言われたんですか?」
俺が聞く。
「それも確認した」
「どうでした?」
「現時点では、特定の人物が婚姻を確約したという事実は確認されていない」
「じゃあ自分で?」
「その可能性はある。ただし、それもまだ断定はしない」
学園長が指を組む。
「貴族社会では、子供の頃から家格や将来の婚姻について周囲が話題にすることは珍しくない。正式な約束ではない言葉が積み重なり、本人の中で期待や前提になった可能性もある」
「誰かが悪いって決まったわけじゃない?」
「そうだ」
「家族がそう教えたって決まったわけでもない?」
「そうだ」
「ライゼルが全部勝手に思い込んだって決まったわけでもない?」
「現時点では、その通りだ」
俺は息を吐いた。
「分からないこと増えた」
「そうだな」
学園長は否定しなかった。
「でも」
俺は少し考える。
「分かったこともある」
「何が?」
「シュザー家当主は、少なくとも『ライゼルが正しい』とは言ってない」
「ああ」
「リビアとの婚約が決まってたわけでもない」
「ああ」
「攻撃したことも庇ってない」
「その通りだ」
それだけでも、昨日までとは違う。
俺はシュザー家当主がどんな人なのか知らなかった。
ライゼルの父親。
魔法師団長。
そのくらいしか知らない。
だから、もしかしたら息子と同じように俺を嫌っているのかもしれないと思っていた。
「セス」
リビアが小さく呼ぶ。
「うん」
「今、少し安心した?」
「した」
「私も」
リビアの肩から少し力が抜ける。
ただ、その顔から迷いが消えたわけではない。
「先生」
今度はリビアが学園長を見る。
「ライゼルは、お父様……シュザー家当主からそう言われて、何か変わったんですか?」
「すぐには変わらなかったそうだ」
「はい」
「ただ、当主が繰り返し『オリビア嬢本人の意思を、お前が否定する根拠は何だ』と問い続けた結果、最後まで同じ主張を続けることは出来なかったらしい」
「……それで、以前先生方にも『分からない』と?」
「時系列としては、家でのやり取りが先だ」
レイモンド先生が答える。
「その後、我々が改めてライゼルと話した。その際、オリビア嬢本人の意思について尋ねたところ、『分からない』という返答が出た」
「じゃあ」
俺は二つの話を頭の中で並べる。
「父親に言われたことが、少し残ってた?」
「可能性はある」
「でも確定じゃない?」
「本人がそう説明したわけではないからな」
「そっか」
思ったより難しい。
原因が一つあって、それを直せば終わる話ではないらしい。
「もう一つ」
レイモンド先生が言う。
「当主から、我々へ伝えてほしいと言われた言葉がある」
「俺たちに?」
「主にクルセスへだ」
俺は少し身構える。
「何ですか?」
レイモンド先生は書類へ視線を落とさず、俺を見た。
「『息子の行為について、被害を受けた側へ理解を求めるつもりはない』」
部屋が静かになる。
「……理解?」
「ライゼルにも事情があった、若かった、感情的になった、オリビア嬢を思ってのことだった。そのような説明をもって、クルセスに納得や許しを求めるつもりはない、という意味だ」
「はい」
「『謝罪を受けるかどうかも、許すかどうかも、クルセス本人が決めることであり、シュザー家から要求することではない』」
俺は言葉を返せなかった。
前に学園長から聞いたことと同じだ。
でも、ライゼルの父親までそう言っている。
「それ、本当に?」
「ああ」
「俺が許さなくても?」
「それを理由に、シュザー家が抗議や追加の接触を行うことはないと改めて確認している」
「……そっか」
胸の奥にあった何かが、また一つ小さくなる。
自分でも気づいていなかった。
俺はまだ少し、怖かったのかもしれない。
大きな貴族の家から正式に謝られたら、受けなければいけない。
許さなければいけない。
そうしないと、後で何か問題になる。
前に学園長から否定されても、完全には消えていなかったらしい。
「クルセス」
エレナ先生が俺を見る。
「今、何を考えてる?」
「……前に聞いたのと同じだなって」
「謝罪と許し?」
「はい。でも、シュザー家の当主も同じこと言うんだなって」
「それで?」
「少し楽になりました」
「そう」
「でも」
「何?」
「だったら、何のために会うんですか?」
口にした瞬間、全員の視線が俺へ集まった。
「許してもらうためじゃない。俺に事情を理解してもらうためでもない。それなら、ライゼルが俺に謝るためだけ?」
「それも一つだ」
学園長が答える。
「一つ?」
「ああ。だが、面会を行うなら、目的を一つに固定する必要はない」
「どういうことですか?」
「ライゼルが自分のしたことについて、クルセスへ直接言葉を伝える。クルセスが必要なら、自分の考えを伝える。オリビア嬢が望むなら、自分の意思をライゼルへ直接伝える。そして互いに、今後どの程度の距離を置くのか確認することも出来る」
「仲直りするためじゃない?」
「それを目的にはしない」
「友達になるためでも?」
「もちろんない」
「全部解決するためでも?」
「違う」
俺は少し考える。
「じゃあ、話すため?」
「最も簡単に言えば、そうなる」
それなら、少し分かる。
「リビアは?」
俺が隣を見る。
リビアはすぐには答えなかった。
絡んでいる指を見て、それから学園長たちへ顔を向ける。
「私は」
一度息を吸う。
「今は、会って話したいと思っています」
俺は黙って聞く。
「以前も言いましたが、私は自分の意思を、私自身の言葉でライゼルに聞いてほしいです。セスを選んだのは私で、誰かに惑わされたからでも、命令されたからでもありません」
リビアの声は静かだった。
怒鳴ってはいない。
でも、一つ一つの言葉がはっきりしている。
「それを聞いて、ライゼルが納得するかどうかは分かりません」
少しだけ指に力が入る。
「納得してくれたら嬉しいとは思います。でも、納得させることまで私の責任だとは思いたくありません」
俺はリビアを見る。
前より少し違う。
以前は、ライゼルに分かってほしいという気持ちがもっと強かった気がする。
今は。
「聞かせたいだけ?」
「うん」
リビアが俺を見る。
「私が言ったことを、勝手に別の意味へ変えないでほしい。まずそのまま聞いてほしい」
「俺と同じだ」
「同じ?」
「前に俺も言った。リビアが言ったことを、そのまま聞いてほしいって」
「……うん」
「じゃあ、それは変わってないんだ」
「変わってない」
リビアが少し笑う。
「でも、前より『分からせなきゃ』とは思ってないかも」
「何で?」
「セスが言ったから」
「俺?」
「相手がどう思うかまで、私が決められないでしょう?」
「……俺そんなこと言った?」
「似たようなことは言ったわ」
「そう?」
「言ったの」
覚えていない。
でも、リビアがそう受け取ったなら、それでいいのかもしれない。
「では」
学園長が俺を見る。
「クルセスは?」
「俺?」
「ああ。今の時点でどう思っている?」
聞かれる。
前回は決めなかった。
今日は情報が増えた。
シュザー家当主はライゼルを庇っていない。
俺へ許しを求めていない。
リビアとの婚約が約束されていたわけでもない。
ライゼルの考えがどこから来たのかは、まだ完全には分からない。
本人は少しだけ変わった。
でも、俺がリビアを惑わせているという考えを完全に捨てたわけでもない。
「……会ってもいいかなって、前より思います」
自分の口から出た言葉を確かめる。
嫌ではない。
「理由は?」
「シュザー家の当主が来るからじゃなくて」
「うん」
「ライゼルが全部分かったからでもなくて」
「うん」
「先生たちが止めてくれるし、途中で帰っていいし、許さなくてもいいし」
一つずつ並べる。
「リビアも話したいって言ってる」
「それは、オリビア嬢が望むからお前も行く、という意味か?」
レイモンド先生がすぐに聞く。
俺は止まる。
そこは大事だ。
「……違う」
考える。
「リビアが行くなら守らないと、じゃない」
「うん」
「俺も、ライゼルが何を言うか聞いてみたい」
「謝罪を?」
「それも。でも」
何だろう。
自分でもまだはっきりしない。
「何で俺をそんなに嫌うのかは、ちょっと聞いてみたい」
エレナ先生が眉を上げる。
「それを本人へ聞く?」
「駄目?」
「駄目とは言っていない。ただ、答えが返ってくるとは限らない」
「それでもいいです」
「答えによっては、不快になるかもしれない」
「それも……」
少し考える。
「嫌だったら途中でやめていいんですよね?」
「もちろん」
「じゃあ聞けそうなら聞く。無理そうなら聞かない」
「分かった」
エレナ先生が頷く。
「今の答えなら、以前より安心して聞ける」
「前なら?」
「絶対に最後まで聞こうとしたでしょう」
「……するかも」
「するわね」
リビアまで言う。
「二人で言わなくても」
「事実だもの」
「否定出来ないけど」
少しだけ部屋の空気が和らぐ。
俺はもう一度学園長を見る。
「でも、今日決めないと駄目ですか?」
「いや」
「やっぱり?」
「ああ」
学園長はわずかに笑った。
「先ほど『会ってもいいかなと思う』と言った。それは現時点の気持ちとして受け取る。正式な同意とは扱わない」
「ありがとうございます」
「オリビア嬢も同じだ。今は会いたいと思っている。それだけでよい」
「はい」
リビアが頷く。
「次の段階として、我々はライゼル本人ともう一度話す」
「何を確認するんですか?」
「面会の目的を理解しているか。謝罪を、許しを得るための手段として考えていないか。オリビア嬢の話を遮らず聞く意思があるか。クルセスに対する敵意が、面会を危険にする程度に残っていないか」
「魔術は?」
「当然確認する」
エレナ先生が答える。
「当日は魔力制御の状態も確認する。必要なら面会そのものを延期する」
「延期もある?」
「あるわ」
「本人が来てても?」
「ある」
「シュザー家当主が来てても?」
「ある」
「俺たちが来てても?」
「ある」
徹底している。
「じゃあ、面会の日に行って、やっぱり今日は駄目ってなることも?」
「あり得る」
「それでいいんですか?」
「何が?」
「せっかく集まったのに」
「せっかく集まったから危険でも実施する、という判断の方がおかしいでしょう」
「……確かに」
「クルセス」
「はい」
「予定を守ることより、安全に終えることの方が重要な場面もあるの」
「はい」
最近、似たことを色々なところで覚えている気がする。
剣の練習も時間を決めた。
測定も一度に全部やらない。
休む。
分からなければ待つ。
会う約束をしても、駄目ならやめる。
「それと、シュザー家当主の同席についてだ」
学園長が話題を変える。
俺は姿勢を正す。
「昨日の面談を踏まえ、学園としては現時点で、同席させない方がよいと考えている」
「……そうなんですか?」
「ああ」
少し意外だった。
「危ないから?」
「当主本人が危険という意味ではない」
「じゃあ何で?」
「ライゼルが父親の前では、自分の考えを言葉にするより、正しい答えを探そうとする傾向がある可能性が見えたからだ」
「正しい答え?」
リビアが聞く。
「昨日の面談で当主から話を聞いた限り、ライゼルは父親から問われた際、途中から『何と答えれば叱責されないか』を強く意識しているように見えた、ということだ」
「怖がってるんですか?」
俺が聞く。
「そこまでは断定しない」
学園長はすぐに線を引いた。
「尊敬、緊張、反発、親子としての距離、魔法師団長という立場への意識。複数の要素が考えられる。昨日の情報だけで一つに決めることはしない」
「はい」
「ただ、謝罪の場で父親の顔色を見て『正しい謝罪』を言うだけになれば、今回の面会の意味が薄くなる」
それは分かる。
「シュザー家当主は納得したんですか?」
「ああ」
「自分から来たいって言ってたのに?」
「希望はしていた。だが、学園側の判断を聞いた後は撤回した」
「怒らなかった?」
「少なくとも面談の場ではな」
「そっか」
また少し印象が変わる。
「当主からは、必要であれば別の機会にクルセスとオリビア嬢へ直接謝罪する用意があるとも伝えられている。ただし、こちらも二人が望まないなら実施しない」
「それも今決めなくていい?」
「いい」
「分かりました」
俺はソファへ少し身体を預けた。
話はかなり聞いた。
でも、思っていたより疲れてはいない。
緊張は。
「二くらい」
口から出た。
「何が?」
リビアが見る。
「緊張」
「あ」
「今二くらい」
「下がったの?」
「うん」
「私は……三かな」
エレナ先生が少し笑う。
「自分から申告するようになったのはいいことね」
「何か最近、数字にする癖ついてきました」
「便利でしょう?」
「便利です」
「なら使えばいいわ。数字が絶対ではないけれど、自分の状態を言葉にするきっかけにはなる」
「はい」
「では、今日はここまでにする」
学園長が書類をまとめる。
「次に我々がライゼル本人と話す。その結果を踏まえ、面会を実施出来る状態か判断する」
「いつですか?」
「明日を予定している」
「じゃあ、結果は?」
「早くても明後日だ」
「分かりました」
「その間に、二人とも気持ちが変わっても構わない」
「はい」
「会いたいから会いたくないへ変わっても、その逆でもよい」
「はい」
「そして、面会が実施される場合でも、当日の直前に撤回出来る」
俺とリビアは揃って頷いた。
ここまで何度も言われれば、さすがに分かる。
俺たちには選ぶ余地がある。
「最後に何か聞きたいことは?」
学園長が尋ねる。
俺は考える。
リビアも考えている。
「……一個いいですか?」
「ああ」
「ライゼルの処分は?」
まだ聞いていない。
「まだ最終決定ではない」
「面会待ち?」
「違う」
学園長ははっきり答えた。
「面会とは切り離して審議している。攻撃魔法の使用、複数生徒への危険、教師の制止前に攻撃を継続したこと、フレイムストームの使用。それぞれについて学則と過去事例を確認している」
「俺が許したら軽くなるとかは?」
「ない」
「許さなかったら重くなる?」
「それもない」
「分かりました」
前にも聞いた。
でも、もう一度聞いてよかった。
「リビアは?」
「私は……」
リビアは少し迷う。
「ライゼルが戻ってくるとしても、すぐに同じ教室へ戻ることはないんですよね?」
「少なくとも、現在の状態のまま通常授業へ復帰させる予定はない」
「分かりました」
「復帰の可否や方法も、処分とは別に安全面を見て判断する」
「はい」
リビアの肩が少し下がる。
「それなら大丈夫です」
今度の大丈夫には、ちゃんと理由がある。
「では帰りなさい。今日はこれ以上、ここで考える必要はない」
「はい」
「ありがとうございました」
俺たちは立ち上がった。
手は最後まで繋いだままだった。
◇
学園長室を出て扉を閉める。
廊下には夕方の静けさが戻っていた。
俺とリビアはすぐには歩き出さなかった。
「どうだった?」
俺から聞く。
「何が?」
「話」
「……思ってたのと違った」
「俺も」
「もっと、シュザー家当主がライゼルを庇うのかと思ってた」
「俺も」
「同じね」
「うん」
リビアが窓の外を見る。
「でも、ライゼルがどうしてああなったのかは、まだ分からない」
「増えたな」
「何が?」
「分からないこと」
「ふふ」
リビアが小さく笑う。
「タイトルみたいなこと言うのね」
「何の?」
「何でもない」
「?」
「行こう」
歩き始める。
しばらくは二人とも黙っていた。
嫌な沈黙ではない。
聞いたことを頭の中で整理する時間だった。
「セス」
「うん」
「会いたい?」
さっき先生にも聞かれた。
でも、リビアから聞かれると少し違う。
「今は、会ってもいいと思ってる」
「会いたい、じゃなくて?」
「……そこ違う?」
「少し」
「そっか」
考える。
会いたい。
そう言うほど強く望んでいるか。
「まだ『会いたい』まではいかないかも」
「うん」
「でも、会うのが嫌ではなくなってきた」
「そっか」
「リビアは会いたい?」
「私は会いたい」
はっきりしている。
「怖くない?」
「少しは怖い」
「それでも?」
「うん」
リビアは前を向いたまま答える。
「前みたいになったら嫌。でも、先生たちがいるし、止めてくれるって分かったから」
「俺と同じだ」
「セスも?」
「前は、何かあっても俺が止めればいいって思ってた」
「うん」
「今は、先生たちが止めてくれるなら会ってもいいって思ってる」
口にすると、自分でも変わったと思う。
「それ、嬉しい」
「何で?」
「セスが、自分以外の人に守ってもらう前提で考えてるから」
「……そういうことになる?」
「なるわ」
「リビアも守るだろ?」
「もちろん」
「俺も守る」
「セス」
「何?」
「今の流れで戻らないで」
「でも何かあったら」
「先生が止める」
「……はい」
「私も結界張れる」
「はい」
「セスは?」
「逃げる?」
「それでもいい」
「俺だけ?」
「私も一緒に逃げる」
「じゃあそれで」
リビアが笑った。
「セスから『逃げる』って聞ける日が来るなんて」
「戦う必要ないなら逃げた方がいいだろ」
「前は?」
「……戦った方が早いって思ってたかも」
「でしょう?」
「でも学園長室で戦ったら怒られる」
「そこ?」
「違う?」
「違わないけど」
俺たちは笑いながら階段を下りる。
少しだけ身体が軽くなった。
◇
正門へ向かう途中、昨日と同じ場所で俺は足を止めた。
「リビア」
「何?」
「今日、何する?」
「帰ってから?」
「うん」
「昨日決めたでしょう?」
「何だっけ」
「帰りの馬車で手を繋ぐ」
「今もう繋いでる」
「……そうだけど」
「じゃあ馬車でも」
「うん」
「それから?」
「今日はゆっくりしたい」
「疲れた?」
「身体じゃなくて、頭がちょっと」
「数字は?」
「五くらい」
「さっき緊張三だったのに?」
「緊張と疲れは別でしょう?」
「そっか」
「セスは?」
俺も自分の状態を確かめる。
「頭は四くらい」
「じゃあ剣は?」
「今日はやらない」
答えるまで時間はかからなかった。
リビアが目を丸くする。
「本当に?」
「何で驚くの?」
「だって昨日あんなに楽しそうだったから」
「今日やったら集中出来ないかもしれない」
「……うん」
「イザークにも終わってから決めるって言ったし」
「うん」
「明日、元気だったらやる」
「うん」
リビアの笑顔が少しずつ大きくなる。
「何?」
「成長したなって」
「リビアまで先生みたいになってきた」
「婚約者です」
「それ昨日も言った」
「何度でも言うわ」
「じゃあ俺も?」
「何を?」
「婚約者」
リビアが止まる。
「……言って」
「リビアは俺の婚約者」
「もう一回」
「何で?」
「いいから」
「リビアは俺の婚約者」
「もう一回」
「増えてるだろ」
「お願い」
「リビアは俺の婚約者」
通り過ぎた生徒がこちらを見る。
俺は少し恥ずかしくなった。
「もう終わり」
「うん」
リビアは満足そうだ。
「そんなに?」
「そんなに」
「婚約してるの知ってるだろ」
「知ってることと、セスが言ってくれることは別なの」
「難しいな」
「そのうち分かるわ」
「またそれ?」
「またです」
俺たちは正門を抜けた。
◇
馬車へ乗ると、約束通り隣に座った。
指を絡める。
車輪が動き出し、学園の校舎が少しずつ遠ざかっていく。
「セス」
「何?」
「さっきの話だけど」
「婚約者?」
「それも大事だけど違う」
「シュザー家?」
「うん」
リビアは繋いだ手を膝の上へ置く。
「私、少しだけライゼルのことが分からなくなった」
「前から分からなかったんじゃない?」
「そうなんだけど、もっと」
「どういうこと?」
「私、シュザー家で『お前はオリビアと結婚するんだ』ってずっと言われてたのかもしれないと思ってた」
「俺も少し」
「でも、そうじゃないみたい」
「少なくとも父親は言ってない」
「うん」
「じゃあ誰か別の人?」
「それも分からない」
「本人が勝手に?」
「それも分からない」
「……本当に分からないな」
「でしょう?」
馬車が曲がり、窓から入る夕日の角度が変わる。
リビアの銀青色の髪が淡く光った。
「でも」
リビアが静かに続ける。
「分からないからって、私が悪かったことにはならないよね」
「ならないだろ」
そこはすぐ答えられる。
「リビア、何も約束してないんだろ?」
「してない」
「好きって言った?」
「言ってない」
「結婚したいって?」
「言ってない」
「なら、リビアのせいじゃない」
「うん」
「俺も?」
「セスも何も悪くないわ」
「そっか」
「そこは疑ってたの?」
「少しだけ」
「どうして?」
「俺が学園来なかったら、ああならなかったかもしれないから」
リビアの表情が変わる。
「セス」
「でも」
俺は先に続ける。
「それと俺が悪いかは別だろ?」
リビアが口を閉じる。
「……うん」
「俺が来たことがきっかけだったとしても、攻撃したのはライゼルだし」
「うん」
「俺がリビアの婚約者なのも、悪いことじゃない」
「うん」
「だから、俺のせいじゃない」
言い切る。
少し変な感じがした。
以前の俺なら、ここまで言えただろうか。
何か悪いことが起きたら、自分に出来たことを探した。
もっと早く止められた。
もっと上手く避けられた。
俺がいなければ。
でも、それだけではない。
「セス」
「何?」
「今の、もう一回言って」
「また?」
「お願い」
「俺のせいじゃない」
「うん」
リビアの目が少し潤んで見えた。
「何で泣きそうなの?」
「嬉しいから」
「今日それ多い」
「だって」
リビアは少し笑う。
「ずっと言ってほしかったから」
「そうなの?」
「うん」
「じゃあもっと早く言えばよかった」
「それが出来なかったから、今嬉しいの」
「難しい」
「いいの。少しずつで」
馬車が揺れる。
肩が触れる。
俺はそのまま離れなかった。
「リビア」
「何?」
「ライゼルに会ったら、それ言ってもいいかな」
「何を?」
「俺のせいじゃないって」
「……うん」
「でも、何か喧嘩売ってるみたい?」
「言い方によると思う」
「じゃあどう言えばいい?」
「それはセスが考えた方がいいわ」
「教えてくれないの?」
「私の言葉じゃなくて、セスの言葉で言った方がいいもの」
「そっか」
俺は考える。
すぐには出ない。
「今決めなくていい?」
「もちろん」
「じゃあ後で」
「うん」
また一つ、後にした。
でも、逃げた感じはしなかった。
◇
屋敷へ帰った後、俺はグレイヴへ今日の話を簡単に報告した。
全部を最初から説明する必要はなかった。学園から旦那様へ正式な連絡が入る予定だと聞いていたし、グレイヴもそれを知っている。
だから俺が話したのは、自分のことだけだった。
「現時点では、会ってもいいと思ってる」
俺がそう言うと、グレイヴは執務室の机の向こうで静かに頷いた。
「そうか」
「でも、まだ決めてない」
「ああ」
「ライゼルと先生たちが明日もう一回話す。その結果聞いてから」
「分かった」
「リビアは今のところ会いたいって」
「お嬢様ご自身が決めたのだな?」
「うん」
「ならば、それでよい」
グレイヴは余計なことを言わない。
「父さん」
「何だ」
「俺、今日剣やらない」
グレイヴが止まった。
「……何?」
「剣の練習。今日はしない」
「体調が悪いのか?」
「身体は平気。でも頭が疲れた」
「……そうか」
「何?」
「いや」
「また?」
「お前の口から『今日は練習しない』と聞くたびに、まだ少し驚くだけだ」
「そんなに?」
「そんなにだ」
「昨日リビアにも似たこと言われた」
「皆、同じことを考えているのだろう」
「俺、そんなに酷かった?」
グレイヴが答えない。
「父さん?」
「夕食まで休んでこい」
「答えて」
「必要な時に休まなかった回数を数え始めると夕食に間に合わん」
「そんなに?」
「行け」
「はい」
追い出された。
◇
その夜は、リビアと談話室へ行かなかった。
約束していたわけではない。
夕食の後、俺は自室へ戻り、本を開いた。
剣術でも魔術でもない。
授業で扱っている地理の本だ。
領地ごとの街道と河川、冬季の物流について書かれている。
少し前なら、こういう本を自分から読むことはあまりなかった。
必要な範囲は勉強する。
試験に出るなら覚える。
執事として必要なら知る。
その程度だった。
でも、最近は違う。
この街道が塞がれたら、どこへ回すのか。
川が増水したら。
冬に雪が多かったら。
条件が変わるたびに答えも変わる。
それを考えるのが面白い。
数頁読んだところで、扉が叩かれた。
「セス?」
リビアだ。
「どうぞ」
扉が開く。
寝間着ではなく、まだ夕食の時と同じ室内着だった。
「何してるの?」
「本」
「何の?」
「地理」
「……本当に好きになったのね」
「面白いよ」
「入ってもいい?」
「うん」
リビアが部屋へ入る。
俺は椅子を一つ出した。
「お茶は?」
「今日はいい」
「分かった」
リビアが座る。
「何かあった?」
「ううん」
「じゃあ?」
「セスが今日、一人で考え込みすぎてないか見に来た」
「監視?」
「婚約者」
「それ便利だな」
「便利じゃないわよ」
リビアは俺の開いている本を見る。
「シュザー家のこと考えてた?」
「ちょっとは」
「どのくらい?」
「本読めなくなるほどじゃない」
「なら大丈夫そう」
「リビアは?」
「私も少し考えた」
「何を?」
「会った時に何を言うか」
「決まった?」
「最初だけ」
「何て?」
リビアは少し黙る。
「私は、セスを自分で選びました」
静かな声だった。
「それを最初に言おうと思う」
「うん」
「それからは、ライゼルが何を言うか聞いてから」
「決めてない?」
「決めてない」
「そっか」
「駄目?」
「全然」
俺は本を閉じる。
「俺もまだ決めてない」
「うん」
「謝られた時に何て返すかも」
「うん」
「許せるかも分からない」
「それでいいと思う」
「リビアは許せる?」
聞いてから、少し違う気がした。
「ごめん。今答えなくていい」
「……うん」
リビアが小さく笑う。
「今のセス、すごくよかった」
「何が?」
「聞いた後に、自分で気づいたところ」
「答えたくなかった?」
「分からなかった」
「そっか」
「私もまだ分からない。怖かったし、怒ってるし、でも昔から知ってる人でもあるから」
「うん」
「全部混ざってる」
「じゃあ、まだ決めなくていい」
「うん」
静かになる。
窓の外から夜の虫の声が聞こえる。
廊下を使用人が歩く足音が遠くを通り過ぎた。
俺は閉じた本の表紙へ手を置いたまま、リビアを見る。
「今日さ」
「うん」
「話聞いたら、もっと分かると思ってた」
「私も」
「でも、分からないこと増えた」
「うん」
「なのに、昨日より嫌じゃない」
「何が?」
「分からないことがあるの」
リビアが俺を見る。
「前は?」
「早く答え出したかった」
「今は?」
「そのうち分かればいいかなって」
「……うん」
「全部じゃなくてもいいかもしれない」
ライゼルがどうして俺を嫌ったのか。
どうしてリビアとの未来を当然だと思ったのか。
父親との関係はどうなのか。
これからどうなるのか。
全部分かる日は来ないかもしれない。
それでも、俺がどうするかは選べる。
「リビア」
「何?」
「俺、今のところは会ってみようかなって思ってる」
昼間より少しだけ言葉が変わった。
会ってもいい。
そこから。
会ってみようかな。
「……うん」
「まだ決定じゃないけど」
「うん」
「ライゼルと先生たちが話した結果聞いて、それでも同じだったら」
「うん」
「会ってみる」
リビアはすぐに喜ばなかった。
俺の顔をしばらく見ている。
「私のため?」
「それもゼロじゃない」
「うん」
「でも、俺も聞きたい」
「うん」
「だから俺が決める」
リビアの表情が、ゆっくり柔らかくなる。
「分かった」
「リビアも自分で決めて」
「うん」
「俺が行かなくても、リビアが行きたいなら」
「その時は先生たちと相談する」
「うん」
「セスが行って、私がやっぱり行きたくなくなっても?」
「来なくていい」
「うん」
「別々でもいいんだろ?」
「先生たちも、そう言ってたものね」
俺たちは少し笑う。
婚約者だから、一緒にしなければならないわけではない。
同じ答えを出さなければならないわけでもない。
「でも」
リビアが椅子から立つ。
「今は一緒に行きたい」
「俺も」
「うん」
扉へ向かうのかと思ったら、リビアは俺の隣まで来た。
「手」
「今?」
「少しだけ」
俺は手を出す。
リビアが握る。
いつものように指を絡める。
「部屋の中なのに?」
「駄目?」
「駄目じゃない」
「じゃあ少しだけ」
リビアは立ったまま。
俺は椅子に座ったまま。
少し変な体勢だ。
でも、手は温かい。
「セス」
「何?」
「明日、結果出るかな」
「早くて明後日って言ってた」
「そうだった」
「忘れた?」
「ちょっと」
「珍しい」
「色々聞いたから」
「頭疲労五だったし」
「今は三くらい」
「下がった」
「セスと話したから」
「俺は?」
「何?」
考える。
「二くらい」
「本読んでたから?」
「それも。リビア来たからも」
「……そういうこと、急に言うのずるい」
「何で?」
「何でもない」
リビアが手を離そうとする。
俺は反射的に少し握る。
リビアが止まる。
「あ」
「……何?」
「いや」
俺も自分の手を見る。
「まだいい?」
聞く。
リビアの頬が少し赤くなる。
「うん」
「じゃあもう少し」
「うん」
結局、何分くらいそうしていたのかは分からない。
明後日になれば、また新しい情報が来るかもしれない。
その時、俺の考えが変わるかもしれない。
リビアの考えも変わるかもしれない。
それでいい。
分からないことが増えたからといって、今すぐ全部を埋めなくてもいい。
俺はようやく、それを少しずつ分かり始めていた。




