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第16話 測定前だから何もするなと言われても、何もしない方が難しいんですが

昼休みの終わりを知らせる鐘が鳴る少し前、俺とリビアは東棟の裏庭を出た。


 木陰で過ごしていたせいか、校舎へ続く石造りの廊下へ戻ると、窓から差し込む午後の日差しが思っていた以上に眩しく感じられた。遠くの中庭では食堂から戻ってきた生徒たちが何人もの集まりになって歩いていて、開け放たれた窓からは笑い声や椅子を引く音まで聞こえてくる。ついさっきまで二人だけで過ごしていた裏庭の静けさが、ほんの数歩歩いただけなのに急に遠ざかったようだった。


「セス、明日もあそこでいい?」


 隣を歩いていたリビアが、不意にこちらを見上げながら尋ねてくる。何の話か考える必要はなく、さっき決めたばかりの昼食のことだとすぐに分かった。


「いいよ。誰かが先に使ってたら、その時は別の場所を探せばいいし」


「じゃあ約束ね」


「うん。明日も二人で食べよう」


 俺が答えると、リビアは満足したように前を向き、小さく笑った。その横顔を見ていると、どういうわけか俺まで気分が軽くなって、自然と口元が緩みそうになる。


 たった一度、二人だけで昼食を食べただけだ。それなのに、朝までの俺と今の俺では、リビアと二人で過ごすことへの捉え方が少し違っている気がした。


 これまでも二人きりになる時間そのものは珍しくなかった。幼い頃から同じ屋敷で過ごし、外出にも同行し、俺が執事見習いになってからは仕事として側にいる時間も増えている。だから二人でいるという事実だけなら、今日の昼休みが特別だったわけではない。


 けれど、今日の昼食には仕事がなかった。護衛のためでもなく、主人であるリビアの世話をするためでもなく、俺が彼女と一緒にいたくて、彼女も俺と一緒にいたいと言ってくれたから、二人で同じ場所へ行って食事をした。


 それを改めて考えると、胸の内側にまた例の温かさが広がってくる。最近は何度も感じるようになった感覚なのに、慣れてきたからといって正体まで分かったわけではなく、むしろ気づく回数が増えた分だけ前より意識するようになっていた。


「……セス?」


「ん?」


「どうしてこっちを見てるの?」


 言われて初めて、少し長い間リビアの横顔を見ていたことに気づいた。誤魔化すほどのことでもないので正直に答えると、彼女は不思議そうに目を瞬かせる。


「いや、楽しそうだなと思って」


「楽しいわよ」


「昼食、もう終わったのに?」


「終わったからって、楽しくなくなるわけじゃないでしょう?」


「そういうもの?」


「そういうものなの」


 言い切ったリビアがこちらを向き、ちょうど真正面から目が合った。いつもならそれだけのことなのに、今日はなぜか昼食の時に彼女へ果物を食べさせた場面が頭へ浮かび、唇が指先に触れそうだった距離まで思い出してしまう。


 胸の奥が妙に落ち着かなくなり、俺は何となく進行方向へ視線を戻した。すると、隣から少しだけ訝しむような声が飛んでくる。


「……セス。今、目を逸らした?」


「前を見ないと危ないだろ」


「ここ、廊下よ?」


「廊下でも人はいる」


「さっきまで普通に私を見ながら歩いていたでしょう?」


「……気のせいじゃない?」


「怪しい」


「何が?」


「それは分からないけど、怪しいわ」


 細かいところまでよく見ている。問い詰めるような言葉とは裏腹にリビアの声は楽しそうで、俺が答えを持っていないことまで分かっているのか、それ以上は追及してこなかった。


 教室が近づくにつれて周囲の生徒も増え、俺たちに気づいた何人かが軽く頭を下げていく。そのたびにリビアは公爵令嬢らしい落ち着いた微笑みで応じていて、つい先ほど俺に果物を食べさせながら顔を赤くしていた人と同じとは思えない。


 昔からこうだった。人前では隙のない公爵令嬢で、俺と二人きりになれば甘えたり、怒ったり、時には子供のように意地を張ったりする。


 今までは単純に、幼馴染だから俺には素を見せているのだと思っていた。たぶん、それも間違いではないのだろうけれど、最近はどうもそれだけではない気がしている。


 俺が婚約者になったからなのか。それとも、昔から俺が気づいていなかっただけなのか。まだ答えは分からなかったが、分からないからといって今すぐ結論を出す必要はないのだと、少しずつ思えるようにもなっていた。


 教室へ戻ると、すでに大半の生徒が午後の授業に備えて席についていた。窓際では数人が昼食の続きを話し、廊下側では教科書を広げている者もいる。俺たちが扉をくぐった瞬間、少し離れた席にいたアルフォルド殿下がこちらを見て、目が合った途端になぜか少しだけ不満そうな顔をした。


「クルセス様、お昼はどうでした?」


 先に声をかけてきたのはナナリーだった。近くにいたミリアナも興味があるらしく、教科書を机へ置きながらこちらを見ている。


「どうって、普通に食べてきたけど」


 そう答えた途端、ミリアナが小さく笑った。


「クルセス様の『普通』ですか?」


「昼食まで疑われるの?」


「だって、今日はお二人だけだったでしょう?」


「二人だと何か変わる?」


 俺が本気で分からず尋ねると、ナナリーとミリアナは一度顔を見合わせた。それから二人揃って俺ではなくリビアへ視線を向けたので、リビアの表情がわずかに警戒したものへ変わる。


「何?」


「いえ、何でもありません」


「私も何でもありません」


 二人が妙に綺麗なタイミングで引いた。明らかに何かある反応だったので問いかけてみたものの、ナナリーは「クルセス様にはそのうち分かると思います」と笑うだけで、最近は俺だけが理解していないことが増えすぎている気がする。


「それより、追加測定が明日になった」


 これ以上聞いても答えてくれそうにないので話題を変えると、ナナリーとミリアナの表情がすぐに変わった。さっきまでの軽い空気が薄れ、少し離れた場所にいたアルフォルド殿下たちまで会話へ意識を向ける。


「もう決まったんですか?」


「うん。放課後、第二魔術訓練場だって」


「何を測るんです?」


「五属性それぞれの出力と精度、切り替え速度、それから持続安定性。最後に安全を確認した複合魔術も少しやるらしい」


 声を張ったつもりはなかったが、「五属性」という言葉が聞こえたのだろう。近くの席にいた生徒たちまで何人かこちらを向き、教室のあちこちに小さなざわめきが広がった。


「見学は出来るのか?」


 アルフォルド殿下がすぐに席を立って近づいてきた。その後ろからカイゼル殿下とサザリー様まで来るあたり、三人ともやはり気になっているらしい。


「制限するそうです。測定そのものが普通の実習と違うので、必要以上に人を入れないって」


「申請すれば許可されるのか?」


「そこまでは聞いてません。今のところ、リビアの立ち会いだけは許可されてます」


「なぜオリビアだけなんだ」


「婚約者だからじゃないですか?」


「それだけで許可されるのか?」


 アルフォルド殿下が明らかに納得していない顔をする。俺としては学園長が認めた以上それ以上の理由を考えていなかったが、殿下はすでに何か申請する方法を考えているようだった。


「なら、私も――」


「殿下」


 サザリー様が穏やかな声で遮った。いつも通り落ち着いた表情だが、アルフォルド殿下がこのまま学園長室へ直行しかねないと思ったのか、わずかに苦笑している。


「今回は通常の実習ではありません。測定条件を整えるために見学者を制限するのでしょうから、人数を増やすよう求めるのは逆効果かと」


「だが、五属性の詳細な測定だぞ。学術的にも価値があるだろう」


「アルフォルド」


 今度はカイゼル殿下が楽しそうに割り込んだ。銀色の髪を揺らしてアルフォルド殿下の顔を覗き込み、そのまま口元へ悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「君、本当に測定が見たいの? それとも、オリビアだけセスと一緒なのが気に入らないの?」


「測定だ!」


「即答した割には目が泳いだね」


「泳いでいない!」


 教室のあちこちから笑い声が上がった。初日に向けられていたような探る視線や緊張した空気ではなく、最近では俺たちの周囲でこういうやり取りが始まると、近くの生徒たちも普通に笑うようになっている。


 それが俺には少し嬉しかった。学園へ来たばかりの頃、俺へ向けられる視線の多くは、元平民の執事がどうして公爵令嬢の婚約者なのかという戸惑いを含んでいた。剣術の後には強さへの驚きが加わり、ライゼルの事件の後には事実とまるで違う妙な噂まで広がった。


 けれど今は、ナナリーやミリアナが普通に声をかけてくれて、イザークは遠慮なく俺をからかい、殿下たちまでこうして同じ教室で言い合っている。俺もそれに返事をして、時には一緒に笑う。


 学園へ来る前には、あまり想像していなかった時間だった。


「それで、危険な測定はないのですか?」


 笑いが落ち着いたところで、ミリアナが少し心配そうに尋ねた。その声には冗談の響きがなかったので、俺もきちんと答える。


「高出力になるものは全部禁止だって。迅雷撃破も高出力では使わない」


「よかったです」


「そんなに?」


「そんなに、です」


 あまりにも即答されたので思わず聞き返したが、ミリアナは真顔だった。隣ではナナリーまで強く頷いている。


「クルセス様の場合、『出来る』と『やっていい』が別だって、私たちも分かってきましたから」


「俺も最近は分かってるよ」


「本当ですか?」


「本当。少なくとも、先生に禁止されたことを勝手にやったりはしない」


 ナナリーは少し疑うように俺を見てから、「では、もし昨日までのクルセス様だったら?」と尋ねてきた。考えてみれば答えはすぐに出てしまい、俺はわずかに視線を逸らす。


「……危険じゃない範囲なら、出来るか確認してたかも」


「ほら」


 今度こそ返す言葉がなくなり、周囲からまた小さな笑いが漏れた。リビアまで呆れたようにこちらを見ているので、俺は慌てて付け加える。


「でも、今日はやらないから」


 そう言うと、ナナリーの表情から少しだけ力が抜けた。


「なら、少し安心です」


 以前の俺なら、きっと「大げさだ」と返していた。怪我もしていないのに心配する必要はないとか、測定程度で危険になるわけがないとか、相手の心配を受け取る前に理由を並べていただろう。


 今は、そうしようとは思わなかった。ナナリーが安心したと言ったのなら、それは俺のために心配してくれていたということなのだから、否定する必要はない。


「ありがとう」


 自然に口から出た言葉に、今度はナナリーが少し驚いた。ミリアナも目を丸くしていて、二人が揃ってリビアを見る。


「何?」


「いえ……本当に変わってきましたね」


「そう?」


「はい。以前なら絶対に『心配しなくても大丈夫です』で終わっていたと思います」


 そこまで言われると自分でも否定しづらい。俺が頭を掻いている横で、リビアは何も言わなかったけれど、その顔はどう見ても満足そうだった。


 やがて午後最初の鐘が鳴り、教室の空気が授業へ切り替わった。


 午後最初の授業は王国法基礎だった。貴族や役人を目指す生徒だけでなく、将来的に騎士団や宮廷魔術師団へ進む者にも必要になる基礎知識らしく、教壇へ立った教師は分厚い法令集を机へ置くと、今日は「責任の所在」について扱うと告げた。


 偶然なのかもしれないが、昨日から妙に今の俺へ刺さる授業が多い。領地経営の授業でも、一つの判断が誰かの生活へつながっていることを考えたばかりだった。


「何か問題が起きた時、誰が悪かったのかを決めるだけが法ではありません。誰が何をする立場にあり、どこまで危険を予見出来たのか。そして、どの段階なら被害を防げたのか。それらを分けて考えなければ、責任という言葉はただ感情をぶつけるためのものになってしまいます」


 教師が教室をゆっくり見渡しながら告げた言葉を聞き、俺は無意識に背筋を伸ばした。真っ先に浮かんだのは、やはりライゼルの件だった。


 攻撃を始めたのはライゼルで、危険な魔術を使ったのもライゼルだ。その事実は変わらないし、だからといって俺が責任を負うという話でもない。


 けれど、学園長たちは俺がどう動いたかについても考えた。俺を責めるためではなく、危険な状況で何を選び、他にどんな方法があり得たのかを分けて考えなければ、次に同じことが起きた時も俺は同じ選択をするからだ。


 少し離れた席から視線を感じて顔を上げると、リビアがこちらを見ていた。言葉を交わさなくても、おそらく彼女も俺と似たことを思い出したのだろう。目が合ったところで小さく頷くと、リビアもほんの少し表情を和らげて前へ向き直った。


 教師は黒板へ一つの事例を書き出していく。老朽化して一部が壊れた橋、その危険を把握しながら領主へ報告しなかった管理官、管理官から通行止めを命じられなかった作業員、そして事情を知らないまま橋を渡って事故へ巻き込まれた商人。


 一つの事故にも複数の人間が関わっている。誰にどこまで責任があるのかを、単純な立場の上下ではなく事実から考えろという課題だった。


 四人組で議論するよう指示され、俺は近くにいたイザーク、ミリアナ、それから同じ列に座っていた男子生徒と机を寄せた。周囲でも一斉に椅子を動かす音が響き、ほどなく教室全体がいくつもの小さな議論に包まれる。


「領主が悪いだろ。橋を直すための金を出すのは領主なんだから」


 最初にそう言ったのはイザークだった。資料の最上部に書かれた「領主」という文字を指で叩いている。


「でも、壊れてるって知らなかったら?」


「管理官が報告してない設定だろ?」


「そう。だから領主が危険を知らなかった可能性がある」


「それでも領地の責任者だぞ。全部知らなかったで済ませられたら、管理官へ任せておけば何でも逃げられるだろ」


「責任がないとは思わない。でも、管理官と同じ重さなのかは別じゃない?」


 俺がそう返すと、ミリアナが資料へ視線を落としながら考え込んだ。彼女は指先で文章を追い、作業員について書かれた箇所で手を止める。


「作業員はどうでしょう。管理官から『まだ通行止めにするな』と言われて、それに従っています」


「危険だって分かっていたなら止めるべきじゃないか?」


 イザークの意見に、もう一人の男子生徒が腕を組んだ。


「でも管理官は直属の上司だろ。勝手に止めたら処分されるかもしれないし、最悪なら仕事を失うぞ」


「だからって人が死んだら?」


「そこが難しいんだろうな」


 俺は資料を読み直しながら、書かれている条件を頭の中で一つずつ分けてみた。誰が危険を知っていたのか、誰に決定権があったのか、誰へ報告出来たのか、それぞれの立場で他の選択肢があったのか。


 スラムにいた頃なら、法律は自分から遠いものだった。危険があれば逃げ、奪われそうなら守り、誰かが助けてくれる保証などないから自分で動く。それだけで生きることに精一杯だった。


 けれど今は、こういう仕組みの中にいる。誰か一人が全部を背負うのではなく、それぞれの立場に出来ることがあり、その選択によって責任の形まで変わっていく。


「俺は管理官が一番重い気がする」


 しばらく考えてから口にすると、三人の視線が集まった。


「危険を知っていた。領主へ報告出来る立場だった。それに、作業員へ通行止めをしないよう指示出来る立場でもあった。この三つが重なってるから、少なくとも今出てる条件だけなら一番重いと思う」


「じゃあ領主は?」


「監督する責任はあると思う。でも、定期的に報告を求めていたのかとか、管理官の仕事をどう確認していたのかで変わりそう。何も確認せず全部任せきりだったなら重くなるだろうし、報告を求めていたのに管理官が意図的に隠したなら同じにはならない気がする」


 そこまで言ったところで、イザークが妙な顔で俺を見ていることに気づいた。


「何?」


「お前、昨日もこういうの妙に楽しそうだったよな」


「昨日?」


「領地経営の課題だよ。数字を見ながら、どこを削るとか残すとか考えてた時」


「あれは面白かった」


「今日もかなり楽しそうだぞ」


「そう?」


 言われて初めて、自分が資料を何度も読み返していることに気づいた。嫌々考えているわけではなく、条件が一つ増えるたびに答えが変わるのが面白いと思っている。


 剣を振るのとは違う。魔術を使う時とも、執事の仕事を正確に終わらせた時とも違う。


 一つしかない正解を当てるのではなく、いくつもの条件の中から一番納得出来る答えを探す。その作業を、俺は意外なほど楽しんでいた。


「……こういうの、好きなのかも」


「今さら気づいたのか?」


「こういう授業、今まで受けたことなかったから」


「お前、本当に学園へ来てよかったんじゃないか?」


 イザークが何気なく言った言葉に、俺はすぐには返事をしなかった。少し前なら、学園へ通う必要があるのかと考えていたのに、今は否定する理由が思いつかない。


「そうかもしれない」


 自分の口から出た答えは、思ったより素直だった。


 授業の終わりには各班の意見がいくつか取り上げられ、教師はどれか一つを正解として選ぶことはしなかった。追加される事実が一つ変われば責任の重さも変わるからこそ、最初から結論を決めて都合のいい事実だけを見るなと告げ、その言葉を最後に授業は終わった。


 休み時間になり、机を元へ戻しているとリビアがこちらへやってきた。窓から入る風が彼女の銀青色の髪を少し揺らし、俺が振り向くと楽しそうに目を細める。


「セス、また楽しそうだったわね」


「うん。面白かった」


「昨日の領地経営も好きだったでしょう?」


「たぶん、こういうのが好きなのかも。条件がいくつかあって、その中で一番いい方法を探すのが」


 言葉にしてみると、自分のことなのに少し不思議だった。今まで「何が出来るか」を考えることは多かった。剣をどこまで扱えるか、どの魔術を使えるか、執事として何を覚えるべきか、どの学問なら役に立つか。


 けれど、「何が好きなのか」を考えたことはあまりない。出来ることと、好きなことを同じものとして扱っていたのかもしれない。


「いいじゃない」


 リビアは俺の答えを聞いて、心から嬉しそうに笑った。


「学園に来なかったら、気づかなかったかもしれないわね」


「そうだな。少なくとも、こんな授業を自分から受けようとは思わなかった」


「だったら、これから他にも見つかるかもしれないわ」


「何が?」


「セスが好きなこと」


 その言葉を聞いた瞬間、なぜか昼休みのことが頭へ浮かんだ。


 二人きりの裏庭。並んで食べた昼食。俺がリビアと一緒にいたくて、彼女も同じように一緒にいたいと思ってくれている時間。


 俺はリビアと一緒にいるのが好きだ。


 昼には自分でそう認めたばかりだった。


「……もう一個、見つかったけど」


「え?」


 ほとんど無意識に口から漏れた。リビアがすぐに反応して一歩近づいてきたので、急に続きを言うのが恥ずかしくなる。


「いや、何でもない」


「何? 今、絶対何か言ったでしょう」


「何でもないって」


「気になるわ」


「そろそろ授業始まるぞ」


「まだ鐘は鳴ってないわよ」


「先生が早く来るかもしれない」


「セス」


「何?」


「顔、少し赤い」


 言われた途端、余計に頬が熱くなった気がして、俺は教室の窓へちらりと目を向けた。


「暑いんだろ」


「今日は涼しいわよ。窓から風も入ってるし」


「じゃあ気のせい」


「またそれ?」


 リビアが呆れたように笑うのを背中で聞きながら、俺は逃げるように自分の席へ戻った。


 自分でも、どうして言わなかったのか分からない。昼には普通に「リビアと一緒にいるのが好きだ」と思えたし、口にすることも出来た。


 なのに今、同じことをもう一度伝えようとしたら、妙に恥ずかしくなった。ほんの数時間しか経っていないのに、自分の中で何かが少し変わったような気がする。


 理由を考えているうちに次の教師が入ってきたので、答えは出ないまま教科書を開いた。


 その後の午後は、驚くほど何事もなく過ぎた。


 誰も俺へ攻撃魔術を撃ってこなかったし、模擬戦を申し込まれることもなく、学園長室へ呼び出されることもなかった。シュザー家から新しい連絡が届くこともなく、最後の授業を終える鐘が校舎へ響いた時には、俺は妙な達成感すら覚えていた。


「リビア」


「何?」


「今日、何も起きなかった」


 鞄へ教科書をしまいながら少し感動して言うと、リビアは手を止めてこちらを見た。ところが喜んでくれるどころか、慎重そうに眉を上げる。


「まだ校舎から出てないわよ」


「不吉なこと言うなよ」


「セスの場合、正門を出るまで安心出来ないもの」


「俺を何だと思ってるんだ」


「学園へ来てすぐに色々起きた人」


「俺が起こしたみたいに言うなよ。ほとんど起こされた側だって」


 近くで聞いていたイザークが吹き出し、鞄を肩へ掛けながら会話へ混ざってきた。


「そこだけは同情する」


「だろ?」


「でも、お前がいると何か起きそうなのは分かる」


「何でだよ」


「雰囲気」


「そんな雰囲気ある?」


「あるな」


 なぜかナナリーとミリアナまで頷いている。俺としては今日一日普通に授業を受けただけなのに、どうやら「普通」という言葉に関する信用はまだ回復していないらしい。


 教室を出ると、下校する生徒たちで廊下は少し混み始めていた。俺は今日もリビアの隣を歩き、昨日ほど意識しなくても同じ歩幅を保てていることに途中で気づく。


 それでも階段を下りている時、前から数人の生徒がまとまって上がってくると、身体は考えるより先に動いた。リビアを壁側へ寄せ、自分が半歩前へ出てすれ違う生徒との間へ入る。


 相手が通り過ぎてから元の位置へ戻ると、リビアがこちらを見ていた。


「今のは?」


「危なくないようにしただけ」


「それはいいの」


「いいんだ?」


「隣に立つって、何があっても横一列で歩くことじゃないでしょう? セスが私を守ろうとすることまでやめてほしいわけじゃないもの」


 その答えに少し安心した。最近は半歩後ろへ下がる癖を何度も指摘されているせいで、どこまでが執事として染みついた行動で、どこからが相手を気遣う自然な動きなのか、自分でも分からなくなる時がある。


 リビアが望んでいるのは、俺が何もしなくなることではない。ただ、自分を最初から彼女より下の位置へ置かないことなのだろう。


「じゃあ、これは?」


 階段を下りきったところで足を少し緩め、俺はリビアへ手を差し出した。


「何?」


「人、多いから」


 昇降口へ向かう生徒が増えていて、廊下には制服姿の人影が重なっている。けれど、はぐれてしまうほど混雑しているわけではない。


 自分でも、それくらいは分かっていた。


 それでも手を繋ぎたいと思った。仕事だからでも、守るためだけでもなく、隣を歩いているなら触れていたいという気持ちが、理由を考えるより先に手を伸ばさせた。


「……うん」


 リビアは一瞬だけ目を見開いたあと、そっと手を重ねてきた。触れた指先が自然に絡み、昨日よりもずっと迷いなく恋人繋ぎの形になる。


 周囲には大勢の生徒がいて、俺たちへ気づいた何人かがちらりと視線を向けていた。それでも、以前のように人目を理由に離した方がいいとは思わない。


「セス」


「何?」


「今、私が言う前に繋いだ」


「人が多いから」


「それだけ?」


 返事をしようとして、少し止まった。


 人が多いのは本当だ。ただ、それだけなら俺が少し前へ出れば十分で、わざわざ指を絡める必要まではない。


「……それだけじゃないかも」


 自分で答えてから、俺自身が少し驚いた。隣ではリビアも同じように目を見開いている。


「じゃあ、何?」


「繋ぎたかったから……かな」


「どうして疑問形なのよ」


「俺にもまだよく分からないから」


 分からないけれど、手を離す気はなかった。むしろ、重なった手から伝わる温かさが心地よくて、このまま正門まで歩きたいと思っている。


 リビアの頬がゆっくりと赤くなっていく。しばらく俺を見ていた彼女は、困ったような、それでいて嬉しさを隠しきれないような笑みを浮かべ、絡めた指へ少しだけ力を込めた。


「じゃあ、今日はそれでいいわ」


「今日は?」


「少しずつでいいの。セスが自分で分かるまで、無理に答えを決めなくてもいいでしょう?」


 その言葉を聞きながら、俺も握り返した。隣に立つことも、誰かから何かを受け取ることも、自分が何を感じているのか知ることも、今までの俺には慣れていないことばかりだ。


 時間をかけていいのなら、急いで名前をつける必要はないのかもしれない。


 結局、正門を出ても何も起きなかった。迎えの馬車もいつも通りの場所で待っていて、俺は少し得意になりながらリビアを見る。


「ほら。何も起きなかった」


「よかったわね」


「学園へ来てから初めて、一日ずっと平和だった気がする」


「初日だって途中までは平和だったでしょう?」


「最後に全部持っていかれたから、あれは数えない」


 馬車へ乗り込んでも、帰り道で騒ぎに巻き込まれることはなかった。夕方の王都を抜けていく車輪の音を聞いているうちに、教室では意識しないようにしていた明日の追加測定が、少しずつ頭へ戻ってくる。


 五属性それぞれの出力、精度、切り替え速度、持続安定性、そして複合魔術。普段は感覚でやっていることを数字や記録として調べるのだと思うと、怖さより先に興味が湧いてきた。


 通常の測定器では十分でない可能性があると聞いている。それなら教師たちはどんな器具を用意するのだろう。属性を切り替える間隔はどこまで縮めるのか、自分が普段どれくらいの速度で切り替えているのかも、考えてみれば俺自身は知らない。


「セス」


「ん?」


「今、測定のこと考えてるでしょう」


「何で分かった?」


「顔を見れば分かるわ」


「顔だけでそこまで分かる?」


「少なくともセスのことなら」


 リビアは向かいの席からじっと俺を見る。窓から入る夕方の光が彼女の髪へ淡く差し込み、少し得意そうな顔までよく見えた。


「それで、何を考えてたの?」


「属性の切り替えって、どこまで速く出来るのかなって」


「駄目よ」


「まだ何もしてない」


「屋敷へ帰ったら試そうと思ったでしょう?」


「……少しだけ」


「駄目」


 あまりにも早く否定されて、俺は思わず背もたれへ身体を預けた。


「分かってるよ。レイモンド先生からもグレイヴからも自主的に試すなって言われてるし」


「私からも禁止」


「三重になった」


「旦那様も入れたら四重よ」


「旦那様には直接言われてない」


「今ここで伝えに戻ったら、絶対禁止なさると思うわ」


「それは否定出来ないな」


 少し残念なのは事実だった。出来ることなら試したいし、自分がどこまで出来るのかは純粋に気になる。


 けれど、明日正式に測定するのなら、今日無理に確認する必要はない。以前の俺なら「危険ではない範囲なら問題ない」と理由をつけて少しくらい試していたと思うが、今はその考えが浮かんでも、実際にやるところまでは進まなくなっている。


「何もしないって、難しいな」


 思わず漏らすと、リビアが少し笑った。


「セスは、いつも何かしてるものね。朝起きたら自分の支度をして、時間があれば使用人の仕事を手伝って、私の支度まで気にして、学園へ行けば授業を受けて、休み時間も誰かに聞かれたら答えてるでしょう?」


「普通じゃない?」


「たぶん、そこまで全部はしないわ。それにセス、何か気になることがあると、自分で確かめないと落ち着かないでしょう?」


 そこは否定出来なかった。剣でも魔術でも、知らないことがあれば試してみたくなるし、仕事ならなおさら事前に確認しておきたい。


「明日の測定もそうなの?」


「うん」


「怖い?」


「怖くはない」


「不安?」


「それもあんまりないかな」


 では何なのだろうと考え、窓の外を流れていく街並みを眺めながら自分の中を探してみる。答えは意外と単純だった。


「楽しみなんだと思う」


 普段は感覚だけで扱っているものを、教師たちがどう見るのか知りたい。どこが普通と違うのか、自分では分からない部分を教えてもらえるのも楽しみだった。


「だから、先に試したくなるのね」


「たぶん」


「だったら、楽しみは明日に取っておけば?」


 その考え方はなかったので、俺は思わずリビアを見た。


「楽しみを取っておく?」


「そう。今日先に全部確かめてしまったら、明日初めて知ることが減るでしょう?」


「……なるほど」


「そんなに納得する?」


「我慢しろって言われるより分かりやすい。禁止されてるからやらないっていうのも分かるけど、明日の楽しみに残しておくなら、やらないことにも理由がある感じがする」


 何かをしないことを、今までは我慢だと考えていた。出来るのにやらない、調べられるのに調べないというのは、俺にとってあまり得意な選択ではない。


 けれど、明日楽しむために今日は残しておくのなら、それも一つの選択なのだと思える。


「じゃあ、今日はやらない」


「本当?」


「うん。明日やる」


「先生の指示の範囲で、でしょう?」


「分かってるって」


 念を押すリビアに苦笑すると、ようやく満足したように頷いてくれた。


 屋敷へ戻った頃には、空が夕暮れの色へ変わり始めていた。玄関をくぐるとグレイヴが待っていて、俺とリビアを迎えたあと、まず俺の制服の肩、胸元、袖へ視線を走らせ、最後に顔を確認する。


「怪我は?」


「ない」


「問題は?」


「ないよ」


「事件は?」


「ない」


「魔術を撃たれましたか?」


「撃たれてないって」


「誰かと模擬戦を?」


「してない」


「教師に呼び出されましたか?」


「昼にレイモンド先生が来た」


 その瞬間だけグレイヴの眉がわずかに動いたので、俺はすぐに続きを付け加えた。


「追加測定の連絡。明日の放課後だって」


「ああ、その件でしたか。承知しています」


「知ってるの?」


「当然です。保護者への連絡がありますので」


「俺より先に?」


「場合によっては」


 やっぱり保護者なのだと、改めて言葉にされると少し妙な気分になる。グレイヴは俺の養父なのだから何もおかしくはないのだが、普段は執事長として一緒に働くことも多いせいか、こういう時だけ十五歳として扱われているようで照れくさかった。


「何か変な感じだな」


「何がです?」


「グレイヴが俺の保護者って言われるの」


 グレイヴは一瞬だけ黙り、普段ほとんど崩れない表情をほんのわずかに和らげた。


「不満ですか?」


「違うよ。ただ、改めて言われると変な感じがするだけ」


「でしたら問題ありません」


 いつも通りの返しだったが、声はほんの少し柔らかかった。


「それで、セス」


 グレイヴはすぐに執事長らしい顔へ戻る。


「自主的な測定は禁止されていると聞いています」


「もうリビアにも言われたよ」


「では問題ありませんね」


「なんか信用されてない気がする」


「信用しています」


「本当に?」


「禁止しなければ試す、という点については非常に信用しています」


「それ、信用って言う?」


「予測可能という意味では」


 隣でリビアが声を押さえて笑っている。俺としては納得しづらかったが、昨日までなら実際に試した可能性が高いので、強く反論も出来ない。


「でも、今日はやらないよ」


 俺が言うと、グレイヴの目が少しだけ細くなった。


「なぜです?」


「明日の楽しみに取っておく」


 数秒の沈黙が落ちた。グレイヴは俺の顔を見たあと、ゆっくりリビアへ視線を移す。


「……オリビアお嬢様ですか?」


「何で分かるの?」


「お前から自然に出てくる発想とは思えませんので」


「ひどくない?」


「事実です」


 今度はリビアが完全に笑い出した。俺も反論を諦め、夕食までの時間をどうしようかと考える。


 いつもなら自室へ戻って学園の課題を確認するか、使用人たちの仕事を手伝うところだ。今日もそのつもりで厨房へ向かおうとしたところで、背後からグレイヴに呼び止められた。


「セス。今日は仕事を手伝わなくて結構です」


「何で?」


「明日、追加測定があります。疲労を残さないため、今日は休息を優先してください」


「このくらいで疲れないよ」


「そう言うと思いました」


「本当に平気だけど」


「でしたら、自室で休みなさい」


 そこまで言われて、俺は少し困った。


「……何して?」


「休息を取ってください」


「だから、何をして?」


 今度はグレイヴが黙った。隣にいたリビアまで不思議そうに俺を見ているので、自分が変なことを聞いたのだろうかと不安になる。


「セス。もしかして、休み方が分からないの?」


「分かるよ」


「じゃあ何をするの?」


「本を読むとか?」


「何の本?」


「学園で使う魔術理論か、法学の――」


「それは勉強でしょう」


「でも座ってるぞ」


「そういう意味じゃないの」


 では寝ればいいのかと思ったが、夕食前に寝れば夜眠れなくなると言われた。仕事をしない、訓練もしない、魔術も試さない、勉強もしないとなると、残された選択肢が本当に思いつかない。


「じゃあ何するんだよ」


 真面目に尋ねたのに、リビアとグレイヴが揃って黙った。やがてリビアが少し困った顔でグレイヴを見る。


「……グレイヴ。これ、結構重症じゃない?」


「私も今、そう思いました」


「何が?」


「セスが休めない問題よ」


「休めるって」


「では今から一時間、何をしてもいい自由時間をもらったら?」


「厨房を手伝う」


「仕事」


「庭の訓練場で剣を振る」


「訓練」


「明日の授業の予習」


「勉強」


「……自分の部屋を掃除する」


「それも仕事です」


 グレイヴにまで即座に否定され、俺は本気で困った。全部駄目なら、自由時間とは何をするためにあるのだろう。


「何も出来ないじゃん」


「何もするなとは言っていません。仕事や訓練として自分を動かし続けるのをやめなさいと言っているのです」


「違いが難しい」


「覚えてください」


 最近、学園でも屋敷でも覚えることが多い。魔術や礼法ではなく、自分の扱い方について教えられることが増えている気がした。


「では、オリビアお嬢様と過ごしてはいかがですか」


 少し考えていたグレイヴがそう提案すると、今度はリビアが目を丸くした。


「私と?」


「はい。散歩でも、お茶でも構いません。クルセスが仕事として動かなければ」


「俺が茶を淹れるのは?」


「仕事へ戻るので禁止します」


「厳しいな」


「私が淹れるわ」


 リビアがすぐに名乗り出た。


「じゃあ俺が菓子を用意して――」


「使用人へ頼みなさい」


 今度は最後まで言わせてもらえなかった。


「本当に何もさせてくれない」


「何もするなとは言っていません。仕事をするなと言っているのです」


「やっぱり違いが難しい」


「今日覚えなさい」


 結局、俺とリビアは屋敷の裏庭で茶を飲むことになった。


 学園の東棟裏庭とは違い、こちらは幼い頃から何度も歩いてきた場所だ。手入れされた芝生の向こうには小さな池があり、夕方になると庭木の影が長く石畳へ伸びる。花壇からは淡い花の香りが漂い、屋敷の方角からは夕食の準備を始めた厨房の音が微かに聞こえていた。


 使用人が用意してくれた茶と菓子をテーブルへ置き、俺はリビアと向かい合って座る。自分の手には本当に何もなく、茶器へ触れることすらしていない状態が妙に落ち着かなかった。


 誰かが働いている横で何もしないことには、今でも慣れない。スラムにいた頃は動かなければ食べ物を得られず、屋敷へ来てからは役に立てることが嬉しくて、出来る仕事を探すことが当たり前になった。


 何もしなくても食事が出て、寝る場所があり、明日もここにいていい。そのことを疑わなくていい生活を長く送っているはずなのに、身体のどこかにはまだ「何かをしていなければ」という感覚が残っているのかもしれなかった。


「セス」


「何?」


「手、膝の上に置いて」


「何で?」


「さっきから茶器を見すぎよ」


「見てない」


「淹れたいんでしょう?」


「……少し」


「駄目」


 リビアが楽しそうに茶を淹れ始める。昨日の礼法授業でも彼女に茶を淹れてもらったが、今日は教師もいなければ課題でもない。


 だからこそ、余計に不思議だった。


「はい」


 差し出されたカップを両手で受け取る。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 一口飲むと、温かな茶の香りが鼻を抜けていく。同じ屋敷の茶葉で、使っている水もいつものものだ。淹れ方だって、俺と極端に違うわけではないはずなのに、なぜか少しだけ味が違う気がする。


「おいしい?」


「うん」


「私が淹れたから?」


 顔を上げると、リビアが期待を隠そうともせずこちらを見ていた。昨日も似たようなことを聞かれた気がする。


「それ、毎回聞くつもり?」


「セスが答えてくれる間は」


「じゃあ……そうかも」


 答えた途端、リビアの表情がぱっと明るくなった。その笑顔を見ながらもう一口飲むと、さっきより少しだけ茶が甘く感じる。


 こうしていると、本当に何もしていない。剣も持っていなければ魔術も使わず、誰かの世話をする必要もない。


 最初は落ち着かなかったのに、少し時間が経つと、それまで意識していなかった音が聞こえるようになってきた。池を渡ってくる風が木の葉を揺らす音、水面で小さな波が重なる音、庭の向こうを通る使用人の足音、遠くの厨房から響く食器の触れ合う音。


 何かを探さなくても、時間は普通に過ぎていく。それが不思議だった。


「……こういうのが休むってこと?」


「たぶんね」


「リビアも分からないの?」


「私は普通に休めるもの。セスみたいに、自由時間を渡されて真っ先に仕事を探したりしないわ」


「じゃあ教えてよ」


「今やってるでしょう?」


 そう言われ、俺は庭をもう一度見回した。


 何もしないことではないのかもしれない。何かをしなければならないと思わなくていい時間を持つことが、休むということなのだろうか。


「難しいな」


「慣れればいいのよ」


「そればっかりだな、最近」


「だってセス、慣れてないことが多いもの。婚約者として隣に立つのも、誰かにお茶を淹れてもらうのも、心配された時に素直に受け取るのも」


「並べられると多いな」


「でも、全部少しずつ出来るようになってるでしょう?」


「……そうかも」


 以前なら出来ていない部分ばかり考えていたかもしれない。今は、昨日より出来るようになったことも確かにあると認められる。


 目の前にはリビアがいる。今日は学園でも二人きりで昼食を食べ、帰ってからもこうして二人で茶を飲んでいる。


 朝からかなり長い時間を一緒に過ごしているはずなのに、不思議と飽きなかった。それどころか、この時間がもう少し続けばいいとさえ思っている。


「リビア」


「何?」


「俺、今日ずっとリビアといるな」


「……嫌?」


「その聞き方するんだな」


「だって、気になるもの」


 リビアは冗談めかしているようで、俺の答えを待つ目だけは真剣だった。だから適当に流す気にはなれない。


「嫌じゃないよ」


 むしろ、その逆だ。


 昼間なら簡単に認められたはずの言葉が、今は喉のところで少し引っかかった。俺はカップの中で揺れる茶の表面へ視線を落とし、自分の胸の内側にあるものを確かめるように息を吐く。


「……好きだから」


「え?」


「リビアと一緒にいるの」


 昼に考えたことと同じはずなのに、今度は口にした瞬間、心臓が少し速くなった。


 リビアはすぐには返事をしなかった。驚いたように目を見開いたまま俺を見ていて、やがて頬がゆっくり赤くなっていく。


「セス」


「何?」


「こっち見て」


「見てるけど」


「ちゃんと」


 促されるまま正面から目を合わせると、逃げ場がなくなったような気がして、なぜか俺まで落ち着かなくなる。けれどリビアは笑っていた。


「私も、セスと一緒にいるの、好きよ」


 知っているはずのことだった。リビアは昔から俺を大切にしてくれていて、今でははっきり好きだと言い、結婚したいとまで言っている。


 だから、今さら驚くような言葉ではない。それなのに、夕暮れの庭で向かい合って聞いたその一言は、今までとは違う場所へ入ってきたような気がした。


「……うん」


 結局、それしか返せなかった。


 もっと何か言うべきなのかもしれない。けれど、自分でもまだ分からないものを無理に言葉へ変えることは出来ず、リビアも続きを求めなかった。


 彼女はただカップを持ち上げ、静かに茶を飲んだ。俺も同じようにカップへ口をつけ、二人の間にしばらく言葉のない時間が流れる。


 沈黙なのに気まずくなかった。むしろ、何かを話さなければならないと思わなくていいことが心地よく、風に揺れる葉の音までゆっくり聞いていられる。


 俺はたぶん、こういう時間も好きなのだと思う。


 しばらくして、リビアがカップを置いた。表情からさっきまでの照れが少し薄れ、代わりに真面目な色が浮かんでいる。


「明日、私もいるからね」


「測定?」


「うん」


「見てるだけだろ?」


「それでも。セスが無茶しそうなら止めるわ」


「先生、何人もいるよ」


「私も止める」


「止める人、多すぎない?」


「セスには必要でしょう?」


「そこまで信用ない?」


 冗談のつもりで言ったのだが、リビアは笑わなかった。ゆっくり首を横へ振り、カップの取っ手へ置いた指先を止める。


「違うわ。信用してるから止めるの」


「信用してるから?」


「セスが出来るってことは信用してる。五属性を使えることも、切り替えられることも、複合魔術を扱えることも疑ってないわ。でも、出来るからやる、になりやすいのも知ってる」


「……なるほど」


「それにね、私はセスがどれだけすごいかを見るためだけに行くんじゃないの」


 リビアの声が少しだけ柔らかくなる。その表情を見た瞬間、何を言われるのか分からないのに、俺は自然と背筋を伸ばしていた。


「じゃあ、何で?」


「ちゃんと帰ってくるのを見るため」


 胸の奥が、静かに動いた。


 以前の俺なら、学園の管理下で行う測定から帰ってこられないなんて大げさだと笑ったかもしれない。危険な高出力は使わないし、教師たちもいるのだから問題ないと、事実だけを並べて安心させようとしたはずだ。


 けれど、今日はその言葉を笑えなかった。


 フレイムストームの中へ入った俺を、リビアは後ろから見ていた。俺自身は勝てると思っていたし、実際に戻ることも出来たけれど、彼女には俺が無事に戻る保証などなかった。


 あの時に感じたものが、たった数日で消えるわけではない。


「分かった」


 俺はカップを置き、リビアの目を見た。


「明日は、ちゃんと帰る」


「測定なんだから当たり前よ」


「うん。でも約束する。先生に止められたら止めるし、危ないって言われたことはやらない。自分でも何か変だと思ったら、ちゃんと言う」


 リビアの目が少しだけ見開かれた。以前なら「大丈夫」とだけ言って終わっていた俺が、自分から止まる条件を口にしたことに驚いているのかもしれない。


 そこまで言ったところで、自分の中にもう一つ言いたいことがあるのに気づいた。


「だから、リビアも見てて」


 口にした俺自身が、一番驚いた。


 これまでずっと、守るのは俺だと思っていた。見ているのも俺で、何かが起きれば先に動き、リビアが危険にならないようにする。


 それはこれからも変わらないと思う。


 でも、俺が自分自身のことを全部一人で見ていなければならないわけではない。


 明日の測定で自分が夢中になりすぎた時、リビアが見ていてくれる。俺が大丈夫だと思っていても、彼女が心配しているなら一度止まって考える。


 そうやって、自分のことを少し誰かへ預けてもいいのかもしれない。


「任せて」


 リビアが静かに答えた。


 その言葉を聞いた瞬間、幼い頃から何度も交わしてきたやり取りが頭へ浮かぶ。


 後ろを頼む、と俺が言う。リビアが、任せて、と返す。


 戦う時に背中を預けるための言葉だった。


 けれど今は、少しだけ意味が違って聞こえた。戦うためだけではなく、俺自身が無事でいることまで預ける言葉になったような気がする。


「じゃあ、明日はよろしく」


「ええ。ちゃんと見てるわ」


 夕方の風が池の水面を揺らし、傾いた日差しが細かな波の上で砕けた。気づけば茶を飲み始めてからかなり時間が経っていて、最初に感じていた落ち着かなさはもうほとんど残っていない。


 何もしていないはずなのに退屈ではなかった。それどころか、頭の中を占めていた明日の測定への考えが少し静かになり、身体の力まで抜けているように感じる。


「リビア」


「何?」


「休むの、少し分かったかも」


「本当?」


「たぶん」


「何が分かったの?」


 すぐに答えようとして、少し考えた。休むということを説明するのは、魔術の仕組みを説明するより難しい気がする。


「何かしなくてもいい時間があっても、別に無駄じゃないってこと……かな。何もしないというより、何かしなきゃって考えなくていいというか」


 言葉にしながら自分でも確かめていると、リビアが柔らかく笑った。


「うん。それで十分だと思う」


「そっか」


 その後、夕食を知らせる使用人が来るまで、俺たちはそのまま庭で過ごした。


 明日の測定内容を細かく予想することはしなかった。シュザー家のことも話さず、剣や魔術の話もほとんど出なかった。


 代わりに今日の授業のことを話し、昼食の後にアルフォルド殿下が妙に不満そうだったことを思い出して笑った。明日の昼も二人で食べるなら何を持っていこうかと相談し、リビアが甘い菓子を一つ増やしたいと言えば、俺は果物も欲しいと返す。


 それだけの会話だった。


 けれど、それで十分だった。


 夕食後も俺は訓練場へ行かなかった。魔術を試すこともせず、自室へ戻ると明日の授業に必要な教科書と筆記具だけを確認し、いつもより早い時間に寝台へ入った。


 窓の外では王都の灯りが遠く瞬いていて、屋敷の中も少しずつ静かになっている。横になったまま目を閉じると、明日の測定より先に夕方のリビアの声が浮かんできた。


 ――私も、セスと一緒にいるの、好きよ。


 似たような言葉なら、これまで何度も聞いている。好きだと言われたことも、結婚したいと言われたこともあるのだから、今さら胸へ残る理由などないはずだった。


 それなのに、今日はなかなか消えてくれない。思い出すたびに胸の奥が温かくなり、それと同時にほんの少しだけ落ち着かなくなる。


 この感覚が何なのか、考えようとすれば考えられる気もした。


 けれど、途中でやめた。


 明日のことは明日でいい。まだ分からない気持ちも、分かる時になってから考えればいい。


 何でも先に確かめ、先に答えを出し、先に備えなければ落ち着かなかった俺が、そう思えるようになったこと自体が少し不思議だった。


 翌朝、目を覚ますと空は薄い青に染まり始めていた。


 いつも通り身支度を整え、制服の襟や袖に乱れがないことを確認する。ただし、その後で庭の訓練場へ向かうことはしなかった。


 剣を振らず、魔術も使わない。身体を動かしたくならなかったわけではないが、今日は放課後に測定があるのだから、朝からわざわざ負荷をかける必要はない。


 グレイヴに言われる前に、自分でそう決めた。


 朝食へ向かう途中、廊下の角を曲がったところでグレイヴと鉢合わせた。向こうも食堂へ向かう途中だったらしく、俺の姿を認めると足を止め、いつもの落ち着いた表情で軽く目を細める。


「おはようございます、セス」


「おはよう、グレイヴ」


 挨拶を交わしてそのまますれ違うのかと思ったが、グレイヴは動かなかった。何だろうと思って振り返ると、俺の顔から制服、そしてなぜか靴へと順番に視線を落としている。


「……何?」


「今朝は訓練場へ行かなかったようですね」


「うん」


「魔術も使用していませんね?」


「使ってないよ。今日は測定があるから」


 当たり前のことを答えたつもりだったのに、グレイヴはすぐには返事をしなかった。じっとこちらを見ているので、制服に何か付いているのかと思って袖まで確認してみるが、特におかしなところはない。


「何だよ」


「いえ。少し感心していただけです」


「俺、そんなに信用なかった?」


「信用の問題ではありません。昨日までのお前なら、『軽く身体を動かす程度なら測定に影響しない』と言って、いつも通り剣を振っていたでしょう」


 言われて想像してみると、かなりの確率でやっていた気がする。むしろ朝の鍛錬程度で影響が出るなら、その状態まで含めて測ればいいのではないかと考えていた可能性すらあった。


「……たぶん言ってた」


「でしょうね」


「でも今日はやめたよ。昨日休んだし、せっかくなら余計なことをしない状態で測った方がいいだろ?」


「ええ。それでいいのです」


 グレイヴはそう言うと、俺の肩へ軽く手を置いた。ほんの一瞬触れただけで、すぐにいつものように手を離して歩き始める。


 それでも、その短い仕草が妙に胸へ残った。執事長が部下を評価したというより、父親として褒められたように感じてしまい、俺は少しだけ照れくさくなりながらその隣へ並ぶ。


「行きましょう。朝食の時間です」


「うん」


 並んで食堂へ向かいながら、今日の予定を頭の中で確認する。


 学園へ行って、午前の授業を受ける。昼には昨日約束した通りリビアと二人で食事をして、午後の授業が終わったら第二魔術訓練場へ向かう。


 そこで追加測定を受ける。


 何が分かるのかは、まだ知らない。


 先生たちが俺の魔術をどう見るのかも、自分自身が何に気づくのかも分からない。それでも昨日までのように、分からないから先に全部確かめておこうとは思わなかった。


 危険なら止まる。


 分からなければ聞く。


 先生たちがいるのだから、俺一人で判断する必要もない。


 全部を一度に背負わず、一つずつやればいい。


 食堂の扉を開けると、すでに席についていたリビアがこちらを向いた。朝の光を受けた銀青色の髪が淡く輝き、俺の顔を見るなり、何も聞いていないのに少し安心したように笑う。


「おはよう、セス」


「おはよう、リビア」


「今朝、訓練した?」


「してないよ」


「魔術は?」


「使ってない」


 俺が答えると、リビアの笑顔がさらに大きくなった。昨日のグレイヴといい、どうやら俺が本当に何もしなかったこと自体が、それほど珍しいらしい。


「ちゃんと休めたのね」


「昨日教えてもらったからな」


「じゃあ、少しは休むの上手になった?」


「一日で上手になるものなの?」


「セスなら、覚えれば早いでしょう?」


「剣とか魔術と同じ扱いにしないでくれよ」


 苦笑しながら席へ向かう。以前なら自然とリビアの椅子を引こうとしていたところだが、今日はすでに彼女が座っていることもあり、俺はそのまま隣の席へ腰を下ろした。


 昨日よりも自然に、そこへ座れた。


 そのことに気づいたのは、席についてからだった。


 リビアも気づいたのかもしれない。けれど何も言わず、ただ嬉しそうに俺の方へ少しだけ身体を向けている。


 今日は学園四日目。


 放課後には、五属性の追加測定が待っている。


 それでも、今はまず朝食だ。


 焼きたてのパンから立つ湯気と、食堂に漂うスープの香りを感じながら、俺は目の前の一日を一つずつ過ごしていけばいいのだと思った。


 そして隣を見ると、リビアがまだ少しだけ嬉しそうに笑っている。


 昨日までなら、どうしてそんな顔をしているのかと尋ねていたかもしれない。


 今日は何となく分かる気がして、俺も何も聞かなかった。


 ただ、自分から彼女の隣へ座ったことが思っていたより心地よくて、そのまま朝食へ手を伸ばした。

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