第23話 友達と放課後を過ごすだけなのに、どうして婚約者の許可が必要なんですか
翌朝、目を覚まして最初に思い出したのは、シュザー家のことではなかった。
昨日の剣術の授業で、イザークと木剣を合わせた時の感覚だった。
最初の日より明らかに踏み込みが速くなっていたこと。俺が外へ逃げれば追い方を変え、受け流せば次の一撃へ繋げてきたこと。最後には俺が有利な形で終わったものの、初日に比べればずっと長く剣を交わせた。
次は一本取る。
そう言っていたイザークの顔まで思い出す。
「……楽しみなんだな、俺」
寝台から起き上がりながら、自分で少し笑った。
戦うことそのものが楽しみなのではない。
昨日も思ったが、相手が考え、それを見て自分も考える時間が面白いのだ。
魔術理論や領地経営の問題と似ているのかもしれない。条件があって、相手がいて、答えが一つではない。
そう考えると、今まで自分が何を好きなのかあまり考えずに生きてきたことが、少し不思議に感じられた。
スラムにいた頃は、好き嫌いより先に必要かどうかだった。
食べられるもの。
眠れる場所。
逃げる道。
危険な人間。
役に立つ知識。
パウリー家へ来てからも、執事として必要だから覚えることが多かった。剣も魔術も学問も、出来るようになること自体は嫌いではなかったが、それを好きなのかと聞かれたことはほとんどない。
今は違う。
学園では、何度も聞かれる。
面白いか。
楽しいか。
やりたいか。
嫌ならやめたいと言っていいのか。
昨日の学園長室で教えられたことまで思い出しそうになって、俺はそこで考えるのを止めた。
「それは明日」
シュザー家当主と学園側が事前面談をするのは明日の放課後だ。
俺とリビアは参加しない。
結果を聞くのはさらにその後になる。
なら、今日の朝から考え続けても仕方がない。
そう決めて着替えを終えると、俺は部屋の隅へ置いてある剣へ目を向けた。
身体は軽い。
昨日も大きな疲労はなかった。
少しくらい振る時間もある。
そこまで考えてから、時計を見る。
「……軽くなら」
言いかけて、止まった。
最近、自分の「軽く」があまり信用されていないことを思い出したからだ。
ただ、訓練そのものを禁止されているわけではない。測定前でもなく、昨日の疲労もないのだから、何でもかんでもやめればいいという話でもないはずだ。
なら、決めてから始めればいい。
「十分だけ」
時間を決める。
魔術は使わない。
剣の素振りと足運びだけ。
汗をかくほど追い込まない。
朝食へ遅れない。
そこまで考えてから剣を取った。
庭へ出ると、朝の空気は思ったより冷たかった。
昨夜の湿気が芝生に残り、靴の裏へ僅かに水気がつく。東の空には薄い雲が広がっているが、その向こうから朝日が差し始めていて、屋敷の窓へ淡い光を反射させていた。
俺は剣を構える。
大きく振らない。
呼吸を合わせ、身体の軸を確認するように一度、二度と振る。
昨日のイザークの踏み込みを思い出し、自分ならどう返すかを考える。
避ける。
受ける。
先に距離を潰す。
別の方法もある。
気づけば少し楽しくなっていた。
だからこそ、そこで止めた。
「……まだ出来るけど」
出来る。
やりたい。
でも、決めた時間は終わりだ。
剣を下ろす。
身体にはまだ余裕がある。
呼吸も乱れていない。
以前なら、ここからもう十分、さらにもう十分と続けていたかもしれない。
「これでいいのか」
少し物足りない。
でも、その物足りなさが悪いものには感じなかった。
次に出来る時間がある。
そう考えればいい。
「おや」
背後から声がした。
振り返ると、庭へ続く回廊にグレイヴが立っていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「朝の鍛錬ですか」
「うん。もう終わり」
グレイヴの眉が僅かに上がる。
「始めたところでは?」
「十分やった」
「十分」
「時間の方」
「分かっております」
何となく笑われている気がする。
「今日は測定もないし、身体も問題ないから、素振りと足運びだけ。魔術なし。汗かく前に終わり」
「誰に指示されましたか」
「自分で決めた」
グレイヴが黙った。
「……何?」
「いえ」
「最近、その『いえ』多くない?」
「成長を実感しているだけです」
「やっぱり褒めるんだ」
「適切な自己管理が出来たのであれば、評価するのは当然でしょう」
グレイヴが庭へ降りてくる。
俺の剣と身体を順番に確認するように視線を動かした。
「物足りませんか」
「少し」
「ならば適量だった可能性が高いですね」
「物足りない方がいいの?」
「毎回限界まで行う必要はありません。特に日常的な鍛錬なら、翌日も続けられる余裕を残すことは重要です」
「なるほど」
「もっとも、以前から何度も申し上げておりますが」
「聞いてなかったわけじゃないよ」
「実行していなかっただけですね」
「……はい」
言い返せなかった。
グレイヴの口元がほんの少し緩む。
「では、剣を片づけて朝食へ。オリビア様はすでに起きておられます」
「分かった」
剣を鞘へ戻す。
そのまま回廊へ上がろうとした時、ふと思った。
「グレイヴ」
「はい」
「俺、剣術好きかもしれない」
口にすると、グレイヴの足が止まった。
「今さら?」
「何で?」
「いえ。続けてください」
「今さらって言ったよな?」
「幼い頃から、稽古の時間になると明らかに機嫌がよかったものですから」
「そうだった?」
「剣を取り上げなければ夕食まで続けようとしたこともございます」
「それは好きだからじゃなくて、強くならないといけないと思ってたからじゃない?」
「それだけなら、私に一本取られた翌朝に笑いながら別の方法を試しには来ないでしょう」
覚えていない。
俺がまだ小さかった頃の話だろう。
「笑ってた?」
「ええ」
「俺が?」
「非常に楽しそうに」
少し恥ずかしくなる。
昔からそうだったのか。
ただ、自分で名前をつけていなかっただけで。
「そっか」
「今になって気づけたのであれば、それもよいでしょう」
「うん」
「ただし、好きだからといって限界まで続ける理由にはなりません」
「分かってる」
「本当に?」
「今、自分で止めたところだろ」
「では信用しましょう」
そう言いながら、グレイヴは少し嬉しそうだった。
◇
朝食の席でその話をすると、リビアは予想通りというか、予想以上に喜んだ。
「自分で時間を決めたの?」
「十分」
「魔術は?」
「使ってない」
「終わった時、まだ続けられた?」
「続けられたけどやめた」
「セス」
「その顔やめて」
「だって嬉しいんだもの」
リビアは手にしていたカップを置き、俺をじっと見る。
「それに、剣術が好きだって自分で分かったんでしょう?」
「グレイヴには今さらって言われた」
「私も今さらだと思うわ」
「リビアまで?」
「だって、セスって昔から剣を持ってる時、楽しそうだったもの」
「そんなに?」
「うん。私と一緒に稽古する時も」
言われて、昔のことを思い出す。
リビアがまだ今よりずっと小さく、木剣を両手で持っていた頃。
俺が相手をしていた。
最初は剣先がぶれていた。
何度も転びそうになった。
でも、負けず嫌いだからやめなかった。
俺も何度も教えた。
あれは仕事だったのか。
たぶん違う。
「リビアとやるのも楽しかったよ」
自然に言う。
リビアの手が止まった。
「……本当?」
「うん。リビア、負けるとすぐもう一回って言うから」
「だって悔しかったもの」
「何回やってもやめないし」
「セスが全然勝たせてくれなかったからでしょう?」
「わざと負けたら怒るだろ」
「怒るわよ」
「だから」
俺が笑うと、リビアも少し頬を膨らませながら笑った。
「今度、久しぶりにやる?」
「私と?」
「うん」
「本気で?」
「迅雷撃破は使わない」
「当たり前よ」
「剣だけ」
「それなら」
リビアの目が少し楽しそうに細められる。
「受けて立つわ」
「俺、結構強いよ?」
「知ってるわよ。誰が一番長くセスの剣を見てきたと思ってるの?」
「グレイヴ?」
「……それはずるい」
「じゃあ二番目?」
「そこは私って言って」
朝から何の話をしているのだろう。
でも、楽しかった。
学園へ行く前に次の楽しみが増える。
それも悪くない。
◇
学園へ着くと、今日は昨日より空が明るかった。
朝の雲は残っているものの、青空が覗く場所も増えている。正門から校舎へ続く道には生徒たちが行き交い、制服の袖を少し捲っている者もいれば、まだ朝の冷えを気にして上着をしっかり着込んでいる者もいた。
俺とリビアは馬車を降りて並んで歩く。
今日は手を繋いでいない。
別に毎回繋ぐと決めたわけではないし、こうして肩が近い距離で歩くことにも慣れてきた。
「おはよう、クルセス!」
校舎へ入る少し前で、前方から声が飛んできた。
イザークだ。
「おはよう」
「昨日の約束、忘れてないよな?」
「剣?」
「ああ」
「忘れてないよ」
「よし」
「でも今日、剣術の授業ないぞ」
「知ってる」
「じゃあ何で今確認したの?」
「次の授業まで待つの長いだろ」
俺は少し笑う。
「そんなにやりたいの?」
「やりたい」
即答だった。
それを聞いて、俺も少し嬉しくなる。
「俺も」
「本当か?」
「うん」
イザークが一瞬驚いた顔をする。
「何?」
「いや。お前からそう言われると思わなかった」
「昨日楽しかったから」
「……そうか」
イザークが妙に嬉しそうな顔をする。
その様子を見ていたリビアが小さく笑った。
「二人とも、仲良くなったわね」
「仲良く?」
俺とイザークの声が重なる。
「違うの?」
「いや」
イザークが俺を見る。
俺も見る。
「友達ってこと?」
俺が聞くと、イザークが固まった。
「何で疑問形なんだよ」
「こういうの慣れてないから」
「お前、ナナリーやミリアナとも普通に話してるだろ」
「話すけど」
「アルフォルド殿下たちとも」
「うん」
「それで俺だけ友達かどうか分からないのか?」
「いや、誰がどこから友達なのか分からない」
本気で答える。
イザークが額へ手を当てた。
「……面倒くさいな、お前」
「ひどい」
「そこじゃないでしょう」
リビアが苦笑する。
「セス」
「何?」
「友達って、誰かに認定してもらうものじゃないと思うわよ」
「じゃあどう決めるの?」
「お互いがそう思っていればいいんじゃない?」
「イザークは?」
「俺に聞くのかよ!」
「だってお互いって」
「友達だと思ってるよ!」
少し大きな声だった。
近くを歩いていた生徒が何人か振り返る。
イザーク自身も気づいたらしく、少し顔を赤くした。
「……最初の日に剣で負けて、次は勝つって言って、授業で一緒に飯食うこともあるだろ。普通に友達だろ」
「そっか」
「何だよ」
「嬉しいなと思って」
俺が答えると、イザークがまた黙る。
何かおかしいだろうか。
「お前さ」
「うん」
「そういうの、もう少し恥ずかしそうに言えないのか?」
「何で?」
「もういい」
リビアが隣で笑っている。
「じゃあ、俺も友達だと思う」
「……おう」
イザークが視線を逸らした。
でも、口元は少し笑っている。
友達。
その言葉を胸の中で一度繰り返す。
不思議な感じだった。
嫌ではない。
むしろ、かなり嬉しい。
「じゃあ友達なら、放課後に一緒に剣の練習してもいい?」
「だから何で俺に聞くんだよ」
「友達って何するのかよく分からないから」
「普通に誘え!」
「じゃあ、今日放課後、練習しない?」
「やる!」
「早いな」
「お前が誘ったんだろ!」
また笑う。
そこまで話してから、俺は隣を見る。
リビアがいる。
「リビア」
「何?」
「今日、放課後イザークと練習していい?」
「……どうして私に許可を取るの?」
「え?」
言われて止まる。
「婚約者だから?」
「婚約者なら、友達と剣の練習をするたびに許可が必要なの?」
「違うの?」
「違うと思うわ」
イザークが横で必死に笑いを堪えている。
「じゃあ聞かなくていいの?」
「セスが放課後に私と何か約束しているなら相談してほしいけど、今日はないでしょう?」
「ない」
「なら、自分で決めていいわよ」
「そっか」
考えてみればそうだ。
リビアを勝手に決めない。
同じように、俺自身のことも全部リビアへ決めてもらう必要はない。
「じゃあ練習する」
「うん」
「リビアは?」
「私は少し図書室へ寄ろうと思ってたの」
「一人で大丈夫?」
言った瞬間、リビアの眉が僅かに上がった。
「あ」
「セス?」
「またやった」
「何を?」
「一人で大丈夫かって」
リビアは強い。
剣も魔術も使える。
学園内で、しかも図書室へ行くだけだ。
俺がいなければ何も出来ない相手ではない。
「ごめん」
「謝るほどじゃないわ」
「でも」
「心配してくれるのは嬉しいもの。ただ、『一人じゃ危ないから俺がついていく』って勝手に決めなければいいの」
「じゃあ……図書室、一人で行く?」
「ええ。調べたい本があるから」
「分かった」
「終わったら正門で待ち合わせましょう」
「何時?」
「放課後から一時間くらいでどう?」
「俺もそれくらいなら」
「じゃあ決まり」
予定が出来る。
俺はイザークと練習する。
リビアは図書室へ行く。
終わったら正門で会う。
それだけのことなのに、少し新鮮だった。
いつも一緒にいるからといって、何でも一緒にしなくていい。
別々のことをして、後でまた会えばいい。
「……何だ?」
イザークが俺を見る。
「いや」
「変な顔してるぞ」
「こういうのも婚約者なんだなと思って」
「俺に聞くな」
「聞いてないよ」
「顔が聞いてる」
教室へ向かう間、リビアの笑い声がしばらく続いていた。
◇
午前の授業は、算術応用から始まった。
今日の課題は前回より少し複雑で、領地内に三つある倉庫の食料を冬前にどう分配するかというものだった。
北部の村は人口が少ないが冬季に街道が雪で閉ざされやすい。
中央部は人口が多く、市場があるため外部からの調達もしやすい。
南部は今年の収穫量が少ないものの、隣領との街道が安定している。
倉庫にある量は十分ではある。
ただし、全地域へ同じ割合で配ればいいわけではない。
「またクルセス様が楽しそう」
同じ班になったミリアナが小声で言う。
「顔に出てる?」
「少し」
「俺、そんな分かりやすいかな」
「最近は」
同じ机にはナナリーとサザリーもいる。
サザリーは配布された資料へ目を落としながら、静かに口を開いた。
「まず北部ですね」
「うん」
俺も頷く。
「雪で道が閉じるなら、後から運べない」
「中央は不足が出ても市場調達が可能です」
「でも値段上がらない?」
ナナリーが聞く。
「冬季には上がる可能性が高いですね」
「なら、中央を減らしすぎるのも危ないか」
俺は数字を書きながら考える。
「北は最初から多め。南は収穫少ないけど道が生きてる。中央は人口多いけど調達出来る……」
「全部に理由がありますね」
ミリアナが言う。
「だから面白い」
俺が答えると、三人がこちらを見る。
「何?」
「いえ」
「クルセス様が普通に『面白い』って言うようになったなって」
ナナリーが笑う。
「前、言ってなかった?」
「最近ですよ」
「そうだっけ」
自分ではあまり分からない。
でも、言われてみればそうなのかもしれない。
好き。
楽しい。
面白い。
そういう言葉を、以前より口にするようになっている。
「中央は最低限を確保した上で、予備分を北へ回すのは?」
サザリーが提案する。
「いいと思う。でも北へ全部置くと、火事とか倉庫が壊れた時に危なくない?」
「分散ですか」
「うん。北の中でも二か所に分けられたら」
「資料上は小規模な保管庫があります」
ミリアナが別紙を指す。
「ここ?」
「はい。ただし修繕費が必要です」
「じゃあ、その費用と食料が失われる危険を比べる?」
俺が言うと、サザリーが僅かに笑った。
「本当に領地経営の授業が好きですね」
「執事と関係あるかな」
「ありますよ。大きな屋敷の管理も、規模を小さくすれば似た要素があります」
「そうなの?」
「物資、人員、予算、設備、予定。すべて管理対象ですから」
言われて、少し考える。
確かにパウリー家の厨房や倉庫で覚えたことが、前の授業でも役に立った。
「じゃあ、執事の仕事にも使える?」
「十分に」
「それはいいな」
俺はもう一度資料へ目を落とした。
好きなことと、役に立つこと。
今までは役に立つからやることが多かった。
でも、好きなことが役に立つなら、それはもっといい。
そんな単純なことに今まで気づかなかった。
班での話し合いは授業時間の大半を使った。
途中、教師が各班を回り、俺たちの案にも質問を投げる。北部へ多く備蓄した場合、春まで余った食料をどうするのか。保管庫修繕費をどこから出すのか。南部で隣領からの調達が止まった場合にどうするのか。
質問されるたびに、また条件が増える。
俺はそれが嫌ではなかった。
むしろ、最初の答えを直していく方が面白い。
授業の終わりに各班の案が紹介されると、同じ資料を使っているのに配分はかなり違っていた。
「正解は一つではない」
教師が教室全体を見渡す。
「ただし、理由のない選択は判断とは呼べない。何を守り、何を諦め、どの危険を受け入れるのか。その根拠を説明出来ることが重要だ」
俺はその言葉を聞きながら、昨日までのことを思い出した。
ライゼルと会うか。
会わないか。
それにも条件がある。
安全。
リビアの意思。
俺の意思。
ライゼルの状態。
シュザー家当主の影響。
今は情報が足りない。
だから決めない。
授業と同じだと思うと、少しだけ分かりやすかった。
◇
昼休みになると、今日は最初から皆で食べることになった。
昨日のようにアルフォルド殿下が騒いだからではない。
朝のうちにナナリーが「今日はみんなでどうですか」と聞き、俺とリビアも頷いたからだ。
場所は東棟裏庭。
昨日より空が晴れ、芝生へ落ちる木漏れ日も明るい。昼前から気温も上がり、風が吹かなければ上着を脱いでもいいくらいだった。
俺の隣にはリビア。
反対側には今日はナナリーが座っている。
イザークは向かい側だ。
「何でそんなにこっち見てるの?」
昼食を広げながら聞く。
「放課後」
「覚えてるよ」
「本当に?」
「朝も確認しただろ」
「楽しみなんだよ」
「俺も」
答えると、イザークがまた少し嬉しそうな顔をする。
「男同士の友情だねえ」
カイゼル殿下が面白そうに言う。
「殿下、何でそんなに楽しそうなんです?」
「クルセスが学園生活に馴染んでいくのを見るのはなかなか面白いよ」
「観察対象みたいに言わないでください」
「五属性の測定より面白いかもしれない」
「それは嫌だな」
アルフォルド殿下がパンを手にしたままこちらを見る。
「放課後に剣を合わせるのか?」
「はい」
「私も参加しよう」
「え?」
イザークの表情が固まる。
「殿下も?」
「剣術の自主練習だろう? 問題はないはずだ」
「いや、問題はないですけど」
「なら決まりだ」
「ちょっと待ってください」
俺が止める。
「何だ?」
「イザークと練習する約束だから、イザークにも聞かないと」
アルフォルド殿下が一瞬黙る。
俺も言ってから気づいた。
以前なら、王子が参加すると言えばそのまま受け入れていたかもしれない。
でも、今日は俺とイザークの約束だ。
「イザーク、いい?」
「俺?」
「うん」
イザークはアルフォルド殿下を見る。
少し緊張している。
王族相手なのだから当然だ。
「……俺は構わない。でも、クルセスとやる時間はほしいです」
言った。
アルフォルド殿下は怒らなかった。
「当然だ。二人の約束へ私が混ざるのだからな」
イザークの肩から力が抜ける。
「ありがとうございます」
「では、私は二人の後で構わない」
「殿下も剣使うんですね」
「当たり前だろう」
「光魔術の印象が強かったので」
「王族が魔術しか学ばないと思ったか?」
「いや、そういうわけじゃ」
「クルセス」
カイゼル殿下が笑いながら口を挟む。
「彼は剣もかなり得意だよ」
「カイゼル、お前に言われると腹が立つな」
「褒めたのに」
「お前自身が剣も使うからだ」
「僕も参加しようか?」
「増えた」
「では私も見学を」
サザリーまで言い出す。
「サザリーはやらないの?」
「私は剣より魔術の方が得意です。ですが、皆様の動きを見ることには興味があります」
「じゃあ見学」
「私たちも見てもいいですか?」
ミリアナが聞く。
「別にいいけど」
ナナリーも頷く。
「見たいです」
「何か人数増えてない?」
俺はリビアを見る。
「リビアも来る?」
リビアは少し迷った。
「行きたいけど、今日は図書室に行くって決めたから」
「そっか」
「でも最後の少しだけ見に行こうかな」
「調べ物終わったら?」
「うん」
「分かった」
自然に決まる。
リビアはリビアの予定を優先する。
俺は俺の予定を過ごす。
それで、後から合流する。
何でも一緒ではないのに、離れている感じもしなかった。
「クルセス」
アルフォルド殿下が声をかける。
「何です?」
「お前、今オリビアに『来てほしい』とは言わなかったな」
「図書室行くって言ってたから」
「そうか」
「何です?」
「いや」
アルフォルド殿下は少しだけ考えるような顔をして、それ以上は言わなかった。
代わりにカイゼル殿下が笑う。
「殿下も成長を観察しているんじゃない?」
「黙れ」
「俺、そんなに観察されるところある?」
「あるわよ」
リビアが即答する。
「リビアまで?」
「一番近くで見てるもの」
「婚約者だから?」
「そう」
迷いなく答えられた。
胸の奥が少し温かくなる。
それがどういう種類の気持ちなのか、まだ完全には分からない。
でも、今はそれでいい。
◇
午後の授業を終え、放課後になる。
俺は教室で制服の上着を脱ぎ、剣術用の軽装へ着替えるため更衣室へ向かった。
イザークも一緒だ。
「何か大事になったな」
「殿下たち来るから?」
「ああ。俺、お前と二人で軽くやるだけだと思ってた」
「俺も」
「まあ、いいけど」
「嫌だったら断ってもよかったんだぞ」
「嫌じゃない。ただ緊張する」
「アルフォルド殿下?」
「王子相手に緊張しないお前がおかしいんだよ」
「俺も最初は緊張したよ」
「今は?」
「普通に話す人」
「王子を『普通に話す人』って」
イザークが笑う。
更衣室には他にも何人かの男子生徒がいて、俺たちの話を聞いていたらしい。
「クルセスなら今さらだろ」
一人が声をかけてくる。
「何が?」
「第一王子と第二王子と宰相子息と一緒に昼食食ってるんだぞ」
「そうだけど」
「しかも公爵令嬢の婚約者」
「それもそうだけど」
「元平民の執事」
「それも」
「情報量多いな、お前」
更衣室に笑いが起きる。
「俺は普通に学園通ってるだけなんだけど」
「五属性も追加で」
「それは今関係ないだろ」
さらに笑われた。
でも、俺も笑う。
以前なら元平民と言われると、少し身構えていたかもしれない。
今の言い方には悪意がない。
ただ俺の変な立場を面白がっているだけだ。
「じゃあ行くか」
着替えを終え、イザークと訓練場へ向かう。
今日は授業ではないため、使用するには担当教師へ申請が必要だった。
イザークが先に手続きをしてくれていたらしい。
「いつ申請したの?」
「昼休みの後」
「早いな」
「やるって決まってたから」
「ありがとう」
「友達ならこれくらい普通だろ」
その言葉に、また少し嬉しくなる。
「友達って便利だな」
「その感想やめろ。俺を便利な人みたいにするな」
「違うよ」
「分かってるけど!」
訓練場へ入る。
授業中より人は少ない。
それでも自主練習をしている生徒は何人かいて、剣を振る音や掛け声が広い空間へ響いている。夕方の光が高い窓から斜めに差し込み、舞い上がった細かな砂埃が光の筋の中で揺れていた。
アルフォルド殿下たちは、まだ来ていない。
「先に始める?」
「ああ」
木剣を取る。
まずは軽く身体を動かす。
肩。
手首。
足。
授業で教えられた通り、いきなり打ち合わない。
「クルセス」
「何?」
「朝もやったのか?」
「十分だけ」
「十分?」
「自分で時間決めて、終わったらやめた」
「……お前、本当にみんなから何か言われてるんだな」
「何で?」
「その説明が妙に細かい」
「グレイヴとリビアに聞かれるから」
「大変だな」
「最近はそんなに」
むしろ、見てもらっていることを嫌だと思わなくなっている。
それも変化なのだろう。
身体が温まったところで、向かい合う。
「今日はどうする?」
「昨日の続き」
「相手の距離を見る?」
「ああ。でも、今日は一本取りたい」
「分かった」
「手加減するなよ」
「それ難しい」
「即答するな!」
「だって本当に全部出したら駄目だろ」
「迅雷撃破はなし!」
「魔術もなし」
「身体強化は?」
「基礎だけ」
「それで」
条件を決める。
授業ではない。
だからこそ、自分たちで安全を考える必要がある。
「頭と首は狙わない」
「了解」
「強く入ったら止める」
「了解」
「痛かったら言う」
「……お前がそれ言うと説得力あるな」
「何で?」
「最近覚えたんだろ」
「そうだけど」
笑いながら構える。
少し離れたところには監督役の教師もいる。
何かあれば止めてもらえる。
「じゃあ」
「ああ」
イザークが剣を上げる。
俺も構える。
始めようとしたところで、訓練場の入口から声がした。
「もう始めているのか?」
アルフォルド殿下だ。
その後ろにカイゼル殿下とサザリーもいる。
「今からです」
「間に合ったな」
「殿下、本当に来たんですね」
「約束しただろう」
「そうですけど」
アルフォルド殿下は訓練用の剣まで持っている。
本気で参加するらしい。
「先に二人でやれ」
「はい」
カイゼル殿下とサザリーは壁際へ移動する。
少し遅れてナナリーとミリアナまで入ってきた。
「本当にみんな来た」
「見たいですから」
「クルセス様とイザークの再戦、教室でも話題になってましたよ」
「再戦っていうほどじゃないよ」
「俺には再戦だ!」
イザークだけは本気だ。
俺は笑いながら向き直る。
「じゃあやろう」
「ああ」
今度こそ始める。
イザークが踏み込む。
昨日と同じ外側へのずらし。
そう思った瞬間、違った。
途中で足を止める。
俺が反応するのを待った。
「へえ」
「昨日と同じだと思っただろ!」
「少し」
俺は前へ出る。
イザークが下がる。
追う。
でも、追いすぎない。
次の動きを見る。
木剣が下から上へ来る。
受ける。
乾いた音。
腕へ衝撃。
そこからイザークが身体を回す。
昨日より繋がっている。
「いいな」
「だから戦いながら褒めるな!」
「だってよくなってる」
「集中しろ!」
俺は笑う。
本当に楽しい。
勝つためだけではない。
昨日とは違うイザークを見る。
俺も違う返し方をする。
相手がまた変える。
数度、木剣がぶつかる。
イザークが大きく踏み込んだ。
俺は受ける。
いつもなら、そのまま外へ流せる。
でも。
「っ!」
イザークが途中で剣を引いた。
俺の受けが空く。
すぐに剣先が反対側へ回る。
「お」
胸元へ来る。
俺は身体を捻った。
避ける。
でも、完全ではない。
木剣の先が制服の訓練着を軽く擦った。
「今、当たった?」
俺が聞く。
「触った!」
イザークが目を輝かせる。
「一本?」
「有効打には浅い」
監督していた教師が声をかける。
「だがクルセスの回避を崩したのはよい」
「よし!」
イザークが嬉しそうに拳を握る。
俺も笑う。
「やったな」
「まだだ! 一本取る!」
「うん」
もう一度構える。
周囲からも声が聞こえる。
「今のよかったですね」
「クルセス様に触れた」
「イザーク、昨日より速いな」
見ている生徒たちも楽しんでいる。
俺は少しだけ呼吸を整える。
身体は問題ない。
集中力もある。
まだ続けられる。
再開。
今度は俺から出る。
速すぎない。
イザークが反応出来る範囲。
でも、簡単には取らせない。
右。
受けられる。
左。
下がる。
足元へ意識を向けさせてから上へ。
イザークが剣を上げる。
そこへ俺は一歩だけ内側へ入った。
「あ」
木剣を止める。
イザークの胸の前。
触れる直前。
「そこまで」
教師の声。
俺は剣を引いた。
「くそっ!」
イザークが悔しそうに息を吐く。
「最後、上見た?」
「ああ」
「足から上に変えたから」
「分かってる! 分かったけど間に合わなかった!」
「じゃあ次は間に合うかも」
「絶対間に合わせる」
悔しそうなのに楽しそうだ。
俺も楽しい。
「クルセス」
アルフォルド殿下がこちらへ来る。
「次は私だ」
「もう?」
「少し休んでからで構わない」
俺は身体を確認する。
まだ余裕はある。
でも。
「五分休みます」
言う。
アルフォルド殿下が少し驚いた。
「必要か?」
「たぶん今ならすぐ出来ます。でも、自主練だから急がなくていいかなって」
「……そうか」
殿下が笑う。
「何です?」
「いや。いい判断だと思った」
「殿下まで褒めるんですか」
「褒められて不満なのか?」
「最近多いから恥ずかしい」
「なら慣れろ」
木剣を置き、水を飲む。
イザークも隣へ座った。
「俺も」
「疲れた?」
「お前よりはな」
「どれくらい?」
「普通」
「それ一番分からないやつ」
「お前に言われたくない!」
周囲が笑う。
水を飲みながら、俺は訓練場の入口を見る。
リビアはまだ来ていない。
図書室で調べ物をしているのだろう。
少しだけ見てほしい気持ちはある。
でも、急いで来てほしいとは思わなかった。
リビアにはリビアの時間がある。
俺には俺の時間がある。
そして後で会う。
それでいい。
「クルセス」
サザリーが近づいてきた。
「何?」
「今、入口を見ましたね」
「リビア来たかなって」
「気になりますか」
「少し」
「迎えに行かなくてよいのですか?」
「図書室行くって言ってたから」
「なるほど」
「終わったら来るって」
「では待つ?」
「うん。でも俺は練習する」
サザリーが少し笑った。
「何?」
「いえ。よいと思います」
「またそれ?」
「最近、皆様がクルセスを褒める理由が少し分かりました」
「サザリーまで増えた」
俺は水筒を閉じる。
五分休んだ。
身体は問題ない。
「殿下、いけます」
「もういいのか?」
「はい」
「では来い」
アルフォルド殿下が訓練場中央へ出る。
俺も木剣を取る。
殿下の構えは、イザークとはかなり違った。
姿勢が高い。
でも隙が少ない。
王族として正式な剣術教育を受けているのだろう。
「魔術は?」
「使わない」
「光属性も?」
「今日は剣だ」
「分かりました」
「お前も雷は禁止だ」
「使いませんよ」
「念のためだ」
周囲が少し静かになる。
第一王子と俺。
また妙な噂になりそうだ。
「殿下」
「何だ?」
「これ、明日『王子と決闘した』とか言われません?」
アルフォルド殿下の構えが僅かに崩れた。
カイゼル殿下が吹き出す。
「ありそうだね」
「笑い事ではないぞ」
「初日の実績がありますから」
サザリーまで冷静に言う。
「では見ている者は、決闘ではなく自主練習だと証言しろ」
「殿下が一番気にしてるじゃないですか」
「お前と関わると噂が妙な方向へ進むと学んだ」
「俺のせい?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「周囲だ」
「なら仕方ないか」
笑いが起こり、張り詰めかけていた空気が緩む。
その時だった。
訓練場の入口から、聞き慣れた声がした。
「セス」
振り向く。
リビアが立っていた。
片手には図書室で借りたらしい本を二冊抱えている。
「リビア」
「間に合った?」
「今からアルフォルド殿下とやるところ」
「よかった」
彼女は壁際へ移動する。
俺はその姿を確認してから、もう一度殿下へ向き直った。
「嬉しそうだな」
「何がです?」
「オリビアが来た」
「見てほしかったので」
答えてから、自分でも少し驚いた。
でも、言い直す必要はない。
本当にそう思ったからだ。
アルフォルド殿下は一瞬黙り、それから苦笑した。
「そういうところは強敵だな、お前は」
「剣の話です?」
「……今はそれでいい」
「?」
意味が分からない。
リビアの方を見ると、なぜか頬が少し赤くなっていた。
「始めるぞ、クルセス」
「あ、はい」
木剣を構える。
今度はイザークとは違う相手。
違う剣。
違う考え方。
その向こうで、友人たちが見ている。
リビアもいる。
学園へ来る前にはなかった時間だ。
俺は自然に笑った。
「お願いします」
「ああ」
剣が動く。
アルフォルド殿下の最初の一歩は、イザークより静かだった。
速さを見せるのではなく、こちらが動く場所を削るように距離を詰めてくる。
俺は一歩下がりながら、すぐに気づく。
面白い。
また違う。
もっと見たい。
その気持ちのまま剣を合わせた。
乾いた音が訓練場へ響く。
一本目を受けた瞬間、殿下の剣が滑るように角度を変える。正面から押し込むのではなく、俺の木剣を外へ誘導しながら肩口へ道を作ろうとしていた。
俺は手首を返し、押される方向へあえて剣を流す。
殿下の目が僅かに動いた。
その隙に距離を外す。
「逃げるのが上手いな」
「褒めてます?」
「当然だ。剣術で距離を管理出来るのは長所だ」
「ありがとうございます」
返事をしながら、今度はこちらから近づく。
右肩を狙うように見せる。
殿下は受けに来ない。
半歩だけ位置を変え、俺の剣先を外す。
その動きが綺麗だった。
「へえ」
「戦いながら感心するな」
「イザークにも言われました」
「なら直せ!」
周囲から笑い声が上がる。
でも、殿下の剣は止まらない。
俺も止めない。
何度か打ち合ううちに、イザークとの違いがはっきりしてくる。
イザークは、自分から変化を作る。
殿下は、俺に動かせてから返す。
どちらが上という話ではない。
考え方が違う。
それが面白い。
少しずつ俺の集中が深くなる。
同時に、朝自分で決めたことを思い出した。
楽しいからこそ、やりすぎない。
今は疲れていない。
でも、この後も帰る必要がある。
明日も学園がある。
俺は自分の呼吸を一度確認した。
まだ大丈夫。
続けられる。
なら、あと少し。
殿下が踏み込む。
俺も入る。
木剣がぶつかり、互いの身体が近づく。
殿下が押す。
俺は受ける。
力だけなら俺の方が上かもしれない。
でも押し返さない。
角度を見る。
足を見る。
殿下の重心が僅かに前へ来た。
そこへ合わせて俺は身体を外へずらし、木剣を回した。
「っ」
殿下の剣が下がる。
俺の剣先が胸元へ向かう。
しかし。
「甘い!」
殿下が一歩引く。
届かない。
同時に下から剣が返ってくる。
「うわ」
俺も下がる。
剣先が目の前を通った。
周囲から声が上がる。
「今の惜しい!」
「殿下もすごい……」
「クルセス様が避けた」
俺は思わず笑った。
「殿下、強いですね」
「今さらか?」
「ちゃんとやるの初めてだから」
「なら覚えておけ」
「はい」
もう一度構える。
その時、監督の教師が声を上げた。
「そこまで」
俺たちは同時に止まった。
「まだ――」
アルフォルド殿下が言いかける。
でも、教師は首を振った。
「自主練習だ。今日は十分だろう。クルセスはすでにイザークとも行っている」
俺は自分の身体を確認する。
まだ動ける。
もう少し出来る。
でも。
「分かりました」
剣を下ろす。
殿下がこちらを見る。
「素直だな」
「先生が止めたら止めるって約束してるので」
「オリビアと?」
「それもありますけど、自分でもそうした方がいいと思ってます」
言うと、殿下は少し驚き、それから木剣を下ろした。
「なら私も従おう」
「殿下はまだやってもいいんじゃ?」
「相手がいない」
「イザークは?」
「俺ですか!?」
「どうだ?」
イザークが一瞬迷い、すぐに木剣を握り直した。
「お願いします!」
「元気だな」
俺は笑いながら壁際へ移動した。
今度は見る側だ。
そこへリビアが近づいてくる。
「お疲れさま」
「うん」
「楽しかった?」
「すごく」
即答した。
リビアが嬉しそうに笑う。
「よかった」
「アルフォルド殿下、イザークと全然違う」
「そうでしょうね」
「相手に先に動かせるんだよ。そこから返す感じで」
「セス、楽しそう」
「うん」
俺は手にしていた木剣を片づける。
汗は少しかいた。
呼吸はもう戻り始めている。
「でも今日は終わり」
「まだ出来そうだけど?」
「出来るけど、先生に止められたし」
「うん」
「それに、楽しいまま終わるのもいいかもしれない」
言うと、リビアが目を丸くした。
「何?」
「……何でもない」
「またその顔」
「だって」
リビアは笑いながら首を振る。
「セスがそんなこと言うようになると思わなかったから」
「俺も」
正直に答える。
以前なら、出来なくなるまでやる方が正しいと思っていた。
今は、次もやりたいと思えるところで終わる。
それでもいい。
「図書室は?」
「ちゃんと調べられたわ。これも借りたの」
抱えている本を見せてくれる。
「結界?」
「一冊は結界術式。もう一冊は無属性魔術の古い研究記録」
「面白そう」
「読む?」
「いいの?」
「もちろん。でも私が先」
「分かった」
「セスは五属性の本があるでしょう?」
「ベルナルト先生に勧められたやつ?」
「そう」
「まだ途中」
「じゃあ交換はその後ね」
「うん」
また一つ予定が増えた。
本を読む。
読み終わったら交換する。
イザークとは次も剣を合わせる。
リビアとは今度、久しぶりに剣術の稽古をする。
先に予定がある。
それが少し嬉しい。
「セス」
「何?」
「そろそろ帰る?」
「うん」
俺はイザークたちを見る。
アルフォルド殿下との打ち合いが終わったところだった。
「イザーク!」
呼ぶ。
「何だ?」
「俺、先帰る」
「おう!」
「また次な」
「絶対だぞ!」
「うん」
手を上げる。
イザークも上げる。
それだけで通じた。
俺とリビアは訓練場を出た。
廊下へ出ると、夕方の校舎は昼間よりずっと静かだった。自主練習や図書室へ残っていた生徒も帰り始め、窓から入る橙色の光が床を長く照らしている。
「楽しかった?」
リビアがもう一度聞く。
「うん」
「友達と放課後に遊ぶの、初めて?」
「遊んだっていうのかな」
「自主練習だけど、似たようなものじゃない?」
「じゃあ初めてかも」
言ってから、少し胸が詰まるような感じがした。
嫌なものではない。
むしろ逆だ。
「そっか」
リビアの声が柔らかくなる。
「よかったね」
「うん」
俺は素直に頷いた。
そのまましばらく歩く。
今日は手を繋いでいなかった。
でも、階段を下りるところで、俺は自然に手を伸ばした。
リビアも気づき、指を絡める。
「図書室、一人で大丈夫だった?」
聞いてから、また少し考える。
「……いや、聞き方違うな」
「ふふっ」
「調べ物、困らなかった?」
「大丈夫。司書の先生にも教えてもらったわ」
「そっか」
「今の言い直し、合格」
「何の試験?」
「婚約者試験」
「そんなのあるの?」
「今作った」
「ずるい」
笑いながら歩く。
正面玄関へ近づく。
外には夕暮れが広がっている。
明日の放課後には、シュザー家当主と学園側の事前面談が行われる。
そのことを忘れていたわけではない。
でも今日一日、ずっとそれを考えていたわけでもなかった。
授業が面白かった。
昼食が楽しかった。
イザークを友達だと初めて言った。
自分から放課後の練習へ誘った。
アルフォルド殿下とも剣を合わせた。
リビアは俺と別れて図書室へ行き、後から合流した。
どれも大きな事件ではない。
それでも、俺には大切な一日だった気がする。
「リビア」
「何?」
「学園、来てよかったかも」
口にすると、隣の足音が止まった。
俺も立ち止まる。
リビアが俺を見ていた。
驚いたような、嬉しいような顔で。
「……本当に?」
「うん」
「無理してない?」
「してないよ」
「私が喜ぶからじゃなくて?」
「違う」
俺は少し考え、自分の中にあるものをそのまま言葉にする。
「知らないこといっぱいあるし、考える授業は面白いし。イザークと剣やるのも楽しい。ナナリーやミリアナとも話すし、殿下たちも……ちょっと変だけど、嫌じゃない」
「ちょっと変」
「俺の隣の席賭けようとするし」
「それはカイゼル殿下だけよ」
「あと」
俺は繋いでいる手を見る。
「リビアと一緒に通うのも好き」
指先が僅かに強く握られた。
顔を上げる。
リビアの頬が赤くなっている。
「……そういうの」
「何?」
「急に言うの、ずるい」
「何で?」
「セスは分からなくていい」
「また?」
「今はね」
リビアは笑った。
でも、その目が少し潤んでいるように見えた。
「リビア?」
「嬉しいだけ」
「泣くほど?」
「泣いてないわ」
「でも」
「泣いてない」
強く言われたので、それ以上は聞かない。
ただ、繋いでいる手を少し握る。
リビアも握り返した。
「私ね」
「うん」
「セスと学園へ通いたかったの」
「前も言ってたな」
「うん。でも、セスが楽しいと思ってくれるかは分からなかった」
声が少しだけ小さくなる。
「私がお願いしたから来ただけになったら、嫌だったの」
「嫌だった?」
「セスは私が頼めば、大抵のことをやってくれるでしょう?」
「出来ることなら」
「それが怖い時もあるの」
俺は黙って聞く。
「私が望んだから、セスが自分の気持ちを後回しにしてるんじゃないかって。婚約だって……」
リビアがそこで言葉を止める。
繋いだ手が少しだけ冷たくなった気がした。
「婚約も?」
「私が強引だったでしょう?」
「まあ」
「そこは否定してよ」
「でも泣いたって旦那様から聞いたし」
「お父様……!」
「でも」
俺は続ける。
「嫌なら嫌って言ってたと思う」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
「その頃の俺、今より自分の気持ち考えてなかったから」
「……そうね」
「でも今は」
言葉を探す。
婚約をどう思っている。
リビアをどう思っている。
まだ全部には答えられない。
好きだとは思う。
一緒にいるのが。
隣にいるのが。
手を繋ぐのが。
でも、それがリビアの言う恋と同じなのかはまだ分からない。
だから、分からないものまで分かったふりはしない。
「今は、婚約者なの嫌じゃないよ」
リビアが息を止めたように見えた。
「むしろ」
胸の奥が少し熱くなる。
でも続ける。
「リビアが婚約者でよかったと思ってる」
言ってから、自分でも恥ずかしくなった。
「……何か今の恥ずかしいな」
「セス」
「うん?」
「もう一回」
「嫌だ」
「どうして!?」
「今、恥ずかしいって言っただろ」
「お願い」
「嫌」
「セス!」
夕方の静かな廊下にリビアの声が響く。
近くを歩いていた生徒がこちらを見て、すぐに笑いながら通り過ぎていった。
「見られてる」
「セスのせいでしょう!」
「俺?」
「そうよ!」
「何で?」
「そういうところ!」
よく分からない。
でも、リビアが嬉しそうだからいいか。
俺たちはまた歩き出した。
玄関を出る。
夕方の風は少し冷たかった。
待っている馬車へ向かいながら、俺は今日一日を思い返す。
明日はシュザー家当主との事前面談。
俺たちは参加しない。
その後、先生たちから話を聞く。
そして、ライゼルと会うかどうか考える。
それは変わっていない。
けれど今は、そのことだけが学園ではない。
授業もある。
友達もいる。
剣術もある。
昼食もある。
リビアとの時間もある。
先に楽しみなことがいくつもある。
そういう毎日の中に、シュザー家の問題も一つある。
以前の俺なら、問題がある間はそれだけを考えていたかもしれない。
危険を見つけたら、なくなるまで目を離さない。
でも今は、明日のことを明日まで置いておける。
「セス」
「何?」
「明日の朝も訓練する?」
「身体見て決める」
「うん」
「やっても今日くらい」
「うん」
「でも、やりたくなかったらやらない」
リビアが笑う。
「合格」
「また婚約者試験?」
「今度は自己管理試験」
「試験増えてない?」
「セス専用」
「嫌だな」
「成績はいいわよ」
「ならいいか」
「いいんだ」
二人で笑う。
馬車の前へ着いた。
俺は先に手を離し、扉へ向かう。
いつものように先に乗るのではなく、リビアが乗りやすいよう手を差し出す。
リビアが俺の手を取る。
「ありがとう、セス」
「どういたしまして」
彼女が乗った後、俺も続く。
馬車がゆっくり動き出す。
窓の外で学園が少しずつ遠ざかっていく。
今日初めて、俺は同じ年の相手を自分から友達だと言った。
たったそれだけのことなのに、胸の奥にはまだ小さな温かさが残っていた。
そしてもう一つ。
リビアが婚約者でよかった。
口にした時は恥ずかしかった。
今思い返しても恥ずかしい。
それでも、言ったことを取り消したいとは思わなかった。
明日はまた、少し重い話が待っている。
けれど今日見つけたものまで、その話に消される必要はない。
友達と次に剣を合わせる約束も。
リビアと本を交換する約束も。
久しぶりに二人で剣術の稽古をする話も。
全部、ちゃんと先に続いている。
俺は馬車の座席で隣にいるリビアを見た。
目が合う。
「何?」
「何でもない」
「本当に?」
「うん」
今はまだ、これでいい。
明日のことは明日考える。
今日楽しかったことは、今日のまま大事にしておけばいい。
そう思いながら、俺は隣に座るリビアとの距離を、ほんの少しだけ自然に縮めた。




