第20話 測定の翌日くらい普通に過ごせると思っていたのに、学園長室から呼び出しが来ました
第二魔術訓練場を出た時には、すでに校舎の窓を染めていた夕日の色がずいぶん濃くなっていた。
普段の下校時間からかなり遅れているせいで、廊下を歩く生徒の姿もほとんどない。遠くの訓練場から剣を打ち合わせる音が時折響き、開け放たれた窓から入ってくる風には、昼間よりもはっきりとした冷たさが混じっていた。
俺の右手は、リビアの左手と繋がっている。
人混みがあるわけではない。
危険があるわけでもない。
さっき俺から差し出して、リビアが取った。
それだけだった。
「セス」
「何?」
「疲れてない?」
「魔力は四。身体は一くらい」
「ちゃんと覚えてるのね」
「さっき測ったばっかりだし」
「そうじゃなくて、自分から数字で答えるようになったこと」
リビアは前を向いたまま、絡めた指を少しだけ動かした。褒められているらしいと気づき、俺は何となく繋いでいない方の手で頬を掻く。
「言わないと怒られるから」
「誰に?」
「リビアとグレイヴと先生たち」
「旦那様も入るわよ」
「多いな」
「それだけ心配されてるの」
「……分かってる」
前なら、そこで「心配しすぎ」と続けていたと思う。
今は口から出なかった。
測定中に身体疲労が一へ上がったことを申告した時、誰も大げさだとは言わなかった。エレナ先生は記録し、リビアは安心し、学園長はそこで測定を終える判断をした。
俺が疲れたと言うことは、迷惑ではない。
測定を止めることも、失敗ではない。
頭では分かり始めていた。
「それにしても」
階段を下りながら、俺は今日の記録を思い返した。
「続き、いつになるんだろ」
「もう考えてる」
「だって水と土と雷が残ってるし、持続安定性も複合魔術もやってない」
「明日じゃないって学園長先生が言ってたでしょう?」
「分かってるよ。いつかなって思っただけ」
「今夜、自分で試したりしない?」
「しない」
即答すると、リビアが横から俺の顔を覗き込んだ。
「本当に?」
「しないって。今日やった精度測定を家で再現しても、学園の測定板がないんだから意味ないだろ」
「そこ?」
「それだけじゃないよ」
思わず笑う。
「先生に休めって言われたし、グレイヴにも報告されるだろうし。それに、続きを楽しみにしてればいいかなって」
言葉にしてから、自分でも少し不思議になった。
昨日の馬車でリビアから教えてもらった考え方が、思ったより早く自分の中へ入っている。
分からないなら、今すぐ調べる。
出来るなら、今すぐ試す。
そうしなくてもいい。
「……セス」
「何?」
「本当に変わってきたわね」
「そんなに?」
「うん」
「前がひどかったみたいに聞こえる」
「ひどかったのよ」
「そこまで?」
「そこまで」
即答された。
少し納得いかないものの、否定する材料もあまりない。
正面玄関へ近づくと、遅くまで残っていたらしい数人の生徒とすれ違った。俺とリビアの繋いだ手へ一瞬視線が向けられたが、もう以前ほど大きな反応はされない。
それでも、一人の女子生徒が友人の袖を引いて何か囁き、二人でこちらを見ているのには気づいた。
「また見られてる」
「嫌?」
「別に」
「手、離す?」
リビアが少しだけ試すように尋ねてくる。
俺は繋いだ手を見る。
離す理由はない。
「このままでいい」
「……そう」
返事は短かった。
でも、リビアの口元は明らかに緩んでいた。
正門を出ると、いつもの場所にパウリー家の馬車が待っていた。
御者が俺たちに気づいて姿勢を正す。俺は自然にリビアの手を一度離し、先に馬車へ近づいて扉を開いた。
「どうぞ」
「そこは執事なのね」
「これは普通だろ?」
「ええ。別にやめてほしいとは言ってないわ」
リビアは差し出した俺の手を取って馬車へ乗る。
続いて俺も乗り込むと、彼女は向かいではなく隣へ座った。
「そっち?」
「嫌?」
「今日はそれ多いな」
「だって確認したくなるもの」
「嫌じゃないよ」
そう答えると、リビアは満足そうに身体を落ち着けた。
馬車が動き出す。
車輪が石畳を踏む一定の音を聞きながら、俺は窓の外へ視線を向けた。夕方の王都は仕事を終えた人々や買い物客でまだ賑わっていて、通り沿いの店には少しずつ灯りが入り始めている。
今日の測定で分かったことを、頭の中でもう一度並べてみる。
五属性の基礎出力は、どれも高い。
属性ごとの差が小さい。
基礎魔力を流し続けたまま、必要な場所で属性だけを切り替えている可能性が高い。
精度も高い。
方向制御も、途中までは同じ流れを使って、必要なところだけ変えている。
そして、その共通部分が乱された場合、複数の属性へ同時に影響が出る可能性がある。
最後の話だけは少し気になった。
強みと弱みは別々に存在するものだと思っていた。
けれど、同じ仕組みの表と裏なのかもしれない。
「考えてる?」
隣からリビアが聞いてくる。
「うん」
「何を?」
「今日言われた弱点の話」
「魔力の流れを乱されたら、全部に影響が出るかもしれないっていう?」
「そう」
「気になる?」
「かなり」
そこは正直に答える。
「でも、試さないよ」
「まだ何も言ってないわ」
「言いそうだったから」
「成長したわね」
「そこまで褒める?」
「褒める」
リビアは少し笑ったあと、窓の外へ目を向けた。
「私は、少し安心したけど」
「弱点があるかもしれないのに?」
「違うわ。セスが、自分にも弱点があるかもしれないって普通に受け入れてること」
俺は少し考えた。
「あるだろ、普通に」
「昔からそう思ってた?」
「……どうだろ」
自分を最強だと思ったことはない。
むしろ、自分は少し器用なだけだと思っていた。
だから弱点がないと思っていたわけでもない。
ただ。
「弱点があっても、自分で何とかすればいいと思ってたかも」
「やっぱり」
「でも今日のは、自分だけじゃ調べられないし」
「そこも大事よ」
「うん」
魔力干渉を受けた時にどうなるか。
知りたい。
けれど、俺一人で調べるには危険がある。
なら先生たちに任せる。
安全な方法を作ってもらう。
必要ならグレイヴや旦那様にも相談する。
以前なら遠回りに感じたかもしれない。
今は、それも一つの方法だと思える。
屋敷へ戻ると、予想通りグレイヴが待っていた。
昨日と同じように玄関へ立ち、俺たちの姿を見ると、まず制服、次に歩き方、最後に顔を確認する。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「ただいま戻りました」
「測定は?」
「途中まで」
グレイヴの眉が僅かに動いた。
「問題が?」
「違うよ。予定より細かく調べることになったから、今日は途中で終わった」
「疲労は?」
来た。
「魔力四、身体一。異常なし」
答えると、グレイヴが一瞬だけ黙った。
「何?」
「いえ」
「最近それ多くない?」
「お前が聞く前に正しく報告したので、少々驚いただけです」
「俺だって報告くらいするよ」
「以前は『問題ない』で終わっていました」
「……そうだったかも」
「そうでした」
リビアまで頷く。
二対一では勝てない。
「今日は魔術と訓練禁止って言われた」
「承知しています」
「やっぱり連絡来てる?」
「先ほど学園から簡単な報告が届きました。詳細は後日とのことです」
「早いな」
「お前が帰宅する前に知らせる必要があると判断されたのでしょう」
「俺が勝手に試さないように?」
「学園の意図までは存じません」
言いながら、グレイヴは否定しなかった。
「今日は本当にやらないって」
「なら結構です」
「仕事は?」
「禁止です」
「まだ聞き終わってない」
「聞かなくても分かります」
「課題は?」
「必要最低限」
「剣の手入れは?」
「明日にしなさい」
「部屋の――」
「セス」
「はい」
グレイヴの声が少し低くなった。
「昨日、休息について学んだのでは?」
「学んだ」
「では復習してください」
リビアが隣で笑った。
「休むことを復習するって変じゃない?」
「セスには必要です」
「俺もそう思うわ」
「二人ともひどい」
そう言いながらも、昨日ほど困らなかった。
何をすればいいか分からない、とは思わない。
部屋へ戻って着替える。
夕食まで少し座る。
窓の外を見る。
リビアと話してもいい。
何かをしなければならないわけではない。
「分かった。今日は休む」
「よろしい」
「じゃあリビア」
「何?」
「また茶飲む?」
リビアが目を丸くした。
「セスから誘うの?」
「昨日、悪くなかったから」
「……飲む」
返事が少し遅れた。
「何でそんな顔してるの?」
「嬉しいから」
「茶飲むだけだぞ?」
「セスから誘ってくれたことが嬉しいの」
「そういうもの?」
「そういうもの」
最近、この答えもよく聞く。
でも、以前ほど理解出来ないとは思わなくなった。
俺が自分から一緒に過ごしたいと思った。
それをリビアが喜ぶ。
たぶん、それだけでいいのだろう。
夕食までの時間は昨日と同じ裏庭で過ごした。
ただし、昨日と全く同じではなかった。
今日は俺から誘った。
それだけの違いなのに、リビアは昨日よりずっと機嫌がよく、使用人が運んできた茶を自分で淹れながら何度も笑っていた。
「今日は聞かないの?」
俺がカップを受け取りながら言う。
「何を?」
「リビアが淹れたからおいしいかって」
「聞いてほしいの?」
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあ聞かない」
「何か物足りないな」
口にした瞬間、リビアの手が止まった。
「セス」
「何?」
「今の、もう一回言って」
「何で?」
「いいから」
「何か物足りないって」
「……そう」
リビアはカップを口元へ運び、顔の下半分を隠した。
耳が赤い。
「何?」
「何でもない」
「絶対何かあるだろ」
「セスにはそのうち分かるわ」
「今日それ二回目だぞ」
学園でも言われた。
最近、本当にこればかりだ。
それでも、リビアが楽しそうなら悪くはない。
翌朝も、俺は訓練場へ行かなかった。
今日は測定がないのだから軽く剣を振るくらいなら問題ないかとも思ったが、昨夜グレイヴから「翌朝まで休息」と言われている。言われた以上、勝手に条件を変えるのは違うと思った。
朝食へ向かうと、先に席についていたリビアが俺を見る。
「おはよう、セス」
「おはよう」
「今朝は?」
「何もしてない」
「本当に?」
「何で毎回疑うんだよ」
「確認よ」
「剣も振ってないし、魔術も使ってない」
「えらい」
「だから子供みたいに褒めるなって」
そう言いながら、俺は昨日と同じようにリビアの隣へ座った。
向かい側の席も空いている。
以前なら、そこへ座っていたかもしれない。
今は特に考えず隣を選んだ。
朝食を終えて馬車へ乗り、学園へ向かう。
今日は学園五日目。
追加測定の続きはない。
シュザー家の件も、昨日までは新しい連絡がなかった。
なら今日は、本当に普通の授業だけで終わるかもしれない。
「今日こそ平和そうだな」
窓の外を見ながら言うと、リビアがこちらを見る。
「昨日も平和だったでしょう?」
「測定があった」
「事件じゃないわよ」
「でも普通の日ではなかっただろ」
「セスにとっての普通って何なの?」
「授業受けて、昼飯食べて、帰る」
「それが今日出来るといいわね」
「何で少し不安そうなんだよ」
「今までの実績」
「五日しかないだろ」
「その五日が濃すぎるのよ」
否定出来なかった。
学園へ到着すると、校門付近はいつも通り多くの生徒で賑わっていた。
俺たちが馬車を降りても、初日のように露骨に道が開くことはない。視線は向けられるが、そのまま挨拶をしてくる生徒も増えている。
「おはようございます、クルセス様、オリビア様」
「おはよう」
「おはようございます」
返事をしながら校舎へ向かう。
途中でイザークと合流した。
「おはよう。昨日、測定だったんだろ?」
「うん」
「どうだった?」
「途中まで」
「途中?」
「調べること増えた」
「お前の測定、絶対普通に終わらないと思ってた」
「何でみんなそう言うんだよ」
「今までの実績」
「リビアと同じこと言うな」
イザークが笑う。
「で、何が分かった?」
「五属性の出力差が小さいとか、属性を切り替える時に魔力そのものは流したままだとか」
「待て」
「何?」
「朝から聞くには重い」
「聞いたのイザークだろ」
「もっと『火が強かった』とか、そのくらいを想像してた」
「俺も測る前はそんな感じだと思ってた」
「本人までかよ」
話しながら教室へ入る。
ナナリーとミリアナもすぐに測定結果を聞きたがったが、詳しい説明は教師側の整理が終わってからの方がいいだろうと思い、分かった範囲だけを簡単に話した。
「それで、昨日はちゃんと休んだんですか?」
ナナリーに尋ねられる。
「休んだよ」
「魔術は?」
「使ってない」
「剣は?」
「振ってない」
「仕事は?」
「してない」
答えるたびに、ナナリーとミリアナの表情が驚きへ変わっていく。
「何でそんなに驚くの?」
「全部です」
「俺だって休めるよ」
「一昨日まで休み方が分からなかった人が?」
リビアが横から刺してくる。
「それ言うなよ」
「事実でしょう?」
「そうだけど」
近くで聞いていた生徒たちまで笑い始める。
以前なら、自分のことを笑われるのは少し居心地が悪かったかもしれない。
今は違う。
悪意がないと分かる。
俺も笑える。
午前の授業は予定通り始まった。
一限目は王国地理。
王国内を流れる主要河川と、そこから発展した都市について扱う内容だった。
昨日までの測定とは全く関係がない。
だからこそ新鮮だった。
大きな川の周辺では農業だけでなく輸送も発達する一方、氾濫への備えが必要になる。橋や港の位置一つで町の成長が変わり、街道と水運が交わる場所には市場が生まれやすい。
俺は地図を見ながら、昨日の法学で扱った橋の話まで思い出していた。
授業が進むにつれ、教師が黒板へ王都から東部へ伸びる物流路を書き込んでいく。
「この地域で大雨が続き、主要橋梁が十日間使えなくなったとする。最も早く影響が出るものは何か」
何人かが手を挙げる。
穀物価格。
木材。
郵便。
軍の移動。
答えは一つではない。
まただ。
条件がある。
その中で考える。
気づけば俺も手を挙げていた。
「クルセス」
「はい。橋の位置によると思います。代わりの渡河地点が近くにあるなら物流量が落ちるだけで済むかもしれません。でも、迂回路が遠いなら、腐りやすい食料の方が先に影響が大きくなると思います」
「では、冬季なら?」
「保存食は増えるけど、迂回路が雪で使えない可能性があります。だから橋一つの問題じゃなくて、季節ごとの代替路まで見ないと判断出来ないです」
教師が頷いた。
「その通りだ。地理とは土地の名前を覚える学問ではない。人がその土地でどう暮らし、何を運び、何に困るかまで含めて考えるものだ」
俺は教科書の地図へ視線を戻した。
面白い。
またそう思った。
授業が終わった後、イザークが呆れたように俺の机へ肘をつく。
「お前、完全にこういうの好きだろ」
「うん」
「認めるの早くなったな」
「昨日分かったから」
「剣と魔術だけの奴だと思ってた」
「俺も学園来るまでは、こういうのが好きだと思ってなかった」
「将来、領地経営でもするのか?」
「しないよ」
「伯爵家の養子だろ?」
「グレイヴがいるし」
「いや、そういう問題か?」
俺にはよく分からない。
俺はパウリー家の執事になるつもりで育ってきた。
今も、その気持ちがなくなったわけではない。
ただ、婚約者という立場が加わった。
学園へ来て、知らなかったことを知るのが楽しいとも思い始めた。
将来のことを考える時、以前より選択肢が増えている気はする。
「セス」
リビアが近づいてくる。
「難しい顔してる」
「将来何するのかなって」
「急ね」
「イザークが領地経営するのかって」
「ああ」
リビアは納得したように頷いた。
「今決めなくてもいいんじゃない?」
「執事になるのは決めてるよ」
「それは知ってるわ」
「じゃあ――」
「でも、執事しかしてはいけないわけじゃないでしょう?」
俺は少し黙った。
「セスが執事でいたいなら、私は止めないわ。むしろセスが執事の仕事を好きなのも知ってる。でも、それ以外に好きなことを見つけたからって、どちらかを捨てなくてもいいと思う」
「両方?」
「三つでも四つでも」
「そんなに出来るかな」
「セスがそれを言うの?」
イザークが吹き出した。
「五属性使って剣も振って執事もやってる奴が?」
「それとこれは別だろ」
「同じだと思うぞ」
リビアまで笑っている。
でも。
少しだけ、覚えておこうと思った。
何か一つを選んだら、それ以外を捨てなければならないとは限らない。
執事でいること。
リビアの婚約者でいること。
学ぶこと。
好きなことを増やすこと。
全部が同時に存在してもいい。
午前の残りも穏やかに過ぎた。
二限目の基礎剣術では、昨日の測定後ということで俺だけ負荷を抑えるよう教師から指示された。イザークが少し残念そうだったが、今日は足運びと基本姿勢の確認だけに留める。
以前なら「これくらいなら問題ない」と通常通り参加しようとしたかもしれない。
今日は言われた通りにした。
身体疲労はもうほとんど残っていない。
それでも、教師がそう判断したのなら従う。
「クルセス、今日は随分大人しいな」
剣術教師に言われる。
「指示通りです」
「いいことだ」
「そんなに意外ですか?」
「お前の初日の試合を見た後だからな」
「あれはイザークが――」
「俺のせいにするな」
隣から飛んできた。
笑いが起きる。
今日も普通だ。
昼休みの鐘が鳴った。
俺が剣を戻して教室へ戻ると、リビアはすでに昼食の入った包みを持って待っていた。
目が合う。
彼女が笑う。
「セス」
「うん」
「行きましょう」
「東棟の裏庭?」
「約束したでしょう?」
「覚えてるよ」
今日は俺も最初から自分の昼食を持つ。
ナナリーたちへ断る必要もない。
昨日すでに、今日も二人で食べると言ってある。
「また二人か」
アルフォルド殿下が分かりやすく不満そうな声を出した。
「昨日言ったじゃないですか」
「聞いてはいた」
「ならいいでしょう」
「聞いたことと納得することは別だ」
「殿下、今日も諦めましょう」
サザリー様が静かに止める。
「婚約者同士の昼食へ毎日割り込もうとする第一王子、という評判はあまり好ましくありません」
「毎日ではない」
「二日連続です」
「……カイゼルは何も言わないのか?」
「僕?」
カイゼル殿下は楽しそうに笑った。
「今日は見送るよ。昨日よりセスの方が行く気満々だから」
「俺?」
「気づいてない?」
「何がです?」
「昨日はオリビアに連れていかれる感じだったけど、今日はもう自分で荷物持って立ってる」
言われて、自分の手を見る。
確かにそうだった。
昼休みになった瞬間、リビアに呼ばれる前から昼食を持つ準備をしていた。
「……約束してたから」
「うんうん」
「何ですか、その顔」
「別に」
カイゼル殿下は明らかに面白がっている。
リビアはもっと分かりやすく嬉しそうだった。
「行こう、リビア」
「ええ」
今度は俺から声をかける。
教室を出て、昨日と同じ東棟へ向かった。
裏庭には誰もいなかった。
木漏れ日が芝生へ落ち、昨日座った場所にも柔らかな影が広がっている。風が少し強く、枝葉が揺れるたびに光の形がゆっくり変わっていた。
昨日と同じ場所。
でも、昨日ほど特別な場所には感じない。
悪い意味ではない。
ここで二人で食べることが、もう少し自然になったのだと思う。
「今日は何持ってきた?」
俺が聞くと、リビアが包みを開いた。
「昨日言ってた焼き菓子。それと、小さいサンドイッチ」
「俺は果物増やしてもらった」
「本当に?」
「昨日リビアが甘いの増やすって言ってたから」
「覚えてたのね」
「そりゃ覚えてるよ」
並んで腰を下ろす。
今日は食べさせ合ったりはしない。
普通に自分で食べる。
それでも、昨日より距離は近かった。
肩が時々触れる。
触れても、どちらも離れない。
「昨日の測定、楽しかった?」
サンドイッチを一つ食べたところで、リビアが聞く。
「楽しかった」
「疲れたのに?」
「疲れたのと楽しかったのは別だろ」
「それ、いいわね」
「何が?」
「前のセスなら、疲れてるって認めたら楽しくなかったことになるみたいに考えそうだったから」
「そんなことない……と思うけど」
「怪しい」
否定しきれない。
「でも昨日は、疲れたし、途中で終わったし、失敗もした。でも楽しかった」
「うん」
「続きも楽しみ」
「それならよかった」
リビアは満足そうに頷いた。
俺は果物を一つ口へ入れ、木々の隙間から見える空を眺める。
昨日の測定。
今日の授業。
将来の話。
学園へ来てから、知らなかった自分のことばかり見つかっている。
「学園って、自分のこと知る場所でもあるんだな」
「急にどうしたの?」
「何となく」
「セスが何となくでそんなこと言うの珍しいわね」
「そう?」
「うん」
リビアが少し身体を寄せる。
「でも、私も嬉しい」
「何で?」
「セスが学園を楽しいと思ってくれてるから」
「リビアが行きたいって言ったんだもんな」
「そうよ」
「最初は必要あるのかなって思ってた」
「知ってる」
「今は、来てよかったと思う」
言い切ると、リビアはすぐには返事をしなかった。
横を見る。
目が合う。
彼女は少しだけ泣きそうな顔で笑っていた。
「何でそんな顔するんだよ」
「嬉しいから」
「そんなに?」
「私、セスと一緒に学園へ通いたかったの。授業を受けたり、友達と話したり、お昼を食べたり、そういう普通のことを一緒にしたかった」
「うん」
「だから、セス自身がここへ来てよかったって思ってくれるのが、一番嬉しい」
胸の奥が温かくなる。
俺は少し考えたあと、リビアの隣に置かれていた手へ自分の手を重ねた。
彼女が驚いてこちらを見る。
「セス?」
「……何となく」
「また?」
「今度は、繋ぎたいって分かってる」
自分で言ってから、少し恥ずかしくなった。
けれど、手は離さなかった。
リビアの表情がゆっくり崩れる。
「じゃあ、繋いで」
「うん」
指を絡める。
昨日より自然だった。
何のためか聞かれても、今日は答えられる。
一緒にいたい。
触れていたい。
その理由が恋なのかと聞かれたら、まだ分からない。
でも、分からない部分があるからといって、分かっている部分まで否定しなくていい。
昼休みは、そのまま穏やかに過ぎていった。
午後も普通に授業を受ける。
今日こそ何も起きない。
そう思っていた。
最後から二つ目の授業が終わり、教科書を入れ替えていた時だった。
教室の扉が開く。
入ってきたのはレイモンド先生だった。
俺は思わず手を止めた。
「……何か嫌な予感する」
隣でイザークが小さく笑う。
「お前、本当に何かあるな」
「まだ俺って決まってないだろ」
そう言った直後、レイモンド先生と目が合った。
「クルセス」
「はい」
「放課後、学園長室へ来てくれ」
「やっぱり俺だった」
教室の何人かが笑う。
ただ、レイモンド先生の表情はいつもの落ち着いたものだった。
「何の件ですか?」
俺が尋ねると、先生は一瞬だけ周囲を確認してから答えた。
「シュザー家から、改めて連絡があった」
教室の空気が変わった。
さっきまでの笑いが静まり、俺の隣ではリビアの表情が引き締まる。
「ライゼルのことですか?」
「ああ」
「何かあったんですか?」
「事件が起きたわけではない。先にそれだけは言っておく」
その一言で、少し肩の力が抜けた。
「では?」
「シュザー家当主から、学園側の条件を受け入れるという正式な返答が届いた」
俺は数日前の話を思い出す。
シュザー家へ俺が出向くのではなく、必要なら学園内で、教師たちが立ち会う。
ライゼルの状態を確認したうえで。
俺に会う義務はない。
「学園で会うって話ですか?」
「その件だ。ただし、今日すぐに会うわけではない」
「分かりました」
「オリビア嬢も一緒に来てほしい。彼女の立ち会いについても話す」
リビアがすぐに頷く。
「承知しました」
レイモンド先生はそれだけ伝えると、次の授業の邪魔をしないよう教室を出ていった。
扉が閉じる。
周囲の視線が俺たちへ集まる。
「大丈夫?」
ナナリーが小さく聞く。
「まだ話を聞くだけだから」
「でも」
「大丈夫、じゃなくて」
口にしてから、一度止めた。
今までなら、反射的に大丈夫だと言っていた。
まだ何も聞いていないのだから、本当に大丈夫かどうかは分からない。
「……話を聞いてから考える」
言い直す。
ナナリーが少し驚いたあと、頷いた。
「はい。その方がいいと思います」
リビアも俺を見ていた。
「セス」
「何?」
「私もいるから」
「うん」
その言葉も、以前とは違って聞こえる。
俺が守らなければならないリビアがいる。
それだけではない。
俺と一緒に考えてくれるリビアがいる。
「一緒に聞こう」
「ええ」
最後の授業が始まった。
シュザー家から何が届いたのか。
ライゼルが今どういう状態なのか。
俺と会って何を話したいのか。
気にならないわけではない。
けれど、授業中に考えても答えは出ない。
だから俺は教科書を開いた。
今は授業。
終わったら学園長室。
一つずつでいい。
昨日まで何度も自分へ言い聞かせた言葉を、今日は少しだけ自然に思える。
やがて最後の鐘が鳴った。
俺は教科書を閉じ、鞄へしまう。
立ち上がると、リビアも隣で支度を終えていた。
「行こうか」
「うん」
俺たちは並んで教室を出た。
学園長室へ向かう廊下は、初日に呼び出された時と同じはずだった。
けれど、あの時とは俺自身が少し違う。
何でも自分だけで片づける必要はない。
相手が何を言うか分からないうちから、全部の答えを用意する必要もない。
俺の隣にはリビアがいる。
学園長室には先生たちもいる。
まず話を聞く。
それから考える。
そう決めて歩いていると、隣から指先が触れた。
見ると、リビアがこちらを見ている。
俺は少しだけ迷い、それから自分からその手を取った。
「セス?」
「一緒に聞くんだろ?」
「……うん」
リビアが指を絡める。
夕方の廊下を、二人で歩く。
測定の続きは、まだ先でいい。
俺の魔術にも、俺自身にも、分からないことはたくさん残っている。
そして今度は、数日前から止まっていた問題が少しだけ動き始めようとしている。
それでも、全部を一度に考える必要はない。
まずは学園長室へ行く。
シュザー家から届いた返事を聞く。
その先で何をするかは、それから決めればいい。
俺はリビアの手の温かさを確かめながら、廊下の先に見えてきた学園長室の扉へ向かって歩いていった。




