第21話 謝罪を受けるか聞かれただけなのに、許すかどうかまで今決める必要がありますか
学園長室へ向かう廊下には、放課後になったばかりの生徒たちの声がまだ残っていた。
教室から中庭へ向かう者、友人同士で今日の授業について話しながら階段を下りる者、これから剣術や魔術の自主練習へ向かうらしく道具を抱えて歩く者。開け放たれた窓からは夕方の少し冷えた風が入り込み、長い廊下へ差し込んだ西日が、俺とリビアの影を並べて床へ伸ばしている。
その中を歩きながら、俺は自分の左手にある温かさを何度か意識していた。
リビアと手を繋ぐこと自体は、もう珍しいことではなくなっている。けれど今は人混みを抜けるためでも、彼女を守るためでもなく、学園長室へ一緒に向かう途中で俺から手を取ったのだから、以前とは少し意味が違う気がした。
「セス、強くない?」
「え?」
「手」
言われて初めて、普段より少し強く握っていたことに気づいた。慌てて力を緩めると、リビアは離れるどころか絡めた指をそのままにして、俺の顔を横から覗き込んでくる。
「緊張してる?」
「どうだろ」
「分からない?」
「戦うわけじゃないから、怖いとは違うと思う。でも、何を言われるかは気になる」
「それなら、少し緊張してるんじゃない?」
「そうなのかな」
自分の身体へ意識を向けてみる。
心臓が速いわけではない。息苦しくもないし、身体に力が入りすぎている感じもしない。それでも、さっきまで教室にいた時より周囲の音が少し遠く感じられ、頭のどこかではシュザー家のことをずっと考えている。
「……たぶん、そうかも」
「うん」
「でも、嫌な感じじゃない」
「それもちゃんと伝えられるようになったわね」
「また褒めるの?」
「褒めるわよ。前のセスだったら『別に何ともない』で終わってたもの」
反論しようとして、やめた。
たぶん、その通りだった。
痛くない。
動ける。
戦える。
なら大丈夫。
俺はずっと、身体のことだけでなく気持ちまで同じように扱っていたのかもしれない。
「リビアは?」
「私?」
「緊張してる?」
聞き返すと、リビアは少しだけ歩調を落とした。絡んでいる指が動き、俺の手の甲を親指で一度なぞる。
「してるわ」
「ライゼルに会うかもしれないから?」
「それもある。でも、今日は会わないってレイモンド先生が言ってたでしょう?」
「うん」
「だから今は、何を言われるのかを聞くのが少し怖いのかもしれない」
意外だった。
リビアはライゼルの件になると、これまでは怒っている姿の方が目立っていた。
あの日もそうだ。
俺がライゼルを止めた後、リビアは俺の怪我を確認しながら怒っていた。俺がフレイムストームの中へ入ったことにも怒っていたし、ライゼルが彼女自身の意思を無視していることにも腹を立てていた。
でも、怒りだけではなかったのだ。
「怖いなら、立ち会わなくてもいいんじゃない?」
俺が言うと、リビアはすぐには答えなかった。
廊下の向こうから三人の生徒が歩いてきたため、俺たちは少し端へ寄る。すれ違った生徒たちはこちらへ軽く会釈し、俺たちが繋いでいる手へ一瞬だけ目を向けたものの、そのまま友人同士の会話へ戻っていった。
彼らの足音が遠ざかってから、リビアが口を開く。
「会いたくない、とは少し違うの」
「じゃあ?」
「私がいないところで、私の気持ちを勝手に決められるのが嫌なの」
声は穏やかだった。
けれど、繋いだ手へほんの少し力が入る。
「ライゼルは、セスが私を惑わせてるって言ってるんでしょう?」
「うん」
「私は何度も違うって言ったわ。セスを婚約者にしたいって言ったのも私だし、婚約を認めてもらうためにお父様へお願いしたのも私。セスに学園へ来てほしいって言ったのも、全部私が自分で決めたことなのに」
俺は黙って聞いた。
リビアが父親である旦那様へどれだけ頼み込んだのかは知っている。
泣いたことまで。
俺との婚約は、誰かに命じられたものではない。
むしろ、俺の方が最初は「無理がある」と思っていたくらいだ。
「だから、もし会うなら私もいたい。でも……」
そこで声が少し弱くなった。
「またあの時みたいになったら、って考えないわけじゃない」
足が止まりそうになった。
でも、俺は無意識に先へ出ようとする代わりに、リビアと同じ歩調を保った。
守らなければ。
一瞬そう思った。
けれど、それだけではない。
「それ、先生たちにも言おう」
「……セス?」
「会いたい気持ちもある。でも怖くないわけじゃないって」
「言っていいのかしら」
「いいだろ。俺だってさっき緊張してるかもって言ったし」
「それと同じ?」
「たぶん」
俺は少し考えてから続けた。
「会うか会わないかだけじゃなくて、どういう条件なら会えるか考えてもらえばいいんじゃない? 先生たち、そういうの考えるためにいるんだろ?」
口にしてから、昨日までの授業を思い出した。
一つの問題にも条件がある。
橋を直すかどうかだけではなく、予算や季節や迂回路を考える。
誰が悪いかだけではなく、どこで止められたかを考える。
なら、これも同じかもしれない。
リビアが立ち会うか、立ち会わないか。
二つだけではない。
途中で退室出来るようにする。
ライゼルが興奮したら終わる。
先生が間に入る。
距離を取る。
条件はいくつも考えられる。
「……セス、そういう考え方、本当に好きになったわね」
「何が?」
「条件を並べて考えること」
「そうかも」
少し笑う。
「でも、その方が楽じゃない?」
「楽?」
「絶対に会うか、絶対に会わないか、今決めなくていいから」
リビアが俺を見つめる。
それから、ゆっくり笑った。
「そうね」
「うん」
「じゃあ、一緒に聞きましょう」
「そのつもり」
学園長室の前へ着いた。
以前にも何度か立った扉だが、今日は最初の日ほど重く感じない。
俺は繋いでいた手を離そうとして、一度リビアを見る。
「入るから離す?」
「どうして聞くの?」
「いや、学園長室だし」
「セスが離したいなら」
「別に離したいわけじゃない」
「なら、このままでいいんじゃない?」
「いいのかな」
「駄目なら学園長先生に言われるわ」
それもそうか。
俺は空いている右手で扉を叩いた。
「クルセスです。オリビアも一緒です」
「入れ」
学園長の声が返ってくる。
扉を開くと、室内にはすでに何人かが集まっていた。
大きな執務机の向こうに学園長オズワルド先生。窓側にはエレナ先生が立ち、少し離れた長椅子の近くにはレイモンド先生がいる。
ベルナルト先生はいなかった。
昨日の追加測定ではないのだから当然なのだが、少しだけ妙な感じがした。
「失礼します」
「失礼いたします」
俺とリビアが中へ入る。
扉を閉めたところで、エレナ先生の視線が俺たちの手へ落ちた。
一瞬だけ。
それから何も言わず、口元だけ少し緩んだ。
学園長も気づいたようだったが、こちらは特に反応しない。
「座りなさい」
「はい」
長椅子へ向かう。
そこでさすがに手を離したが、リビアは俺の隣へ座った。間には一人分も空いていない。
机の上には数枚の書類と、一通の封書が置かれている。
シュザー家からのものだろう。
「まず先に確認しておく」
学園長が俺たち二人を見る。
「今日、ライゼル・シュザーと会わせることはない」
「はい」
「はい」
「シュザー家当主も、この場には来ていない。今日はあくまで、向こうから届いた正式な返答を説明し、今後どうするかを相談するために呼んだ」
それを聞いて、俺の肩から少し力が抜けた。
隣のリビアも同じだったらしい。膝の上で重ねていた手が、僅かに緩む。
エレナ先生がその様子を見ていた。
「二人とも、今の時点で体調に問題は?」
「ありません」
「私もありません」
「クルセス、昨日の測定疲労は?」
「魔力も身体もゼロです。朝も訓練してません。剣術の授業も軽い内容だけでした」
「よろしい」
「そこも確認するんですね」
「昨日の今日だから当然でしょう」
「はい」
今はシュザー家の話なのにと思ったが、考えてみれば俺の状態が悪ければ話し合いにも影響する。
エレナ先生はリビアにも視線を向けた。
「オリビア。あなたは?」
「身体は問題ありません。ただ……少し緊張しています」
俺は隣を見る。
言った。
廊下で話した通り、自分から。
エレナ先生は驚くことなく頷いた。
「理由は?」
「ライゼル様との面会についてです。会うなら自分もいたいと思っています。でも、前のようなことにならないか、不安がないわけではありません」
「分かった。後でそこも含めて話しましょう」
「はい」
否定されなかった。
大げさだとも、令嬢らしくないとも言われない。
ただ、必要な情報として受け取られた。
リビアの横顔からも、少し緊張が抜けたように見える。
「では、本題に入る」
学園長が封書へ手を置いた。
「先日、シュザー家から最初の書状が届いたことは二人とも知っているな」
「はい」
「当主からの謝罪と、俺がシュザー家へ行くようにっていう話ですよね」
「正確には、当主とライゼル本人から直接謝罪する機会を設けたいという申し出だ。ただし場所としてシュザー邸が提示されていた」
学園長は言葉を選びながら説明する。
「それに対し、学園とパウリー公爵家は、現時点でクルセスをシュザー邸へ向かわせることは適切ではないと判断した。面会を行うなら学園内。学園側の教員が立ち会い、こちらが安全を管理する。それが最低条件だと返答した」
「そこまでは聞いてます」
「今回、シュザー家当主はその条件を受け入れた」
学園長が書類を一枚こちらへ向けた。
「場所は学園内で構わない。立会人についても学園側へ一任する。面会の途中で学園側が中止を判断した場合、異議を唱えない。クルセスが面会そのものを拒否した場合も、それを理由に追加の接触を行わない、と書面で回答している」
思っていたより条件を受け入れている。
「シュザー家から、別の条件はないんですか?」
「ある」
レイモンド先生が答えた。
「当主本人も同席したいという希望が出ている」
「ライゼルの父親も?」
「ああ。ただし、これも要求ではなく希望として書かれている。学園が不適切と判断するなら従うとのことだ」
「何のために?」
「本人からの謝罪だけでなく、家としての謝罪と今後の対応を説明したいそうだ」
俺は机の上の書類を見る。
前に届いた手紙でも、シュザー家の当主は事件を軽く扱っていなかった。
ライゼルが魔法師団長の息子だからといって庇うような内容でもなかったらしい。
「先生たちは、来てもいいと思ってるんですか?」
「現時点では、当主の同席そのものを危険とは判断していない」
学園長が答える。
「むしろ家としての説明をするなら、本人がいる方が適切な面もある。ただし、ライゼルと当主の関係が面会へどう影響するかは確認する必要がある」
「関係?」
「父親がいることでライゼルが落ち着くのか、逆に感情を強めるのか。それによって条件が変わる」
なるほど。
父親がいれば安心、とは限らないのか。
俺にとってグレイヴは、いると安心する相手だ。
でも、誰にとっても父親がそうだとは限らない。
ライゼルと父親が普段どういう関係なのか、俺は知らない。
「そこはまだ分からないんですか?」
「確認中だ」
「じゃあ、決めない方がいいですね」
俺が答えると、学園長が僅かに眉を上げた。
「理由は?」
「分からないからです」
少し考え、言葉を足す。
「当主がいる方が安全なのか、いない方が安全なのか分からないなら、今ここで決めても仕方ないと思います。調べてからでいいんじゃないですか?」
「そうだな」
「合ってます?」
「確認しただけだ」
「最近、先生たちに理由を聞かれると試験みたいに感じるんです」
「授業の成果が出ているか見るのも教師の仕事だ」
「今も授業なんですか?」
「学園にいる間は、どこで学ぶかは決まっていない」
それを言われると反論出来ない。
リビアが隣で小さく笑っている。
「それで」
俺はもう一度書類を見る。
「ライゼルは今、どうしてるんですか?」
部屋の空気が少し変わった。
今まで説明していた学園長が、レイモンド先生へ視線を向ける。
レイモンド先生は手元の別の書類を開いた。
「学園側の教員が、昨日もう一度ライゼル本人と話をしている」
「昨日?」
「ああ。お前の追加測定とは別に進めていた」
「何て言ってました?」
「以前よりは会話が成立している」
以前よりは。
その言い方が気になった。
「完全に落ち着いたわけじゃないんですね」
「そう判断している」
レイモンド先生はすぐに続けず、書類の一部へ視線を落とした。
「まず、ライゼルは自分が授業中に攻撃魔術を使用し、複数の生徒を危険へ晒したこと自体は認めている。フレイムストームを使ったことについても、学園の規則に反し、周囲へ危険を及ぼしたという説明は理解している」
「じゃあ、そこは認めてるんですね」
「ああ。ただし、問題は動機の部分だ」
隣でリビアの手が膝の上で少し動いた。
「まだ、セスが私を惑わせていると思っているんですか?」
リビアが尋ねる。
レイモンド先生は曖昧にせず頷いた。
「完全には撤回していない」
リビアの表情が硬くなる。
俺の中にも、少し苛立ちが生まれた。
でも、先に続きを聞く。
「完全には、ってことは?」
「以前のように『間違いなくそうだ』と断定する言い方は減っている。ただ、『自分が知らないうちにオリビアが変わった』『昔の彼女なら平民出身の執事を婚約者に選ぶはずがない』という認識は残っている」
リビアが息を吸った。
すぐに反論しそうになったのが分かった。
けれど、彼女は一度唇を閉じた。
俺も黙っていた。
まず最後まで聞く。
「一方で」
レイモンド先生が続ける。
「教員側から、『オリビア本人が繰り返し自分の意思だと説明している事実をどう考えるのか』と尋ねたところ、以前のように即座に否定はしなかった」
「……何て答えたんですか?」
リビアの声は、さっきより低かった。
「『分からない』と」
室内が静かになる。
窓の外から、遠くの訓練場で誰かが号令をかける声が聞こえた。
俺はその答えを頭の中で何度か繰り返す。
分からない。
認めたわけではない。
でも、完全に否定したわけでもない。
「それ、前よりは変わってるんですか?」
「我々はそう見ている」
エレナ先生が答えた。
「ただし、『分からない』がそのまま『受け入れた』になるわけではないわ。そこを急いで評価するつもりはない」
「はい」
「ライゼルは今、自分が信じていたものと、実際に起きていることが一致していない状態なのだと思う」
「信じてたもの?」
「オリビアがどういう相手を選ぶ人間なのか。自分がどう評価されているのか。身分や能力が婚約相手としてどれほど重要なのか。そういう認識ね」
エレナ先生はリビアを見る。
「でも、それはライゼルの認識であって、あなたの意思ではない」
「はい」
「そこは学園として明確に分けている」
リビアの肩から、僅かに力が抜けた。
「……ありがとうございます」
「当然よ」
エレナ先生の返事は短かったが、その声には迷いがなかった。
俺も少し安心した。
ライゼルがどう思うかと、リビアがどう思っているかは別だ。
当たり前のことなのに、あの時のライゼルはそこを一緒にしていた。
「ライゼルは、俺に謝りたいって言ってるんですか?」
俺が聞くと、今度は学園長が答えた。
「本人の言葉としては、『攻撃したことについて謝罪する必要がある』と言っている」
「必要がある」
「引っかかるか?」
「ちょっと」
俺は正直に答えた。
「『謝りたい』とは違う気がするので」
「その通りだ」
「先生たちもそう思ってるんですね」
「だからこそ、今日会わせていない」
学園長は机の上で両手を組んだ。
「形だけ頭を下げさせれば終わる問題ではない。少なくとも、自分が何をしたのかを理解せずに謝罪だけさせても意味は薄い」
「じゃあ、まだ会わない方がいいんじゃないですか?」
「その可能性も含めて相談する」
俺は少し首を傾げた。
「俺に?」
「お前は当事者だ」
「でも、ライゼルがちゃんと話せるかどうかは先生たちが決めた方がいいんじゃ?」
「安全面は我々が判断する。しかし、お前が謝罪を受ける意思があるかどうかは、我々が決めることではない」
言われて、俺は黙った。
謝罪を受ける。
その言葉が、思っていたより難しい。
「会って、謝られるってことですよね?」
「そうだ」
「それを受けるかどうか?」
「そうだ」
「……謝られたら、許さないと駄目なんですか?」
口にした瞬間、部屋の中が静かになった。
俺自身、どうしてその質問が出たのか少し分からなかった。
でも、気になった。
誰かが謝る。
受け取る。
なら、それで終わりなのか。
昔、スラムでは謝罪なんてほとんど意味を持たなかった。食べ物を盗られても、殴られても、次の日にはまた同じことが起きる。謝るより、自分で気をつける方が早かった。
パウリー家へ来てからは違った。
皿を割れば謝る。
仕事で間違えれば謝る。
俺が失敗すればグレイヴに謝り、何を直すべきか教えてもらう。
でも、今回のことはそれとも違う。
ライゼルは俺を攻撃した。
リビアを自分の意思がないように扱った。
周りの生徒まで危険へ巻き込んだ。
俺が謝罪を聞いたら、それらを全部「もういい」と言わなければならないのだろうか。
「いい質問だ」
学園長がゆっくり答えた。
「謝罪を聞くことと、許すことは別だ」
俺は顔を上げる。
「別なんですか?」
「ああ。相手が謝罪する権利がある、とは私は考えていない。謝罪したいと申し出ることは出来る。しかし、それを聞く義務がお前にあるわけではない」
「はい」
「そして、お前が謝罪を聞いたとしても、その場で許す義務もない」
言葉がゆっくり胸へ落ちてくる。
「じゃあ、『分かりました。でも許せません』でもいい?」
「いい」
「『今は分からない』でも?」
「構わない」
「何も答えないのも?」
「構わない」
俺は思わず息を吐いた。
自分でも気づかないうちに、少し身構えていたらしい。
「……何か、謝られたら答えを出さないといけないのかと思ってました」
「どうして?」
レイモンド先生に尋ねられる。
「謝るって、終わらせるためにするものだと思ってたから」
言葉にしながら考える。
「悪かった。分かった。じゃあ終わり、みたいな」
「そういう謝罪もある」
レイモンド先生は否定しなかった。
「だが、重大な出来事ほど、謝罪だけで元に戻るわけではない。相手が謝ったという事実と、お前の中で何が変わるかは別の話だ」
「……なるほど」
「まして今回は、ライゼル本人の認識がまだ整理されていない」
「はい」
「だから面会をしたとしても、そこで全て解決させることを目的にはしない」
それなら、少し分かる。
会う。
話を聞く。
俺も必要なら話す。
そこで答えが出なければ、そのままでもいい。
全部を一度で終わらせなくていい。
最近、何度も似たことを覚えている気がする。
測定もそうだった。
自分の気持ちもそうだ。
ライゼルのことも、同じなのかもしれない。
「リビアは?」
俺は隣を向いた。
「え?」
「謝られたら、許さないといけないと思ってた?」
リビアは少し考えた。
「私は……許すかどうかより、まず私の話を聞いてほしいと思ってた」
「ライゼルに?」
「うん」
膝の上で重ねられていた彼女の指が、ゆっくりほどける。
「私がセスを選んだことを、セスに騙されたからでも、身分を忘れたからでも、誰かに命令されたからでもなくて、自分で決めたんだって。それを一度、ちゃんと聞いてほしい」
「今までも言ったよな?」
「言ったわ。でも、聞いてもらえなかった」
声が僅かに揺れた。
怒りとは少し違う。
悔しさ。
たぶん、それに近い。
「私が何を言っても、『本当のオリビアはそんなことを言わない』っていう顔をされるのが、一番嫌だった」
俺はリビアの横顔を見る。
あの日のことを思い出す。
ライゼルは俺に怒っていた。
俺が邪魔だから。
俺が平民出身だから。
俺がリビアを惑わせていると思ったから。
でも、その考えは同時に、目の前にいるリビアの言葉を否定するものだった。
「……それは嫌だな」
「でしょう?」
「俺だったら、リビアが『本当のセスならそんなこと言わない』って勝手に決めたら困る」
「私はしないわよ」
「分かってる。例え」
「ならいいけど」
少しだけ、リビアの表情が緩む。
俺はその変化を見てから、先生たちへ向き直った。
「リビアが立ち会うなら、話す時間を作れませんか?」
「どういう意味だ?」
「俺への謝罪だけじゃなくて、リビアが自分で話す時間です」
学園長はすぐに答えず、リビアを見る。
「オリビア。お前自身はそれを望むか?」
「はい」
返事は早かった。
ただ、その直後にリビアは少し考え、言い直すように続ける。
「……ただし、安全に出来るなら、です」
エレナ先生が僅かに笑った。
「大事な付け足しね」
「セスに言われました。会うか会わないかだけじゃなくて、条件を考えればいいって」
「クルセスが?」
「何で驚くんです?」
「少し前のお前なら、『何かあったら俺が止めます』で終わっていたと思っただけだ」
レイモンド先生に言われ、俺は口を閉じる。
「……否定出来ないです」
「今は?」
「何か起きる前に、起きにくくした方がいいと思います」
「その通りだ」
エレナ先生が頷く。
「では、具体的に考えてみましょう」
先生は窓際から離れ、机の近くへ来た。
「まず、面会を行うとしても、通常の教室は使わない。出入口が一つしかない小部屋も避ける。十分な広さがあり、距離を取れる場所を選ぶ」
「第二応接室あたりですか?」
レイモンド先生が尋ねる。
「候補の一つね。あそこなら二つの出入口があるし、隣室も教師用に使える」
「魔術対策は?」
「室内に簡易封魔結界を設置する。完全に魔力を封じるのではなく、一定以上の術式構築を検知した時点で阻害する方式がいいでしょう」
俺は話を聞きながら、部屋の形を想像する。
「距離は?」
「クルセスとライゼルの間に最低でも机一つ。オリビアが同席するなら、彼女をライゼルの正面へ置く必要はない」
「俺とリビアが並ぶのは?」
「可能よ。ただし、あなたが前へ出すぎないこと」
「……分かりました」
「今、少し考えたでしょう?」
「もし何かあったらって」
「それは考えていい。でも、最初から盾になる位置へ座る必要はないわ」
「はい」
俺は頷いた。
リビアが隣で俺の袖を軽く摘まむ。
「私にも結界あるからね」
「分かってる」
「忘れないで」
「忘れてないよ」
「ならいいわ」
エレナ先生はそのやり取りを見てから続けた。
「教員は最低二名。私かレイモンド先生のどちらかは必ず室内へ入る。学園長先生については、面会の形式次第」
「シュザー家当主は?」
「それが未確定。先ほど言ったように、彼がライゼルへ与える影響を確認してから判断する」
「はい」
「そして、最も重要な条件」
エレナ先生の視線が俺とリビアを順番に捉えた。
「どちらか一人でも途中で『もう続けたくない』と思ったら、面会は終わり」
俺は少し目を瞬いた。
「危険じゃなくても?」
「危険でなくても」
「話の途中でも?」
「途中でも」
「ライゼルがまだ話したいって言っても?」
「関係ないわ」
はっきりした答えだった。
「面会は、彼に満足するまで話す権利を与える場ではない。あなたたちが謝罪や説明を受ける意思を示した場合に限って成立するものよ」
「……分かりました」
「オリビアも」
「はい」
リビアは真剣な顔で頷いた。
「やめたくなったら言います」
「それでいい」
「セスもよ」
今度は俺へ言ってくる。
「俺?」
「私だけじゃないでしょう?」
「うん」
「セスが嫌になったら、私がまだ大丈夫でも終わりにしていいの」
「でもリビアが話したいなら――」
そこまで言って、止まる。
まただ。
自分より先に相手を優先しようとした。
リビアも気づいたらしく、何も言わず俺を見ている。
「……俺が無理なら、言う」
「うん」
「でも、リビアがまだ話したいなら、別の日に出来る?」
先生たちを見る。
「可能だ」
学園長が答えた。
「一度の面会で全員の話を終わらせる必要はない」
「じゃあ、それで」
少し安心した。
俺が途中でやめても、リビアの機会を奪うことにはならない。
なら、無理に残る理由もない。
「日程はまだ決めないんですよね?」
「ああ」
「ライゼルの状態をもう一度確認してから?」
「それに加えて、シュザー家当主との事前面談も行う」
「父親だけ先に?」
「その予定だ」
学園長が書類を一枚めくる。
「当主本人から、学園側と先に話したいという申し出もある。家としての謝罪、ライゼルの家庭での様子、今後の監督について説明したいそうだ」
「俺たちはそこに出なくていいんですか?」
「現時点では必要ない」
「分かりました」
正直、少しほっとした。
知らない大人、それも魔法師団長といきなり話すことになるのかと思った。
「ただし」
学園長が続ける。
「その事前面談の内容については、お前たちへ必要な範囲で伝える。その上で、改めて面会を希望するか確認する」
「その時にやっぱり会わないって言ってもいい?」
「構わない」
「分かりました」
何度確認しても答えは同じだった。
決めたら最後ではない。
途中で変えてもいい。
今の自分の状態を見て判断していい。
そういう仕組みになっている。
俺には、それが少し新鮮だった。
「それから、処分について聞きたいことはあるか?」
学園長から尋ねられた。
俺はリビアを見る。
彼女も俺を見る。
「まだ決まってないんですよね?」
「最終決定はしていない」
「面会したら軽くなるとかあります?」
学園長の眉が僅かに動いた。
「なぜそう思う?」
「俺が許したら、もういいってことになるのかなって」
「ならない」
今度は即答だった。
「ライゼルへの学園上の処分は、学園規則に対する違反と、生徒を危険へ晒した行為について決める。お前が許すかどうかとは別だ」
「よかった」
「よかった?」
「俺が何て答えるかで処分が変わるなら、責任重いなと思って」
「その責任を被害を受けた側へ負わせることはしない」
その言葉を聞き、胸の奥にあった小さな重さが消えた。
俺が許すと言ったら軽くなる。
許さないと言ったら重くなる。
もしそうなら、どちらを選んでも何かを背負うことになる。
でも、そこは先生たちが決める。
俺は俺の気持ちだけを考えていい。
「じゃあ、俺は会うかどうかだけ考えればいいんですね」
「正確には、お前が何を望むかだ」
「何を望むか」
「謝罪を聞きたいのか。自分から伝えたいことがあるのか。何も求めず距離を置きたいのか。それを考えればいい」
「今決めなくていい?」
「いい」
「なら、今日は決めません」
自分でも驚くくらい自然に言えた。
学園長も、レイモンド先生も、エレナ先生も急かさなかった。
「分かった」
学園長はそれだけ答える。
俺は隣のリビアを見る。
「リビアは?」
「私は、会う方向で考えたい」
「今決める?」
「ううん。私も、シュザー公爵……じゃなくて、シュザー家当主との事前面談の結果を聞いてからにする」
「そっか」
「でも、私の意思を自分の言葉で伝えたいっていう気持ちは変わらないと思う」
「うん」
そこは、リビアらしいと思った。
俺も聞いてほしい。
リビアが自分で選んだのだと。
でも、俺が代わりに言うだけでは意味がないのだろう。
「セスは、ライゼル様に言いたいことないの?」
不意に聞かれた。
「俺?」
「うん」
考える。
殴られたわけではない。
魔術は撃たれた。
俺も反撃した。
最後は膝蹴りを入れた。
謝ってほしいかと聞かれると、少し分からない。
でも。
「……リビアの話を聞け、かな」
「私?」
「うん」
「セス自身のことじゃなくて?」
「俺のことなら、平民だから嫌いでも、執事だから気に入らなくても別にいいし」
「よくないわよ」
「でも、それはライゼルがどう思うかだろ?」
「まあ……そうだけど」
「俺を嫌いなのは自由。でも、それで魔術撃つのは駄目」
「そこは分けるのね」
「先生に習ったから」
少し笑う。
「でも、リビアが何を考えてるかまで勝手に決めるのは違うと思う」
口にしてから、胸の中でその言葉が残った。
俺はリビアが大切だ。
だから守りたい。
でも、守ることと、代わりに決めることは違う。
それは俺も気をつけなければならないのかもしれない。
「俺も、リビアのこと勝手に決めないようにしないとな」
「セス?」
「ライゼルに言うなら、自分も出来てないと変だろ」
「……そうね」
リビアは少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。
「でもセスは、最近ちゃんと聞いてくれるわ」
「前は?」
「私を守る時だけは、聞く前に飛び出してた」
「……それは」
「分かってる。直してる途中でしょう?」
「うん」
「ならいいの」
俺の手の近くへ、リビアの指先が触れた。
学園長室の中だからか、手を繋ぐところまではしない。
でも、その小さな接触だけで十分だった。
話はさらに細かな確認へ移った。
面会を行う場合でも、ライゼルと俺たちを同時に部屋へ入れないこと。先に教師がライゼルの状態を確認し、問題がなければ俺たちが入ること。退出時も時間をずらし、廊下で偶然鉢合わせしないようにすること。
ライゼルが大声を出した時点で即終了とは限らないが、立会教員が興奮状態と判断した場合はそこで止める。魔力の上昇が検知された場合は本人の意思に関係なく中断し、以後の面会条件を見直す。
リビアが話している最中にライゼルが遮り続ける場合も、教師が介入する。
「そこまで決めるんですね」
俺が言うと、レイモンド先生が頷いた。
「起きてから考えるのでは遅いことがある」
「……耳が痛いです」
「お前に聞かせるつもりで言った」
「やっぱり」
少し笑いが起こる。
さっきまで張っていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
窓の外では日がさらに傾き、室内へ差し込む光の位置も変わっている。話し始めてから思っていたより時間が経っていた。
「今日はここまでにしよう」
学園長が書類を揃えた。
「次の段階は、シュザー家当主との事前面談だ。早ければ数日以内に行うが、お前たちが参加する必要はない」
「結果は教えてもらえるんですよね?」
「ああ」
「その後で、会うか決める」
「そうだ」
俺は頷く。
リビアも隣で同じように頷いた。
「最後に一つ」
エレナ先生が俺を見る。
「今日、この後にライゼルのことを考え続けて眠れなくなるようなら、明日教えて」
「そこまで?」
「そこまで」
「でも、たぶん大丈夫です」
言ってから、少し考える。
先生が俺を見ている。
リビアも見ている。
「……たぶん、です。もし駄目だったら言います」
「よろしい」
「今、言い直すの待ってました?」
「少しね」
「先生たち、最近俺で練習してません?」
「何の?」
「ちゃんと申告する練習」
「必要でしょう?」
「否定出来ないです」
また少し笑いが起きた。
俺は立ち上がる。
リビアも続いた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
「クルセス」
扉へ向かおうとしたところで、学園長に呼び止められる。
「はい?」
「今日決めなかったことを、迷っていると考える必要はない」
「え?」
「判断するための情報が足りない時に、決めないというのも一つの判断だ」
俺は少し黙った。
それから頷く。
「覚えておきます」
「ああ」
学園長室を出る。
扉が閉まると、廊下は先ほどより静かになっていた。
放課後の生徒たちもかなり減り、西日は赤から橙へ色を変えている。窓の外に見える中庭では、木々の影が長く伸び、遠くから聞こえていた訓練の声も少なくなっていた。
俺はその場で一度息を吐いた。
「疲れた?」
リビアが聞く。
「身体じゃなくて、頭がちょっと」
「私も」
「こういうのも疲労に入るのかな」
「入るんじゃない?」
「何番くらい?」
「セス、何でも数字にしなくていいのよ」
「それもそうか」
顔を見合わせて笑う。
俺たちは並んで歩き出した。
今度はすぐには手を繋がなかった。
さっき聞いた話を、それぞれ少し考える時間が欲しかったのかもしれない。
「リビア」
「何?」
「会いたい?」
少し歩いてから尋ねる。
リビアは前を向いたまま考えた。
「今は、会って話したい気持ちの方が強い。でも、絶対とは言わないでおく」
「何で?」
「今日、セスに言われたから。条件を見てから考えてもいいって」
「俺、役に立った?」
「すごく」
「そっか」
嬉しかった。
守ったからではない。
戦ったからでもない。
一緒に考えたことが役に立った。
そういうのも悪くない。
「セスは?」
「俺は……」
すぐには答えられなかった。
謝ってほしいのか。
ライゼルに何か言いたいのか。
顔を見たいのか。
まだ分からない。
「今は決めない」
「うん」
「でも、前より会うの嫌じゃないかも」
「どうして?」
「先生たちが止めてくれるって分かったから」
自分で言って、少し驚く。
以前なら、逆だった。
何かあっても俺が止められる。
だから大丈夫。
今は、先生たちが止めてくれる。
だから考えてもいい。
その違いは大きい。
「あと、リビアが話したいなら、それは聞いてほしい」
「ありがとう」
「でも無理ならやめよう」
「うん」
「途中でも」
「うん」
「俺が先に無理になっても」
言うと、リビアがこちらを見る。
「ちゃんと言える?」
「努力する」
「そこは『言う』じゃないの?」
「まだ自信ない」
正直に答える。
リビアは一瞬驚いたあと、笑った。
「それも前よりいいわ」
「何が?」
「出来るか分からないことを、出来るって言わなかったから」
「最近、俺の成長確認多くない?」
「楽しいの」
「俺は観察対象か」
「婚約者よ」
「それならいいか」
自然に答えると、リビアの歩調が僅かに乱れた。
「何?」
「何でもない」
「今の何か変だった?」
「変じゃない。すごくよかった」
「分からない」
「そのうちね」
「またそれ?」
俺が苦笑すると、リビアも笑った。
階段を下り、正面玄関へ向かう。
今日、ライゼルの問題は解決しなかった。
会うかどうかも決めなかった。
正式な処分もまだ分からない。
シュザー家当主とライゼルの関係も、ライゼルがリビアの意思を本当に受け入れられるかも分からない。
分からないことはたくさん残っている。
それでも、学園長室へ入る前より少しだけ気持ちは軽かった。
全部を今日決めなくていいと分かったからだ。
謝罪を聞いても、許さなくていい。
会うと考えても、後でやめていい。
途中で無理だと思えば、席を立っていい。
俺が答えを出せなくても、誰かが困るわけではない。
正面玄関を出ると、夕方の風が頬へ触れた。
校門の向こうにはパウリー家の馬車が待っている。
そこへ向かおうとした時、隣から手が近づいた。
今度はリビアからだった。
俺はその手を見る。
「今日はリビアから?」
「嫌?」
「嫌じゃない」
俺は手を重ねる。
指が絡む。
歩き出してから、ふと思った。
「リビア」
「何?」
「俺、ライゼルに会うかどうかはまだ分からないけど」
「うん」
「もし会うなら、一個だけ言いたいこと分かったかも」
「何?」
俺は少し考え、言葉を選ぶ。
「リビアが言ったことを、まずそのまま聞いてほしいって」
リビアの指が少し強く俺の手を握った。
「俺が正しいとか、ライゼルが間違ってるとか、その前に。リビアが自分で決めたって言ってるなら、そこから話してほしい」
「……セス」
「俺も気をつけるから」
「何を?」
「リビアのこと、俺が分かってるつもりにならないように」
長い付き合いだ。
幼い頃から一緒にいる。
リビアの好きな食べ物も、苦手なものも、怒った時の顔も、機嫌がいい時の声も知っている。
でも、それで全部ではない。
今日の廊下で、リビアが怖いと感じていることを俺は聞くまで知らなかった。
なら、これからも聞けばいい。
「だから、リビアも俺が変なことしてたら言って」
「今までずっと言ってるわよ」
「確かに」
「特に自分を大事にしないところ」
「それも直してる途中」
「知ってる」
リビアは笑った。
夕方の風に銀青色の髪が揺れ、頬へかかった一房を空いている手で耳へかける。
「じゃあ私も、セスが何を考えてるか勝手に決めないようにする」
「うん」
「分からなかったら聞く」
「俺も聞く」
「約束?」
「約束」
それは、ライゼルのこととは直接関係のない約束だった。
けれど、今日学園長室へ来た意味は、もしかするとシュザー家からの返事を聞くだけではなかったのかもしれない。
相手のために何かをすることと、相手の気持ちを決めることは違う。
守ることと、代わりに選ぶことも違う。
俺はまだ、その違いを全部うまく説明出来るわけではない。
ただ、隣を歩くなら、たぶん聞けばいい。
何をしたいのか。
どう感じているのか。
分からなければ、勝手に答えを作らずに。
校門を抜け、馬車へ近づく。
今日も問題は解決していない。
それなのに、不思議とそれでいいと思えた。
次に分かるのは、シュザー家当主と学園側が話した後だ。
ライゼルに会うかどうかは、その時に考える。
俺は絡めたままのリビアの指を一度だけ握り返し、待っていた馬車へ二人で歩いていった。




