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第27話 婚約者に教わる約束を楽しみにしていたら、今度は俺の方が頼られることになりました

 翌朝、目を覚ました時に最初に思い浮かんだのは、剣術のことでも追加測定のことでもなかった。


 昨日、第三魔術訓練場でリビアに教えてもらった結界魔法の感覚だった。


 正面から受け止めるのではなく、受けた力を周囲へ逃がす。最初から必要な強度を決めて魔力を流し込むのではなく、薄く広げておいて、必要な場所へ必要なだけ足していく。


 頭では理解できている。


 実際にやってみると、俺の結界は右側へ魔力が寄りやすかった。


「……右側」


 寝台の上で右手を見る。


 今なら昨日より上手く出来そうな気がした。


 身体の疲労はない。魔力も十分に戻っている。部屋の中で小さな結界を一枚作るだけなら、危険もほとんどない。


 試してみたい。


 昨日リビアに教えてもらったことを、忘れていないうちに確かめたい。


 右手を少し持ち上げかけたところで、俺はそのまま止まった。


「……次はリビアとやるって言ったな」


 昨日、自分で言った。


 次に練習する時も一緒にやる。


 あれは別に、危険だから一人で使うなと禁止されたわけではない。簡単な結界なら授業でも扱うし、部屋の中で小さく出すだけなら問題にはならないだろう。


 それでも、約束は約束だ。


 何より、昨日の続きは一人でやるよりリビアとやった方が楽しい。


 そう思えた瞬間、試したい気持ちが思ったより簡単に収まった。


「……あとでいいか」


 起き上がり、カーテンを開ける。


 昨日の雨は完全に上がっていた。


 まだ庭の芝や木々は濡れているものの、東の空には薄い青が戻っている。朝日を受けた雫が葉の先で光り、窓を少し開けると、湿った土と草の匂いを含んだ涼しい風が部屋へ入ってきた。


 身体の調子を確かめる。


 痛みはない。


 疲労もない。


 頭の中も昨日より軽い。


 ライゼルのことを忘れたわけではないが、朝から考え続けるほど頭に残ってはいなかった。


 それなら、今日は少し身体を動かしてもいいだろう。


 ただし、いつものように限界までやる必要はない。


 着替えを済ませて庭へ出ると、石畳の一部にはまだ雨水が残っていた。剣を振る場所を選び、足元が滑らないことを確認してから木剣を構える。


 最初はゆっくり。


 踏み込み。


 横薙ぎ。


 切り返し。


 足を運び、身体の軸が崩れていないか確かめながら、一つずつ動きを繋げる。


 雨上がりの朝は普段より音が少なかった。


 木剣が空気を切る音と、靴底が湿った地面を踏む音がはっきり聞こえる。少し離れた場所では朝の仕事を始めた使用人たちが行き来しているが、俺が訓練していること自体はいつもの光景だから、誰も特別に足を止めることはなかった。


 十分ほど動いたところで、額に薄く汗が浮かぶ。


 身体は軽い。


 もう少しやれる。


 そう思ったところで、屋敷の方から声がした。


「セス」


 振り返ると、リビアがテラスからこちらを見ていた。


 今日は淡いクリーム色の朝用ドレスで、片手にはまだ湯気の立つカップを持っている。


「おはよう」


「おはよう。今日は訓練してるのね」


「うん。身体も魔力もゼロだったから」


「どれくらいやった?」


「今で十分くらい」


「あとどれくらい?」


「もう終わろうと思ってた」


 答えると、リビアが一瞬だけ驚いた。


「本当に?」


「何で疑うんだよ」


「だって、私が声をかける前にセスが自分から終わろうとしてるなんて」


「最近ちゃんと終わってるだろ」


「そうなんだけど……」


 リビアはカップを持ったまま庭へ下りてくる。


「ちょっと寂しいわ」


「何で?」


「前は私が『もうやめなさい』って言う役だったから」


「止めなくてよくなったならいいことじゃない?」


「それはそうよ。でも、セスのお世話をする理由が一つ減ったみたいで」


「俺の世話したいの?」


「したいわよ」


 迷わず返された。


「婚約者だもの」


「婚約者って世話するものなの?」


「少なくとも私はしたいの」


「そっか」


 俺は木剣を下ろし、近くに置いてあった布で汗を拭う。


「じゃあ別のことで頼むよ」


「別のこと?」


「昨日の結界」


 リビアの顔がすぐに明るくなる。


「覚えてたの?」


「朝、試したくなった」


「……試した?」


「してない」


「どうして?」


「次はリビアとやるって約束したから」


 今度こそ、リビアは完全に黙った。


 カップを両手で持ったまま、俺をじっと見ている。


「何?」


「セス」


「うん」


「それ、朝から言われるには威力が高すぎるわ」


「何の?」


「分からなくていい」


「最近そればっかりだな」


「セスが分からないまま色々するからでしょう」


 よく分からない。


 ただ、嬉しそうなので問題はないのだと思う。


「今日、出来る?」


「結界の続き?」


「うん」


「今日は放課後に委員会の確認があるの。そんなに長くはかからないと思うけど」


「じゃあ終わってから?」


「セスは?」


「今日は追加測定の予定は聞いてない」


「なら、待っててくれる?」


「うん」


「……待っててくれるのね」


「何で二回言った?」


「嬉しかったから」


 リビアは素直だ。


 俺は時々、どう返せばいいか分からなくなる。


 でも、以前よりは分かることも増えた。


「俺も楽しみにしてるから」


「……うん」


 リビアがカップへ口をつける。


 顔を隠そうとしているようにも見えた。


「それ、何飲んでるの?」


「紅茶」


「冷めるよ」


「誰のせいだと思ってるの?」


「俺?」


「そうよ」


「ごめん」


「謝らなくていいわ」


 また難しいことを言う。


 俺は木剣を片づけながら、リビアと一緒に屋敷へ戻った。


     ◇


 朝食を終え、学園へ向かう馬車の中で、俺は昨日読みかけだった魔術理論の本を開いていた。


 向かいではリビアが結界術式の本を読んでいる。


 最初は隣に座ろうかとも思ったが、二人とも本を広げるなら向かいの方が読みやすい。昨日帰る時には隣に座って手を繋いでいたのに、今日は向かいに座って別々の本を読んでいる。


 不思議と、それも嫌ではなかった。


 会話がなくても気まずくない。


 車輪が石畳を踏む音と、紙をめくる音だけが馬車の中に続く。


 しばらくして、リビアが本から顔を上げた。


「セス」


「何?」


「ちょっと聞いていい?」


「うん」


「魔力を属性へ変換する直前って、セスは何を考えてるの?」


「何を?」


「例えば火を使う時」


 俺は本を閉じる。


「火を使おうって考える」


「それだけ?」


「たぶん」


「熱とか、形とか、色とかは?」


「術式によるかな。ファイアボールなら大きさと飛ばす方向は考えるけど、火そのものは……」


 説明しながら、自分の感覚を探る。


「火にする、って感じ」


「やっぱり変ね」


「リビアまで言う?」


「悪い意味じゃないわ」


「リビアは違う?」


「私は無属性だから、属性変換そのものは出来ないでしょう? でも結界を作る時は、形をかなり細かく意識してる」


「昨日の半球みたいな?」


「そう。どこを中心にするか、どこまで覆うか、何を弾くか、どの程度の強度にするか。全部を言葉で考えているわけじゃないけど、頭の中には形があるの」


「俺も術式の形はあるよ」


「属性を決める前?」


「……どうだろ」


 考える。


 火を使う。


 魔力を流す。


 火へ変える。


 術式を作る。


 でも、本当にその順番なのだろうか。


「分からない」


「珍しい」


「何が?」


「セスが魔術のことで分からないって言うの」


「結構あるよ」


「前は分からないことに気づく前に出来てたのよ」


「それ褒めてる?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「呆れてる」


 リビアが笑う。


「次の測定で確認する?」


「うん。今はやらない」


「偉い」


「また褒めた」


「だって偉いもの」


「普通じゃない?」


「セスにとっては成長よ」


「……それなら受け取る」


 言うと、リビアが嬉しそうに目を細めた。


 最近、褒められた時に否定しない練習もしている。


 最初は落ち着かなかった。


 今も少しだけ落ち着かない。


 でも、相手が本当にそう思って言っているなら、わざわざ否定する必要はないらしい。


「そういえば」


 リビアが本へ栞を挟む。


「昨日の結界、セスが七十五点だったでしょう?」


「うん」


「今日もう一回やったら、たぶんすぐ八十点を超えると思う」


「そうかな」


「セス、感覚を覚えるの早いもの」


「じゃあ百点もすぐ?」


「それは困る」


「何で?」


「もう少し教えたいから」


 その答えに、俺は少し笑った。


「じゃあゆっくり覚える」


「それはそれで手を抜いてるみたいだから嫌」


「難しいな」


「本気でやって。でも、すぐ終わらないで」


「無理じゃない?」


「……確かに」


 二人で笑う。


 馬車が緩やかに速度を落とした。


 学園へ着いたらしい。


     ◇


 午前最初の授業は剣術だった。


 雨上がりで屋外訓練場の一部が使えないため、今日は屋内訓練場で二人一組の基礎練習を行うことになった。


 俺の相手はイザークだった。


「今日は本気でやれるのか?」


 木剣を構えながら、イザークが聞いてくる。


「本気ってどのくらい?」


「それ聞くの怖いな」


「授業の範囲で」


「じゃあそれで」


 向かい合う。


 教師の合図で動き始める。


 今日は勝敗を決める模擬戦ではなく、決められた型から相手の動きに合わせて攻防を変える練習だ。


 イザークが踏み込む。


 木剣が右上から振り下ろされる。


 受ける。


 流す。


 反撃へ移ろうとして、俺は一瞬だけ昨日の結界を思い出した。


 正面から止めない。


 力を逃がす。


「おっ?」


 俺がいつもより柔らかく木剣を滑らせたため、イザークの身体が少し前へ流れる。


 そこへ剣先を添える。


「待て待て!」


 イザークが慌てて止まった。


「何?」


「今の何だよ」


「受け流した」


「それは分かる。いつもと違っただろ」


「昨日、結界で似たこと教わったから」


「結界?」


「リビアに」


 イザークが何とも言えない顔をする。


「魔術を剣に持ってくるのかよ」


「駄目?」


「駄目じゃないけど……」


 少し離れたところにいた剣術教師もこちらを見ていた。


「クルセス」


「はい」


「今の動き、もう一度やってみろ。ただし速度を落として」


「分かりました」


 イザークと位置を戻す。


 同じ角度から打ってもらう。


 今度は意識して、受けた瞬間に力を横へ逃がす。


「なるほど」


 教師が近づいてくる。


「以前から受け流しは出来ていたが、今の方が接触時間が短いな」


「結界で教わったんです」


「結界?」


「はい。攻撃を正面から全部止めないで、周りに逃がすって」


 教師は少し考える。


「理屈は近い。剣の場合は相手の重心まで考える必要があるが、力の向きを変えるという意味では応用出来る」


「じゃあ使っていいですか?」


「もちろんだ。ただし、魔術と剣術は同じではない。似た考え方だからといって、何でもそのまま当てはめるな」


「はい」


「それからイザーク」


「はい!」


「今のはクルセスが上手かっただけではない。お前が踏み込みすぎた」


「うっ」


「攻撃が外れた時に自分で止まれる余裕を残せ」


「分かりました」


 教師が離れる。


 イザークは木剣を構え直しながら、俺を睨んだ。


「パウリー様に結界教わった翌日に剣まで強くなるのずるくないか?」


「俺のせい?」


「お前のせいだよ」


「じゃあイザークも教わる?」


「結界使えねえよ!」


「考え方だけなら」


「……それはちょっと聞きたい」


「聞くんだ」


「使えるものは使う」


 イザークはそう言って、今度は先ほどより慎重に踏み込んできた。


 その後の練習では、俺も新しい受け方だけにこだわらず、今まで使っていた動きと混ぜながら試した。授業の最後には教師から「面白いが、今は基礎を崩すな」と言われたので、それ以上深く追うのはやめた。


 気になる。


 でも、今すぐ完成させなくていい。


 それにも少しずつ慣れてきた。


     ◇


 昼休み。


 今日は雨が上がったため、中庭へ出る生徒も多かった。


 ただ、芝生はまだ濡れているので、俺たちは東棟の屋根付き回廊にある休憩場所を使うことになった。


 石造りの柱の間から中庭が見える。


 雲の隙間から差し込む日差しを受け、濡れた葉がきらきら光っていた。昨日までの雨で少し冷えていた空気も、昼になる頃にはかなり柔らかくなっている。


「聞いたぞ、クルセス」


 座るなり、カイゼル殿下が言った。


「何をです?」


「剣術の授業で、オリビア嬢から教わった結界の考え方を使ったらしいな」


「何で知ってるんです?」


「見ていた生徒がいた」


「広まるの早すぎません?」


「君の場合、目立つからね」


「普通に授業受けてただけなのに」


「クルセス様の『普通』は信用しないことにしました」


 ナナリーまで言う。


「ひどくない?」


「褒めています」


「本当に?」


「半分くらいは」


「今日それ二回目だよ」


 周囲に笑いが起きる。


 リビアは隣で嬉しそうだった。


「私の教え方が良かったのよ」


「そうだと思う」


「……え?」


「昨日教えてもらったから出来たし」


 リビアが一瞬言葉を失う。


 サザリーが静かに飲み物を口へ運びながら、その様子を見ている。


「パウリー公爵令嬢」


「な、何?」


「顔が赤いですよ」


「分かってるわ!」


 珍しく強い声が出た。


 アルフォルド殿下が眉間を押さえる。


「クルセス」


「はい」


「お前は最近、以前より質が悪くなっていないか?」


「何がです?」


「無自覚なところだ」


「前からじゃない?」


 カイゼル殿下が楽しそうに口を挟む。


「前は本人が何も分かっていないまま、結果的にオリビア嬢を喜ばせていた。でも最近は『一緒にいたい』『教えてほしい』『楽しい』くらいまでは自分で分かって言ってる」


「余計に質が悪いな」


「何でです?」


「そこから先だけ分かっていないからだ」


「そこから先?」


「クルセス」


 サザリーが口を開く。


「考えても分からない時は、無理に答えを出す必要はないのでは?」


「サザリーまで最近先生みたいなこと言うね」


「あなたが色々な場所で同じことを教わっているからでしょう」


「そうかも」


 俺は弁当箱を開く。


 今日の中身は、鶏肉と野菜を香草で焼いたものに、小さなパンと果物だった。


 隣のリビアも同じものを食べ始める。


「そういえば」


 アルフォルド殿下が少し声を落とした。


「シュザーの件は、何か進展があったのか?」


 空気が少し変わる。


 俺は箸を止めた。


 ライゼルのことは学園内でも完全な秘密ではない。


 ただ、処分や家とのやり取りについては、必要以上に広めないようにしている。


「昨日、先生から少し聞いたくらいです」


「そうか」


「まだ会わないです」


「……そうか」


 アルフォルド殿下はそれ以上踏み込まなかった。


 カイゼル殿下も、いつもの軽い笑みを少し引っ込めている。


 サザリーは俺ではなく、リビアの方を一度見た。


「パウリー公爵令嬢も?」


「ええ。今は会わないわ」


「それがよいと思います」


「ありがとう」


 短いやり取りだった。


 誰も「許すのか」とは聞かなかった。


 誰も「いつ会うのか」とも聞かない。


 それが少しありがたかった。


 俺は再び食事を始める。


 しばらくして、イザークが空気を変えるように口を開いた。


「そうだ。クルセス、明日の放課後どうする?」


「剣?」


「うん」


「予定確認してからって言ったな」


「覚えてたか」


「覚えてるよ」


「追加測定がなければ?」


「やろう」


「よし」


「でも一時間くらい」


「何で時間決めるんだ?」


「やりすぎるから」


「お前が?」


「たぶんイザークも」


「……否定出来ない」


「二人とも似たところあるのね」


 リビアが呆れたように言う。


「でも、ちゃんと時間を決めるならいいんじゃない?」


「リビアが許可するの?」


「セスの婚約者として」


「俺の訓練、婚約者の許可制になった?」


「嫌?」


「別に」


「そこは少しくらい抵抗しろよ」


 イザークが笑う。


「リビアが止めるの、大体正しいし」


「……セス」


「何?」


「そういう信頼の仕方もずるいわ」


「だから何がずるいの?」


「分からなくていい!」


 まただ。


 最近、本当に多い。


     ◇


 午後の授業が終わると、リビアは予定通り委員会の確認へ向かった。


「たぶん三十分くらい」


「分かった」


「待てる?」


「子供じゃないんだから」


「セス、待ってる間に訓練始めたりしない?」


「しないよ」


「結界も?」


「しない」


「魔術理論の実験も?」


「しない」


「剣も?」


「しないって」


「じゃあ何して待つの?」


「図書室行く」


 俺が本を持ち上げると、リビアはようやく安心した。


「終わったら迎えに行くわ」


「俺が委員会の部屋まで行こうか?」


「いいの?」


「待ってるだけだし」


「じゃあ、終わったら一緒に行きましょう」


「うん」


 リビアと別れ、図書室へ向かう。


 放課後の廊下は授業中とは違って少し騒がしい。


 部活動へ向かう生徒、友人同士で話しながら帰る生徒、教師へ質問しに行く生徒が行き交っている。


 以前の俺なら、こういう時間が少し苦手だった。


 自分が何をすればいいのか決まっていない時間。


 誰かを待つだけの時間。


 仕事も訓練もせずに過ごす時間。


 今は、それほど落ち着かなくない。


 図書室へ入り、窓際の席へ座る。


 魔術理論の本を開いた。


 昨日と今朝に読んだ続きだ。


 変換前の魔力経路。


 術式との接続。


 複数属性を扱う術者の事例。


 数は少ないが、二属性適性を持つ術者についての記録も載っている。


 多くの場合、二つの属性では魔力の流し方に差があるらしい。


 火を使う時は胸の辺りに熱を感じる。


 水を使う時は腕を通る感覚が強い。


 そういう個人差が記録されている。


 俺はどうだろう。


 火も水も、風も土も雷も、出す直前までは同じだ。


 たぶん。


 確認したい。


 でも、今はしない。


 本の余白へ書き込むことは出来ないので、持ってきた紙へ質問を書いておく。


『属性変換前の感覚は五つとも本当に同じか』


『術式を先に考えているのか、属性を先に決めているのか』


『結界のような無属性術式との違い』


 そこまで書いて、少し考える。


『剣術の受け流しと結界の力分散は、考え方としてどこまで共通するか』


 これはベルナルト先生より剣術教師へ聞いた方がいいかもしれない。


 質問が増えた。


 でも、嫌ではない。


 むしろ楽しい。


「クルセス様?」


 声をかけられて顔を上げる。


 ナナリーが立っていた。


 腕には数冊の本を抱えている。


「ナナリー」


「お一人ですか?」


「リビア待ってる。委員会」


「なるほど」


 ナナリーは俺の前にある本と紙を見る。


「勉強ですか?」


「うん。追加測定で分からなかったところ」


「自主実験ではなく?」


「みんなそこ確認するな」


「重要なので」


「してないよ」


「よかったです」


 ナナリーが安心したように笑う。


「座る?」


「よろしいんですか?」


「俺の席じゃないし」


「では、少しだけ」


 向かいの椅子へ座る。


 彼女が持っていたのは歴史と魔術法規の本だった。


「課題?」


「はい。来週提出なんです」


「どこ?」


「魔術事故が起きた場合の責任区分についてです」


「この前やったやつ?」


「授業の続きです」


 少し前の法学の授業を思い出す。


 予見出来た危険。


 防げた事故。


 責任。


 あの授業は面白かった。


「難しい?」


「考えることが多くて」


「条件分けると楽だよ」


「条件?」


「故意か事故か。危険を知ってたか。防ぐ方法があったか。先生の指示に従ってたか、とか」


 俺が思いついたものを挙げると、ナナリーが目を丸くした。


「クルセス様、法学も得意なんですか?」


「得意かは分からない。こういうの考えるの好き」


「意外です」


「みんな言う」


「剣や魔術の方が好きなのかと思っていました」


「それも好き。でも最近、条件考えるのも好きだって分かった」


「最近?」


「学園来てから」


 ナナリーは少しだけ笑った。


「では、学園へ来てよかったですね」


「うん」


 以前にも口にした言葉を、今度は迷わず言えた。


「来てよかった」


 ナナリーの表情が柔らかくなる。


「私も、クルセス様が来てくださってよかったと思います」


「何で?」


「助けていただいたから、という意味だけではありませんよ」


「じゃあ?」


「クラスが前より賑やかになりました」


「俺のせい?」


「半分くらいは」


「今日、半分って言われる日だな」


 小さく笑う。


 図書室なので声は抑えた。


 ナナリーも笑いながら、自分の課題へ視線を戻した。


 しばらくは互いに本を読む。


 会話はない。


 でも気まずくない。


 俺はまた一つ、学園での普通の時間を過ごしている。


     ◇


 三十分ほどして、図書室の入口にリビアが現れた。


 俺を見つける。


 その直後、向かいに座っているナナリーを見る。


 足が少しだけ止まった。


「……セス」


「終わった?」


「終わったわ」


 声は普通だ。


 でも、何となく表情が普通ではない。


「パウリー様、お疲れさまです」


 ナナリーが立ち上がる。


「ナナリーさん。セスと勉強してたの?」


「いえ、偶然お会いしたので、少しだけ同じ席を使わせていただいていました」


「そう」


 リビアが俺を見る。


「何?」


「別に」


「怒ってる?」


「怒ってないわ」


「じゃあ何?」


「……少しだけ羨ましかっただけ」


「何が?」


「私が委員会に行ってる間に、セスと一緒に図書室にいたこと」


 ナナリーが困ったように笑う。


「申し訳ありません」


「ナナリーさんが謝ることじゃないわ!」


 リビアが慌てる。


「本当に。私が勝手にそう思っただけだから」


「でも」


「大丈夫よ」


 言ってから、リビアが俺を見る。


「……これは普通の大丈夫だからね」


「俺、何も言ってない」


 ナナリーが口元を押さえる。


 最近、この言葉まで妙な扱いになっている。


「じゃあ行く?」


「うん」


 俺は本を閉じる。


「ナナリー、課題頑張って」


「ありがとうございます。条件を分けて考えてみます」


「分からなかったら先生に聞いた方がいいよ」


「クルセス様ではなく?」


「俺、先生じゃないし」


「ふふっ。そうですね」


 ナナリーと別れ、図書室を出る。


 廊下へ出たところで、リビアが隣を歩きながら小さく息を吐いた。


「ごめんね」


「何が?」


「ちょっと嫉妬した」


「ナナリーに?」


「うん」


「何で?」


「だから、私がいない間にセスと二人でいたから」


「図書室で本読んでただけだよ」


「分かってるわ」


「じゃあ?」


「分かってても、少し羨ましいの」


 俺にはまだ完全には理解出来ない。


 でも、否定する必要もないと思った。


「そっか」


「それだけ?」


「他に何かする?」


「……セスはナナリーさんと二人でいて、楽しかった?」


「普通に」


「普通に?」


「課題の話した。あと本読んでた」


「私といる時と同じ?」


 質問されて考える。


 同じではない。


「違う」


「どう違うの?」


「リビア待ってたし」


「え?」


「ナナリーと話してる間も、委員会終わったらリビア来るなって思ってた」


 リビアが立ち止まりかける。


 俺も足を緩めた。


「それ、安心させるために言ってる?」


「違うよ」


「本当に?」


「うん。今日、結界の続きする約束だったし」


「……そっか」


 リビアの口元が少しずつ緩む。


「じゃあ、もう大丈夫」


「嫉妬終わった?」


「そんな簡単なものでもないけど」


「難しいな」


「セスもそのうち分かるかもしれないわよ」


「俺が嫉妬?」


「するかもしれないでしょう?」


「リビアが誰かと図書室にいたら?」


「例えば」


 想像する。


 リビアがアルフォルド殿下と二人で本を読んでいる。


 カイゼル殿下でも。


 サザリーでも。


 嫌か。


「……ちょっと嫌かも」


 口にした瞬間、リビアの目が大きく開いた。


「セス」


「何?」


「もう一回言って」


「何を?」


「今の」


「ちょっと嫌かも?」


「誰と?」


「誰って……」


「アルフォルド殿下?」


「二人なら嫌」


「カイゼル殿下?」


「嫌」


「サザリー様?」


「それも」


「イザーク君?」


「何でイザーク?」


「誰ならいいの?」


「女の子の友達なら別に」


「男の人は?」


「……二人きりなら、たぶん嫌」


 リビアの顔がどんどん赤くなる。


「何でそんな嬉しそうなの?」


「嬉しいから」


「嫌って言ってるのに?」


「セスが嫉妬してくれたから」


「これ嫉妬?」


「たぶん」


 胸の中を確かめる。


 怒っているわけではない。


 リビアが誰と話すかを俺が決めたいわけでもない。


 でも、男と二人きりで楽しそうにしていたら、少し落ち着かない気がする。


「……これが?」


「うん」


「変な感じだな」


「嫌?」


「感覚が?」


「嫉妬すること」


「分からない。でも、リビアに誰とも話すなとは思わないよ」


「うん」


「ただ、二人きりはちょっと嫌」


「うん」


 リビアが嬉しそうに何度も頷く。


「何か俺だけ損してない?」


「してないわ」


「リビアは嫉妬して安心して、俺が嫉妬してもリビアが喜ぶ」


「私は得してるわね」


「やっぱり」


「でも、セスが嫌なら気をつける」


 今度は俺が少し驚いた。


「いいの?」


「セスだって、さっき私が嫉妬した時に馬鹿にしなかったでしょう?」


「しないよ」


「だから私も、セスが嫌だと思うことはちゃんと聞くわ」


「でも、必要なら男の人と二人で話すこともあるだろ」


「もちろん。授業や仕事ならね」


「それならいい」


「だから、何でも禁止じゃなくて、嫌だと思った時は言って」


「うん」


「私も言う」


「分かった」


 また一つ、知らなかった感情に名前がついた。


 好きかどうか。


 恋愛かどうか。


 そういう大きな答えはまだよく分からない。


 でも、リビアが他の男と二人でいるのは少し嫌らしい。


 それを知っただけでも、前より自分のことが分かった気がした。


「……セス」


「何?」


「手、繋いでいい?」


「今?」


「今」


「いいよ」


 差し出された手を取る。


 指を絡める。


 廊下には他の生徒もいるが、最近は以前ほど気にならなくなった。


「これで機嫌直った?」


「最初から怒ってないわ」


「嫉妬は?」


「今はかなり減った」


「手繋ぐと減るの?」


「セスが私といるって分かるから」


「一緒に歩いてる時点で分からない?」


「そういう問題じゃないの」


「難しい」


「そのうち分かるわ」


 何度目か分からない言葉を聞きながら、俺たちは第三魔術訓練場へ向かった。


     ◇


 訓練場の入口で使用記録を書き、昨日と同じ小区画へ入る。


 今日は他にも二組ほど生徒が利用していた。


 一組は水属性魔術の制御練習、もう一組は教師立ち会いで簡単な防御術式を確認している。十分に距離が取られているため、互いの訓練へ影響することはない。


「じゃあ、昨日の続きね」


「先生、お願いします」


「まず七十五点だった結界を見せて」


「覚えてるかな」


「朝から試さなかったんでしょう?」


「うん」


「なら、そのままやってみて」


 手を離す。


 少し名残惜しい。


 今までなら、魔術を使う時にそんなことを考えたことはなかった。


 でも今は、指先に残った温かさを少しだけ意識している。


 気持ちを切り替える。


 魔力を広げる。


 無属性のまま薄い膜を作る。


 昨日より最初の出力を抑え、右側へ寄りすぎないよう意識する。


 半透明の結界が正面へ形成された。


 リビアが近づき、表面へ触れる。


「……八十二点」


「超えた」


「やっぱり」


「嬉しくない?」


「嬉しいけど悔しい」


「先生なのに?」


「一日で七点上がる生徒は教え甲斐があるけど、卒業が早そうで嫌」


「卒業?」


「私から教わることがなくなること」


 俺は結界を維持したまま考える。


「なくならないんじゃない?」


「どうして?」


「リビアの方が結界ずっと詳しいし、本も読んでる。俺が一つ覚えても、次あるだろ」


「……そうね」


「だからまだ教えて」


「うん」


 リビアの笑顔が戻る。


「じゃあ今日は、昨日話した衝撃分散をやってみましょう」


「どうする?」


「私が小さな魔力球を当てる」


「攻撃するの?」


「すごく弱いものよ」


「分かった」


「最初は私が自分の結界で見せるわ」


 リビアが少し離れ、結界を作る。


「セス、無属性の魔力球を作れる?」


「出来る」


「私の結界の中心へ、ゆっくり当てて」


「強さは?」


「これくらい」


 リビアが指で示す。


 俺は小さな魔力球を作った。


「いくよ」


「どうぞ」


 ゆっくり飛ばす。


 球が結界へ触れる。


 その瞬間、結界全体に淡い波紋が広がった。


「今の分かった?」


「中心から外に逃げた」


「そう。もう一回」


 二度目。


 今度は魔力の動きを意識して見る。


 接触した一点だけを硬くしているのではない。


 結界全体が一瞬だけ柔らかく沈み、力を広い範囲へ分散している。


「すごいな」


「でしょう?」


「これ、もっと強い攻撃でも?」


「限界はあるわ。でも、一点で受け止めるより必要な魔力量を抑えられる場合がある」


「じゃあ俺もやる」


「待って」


「何?」


「最初から同じことをしようとしない」


「駄目?」


「セスは昨日、均等化を覚えたばかりでしょう。今日はまず、私がすごく弱い球を当てるから、結界を壊さずに少し沈ませるだけ」


「分かった」


 俺が結界を作る。


 リビアが小さな魔力球を浮かべた。


「行くわよ」


「うん」


 球が飛んでくる。


 結界へ当たる。


 俺は力を逃がそうとする。


 しかし。


 ぱん、と小さな音がした。


 魔力球が弾かれて横へ飛んだ。


「……弾いた」


「弾いたわね」


「駄目?」


「今の目的では駄目」


「結界としては?」


「すごく丈夫」


「じゃあ半分成功?」


「二十点」


「厳しくない?」


「今日は先生だから」


 リビアが得意そうに笑う。


「もう一回。今度は当たる直前に硬くしないで」


「俺、硬くしてた?」


「してた。たぶん無意識に」


「分かった」


 二度目。


 また弾いた。


 三度目。


 少し沈んだが、すぐに押し返した。


「今のは?」


「四十点」


「上がった」


「でもまだ押し返してる」


「難しい」


「楽しい?」


「うん」


「ならよかった」


 何度か繰り返す。


 少しずつ、受けるという感覚から逃がすという感覚へ変えていく。


 十回ほど試したところで、魔力球が結界へ当たり、表面が柔らかく沈んだ。


 波紋が左右へ広がる。


 球は勢いを失い、その場で消えた。


「出来た」


「出来たわ」


「今の何点?」


「七十点」


「急に上がった」


「形になったから」


 嬉しい。


 でも、それ以上に、リビアが嬉しそうなのが目に入った。


「先生、嬉しそう」


「だって教えたこと出来たもの」


「教えるの好き?」


「セスになら」


「俺限定?」


「今はね」


「そっか」


 また少し胸が温かくなる。


 俺は結界を消した。


「次は?」


「少し休憩」


「まだ疲れてないよ」


「知ってる。でも、今の感覚を一回整理してから次にした方がいいわ」


「なるほど」


 言われた通り、区画の端にある長椅子へ座る。


 リビアも隣へ来た。


 少しだけ水を飲む。


「セス」


「何?」


「私も一つ頼んでいい?」


「結界?」


「魔術じゃなくて」


 声が少し変わった。


 俺は水筒を閉じ、リビアを見る。


「何?」


「今日の委員会で、来月の学園行事について話があったの」


「行事?」


「交流演習」


 聞いたことはある。


 学年内でいくつかの班を作り、普段あまり組まない生徒同士で課題へ取り組む行事だ。


「それがどうしたの?」


「まだ班分けは決まってないんだけど、委員会の生徒は運営補助に入る可能性があるの」


「リビアも?」


「うん」


「じゃあ俺とは別?」


「その可能性があるわ」


 リビアが少しだけ視線を落とす。


「嫌なの?」


「少し」


 正直に答えた。


「セスと一緒に参加したかったから」


「そっか」


「でも、委員会の仕事ならやるわ。嫌だから外してくださいとは言いたくない」


「うん」


「ただ……」


 リビアの指が膝の上で重なる。


「私、セスに言っておきたかったの」


「何を?」


「もし私が運営側になって、セスが別の班になっても、ちゃんと他の人を頼ってね」


 少し意外だった。


「俺?」


「うん。セス、私がいないと一人で全部やろうとする可能性があるでしょう?」


「最近はしないよ」


「分かってる。でも、だからこそ頼みたいの」


 リビアは顔を上げる。


「私がいない場所でも、誰かを頼ってほしい」


 その言葉を聞いて、すぐには返事が出なかった。


 リビアへ頼ることは、少しずつ出来るようになっている。


 先生にも。


 グレイヴにも。


 でも、同級生はどうだろう。


 イザーク。


 ナナリー。


 ミリアナ。


 アルフォルド殿下。


 カイゼル殿下。


 サザリー。


 戦闘では任せたことがある。


 フレイムストームの時、周囲を守るために。


 でも、普段の課題や、自分が困った時に頼るとなると、まだ少し違う。


「……難しいかも」


「うん」


「でも、やってみる」


「本当?」


「リビアがいない時も、だろ?」


「うん」


「分かった」


 俺は少し考えてから付け足す。


「その代わり、リビアも運営で困ったら一人で全部やらないで」


「え?」


「さっき約束しただろ。どっちかだけじゃなくて二人とも」


 リビアが目を見開く。


「委員会の人に頼る。先生に聞く。俺に出来ることなら俺にも言う」


「……うん」


「俺だけ守る約束じゃないから」


 言うと、リビアの目元が少し柔らかくなった。


「セス」


「何?」


「それ、すごく嬉しい」


「何で?」


「私がセスを心配するだけじゃなくて、セスも私が無理しないか考えてくれてるから」


「婚約者だし」


 答えた瞬間、自分で少し驚いた。


 最近、この言葉を自然に使うようになった。


 婚約者だから。


 以前は、リビアに言われるたびに身分の違いを考えていた。


 公爵令嬢と元平民の執事見習い。


 無理がある。


 似合わない。


 そう思っていた。


 今も、身分差が消えたわけではない。


 でも、婚約者であることそのものは、前よりずっと普通に受け入れている。


「……何?」


 リビアが俺を見ている。


「いや」


「今、自分で言ってから驚いたでしょう?」


「ちょっと」


「婚約者って言ったこと?」


「うん」


「嫌だった?」


「違う」


 それだけはすぐに分かった。


「普通に出たから驚いた」


「……そっか」


 リビアが笑う。


 その笑顔を見ていると、俺も少し嬉しくなった。


「じゃあ、約束ね」


「うん」


「交流演習で別々になっても、一人で全部背負わない」


「リビアも」


「私も」


「困ったら言う」


「言う」


「無理なら先生」


「それ、本当に好きね」


「一番確実だから」


「ふふっ」


 笑い声が訓練場へ小さく響いた。


 隣の区画にいた生徒が一瞬こちらを見る。


 俺たちは少しだけ声を抑えた。


「休憩終わり?」


「もう少し」


「珍しい。リビアが休ませる側」


「先生ですから」


「じゃあ先生、質問」


「何ですか?」


「交流演習って何するの?」


「まだ今年の内容は決まってないわ。例年なら、班ごとに魔術や剣術だけじゃなく、判断力や協力を見る課題が出るみたい」


「条件問題ある?」


「たぶん」


「楽しそう」


「セス、そういうの好きだものね」


「うん」


「だから私も一緒にやりたかったんだけど」


「運営にならない可能性もあるんだろ?」


「あるわ」


「じゃあまだ決まってない」


「……そうね」


「決まってから考えよう」


「うん」


 昨日まで何度も聞いた言葉を、今日は俺がリビアへ言っている。


 情報が足りない時に、先に悩みすぎなくていい。


 決まってから考える。


 それだけでいいこともある。


「セスに言われるようになるとは思わなかったわ」


「俺も」


「成長したね」


「また褒めた」


「受け取って」


「……ありがとう」


「よろしい」


 先生らしい顔で頷く。


「では、もう一回だけやって終わりにしましょう」


「一回?」


「一回」


「成功しても?」


「成功しても」


「失敗したら?」


「次回」


「厳しい」


「続きがある方がいいんでしょう?」


 昨日、自分が言ったことを返された。


「そうだった」


 立ち上がる。


 結界を作る。


 リビアも正面へ移動し、小さな魔力球を浮かべる。


「いくわよ」


「うん」


 飛んでくる。


 当たる。


 押し返さない。


 受け止めすぎない。


 結界全体へ流す。


 淡い波紋が広がった。


 魔力球は勢いを失い、静かに消える。


 先ほどより自然だった。


「……八十五点」


「上がった」


「悔しい」


「先生」


「でも嬉しい」


「どっち?」


「両方」


 リビアが笑う。


「今日はここまで」


「はい」


 俺は素直に結界を消した。


 もう一度やりたい気持ちはある。


 でも、次がある。


 その次も。


 そう思えるなら、今日全部やる必要はなかった。


     ◇


 訓練場を出る頃には、夕方の空に薄い雲が残っているだけになっていた。


 昨日の雨で洗われた空気は澄んでいて、遠くの校舎の屋根までいつもよりくっきり見える。中庭には部活動を終えた生徒たちの声が響き、正門へ向かう人の流れも少しずつ増えていた。


 俺とリビアは並んで歩く。


「今日は手繋がないの?」


 リビアが聞く。


「繋ぎたい?」


「セスは?」


 質問を返された。


 少し前なら、そこで困っていたかもしれない。


 今は分かる。


「繋ぎたい」


「……うん」


 手を差し出す。


 リビアの指が絡む。


「最近、ちゃんと言うようになったね」


「言った方がいいんだろ?」


「嬉しいわ」


「じゃあ言う」


「でも無理に言わなくてもいいのよ」


「分からない時は分からないって言う」


「うん」


「分かった時は言う」


「うん」


「今は繋ぎたい」


「……セス」


「何?」


「もう一回言わなくていい」


「何で?」


「私が耐えられないから」


「手?」


「違うわよ!」


 声が大きくなり、前を歩いていた二人の生徒が振り返った。


 リビアは恥ずかしそうに俯く。


「ごめん」


「セスが謝るところじゃないわ」


「じゃあどうすればいい?」


「そのままでいて」


「分かった」


 よく分からないが、そのまま歩く。


 正門が近づく。


 馬車も見えてきた。


「セス」


「何?」


「交流演習、もし別々になったら寂しい?」


 少し考える。


「寂しいと思う」


 今度は迷わなかった。


「でも、リビアがやりたい仕事ならやってほしい」


「うん」


「終わったら会えるし」


「うん」


「それに、俺も他の人と組むの勉強になると思う」


「……うん」


「リビア?」


「何?」


「また嬉しそう」


「嬉しいわよ」


「寂しいって言ったから?」


「それも」


「それも?」


「離れてても大丈夫って思ってくれてるから」


「大丈夫だろ」


「前のセスなら、『俺は一人で問題ありません』って言って終わってたと思う」


「言いそう」


「今は寂しいって言った上で、それでも大丈夫って言ってくれた」


 リビアの指が、繋いだ手の中で少し動く。


「それが嬉しいの」


「……そっか」


 寂しい。


 嫌だ。


 嬉しい。


 楽しい。


 頼りたい。


 待っていたい。


 最近、俺の中にあるものへ少しずつ名前がついている。


 全部が恋愛なのかは、まだ分からない。


 でも、分からないからといって、何もないわけではない。


 それだけは、もう分かっていた。


「リビア」


「何?」


「委員会の仕事、頑張って」


「まだ運営になるって決まってないわよ」


「なったら」


「うん」


「俺も交流演習頑張る」


「うん」


「終わったら、どんなだったか話そう」


 リビアが足を止めた。


 俺も止まる。


「それ、約束?」


「うん」


「絶対?」


「絶対」


「……楽しみにしてる」


 まだ班分けも決まっていない。


 リビアが運営側になるかも分からない。


 交流演習の内容さえ知らない。


 それでも、その後に話す約束だけは先に出来た。


 俺はそれでいいと思った。


 先のことを全部決める必要はない。


 決まっていないことを、今から心配し続ける必要もない。


 ただ、楽しみに出来るものを一つ置いておく。


 それだけで、少し先へ進む理由になる。


 馬車の前へ着く。


 今日は最初から迷わず、リビアへ手を差し出した。


「どうぞ」


「今日は聞かないのね」


「何を?」


「執事としてか、婚約者としてか」


「もう分かるだろ」


 言うと、リビアが目を丸くした。


「……セス」


「何?」


「分かるけど、言ってほしい」


「何で?」


「聞きたいから」


 俺は少し考えた。


 断る理由はない。


「婚約者として」


「うん」


 リビアが俺の手を取る。


 馬車へ乗せる。


 その手を一度離し、俺も後から乗り込んだ。


 今日も隣へ座る。


 馬車が動き始める前に、リビアの手が座席の上で少しこちらへ近づいた。


 俺も手を伸ばす。


 指を絡める。


「セス」


「何?」


「今日は私が教えたでしょう?」


「うん」


「でも、交流演習のことはセスに言ってよかった」


「頼られた?」


「少しだけ」


「そっか」


 嬉しい。


 教えてもらうのも悪くなかった。


 守ってもらうのも。


 頼るのも。


 そして、自分が頼られることも、やっぱり嬉しい。


「また頼って」


「セスもね」


「うん」


 馬車がゆっくり走り出す。


 窓の外では、雨上がりの街が夕日に照らされていた。


 明日の放課後にはイザークとの剣術の約束がある。


 追加測定の日程も、そのうち先生から知らされる。


 ライゼルについても、何か変化があれば連絡が来るだろう。


 交流演習という新しい予定も増えた。


 全部を今日考える必要はない。


 今はただ、隣にいるリビアの手を握りながら、明日を楽しみにしていればいい。


 そう思えるようになったこと自体が、俺にとってはたぶん、かなり大きな変化だった。

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