第151話 公爵令嬢様は、俺が知らないところで新しい一歩を踏み出しているらしい
王立学院の正門をくぐったとき、俺はいつもと少し違う空気を感じていた。
昨夜の雨はすっかりやみ、石畳には朝日を受けて乾き始めた部分と、建物の影に隠れてまだ湿っている部分が入り交じっている。学院の中庭では庭師たちが落ち葉を集めており、校舎へ向かう生徒たちは、その作業を避けるように歩いていた。
俺の隣を歩くリビアは、普段どおり落ち着いた表情を浮かべている。
ただ、今朝の彼女は少しだけ静かだった。
昨日、俺たちは公開講習の事前演習に参加した。
俺は来訪者の受付補助を担当し、サザリーと協力しながら案内先の確認を行った。大きな混乱は起こさなかったものの、担当者へ仕事を任せたあとも自分の役割が続くことを、改めて考える機会になった。
一方のリビアは、希望していた使用人役を経験した。
けれど、途中で別の担当者から頼まれた仕事を、責任者へ確認せず引き受けてしまったらしい。その結果、最初に準備する予定だった部屋で必要な道具が足りなくなり、作業が遅れてしまったという。
帰りの馬車でその話を聞いたとき、彼女は少し悔しそうだった。
それでも、自分が何を間違えたのかを隠そうとはしなかった。
(……リビアは、昨日のことをまだ考えているのかな)
俺は隣を歩く彼女へ視線を向けた。
リビアは俺の視線に気づくと、少し不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの、セス? 何か気になることでもあるのかしら」
「ううん。ただ、昨日の演習のことを考えてたんだ。リビアは、今日は大丈夫?」
そう尋ねると、彼女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、少し困ったように微笑む。
「……大丈夫よ。昨日は少し悔しかったけれど、いつまでも落ち込んでいるつもりはないわ」
「そっか。それならよかった」
「でもね、セス。実は今朝、少し考えたことがあるの」
リビアは歩調を緩め、俺の方へ身体を向けた。
校舎へ向かう生徒たちの邪魔にならないよう、俺たちは通路の端へ寄った。
「昨日の演習では、私は自分が任された仕事を十分に理解しないまま、別の方のお願いを引き受けてしまったでしょう?」
「うん。でも、それは誰かを助けようと思ったからなんだよね」
「ええ。けれど、助けようとしたことと、正しい判断ができたことは別なのだと思うわ」
リビアはそう言って、少しだけ視線を落とした。
「だから、今日は授業が終わったあとに、先生へもう一度お話を伺おうと思っているの。昨日の演習について、まだ確認しておきたいことがあるから」
俺はその言葉を聞き、少し驚いた。
昨日、彼女はすでに担当教師へ相談している。
それでも、まだ自分の中で整理できていないことがあるのだろう。
「そうなんだ。俺も一緒に行こうか?」
思わずそう尋ねると、リビアは柔らかく笑った。
「ありがとう。でも、今回は一人でお話ししてみたいの」
その返事に、俺は少しだけ言葉を失った。
彼女は俺を遠ざけようとしているわけではない。
むしろ、俺が気にかけていることを理解したうえで、自分の力で確かめたいと言っているのだ。
「……分かった。じゃあ、終わったあとに話を聞かせてもらえる?」
「もちろんよ。昨日のお約束もあるもの」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
俺も頷き、再び校舎へ向かって歩き始めた。
そのとき、彼女が俺の袖をそっと引いた。
「セス」
「ん?」
「……私が一人で行くと言っても、寂しがらないでね?」
リビアは少し悪戯っぽく笑っていた。
俺は思わず苦笑する。
「そんなに子供じゃないよ」
「ふふっ。そうかしら。あなた、私が何かすると、すぐに心配してくれるでしょう?」
「それは……心配することもあるけど」
「知っているわ。だから、嬉しいのよ」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔を見ているうちに、俺の胸の奥にあった小さな寂しさは、少しずつ別の感情へ変わっていった。
リビアが自分で考え、自分で行動しようとしている。
それは、俺にとっても嬉しいことだった。
◇
教室へ入ると、ガレスがいつもより早く席に着いていた。
彼の机には昨日の事前演習で使った資料が広げられており、隣ではサザリーが手帳を開いている。
「おはよう、ガレス。今日はずいぶん早いね」
俺が声をかけると、ガレスは勢いよく顔を上げた。
「おう、セス! いや、昨日の演習のことをサザリーに聞いてたんだよ」
「昨日のこと?」
「ああ。俺、第四班で商人役をやったんだけどさ、思ってたより難しかったんだよな」
ガレスはそう言って、少しだけ苦笑した。
彼が希望していたのは商人役だった。
だから、仮の演習でもその役割を経験できたことは嬉しかったのだろう。
けれど、表情を見る限り、すべてが思いどおりに進んだわけではなさそうだった。
「どんなことがあったの?」
俺が尋ねると、ガレスは資料の一箇所を指差した。
「俺の役割は、屋敷へ届ける品物の数と到着予定を確認することだったんだ。でも、途中で別の担当者から、品物を先に受け取ってほしいって言われてさ」
「それで?」
「俺、商人としては早く渡した方がいいと思ったんだよ。けど、受け取る側の準備ができてなかったらしくて、結局、荷物を置く場所が決まらなかったんだ」
ガレスは頭をかきながら笑った。
「親父にも似たようなこと言われたことがあるんだけどな。売る側の都合だけで考えちゃ駄目だって」
俺はその話を聞き、昨日のリビアの失敗を思い出した。
もちろん、状況は同じではない。
けれど、自分の立場から見れば正しいと思った行動が、別の立場の人にとっては困ることになる場合がある。
「……ガレスも、昨日はいろいろ考えることがあったんだね」
「そうなんだよ。だから、サザリーに聞いてたんだ。第三班はどうだったのかって」
サザリーは手帳を閉じ、俺へ視線を向けた。
「僕たちも、案内経路の確認で少し迷ったよね。セスが受付で対応している間に、僕は通路の状況を確認していたけれど、最初から全部の情報を持っていたわけじゃなかった」
「うん。俺も、サザリーに任せたあと、何をするべきか少し迷ったよ」
俺が答えると、ガレスは少し驚いたような顔をした。
「セスでも迷うんだな」
「そりゃ迷うよ。俺だって、知らないことはたくさんあるし」
「いや、そうなんだけどさ。お前、普段から何でもできる感じがするから」
ガレスは悪気なくそう言った。
俺は少し困ったように笑った。
自分では何でもできるつもりはない。
むしろ、最近になって、できないことや知らないことが思っていた以上に多いと感じている。
「俺も、昨日の演習で分かったことがあるんだ。誰かに任せるのは大切だけど、任せたからって自分の仕事が全部終わるわけじゃないって」
俺がそう言うと、サザリーは頷いた。
「そうだね。僕も、確認した情報をセスへ伝えるとき、どこまで分かっているのかをはっきりさせる必要があると思ったよ」
ガレスは腕を組み、少し考え込んだ。
「……なるほどな。じゃあ、俺も次は、受け取る側の準備ができてるか確認してから動いた方がいいってことか」
「そうかもしれないね。でも、実際の講習でどんな役割になるかは、まだ分からないから」
「それもそうだな!」
ガレスは大きく笑った。
その声に、近くの席にいた生徒たちがこちらを振り返った。
俺たちは少しだけ声を落とし、午前の授業の準備を始めた。
◇
午前の授業は、魔術理論から始まった。
今日の内容は、複数の属性を扱う際の魔力の流れについてだった。
教師は黒板へ簡単な図を描きながら、異なる属性の魔力を同時に扱う場合、それぞれの性質を理解することが重要だと説明した。
俺はノートを開き、話を聞きながら図を書き写した。
火、水、風、土、雷。
俺は五つの属性すべてに適性がある。
けれど、複数の属性を扱えることと、それらを組み合わせて安全に使えることは同じではない。
特に、次月に予定されている二属性魔術の実習では、魔力の制御だけでなく、周囲への影響も考える必要があるらしい。
「シルフィール君」
教師に名前を呼ばれ、俺は顔を上げた。
「はい」
「異なる属性を同時に扱う場合、最も注意するべきことは何だと思いますか」
俺は少し考えた。
魔力量の調整。
属性ごとの性質。
周囲への影響。
どれも大切だ。
「……それぞれの属性が、互いにどう影響するかを理解することだと思います。単独では安全に使える魔法でも、組み合わせたときに同じように扱えるとは限らないので」
俺が答えると、教師は頷いた。
「そのとおりです。魔力量が多いことや、複数の属性に適性があることだけでは、安全な使用は保証されません」
教師は黒板へ視線を戻した。
「特に、実習では自分の能力を過信しないことが重要です。できることと、許可されたことを混同しないようにしてください」
その言葉を聞き、俺は昨日の事前演習を思い出した。
父さんにも、似たようなことを言われている。
自分ができるからといって、勝手に行動してよいわけではない。
それは魔術でも、屋敷の仕事でも同じなのだろう。
授業の後半では、属性ごとの魔力の流れを図で整理する課題が出された。
俺は火と水の組み合わせについて考えながら、ノートへ簡単な図を描いた。
実際に魔法を使うわけではない。
だからこそ、理論としてどこまで理解できているかを確認する必要がある。
隣の席では、ガレスが少し難しそうな顔をしていた。
「……なあ、セス。これ、火と風だったらどうなるんだ?」
小声で尋ねられ、俺は彼のノートを覗き込んだ。
「火の魔力を強める方向に風を使う場合と、流れを変える場合では違うと思うよ。でも、今の課題は実際の術式を作るものじゃないから、まずは性質を整理した方がいいんじゃないかな」
「なるほどな。俺、すぐに実際に使うことを考えちまうんだよな」
ガレスは苦笑しながら、ノートへ書き込みを始めた。
俺も自分の課題へ戻り、教師の説明を聞きながら考えを整理した。
◇
昼休みになると、俺たちは食堂へ向かった。
今日はエミリアも一緒だった。
彼女は公開講習には参加していないが、昨日の事前演習について興味を持っているらしく、食事をしながら俺たちの話を聞いていた。
「皆さん、それぞれ違う役割だったんですね」
エミリアはそう言って微笑んだ。
「同じ演習でも、見えているものが違うというのは、少し不思議な感じがします」
「そうなんだよ。俺なんか、商人役だったのに、相手の準備ができてるか考えてなかったからな」
ガレスが笑いながら答えると、エミリアは少し考え込んだ。
「でも、それって実際の生活でもありますよね。自分がよかれと思ってしたことが、相手にとっては困ることになる場合もありますし」
「うん。俺もそう思う」
俺が頷くと、リビアが静かに口を開いた。
「……私も、昨日は同じようなことを考えたわ」
その言葉に、俺は少し驚いた。
リビアは昨日の失敗を、俺には話してくれた。
けれど、ほかの友人たちへどこまで話すつもりなのかは分からない。
彼女は一度だけ俺へ視線を向けたあと、エミリアたちへ向き直った。
「私は第五班で使用人役を担当したのだけれど、途中で別の方から頼まれた仕事を、確認せず引き受けてしまったの。そのせいで、最初に任されていた準備が遅れてしまったわ」
食卓の周囲が、少しだけ静かになった。
ガレスは驚いたように目を見開き、サザリーは手にしていた食器を静かに置いた。
エミリアも、リビアの顔を見つめている。
「……オリビア様でも、そういうことがあるんですね」
ガレスが思わず呟いた。
リビアはその言葉に、少しだけ苦笑した。
「ええ。私も、まだ知らないことがたくさんあるのよ」
彼女は落ち着いた声で続けた。
「困っている方を助けようと思ったのだけれど、その前に、自分が任されている仕事との関係を確認するべきだったの。昨日は、それを十分に考えられなかったわ」
エミリアはしばらく黙っていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「……でも、オリビア様がそうやってお話ししてくださると、少し安心します」
「安心?」
「はい。私、オリビア様は何でもできる方だと思っていましたから。もちろん、今もすごい方だと思っていますけど……失敗したことも、ちゃんと考えていらっしゃるんだなって」
リビアは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「ありがとう、エミリアさん。そう言っていただけると、少し気持ちが軽くなるわ」
その様子を見ていたガレスが、急に大きく頷いた。
「よし! じゃあ、俺も昨日の失敗をちゃんと覚えとくことにする!」
「ガレスは、もう十分覚えてると思うけどね」
サザリーが落ち着いた声で返すと、食卓に小さな笑いが広がった。
俺も笑いながら、リビアへ視線を向けた。
彼女は、昨日の失敗を隠さなかった。
俺だけでなく、友人たちにも自分から話した。
その姿を見ていると、胸の奥が少し温かくなった。
(……リビアは、俺が思っているよりずっと前へ進もうとしてるんだな)
俺はそう感じながら、昼食を続けた。
◇
午後の授業が終わると、リビアは予定どおり担当教師のもとへ向かった。
俺は彼女を教室の入口まで見送り、そのあと図書館へ向かうことにした。
今日は公開講習の追加説明があるわけではない。
だから、授業で扱った魔術理論の資料を確認しながら、リビアが戻るのを待とうと思ったのだ。
図書館へ向かう途中、北側の階段付近を通った。
以前から案内表示が分かりにくいと指摘されている場所だ。
今日も表示はそのままだった。
ただ、近くには学院の職員らしい人物が立っており、通路の様子を確認しているようだった。
俺はその姿を見て、レオルが話していたことを思い出した。
案内表示については、教師側で確認が進められている。
学生が勝手に動かしてよいものではない。
俺は職員の作業を邪魔しないよう通路の端を歩き、図書館へ向かった。
館内は静かだった。
窓から差し込む午後の光が長机の上へ伸び、書架の間には紙と木の匂いが漂っている。
俺は魔術理論の参考書を一冊選び、空いている席へ腰を下ろした。
今日の授業では、二属性を扱う際の魔力の流れについて学んだ。
俺は五属性すべてに適性があるが、だからといって、どんな組み合わせでも安全に使えるわけではない。
特に、複数の属性を同時に扱う場合には、単独で使うときとは違う注意が必要になる。
俺は参考書を開き、授業で書いたノートと照らし合わせた。
火と風。
水と土。
雷と水。
組み合わせによって、魔力の流れや周囲への影響は変わる。
ただし、今日の段階で実際に試すつもりはない。
学院の実習では、教師の指示に従う必要がある。
俺は必要な箇所を書き写し、分からないところには印を付けた。
しばらくすると、図書館の入口付近で小さな声が聞こえた。
顔を上げると、レオルが司書と話している。
彼は何かの資料を見せながら、北側の階段付近について確認しているようだった。
俺はその様子を少しだけ眺めたが、会話の内容までは聞こえなかった。
無理に近づく必要もないだろう。
俺は再び本へ視線を戻した。
◇
その頃、リビアは担当教師の前に座っていた。
彼女が相談を申し出たのは、昨日の事前演習について、まだ自分の中で整理できていないことがあったからだった。
教師は机の上へ演習用の記録を置き、穏やかな声で尋ねた。
「パウリーさん。昨日の演習について、どのようなことを確認したいのですか」
リビアは一度だけ息を整えた。
「昨日、私は別の担当者から依頼された仕事を、責任者へ確認せず引き受けてしまいました。その結果、最初に任されていた準備が遅れてしまったのですが……」
彼女はそこで少し言葉を切った。
「もし、あの場で本当に急いでいる方がいた場合、私はどう判断するべきだったのでしょうか」
教師はすぐには答えなかった。
代わりに、演習の記録を一度確認してから、リビアへ視線を戻した。
「あなたは、昨日の判断をすべて間違いだったと考えていますか」
その問いに、リビアは少し考え込んだ。
「……いいえ。困っている方を助けようとしたこと自体は、間違いではなかったと思います。ただ、その前に確認するべきことがあったのだと考えています」
「そのとおりです。重要なのは、依頼を受けるか断るかを、最初から決めてしまわないことです」
教師は静かに続けた。
「あなたが任されていた仕事には、すでに別の担当者が関わっていました。新しい依頼を受けることで、その人たちの仕事へ影響が出る可能性があったのです」
リビアは頷いた。
「では、最初に任されていた仕事を優先し、別の依頼は断るべきだったのでしょうか」
「必ずしもそうではありません。状況によっては、新しい依頼を優先する必要がある場合もあります。ただし、その判断をあなた一人で行ってよいかどうかは、役割によって異なります」
教師はそう言って、演習の記録を指差した。
「昨日のあなたには、道具の準備を進める役割が与えられていました。しかし、複数の仕事の優先順位を変更する権限までは与えられていませんでしたね」
「……はい」
リビアは静かに答えた。
その声には、少しだけ悔しさが残っていた。
「私は、頼まれたことを早く済ませれば、相手の方を助けられると思っていました。でも、その判断によって、別の方が困る可能性を十分に考えられていませんでした」
「そうですね。けれど、昨日の演習でそのことに気づけたのなら、意味のある経験だったと思います」
教師は穏やかに微笑んだ。
「パウリーさん。あなたは、これまで多くのことを学び、努力してきたのでしょう。ですが、知らない立場へ入れば、分からないことがあるのは当然です」
リビアは少しだけ目を見開いた。
「……はい」
「大切なのは、分からないことを隠さず、必要な相手へ確認することです。昨日のあなたは、演習の途中では判断を誤りましたが、終わったあとに自分から質問しましたね」
教師は記録を閉じた。
「それは、次につながる行動です」
リビアはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございます。今日、もう一度お話を伺えてよかったです」
教師は頷いた。
「次の講習でも、同じように考えてみてください。すべてを最初から正しく判断しようとする必要はありません。分からないことを、分からないままにしないことです」
リビアはその言葉を胸に刻み、教師へ礼を伝えて部屋を出た。
廊下へ出ると、窓の外には夕方の光が差し込んでいた。
彼女は一度だけ足を止め、自分の手元にある資料へ視線を落とした。
昨日の失敗は、消えたわけではない。
けれど、その失敗をどう受け止めるかは、少し変わった気がした。
(……セスにも、ちゃんとお話ししたいわ。昨日より少しだけ、分かったことがあるもの)
リビアはそう考え、図書館へ向かって歩き始めた。
◇
図書館で参考書を読んでいると、控えめな足音が近づいてきた。
顔を上げると、リビアが俺の席の近くに立っていた。
「セス、お待たせしたわ」
「リビア。先生との話は終わったんだね」
「ええ。少し長くなってしまったけれど、聞いていただけてよかったわ」
彼女はそう言って微笑んだ。
俺は参考書を閉じ、借りる予定のない本を元の場所へ戻した。
図書館の外へ出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。
リビアは俺の隣を歩きながら、先生との話を少しずつ教えてくれた。
「昨日の演習で、私は別の方の依頼をすぐに引き受けてしまったでしょう?」
「うん」
「先生に、もし本当に急いでいる方がいた場合はどうするべきだったのか、もう一度聞いてみたの」
彼女は少しだけ考えるように視線を落とした。
「そうしたら、最初から引き受けるか断るかを決めるのではなく、自分にどこまで判断する権限があるのかを確認することが大切だと教えていただいたわ」
「……なるほど。確かに、急いでいるからって全部自分で決めていいわけじゃないもんね」
「ええ。それに、最初に任されていた仕事を途中で変えるなら、関わっている方々にも影響があるでしょう?」
リビアはそう言って微笑んだ。
「私、昨日はそのことまで考えられていなかったの。でも、今日のお話で、少し整理できた気がするわ」
俺は彼女の横顔を見つめた。
昨日の帰りの馬車では、リビアは失敗したことを悔しがっていた。
けれど、今はその失敗を、次にどう生かすか考えている。
その変化が、何だか嬉しかった。
「……リビア、すごいね」
俺がそう言うと、彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「えっ?」
「だって、昨日は失敗して悔しかったんだろ? それなのに、今日は自分から先生に聞きに行ったんだから」
リビアは少しだけ頬を染めた。
「……そんなに大したことではないわ。分からないことがあったから、聞いただけよ」
「でも、それができるのはすごいことだと思う」
俺がそう答えると、彼女は少し困ったように微笑んだ。
「……セスは、私に甘いわね」
「そうかな?」
「ええ。とても」
リビアはそう言って笑った。
俺もつられて笑い、彼女と並んで廊下を歩いた。
◇
屋敷へ戻るころには、空が少しずつ夕暮れの色へ変わっていた。
馬車を降りると、庭園には雨上がりの湿った土の匂いが残っていた。玄関では使用人が出迎えてくれ、俺たちは礼を伝えて屋敷の中へ入った。
リビアは自室へ戻る前に、俺の袖をそっと引いた。
「セス。今日は、話を聞いてくれてありがとう」
「ううん。俺も、リビアが何を考えてたのか聞けてよかったよ」
「……ふふっ。そう言ってもらえると嬉しいわ」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「私、昨日は失敗した自分が少し嫌だったの。でも、今日は、その失敗があったからこそ考えられたことがあると思えるようになったわ」
俺は静かに頷いた。
「うん。俺も、昨日の演習で迷ったことを、ちゃんと覚えておこうと思う」
「ええ。お互いに、少しずつ成長していきましょうね」
リビアはそう言って、俺の手をそっと握った。
俺も握り返すと、彼女は嬉しそうに目を細めた。
しばらくして、リビアは名残惜しそうに手を離し、自室へ向かった。
俺はその背中を見送りながら、今日の出来事を思い返していた。
彼女は、昨日の失敗を隠さなかった。
そして今日は、その失敗について自分から先生へ相談した。
俺が知らないところで、彼女は新しい一歩を踏み出していたのだ。
(……俺も、リビアに負けてられないな)
俺はそう考え、夕方の仕事へ向かった。
◇
夜、仕事を終えて自室へ戻ると、机の上には今日の授業で使ったノートが置かれていた。
俺は椅子へ腰を下ろし、魔術理論の内容をもう一度読み返した。
複数の属性を扱うときには、単独で使う場合とは違う注意が必要になる。
それは、知識があるからといって、何でも安全にできるわけではないということだ。
俺はノートへいくつか書き込み、分からないところには印を付けた。
次の授業で確認するためだ。
そのあと、公開講習の資料を取り出した。
正式な役割と班は、まだ決まっていない。
けれど、昨日の事前演習で、俺たちはそれぞれ違うことを学んだ。
そして今日、リビアは自分から先生へ相談し、昨日の失敗についてもう一度考えた。
俺も、ただ演習を終えたことで満足するのではなく、分からなかったことを整理しておきたい。
俺はノートの余白へ、昨日の受付補助で迷ったことを書き込んだ。
担当者へ任せたあと、自分は何をするべきだったのか。
来訪者を待たせる場合、どのように説明するべきだったのか。
必要な情報を、誰へ確認するべきだったのか。
どれも、すぐに答えが出るものではない。
けれど、次に同じような状況になったとき、少しでも落ち着いて考えられるようにしておきたい。
俺はペンを置き、窓の外へ視線を向けた。
夜の庭園には、静かな月明かりが差し込んでいる。
今日のリビアの笑顔を思い出すと、胸の奥が少し温かくなった。
彼女は、俺が知らないところでも前へ進んでいる。
俺も、そんな彼女の隣に立てるようになりたい。
その気持ちを胸に、俺はノートを閉じ、明日の準備を整えてから、静かに部屋の灯りを落とした。




