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第22話 普通の授業を受けたいだけなのに、どうして婚約者の隣の席を賭ける話になっているんですか


 パウリー家の馬車が屋敷の門をくぐった頃には、西の空に残っていた夕日の赤もかなり薄くなっていた。


 学園からの帰り道では、俺もリビアもシュザー家のことをそれほど話さなかった。話したくなかったわけではなく、学園長室で聞いたことが多すぎて、今すぐ答えを出そうとすると余計に分からなくなりそうだったからだ。


 ライゼル本人は、自分が危険な魔術を使ったことについては認め始めている。


 けれど、リビアの意思についてはまだ完全には受け入れられていない。


 シュザー家当主は学園側の条件を受け入れ、まず自分だけで学園側との事前面談を希望している。


 その結果を聞いてから、俺たちはライゼルとの面会を受けるかどうか考える。


 今日決めなくていい。


 その言葉を何度か頭の中で確認しているうちに、馬車は屋敷へ着いていた。


「お帰りなさいませ、お嬢様、クルセス様」


 玄関前では使用人たちが出迎えてくれる。


 馬車が止まり、御者が扉を開くより少し早く、俺の身体はいつもの動きを始めようとした。先に降りて足場を確かめ、リビアへ手を差し出す。それ自体は婚約者としてやっても構わないと教えられているし、俺も今では嫌ではない。


 だから先に馬車を降りるところまでは、いつも通りだった。


 問題は、その直後だ。


「リビア」


 振り返って手を差し出す。


 リビアは俺の手を取って馬車から降りると、そのまま離さなかった。


「……着いたよ?」


「知ってるわ」


「じゃあ手は?」


「繋いでいたら駄目?」


「駄目じゃないけど」


 玄関前には使用人がいる。


 以前なら、それだけで少し落ち着かなかったと思う。俺はこの家では執事見習いでもあるのだから、使用人たちの前で公爵令嬢と手を繋いで歩くのはどうなのだろう、と考えていた。


 でも、今はそれだけではない。


 俺はこの家の執事見習いで、リビアの婚約者でもある。


 どちらか一つだけになる必要はないと、旦那様にも言われた。


「じゃあ、このままでいいか」


「ええ」


 リビアが嬉しそうに笑う。


 そのまま二人で玄関へ向かうと、出迎えていた若い使用人の一人がほんの少し目を丸くした。その隣にいた年長の使用人が小さく肘でつつき、二人ともすぐに何事もなかったような顔へ戻る。


 見られている。


 でも、以前ほど恥ずかしくはなかった。


「お帰りなさいませ」


 玄関ホールに入ったところで、聞き慣れた声がした。


 グレイヴが立っている。


「ただいま」


「ただいま戻りました」


 リビアが先に答え、俺も続く。


 グレイヴの視線が俺たちの顔を確認し、それから一瞬だけ繋いでいる手へ下がった。


「本日は何かございましたか」


「その聞き方、毎日するの?」


「必要がなくなるまでは」


「いつ必要なくなるんだろ」


「クルセスが一週間程度、何事もなく学園生活を送れた頃でしょうか」


「まだ一週間も経ってないのに基準が遠い」


「編入初日の実績を考慮しております」


 何も言い返せない。


 リビアが横で笑っている。


「今日は大きな問題はなかったわ。放課後に学園長室へ呼ばれただけ」


「シュザー家からの返答でしょうか」


「知ってるの?」


「アルセス様にも学園側から連絡が入っております」


 やっぱり早い。


 俺が知らないところでも、保護者同士の連絡は進んでいるらしい。


「シュザー家が学園側の条件を受け入れたって聞いた」


「はい」


「それで、まず当主だけ学園側と話すって」


「その予定と伺っております」


 グレイヴはそこで俺を見る。


「クルセスは、ライゼル様との面会について何と?」


「まだ決めてない」


 口にしてから、少しだけ反応を待った。


 以前の俺なら、こういう時に「どちらでも構いません」と答えていた気がする。


 自分が会いたいかどうかより、周囲にとって都合がいい方を選べばいいと思っていたからだ。


 けれど今日は違う。


「シュザー家当主と先生たちが話して、その結果を聞いてから決める。リビアもそうするって」


「そうですか」


 グレイヴはそれだけ言った。


「何?」


「何も」


「今、ちょっと嬉しそうじゃなかった?」


「気のせいでしょう」


「絶対違う」


「それより、体調はいかがですか」


 逃げた。


 たぶん。


「身体は問題なし。魔力も問題なし。頭は……少し疲れた」


 グレイヴの眉が僅かに動く。


「頭が?」


「学園長室でいろいろ考えたから。身体の疲れとは違うけど」


「なるほど」


 それから、ほんの少し間を置いて。


「よく申告出来ましたね」


「やっぱり褒めるんだ」


「褒めております」


「最近みんなに褒められる基準が低くない?」


「クルセスにとって必要な部分を評価しているだけです」


 そう言われると、少し困る。


 五属性を使った時より、休んだ時の方が褒められる。


 強い魔術を使った時より、疲れたと言った時の方が安心される。


 以前の俺なら、その理由がよく分からなかった。


 今は、少しだけ分かる。


「今日は訓練しない方がいい?」


「私から申し上げる前に確認した点は評価します」


「答えは?」


「休んでください」


「やっぱり」


「昨日の測定から身体的には回復していても、今日は別の疲労があるのでしょう?」


「うん」


「ならば、休息を取る理由として十分です」


 俺は頷いた。


 以前なら、頭が疲れただけで剣を振らないという発想はなかった。


 身体が動くなら訓練出来る。


 魔力が戻っているなら魔術を使える。


 それで終わっていた。


「セス」


 リビアが俺の手を軽く引く。


「お茶にする?」


「また?」


「嫌?」


「嫌じゃない」


「なら決まりね」


「今日は俺が誘おうと思ってたのに」


 言うと、リビアが止まった。


「……本当?」


「うん。帰ったら少し休もうと思ってたから」


「私と?」


「他に誰と?」


 リビアが黙る。


 何か変なことを言っただろうか。


「リビア?」


「……グレイヴ」


「はい」


「セスが自分から休むって言ったわ」


「聞いております」


「私とお茶するつもりだったって」


「聞いております」


「すごくない?」


「大きな進歩かと」


「二人で話進めないでくれる?」


 俺が言うと、玄関ホールにいた使用人たちの間から小さな笑い声が漏れた。


 すぐに静かになったが、俺にも聞こえている。


「笑われてるんだけど」


「よいことではありませんか」


「グレイヴまで」


 呆れながらも、不思議と嫌ではなかった。


 俺が休むこと。


 リビアと一緒に過ごすこと。


 それを周囲が変なものとして見ていない。


 むしろ喜ばれている。


 まだ少し落ち着かないが、以前のように「何か仕事をしなければ」と胸の奥がざわつく感じは弱くなっていた。


「じゃあ、着替えてから庭?」


「今日は少し冷えてきたから、私の居間にしましょう」


「分かった」


「クルセス」


 グレイヴに呼び止められる。


「何?」


「茶の用意は使用人へ任せるように」


「……まだ何も言ってない」


「顔に出ております」


「俺、そんなに分かりやすい?」


「その件に関しては」


 リビアまで頷いている。


 納得出来ない。


 けれど今日は言われた通り、茶の用意を誰かへ任せることにした。


 それから夕食までの時間を、俺とリビアは彼女の居間で過ごした。


 学園長室で聞いた内容を改めて細かく話し合うことはしなかった。リビアが今日の王国地理の課題について話し、俺が別の班ではどんな答えが出ていたのか気になったと言うと、そこから領地ごとの道や川の違いの話になった。


 途中で運ばれてきた焼き菓子を食べ、リビアが茶を飲み、俺も飲む。


 何かを解決したわけではない。


 勉強したわけでもない。


 仕事もしていない。


 それでも、夕食の時間になって立ち上がった時には、学園から帰ってきた直後より頭の中が静かになっていた。


 休むというのは、こういうことなのかもしれない。


     ◇


 翌朝。


 目が覚めた時、窓の外は薄い雲に覆われていた。


 雨が降るほどではないらしいが、朝日が雲越しに広がっているせいで、いつもより部屋の中が白っぽい。窓を少し開けると冷えた風が入り込み、庭の木々が擦れる音が聞こえてきた。


 俺は寝台から起き上がり、身体の調子を確かめる。


 痛みなし。


 重さなし。


 魔力にも違和感なし。


 昨日のような頭の疲れも残っていない。


「……今日は大丈夫そうだな」


 独り言を漏らしながら着替える。


 剣を振りたい気持ちはあった。


 昨日休んだ分、身体を動かしたい。


 でも、時計を見る。


 朝食までの時間はそれほど長くない。


 以前なら、それでも庭へ出ていた。


 短時間でも出来る。


 軽くなら問題ない。


 そんな理由をつけて。


 今日は少し考えた。


 学園では剣術の授業があるかもしれない。


 魔術の授業も予定に入っている。


 なら、朝に無理に何かを足さなくてもいい。


「……いいか」


 剣には触れず、部屋を出た。


 自分で選んだのに、少しだけ不思議な気分だった。


 廊下を進み、階段を下りる。


 途中で使用人とすれ違えば挨拶を返し、食堂へ向かう。


 扉を開けると、すでにリビアが座っていた。


「おはよう、セス」


「おはよう」


 俺がいつものように隣へ座ると、リビアがじっとこちらを見る。


「何?」


「今日は?」


「何が?」


「朝の訓練」


「してない」


「どうして?」


「学園で身体動かすかもしれないし、朝にやらなくてもいいかなって」


 リビアの目が大きくなる。


「……セス」


「また?」


「まだ何も言ってないでしょう」


「その顔、最近見慣れた」


「だって」


 リビアは本当に嬉しそうだった。


「自分で考えて休んだの?」


「休んだっていうか、やらなかっただけだけど」


「それを休むって言うの」


「そうなの?」


「そうよ」


 俺はパンを一つ取る。


 食事を運んできた使用人が、俺たちの会話を聞いていたらしい。皿を置きながら、ほんの少しだけ口元を緩めている。


 まただ。


 この家では俺が訓練しなかっただけで、どうしてこんなに喜ばれるのだろう。


 でも、悪い気はしない。


「今日は普通の日になるかな」


 パンをちぎりながら言う。


「その台詞、あまり言わない方がいいと思うわ」


「何で?」


「セスが言うと何か起きそうだから」


「イザークと同じこと言ってる」


「みんな思ってるんじゃない?」


「ひどい」


「編入してからを振り返ってみて」


 剣術の試合。


 ライゼルの襲撃。


 学園長室。


 五属性が知られる。


 追加測定。


 シュザー家。


「……今日は普通でお願いします」


「誰にお願いしてるの?」


「分からないけど、とりあえず」


 リビアが笑う。


 俺もつられて笑った。


     ◇


 学園へ到着すると、曇っていた空から薄い日差しが差し始めていた。


 正門をくぐる生徒たちの数は多く、馬車から降りる者、自宅から歩いてきた者、寮の方向から友人同士でやってくる者が入り交じっている。


 俺とリビアが並んで歩いても、以前のように一斉に視線が集まることはなくなった。


 もちろん、見られていないわけではない。


「あれが五属性の……」


「昨日の測定って――」


 そんな声が遠くから聞こえることもある。


 ただ、教室へ近づくにつれて、それより先に知っている顔が増えていく。


「おはよう、クルセス様。オリビア様」


 ナナリーが声をかけてくる。


「おはよう」


「おはよう、ナナリー」


「クルセス様、昨日は大丈夫でした?」


「昨日?」


「学園長室へ行かれたでしょう?」


 もう知っているのか。


 教室の中へ入ると、ミリアナもこちらを見る。


「シュザー家のこと?」


「うん。先生から呼ばれてたから」


「話を聞いただけ。昨日はライゼルとは会ってないよ」


 俺が答えると、ナナリーの表情が少し緩んだ。


「そうなんですね」


「うん。これからどうするかはまだ決めてない」


「クルセス様が?」


「俺も。リビアも」


 自分からそう言う。


 ナナリーは一瞬だけ驚いた顔をしたが、それ以上踏み込まなかった。


「分かりました」


「何が?」


「いえ。ちゃんと考えてから決めるんだなって」


「前は違った?」


 聞くと、ナナリーとミリアナが顔を見合わせた。


「……どうする?」


「言っていいんじゃない?」


「何?」


 少し嫌な予感がする。


 ミリアナが苦笑しながら答えた。


「前のクルセス様だったら、『会っても問題ありません』ってすぐ言いそうだったから」


「ナナリーと同じこと言ってる」


「私もそう思います」


「二対一」


「私もよ」


 リビアが加わった。


「三対一になった」


「仕方ないでしょう?」


 教室の近くにいた生徒たちから笑い声が上がる。


 俺も笑った。


 こうやって自分のことを言われても、以前ほど居心地が悪くない。


「おはよう」


 そこへイザークが入ってくる。


「何の話だ?」


「クルセス様が成長したって話」


「何だ。いつものやつか」


「いつものになってるの?」


 俺が聞くと、イザークは鞄を机へ置きながら笑った。


「最近よく褒められてるだろ、お前」


「剣とか魔術以外のことでな」


「そっちの方が大事なんじゃないか?」


「イザークまで」


 その時、教室の入口付近が少し騒がしくなった。


 振り向くと、アルフォルド殿下とカイゼル殿下、それにサザリーが入ってきたところだった。


「おはよう、オリビア」


「おはようございます、アルフォルド殿下」


「クルセスも」


「おはようございます」


 普通に挨拶する。


 アルフォルド殿下は一度俺を見て、それからリビアを見る。


「昨日も二人で昼食を取ったそうだな」


「何で知ってるんです?」


「カイゼルがわざわざ報告してきた」


「人聞きが悪いな」


 後ろからカイゼル殿下が笑う。


「僕はただ、『今日はクルセスの方から当然みたいにオリビアを連れていったよ』と教えてあげただけだ」


「余計なことを」


「事実でしょう?」


「事実だが」


 アルフォルド殿下が少し悔しそうな顔をする。


「別に昼食くらい、いいじゃないですか」


「婚約者と二人で食べることを止める権利は私にはない」


「分かってるんですね」


「分かっているから悔しいのだ」


 堂々と言われると、どう反応すればいいのか分からない。


 リビアは特に気にした様子もなく自分の席へ鞄を置いている。


「ところで」


 サザリーが静かに口を挟んだ。


「昨日、シュザー家から返答があったそうですね」


「知ってるの?」


「父から詳細を聞いたわけではありません。ただ、学園とシュザー家の間で連絡が続いていることは承知しています」


「俺たちも昨日、先生から話を聞いたところ」


「面会は?」


 アルフォルド殿下の表情が変わる。


「まだ決めてません」


「決めていない?」


「シュザー家当主と先生たちが先に話すらしいです。その結果を聞いてから、俺とリビアが会うか決めます」


 三人が少し黙った。


「……そうか」


 最初に答えたのはアルフォルド殿下だった。


「何です?」


「いや」


「言いたいことある顔してますけど」


「以前のお前なら、もう会うと言っていると思っただけだ」


「また?」


「またとは?」


「今日それ四人目なんです」


 カイゼル殿下が吹き出した。


「随分と周囲から信用されているね」


「それ、信用なんですか?」


「『放っておくと自分を後回しにする』という点では、非常に高い信用だろう」


「嬉しくない」


「でも改善しているならいいことでは?」


 サザリーが言う。


「判断材料が足りないなら保留する。政治でも交渉でも、珍しいことではありません」


「やっぱりそうなんだ」


「むしろ、決めることそのものを目的にしてはいけません」


「昨日、学園長先生にも似たこと言われた」


「では復習ですね」


「最近どこでも授業になるな」


 話しているうちに始業を知らせる鐘が鳴った。


 生徒たちがそれぞれの席へ戻っていく。


 俺も自分の席へ向かおうとした。


 すると。


「セス」


「何?」


「ここ」


 リビアが自分の隣の席を軽く叩く。


「俺の席、そこだけど?」


「知ってる」


「じゃあ何で呼んだの?」


「何となく」


 よく分からない。


 でも、座る。


 その直後、少し離れたところからアルフォルド殿下の溜息が聞こえた。


「毎朝それを見せられるのか」


「席は学園が決めたんだから仕方ないでしょう?」


 リビアが答える。


「席替えを要求したい」


「却下です」


「まだ教師に言っていない」


「私が却下します」


「オリビアに権限はないだろう」


「では、セスの隣だけは譲りません」


「リビア?」


 急に何の話になっているのだろう。


 周囲の生徒たちも聞いていたらしく、何人かが笑いを堪えている。


 カイゼル殿下が面白そうにこちらを見る。


「なら、次の剣術で勝った者がクルセスの隣に座る権利を――」


「何で俺の隣が景品になるんですか」


「面白そうだから」


「俺の意思は?」


「もちろん尊重するよ」


「じゃあやりません」


「終わった」


 教室に笑い声が広がる。


 アルフォルド殿下まで額へ手を当てながら笑っていた。


「カイゼル、お前は本当に余計なことしか言わないな」


「場を和ませたと言ってほしい」


「授業前だぞ」


「だからこそさ」


 教師が入ってきたため、そこで話は終わった。


 今日最初の授業は王国史だった。


 以前扱った王国成立期より少し時代が進み、地方領主と王都の関係が整備されていった時期を扱うらしい。


 俺は教科書を開く。


 教師が黒板へ簡単な地図を描きながら、当時の街道と領地境界について説明していく。


 王都から命令を出しても、それが地方へ届くまで時間がかかる。


 だから全てを王都で決めるのではなく、現地の領主へ一定の判断権を持たせる必要があった。


 しかし権限を与えすぎれば、今度は王国全体の決定と食い違う。


 どう分けるか。


 教師が問いを投げる。


「クルセス」


「はい」


「お前ならどう考える?」


 いきなり当てられた。


「全部ですか?」


「まず思いついた範囲で構わない」


 俺は黒板を見る。


「……すぐ決めないと困ることは領地側に任せます」


「例えば?」


「橋が壊れたとか、魔物が出たとか。王都に聞いて返事を待ってたら遅いので」


「では、王都が決めるべきことは?」


「他の領地にも影響すること?」


「続けろ」


「税率を領地ごとに勝手に変えすぎるとか、軍を他領へ動かすとかは、周りに影響するから一つの領地だけで決めない方がいいと思います」


 教師が頷く。


「判断基準は?」


「時間と、影響する範囲……あと、失敗した時に戻せるかどうか?」


 言いながら考える。


「橋を一日通行止めにして調べるなら、問題なければ開け直せます。でも戦争を始めたら戻せないので」


 教室が少し静かになった。


 教師が黒板へ三つ書く。


 時間。


 影響範囲。


 可逆性。


「よい整理だ」


「ありがとうございます」


「最近のお前は、こういう問題を考える時だけ妙に楽しそうだな」


 教室の何人かがこちらを見る。


 俺も自分で少し笑った。


「たぶん、好きなんだと思います」


 以前なら、そこまで言わなかったかもしれない。


 得意かどうかは考えても、好きかどうかはあまり考えなかった。


「では、その『好き』は大事にしておけ」


「はい」


 隣を見ると、リビアがすごく嬉しそうにしていた。


「何?」


「何でもない」


「絶対何かある」


「授業中よ」


 そう言われたら聞けない。


 授業はそのまま、領主へ委ねられた権限と王国法の関係へ進んだ。


 俺は思っていた以上に集中していた。


 条件が増える。


 例外が出る。


 領地ごとに事情が違う。


 そのたびに「ならどうする」と考えるのが面白い。


 答えを一つ覚える授業とは違う。


 午前の二時間目は一般魔術理論だった。


 こちらは追加測定とは直接関係のない基礎内容で、魔術を連続使用した時の集中力低下について扱った。


 魔力が残っていても、術式を組む集中力が落ちれば精度は下がる。


 身体が動くから続けられる、魔力があるから使える、だけでは判断出来ない。


 教師がそう説明した瞬間、リビアがこちらを見た。


「何?」


「別に」


「絶対俺のこと考えたでしょ」


「授業を聞きなさい」


「リビアも」


 小声でやり取りしていると、前の席のミリアナの肩が少し揺れた。


 聞かれている。


 休憩時間になると案の定、振り返った。


「今の授業、クルセス様向けみたいでしたね」


「ミリアナまで言う?」


「だって」


 ナナリーも近づいてくる。


「でも、魔力が残ってても休まないといけない理由、分かりやすかったです」


「うん。俺もそれ思った」


「クルセス様が?」


「何で驚くの?」


「前なら『精度が落ちる前にやめればいい』って言いそうだから」


「……言いそう」


 自分でも否定出来ない。


「でも、集中力が落ちてるかどうかって、自分では気づきにくい場合もあるんだろ?」


「先生もそう言ってました」


「なら、余裕あるうちにやめた方がいいのか」


「そういうことだと思います」


 話していると、教室の後方からイザークがやってくる。


「クルセス」


「何?」


「次、剣術だぞ」


「うん」


「昨日は軽くしかやってないんだろ?」


「そうだけど」


「今日は普通にやれるんだよな?」


「たぶん」


「よし」


 イザークの顔が明らかに嬉しそうになる。


「何でそんな嬉しそうなの?」


「そろそろまともに相手しろ」


「授業内容によるだろ」


「模擬戦なら俺と組め」


「先生が決めるんじゃない?」


「希望くらい出せる」


「元気ね、イザーク」


 リビアが呆れたように言う。


「俺は初日に負けたままなんだぞ」


「初日?」


 ナナリーが首を傾げる。


「クルセス様が剣術で勝ったっていう?」


「ああ」


「まだ気にしてたの?」


「気にするだろ!」


 教室に笑い声が広がる。


 俺はその中で、少しだけ楽しみになっている自分に気づいた。


 魔術の測定とは違う。


 危険な戦いでもない。


 友人と剣を合わせる。


 それだけだ。


「じゃあ、先生がいいって言ったら」


「本当か?」


「うん」


「言ったな」


「ただし」


 俺は少し考える。


「勝ったら俺の隣の席、とかはなしで」


 一瞬の沈黙の後、周囲から大きな笑い声が上がった。


「誰がそんな条件つけるんだよ!」


「カイゼル殿下」


「殿下、何言ってんだ!」


 離れた席からカイゼル殿下が手を上げる。


「いい案だと思ったんだけどね」


「よくありません!」


 リビアが即座に返す。


 また笑いが広がった。


     ◇


 剣術の授業は、基礎動作の確認から始まった。


 訓練場の地面は朝までの湿気を少し残していたが、雨は降っていない。雲の切れ間から時折日が差し、木剣を振る生徒たちの影が地面へ現れては消える。


 昨日は追加測定翌日という理由で負荷を下げられていたが、今日は教師から通常参加の許可が出た。


 だからといって、いきなり模擬戦ではない。


 足運び。


 構え。


 受け。


 打ち込み。


 全員で同じ基礎を繰り返す。


 俺は木剣を握りながら、周囲の生徒たちを見る。


 初日は、自分がどの程度やればいいのかばかり考えていた。


 強すぎないように。


 目立たないように。


 でも結局イザークと試合になって目立った。


 今は少し違う。


 隣でイザークが振る剣を見る。


 前より踏み込みが安定している。


「イザーク」


「何だ?」


「右足、前より速くなった?」


 木剣を振りながら聞く。


「分かるか?」


「うん」


「初日にお前に崩されたから直した」


「へえ」


「何だ、その反応」


「いや、嬉しいなと思って」


「何でお前が嬉しいんだよ」


「俺とやったのが役に立ったなら」


 イザークが少し黙る。


「……そういうこと平然と言うよな、お前」


「何が?」


「何でもない」


 また分からないことを言われた。


 基礎練習が終わる頃、教師が全員を集めた。


「後半は二人一組で限定模擬戦を行う。勝敗だけを目的にするな。今日の課題は、相手の得意な距離を観察し、自分がどう対応するかだ」


 周囲の空気が少し変わる。


 生徒たちがそれぞれ相手を探すように視線を動かす。


 俺の横では、イザークがものすごく分かりやすい顔をしていた。


「先生」


「何だ、イザーク」


「クルセスと組んでも?」


「クルセスの体調は?」


 教師が俺を見る。


「問題ありません」


 答えてから、一応考える。


 身体の重さなし。


 痛みなし。


 集中力も問題ない。


「昨日の疲労も残ってません」


「なら許可する。ただしクルセス」


「はい」


「身体強化は基礎無属性のみ。雷属性は使用禁止だ」


「迅雷撃破なしですね」


「当然だ」


「分かりました」


「イザークも、熱くなりすぎるな」


「はい!」


 返事だけはいい。


 俺たちは訓練場の一角へ移動した。


 周囲では他の生徒たちも組を作り始めている。


 リビアは別の女子生徒と組むらしく、少し離れた場所にいた。


 目が合う。


「セス」


「何?」


「楽しむのはいいけど、無茶しないでね」


「木剣だよ?」


「セスだから言ってるの」


「分かった」


「本当に?」


「何かあったら止める。先生に止められたら従う」


「よろしい」


 満足したらしい。


「母親みたいだな」


 イザークが小声で言う。


「聞こえてるわよ」


「すみません!」


 即座に謝った。


 俺は笑いながら開始位置へ立つ。


 向かいにイザーク。


 初日のような妙な緊張はない。


 ただ、相手が何をしてくるのか楽しみだった。


「今度は簡単に負けないぞ」


「俺も負けるつもりないよ」


「よし」


 教師がこちらを確認する。


「始め!」


 イザークが踏み込んだ。


 初日より速い。


 しかも真っ直ぐ来ない。


 一歩目でこちらの正面へ入ると見せ、二歩目で外へずらす。


 木剣が肩口へ伸びてくる。


 俺は受けずに半歩引いた。


 剣先が服の少し前を通る。


 そこへ打ち返そうとした瞬間、イザークがさらに身体を沈めた。


「おっ」


 狙いが変わる。


 俺の脇腹。


 木剣を下げて受ける。


 乾いた音が響く。


 初日なら、最初の一撃を避けた時点でイザークの姿勢はもっと崩れていた。


 今日は違う。


 次がある。


「いいな」


「余裕で言うな!」


 イザークが押し込む。


 俺は力で弾かず、角度を変えて受け流す。


 そのまま一歩入る。


 イザークが下がる。


 俺の木剣が胸元へ伸びる。


 避けた。


「へえ」


「だから余裕で感心するな!」


 周囲から笑い声が聞こえる。


 何人か、手を止めてこちらを見ているらしい。


「お前たち、見学の授業ではないぞ!」


 教師の声が飛び、生徒たちが慌てて自分の組へ戻る。


 俺はイザークから視線を外さない。


 次はどう来る。


 イザークも息を整えている。


 楽しそうだ。


 俺もたぶん、同じ顔をしている。


 再び距離が縮まる。


 剣が交わる。


 木と木がぶつかる乾いた音が、訓練場のあちこちで響く。


 俺はイザークの剣を見ながら、ふと気づいた。


 強い相手と戦うのが好き、とは少し違う。


 危険な戦いが好きなわけでもない。


 相手が工夫する。


 俺がそれを見る。


 どう返すか考える。


 すると相手がまた変える。


 これも、条件の中で答えを探すことなのかもしれない。


「イザーク」


「何だよ!」


「楽しいな」


「……っ!」


 イザークが一瞬だけ目を見開いた。


 その隙に俺の木剣が伸びる。


「うわっ!」


 慌てて受けられた。


「今の危なかった」


「お前のせいだろ!」


「何が?」


「急にそんなこと言うからだ!」


「楽しくない?」


「楽しいに決まってるだろ!」


「じゃあいいじゃん」


「そういう問題じゃない!」


 また周囲から笑いが起こる。


 今度は教師も止めなかった。


 限定模擬戦は、初日よりずっと長く続いた。


 俺が手加減しているからではない。


 もちろん身体能力の差はある。


 でも、今日の課題は相手の得意な距離を観察することだ。


 早く勝つ必要がない。


 だから俺は、イザークが何を変えてきたのかを見る。


 イザークも、俺がどう反応するかを見ている。


 最後は、俺がイザークの踏み込みへ合わせて剣を絡め、木剣を外へ流したところで教師が止めた。


「そこまで」


 俺たちは同時に息を吐く。


 イザークは額に汗を浮かべている。


 俺も少し呼吸が速くなっていた。


「勝敗は?」


 イザークが聞く。


「今日の課題は勝敗ではないと言っただろう」


「でも」


「強いて言えば、最後の時点ではクルセスが有利だ。だが初日よりかなり長く対応出来ていた」


「本当ですか?」


「ああ」


 イザークの顔が明るくなる。


 俺も嬉しくなる。


「やったな」


「次はもっといくぞ」


「うん」


「それとクルセス」


 教師が俺を見る。


「はい」


「今の戦い方はよかった」


「どこがです?」


「相手を見ることを優先していた。お前は能力差がある相手と戦うと、自分だけで最適解を作って終わらせることが出来てしまう。だが訓練では、それだけが正解ではない」


 少し考える。


「相手が何をするか待つ?」


「待つだけではない。相手から学ぶことだ」


「……なるほど」


「お前ほど多くの手段を持つ者ほど、自分の中だけで答えを出しやすい。だが、他人が思いつく方法は自分と同じとは限らない」


 昨日の話と少し似ている。


 リビアの気持ちを勝手に決めない。


 ライゼルがどう考えているかも、聞くまで分からない。


 剣でも同じなのか。


「面白いですね」


「そう思えるなら伸びるだろう」


 教師は次の組を見るため離れていった。


 イザークが俺の肩を軽く叩く。


「次は一本取る」


「待ってる」


「絶対だぞ」


「うん」


 その言葉が自然に出た。


 学園へ来る前なら、こんな約束をする相手はいなかった。


 屋敷には大切な人がいる。


 グレイヴもいる。


 使用人たちもいる。


 でも、同じ年齢で、次にまた剣を合わせようと言ってくる相手はいなかった。


 それを友人と呼ぶのかもしれない。


 そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。


     ◇


 昼休み。


 授業終了の鐘が鳴ると同時に、俺は鞄の横へ置いていた昼食の包みを取った。


「リビア」


「ええ」


 それだけで通じる。


 立ち上がったところで。


「待て」


 嫌な予感のする声がした。


 アルフォルド殿下だ。


「何です?」


「今日も二人なのか?」


「そのつもりですけど」


「三日連続ではないか?」


「途中、測定の日は違いますよ」


「細かい!」


「殿下」


 サザリーが呆れたように声をかける。


「お二人が婚約者同士で昼食を取ることへ、毎回異議を申し立てるおつもりですか」


「異議ではない。確認だ」


「顔が異議を申し立てています」


「サザリー、お前はどちらの味方だ」


「理性の味方です」


「ひどい」


 カイゼル殿下が笑う。


「では、今日は皆で食べるのはどうだい?」


「カイゼル殿下まで?」


「僕は別に二人の邪魔をしたいわけではないよ。ただ、最近クルセスを独占されすぎている気がしてね」


「俺?」


「オリビアではなく?」


 アルフォルド殿下が振り返る。


「クルセスの話は面白いから」


「何の話です?」


「本人が普通だと思っている異常な話」


「それ褒めてます?」


「もちろん」


「なら、余計に嫌なんだけど」


 教室に笑い声が広がる。


 俺はリビアを見る。


 リビアも少し考えていた。


 二人きりで食べたい。


 それは本当だ。


 でも、毎日必ず二人だけでなければ嫌というわけでもない。


「リビア」


「何?」


「今日はみんなでもいい?」


 聞く。


 以前なら、たぶん俺が勝手に「今日は皆で」と決めていた。


 リビアは少しだけ俺を見つめ、それから笑った。


「いいわよ」


「本当?」


「セスが聞いてくれたから」


「そこ?」


「そこ」


 何となく分かる。


 俺が決めるのではなく、聞く。


 それだけで違うのだ。


「じゃあ今日はみんなで」


「よし」


 アルフォルド殿下が明らかに嬉しそうな顔をする。


「何で殿下が一番喜んでるんです?」


「当然だろう」


「何が当然なんだろ」


 ナナリー、ミリアナ、イザークも加わり、結局かなり大人数になった。


 東棟裏庭へ向かう。


 前に二人で食べた場所だが、今日は静けさより賑やかさの方が強い。


 雲はかなり薄くなり、木漏れ日が芝生へ落ちている。風は少し冷たいものの、昼食を取るにはちょうどいい。


 皆で座る。


 俺の隣にはリビア。


 反対側にはイザーク。


「何でお前がそこなんだ」


 アルフォルド殿下が言う。


「空いてたからですけど」


「朝の話を思い出した」


「俺の隣の席を賭けるやつですか?」


「それだ」


「まだ続いてたの?」


「では次の剣術で――」


「賭けません」


 俺とリビアの声が重なった。


 一瞬静かになり、その後みんなが笑う。


「息ぴったりですね」


 ナナリーが言う。


「婚約者だから」


 リビアが当然のように答える。


 俺も特に否定しなかった。


 昼食が始まる。


 アルフォルド殿下とイザークが剣術の話をし、カイゼル殿下がそこへ別の国の剣術を混ぜ、サザリーが話を整理する。


 ナナリーとミリアナは午前の魔術理論について話している。


 俺はその全部を聞きながら、時々会話へ入る。


 楽しい。


 二人きりの昼食とは違う。


 リビアと静かに食べる時間は好きだ。


 でも、こうやって皆で食べるのも好きだと思う。


 どちらかを選ばなくてもいい。


「セス」


「何?」


 リビアが小さな焼き菓子をこちらへ差し出す。


「これ食べる?」


「うん」


 受け取ろうと手を出したところで、リビアが少しだけ引いた。


「何?」


「……何でもない」


「何で引いたの?」


「前のこと思い出しただけ」


 前。


 東棟裏庭。


 二人きり。


 リビアに食べさせた。


 今度は俺が食べさせてもらった。


 そこまで思い出した瞬間、指先が止まった。


「……普通にくれる?」


「もちろん」


 リビアの頬も少し赤い。


 周囲に皆がいる。


 さすがにここで食べさせ合うのは恥ずかしい。


 焼き菓子を受け取る。


 その様子をカイゼル殿下が見ていた。


「何かあったね」


「何もないです」


「今の間は明らかに何かあった」


「ありません」


「オリビアまで赤いけれど」


「カイゼル殿下」


 リビアが笑顔で呼ぶ。


「何かな?」


「次の魔術実習で、結界の強度試験をなさいます?」


「遠慮しておこう」


「賢明です」


 また笑いが起こる。


 俺は焼き菓子を食べる。


 甘い。


 前に食べたものと同じ種類だと思う。


 でも、今日も少し美味しく感じる。


 理由を考えそうになって、やめた。


 今すぐ全部に名前をつけなくてもいい。


 それも最近覚えたことだ。


     ◇


 午後の授業が終わる頃には、朝の雲はほとんど消えていた。


 窓から差し込む夕方の光が教室の床へ伸びている。


 今日は学園長室から呼び出しはない。


 追加測定の続きもない。


 ライゼルとの面会もない。


 本当に普通の一日だった。


「……何も起きなかった」


 俺が呟く。


 近くで帰り支度をしていたイザークが振り返る。


「何だその残念そうな言い方」


「残念じゃない。嬉しい」


「ならもっと嬉しそうに言え」


「普通の日っていいな」


「お前が言うと重いんだよ」


 ミリアナが笑う。


「でも今日は剣術も楽しそうでしたよね」


「うん」


「王国史も」


「面白かった」


「昼食も?」


 ナナリーが聞く。


「楽しかった」


「全部じゃないですか」


「そうかも」


 自分で答えて、少し驚く。


 学園へ来る前、俺は学園生活というものをよく知らなかった。


 授業を受ける。


 同じ年齢の生徒と話す。


 昼食を食べる。


 剣を合わせる。


 分からないことを教えてもらう。


 次の約束をする。


 それだけの一日が、こんなに色々あるとは思っていなかった。


「セス」


 リビアが鞄を持って俺のところへ来る。


「帰りましょう」


「うん」


 俺も立ち上がる。


「明日も普通だといいな」


「それは言わない方がいいって朝も言ったでしょう?」


「もう今日終わるから大丈夫だろ」


「明日へ効くかもしれないわ」


「そんな呪いみたいな」


「編入初日を思い出して」


「……言わないでおく」


 教室を出る。


 廊下には帰宅する生徒たちの声が響いている。


 リビアと並んで階段へ向かう。


 途中で俺の手が少し動いた。


 リビアの手が近くにある。


 繋ぎたい。


 今はもう、その感覚が分かる。


 理由を探さなくてもいい。


 人が多いからでもない。


 危ないからでもない。


 ただ、繋ぎたい。


 俺は手を伸ばした。


 指先が触れる。


 リビアがこちらを見る。


「セス?」


「帰るまで」


「うん」


 指を絡める。


 以前より、ずっと自然だった。


 階段を下り、正面玄関へ向かう。


 今日、何か大きな事件が進んだわけではない。


 シュザー家の事前面談はまだだ。


 追加測定の続きも残っている。


 ライゼルがどうなるのかも分からない。


 それでも、俺にとっては何もなかった一日ではなかった。


 王国史が面白かった。


 イザークと剣を合わせるのが楽しかった。


 皆で昼食を食べた。


 リビアと笑った。


 そして、自分から手を繋いだ。


 こういう日を普通と呼ぶなら、俺は普通の学園生活が結構好きなのかもしれない。


 正面玄関を出たところで、後ろから足音が近づいてきた。


「クルセス、オリビア」


 聞き慣れた声に振り返る。


 レイモンド先生だった。


 一瞬だけ、俺とリビアの間に緊張が走る。


 昨日の今日だ。


 どうしてもシュザー家のことを考える。


 けれど先生は、俺たちを急かす様子もなく歩いてきた。


「ちょうどよかった。帰る前に一つだけ伝えておく」


「シュザー家ですか?」


「ああ」


 やっぱり。


 俺は繋いだ手を離さなかった。


 リビアも同じだった。


「当主との事前面談の日程が決まった」


 レイモンド先生は俺たち二人を順番に見る。


「二日後の放課後だ。お前たちは参加しなくていい。学園長、私、それからエレナ先生が話をする」


「二日後……」


「ああ。面談が終わったからといって、その翌日にライゼルと会わせるようなことはしない。内容を整理してから、お前たちへ説明する時間を取る」


 昨日聞いた通りだ。


 急がない。


 一つずつ進める。


「分かりました」


「私も分かりました」


「それだけだ。今日は帰っていい」


 先生が去っていく。


 俺とリビアは少しの間、その背中を見送った。


「二日後だって」


「うん」


「気になる?」


「気になる。でも」


 リビアは繋いでいる手を少し揺らした。


「今日はもう考えなくていいでしょう?」


 俺は少し笑う。


「そうだな」


「明日も授業があるし」


「うん」


「それにセス、イザークと次も剣を合わせる約束したんでしょう?」


「聞いてた?」


「見てたもの」


「そっか」


 俺たちは再び歩き出した。


 二日後には、また何かが分かる。


 でも、それは二日後の話だ。


 今の俺には、今日の帰り道がある。


 隣にはリビアがいる。


 馬車へ向かいながら、俺は繋いだ手の温かさを感じていた。


 分からないことが先に待っていても、その全部を今から背負う必要はない。


 今日のことは今日の分だけ。


 明日のことは、明日になってから。


 そして二日後の話は、二日後に聞けばいい。


 そう考えられるようになったこと自体が、学園へ来る前の俺にはなかった変化なのだろう。


 ただ一つだけ。


 リビアと手を繋いで帰るのが好きだということだけは、二日後まで待たなくても、もう分かっていた。

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