第152話 公爵令嬢様は、俺が一人で抱え込もうとすると誰より早く気づくらしい
朝の食堂へ向かう途中、俺は廊下の窓から庭園を眺めていた。
昨日まで地面に残っていた雨の名残はほとんど消え、庭師たちが手入れをしている花壇には、朝日を受けた小さな水滴だけが残っている。開け放たれた窓からは涼しい風が入り、磨き上げられた廊下を通り抜けて、壁際に飾られた花の香りを運んできた。
今日は学院で、公開講習に関する追加の説明が行われる予定になっている。
昨日の帰り際、担当教師から参加者へ連絡があり、講習で使用する施設の確認について説明するので、放課後に集まるよう伝えられたのだ。
正式な役割や班分けが発表されるとは聞いていない。
それでも、これまで資料や仮の演習でしか確認できなかったことを、実際の施設と照らし合わせられるのなら、参加する意味は大きいだろう。
(……昨日の反省も、少しは役に立つかもしれないな)
俺はそんなことを考えながら、食堂へ続く廊下を歩いた。
曲がり角へ差しかかったところで、向こう側からリビアが姿を現した。
銀青色の髪を丁寧に整え、学院へ向かう準備を済ませた彼女は、俺を見つけると嬉しそうに目を細める。公爵令嬢としての落ち着いた佇まいはいつもどおりだったが、俺へ向けられた笑顔には、幼いころから見慣れた柔らかさがあった。
「おはよう、セス。今日は少し早いのね」
「おはよう、リビア。昨日の資料をもう一度見ておこうと思って、早めに準備を済ませたんだ」
「公開講習のこと?」
「うん。放課後の説明で何を確認することになるか分からないから、昨日の演習で気になったところを整理しておこうと思って」
俺が答えると、リビアは小さく頷いた。
「私も同じことを考えていたわ。昨日、先生に相談して分かったことを、今度は実際の場面でどう生かせるのか確かめたいの」
「そっか。じゃあ、今日はお互いに確認したいことがあるんだね」
「ええ。でも、セス。ひとつだけ約束してほしいことがあるの」
彼女はそこで足を止め、俺の顔をまっすぐ見つめた。
真剣な表情だったので、俺も自然と姿勢を正す。
「何?」
「今日、何か気になることがあっても、一人で全部解決しようとしないでね」
思いがけない言葉に、俺は瞬きをした。
「……そんなに一人で何でもやろうとしてるかな?」
「しているわ」
返事は驚くほど早かった。
リビアは少しだけ頬を膨らませたあと、困ったように笑う。
「もちろん、以前よりはずっと相談してくれるようになったと思っているの。でも、あなたは誰かが困っていると、自分にできることを先に考えてしまうでしょう?」
「それは……まあ、そうかもしれないけど」
「できることを考えるのは素敵よ。ただ、その途中で、自分が何を引き受けようとしているのか分からなくなることがあるのではないかしら」
俺はすぐに答えられなかった。
昨日の事前演習では、担当者へ仕事を任せたあとも自分の責任が続くことを学んだ。
けれど、その前提には、自分がどこまで担当しているのか理解している必要がある。
困っている人を見つけたとき、俺は相手の問題を解決する方法ばかり考えてしまうことがある。結果として、自分の仕事と相手の仕事の境界を曖昧にしてしまえば、かえって混乱を招くかもしれない。
「……分かった。今日は、何か気になることがあったら、ちゃんと相談するよ」
「本当?」
「うん。リビアにも、必要なら相談する」
そう答えると、彼女の表情がぱっと明るくなった。
「それなら安心したわ。私も、分からないことはきちんと確認するつもりよ」
リビアは満足そうに頷き、俺の隣へ並んだ。
俺たちは食堂へ向かって歩き始めたが、彼女はしばらくしてから、思い出したようにこちらを見上げた。
「それと、セス。私が昨日、先生に一人で相談したことを、寂しいと思ったりしなかった?」
「昨日も聞かれた気がするんだけど」
「昨日は確認しただけよ。今日は、もう一度聞いているの」
彼女が少し得意げに言うので、俺は思わず笑ってしまった。
「寂しいっていうより、嬉しかったよ。リビアが自分で考えて行動したことも、あとで俺に話してくれたことも」
その言葉を聞いたリビアは、ほんの少しだけ歩調を緩めた。
横顔へ朝日が差し込み、白い頬が薄く赤く染まる。
「……そういうことを、何でもないように言うのね」
「何か変だった?」
「いいえ。何も変ではないわ」
彼女は前を向き直り、俺の袖へそっと指を添えた。
「だから、困ってしまうのよ」
その声は小さかったが、どこか嬉しそうだった。
俺は彼女の言葉の意味を考えながら、朝の食堂へ足を進めた。
◇
学院へ到着すると、教室ではすでに公開講習の話題が広がっていた。
昨日の事前演習に参加した生徒たちが、放課後の説明についてそれぞれ予想しているらしい。正式な役割が発表されるのではないかという声もあれば、単なる施設見学だろうという意見もあり、まだ確かなことは分からなかった。
俺が席へ向かうと、ガレスがこちらへ身を乗り出してきた。
「セス、聞いたか? 今日の放課後、講習で使う場所を確認するらしいぞ」
「うん。昨日、先生から連絡があったよね」
「いや、それは知ってるんだけどさ。実際に使う場所を見られるなら、搬入口とか荷物の置き場も確認できるんじゃないかと思って」
ガレスは期待を隠せない様子だった。
彼は商人役を希望している。
昨日の仮演習では、荷物を受け取る側の準備を十分に確認しないまま動いてしまったと話していたから、実際の搬入経路には興味があるのだろう。
「確認できるといいね。でも、どこまで見学できるかは先生の説明を聞かないと分からないよ」
「分かってるって。勝手に歩き回るつもりはないさ」
ガレスはそう言って笑ったが、すぐに少し真面目な表情へ戻った。
「昨日のことがあるからな。今度は、相手がどこで受け取るのかもちゃんと知っておきたいんだ」
その言葉に、俺は頷いた。
ガレスも昨日の失敗を、自分なりに受け止めている。
それは俺にとって、少し嬉しいことだった。
そこへサザリーが手帳を持ってやってきた。
「二人とも、今日の説明について話しているの?」
「そうだよ。ガレスが搬入口を見たいって」
「それなら、確認したいことを先に書いておいた方がいいかもしれないね。実際に見学できる時間が限られていたら、全部を確認できるとは限らないから」
サザリーは手帳を開き、いくつかの項目を示した。
通路の幅、案内表示の位置、受付から各部屋までの経路。
昨日の演習で気になったことが、簡潔に整理されている。
「サザリー、もうまとめてあるんだね」
「昨日のうちに書いておいたんだ。僕は案内担当だったから、実際の通路を見ないと分からないことが多かったし」
彼はそう言って、少し照れたように笑った。
俺は手帳の内容を眺めながら、自分のノートにも確認事項を書き加えた。
受付で来訪者を待たせる場所はあるのか。
案内担当が別の対応をしている場合、誰へ連絡するのか。
通路が混雑したとき、来訪者をどこへ誘導するのか。
書き始めると、思っていた以上に気になることが出てきた。
「……結構あるな」
俺が呟くと、ガレスが横から覗き込んだ。
「お前、そんなに考えてたのか?」
「昨日、分からなかったことを整理してたら増えちゃって」
「それ、全部先生に聞くつもりか?」
俺はノートを見下ろした。
確かに、すべてを質問していたら時間が足りなくなるかもしれない。
「……まずは、今日の説明で分かることを確認してからかな」
「それがいいと思うよ」
サザリーが頷いた。
「説明を聞けば解決することもあるだろうし、実際に見て初めて分かることもあるはずだから」
俺はその意見を聞き、ノートの端に小さく印を付けた。
今すぐ答えが必要なことと、説明を聞いてから考えればよいこと。
その二つを分けるだけでも、少し整理しやすくなった。
◇
午前の授業が終わり、昼休みになると、俺たちは食堂へ向かった。
今日はエミリアも一緒だった。
彼女は公開講習には参加しないが、昨日から俺たちの話を興味深そうに聞いている。
「皆さん、今日は施設の確認をするんですね」
エミリアはそう言って、手にした食器を静かに置いた。
「実際に使う場所を見られるなら、昨日の演習とはまた違うことが分かりそうです」
「そうなんだよ。俺は搬入口を見てみたいんだけどな」
ガレスが答えると、エミリアは少し考え込んだ。
「でも、搬入口って、荷物を運ぶ人だけが使う場所ではないんですよね?」
「ん? どういうことだ?」
「荷物を受け取る人もいますし、運ばれてきたものを確認する人もいるでしょう? 同じ場所でも、立場によって気になることが違うのかなと思って」
ガレスは一瞬だけ黙り、それから大きく頷いた。
「なるほどな。俺、また運ぶ側のことばっかり考えてた」
その様子を見て、サザリーが小さく笑った。
「エミリアさんの言うとおりだね。僕たちも、案内する側から見た通路だけじゃなくて、初めて来る人がどう見えるか考える必要がありそうだ」
「そうね」
リビアが静かに口を開いた。
「使用人の立場でも、同じことが言えると思うわ。自分の仕事がどこで終わるのかだけではなく、その仕事が次に誰へつながるのかを知っておく必要があるもの」
彼女は昨日、教師へ相談した内容を思い出しているのだろう。
落ち着いた声だったが、言葉の一つ一つを確かめるように話していた。
「昨日の私は、別の方から頼まれたことを引き受ければ、それで助けられると思っていたの。でも、最初に任されていた仕事を待っている方のことまで、十分に考えられていなかったわ」
エミリアは彼女の話を聞き、優しく微笑んだ。
「オリビア様がそうやって考えていらっしゃるなら、次はきっと違う判断ができますね」
「そうだと嬉しいわ。でも、まだ実際にできるかどうかは分からないから、今日はしっかり確認しておきたいの」
リビアはそう答えたあと、俺へ視線を向けた。
「セスも、今日は確認したいことがあるのでしょう?」
「うん。昨日の受付補助で気になったことを、いくつか書いてきたんだ」
「まあ。どんなこと?」
俺はノートを取り出し、朝に整理した項目を見せた。
リビアは俺の隣へ少し身を寄せ、丁寧に目を通していく。
その距離が近くなったことに気づいたのか、向かいに座っていたガレスが口元を緩めた。
「……お前ら、本当に仲いいよな」
俺が顔を上げると、ガレスは楽しそうに笑っていた。
「何だよ、急に」
「いや、別に。普通に資料を見てるだけなのに、何か楽しそうだなって」
その言葉に、リビアは一瞬だけ頬を赤くした。
けれど、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻り、少しだけ顎を上げる。
「婚約者なのだから、仲がよいのは当然でしょう?」
堂々とした返事だった。
ガレスは目を丸くしたあと、声を立てて笑った。
「それもそうだな!」
俺は苦笑しながらノートを閉じた。
リビアは満足そうに微笑んでいたが、机の下では俺の袖をそっとつまんでいる。
その小さな仕草が何だか可愛らしくて、俺は彼女へ向けて微笑み返した。
◇
放課後、公開講習の参加者たちは指定された教室へ集まった。
窓の外では午後の陽光が校舎の壁を照らしており、廊下には授業を終えた生徒たちの声がまだ残っている。教室の前方には学院の施設図が置かれ、その横には講習で使用する予定の部屋を示した簡単な資料が並べられていた。
俺はリビアと一緒に教室へ入り、空いている席へ腰を下ろした。
少し離れたところにはガレスとサザリーが座っている。
レオルもすでに来ており、施設図をじっと眺めていた。
やがて担当教師が入室し、参加者たちへ向き直った。
「皆さん、昨日の事前演習、お疲れさまでした。今日は公開講習で使用する予定の施設について、実際の配置を確認してもらいます」
教室の中に、わずかなざわめきが広がった。
教師はそれが落ち着くのを待ってから、説明を続けた。
「ただし、最初に確認しておきます。今日の見学は、正式な役割や班分けの発表ではありません。昨日の仮の班とも、必ずしも一致しませんので、その点は誤解しないようにしてください」
俺はその言葉を聞き、ノートへ書き込んだ。
正式な役割は、まだ決まっていない。
だからこそ、今日の見学では特定の役割だけに意識を向けすぎない方がよいのだろう。
「今回確認するのは、受付予定場所、来訪者の待機場所、講習用の部屋、それから物品の搬入経路です。施設は通常の学院活動でも使用していますので、許可された範囲から出ないでください」
教師は施設図を指し示した。
「また、気になる点を見つけても、その場で設備や表示を変更してはいけません。必要なことは記録し、担当者へ伝えてください」
俺はその説明を聞きながら、以前から問題になっている北側階段付近の案内表示を思い出した。
あちらも、学生だけで勝手に変更してよいものではない。
今日の見学で何か気づいたとしても、まずは確認が必要だ。
教師は参加者たちの様子を見渡し、最後にこう付け加えた。
「それでは、移動します。見学中は、周囲の通行を妨げないよう注意してください」
俺たちは席を立ち、教師の案内に従って教室を出た。
◇
最初に向かったのは、公開講習で受付を設ける予定の広間だった。
そこは普段、学院の行事などで使われる場所らしく、入口の両側には大きな窓が並び、奥には複数の扉が見えている。床は磨き上げられた石材で、歩くたびに靴音が静かに響いた。
教師は入口付近で足を止め、参加者たちへ説明した。
「ここに受付を設ける予定です。来訪者は正面の入口から入り、必要な確認を済ませたあと、担当者の案内に従って各部屋へ移動します」
俺は入口から広間全体を見渡した。
正面の扉から入った場合、受付予定場所は比較的分かりやすい。
けれど、複数の人が同時に入ってきたらどうなるだろう。
受付の前に列ができれば、後ろから来た人がどこへ並べばよいか迷うかもしれない。
(……待機場所の案内も必要になるのかな)
俺がそんなことを考えていると、隣にいたサザリーが小声で話しかけてきた。
「セス、入口から見たら、奥の扉が少し分かりにくくない?」
「うん。受付がある場所からなら見えるけど、初めて来た人はどこへ向かえばいいか迷うかもしれないね」
サザリーは頷き、手帳へ書き込んだ。
「案内担当がどこに立つかも大事そうだね」
「そうだね。でも、立つ場所を決めるのは俺たちじゃないから、まずは気になることとして記録しておこう」
俺が答えると、サザリーは少し嬉しそうに笑った。
「うん。昨日のこと、ちゃんと生かしてるね」
その言葉に、俺は少し照れくさくなった。
まだ何かを解決したわけではない。
ただ、勝手に判断しないよう意識しているだけだ。
それでも、以前の自分なら、すぐに案内役の配置を考え始めていたかもしれない。
少し離れた場所では、リビアがレオルと施設図を見比べていた。
彼女は使用人役を希望しているが、今日は特定の仕事だけに目を向けているわけではないようだった。
レオルが図面の一箇所を指し示すと、リビアは頷きながら何かを尋ねている。
俺はその様子を見て、少しだけ安心した。
彼女も、自分の考えを誰かと確かめながら進めているのだ。
そのとき、教師が次の場所へ移動するよう声をかけた。
俺たちは広間を出て、講習用の部屋へ続く廊下を歩き始めた。
◇
次に案内されたのは、複数の部屋が並ぶ通路だった。
広間よりも廊下の幅が狭く、片側には窓、反対側には扉が並んでいる。授業で使われている部屋もあるため、教師は参加者たちへ静かに歩くよう注意した。
俺は歩きながら、通路の幅や扉の位置を確認していた。
来訪者を案内する場合、ここでは一度に多くの人が立ち止まることは難しそうだ。
特に、扉の前で説明を始めれば、後ろから来る人の通行を妨げるかもしれない。
俺はノートへ簡単な図を描き、気になった場所に印を付けた。
すると、前方で小さな声が上がった。
「すみません、少しよろしいでしょうか」
声を上げたのは、参加者の一人だった。
彼は廊下の端に置かれている移動式の台を指差している。
台の上には、講習用と思われる木箱がいくつか積まれていた。
「この台は、当日もここに置かれる予定なのでしょうか」
教師は台へ目を向け、少し考えた。
「現時点では、物品の仮置きに使われています。ただし、当日の配置はまだ最終決定していません」
「そうなんですね。通路が少し狭くなっているように見えたので」
「よい確認です。では、通行にどのような影響があるか、皆さんも考えてみてください」
教師の言葉を受け、参加者たちは周囲を見渡した。
俺も台の位置を確認した。
確かに、そこに台があることで、通路の幅は少し狭くなっている。
ただ、すぐに危険だと断定できるほどではない。
人がどの程度通るのか、荷物をいつ移動するのかによっても状況は変わるだろう。
「……これ、台を少し動かした方がいいんじゃないか?」
近くにいたガレスが小声で言った。
俺は台へ視線を向けたあと、彼へ首を振った。
「今は動かさない方がいいと思う。何のために置いてあるか、全部分かってるわけじゃないし」
「ああ、そうか。そうだったな」
ガレスは少し苦笑した。
「昨日の俺なら、たぶん先に動かしてたかもしれない」
「俺も、前だったらそう考えたかもしれないよ」
そう答えたところで、リビアが俺たちの近くへやってきた。
「セス、少し相談してもいいかしら」
「もちろん。どうしたの?」
彼女は台の方へ視線を向けた。
「この台について、レオルさんと話していたの。通路の幅だけでなく、どの部屋から使う道具なのかも確認した方がよいのではないかと思って」
「なるほど。置き場所を変えたら、使う人が困るかもしれないもんね」
「ええ。昨日の私の失敗と、少し似ている気がしたの」
リビアは落ち着いた声で続けた。
「通路を広くすることだけを考えて台を動かしてしまえば、今度は道具を使う方が困るかもしれないでしょう?」
俺はその言葉に頷いた。
確かに、台を動かすことで通路は広くなるかもしれない。
けれど、そこに置かれている理由が分からなければ、別の問題を生む可能性がある。
「じゃあ、先生に確認してみようか」
俺がそう言うと、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。私もそう思っていたの」
俺たちは教師のもとへ向かい、台の用途について尋ねた。
教師は説明を聞いたあと、穏やかに頷いた。
「よい質問ですね。この台は、講習用の物品を一時的に置くために使用しています。ただし、当日も同じ場所へ置くとは限りません」
教師は台の上の木箱へ目を向けた。
「皆さんが気づいたように、通路の幅と物品の扱いやすさは、どちらも考える必要があります。どちらか一方だけを優先すると、別の問題が起こることもあります」
リビアは真剣な表情で頷いた。
「では、当日の配置を決める際には、通行する方と物品を扱う方の両方の状況を確認する必要があるのですね」
「そのとおりです。ただし、最終的な配置を決めるのは施設の担当者です。皆さんは、気づいた点を記録して伝えることができます」
俺はその説明を聞きながら、ノートへ書き込んだ。
問題を見つけることと、勝手に解決することは違う。
それを理解しているつもりでも、実際の場面では判断が難しい。
けれど、今日のように一度立ち止まって確認できれば、少なくとも自分の思い込みだけで動くことは避けられる。
教師は参加者たちへ次の場所へ移動するよう伝え、俺たちは再び歩き始めた。
◇
最後に案内されたのは、物品の搬入に使用する予定の通路だった。
建物の裏手へ続くその場所は、先ほどまでの廊下とは雰囲気が違っていた。壁には作業用の掲示があり、床には荷車が通ることを想定した広い部分が設けられている。
ガレスは興味深そうに周囲を見渡していた。
「へえ……思ってたより広いな」
「荷物を運ぶ場所だからね」
俺が答えると、彼は頷いた。
「でも、ここから先に運ぶなら、どの扉を使うか確認しないといけないな」
ガレスはそう言って、通路の奥へ視線を向けた。
そこには複数の扉があり、用途を示す小さな札が掛けられている。
俺たちは教師の説明を聞きながら、それぞれの位置を確認した。
搬入した物品は、担当者による確認を受けたあと、必要な場所へ運ばれる予定らしい。
ただし、当日の詳しい手順については、まだ調整中だという。
ガレスはその説明を聞き、少し考え込んだ。
「……先生、ひとつ質問してもいいでしょうか」
「どうぞ」
「荷物を運んできた人が、受け取る側の準備ができていないことに気づいた場合、どこで待つことになるんでしょうか」
教師はガレスへ視線を向けた。
「よい質問ですね。現時点では、搬入の順番や待機場所も含めて調整しています。今日の段階では、皆さんに確定した手順として伝えられるものではありません」
「分かりました。ありがとうございます」
ガレスは素直に頭を下げた。
その様子を見て、俺は少し驚いた。
昨日、彼は荷物を早く渡すことばかり考えてしまったと話していた。
けれど、今日は受け取る側の準備について、自分から質問している。
たった一日の違いかもしれない。
それでも、彼なりに考え方を変えようとしていることが伝わってきた。
「ガレス、いい質問だったね」
俺が小声で言うと、彼は少し照れたように笑った。
「昨日の失敗があったからな。次は同じことをしないようにしたいんだよ」
「うん。俺もそう思う」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
そのあと、教師は搬入通路の見学を終え、参加者たちを最初の教室へ戻すことにした。
◇
教室へ戻ると、教師は今日の見学について簡単な振り返りを行った。
参加者たちはそれぞれ気づいたことを発表し、教師は必要に応じて補足を加えていく。
通路の幅。
案内表示の位置。
物品の仮置き場所。
受付から各部屋までの経路。
どれも、実際に歩いてみなければ分からなかったことだった。
俺も、受付付近で来訪者が待つ場合の案内について質問した。
教師は、当日の具体的な配置はまだ調整中だと説明したうえで、来訪者の動きと担当者同士の連絡を考える必要があると教えてくれた。
俺はその内容をノートへ書き込み、今後確認する項目として残した。
やがて、教師は参加者たちへ向き直った。
「皆さん、今日はお疲れさまでした。正式な役割と班分けについては、調整が終わり次第、改めて連絡します」
教室の中に、少しだけ期待を含んだざわめきが広がった。
「それまでの間、今日確認した施設の特徴を整理しておいてください。ただし、まだ決まっていないことを、確定したものとして扱わないよう注意してください」
教師は最後にそう伝え、説明を終えた。
俺たちは資料を片づけ、教室を出た。
廊下には夕方の光が差し込み、窓の外では帰宅する生徒たちの姿が見えている。
ガレスはサザリーと話しながら、今日の見学で気になったことを整理していた。
レオルも施設図を見直しているらしく、少し離れたところで教師へ質問している。
俺はその様子を眺めながら、ノートを閉じた。
「セス」
隣から声をかけられ、顔を向けると、リビアが俺を見つめていた。
「今日は、ちゃんと相談してくれたわね」
「……うん。朝の約束、覚えてたから」
「ふふっ。嬉しいわ」
彼女は柔らかく微笑んだ。
「それに、私もあなたに相談できてよかったの。台のことを見つけたとき、一人で考えていたら、また自分の判断だけで進めようとしていたかもしれないもの」
「でも、今日はちゃんと確認できたよね」
「ええ。あなたが一緒に考えてくれたから」
俺は少し照れくさくなり、視線を落とした。
「俺も、リビアが相談してくれて嬉しかったよ」
そう答えると、彼女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、少しだけ頬を赤くして微笑んだ。
「……本当に、あなたはそういうことを自然に言うのね」
「何か変だった?」
「いいえ。とても嬉しかっただけよ」
リビアはそう言って、俺の袖へそっと指を添えた。
俺たちは並んで廊下を歩き始めた。
◇
屋敷へ戻るころには、空が夕暮れの色へ変わっていた。
馬車を降りると、玄関では使用人たちが出迎えてくれた。俺は礼を伝え、リビアと別れてから、夕方の仕事へ向かった。
執事見習いとしての仕事は、学院での講習とは違う。
実際に屋敷で働く以上、自分の判断がほかの使用人や旦那様、リビアの生活へ影響することもある。
だからこそ、今日学んだことを、ただの演習の知識として終わらせたくなかった。
俺は担当する仕事を確認し、必要な道具の準備を進めた。
その途中、父さんと顔を合わせた。
「クルセス。今日の学院はどうだった?」
「公開講習で使う予定の施設を見学してきました。受付や搬入通路を実際に確認できたので、昨日の演習で分からなかったことを少し整理できました」
俺が答えると、父さんは静かに頷いた。
「そうか。何か気づいたことはあったか?」
「はい。通路に物品を置く場合、通行のしやすさだけじゃなくて、使う人の都合も考える必要があると思いました」
「なるほど」
父さんは少し考え込んだあと、俺へ視線を向けた。
「それで、お前はどうした?」
「気になったことを先生に確認しました。まだ正式な配置は決まっていないそうなので、勝手に判断しないようにしました」
その返事に、父さんはわずかに口元を緩めた。
「以前のお前なら、どうすれば通路を広くできるか、先に考えていたかもしれんな」
「……そうかもしれません」
「だが、今回は確認した。悪くない判断だ」
父さんはそう言って、俺の肩へ軽く手を置いた。
「ただし、確認することだけが目的になってはいけない。何を知る必要があるのか、誰へ尋ねるべきなのか、それも考えなさい」
「はい」
「お前は、仕事を覚えるのが早い。だからこそ、分からないことをそのままにせず、周囲と協力することを忘れるな」
俺は父さんの言葉を胸に刻み、深く頷いた。
そのあと、残っていた仕事を済ませ、自室へ戻ることにした。
◇
夜、自室の机へ向かうと、俺は今日の見学で書いたノートを開いた。
受付の位置、通路の幅、物品の仮置き場所。
実際に歩いた場所を思い出しながら、簡単な図を描き直していく。
正式な役割はまだ決まっていない。
だから、今の段階で特定の仕事だけに絞って準備する必要はないだろう。
俺は今日確認したことと、まだ分からないことを分けて書き込んだ。
その作業を続けていると、扉が控えめに叩かれた。
「セス、起きているかしら」
聞き慣れた声に、俺は顔を上げた。
「リビア? うん、起きてるよ」
扉を開けると、リビアが立っていた。
彼女は部屋着に着替えており、銀青色の髪が肩へ柔らかく流れている。
「少しだけ、お話ししてもいい?」
「もちろん」
俺が招き入れると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
彼女は机の上のノートへ目を向け、少し不思議そうに首を傾げる。
「今日の見学のことを整理していたの?」
「うん。忘れないうちに書いておこうと思って」
「まあ。見せてもらってもいいかしら」
「もちろんだよ」
俺はノートを彼女の方へ向けた。
リビアは椅子の隣へ立ち、図をじっと眺めた。
「……セス、これだけのことを確認していたのね」
「気になったところを書いてただけだよ」
「それでも、すごいわ」
彼女はそう言って微笑んだ。
けれど、次の瞬間、少しだけ真剣な表情になった。
「でも、セス。ひとつ気になることがあるの」
「何?」
「あなた、今日の見学で分からなかったことを、全部自分で整理しようとしていない?」
俺は思わずノートへ視線を落とした。
確かに、気になることを書き出しているうちに、いつの間にか項目が増えていた。
サザリーが確認したことも、ガレスが質問したことも、レオルが気づいたこともある。
それなのに、俺は自分のノートだけで全体を整理しようとしていたのかもしれない。
「……そうかも」
俺が答えると、リビアは少しだけ困ったように笑った。
「やっぱり。朝、約束したでしょう?」
「うん。何でも一人で抱え込まないって」
「ええ。今日の見学でも、あなたはちゃんと相談してくれたわ。でも、帰ってからまた一人で全部考えようとしているように見えたの」
彼女はそう言って、俺の隣へ腰を下ろした。
「ねえ、セス。今日のこと、私にも聞かせてくれない?」
「……リビアも、疲れてるんじゃない?」
「疲れているわ。でも、あなたと話したいと思っているの」
その言葉に、俺は少し驚いた。
リビアは俺の顔を見つめ、柔らかく微笑んだ。
「あなたが何を考えているのか知りたいの。全部を私が解決できるわけではないけれど、一緒に考えることはできるでしょう?」
俺はしばらく黙っていた。
彼女の言葉は、今日の見学で学んだこととよく似ていた。
一人で判断するのではなく、必要な相手へ確認する。
自分ができることだけでなく、ほかの人が知っていることも大切にする。
それは、仕事だけの話ではないのかもしれない。
「……ありがとう、リビア」
俺がそう言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
「じゃあ、少しだけ一緒に考えてもらっていい?」
「もちろんよ」
リビアは嬉しそうに頷いた。
俺たちは机の上へノートを広げ、今日の見学で気づいたことを話し始めた。
受付の位置。
通路の幅。
物品の仮置き場所。
それぞれについて、俺が見たことと、リビアが気づいたことを照らし合わせていく。
彼女は俺とは違う場所から通路を見ていたため、俺が気づかなかったこともあった。
逆に、俺が受付側から考えていたことを話すと、リビアは興味深そうに頷いた。
話しているうちに、ノートの余白には新しい書き込みが増えていった。
けれど、それは俺一人で考えていたときとは違う。
分からないことが増えたとしても、不思議と気持ちは軽かった。
しばらくして、リビアがペンを置いた。
「……ねえ、セス」
「ん?」
「私、今日の見学で少し嬉しかったことがあるの」
「どんなこと?」
彼女は少しだけ頬を染めた。
「あなたが、私に相談してくれたことよ」
俺は瞬きをした。
「……そんなことで?」
「そんなこと、ではないわ」
リビアは少しだけ唇を尖らせた。
「私にとっては、とても大切なことなの。あなたはいつも、私を守ろうとしてくれるでしょう?」
「うん。それは当然だと思ってるけど」
「ええ。嬉しいわ。でもね、私は守られるだけではなくて、あなたの隣で一緒に考えたいの」
彼女はそう言って、俺の手へそっと触れた。
「あなたが困っているとき、私にも頼ってほしいの。何でもできるわけではないけれど、あなたの力になりたいと思っているから」
俺は彼女の手を見つめた。
細く柔らかな指が、俺の手へ重なっている。
その温かさを感じているうちに、胸の奥へ静かな感情が広がっていった。
(……リビアは、ずっとそう思ってくれていたんだな)
俺は彼女の手をそっと握り返した。
「……分かった。これからは、もっと頼るようにするよ」
「本当?」
「うん。俺も、リビアと一緒に考えたいから」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の表情が柔らかくほどけた。
銀青色の髪が肩から滑り、少しだけ俯いた頬が赤く染まっている。
「……嬉しいわ、セス」
リビアは小さな声でそう言った。
俺は彼女の手を握ったまま、静かに微笑んだ。
今日の見学で、俺たちはいろいろなことを学んだ。
正式な役割は、まだ決まっていない。
公開講習で何が起こるのかも分からない。
けれど、分からないことがあるからこそ、誰かと協力する意味があるのだろう。
俺は隣に座るリビアへ視線を向けた。
彼女は俺の手を握り返し、嬉しそうに微笑んでいる。
その笑顔を見ていると、これから先、どんな役割を任されることになっても、一人で抱え込む必要はないのだと思えた。
俺たちはもう少しだけ今日のことを話し、それからノートを閉じた。
リビアを部屋の前まで送り届けたあと、自室へ戻った俺は、机の上に置かれたノートをもう一度見つめた。
そこには、俺一人では気づかなかったことが、いくつも書き加えられている。
俺はその一つ一つを眺めながら、今日の出来事を静かに思い返した。
そして、明日もまた、分からないことを分からないままにせず、周囲の人たちと一緒に考えていこうと思いながら、部屋の灯りを落とした。




