第19話 小さな穴へ魔力を通すだけなのに、測定方法を途中で変える必要がありますか
測定区域の中央へ戻ると、先ほどまで五つの属性結晶が置かれていた台の手前に、小さな円盤が固定されていた。
手のひらほどの大きさしかない円盤には細かな同心円が幾重にも刻まれ、その中心には針を通すためのものとしか思えないほど小さな穴が開いている。背後には透明な受光板のようなものまで設置されていて、俺が正面へ立つと、エレナ先生が円盤の位置をもう一度確認した。
「まず説明するわね。今から測るのは、属性魔力をどれだけ細く、正確に送り込めるか。攻撃魔術を撃つわけではないから、出力は最低限に抑えること」
「中心の穴を通せばいいんですよね?」
「最初はそう。ただし、穴へ当てるだけでは駄目よ。円盤そのものへ触れないように、中心だけを通して後ろの測定板まで届かせる」
俺は円盤へ顔を近づけた。
穴は本当に小さい。けれど、距離はそれほど離れていないし、魔力を細く絞るだけなら難しくはなさそうだった。
「近づきすぎ」
背後からリビアの声が飛んでくる。
「あ、ごめん」
「円盤にぶつかるわよ」
「そこまでは近づいてないって」
「セスの場合、測定器の方へ夢中になりそうだから言ってるの」
見学区域からそんな心配をされ、俺は素直に一歩下がった。エレナ先生が小さく笑いながら、床へ引かれた線を靴先で示す。
「立つ位置はここ。円盤まで三メートル。まずは火属性から始めるわ」
「分かりました」
「それと、さっきまでの切り替え測定とは違って、今回は一回ごとに止める。こちらが記録を確認してから次へ進むから、勝手に連続でやらないこと」
「はい」
「返事が早くなったわね」
「何回も言われましたから」
「学習してくれて何よりよ」
少し離れた机では、ハロルド先生とセレナ先生が測定板の調整を続けている。ベルナルト先生は記録用紙を手にしたまま円盤と俺を交互に見ていて、学園長は測定区域全体を見渡せる位置へ立っていた。
俺は右手を上げ、中心の穴へ意識を向ける。
「開始」
エレナ先生の合図に合わせて魔力を流した。
必要なのは炎を作ることではない。火属性へ変換した魔力を、そのまま細く整える。
普段なら術式へ流し込んで炎や火球の形へするところを、その一歩手前で止める。右手の先から細い糸を伸ばすような感覚で魔力を絞り、円盤中央の穴へ向けた。
赤い光が一本の線となって伸びる。
穴を通る。
背後の測定板へ届いた。
「止めて」
すぐに魔力を切る。
「これでいいですか?」
「そのまま待って」
言われた通り手を下ろす。
セレナ先生が測定板へ近づき、中央へ残った赤い光点を確認した。ハロルド先生も隣から記録を見ている。
「円盤への接触なし」
「中心偏差……ほぼ測定誤差内です」
「流量は?」
「指定範囲内。揺らぎも小さいですね」
先生たちの言葉を聞きながら、俺は少し首を傾げた。
「普通じゃないんですか?」
「まだ一回よ」
エレナ先生に言われた。
「そうでした」
「次、水」
「はい」
同じことをする。
火属性を止め、基礎魔力から水属性へ変換する。青い光を細く絞り、同じ穴へ通す。
これも問題なく通った。
次は風。
土。
雷。
一属性ごとに止め、先生たちが記録を確認してから次へ進む。
雷属性だけは光が少し強く見えたが、出力自体は指定された範囲を越えていないらしい。五属性目を終えたところで、俺は右手を下ろした。
「終わりました」
「ええ」
エレナ先生は答えたものの、すぐに次の指示を出さなかった。
また先生たちが集まっている。
今日はこの時間が多い。
俺としては言われた通りに魔力を通しているだけなのだが、一つ終わるたびに先生たちが記録を見ながら話し合うので、自分が何か間違えているのではないかと少し心配になる。
けれど、勝手に近づいて覗き込むのはやめた。
「先生」
「何?」
「見に行っていいですか?」
エレナ先生が一瞬だけ黙った。
「……いいわよ」
「何で今、ちょっと驚いたんです?」
「聞いてから動いたから」
「さっきも聞きましたよ」
「だから感心してるの」
「俺、そんなに勝手に動いてました?」
「少なくとも興味を持った時のあなたはね」
否定しようとして、昨日までの自分を考える。
測定器が気になれば近づく。
魔術が気になれば試す。
剣の型を思いつけば振ってみる。
確かに、誰かへ聞くより先に動くことは多かった。
「……気をつけます」
「今出来ているなら十分よ」
許可をもらって机の近くまで行く。
リビアも見学区域の端まで移動したが、決められた線から先へは出てこなかった。俺が記録板を覗くと、そこには五本の線が重ねて描かれている。
赤、青、緑、茶、紫白。
ほとんど同じ位置を通っていた。
「これ、重なってるんですか?」
「そうだよ」
ベルナルト先生が答える。
「五属性それぞれの軌道を重ねて表示している」
「少しずれてますね」
「ずれている」
「なら普通じゃないですか?」
俺が言うと、ベルナルト先生が額へ手を当てた。
「クルセス君。君は今、この距離から針穴ほどの中心へ五属性すべてを通して、その着弾位置が測定誤差とほぼ同じ範囲に収まっている記録を見て、『少しずれているから普通』と言ったんだよ」
「でも同じ場所じゃないですよね?」
「人間がやっているんだから当然だ」
「先生ならもっと正確に出来ません?」
「属性を一つ選んでいいなら、私より精度の高い教師もいるだろう」
「五属性だと?」
「まず五属性すべてを実用水準で扱える人間を連れてくるところから始めないといけない」
「ああ」
「今ので分かった?」
「比較する人が少ないってことは」
「そこからか」
ベルナルト先生が深く息を吐き、横でエレナ先生が笑いを堪えている。
俺としては真面目に考えている。
五属性すべてを使える人が少ないのなら、五属性の精度が同じということ自体を比較しづらい。だから俺の結果がどれくらい珍しいのか、単純な順位には出来ないのだろう。
「ただね」
ベルナルト先生が記録へ指を置いた。
「私が興味を持っているのは、単純な命中精度だけじゃない」
「また変換点ですか?」
「話が早くなったね」
「昨日から何回も聞いてるので」
先生は赤と青の線を指でなぞった。
「普通は得意属性ほど制御しやすい。逆に、適性があっても経験の浅い属性や相性の悪い属性では、出力だけでなく細かな制御にも差が出る。君の場合、その差が非常に小さい」
「五つとも同じように使ってるからじゃないですか?」
「それが出来る理由を調べているんだよ」
「なるほど」
鶏と卵みたいな話になってきた。
俺が五つとも同じように使うから結果が同じなのか、五つとも同じように扱える仕組みがあるから同じように使えるのか。
「グレイヴから、属性ごとに違う使い方を習わなかったの?」
エレナ先生に尋ねられ、俺は昔のことを思い出した。
「魔術そのものは違います。火なら燃やす、水なら流す、土なら形を保つとか。術式も違うし、出した後の扱い方も違います」
「変換する時は?」
「同じです」
「具体的には?」
言葉にしようとして、少し困った。
自分にとってはずっと感覚でやってきたことだ。
「魔力を流して、使う直前で変えるだけです」
「その『変える』を聞きたいの」
「えっと……」
俺は右手を開き、自分の手のひらを見た。
「火にしたいなら火にする。水なら水にする」
「それでは説明になってないわね」
「ですよね」
自分でもそう思う。
少し考え、昔グレイヴに教えられた時のことを思い返す。
「グレイヴには、最初から属性を持たせたまま身体の中を流すなって言われました」
ベルナルト先生の表情が変わった。
「続けて」
「火なら火の魔力を身体の中から作るんじゃなくて、魔力は魔力のまま流す。術式に入れる直前で必要な属性へ変えろって」
「何歳の時に?」
「最初に魔術を習った頃だから……六歳くらい?」
「六歳」
「たぶん」
「それを六歳児へ教えたのか」
ベルナルト先生が何とも言えない顔になる。
「難しいんですか?」
「教える内容としてはかなり理論寄りだね」
「でもグレイヴ、理論の説明はほとんどしてないですよ」
「どう教えられた?」
「水を汲んでくる時、廊下に全部撒きながら運ばないだろうって」
数秒、誰も喋らなかった。
「……それだけ?」
エレナ先生が尋ねる。
「あと、必要な場所まで桶で運んで、そこで使えって」
「それで理解したの?」
「分かりやすくないですか?」
「セスには分かりやすかったのね」
見学区域からリビアが苦笑している。
俺には今でも分かりやすい。
魔力は桶に入った水だ。
火属性にするなら、使う場所へ持っていってから火へ変える。最初から全部を火にして身体の中を運ぶ必要はない。
「その教え方自体は興味深い」
ベルナルト先生が呟く。
「だが、説明を聞いて理解することと、実際に魔力経路をそう構築出来ることは別だ。しかも六歳からそれを基準にしていたなら……」
「俺、変な癖ついてます?」
「逆だよ。あまりにも整理されすぎている可能性がある」
「整理されすぎ?」
「君の中では、魔力を流す経路と、属性へ変換する場所が明確に分かれているのかもしれない。だから属性が変わっても、その前段階の制御がほとんど変わらない」
ベルナルト先生は記録板の五本の線を示す。
「火を使う時も水を使う時も、君が変えているのは最後の部分だけだ。それ以前の魔力操作が共通なら、五属性で精度差が小さいことにも説明がつく」
「でも、術式は違いますよ?」
「もちろん。だから全部同じではない。変換後の術式操作や、発動後の性質制御には属性ごとの差があるはずだ」
「じゃあ、そこを測ればいいんじゃないですか?」
思いついたことをそのまま口にすると、ベルナルト先生が笑った。
「その通り」
「やっぱり」
「ただし今日全部はやらない」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
エレナ先生まで頷いた。
「書いてあるわね」
「リビア?」
助けを求めるように見ると、リビアも頷いた。
「書いてある」
「そんなに?」
「『じゃあ五属性全部の術式精度も測ろう』って顔してる」
「……ちょっと思った」
「ほら」
全員に読まれていた。
俺は少し恥ずかしくなりながら測定位置へ戻る。
「次はどうするんですか?」
「今度は円盤の位置を変える」
エレナ先生が答えた。
「さっきは正面の固定位置だったでしょう? 次は左右と上下へ少しずつ動かす。あなたは身体の位置を変えず、魔力の軌道だけを調整して中心を通す」
「分かりました」
「属性は火だけ」
「五つじゃなくて?」
「火だけ」
「比較しなくていいんですか?」
「まず一属性で基礎的な空間制御を見るの。何でも五つやろうとしない」
「はい」
そこまで言われれば従うしかない。
円盤が正面から少し右へ動かされる。
距離は同じ三メートル。中心位置だけがずれた。
「身体の向きは変えないで」
「手は?」
「正面へ向けたまま」
「魔力だけ曲げるんですね」
「そう」
俺は右手を正面へ向ける。
「開始」
火属性へ変換した細い魔力を伸ばす。
正面へ出たところで、軌道だけを右へずらす。
円盤の穴を通り、後ろの板へ届いた。
「止めて」
魔力を切る。
「次、左」
円盤が移動する。
同じように通す。
上。
下。
斜め右上。
左下。
位置が変わるたび、魔力の線を曲げる。
剣で言えば、腕そのものを振るのではなく、刃先だけを狙った場所へ運ぶような感覚に近い。
「一度休止」
六回ほど終えたところで止められた。
「疲労は?」
「三のままです」
「本当に?」
「さっきから増えてない感じです。使ってる量が少ないので」
「身体は?」
「ゼロ。違和感もないです」
「了解」
エレナ先生が記録する。
セレナ先生は測定板を見ていたが、しばらくするとハロルド先生へ何かを見せた。二人がベルナルト先生を呼び、また三人で話し始める。
「またですか?」
思わず言ってしまった。
「まただね」
ベルナルト先生が笑う。
「俺、ちゃんとやってますよね?」
「むしろ、ちゃんとやりすぎているから相談している」
「ちゃんとやりすぎるって何ですか」
「測定では時々あることだよ」
意味が分からない。
俺が首を傾げていると、エレナ先生が記録板を持ってきた。
「軌道を曲げる時、どうしてる?」
「どうって?」
「さっきと同じ。身体の中で何をしているか説明してみて」
「魔力を前へ出して、必要なところで曲げてます」
「そのままね」
「そのままです」
「出した瞬間から右へ向けようとはしない?」
「しません。正面へ出せって言われたので」
先生が少し考える。
「つまり、指定された位置までは直進させて、その後だけ方向を変えている?」
「はい」
「曲げる位置は?」
「毎回同じにした方が測りやすいと思って」
「誰かにそう指示された?」
「されてないですけど、条件が変わったら比較しにくくないですか?」
また静かになった。
「何ですか?」
「いや」
学園長が額へ手を当てる。
「クルセス。お前は測定される側だ」
「はい」
「測定方法まで勝手に最適化する必要はない」
「でも、条件を揃えた方がいいですよね?」
「その考え自体は正しい」
「じゃあいいんじゃ?」
「だから扱いが難しいんだ」
何だか理不尽な気がする。
見学区域でリビアが肩を震わせている。
「笑ってる?」
「少し」
「何で?」
「セスらしいなと思って」
どういう意味なのか聞きたかったが、その前にベルナルト先生が記録を見せてくれた。
「君が曲げた六本の軌道だ」
透明な板には六本の赤い線が描かれていた。
途中まではほとんど一本に重なっている。
ある一点から、それぞれ別方向へ枝分かれしていた。
「綺麗ですね」
「そうだね。綺麗すぎる」
「またそれですか」
「君は属性変換だけじゃなく、方向制御でも操作を分けている」
「普通は分けないんですか?」
「分けること自体は珍しくない。ただ、ここまで明確に同じ地点を基準にする学生は少ない」
先生の指が、六本の線が分かれる場所を示す。
「君は何をするにしても、一つの流れを途中まで共通化して、必要な場所だけ変えているように見える」
「……それって悪いんですか?」
「悪くない。むしろ制御としては非常に合理的だ」
「じゃあよかった」
「ただし」
また来た。
「何ですか?」
「合理的すぎる制御には弱点が生まれる可能性もある」
俺は少し姿勢を正した。
今まで先生たちは、俺の結果を珍しいとか安定しているとは言っても、弱点の可能性についてはあまり触れていなかった。
「どんな弱点ですか?」
「まだ仮説だ」
ベルナルト先生の声から、さっきまでの楽しそうな響きが少し薄れた。
「君は共通の魔力流路を作り、必要な場所で属性、方向、術式を変えている可能性が高い。なら、その共通部分を乱された時、複数の能力が同時に影響を受けるかもしれない」
「一か所が壊れたら全部駄目になるってことですか?」
「そこまで単純ではない。ただ、例えば魔力流そのものを乱す干渉を受けた時、火だけが使えなくなるのではなく、五属性すべての切り替え精度が同時に落ちる可能性はある」
俺は自分の右手を見る。
考えたことがなかった。
五属性を使えることは、選択肢が多いという意味では強みだと思っていた。火が駄目なら水、水が不利なら雷と、状況に合わせて変えられる。
けれど、その全部が同じ根元から伸びているなら、根元を乱された時にはまとめて影響を受ける。
「それ、どうやって調べます?」
すぐに聞くと、エレナ先生が先に答えた。
「今日は調べない」
「まだ方法も聞いてないです」
「聞いたらやりたくなるでしょう?」
「……なるかもしれません」
「だから今日はやらない」
きっぱり言われた。
「魔力干渉を意図的に与える試験は、今の追加測定の範囲を越えるわ。安全条件を作り、保護者への説明も必要になる」
「グレイヴにも?」
「当然」
「絶対止めそう」
「止めるべき条件なら止めてもらいます」
それはそうだ。
俺は少し残念に思いながらも頷いた。
「分かりました」
学園長がこちらを見る。
「気になるか?」
「気になります」
「怖くはないのか?」
「弱点があるなら知っておきたいです。知らないままの方が怖いと思うので」
「なるほど」
「でも、今日はやらないです」
自分から付け加えると、学園長の表情がわずかに和らいだ。
「それでいい」
褒められるほどのことなのかと思ったが、昨日までの俺ならどうだっただろう。
安全な範囲なら少しだけ。
そう考えて、先生へ試験方法を聞き続けていたかもしれない。
知りたい気持ちは今もある。
でも、知らないまま今日を終えてもいい。
必要なら後で調べられる。
その考え方が少しずつ自分の中へ馴染んできていた。
「では、精度測定を続けるわ」
エレナ先生が話を戻す。
「次は風属性。同じ六方向」
「はい」
「その後、疲労を見て水まで行うか決める。土と雷は明日以降へ回す可能性があるわ」
「全部今日じゃないんですね」
「今の時点で、予定より細かい測定へ入っているからね」
ベルナルト先生が記録を持ち上げる。
「切り替え測定だけで、当初想定より確認項目が増えた。急いで五属性全部を消化するより、一つずつ意味のある記録を取った方がいい」
「分かりました」
今度は素直に納得出来た。
円盤が正面へ戻される。
俺は風属性へ切り替え、同じように細い魔力を伸ばした。
右。
左。
上。
下。
斜め。
一回ごとに止める。
確認を待つ。
次の指示を聞く。
それを繰り返した。
最初の頃は待ち時間が少し長く感じていたが、今は先生たちが何を見ているのか分かってきたせいか、退屈しない。自分では同じようにやったつもりでも、記録ではわずかな違いが出ることもあり、その理由を考えるのも面白かった。
風属性の四回目、左下へ曲げた時だけ、他より軌道がほんの少し外へ膨らんだ。
「今の、ずれました?」
俺から尋ねる。
「気づいた?」
「少しだけ感覚が違いました」
「原因は分かる?」
「たぶん、曲げる時に風属性の性質まで使おうとしました」
「詳しく」
「細い魔力のまま曲げればいいのに、無意識に風の流れみたいに扱ったんだと思います。だから曲がる前に少し広がった」
ベルナルト先生がすぐに記録へ書き込む。
「面白い」
「失敗ですよ?」
「失敗だから情報になるんだよ」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
今日だけで何度聞いただろう。
でも、少し分かる。
成功した時だけでは、自分が何をしているか分からない。ずれた時に何が変わったのかを見れば、普段無意識にやっている操作が見える。
「もう一回同じ方向やります?」
尋ねると、エレナ先生が頷いた。
「一回だけ。今度は修正しようとしすぎないで、いつも通りに」
「はい」
同じ方向。
今度は風として流そうとせず、属性魔力の糸として扱う。
赤い線ではなく、淡い緑の線が途中まで真っ直ぐ進み、同じ地点から左下へ曲がった。
「今度は?」
「基準内」
「よかった」
小さな成功なのに、妙に嬉しい。
見学区域を見ると、リビアも笑っていた。
俺が上手く出来たことを、俺より嬉しそうに見ている。
それを見ると、また胸が少し温かくなる。
精度測定はそのまま続いた。
風属性を終えた時点で魔力疲労を確認すると、自己申告は四。身体疲労は一にも届かず、頭痛や痺れもない。
それでもエレナ先生は水属性へ進まず、いったん長めの休憩を取ると決めた。
「まだ出来ますよ」
「知ってる」
「なら――」
「出来ることと、今やる必要があることは別」
ナナリーにまで言われた言葉が、今度は先生から飛んできた。
「……最近、それよく言われます」
「大事だからよ」
「はい」
反論せず椅子へ向かう。
リビアが隣の席を軽く叩いた。
「ここ」
「そこ座るよ」
腰を下ろすと、思っていたより脚から力が抜けた。疲れているほどではないが、長い時間集中していたせいか、座った瞬間に身体が休息を求めていたことが分かる。
「身体、ゼロじゃなかったでしょう?」
リビアがすぐに気づく。
「さっき一未満って言ったよ」
「今は?」
少し考える。
「一くらい」
「先生」
「自分で言うから」
リビアが呼ぶ前に俺からエレナ先生へ声をかけた。
「身体疲労、一に上げます。座ったら少し力が抜けたので」
「了解。魔力は四のまま?」
「はい」
「水属性は休憩後の状態を見て判断するわ」
「分かりました」
エレナ先生が記録へ書き込む。
以前なら、この程度は疲労に数えなかったと思う。
立てる。
歩ける。
戦える。
なら問題ない。
ずっとそう考えていた。
でも、今は測定だ。
戦う必要はない。
無理をして続ける理由もない。
「ちゃんと言えたわね」
隣でリビアが嬉しそうに言う。
「うん」
「えらい」
「子供みたいに言うなよ」
「でも嬉しいもの」
「それならいいけど」
少し恥ずかしかったが、悪い気はしなかった。
水を飲み、背もたれへ身体を預ける。
測定区域では先生たちが今日の記録を並べ始めていた。
最初の五属性出力。
切り替え速度。
属性遷移。
火属性の精度。
風属性の精度。
予定では持続安定性と複合魔術まで行うはずだったが、この様子ではそこまで進まないかもしれない。
「セス」
「何?」
「残念?」
「何が?」
「今日、全部出来ないかもしれないこと」
リビアに聞かれ、俺は測定区域を眺めながら考えた。
やりたい。
続きも知りたい。
持続させたらどうなるのかも、複合魔術を先生たちがどう評価するのかも気になる。
けれど、不思議と焦ってはいなかった。
「ちょっとは残念」
「うん」
「でも、続きがあるならいいかな」
リビアがこちらを見る。
「前なら?」
「全部やりたいって言ってたと思う」
「今日中に?」
「たぶん」
「疲れてても?」
「動けるなら」
「それよ」
「分かってる」
俺は苦笑した。
「今は、明日でもいいって思ってる」
「……そっか」
リビアの声が柔らかくなる。
昨日、休むということを少し覚えた。
今日、待つことを覚え始めた。
何でもすぐに終わらせなくてもいい。
知りたいことを残したままでも、明日は来る。
「それに」
「それに?」
「今日だけでも結構面白かったから」
「やっぱり楽しいのね」
「うん」
俺は素直に頷いた。
自分のことを調べているのに、知らない魔術を学んでいるような感覚がある。
俺はずっと五属性を使えていた。
切り替えも出来た。
狙った場所へ魔力を通すことも出来た。
でも、どうして出来るのかは知らなかった。
グレイヴから教えられた方法を当たり前のものとして覚え、それを繰り返してきただけだ。
今は先生たちが一つずつ分解してくれる。
魔力を流す。
属性を変える。
方向を変える。
術式へ入れる。
俺の中ではほとんど一続きだった操作が、実際にはいくつもの段階に分かれている。
「俺、自分の魔術なのに知らないこと多いな」
「だから学園に来た意味があるんでしょう?」
「そうだな」
「セス、最近それ言うようになったわね」
「何を?」
「学園に来てよかったって顔」
「顔で言ってる?」
「私には分かる」
またそれだ。
「本当に何でも分かるな」
「何でもじゃないわ」
「そう?」
「セスが今、何を考えてるか分からない時だってあるもの」
「例えば?」
何気なく聞くと、リビアが少しだけ黙った。
さっきまで測定区域を見ていた瞳がこちらへ向き、俺の顔をじっと見つめる。
「私のことをどう好きなのか、とか」
胸が一度、大きく動いた。
「……それは」
「答えなくていいわよ」
俺が何か言う前に、リビアは笑った。
「昨日も言ったでしょう? 少しずつでいいって」
「うん」
「だから今は、測定のことを考えてていいの」
「リビア」
「何?」
「それ、気にならないわけじゃないんだよな?」
聞いてから、自分でもどうしてそんなことを尋ねたのか分からなくなった。
リビアが目を丸くする。
「気になるわよ」
「そっか」
「すごく気になる」
「そんなに?」
「だって私はセスが好きだもの」
迷いなく返された。
頬がまた少し熱くなる。
最近、本当にこれが多い。
「でも、急がせて違う答えをもらっても嬉しくないもの」
リビアはそう言うと、俺の手の近くへ自分の手を置いた。
触れてはいない。
ほんの少しだけ離れている。
俺はその距離を見た。
昨日なら、リビアから繋いでいたかもしれない。
今日の帰り道では、俺から手を差し出した。
さっきも離れかけた指を俺が捕まえた。
なら今は。
考えたあと、俺は自分から手を動かした。
指先が触れる。
そのまま手を重ねる。
リビアが俺を見る。
「……何?」
「別に」
「何となく?」
「うん。繋ぎたかった」
昨日より、少しだけ疑問形が減った。
それに気づいたのか、リビアは何もからかわなかった。ただ嬉しそうに目を細め、俺の指へ自分の指を絡める。
「じゃあ、繋いでましょう」
「うん」
先生たちが測定結果を確認している間、俺たちはそのまま座っていた。
夕方の光が訓練場の高い窓から差し込み、床へ長い四角形を作っている。測定器の淡い光は昼間よりも目立つようになり、遠くでは片付けを始めた別の教師が器具を運ぶ音がしていた。
今日一日が終わりに近づいている。
それを感じた頃、学園長が俺たちの方へ歩いてきた。
「クルセス」
「はい」
俺は手を離そうとした。
けれど、その前に学園長が言う。
「そのままで構わん」
「……はい」
少し恥ずかしい。
リビアは全く離す気がないらしく、普通に繋いだままだった。
「今日の測定について、一度区切る」
「水は?」
「行わない」
「そうですか」
残念ではある。
でも、素直に受け入れられた。
「魔力疲労四、身体疲労一。危険な値ではないが、集中時間も長くなっている。それに、今日必要な情報は十分得られた」
「分かりました」
「持続安定性と複合魔術は後日へ回す。精度測定も水、土、雷が残っているため、次回の前半で続ける予定だ」
「次はいつですか?」
「教員側で記録を整理してから決める。少なくとも明日ではない」
「明日じゃないんですか」
「休め」
「はい」
反射的に答えると、学園長が少し笑った。
「素直になったな」
「昨日から休めって何回も言われてますから」
「なら覚えておけ」
「分かりました」
ベルナルト先生たちもこちらへ来る。
先生の手には何枚もの記録用紙が重なっていた。
「今日の段階で確定していることだけ伝えておこう」
俺は自然と姿勢を正した。
「まず、五属性すべてで基礎出力が高い。ただし、制御出来ないほど高いわけではない」
「はい」
「次に、五属性間の出力差、安定性の差が非常に小さい。これはかなり珍しい」
「はい」
「属性切り替えでは、基礎魔力流を維持したまま変換部分だけを切り替えている可能性が高い。四分の一秒間隔までは大きな流量低下も属性混濁も確認されなかった」
昨日までなら、ただ「出来る」としか思っていなかったことが、先生の言葉によって一つずつ形になっていく。
「そして精度測定。火と風しか終わっていないから暫定だが、少なくとも現時点では非常に高い。特に興味深いのは、属性変換と方向制御を別々の段階として処理しているらしい点だ」
「はい」
「ただし、ここからが大事だ」
ベルナルト先生の表情が少し真面目になる。
「これらは『クルセス・シルフィールは何でも完璧に出来る』という意味ではない」
「分かってます」
「本当に?」
「今日、風でずれましたから」
先生が少し驚いたあと、笑った。
「そう。それでいい」
俺は右手を見る。
「あれ、失敗したから分かったことがあったんですよね」
「そうだ」
「なら、出来ないこととか、ずれる条件も調べた方がいいんですよね」
「その通り。ただし安全に」
「分かってます」
「そこまでセットで答えられるなら、今日は十分だ」
ベルナルト先生は記録用紙を軽く叩いた。
「君の強みを調べるだけなら簡単だ。高い出力を測り、速い切り替えを記録し、精度が高いと評価すればいい。だが教育として必要なのは、その力がどう成り立っていて、どんな条件なら乱れ、どうすれば安全に伸ばせるかを知ることだ」
「弱点も含めて?」
「もちろん」
「それ、楽しみです」
素直に言うと、先生が少し笑う。
「そう言うと思ったよ」
「駄目ですか?」
「いや。学ぶ側としては非常に良い。ただし、自分の弱点を知るために自分を壊すような真似だけはするな」
「しません」
「昔の君なら?」
なぜ先生までそれを聞くのだろう。
「……安全だと思ったら少しくらい試したかもしれません」
「今は?」
「先生に聞きます」
「よろしい」
横からエレナ先生が満足そうに頷いた。
その後、今日の測定は正式に終了となった。
俺は最後にもう一度身体の状態を確認され、魔力疲労四、身体疲労一、その他の異常なしとして記録された。念のため今夜は訓練も魔術使用も避けるよう言われたが、今回は最初から反論する気にならなかった。
「帰ったらグレイヴにも同じこと言われそう」
「言われるでしょうね」
訓練場を出ながら俺が呟くと、隣のリビアが笑った。
「旦那様にも報告が行くと思うわ」
「じゃあ四重で禁止されるのか」
「学園長先生、エレナ先生、グレイヴ、旦那様?」
「リビアもいるから五重だ」
「あら。私は最初から数に入ってるのね」
「入ってるよ」
答えた瞬間、リビアが少しだけ足を止めた。
「何?」
「ううん」
「何だよ」
「嬉しかっただけ」
「禁止する側に数えられて?」
「セスが私の言うこともちゃんと聞くってことでしょう?」
「ああ」
それなら確かにそうだ。
「聞くよ」
「……うん」
リビアが笑う。
俺たちは夕方の校舎を並んで歩いた。
廊下にはもう生徒がほとんど残っておらず、窓から入る光も昼間より赤みを増している。遠くで部活動らしい掛け声が聞こえ、開け放たれた窓から涼しい風が入ってきた。
今日の測定は、予定していたところまで終わらなかった。
水、土、雷の精度測定。
持続安定性。
複合魔術。
変換点の仕組み。
魔力流を乱された場合の弱点。
分からないことは、始める前よりむしろ増えている。
それなのに、不満ではなかった。
「リビア」
「何?」
「今日、全部分からなかったな」
「そうね」
「でも、面白かった」
「それならよかったじゃない」
「うん」
少し前までの俺なら、分からないことが残れば気になって仕方がなかったと思う。
今は、続きがあること自体を楽しみに出来る。
何でも一度で終わらせなくていい。
自分のことですら、一つずつ知っていけばいい。
階段へ差しかかったところで、俺は自然にリビアの隣へ歩幅を合わせた。
そして、今度は人が多いわけでも、危険があるわけでもないのに、自分から手を差し出した。
リビアは理由を聞かなかった。
ただ当たり前のようにその手を取り、指を絡めてくる。
今日分かったことは、魔術のことばかりではないのかもしれない。
そんな考えが一瞬だけ浮かんだが、それについても今すぐ答えを出す必要はない。
俺は隣にいるリビアの手の温かさを感じながら、静かな廊下を正門へ向かって歩いていった。




