第26話 婚約者に守ってもらうのも悪くないと思った翌日に、今度は俺が結界魔法を教わることになりました
翌朝、目を覚ました俺は、窓の外から聞こえてくる雨音にしばらく耳を傾けていた。
昨日の帰り道から降り始めた雨は夜の間も止まなかったらしく、薄いカーテンの向こうに見える空はまだ灰色に曇っている。屋根を細かく叩く音に混じって、庭木の葉から雫が落ちる音も聞こえてきて、いつもの朝より屋敷全体が少し静かに感じられた。
寝台から身体を起こし、肩を回してみる。昨日は放課後に学園長室へ行っただけで、剣術の自主練習も魔術の測定もしていないから、身体に残っている疲れはほとんどなかった。
それでも、すぐに剣を持って庭へ出ようとは思わなかった。雨が降っているからという理由もあるが、それ以上に、今日は朝から無理に何かをしなくてもいいと思えたからだった。
「……身体、ゼロ。魔力もゼロ」
誰かに聞かれたわけでもないのに、確認するように小さく口へ出す。
最近はこれが癖になりつつある。
以前なら身体が動くかどうかだけを確かめていたが、今は疲れていないか、痛む場所はないか、昨日のことが頭に残りすぎていないかまで考えるようになった。昨日はライゼルについてかなり重い話を聞いたのだから、身体だけではなく気持ちの方も確認しておいた方がいい。
思い出せば、腹が立つことはある。
ライゼルが最初に書いたという手紙には、俺へ謝りながらも「リビアを守ろうとして冷静さを失った」という意味の言葉が入っていたらしい。実物は読んでいないし、今のところ読むつもりもないが、その話を聞いた時には確かに胸の奥がざらついた。
リビアの気持ちを勝手に決めて、その勝手に決めた気持ちを理由に俺を攻撃した。
それなのに、謝罪の中でもまだリビアを理由にする。
考えれば考えるほど腹が立つ。
ただ、昨日とは少し違った。
俺が今から何かをしなければならないわけではない。ライゼルがなぜそう考えたのか、どうすれば考えを変えられるのか、それを俺が調べたり、リビアが説明したりする必要もない。
先生たちとシュザー家が確認する。
変化があれば、俺たちへ知らせる。
俺とリビアは今は会わない。
そこまでは決まっている。
「……じゃあ、今日はそれでいいか」
口にすると、思っていたより簡単に気持ちを切り替えられた。
窓の外では相変わらず雨が降っている。今日は庭で剣を振れないが、だからといって朝にやることがなくなるわけでもない。
着替えを済ませた俺は、机の上へ置いてあった一冊の本を手に取った。
ベルナルト先生に勧められた魔術理論の本だ。
まだ途中までしか読んでいない。
昨日、リビアが図書室から借りた結界術式と無属性魔術の古い研究記録を見せてもらった時、「読み終わったら交換しよう」と約束している。なら、今のうちに少し進めておくのも悪くない。
窓辺の椅子へ座り、本を開く。
書かれている内容は、魔力を術式へ流し込む直前に起こる性質変化についてだった。
火属性なら火へ。
水属性なら水へ。
風なら風へ。
術者が意識している場合もあれば、ほとんど無意識に行っている場合もある。
普通は適性のある属性ほど変換が滑らかで、適性の低い属性ほど途中で魔力が散りやすい。
そこまでは分かる。
問題は、その先だった。
「変換前の魔力経路と、変換後の術式接続……」
文章を追いながら、自分の中で実際に魔術を使う時の感覚を思い出す。
俺の場合、火を使う時も水を使う時も、最初から別々の道を通している感覚はない。
魔力を出す。
そこから属性を決める。
術式へ流す。
自分ではずっと、それが普通だと思っていた。
ベルナルト先生たちは、そこが普通ではないかもしれないと言っていた。
五属性すべての出力差が小さく、切り替えも速い。
もしかすると俺は、五つの別々のやり方を覚えているのではなく、一つの同じ場所で属性だけを切り替えている。
「……ここかな」
本に載っている簡単な図へ指を置く。
魔力源から術式まで伸びる線。
その途中に、小さな円で示された変換領域がある。
俺の感覚に近い。
試してみたい。
そう思った瞬間、自分で止まった。
「いや、読むだけ」
今のは危険な実験ではない。
小さな火を出して感覚を確かめる程度なら、おそらく問題もない。
それでも、朝から一人で何となく試し始めれば、そのまま別の属性も、切り替えも、少し変えたやり方も試したくなる可能性がある。
特に今読んでいるのは、追加測定で確認している内容と直接関係する部分だ。
先生たちから、自分で干渉を試すなとはっきり言われている。
「本を読むのと、実験するのは別」
そこまで決めると、続きを読めた。
少し前までなら、気になったことをその場で確かめない方が落ち着かなかったはずなのに、今は「次に先生へ聞けばいい」と思える。
ページを何枚か進めたところで、扉が軽く叩かれた。
「セス、起きてる?」
「起きてるよ」
聞こえてきた声に答えると、少しして扉が開いた。
リビアだった。
まだ朝食前だから制服ではなく、屋敷で着る淡い水色のワンピース姿をしている。銀青色の髪はきちんと整えられていたが、普段より少し柔らかく肩へ落ちていて、学園で見る公爵令嬢らしい姿とは違って見えた。
「おはよう」
「おはよう。どうしたの?」
「雨だから、セスが庭へ出てないか確認しに来たの」
「俺、雨の中でも訓練すると思われてる?」
俺が本を閉じながら聞くと、リビアは部屋へ入ってから少し考えるように首を傾げた。
「昔ならしてたでしょう?」
「……してたかも」
「でしょう?」
「でも今日はしてない」
「見れば分かるわ」
リビアの視線が、俺の手元にある本へ落ちる。その表情が少しだけ嬉しそうに緩んだので、俺は読んでいたページを開いて見せた。
「昨日話してたところ、ちょっと進めてた」
「魔力変換?」
「うん。ベルナルト先生が言ってたことに近い図があった」
リビアが隣まで来る。
俺が座っている椅子の横から本を覗き込んだため、柔らかな髪が肩へ触れそうな距離まで近づいた。
「これ?」
「ここ。変換領域って書いてあるところ」
「本当ね。でも、これは一般的な単一属性の術者を前提にした図でしょう?」
「そうなんだよ」
「セスの場合、ここで五つ全部を切り替えているかもしれないってこと?」
「たぶん。でも、まだ仮説」
「自分で試してないでしょうね?」
図を見ていたリビアの顔が、すぐにこちらへ向く。
距離が近い。
青い瞳が思った以上に近くにあって、俺は少しだけ身体を後ろへ引きそうになった。
けれど、嫌だからではない。
急に近くて驚いただけだ。
「試してないよ」
「本当に?」
「本を読んでただけ。気になったけど、次の測定かベルナルト先生に聞く時まで待つ」
「……よかった」
リビアの肩から力が抜ける。
「そんなに疑う?」
「だってセスだもの」
「最近ちゃんと止まってるだろ」
「だから、最近は前より信用してるわよ」
「前より?」
「全部信用したら、セスは『信用されてるなら大丈夫』って無茶を始めそうだから」
「しないよ」
「本当に?」
「……たぶん」
「そこは言い切ってほしかったわ」
リビアが困ったように笑う。
俺も笑いながら本を閉じた。
「リビアは昨日の本、もう読んだ?」
「少しだけ。結界術式の方を先に」
「面白かった?」
「すごく」
今度は俺が聞く番だった。
リビアはすぐに頷いたが、そのまま立っているのも話しづらいと思ったのか、机の近くにあるもう一つの椅子を引いて座った。
「今の結界って、普通は『何を防ぐか』を先に決めるでしょう?」
「うん。物理攻撃とか、魔術とか」
「そう。でも昨日借りた本には、古い方式として『何を通すか』を決める結界が載っていたの」
「逆?」
「そうね。今の結界は危険なものを指定して拒絶する考え方が多いけど、古い術式の一部は、許可したものだけを通して、それ以外を全部止めるの」
少し考える。
「それ、強そうだけど難しくない?」
「難しいわ。通していいものを細かく決めないと、自分の呼吸に必要な空気まで止める可能性があるって」
「危ないな」
「だから廃れた理由の一つみたい」
リビアの声が少し弾んでいる。
昨日、俺が剣術の話をしていた時も、たぶんこんな感じだったのだろう。
好きなことを話している顔だ。
そう思うと、もう少し聞きたくなった。
「でもリビアなら使えそう?」
「今すぐは無理よ」
「そうなの?」
「セス、私を何だと思ってるの?」
「結界すごい人」
「嬉しいけど、何でも出来るわけじゃないわ」
「俺もよく言われる」
「セスが言うと説得力が変になるのよ」
少し頬を膨らませながらも、リビアは楽しそうだった。
「ただ、考え方は使えるかもしれないと思ってるの。全部を真似するんじゃなくて、今の結界術式へ一部だけ取り入れられないかなって」
「例えば?」
「そうね……」
リビアは少し考え、窓へ目を向けた。
外では雨粒が硝子を細く流れ落ちている。
「昨日、帰る時に雨避けの結界を使ったでしょう?」
「うん」
「あれは雨粒が私たちへ当たらないように、外側へ流す結界なの。でも、風まで全部弾いているわけじゃない」
「確かに」
「もし『水だけを通さない』じゃなくて、『空気と人と持ち物だけを通す』っていう考え方に変えたら、別の使い方が出来るかもしれない。ただ、条件を増やすほど術式も複雑になるし、何かを指定し忘れる危険も増えるわ」
「面白い」
思わず前のめりになる。
リビアが目を瞬かせた。
「そんなに?」
「条件決めるの、好きだから」
「そうだったわね」
「雨だけじゃなくて、例えば煙は?」
「種類によると思う。空気としてまとめて許可したら通ってしまうでしょうし、特定の成分まで識別するなら別の術式が必要になるわ」
「じゃあ熱は?」
「それも別。熱は物質そのものじゃないから」
「音は?」
「セス」
「何?」
「朝食の時間がなくなるわ」
言われて時計を見る。
思ったより時間が経っていた。
「……本当だ」
「やっぱりセス、こういう話も好きでしょう?」
「うん」
「剣術だけじゃなくて?」
「たぶん」
俺は閉じた本を机へ戻す。
最近、自分が好きだと思うものが増えている。
剣術。
条件を考える授業。
魔術理論。
こうしてリビアが面白いと思ったものを聞くこと。
最後のものは少し種類が違う気もするが、嫌ではない。
「続き、学園で聞いていい?」
「もちろん」
「じゃあ昼休み?」
「今日はみんなで食べる予定じゃなかった?」
「食べながらでも」
「セスが質問し続けたら、私が食べられないでしょう」
「じゃあ放課後」
「今日は何かあった?」
「俺はない」
「私もないわ」
「じゃあ、少し結界見せて」
俺がそう言うと、リビアが数秒黙った。
「……私がセスに教えるの?」
「うん」
「魔術を?」
「結界はリビアの方が詳しいだろ」
「そうだけど」
なぜか顔が少し赤くなっている。
「嫌?」
「嫌じゃない!」
思ったより強い声が返ってきた。
「じゃあお願い」
「……うん」
リビアは口元を隠すように片手を添え、それから小さく頷いた。
「任せて」
◇
朝食の席では、俺とリビアが放課後に結界魔法を一緒に見る予定だと話したところ、グレイヴが一度だけ手を止めた。
「結界魔法を?」
「うん。リビアが昨日借りた本に面白い術式があったんだって」
「なるほど」
グレイヴはそれ以上すぐには言わず、紅茶を一口飲んだ。向かいに座っているアルセス様も話を聞いていたらしく、新聞から視線を上げる。
「オリビアが教えるのか?」
「はい、お父様」
「クルセスに?」
「そうですけれど、何かおかしいですか?」
「いや」
アルセス様の視線が俺へ向く。
「少し珍しいと思っただけだ」
「そうですか?」
「お前は幼い頃から、教えられる側より先に出来てしまうことが多かったからな」
「そんなことないですよ」
「そう思っているのはお前だけだ」
即答された。
隣ではグレイヴまで静かに頷いている。
「でも結界はリビアの方が詳しいですよ」
「それはそうだろう」
「なら教えてもらいます」
俺が普通に答えると、アルセス様はしばらくこちらを見た後、新聞を畳んだ。
「そうやって言えるようになったのはよいことだ」
「また褒めるんですか」
「不満か?」
「最近みんな同じことするから」
「ならば褒めるところを減らせ」
「どうやって?」
「成長しなければよい」
「それは嫌です」
「なら諦めろ」
アルセス様の口元が僅かに上がる。
リビアは隣で笑いを堪えていた。
「それで、放課後はどこを使うつもりだ?」
グレイヴが確認する。
「まだ決めてない」
「魔術を実際に使用するのであれば、学園の許可された訓練場所を使用してください。結界だけであっても、廊下や教室で試すものではありません」
「分かってる」
「オリビア様も」
「はい。エレナ先生に相談します」
「それなら問題ありません」
以前なら、この後に俺がどの程度の魔術を使うのか、危険はないかと細かく確認されていたかもしれない。
でも今日は違った。
グレイヴは使用場所だけ確認すると、それ以上は言わなかった。
「……それだけ?」
思わず聞く。
「何がでしょう」
「もっと、出力はとか、勝手に変なこと試すなとか言わないの?」
「必要ですか?」
「いや」
「ならば申しません」
少し拍子抜けする。
グレイヴは俺の顔を見ながら、穏やかな声で続けた。
「昨日までのクルセスの行動を見ています。エレナ先生へ相談し、オリビア様と共に許可された場所で行うのであれば、最初から疑う必要もないでしょう」
「信用してる?」
「ええ」
その言葉が、以前より素直に嬉しかった。
「分かった」
「ただし」
「あるんじゃん」
「何か異常があれば中止してください」
「それはする」
「ならば結構です」
隣を見ると、リビアも嬉しそうにしている。
監視されなくなったわけではない。
心配されなくなったわけでもない。
でも、俺が出来るようになった分だけ、任せてもらえることが増えている。
たぶん、それが信用されるということなのだろう。
◇
学園へ着く頃には雨脚が少し弱くなっていた。
それでも正門から校舎までは細かな雨が降り続き、生徒たちは色とりどりの傘や簡易的な雨避けの魔導具を使って歩いている。馬車から降りたところで、リビアが片手を軽く上げると、俺たちの頭上へ薄く透明な結界が広がった。
雨粒が触れる直前で左右へ流れ、肩や髪には一滴も落ちてこない。
「昨日より広い?」
俺は頭上を見ながら聞く。
「少しだけ。今日は鞄も濡らしたくないから」
「これ、魔力どれくらい使うの?」
「この程度ならほとんど気にならないわ」
「持続は?」
「雨避けだけなら一時間くらい続けても平気だと思うけど、必要ないから校舎まで」
「条件を減らしてるから?」
「そう。雨粒の進行方向を変えるだけだから、強度もそんなに要らないの」
「なるほど」
「セス」
「何?」
「放課後まで待てないの?」
「気になった」
「朝からずっとそれね」
呆れたように言いながら、リビアは笑っている。
校舎へ続く石畳には水溜まりがいくつも出来ていて、結界から外れた雨水が細い流れになって端へ落ちていく。周囲を歩いていた生徒の何人かがこちらを見たが、以前のようにセスの五属性だと騒ぐのではなく、「パウリー様の結界、綺麗だな」と話している声が聞こえた。
俺もそう思う。
「リビア」
「何?」
「これ綺麗だな」
「え?」
「結界。雨が横に流れるところ」
透明だから、晴れた日に見ればほとんど分からない。
でも雨の日は、結界の形に沿って雫が滑るため、半球状の輪郭が淡く浮かび上がっている。
「……ありがとう」
リビアは少し照れたように視線を前へ戻した。
「魔術を綺麗って言われたの、初めてかもしれない」
「そうなの?」
「強いとか、精密とか、すごいとは言われるけど」
「じゃあ俺が最初?」
「たぶん」
「そっか」
何となく嬉しい。
「何でセスが嬉しそうなの?」
「最初だから?」
「……もう」
リビアが何か言いたそうにこちらを見る。
しかし、その時ちょうど正面からイザークが走ってきた。
傘を持っているのに、肩が少し濡れている。
「おはよう!」
「おはよう。何で濡れてるの?」
「風で傘がひっくり返った」
「大丈夫?」
「これくらい平気だ」
言ってから、イザークが俺を見る。
「……今の『大丈夫』は普通の意味だからな?」
「俺、何も言ってないよ」
「お前といると大丈夫って言葉まで気を遣うようになるんだよ!」
リビアが吹き出す。
「ごめん」
「笑うなよ、パウリー様!」
「だって」
イザークは文句を言いながらも、すぐに俺たちの頭上へある結界へ気づいた。
「これ便利だな」
「リビアの」
「見れば分かる。クルセスの結界がこんな綺麗なわけない」
「俺、結界そんなに下手?」
「お前、使えるのか?」
「簡単なのなら」
「何で使えるんだよ!」
「無属性の基礎だから」
「五属性だけでも多いのに増やすな!」
「無属性は属性適性とは別だろ」
「そういう問題じゃない!」
朝からイザークの声が響く。
近くの生徒が笑いながら通り過ぎていった。
「でも今日、リビアに教えてもらうよ」
「何を?」
「結界」
「パウリー様がクルセスに?」
「うん」
「……何か逆っぽいな」
「イザークまで?」
「だってお前、何でも出来る感じするし」
「結界はリビアの方がずっと上手い」
俺が答えると、リビアが一瞬こちらを見る。
その顔がまた嬉しそうに見えた。
「だから教えてもらう」
「へえ」
イザークは少しだけ意外そうにした後、すぐに笑った。
「じゃあ今度、お前が俺に剣教えろ」
「教えるっていうより一緒にやる方がよくない?」
「それでもいい」
「次いつにする?」
「今日でも」
「今日はリビアと約束」
「じゃあ明日」
「明日、授業の予定見てから」
「分かった」
以前なら、その場で決めていたかもしれない。
でも、追加測定がいつ入るかも分からないし、授業の負担もある。
予定を確認してから決めればいい。
「お前、最近ちゃんと予定見るようになったな」
「イザークまで褒めるの?」
「いや、前のお前知らないけど」
「じゃあ何で?」
「みんながそういう反応するから、俺も言いたくなった」
「やめてよ」
「嫌だね」
笑いながら三人で校舎へ入る。
リビアが結界を消すと、頭上にあった雨音が急に近くなった。
◇
午前の授業を終えた頃には、朝から続いていた雨もかなり弱くなっていた。
昼休みになると、さすがに濡れた庭で食事をするわけにはいかず、今日は教室の後方へいくつか机を寄せることになった。
俺とリビア、イザーク、ナナリー、ミリアナに加え、いつものようにアルフォルド殿下、カイゼル殿下、サザリーもいる。
「狭いな」
アルフォルド殿下が椅子へ座りながら言う。
「殿下が来なければ少し広いですよ」
俺が答えると、アルフォルド殿下がこちらを見る。
「私に帰れと言っているのか?」
「言ってないです」
「今のはかなり近かったぞ」
「事実を言っただけで」
「クルセス、王族に対する遠慮がなくなってきたね」
カイゼル殿下が楽しそうに笑う。
「遠慮した方がいいですか?」
「僕は今くらいが面白い」
「お前に聞いていない」
アルフォルド殿下がすぐに返し、周囲から笑い声が上がる。
初めてこの人たちと昼食を食べた頃は、王子が二人もいるだけで周囲の生徒たちがかなり緊張していた。今でも遠巻きに視線を向けられることはあるが、俺たちの周りだけは随分普通になっている。
「そういえばクルセス様、今日はパウリー様に結界を教えていただくんですよね?」
ナナリーが弁当箱を開きながら聞いてきた。
「何で知ってるの?」
「朝、イザークが話してました」
「広めるの早くない?」
「別に秘密じゃないだろ」
「そうだけど」
イザークは悪びれずにパンを食べている。
「結界か」
サザリーが興味を示した。
「クルセスは不得手なのですか?」
「不得手ってほどじゃないと思う。簡単な防御結界なら使えるよ」
「それでパウリー公爵令嬢から教わる?」
「リビアの方が詳しいから」
「なるほど」
サザリーは素直に頷いた。
一方、アルフォルド殿下は少し考えるような顔をしている。
「オリビアの結界は昔から優秀だった」
「殿下も知ってるんですか?」
「当然だ。王宮で顔を合わせる機会もあったからな」
リビアが小さく頷く。
「アルフォルド殿下とは、幼い頃に何度か魔術訓練をご一緒したことがあります」
「そうだったんだ」
「セスはその頃、屋敷でグレイヴにしごかれていたでしょう?」
「しごかれてたかな」
「しごいておりましたよ」
突然背後からグレイヴの声が聞こえた気がして、思わず振り返りそうになった。
もちろん教室にいるはずはない。
「どうしたの?」
「いや。今、グレイヴに言われた気がした」
「幻聴まで教育されてるの?」
カイゼル殿下が笑う。
「嫌な教育ですね」
「でも実際、グレイヴなら言いそう」
リビアまで同意した。
「話戻すけど」
俺は少し納得いかないまま口を開く。
「リビアの結界って、昔からすごかったの?」
「本人の前で私に聞くのか?」
「殿下から見たらどうだったのかなって」
アルフォルド殿下はリビアへ一度視線を向けた。
「同年代では明らかに抜けていた。単純な強度だけなら上がいた時期もあるが、複数方向へ同時展開しながら形を維持する技術は昔から高かったな」
「へえ」
「セス」
リビアが少し恥ずかしそうに俺の袖を引く。
「本人の前で評価を聞かれるの、思ったより恥ずかしいわ」
「でも知りたい」
「どうして?」
「俺が知らないリビアのことだから」
言った瞬間、周囲が静かになった。
俺は意味が分からず、顔を上げる。
ナナリーが口元を押さえている。
ミリアナも何となく目を逸らした。
カイゼル殿下は完全に笑っている。
「何?」
「クルセス」
アルフォルド殿下が低い声で呼ぶ。
「はい」
「お前、それを無意識で言っているのか?」
「何がです?」
「……そうか」
「何ですか?」
「何でもない」
「みんな最近それ多いですよ」
「セス」
隣からリビアに呼ばれる。
「何?」
「後でちゃんと教えてあげる」
「結界?」
「それも」
「他にも?」
「……今は分からなくていいわ」
顔が赤い。
また何か変なことを言ったらしい。
でも、俺が知らないリビアのことを知りたいのは本当だった。
昔からずっと一緒にいる。
それでも、俺が知らない時間はある。
王宮で魔術を学んでいた時。
学問を教わっていた時。
俺が執事として別の仕事をしていた間に、リビアが考えていたこと。
幼馴染だから全部知っているわけではない。
昨日、ライゼルの話を聞いて改めて分かったことでもある。
知っているつもりで決めない。
なら、知らないことは聞けばいい。
「じゃあ、今度いろいろ教えて」
「……うん」
リビアが小さく答える。
今度は誰も何も言わなかったが、カイゼル殿下だけはずっと面白そうに笑っていた。
◇
放課後。
最後の授業が終わる頃には雨はほとんど止み、窓の向こうには雲の切れ間から薄い光が差し込んでいた。
教室を出る前に、俺とリビアはエレナ先生を探した。
職員室の前で少し待っていると、書類を抱えた先生が廊下の向こうから歩いてくる。
「どうしました?」
「先生、少しいいですか?」
リビアが声をかける。
エレナ先生は俺たちを交互に見た。
「二人揃っていると、何か魔術関係の相談に見えますね」
「当たりです」
「クルセスが何か試したいと言い出したのですか?」
「何で俺からなんです?」
「これまでの実績です」
「最近はやってません」
「知っています。冗談ですよ」
先生の口元が僅かに緩む。
リビアも小さく笑ってから、本題を説明した。
「図書室で借りた結界術式の本に、古い選択透過型の考え方が載っていたんです。それをそのまま再現するつもりはないのですが、既存の結界と比較しながら、セスにも基礎を見てもらいたくて」
「選択透過型ですか」
エレナ先生の表情が少し真剣になる。
「どの資料でしょう」
リビアが鞄から本を取り出す。
先生は表紙と著者名を確認した。
「なるほど。図書室の一般閲覧区画にあるものですね。危険術式集ではありません」
「はい」
「実際に古式結界を構築する予定は?」
「ありません。今日は私が普段使っている結界を見せて、条件設定の違いを話すくらいです」
「クルセスは?」
「俺は教えてもらいます」
答えると、エレナ先生が少しだけ目を見開いた。
「先生までその反応ですか?」
「失礼。あなたが『教えてもらう』と自分から言うのが少し新鮮だったので」
「俺、そんなに人から教わらないですか?」
「教わってはいます。ただ、理解が速いため途中から自分で先へ進むことが多いですね」
「今日は進みません」
「言い切りましたね」
「リビアの方が詳しいから」
先生は一度リビアを見る。
リビアは少しだけ胸を張った。
「では、第三魔術訓練場の小区画を使ってください。今日は授業後の利用申請が少ないので空いています」
「ありがとうございます」
「ただし、古式の完全再現は禁止。パウリー公爵令嬢が現在安全に使える結界の範囲で比較すること。クルセスも高出力で破ろうとしないこと」
「破りませんよ」
「確認です」
「はい」
「それから」
先生は俺を見たまま続ける。
「もし途中で魔力変換の共通点に気づいても、その場で五属性を連続使用して比較しないでください」
「……分かりました」
「今、一瞬やりたそうな顔をしましたね」
「少しだけ」
「正直で結構です。次回の測定項目へ回します」
「次の測定、いつですか?」
「まだ確定していません。ベルナルト先生と測定担当の予定を合わせていますから、決まり次第伝えます」
「分かりました」
急がない。
今日の目的は結界を見ること。
追加測定は別の日。
「では行ってきます」
「ええ。使用記録だけ入口で記入してください」
俺たちは礼をして、第三魔術訓練場へ向かった。
◇
第三魔術訓練場は、初日に魔術実技を行った場所だった。
あの日は多くの生徒がいて、標的へ魔術を当てたり、二人一組で制御練習をしたりしていたが、放課後の今日はかなり静かだった。大きな訓練場の中はいくつかの小区画へ分けられ、そのうち一つだけを俺たちが借りる。
雨上がりの湿った空気が高い窓から入り込み、土と石の匂いが僅かに混じっていた。外から差す光はまだ弱いが、壁へ設置された魔導灯が点いているため、術式を見るには十分明るい。
「何からやる?」
俺が聞く。
「まず、セスが普段使う結界を見せて」
「俺から?」
「比較するなら、今どこまで出来るか知りたいもの」
「分かった」
区画中央へ立つ。
結界魔法そのものは使ったことがある。
ただし、リビアほど頻繁ではない。
俺の場合、攻撃を防ぐ必要があれば水や土の魔術を使うことが多いし、距離を詰めた方が早い状況も多かった。
魔力を流す。
属性へ変えない。
無属性のまま薄く広げる。
自分の正面へ、半透明の板のような結界を作る。
「こんな感じ」
リビアが近づいてくる。
「触っていい?」
「うん」
彼女が指先を結界へ触れさせる。
表面が僅かに揺れた。
「硬いわね」
「硬い?」
「セスらしい」
「どういう意味?」
「必要なところへ魔力をしっかり入れて、正面から受け止める形。強度は高いけど、魔力消費も少し多いと思う」
「そうなの?」
「たぶん。維持したまま少し待って」
俺は結界を保つ。
リビアは横へ回り込み、端を確認する。
「範囲は?」
「今はこのくらい」
「後ろは?」
「ない」
「上は?」
「必要なら伸ばす」
「攻撃方向が分からない時は?」
「その時は――」
言いかけて考える。
「広げる?」
「出来る?」
「たぶん」
「じゃあ、今はやらないで」
「何で?」
「今日は私が教える側だから」
少し得意そうだった。
「分かった」
「ふふっ」
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいわよ」
リビアは隠さず答えた。
「いつもセスは、私が何かを教わるより先に出来ることが多かったもの。剣もそうだったし、勉強もそう。だから、私の方が詳しいことをセスがちゃんと『教えて』って言ってくれるの、すごく嬉しい」
俺は結界を消した。
彼女の声が思ったより柔らかく、少しだけ照れていたから、魔術よりそちらへ意識が向いた。
「じゃあ、いっぱい聞く」
「うん」
「嫌になったら言って」
「ならないと思う」
「朝、質問しすぎて朝食遅れそうになったけど」
「……時間だけは見ましょう」
「うん」
二人で笑う。
「じゃあ次は私ね」
リビアが一歩前へ出た。
右手を軽く上げる。
魔力が広がる。
俺のものとは違った。
薄い。
最初はそう思った。
でも、弱いわけではない。
必要以上に一か所へ魔力を集めず、細い糸を何本も編むように面全体へ均等に広げている。
「触っていい?」
「どうぞ」
指先を当てる。
俺の結界より柔らかい。
押すと僅かに沈む。
でも、その分だけ衝撃を逃がしている。
「これ、押した力を横に流してる?」
「分かる?」
「うん。正面で全部受けてない」
「そう。強い攻撃を真正面から止めようとすると、その分だけこちらも強度が必要になるでしょう? だから私は、受けた力を周囲へ分散させることが多いの」
「だからフレイムストームの時も?」
言ってから、あの日の光景を思い出す。
炎が広がった時、リビアは一方向だけではなく、周囲の生徒を守るように複数の結界を展開していた。
「うん。あの時は熱と炎そのものを外へ流すことを優先したわ」
「怖くなかった?」
質問すると、リビアの表情が少し変わった。
魔術の説明をしていた時の明るさが消えたわけではない。
ただ、あの日を思い出すための短い間が生まれた。
「怖かったわ」
リビアは結界を維持したまま、静かに答える。
「セスが炎の中へ入った時は、もっと怖かった」
「……うん」
「でも、結界を張っている間は、怖いから何も出来ないとは思わなかった。後ろを任せてって言われたから、絶対に守るって思ってた」
俺は目の前の透明な膜を見る。
あの日、俺はリビアへ後ろを任せた。
自分が炎の中心へ行くために。
当時の俺は、それを「自分が前へ出るために必要だから任せた」と考えていた部分もあったと思う。
でも、今は少し違って見える。
リビアは本当に守っていた。
俺が守れなかった場所を。
俺が背中を向けた場所を。
「ありがとう」
自然に出た。
リビアの瞳が揺れる。
「今?」
「ちゃんと言ってなかった気がするから」
「……あの後、言ってくれたわよ」
「そうだっけ」
「でも」
リビアは少し笑った。
「もう一回言ってもらうのも悪くないわ」
「じゃあ、ありがとう」
「うん」
結界が静かに消える。
その場に残ったのは、雨上がりの湿った空気と、少し照れたような沈黙だった。
急いで次へ進まなくてもいい気がした。
俺たちは少しの間、そのまま立っていた。
「セス」
「何?」
「今度は、私が守ることを嫌がらなかったね」
「昨日も守ってもらったし」
「雨から?」
「それも」
「それだけ?」
リビアが少し首を傾げる。
俺は考える。
以前なら、「俺が守る」と言っていたと思う。
リビアは強い。
それを知っていても、自分が前へ出ることが一番安全だと思っていた。
でも、本当にそうなのだろうか。
「リビアが守る方が上手いこともある」
「うん」
「結界なら、たぶん俺よりずっと」
「うん」
「だったら任せた方がいい」
口にすると、リビアの表情がゆっくり変わった。
嬉しそうなのに、少し泣きそうにも見える。
「何で泣きそうなの?」
「泣いてないわ」
「昨日も言ってた」
「セスが最近、私の欲しかったことを急に言うからでしょう」
「欲しかった?」
「頼ってほしかったの」
声が少しだけ小さくなる。
「私、セスに守ってもらうのは嬉しい。でも、セスだけが傷ついて私が無事なら、それでいいとは思ってないもの」
「うん」
「私だってセスを守りたいし、役に立ちたい。婚約者だからっていうだけじゃなくて……大切だから」
最後の言葉だけ、少し照れたように弱くなる。
俺はその顔を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
前なら、何と返せばいいか分からなかったかもしれない。
「俺もリビアが大切だよ」
「……うん」
「だから、俺が出来る時は俺がやる」
「うん」
「リビアの方が出来る時は、頼む」
「うん」
「二人とも無理なら先生呼ぶ」
リビアが一瞬黙った後、吹き出した。
「最後だけ急に現実的ね」
「大事だろ」
「大事よ。すごく大事」
笑いながら目元を拭う。
やっぱり少し泣いていたのかもしれない。
「じゃあ、続き教えて」
「ええ」
リビアはもう一度結界を作った。
今度は先ほどより小さい。
「セスの結界は正面から受け止める形だったでしょう?」
「うん」
「まず、強度を落としていいから、衝撃を外へ逃がす形を作ってみて」
「どうやって?」
「そこから聞いてくれるのね」
「教えてもらうって言っただろ」
「……嬉しい」
リビアが笑う。
俺も魔力を広げた。
今度は最初から硬くしすぎない。
薄く。
均等に。
でも、思ったより難しい。
「あれ」
「右側が濃いわ」
「分かる?」
「分かる。セス、自分の利き手側へ魔力を寄せてる」
「そんな癖ある?」
「結界ではあるみたい」
「知らなかった」
「少し抜いて」
「これくらい?」
「抜きすぎ。今度は左が強い」
「難しいな」
「ふふっ」
「笑った?」
「少し」
「先生」
「何ですか、生徒さん?」
楽しそうだ。
「もうちょっと分かりやすくお願いします」
「では、手を貸して」
「手?」
「魔力の流れを教えるから」
俺が右手を差し出すと、リビアがその手を両手で包んだ。
手を繋ぐ時とは違う。
指を絡めるのではなく、掌と手首へ軽く触れられる。
「魔力を少しだけ流して」
「リビアに?」
「私へ入れるんじゃなくて、手の表面まで。そこから結界へ広げる感覚を見たいの」
「分かった」
言われた通りにする。
魔力を流す。
リビアの指先が僅かに動いた。
「やっぱり」
「何?」
「セス、出力を決めるのが早すぎるの」
「早い?」
「最初から『これくらい必要』って決めて、その量を一気に流してる。攻撃魔術なら速くていいと思うけど、結界は相手の力に合わせて変えた方が効率がいいこともあるわ」
「途中で変える?」
「そう。最初は薄くして、受けた瞬間に必要な場所へ足すの」
「間に合う?」
「私は間に合わせる」
自信のある声だった。
俺は思わず笑う。
「リビア、格好いいな」
「えっ」
両手で包まれていた俺の手が、少し強く握られた。
「痛い」
「ご、ごめんなさい!」
「何で急に?」
「セスが変なこと言うから!」
「格好いいって?」
「急に言わないで!」
「でも本当に」
「分かったから!」
顔が真っ赤だ。
俺はまだ少し分からない。
リビアは可愛いと言われるより、格好いいと言われる方が恥ずかしいのだろうか。
「続ける?」
「続けます!」
「先生、怒ってる?」
「怒ってません!」
声が少し大きくなり、隣の小区画で練習していた生徒がこちらを見た。
俺と目が合う。
相手は何となく笑いを堪えるような顔をして、すぐに自分の練習へ戻った。
「見られたよ」
「セスのせいよ」
「俺?」
「そう!」
朝と同じことを言われている気がする。
◇
それからしばらく、俺はリビアの指示で結界の厚さを変える練習をした。
最初は均一に広げるだけでも右と左に差が出たが、何度か繰り返すうちに少しずつ揃ってくる。ただし、普段の俺ならそこで出力を上げたり、範囲を広げたりしたくなるところを、今日は同じ大きさの結界だけで繰り返した。
「今のは?」
「かなりいいわ」
「さっきより?」
「うん。ただ、上側が少し薄い」
「本当だ」
「自分でも分かるようになった?」
「少し」
「じゃあ、もう一回」
言われて魔力を流そうとしたところで、俺は止まった。
「どうしたの?」
「何回やった?」
「え?」
「結構やってない?」
壁の時計を見る。
訓練場へ入ってから、もう四十分ほど経っている。
魔力消費そのものは少ない。
疲労もほとんどない。
それでも、今日は最初から長時間やる予定ではなかった。
「疲れた?」
「身体はゼロ。魔力は……一か二くらい」
「なら、まだ出来そうね」
「出来る」
そこまで答えてから、俺は結界を消した。
「でも今日はここまでにしない?」
リビアが目を瞬かせる。
「セスから?」
「うん。最初の目的は、リビアの結界見せてもらうことだったし」
「そうね」
「やり方も分かった。次またやればいい」
言葉にしてみると、自然だった。
もっと出来る。
でも、今日全部出来るようになる必要はない。
剣術と同じだ。
「それに、リビアの本の話もまだ聞きたい」
「訓練じゃなくて?」
「読む方」
「……うん」
リビアの表情が柔らかくなる。
「じゃあ今日は終わりにしましょう」
「先生、採点は?」
「採点?」
「俺の結界」
「そうね……」
リビアは少し考える。
「最初が六十点で、最後は七十五点くらい」
「結構上がった」
「でも、まだ私の生徒よ」
「次は?」
「八十点を目指します」
「分かった」
「勝手に百点まで行かないでね?」
「どういう意味?」
「セスなら次に一人で練習して、気づいたら全部出来るようになってそうだから」
「今日はしないよ」
「今日は?」
「次にやる時はリビアとやる」
俺が答えると、リビアが止まった。
「……どうして?」
「教えてもらってる途中だから」
「それだけ?」
「あと、一緒にやる方が楽しい」
また顔が赤くなる。
「セス」
「何?」
「最近、本当にずるい」
「だから何が?」
「分からないままでいい!」
よく分からない。
でも、怒ってはいないらしい。
むしろ嬉しそうだ。
使用した区画を簡単に整え、入口の記録簿へ終了時刻を書く。
訓練場を出ると、外はもう雨が止んでいた。
西の空だけ雲が薄くなり、沈みかけた太陽の光が濡れた校舎の窓へ反射している。中庭の石畳にはまだ水溜まりが残り、風が吹くたびに木々の葉から大きな雫が落ちた。
「傘いらないな」
「そうね」
並んで歩き出す。
今日は結界を張る必要もない。
それでも、俺は朝に見た雨避けの結界を思い出していた。
「リビア」
「何?」
「今日のやつ、また教えて」
「もちろん」
「次は衝撃流すところまでやりたい」
「いいわよ。でも、その前に今日の均等化をもう一回ね」
「分かった」
「それと、本も読む?」
「読みたい」
「私が結界術式の方を読み終えたら貸すわ」
「じゃあ俺も魔力変換の本進める」
「交換ね」
「うん」
また先の予定が増える。
最近、それが嬉しい。
明日で全部終わらせる予定ではない。
次がある。
その次もある。
剣術も。
魔術も。
授業も。
リビアとの時間も。
学園へ来る前の俺は、こんなふうに先の小さな予定を楽しみにすることがあまりなかった気がする。
生きるために必要な予定はあった。
仕事の予定も。
訓練の予定も。
でも、楽しみだから待つ予定は少なかった。
「セス?」
「ん?」
「また考え事?」
「うん」
「ライゼルのこと?」
聞かれて、自分でも少し驚いた。
「違う」
「そうなの?」
「今、リビアと次いつ結界やるか考えてた」
リビアの歩みが少し遅くなる。
「……そっか」
「うん」
「それならいいわ」
声が柔らかい。
俺たちは中庭を抜け、正面玄関へ向かう。
ライゼルの問題がなくなったわけではない。
正式な処分も決まっていない。
謝罪文も届いていない。
本人が本当に自分の間違いを理解出来るのかも分からない。
でも、それを今日の俺たちが考え続ける必要はない。
必要な時には先生が知らせてくれる。
今は自分たちの時間を過ごしていい。
玄関を出たところで、屋根の端から落ちてきた大きな雫が俺の肩へ向かった。
その直前、透明な膜が一瞬だけ広がる。
雫は横へ流れ、石畳へ落ちた。
「今の」
「練習問題」
リビアが得意そうに笑っている。
「俺、何もしてないけど」
「見て覚えるのも勉強でしょう?」
「先生らしくなってきた」
「でしょう?」
「でも、俺も出来たかも」
「今日は終わりって言ったのは誰?」
「俺」
「なら今日はおしまい」
「はい、先生」
素直に答えると、リビアが満足そうに頷いた。
馬車の待つ場所までは、雨上がりの石畳を少し歩く。
途中、俺は何となく右手を見た。
訓練場でリビアに魔力の流し方を教えてもらった時、両手で包まれた場所だ。
手を繋いだ時とは違う感触だった。
教えてもらうために触れられただけなのに、なぜかまだ少し覚えている。
「どうしたの?」
「いや」
言いかけて、最近は分からないものを何でも隠す必要もないと思い直す。
「さっき、手持って教えてくれただろ」
「う、うん」
「何かまだ感覚残ってる」
「魔力の?」
「それもあるけど」
そこまで言ってから、自分でも何を説明しようとしているのか分からなくなった。
リビアの手が温かかった。
近かった。
嫌ではなかった。
むしろ、もう一度同じように教えてもらってもいいと思う。
「……よく分からない」
正直に言う。
リビアはしばらく黙って俺を見ていた。
やがて、その頬が少しずつ赤くなる。
「セス」
「何?」
「手、貸して」
「こう?」
右手を差し出す。
リビアはその手を取った。
今度は魔術を教える時の持ち方ではない。
指と指が自然に絡む。
「これなら?」
「いつものだな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、帰るまでこれでいいでしょう?」
「うん」
歩き出す。
濡れた石畳を踏むたび、靴の下で小さな水音がする。
昨日、俺はリビアの結界に守られながら帰った。
今日は、その結界を教えてもらった。
俺が全部出来る必要はない。
俺が全部守る必要もない。
分からないことは教えてもらえばいいし、出来ないことは出来る人へ頼めばいい。
それがリビアなら、なおさら嫌ではなかった。
「リビア」
「何?」
「次も頼む」
「結界?」
「うん。それと」
少し考えてから、繋いだ手を見る。
「俺がまた何でも自分でやろうとしてたら、その時も」
リビアの指が少し強く絡む。
「任せて」
すぐに返ってきた声には、迷いがなかった。
「でも、私が何でも一人でやろうとしてたら、セスも言ってね」
「リビアも?」
「私だって同じでしょう?」
言われて、昨日のことを思い出す。
ライゼルへ自分が説明すればいいのではないか。
会って、自分の意思を伝えれば納得するのではないか。
リビア自身も、少しだけそう考えていた。
俺も考えていた。
でも、それはリビアが背負うことではなかった。
「分かった」
「約束ね」
「うん」
「どっちかだけじゃなくて、二人とも」
「それで二人とも無理なら先生」
「ふふっ。またそれ?」
「大事だから」
「そうね」
笑い声が雨上がりの空気へ溶けていく。
馬車の前まで来ると、御者が俺たちに気づいて扉を開けようとした。
俺は先に一歩出る。
それからリビアへ手を差し出そうとして、今はすでに繋いでいることに気づいた。
「どうする?」
「何が?」
「馬車乗る時」
「手、離さないと乗りにくいわよ」
「じゃあ一回離す?」
「仕方ないわね」
名残惜しそうに言われる。
俺も、ほんの少しだけ同じ気持ちになった。
指を解く。
手が離れる。
その瞬間に、思った。
もう一度繋ぎたい。
以前なら、そこまで考えても理由が分からなかったかもしれない。
今も全部は分からない。
でも、少なくとも一つは分かる。
「リビア」
「何?」
馬車へ乗ろうとしていた彼女が振り返る。
俺は改めて手を差し出した。
「どうぞ」
リビアが俺の手と顔を交互に見る。
「これは執事として?」
昨日と同じ質問だった。
でも、今日は迷わなかった。
「婚約者として」
リビアの頬が柔らかく緩む。
「では、お願いします」
彼女の手を取って馬車へ乗せる。
俺も続いて中へ入り、向かい側ではなく隣へ座った。
扉が閉じる。
馬車がゆっくり動き始めると、窓の外では雨雲の隙間から夕方の光が差し、濡れた街路を淡く照らしていた。
俺は隣に置かれたリビアの手を見る。
さっき離したばかりだ。
別に屋敷へ着くまで繋がなくても困らない。
それでも、繋ぎたいと思った。
だから、今度は理由を探すより先に、自分から手を伸ばした。
「セス?」
「帰るまで」
短く言うと、リビアは何も聞き返さなかった。
ただ嬉しそうに笑い、俺の指へ自分の指を絡める。
窓の外では、雨が上がったばかりの街がゆっくり後ろへ流れていく。
ライゼルのことも、追加測定のことも、まだ終わっていない。
俺が知らないことも、出来ないことも、これからきっと増える。




