第24話 話し合いには参加しないはずなのに、どうして放課後がこんなに長いんですか
翌朝、目を覚ました時、身体に残っていたのは心地よい程度の重さだった。
昨日は朝に十分だけ剣を振り、放課後にはイザークとアルフォルド殿下を相手に木剣を合わせた。それなりに身体を動かしたはずだが、肩や腕に強い張りはなく、寝台の上で手を握ったり開いたりしてみても違和感はない。
だからといって、すぐ剣を持つ必要もない。
俺は寝台から降りると、窓辺まで歩いてカーテンを開いた。薄く広がった雲の隙間から朝日が差し込み、まだ静かなパウリー家の庭を淡く照らしている。庭師が遠くで植え込みを確認しているほかには人影も少なく、昨日の朝に剣を振った場所も今は朝露に濡れていた。
「……今日はいいか」
身体が痛いからではないし、誰かに禁止されたわけでもない。ただ、今朝は特に振りたいと思わなかったので、それだけを理由に剣を置いておくことにした。
以前なら、時間があるのに鍛錬をしないことへ妙な落ち着かなさを覚えていただろう。今も何もしない時間へ完全に慣れたわけではないが、少なくとも「出来るならやらなければならない」とまでは思わなくなっている。
代わりに身支度を少し早めに済ませ、昨日ベルナルト先生から勧められた五属性魔術に関する本を開いた。まだ読み終えていない章には、複数属性の適性を持つ魔術師が属性ごとに魔力変換の癖を変える例が載っていて、俺自身のやり方とはかなり違う。
数頁読み進めたところで、廊下の向こうから使用人たちが動き始める気配が増えてきた。時計を確認すると朝食まで十分ほどしかなく、俺は栞を挟んで本を閉じる。
ちょうどいいところでやめる。
最近、それを何度も覚えている気がした。
◇
「今日は剣を振らなかったの?」
朝食の席へ着いて間もなく、リビアに聞かれた。
向かいではアルセス様が新聞へ目を通しており、少し離れたところにはグレイヴが控えている。焼きたてのパンと卵料理から温かな匂いが立ち、窓から入る朝の光が白いクロスの上を明るくしていた。
「振ってないよ」
「身体が痛い?」
「いや、普通」
「じゃあ、どうして?」
「今日は別にいいかなって思ったから」
リビアが瞬きをする。
少し離れたところで、グレイヴまでこちらを見た。
「何?」
「何でもないわ」
「その顔、昨日も見た」
「だって、セスが『やらなくてもいいと思ったからやらなかった』なんて言うんだもの」
「変?」
「前のセスなら、身体に問題がなくて時間があったらやっていたでしょう?」
「たぶん」
否定は出来ない。
アルセス様が新聞を畳み、こちらへ視線を向けた。
「グレイヴ。何かあったのか?」
「私も詳細は存じません」
「何で俺が朝に剣振らなかっただけで報告案件になるんですか」
「普段と違うからだ」
「旦那様まで」
俺が困っていると、アルセス様はわずかに口元を緩めた。
「悪い変化ではないのだろう?」
「たぶん」
「なら構わん。だが、具合が悪いのを隠しているわけではないな?」
「違います。昨日も先生に止められたところで終わったし、痛いところもないです」
「それならよい」
確認が終わると、アルセス様は再び新聞へ手を伸ばした。
ただ、その直前にグレイヴと視線を交わしていたのを俺は見逃さなかった。二人とも何となく満足そうに見えるのは、たぶん気のせいではない。
「そういえば」
俺はパンをちぎりながらアルセス様を見る。
「今日ですよね」
何が、とは言わなくても伝わった。
アルセス様の表情から先ほどまでの柔らかさが少し薄れ、新聞を卓上へ置く。
「ああ。放課後だ」
「シュザー家当主が学園へ?」
「予定通りならな。学園長、担当教員、それからシュザー家当主で話すことになっている。場合によっては家の代理人も同席するだろうが、お前たちが参加しない点に変更はない」
「はい」
リビアも隣で小さく頷く。
今日の面談は、俺たちとライゼルを会わせるためのものではない。そもそも会わせていい状態なのか、シュザー家がどう考えているのか、学園側が確認するための話し合いだ。
「終わったら、今日中に聞けますか?」
「時間次第だ」
アルセス様はすぐに答えを約束しなかった。
「話し合いが長引けば、お前たちを待たせてまで報告する必要はない。学園側が整理した上で、明日以降になる可能性もある」
「分かりました」
「気になるか?」
「気にはなります」
俺は正直に答える。
「でも、俺が今日ずっと考えてても変わらないので」
「そうだな」
「だから授業受けます」
「それが学生の本分だ」
「旦那様に言われると普通の学生みたいですね」
「お前は学生だ」
「執事でもあります」
「婚約者でもあるわ」
すぐ隣からリビアが加える。
「伯爵家の息子でもございます」
グレイヴまで続いた。
「何で増やすの?」
「事実ですので」
「朝から俺の立場を並べなくてもいいだろ」
リビアが笑い、アルセス様も呆れたように息を吐いた。重くなりかけていた食卓の空気が少しだけ緩み、俺も残っていたパンを口へ運ぶ。
今日の放課後には話し合いがある。
気になる。
それは変わらない。
けれど、それまでの時間まで全部シュザー家へ渡す必要はない。
昨日、自分でそう思えたばかりだった。
◇
学園へ向かう馬車の中でも、俺とリビアはシュザー家の話をほとんどしなかった。
代わりに、彼女が昨日図書室から借りた無属性魔術の研究記録について話した。古い本らしく、現在では使われていない術式記号が多く、現代式へ置き換えながら読まなければならないらしい。
「それ、難しくない?」
「少し。でも面白いわよ。昔は結界を一枚の壁として扱う考え方が強かったみたいなの」
「今は違う?」
「今は用途によって層を分けるでしょう? 衝撃を受ける層と、魔力を散らす層を別にしたり」
「ああ、リビアが四方向に出してたやつも?」
「あれはまた少し違うけど、考え方は近いわね」
話しているリビアは楽しそうだった。
俺が剣や魔術理論の話をしている時も、こんな顔をしているのだろうか。
「何?」
「いや、リビアも魔術好きなんだなって」
「好きよ」
迷いのない答えだった。
「結界は特に?」
「そうね。出来ることが増えるのが楽しいの。それに、守り方って一つじゃないでしょう?」
「それ分かる」
「セスなら分かると思った」
彼女が嬉しそうに笑う。
守る、と聞けば、以前の俺なら自分が前へ出ることを最初に考えただろう。今でも必要ならそうするが、壁を作る方法も、誰かへ任せる方法も、危険そのものから離れる方法もある。
「今度、その本見せて」
「いいわよ。その代わり、セスの五属性の本もね」
「交換するって昨日言ったもんな」
「忘れてなかった?」
「覚えてるよ」
「よかった」
馬車が学園へ近づく。
窓の外に正門が見えてきたところで、リビアが少しだけ黙った。
俺は横顔を見る。
「気になる?」
「……少し」
「今日のこと?」
「うん」
さっきまで魔術の話をしていた声より、ほんの少し低い。
「私がいないところで、私のことを話されるでしょう?」
「ああ」
「必要なのは分かってるの。でも、やっぱり少し変な感じ」
ライゼルが何を言っているのか。
なぜそう考えているのか。
リビアの意思を本当に認められるのか。
今日の面談では、そういう話も出るはずだ。
「リビア」
「何?」
「嫌になったら、会わなくていいって先生たちも言ってた」
「うん」
「俺もそう思う」
リビアは俺を見る。
「俺が会いたいって言っても?」
「その時は相談する。でも、俺が会いたいからリビアも来いとは言わない」
彼女の表情が少しだけ緩んだ。
「セスが一人で会うなら?」
「先生たちが安全って判断して、俺も会いたいと思ったら」
「……心配するわよ」
「うん」
「止めるかもしれない」
「その時は理由聞く」
「絶対?」
「絶対」
すぐに「大丈夫」とは言わない。
リビアの心配にも理由がある。
それを聞いてから考える。
今の俺には、その方が自然に思えた。
「ありがとう」
リビアの指先が座席の上で少し動く。
俺はそれを見てから、自分の手を伸ばした。
指が触れ、彼女の手が重なる。
馬車が止まるまでの短い時間だけ、俺たちはそのまま手を繋いでいた。
◇
「今日だったな」
教室へ入って早々、アルフォルド殿下からそう言われた。
「何がです?」
「シュザー家との話し合いだ」
「ああ」
「忘れていたのか?」
「忘れてないですけど、朝一番に言われると思ってなかったので」
教室にはすでに半分ほどの生徒が集まっていた。窓際では朝の課題を確認する者がいて、後方では昨日の放課後の自主練習について話している生徒もいる。
俺が席へ向かうと、イザークがこちらを見て片手を上げた。
「昨日、腕平気だったか?」
「平気。イザークは?」
「少し張ってる」
「無理しない方がいいぞ」
「お前に言われると何か腹立つな」
「何で?」
「いや、今はもういいのか」
イザークは自分で納得したらしく、腕を軽く回す。
「昨日、先生に止められてちゃんと終わったもんな」
「うん」
「朝は?」
「今日はやってない」
「具合悪いのか?」
「何でみんな同じ反応するんだよ」
近くで聞いていたナナリーとミリアナまで笑い出した。
「だってクルセス様ですから」
「俺が朝に剣振らないだけでそんなに珍しい?」
「少し前までなら」
ミリアナが答える。
「今は、ちゃんと休むこともあるって分かってきましたけど」
「俺、学園で何を学んでるんだろ」
「自己管理?」
「算術とか魔術も学んでるよ」
「もちろん知ってます」
そんな話をしているうちに、始業前の空気がいつものものへ戻っていく。
アルフォルド殿下はシュザー家についてそれ以上聞かなかった。
カイゼル殿下もサザリーも同じだった。
たぶん、昨日までの俺なら少し意外に思ったかもしれない。
でも今は分かる。
聞かないでいてくれることもある。
話したくなれば、俺から話せばいい。
◇
一時間目は王国史だった。
扱ったのは、百年以上前に王都周辺で行われた街道整備と、それによって周辺領地の市場がどう変化したかという内容だ。単純な年号の暗記ではなく、道が一本増えただけで物資の流れや宿場の位置まで変わっていく話だったので、思っていた以上に面白かった。
教師が黒板へ古い街道図を描き、交易路が切り替わった結果、栄えた町と逆に人が減った町を説明していく。俺は自然と、算術応用で扱った倉庫や冬季の輸送の話を重ねていた。
「クルセス」
突然名前を呼ばれ、顔を上げる。
「はい」
「旧街道沿いのこの町が衰退した理由を、今の説明以外に一つ考えてみろ」
黒板を見る。
新街道は川沿いを通っている。
旧街道は山寄りだ。
「……荷物を運ぶなら、新しい方が楽だったんじゃないですか」
「理由は?」
「川が使えるなら、荷車だけじゃなく船も使えるから。一度に運べる量が増えると思います」
「そうだな。他には?」
俺は地図を見る。
少し考える。
「新街道の方に宿や倉庫が増えたら、人もそっちへ行く。人が減った旧街道側は店が減って、さらに人が来なくなる……とか?」
「よい。交通路の変更は道だけの問題ではない。人、物、金の流れを変える」
教師が続きを説明し始める。
俺はノートへ書き込みながら、少し笑った。
やっぱり面白い。
昨日の算術と繋がる。
別の授業なのに、考え方が重なる。
休み時間になったところで、サザリーがこちらへ来た。
「先ほどの回答、興味深かったですよ」
「普通じゃない?」
「最初に船運を考えた生徒は少なかったようです」
「厨房で大量に仕入れる時、水路使うことあるから」
「なるほど。やはり実務経験ですね」
「執事の経験が授業に使えるの、ちょっと嬉しい」
「逆もあるでしょう」
「逆?」
「学園で学んだことが、将来の仕事へ使えるということです」
その言葉に、俺は少し考え込んだ。
将来。
今までなら執事になる、それだけで終わっていた。
今も執事をやめたいわけではない。
むしろ好きだと思う。
ただ、学園へ来てから、自分が面白いと思えるものが少しずつ増えている。
「領地経営も?」
「伯爵家の嫡男として考えるなら、むしろ必要では?」
「……嫡男」
「忘れていましたか?」
「忘れてないけど」
俺はシルフィール伯爵家の養子だ。
グレイヴの息子として家へ入った以上、その立場がある。
けれど、俺の中ではまだ「元スラムの孤児」と「執事見習い」の方がずっと馴染んでいる。
「まあ、今すぐ決める必要はないですよ」
サザリーが俺の顔を見て、穏やかに言った。
「学園へ来たばかりなのですから」
「うん」
「それに、将来について考える時間を持つのも、学園へ通う意味の一つでしょう」
「サザリーは決まってる?」
「ある程度は。父が宰相ですので、嫌でも政治や行政に触れる機会は多いですから。ただ、父とまったく同じ道を歩くと決めているわけではありません」
「そうなんだ」
「意外ですか?」
「少し」
「私にも選ぶ権利くらいありますよ」
サザリーが珍しく少し冗談っぽく笑う。
「そっか」
選ぶ。
最近、その言葉をよく考える。
俺にも。
リビアにも。
サザリーにも。
そしてたぶん、ライゼルにも。
ただ、選んだから何をしてもいいわけではない。
他人の選択を壊していいわけでもない。
そこまで考えたところで、次の授業を知らせる鐘が鳴った。
俺は教科書を取り出す。
シュザー家の話へ戻りそうになった思考も、そこで一度閉じた。
◇
昼休みは、今日も東棟の裏庭へ向かった。
昨日より少し風が強く、木々の葉が絶えず擦れ合っている。雲の切れ間から日が差すたび芝生の色が明るく変わり、昼食を広げた布の端が風に持ち上がるので、イザークが水筒を重し代わりに置いていた。
「今日、放課後どうする?」
イザークに聞かれ、俺はパンを飲み込んでから答えた。
「今日は練習しない」
「やっぱり面談の結果待つのか?」
「それもあるけど、昨日やったから」
「……お前、本当に変わったな」
「また?」
「いや、いい意味で」
イザークは笑いながら自分の腕を揉む。
「俺も今日はやめとく。まだ少し張ってるし」
「じゃあ休んだ方がいい」
「だからお前に言われると妙な気分なんだって」
「慣れて」
「何で俺が慣れる側なんだよ」
俺たちのやり取りを聞いていたナナリーが笑い、ミリアナも口元を押さえている。アルフォルド殿下たちは少し遅れて来るらしく、今は俺とリビア、イザーク、ナナリー、ミリアナの五人だった。
「クルセス様は、今日はそのまま帰るんですか?」
ナナリーに聞かれる。
「たぶん」
「先生から呼ばれる可能性は?」
「面談の時間次第。旦那様にも、今日中に結果が聞けるとは限らないって言われた」
そこで一瞬だけ、皆の表情が変わった。
誰もライゼルの名前を口にしていなかったが、何の面談なのかは知っている。
「気になりますよね」
ミリアナが遠慮がちに言う。
「うん」
俺は誤魔化さなかった。
「でも俺が参加する話じゃないから」
「待つのって苦手そう」
イザークが言う。
「苦手だよ」
「やっぱり」
「何か出来るならやった方が早いから」
「でも今日は出来ない」
「うん」
だから難しい。
剣なら振れる。
魔術なら試せる。
課題なら考えられる。
けれど、他人同士が話している間、俺に出来ることはない。
「セス」
隣からリビアが声をかける。
「何?」
「今日、放課後に図書室へ行く?」
「また?」
「昨日借りた本の続きを読んでもいいし、セスも自分の本を持ってくればいいでしょう?」
「待ってる間?」
「うん。呼ばれなければ、一時間くらいで帰るの」
俺は少し考える。
放課後になったら、たぶん面談が始まる。
そのまま帰れば、馬車の中でも屋敷でも結果が気になるだろう。
だからといって、学園にずっと残って終わるのを待つのも違う。
「いいかも」
「でしょう?」
「昨日は別々だったけど、今日は一緒?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ決まりね」
リビアが満足そうに笑う。
イザークが俺たちを交互に見る。
「何か自然だな」
「何が?」
「いや、婚約者っぽい」
「婚約者だからな」
俺が答えると、今度はナナリーとミリアナまで笑った。
「何?」
「クルセス様、その言い方、本当に普通になりましたね」
「前から婚約者だけど」
「そういう意味じゃありません」
「?」
分からない。
隣を見ると、リビアだけはとても機嫌がよさそうだった。
「リビア、分かる?」
「分かるけど教えない」
「何で?」
「そのうち自分で分かってほしいから」
「最近それ多くない?」
「セスがあと少しだからよ」
「何まで?」
「秘密」
まただ。
俺が納得出来ずにいると、裏庭の入口からアルフォルド殿下たちがやってきた。カイゼル殿下は俺たちの顔を見るなり「何の話?」と楽しそうに聞いてきたが、リビアが「教えません」と即答したので、結局そのまま昼食が始まった。
それからは昨日の剣術の話になった。
アルフォルド殿下は俺が最後に狙った動きについて説明し、イザークは次に使いたい返し方を考えている。カイゼル殿下は自分なら足を狙うと口を挟み、サザリーは「自主練習で足を狙う話を楽しそうにしないでください」と冷静に止めていた。
シュザー家のことは、誰も話題にしなかった。
避けているのかもしれない。
でも、その気遣いが今はありがたかった。
◇
午後最後の授業が終わった瞬間、俺は無意識に教室の扉を見た。
誰も来ない。
生徒たちは教科書を片づけ、帰る者や部活動へ向かう者が席を立ち始めている。椅子を引く音や会話が重なり、放課後特有の少し浮ついた空気が教室を満たしていた。
「セス」
「うん」
隣でリビアが鞄を閉じる。
「図書室、行きましょう」
「分かった」
立ち上がったところで、教室の入口へレイモンド先生が現れた。
俺とリビアの動きが同時に止まる。
先生はこちらを見た。
「クルセス、オリビア」
「はい」
胸の奥が少しだけ硬くなる。
もう話し合いが終わったのか。
そう思ったが、先生はすぐに首を振った。
「まだ何もない。今からシュザー家当主が到着するところだ」
「あ……はい」
「顔に出ていたぞ」
「すみません」
「謝ることではない」
レイモンド先生は教室内を一度見回し、声を少し落とした。
「予定通り、お前たちは参加しない。学園長からも、結果を待つためだけに残る必要はないと言われている」
「図書室に行く予定です」
リビアが答える。
「一時間ほどで帰ります」
「それでいい。もしその間に面談が終わり、今日中に伝えるべき内容があれば私か学園長が呼ぶ。何もなければそのまま帰れ」
「分かりました」
「クルセス」
「はい」
「学園長室の近くを偶然通りかかるなよ」
「行きませんよ」
「本当か?」
「何で疑うんですか」
「自分で動ける問題を見ると、すぐ動くからだ」
「今回は俺が動く問題じゃないって分かってます」
先生が俺の顔をしばらく見る。
試されているような気がして、俺も視線を逸らさなかった。
「……ならよし」
「信用されました?」
「半分」
「少ない」
「以前なら一割だ」
「増えてる」
「喜ぶところなの?」
リビアが呆れたように笑う。
レイモンド先生も少し口元を緩めたが、すぐに教師の顔へ戻った。
「シュザー家当主は軍務から直接こちらへ来る。面談がどの程度長くなるかは分からない。お前たちが待っているからといって、必要な確認を省くことはない」
「はい」
「だから待ちすぎるな」
その言葉には、ただの指示以上の意味があるように聞こえた。
俺たちのために、急いで結論を出さない。
それでいい。
「お願いします」
俺が頭を下げると、リビアも隣で同じように礼をした。
レイモンド先生が去る。
教室にはまだ何人か残っていて、こちらを気にしていた生徒たちもいたが、詳しいことを聞いてくる者はいなかった。
「行こうか」
俺が言う。
「うん」
俺たちは図書室へ向かった。
◇
放課後の図書室は、昨日より少し人が多かった。
大きな窓から夕方前の光が入り、長い机の上には本を広げた生徒たちが並んでいる。頁をめくる音、ペン先が紙を擦る音、時折椅子が小さく軋む音だけが響き、廊下の騒がしさが扉一枚を隔てて遠くなっていた。
リビアは昨日借りた本を鞄から取り出し、俺も五属性魔術の本を机へ置く。
向かいではなく、隣へ座った。
別に理由はない。
その方が自然だった。
「読む?」
「うん」
「本当に?」
「何が?」
「学園長室の方、気になってない?」
「気になってる」
「正直ね」
「でも読む」
俺は本を開く。
文字を追う。
最初の数行は、ほとんど頭に入らなかった。
今頃、シュザー家当主が学園長室へ入ったのだろうか。
ライゼルの今の状態について、何を聞いているのか。
家ではどんな話をしたのか。
父親は、息子がリビアの意思を認めていないことをどう考えているのか。
「……セス」
「何?」
「三分くらい同じところ読んでる」
「分かる?」
「頁が動いてないもの」
「読めてない」
「でしょうね」
リビアは責めなかった。
自分の本を閉じることもしない。
ただ、栞を指で軽く押さえながら、俺を見る。
「私もあんまり頭に入ってないわ」
「リビアも?」
「気になるもの」
「そっか」
「うん」
少し安心した。
別に、完全に気にしないようになる必要はない。
気になるものは気になる。
そのまま別のことをしてもいいのだろう。
「じゃあ、十頁読めた方が勝ちにする?」
「どうして勝負になるの?」
「集中出来るかなって」
「セス、そういうところあるわよね」
「嫌?」
「面白いからいいけど」
リビアが本を開き直す。
「何を賭ける?」
「賭けるの?」
「勝負なんでしょう?」
「じゃあ……負けた方がお茶淹れる」
「屋敷で?」
「うん」
「それ、セスが負けたら執事の仕事になるでしょう」
「じゃあ駄目か」
「私が負けたら?」
「リビアが淹れる」
「それはいつもと同じね」
「難しいな」
二人で小声で笑う。
近くの席にいた上級生が一度だけこちらを見たので、俺たちは慌てて声を抑えた。
「じゃあ、お願いを一つ聞く」
リビアが囁く。
「危ないのなし」
「もちろん」
「高いもの買えもなし」
「言わないわよ」
「婚約を今日中に実感しろもなし」
「……それはちょっと考えた」
「駄目」
「冗談よ」
「本当?」
「半分」
「レイモンド先生みたいな言い方するなよ」
また笑いそうになり、二人で口を閉じる。
今度こそ読む。
十頁。
ただそれだけを目標にすると、さっきより文字が頭へ入ってきた。
本には、複数属性適性者の魔力変換についていくつかの古い研究例が載っている。三属性を持つ魔術師でも、属性ごとに変換速度や損失率が異なるのが一般的であり、得意属性ほど無意識の調整が少なく済むらしい。
俺の場合は、測定で五属性の差がほとんどなかった。
ベルナルト先生は、五つを別々に扱っているのではなく、共通の変換過程を使っている可能性を考えている。
文章を読みながら、自分の感覚と比べる。
火へ変える。
水へ変える。
風。
土。
雷。
確かに、俺の中では全部同じ場所から分かれている感じがする。
火を使う時だけ特別な道を通るわけではない。
「……面白い」
小さく呟いた。
隣からリビアが顔を上げる。
「集中出来た?」
「うん。リビアは?」
「私も」
「何頁?」
「九頁」
「俺、十一」
「えっ」
「勝った」
「ちょっと待って。セス、途中から読む速度上がってなかった?」
「面白くなったから」
「ずるい」
「何が?」
「何でもないわ」
リビアが悔しそうに頁をめくる。
俺は笑いながら本を閉じかけた。
その時、図書室の扉が開いた。
反射的にそちらを見る。
司書ではない。
レイモンド先生でもない。
普通の生徒だった。
「……」
「セス」
「うん」
「今のは私も見たから」
「リビアも?」
「うん」
顔を見合わせる。
そして、二人で小さく息を吐いた。
「長いね」
「まだ三十分くらいよ」
「三十分しか経ってない?」
「時計見る?」
「見る」
壁の時計を確認する。
本当に三十分ほどしか経っていなかった。
「放課後ってこんなに長かった?」
「待ってるからでしょうね」
「剣やってる時はすぐなのに」
「昨日は一時間くらいあっという間だったものね」
「うん」
時間そのものは同じなのに、ずいぶん違う。
俺はもう一度本を開いた。
「あと三十分」
「読む?」
「読む」
「今度は勝負なし?」
「なし。普通に」
「分かった」
リビアも頁へ視線を戻す。
しばらくは、本当に静かに読めた。
時折どちらかが気になった箇所を小声で示し、互いの本を覗き込む。リビアの本に載っていた古い結界術式の図を見せてもらった時には、顔が近くなりすぎて彼女の髪が俺の頬へ触れた。
「あ、ごめん」
俺が少し離れる。
「……別にいいのに」
「髪当たったから」
「痛くないでしょう?」
「痛くはないけど」
「ならいいじゃない」
リビアはそう言いながら、少しだけ俺の方へ寄ったままだった。
俺も、それ以上は離れなかった。
静かな図書室で同じ図を覗き込む。
彼女の指が術式の線をなぞり、俺はその先を見る。
「ここ、今の結界と違う?」
「ええ。魔力を外へ逃がすんじゃなくて、内側へ循環させようとしてるみたい」
「危なくない?」
「だから廃れたのかもしれないわね。壊れた時に一気に返ってくる可能性があるもの」
「でも、上手く制御出来たら?」
「強いと思う」
「面白いな」
「でしょう?」
リビアの目が輝く。
俺も笑う。
待っている。
でも、それだけではない時間になっていた。
◇
一時間が近づいた頃、図書室に残っている生徒はかなり減っていた。
窓から差し込む光も橙色へ変わり、机の上へ伸びる影が長くなっている。俺は栞を挟み、本を閉じた。
「そろそろ?」
「うん」
リビアも本を閉じる。
結局、先生は来なかった。
「帰る?」
「約束通りなら」
「うん」
少しだけ迷う。
今から学園長室へ行けば、もしかしたら話し合いが終わっているかもしれない。
けれど、それをしないと決めていた。
「行こう」
立ち上がる。
借りた本を鞄へしまい、椅子を戻す。
図書室を出ると、廊下はすでに静かだった。窓の外では夕日が校舎の壁を赤く染め、遠くの訓練場からかすかに剣を打ち合わせる音が聞こえてくる。
学園長室へ向かう廊下は、ここから反対側だ。
俺はそちらを見なかった。
「セス」
「何?」
「行かないの?」
「行かない」
「気になるのに?」
「気になるよ」
俺は歩きながら答える。
「でも、先生が必要なら呼ぶって言ったから」
「うん」
「呼ばれなかったなら、今日は帰る」
口にすると、思っていたより簡単だった。
リビアが俺の隣を歩く。
何も言わない。
ただ、少し嬉しそうに見えた。
「また褒める?」
「今日はやめておく」
「何で?」
「恥ずかしいんでしょう?」
「そうだけど」
「じゃあ代わりに」
リビアの手が近づく。
俺はそれを見て、自分から握った。
指を絡める。
「これ?」
「うん」
「これなら恥ずかしくないと思ってる?」
「セスから繋いでくれたから、私は嬉しいだけ」
「……ならいいけど」
少しだけ頬が熱い。
でも離すほどではない。
そのまま正面玄関へ向かう。
階段を下り、広い玄関ホールへ入ったところで、外から一台の馬車が見えた。
パウリー家のものではない。
黒に近い濃紺の車体。
扉には、見覚えのない紋章が刻まれている。
俺が何となく目を向けると、リビアの足がほんの少し遅くなった。
「……シュザー家」
「分かる?」
「紋章を見たことがあるわ」
ということは、まだ当主は学園内にいる。
面談は終わっていないのか。
それとも、終わったばかりなのか。
馬車のそばには従者が二人待っている。俺たちを見ても特別な動きはなく、ただ静かに主人を待っていた。
俺は立ち止まらなかった。
リビアも同じだった。
玄関を出て、自分たちの馬車へ向かう。
けれど、その途中で背後の扉が開く音がした。
反射的に振り返りそうになる。
俺は一度だけ足を止めた。
「セス?」
「……どうしよう」
「見たい?」
「少し」
誰が出てきたのか。
シュザー家当主なのか。
学園の先生なのか。
確認するだけなら何も悪くない。
そう思う。
でも、わざわざ待って顔を見る必要もない。
「帰ろう」
俺は前を向いた。
リビアの手を握ったまま歩き出す。
「いいの?」
「うん。今日の面談は、俺たちが相手を見るためのものじゃないから」
「……そうね」
リビアも隣へ並ぶ。
背後から足音が聞こえた。
低い男の声もした。
けれど、内容までは聞き取れない。
俺は振り返らなかった。
馬車の前まで来る。
扉を開けようとした時だった。
「クルセス!」
今度は、はっきり俺の名前が呼ばれた。
足を止める。
聞き覚えのある声だった。
振り返る。
玄関の階段を下りてきたのは、レイモンド先生だった。
その後ろには誰もいない。
先生は俺たちのところまで来ると、少し息を整えた。
「まだ帰っていなかったか」
「今帰るところでした」
「ちょうどよかった」
俺とリビアは顔を見合わせる。
「面談、終わったんですか?」
「ああ。つい先ほどな」
「じゃあ――」
聞きかけて、止まる。
全部を今すぐ聞く必要があるのか。
先生は俺の様子を見ていた。
「結論だけ伝える」
「はい」
「詳細は明日、学園長室で説明する。今日は長い話をする時間ではない」
夕方の風が制服の裾を揺らす。
リビアの手が、俺の手の中で少しだけ強くなる。
「シュザー家当主は、ライゼルの行動を正当化していない。オリビアの意思についても、本人の選択が最優先されるべきだとはっきり認めた」
リビアの肩から、わずかに力が抜けた。
俺も息を吐く。
それは、まず確認したかったことの一つだった。
「じゃあ、会う話は?」
「まだ決まっていない」
先生の声は落ち着いていた。
「むしろ今日の話し合いで、すぐに会わせるべきではないという点については、学園とシュザー家の意見が一致した」
「……ライゼルの状態が?」
「それも明日説明する」
先生はそこで一度言葉を切った。
表情を見る限り、悪いことだけではなさそうだった。
けれど、全部解決した顔でもない。
「一つだけ、先に知っておいてほしい」
「何ですか?」
「シュザー家当主は、息子に謝罪させたいという意向自体は変えていない。ただし、謝罪はクルセスだけに対するものではないと言った」
俺は眉を寄せる。
「俺だけじゃない?」
「ああ」
先生の視線がリビアへ移る。
「オリビア本人に対してもだ」
隣で、リビアが黙った。
ライゼルは俺を攻撃した。
でも、その理由としてリビアを使った。
彼女の言葉を聞かず、彼女が俺を選んだことを認めず、自分の考えを押しつけた。
だから。
「……そっちも謝るんだ」
「シュザー家当主は、そう考えている」
「ライゼル本人は?」
「それが、明日の話だ」
レイモンド先生の表情が少し厳しくなる。
「父親が理解していることと、息子が理解していることは別だ」
俺は何も言えなかった。
そこが一番大事なのだろう。
シュザー家が謝罪する。
父親が問題を認める。
それだけで、ライゼル本人の考えまで変わるわけではない。
「今日はここまでだ」
先生が言う。
「帰って休め。明日、放課後に学園長室へ来い。オリビアも一緒で構わない」
「分かりました」
「それから」
「はい」
「今夜、自分たちだけで結論を出そうとするな」
俺は一瞬黙る。
「……顔に出てました?」
「少しな」
「俺も分かったわ」
リビアまで言う。
「そんなに?」
「セスだから」
「理由になってない」
「なってるわよ」
先生が小さく笑う。
「明日、必要な情報はすべて話す。その上で、お前たち自身の意思を確認する。今日はそれで十分だ」
「はい」
今度は素直に頷けた。
先生へ礼をして、馬車へ乗る。
扉が閉まる。
外の音が少し遠くなった。
馬車が動き出してからも、俺とリビアはしばらく話さなかった。
窓の外には夕方の街並みが流れていく。店先に灯りがつき始め、仕事を終えた人たちが道を行き交っている。
「リビア」
「うん」
「大丈夫?」
言ってから、少し迷う。
でも今回は聞き直さなかった。
図書室へ一人で行けるかという意味ではない。
今の話を聞いて、どう感じているかという意味だ。
リビアにもそれが分かったらしい。
「少し複雑」
「そっか」
「シュザー伯爵が私の意思を認めてくれたのは、安心したわ」
「うん」
「でも、ライゼル本人がどう思ってるかはまだ分からないでしょう?」
「うん」
「謝られたいかって聞かれたら……それも、まだ分からない」
「明日決めなくてもいいんじゃない?」
リビアがこちらを見る。
「先生、俺たちの意思を確認するって言ってた。会うかどうかを明日その場で絶対決めろとは言ってない」
「そうね」
「分からなかったら、分からないって言ってもいいと思う」
俺自身にも言っているような言葉だった。
ライゼルと会うべきか。
謝罪を受けるべきか。
俺もまだ決めていない。
「セスは?」
「俺も分からない」
「会いたくない?」
「そこまでじゃない。でも、会いたいともまだ思ってない」
「怒ってる?」
少し考える。
「俺を攻撃したことより、リビアの話を聞かなかったことの方が嫌かも」
「……セス」
「でも、それも俺が代わりに怒るだけじゃ駄目なんだろ?」
「え?」
「リビアがどう思ってるか聞かないと」
彼女の目が少し大きくなる。
「俺が『リビアのために怒ってる』って言って、リビアの気持ちを勝手に決めたら、ライゼルと同じにはならないかもしれないけど……似たところはある気がする」
完全に同じではない。
俺はリビアを自分のものだと思っているわけではないし、彼女の拒絶を無視するつもりもない。
それでも、「守るため」という理由で本人へ聞かずに全部決めることは出来る。
それを最近、何度も教えられている。
「だから、リビアはどう思ってる?」
彼女はすぐには答えなかった。
窓の外へ一度目を向け、膝の上で両手を重ねる。
「怖くはないの」
「うん」
「セスもいるし、先生たちもいるなら、会うこと自体が怖いわけじゃない。でも……また私の言葉を聞いてもらえなかったら、嫌だと思う」
声が少しだけ揺れた。
「私がセスを選んだって言っても、そんなはずはないって言われるのが嫌。私の気持ちなのに、他の人に違うって決められるのが……すごく嫌だった」
俺は黙って聞く。
あの時もリビアは怒っていた。
でも、その奥にあったものを、俺は全部分かっていなかったのかもしれない。
「だから、もし会うなら」
リビアが俺を見る。
「ちゃんと私の話を聞ける状態になってからがいい」
「うん」
「謝ってほしいかどうかは、その後で考えたい」
「分かった」
「セスは?」
「俺もそれでいいと思う」
「私に合わせてない?」
「違う」
すぐに答えた。
「俺も、話が通じない状態なら会う意味ないと思う。戦うために会うわけじゃないし」
「そうね」
「謝罪って、言わせれば終わりじゃないだろ?」
「うん」
「なら急がなくていい」
そこまで話すと、少しだけ胸の中が軽くなった。
結論は出ていない。
でも、今夜出す必要もない。
リビアも同じなのだろう。
強張っていた肩が少し下がる。
「セス」
「何?」
「今日、図書室に一緒にいてくれてありがとう」
「俺も本読みたかったから」
「それでも」
「じゃあ、どういたしまして」
俺が答えると、彼女が笑った。
その笑顔を見ていると、自然に手を伸ばしたくなる。
今度は迷わなかった。
座席の間にある彼女の手へ、自分の手を重ねる。
リビアの指がすぐに絡んできた。
「明日、話聞こう」
「うん」
「二人で」
「うん」
馬車は夕暮れの道を進んでいく。
今日の面談で、全部が解決したわけではない。
シュザー家当主が俺たちの意思を尊重することは分かった。
でも、ライゼル本人がどうなのかはまだ分からない。
会うかどうかも決まっていない。
謝罪を受けるかどうかも決まっていない。
それでいい。
決めるための情報が足りないなら、まだ決めなくていい。
俺一人で先へ走る必要もない。
隣を見ると、リビアもこちらを見ていた。
繋いだ手は温かい。
明日の放課後、俺たちは学園長室で今日の面談について詳しく聞く。
その話を聞いた時、自分が何を思うのかはまだ分からない。
だから今は、それを勝手に決めないことにした。




