第150話 公爵令嬢様は、失敗した自分を俺に隠したくないらしい
朝、目を覚ましたとき、最初に耳へ届いたのは窓を叩く雨音だった。
昨夜から降り始めた雨は、夜明けを迎えても完全にはやんでいないらしい。窓の向こうには薄い灰色の雲が広がり、庭園の石畳には細かな水滴が落ち続けている。普段なら朝日を受けて明るく見える花壇も、今朝は落ち着いた色合いに沈んでいた。
俺は寝台から起き上がり、窓の外を眺めながら今日の予定を思い返した。
王立学院では、放課後に公開講習の事前演習が行われることになっている。昨日の掲示によれば、参加者はその場で仮の役割を与えられ、それぞれ異なる情報を持った状態で課題に取り組むらしい。
正式な役割や班が決まるのは、まだ先のことだ。
それでも、俺にとっては楽しみな予定だった。
(……管理者役を希望したけど、今日は別の役割になるかもしれないんだよな。どんなことをするのか、まだ詳しくは分からないけど)
俺は寝間着から執事服へ着替え、身支度を整えて部屋を出た。
廊下には朝の静けさが残っていたが、厨房の方からはすでに人の動く気配が伝わってくる。雨の日は屋外での作業に変更が生じることもあるため、使用人たちの連絡も普段より少し早く始まっているようだった。
食堂へ向かう途中、連絡台の前で父さんと顔を合わせた。
「おはよう、セス。今日は学院で事前演習があるのでしたね」
「おはよう、父さん。うん。放課後に参加する予定だよ」
父さんは俺の服装を一度確認し、問題がないと判断したらしく、小さく頷いた。
「今日の天候では、学院へ向かう道も普段より時間がかかるかもしれません。馬車の出発は少し余裕を持たせていますから、朝の仕事を無理に増やさないように」
「分かった。今朝の担当は、予定どおり進めれば大丈夫なんだよね」
「ええ。屋敷の北側からの搬入についても、担当者へ指示を出してあります。裏手の通路は引き続き使用を控えますが、あなたが学院にいる間に何か判断を求めることはありません」
父さんの言葉に、俺は頷いた。
以前の予定外の立ち寄りについては、まだ理由が分かっていない。だからといって、毎朝俺が同じことを調べ直す必要はないし、現在の搬入経路が安全に使えるかどうかは担当者が確認してくれている。
俺が今朝するべきことは、決められた仕事を確実に進めることだった。
「それと、今日の演習について一つだけ」
父さんは連絡台へ帳面を戻し、俺へ向き直った。
「普段の仕事で慣れていることほど、無意識に先回りしてしまうものです。学院から与えられた役割と条件を、最初によく確かめてください」
「……自分ができることと、任されていることは違うから?」
「そのとおりです。特に、あなたは周囲の状況を見て動くことに慣れています。しかし、演習では、知っている情報が限られている状態そのものに意味があるのでしょう」
父さんはそこで少しだけ微笑んだ。
「うまくできることより、何を知らなかったのかを理解することが大切な場合もあります。失敗を恐れず、ただし決まりは守って取り組みなさい」
「うん。ありがとう、父さん」
俺は礼を伝え、食堂へ向かった。
朝食の準備は順調に進んでおり、担当者たちは互いに確認を取りながら食器を並べていた。俺は必要な確認だけを済ませ、準備の進行を妨げないよう食堂を出た。
その頃には、窓の外の雨も少し弱まっていた。
◇
玄関広間へ下りると、リビアが窓際に立っていた。
制服に身を包んだ彼女は、雨に濡れた庭園を眺めていたが、俺の足音に気づくと振り返った。シルバーブルーの髪が肩の上で揺れ、いつもの柔らかな笑顔が浮かぶ。
「おはよう、セス。今日は少し早いのね」
「おはよう、リビア。雨で馬車の出発が少し早くなるみたいだから、準備を終わらせてきたんだ」
「そうだったのね。私も、今朝は余裕を持って支度を済ませたの。……それに、今日は事前演習があるでしょう?」
彼女はそう言って、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「昨日から楽しみにしてたんだね」
「ええ。でも、楽しみなだけではないわ。どんな役割を与えられるのか分からないから、少し緊張もしているの」
リビアは正直にそう答えた。
昨日の夜、彼女は失敗することへの不安を話してくれた。公爵令嬢として学問や魔術、剣術に努力してきた彼女だからこそ、慣れていない仕事で思うように動けないことが気になるのかもしれない。
「俺も緊張してるよ。管理者役を希望したけど、今日は別の立場になるかもしれないし」
「ふふっ。それなら、お互い様ね」
リビアは笑ったあと、少しだけ真剣な表情になった。
「セス。昨日のお約束、覚えている?」
「うん。うまくできたことだけじゃなくて、失敗したことも、終わったあとに話すって約束だよね」
「ええ。それと、私が失敗しても、すぐに助けに来なくていいということも」
俺は頷いた。
「分かってる。ただ、本当に危険なことがあったら別だからね」
「もちろんよ。私も、危ないことを我慢するつもりはないわ」
彼女はそう答え、俺の隣へ並んだ。
玄関の扉が開かれると、湿った朝の空気が流れ込んできた。馬車までの道には雨を避けるための準備が整えられており、使用人が傘を差し出してくれる。
俺たちは礼を伝え、濡れた石畳に気をつけながら馬車へ乗り込んだ。
出発すると、車輪が水を含んだ道を進む音が普段より低く響いた。窓の外では、店先に雨除けの布を張る商人や、荷車へ覆いをかける人たちが見える。
リビアはその光景を眺めながら、ぽつりと言った。
「雨の日は、普段と同じ仕事でも考えることが増えるのね」
「そうだね。荷物を濡らさないようにしたり、足元が滑らないようにしたり。屋敷でも、天気によって作業の順番を変えることがあるよ」
「……そういうことも、私はまだ見ているだけなのよね」
彼女は少し考えるように視線を落とした。
「でも、今日の演習では、見ているだけでは分からないことがあるのだと思うわ。もし失敗しても、そこから何かを学べたらいいのだけれど」
「うん。俺もそう思うよ」
俺が答えると、リビアは安心したように微笑んだ。
馬車は雨の残る街を進み、やがて王立学院の正門へ到着した。
◇
教室へ入ると、ガレスがいつもより落ち着かない様子で席に座っていた。
机の上には公開講習の資料が広げられているが、本人はそれを読むというより、何度も同じ箇所を確認しているようだった。サザリーは隣で手帳を開き、必要な持ち物を確かめている。
「おはよう、ガレス。今日はずいぶん真剣だね」
俺が声をかけると、ガレスは勢いよく顔を上げた。
「おう、セス! いや、今日は事前演習だろ? 昨日から何をやるのか気になってさ。商人役だったらいいんだけど、もし使用人役とかになったら、俺、何をすればいいのか分からないかもしれないんだよな」
「そのための演習なんじゃないかな。分からないことを知るために参加するんだと思うよ」
「それは分かってるんだけどさ。いざ自分が何もできなかったら、ちょっと悔しいだろ?」
ガレスは苦笑した。
その言葉を聞いて、俺は少し意外に思った。普段のガレスは思いついたことをすぐ口にし、失敗しても次の方法を考えるのが早い。けれど、今日は自分が知らない役割を与えられることに、少し不安を感じているらしい。
「ガレスでも、そういうことを考えるんだね」
「そりゃ考えるって! 俺だって何でもできるわけじゃないし、商売のことなら家で見てきたけど、屋敷の仕事は詳しくないからな」
ガレスはそう言って笑った。
その隣で、サザリーが手帳を閉じた。
「僕も不安はあるよ。記録に関わる役割を希望したけれど、実際に人へ指示を出すような立場になったら、うまく話せるか分からないから」
「サザリーは、落ち着いて考えられるから大丈夫そうだけど」
俺が言うと、彼は小さく首を横に振った。
「落ち着いて考えられることと、その場で判断できることは別だと思う。考える時間が十分にあれば整理できても、相手が待っていると焦るかもしれないしね」
その言葉には、俺も納得した。
屋敷の仕事でも、落ち着いて考えれば分かることが、急に尋ねられるとすぐには答えられない場合がある。知識があることと、状況に応じて使えることは同じではない。
そこへエミリアとレオルがやってきた。
エミリアは今回の公開講習には参加できなかったが、普段どおり穏やかな笑顔で俺たちへ挨拶した。
「今日は事前演習なんですよね。皆さん、頑張ってください。どんなことをしたのか、あとで話せる範囲で聞かせてもらえたら嬉しいです」
「もちろん。話していいことなら、ちゃんと伝えるよ」
俺が答えると、エミリアは嬉しそうに頷いた。
レオルは資料を鞄へしまいながら、少し考え込むように言った。
「僕は、役割ごとに違う情報が渡されるというところが気になっているんだ。案内する立場になったとしても、通路のことを全部知っているとは限らないだろうし」
「そうだね。分からないことを、誰に確認するか考える必要がありそうだ」
俺たちはそんな話をしながら、午前の授業の準備を始めた。
始業の鐘が鳴ると、教室の中のざわめきが少しずつ静まり、教師が入ってきた。
◇
午前の授業は、いつもどおり進んだ。
学問の授業では、複数の資料を照らし合わせて情報を整理する課題が出され、魔術理論では、魔力を使用する際の安全確認について説明を受けた。どちらも事前演習とは直接関係のない内容だったが、俺は自然と午後のことを考えてしまいそうになる自分に気づいた。
特に魔術理論の授業では、知っている術式でも、使用する場所や周囲の状況によって判断が変わるという話があった。
俺は火、水、風、土、雷の五属性を扱えるし、魔力量や制御にも自信はある。けれど、それだけでどんな場所でも魔法を使ってよいわけではない。
学院の公開講習でも、危険を伴う魔法の使用は予定されていないと説明されている。
(……何か困ったことがあっても、魔法で解決しようとするのは違うんだろうな。今回は、与えられた役割でどう判断するかが大切なんだから)
そんなことを考えながら、俺は授業の内容をノートへまとめた。
昼休みになると、俺たちは食堂で昼食を取った。
ガレスは朝より少し落ち着いた様子だったが、食事をしながらも事前演習のことを話している。サザリーはその話を聞きつつ、午後の授業が終わってから指定教室へ移動する時間を確認していた。
リビアは俺の隣で静かに食事を進めていたが、途中で小さく笑った。
「皆さん、今日はいつもより少し緊張していらっしゃるみたいね」
「オリビア様も緊張してるんですか?」
ガレスが尋ねると、リビアは隠すことなく頷いた。
「ええ。私は使用人役を希望しているけれど、実際にその立場で判断する経験はほとんどないもの。見ているだけでは分からないことが、きっとたくさんあると思うわ」
その言葉に、ガレスは少し驚いたような顔をした。
「オリビア様でも、そう思うんですね」
「もちろんよ。私は公爵家で暮らしているけれど、それは使用人の仕事をすべて理解しているという意味ではないわ」
リビアは穏やかに答えた。
その様子を見ていたエミリアが、柔らかく微笑んだ。
「そういうふうに考えられるのは、素敵だと思います。知らないことを知ろうとするために参加するんですものね」
「ありがとう、エミリアさん。そう言っていただけると、少し安心するわ」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
俺はそのやり取りを聞きながら、彼女が以前よりも自分の不安を自然に話せるようになっていることに気づいた。
完璧な公爵令嬢として振る舞うことだけが、リビアのすべてではない。
俺の前だけでなく、友人たちの前でも、知らないことや不安なことを口にできる。
その変化が、何だか嬉しかった。
◇
放課後、俺たちは指定された教室へ向かった。
教室の入口には担当教師が立っており、参加者へ番号札を配っていた。番号札には名前ではなく、演習で使用する仮の班番号が書かれている。
「シルフィール君はこちらです。番号札を受け取ったら、指定された机へ向かってください。演習が始まるまでは、配布された封筒を開かないように」
「はい。分かりました」
俺は番号札を受け取り、書かれている数字を確認した。
第三班。
隣で番号札を受け取ったリビアは、少しだけ目を見開いた。
「……私は第五班だわ」
俺たちは顔を見合わせた。
同じ班ではない。
もちろん、事前演習だけの仮の班分けであり、公開講習本番の班が決まったわけではない。それでも、実際に別々の場所へ向かうことになると、少しだけ寂しさを感じた。
「リビア、頑張ってね」
俺がそう言うと、彼女は柔らかく微笑んだ。
「ええ。セスもね。終わったあとに、ちゃんとお話ししましょう」
「うん。約束だよ」
俺たちは互いに頷き、それぞれの机へ向かった。
第三班の机には、すでにサザリーが座っていた。
「セスも第三班なんだね。よろしく」
「こちらこそ。ガレスは別の班みたいだね」
「うん。第四班へ向かっていたよ。レオルは第五班だったから、オリビア様と同じ班かもしれない」
俺は少し安心した。
リビアが一人で知らない人たちの中へ入るわけではない。もっとも、彼女なら誰と同じ班になっても落ち着いて話せるだろうが、知っている友人がいるのは心強いはずだ。
やがて、参加者全員が席へ着いた。
担当教師は教室の前方へ立ち、事前演習の説明を始めた。
「本日の演習では、各班に簡単な状況を与えます。皆さんには、それぞれ異なる役割と情報を配布します。封筒の中身は自分だけで確認し、ほかの参加者へそのまま見せないでください」
教師はそこで一度言葉を切り、教室全体を見渡した。
「ただし、情報を伝えてはいけないという意味ではありません。役割に応じて必要な内容を伝えることはできます。重要なのは、誰へ、何を、どのように伝えるかを考えることです」
俺は静かに頷いた。
昨日の説明でも聞いたことだが、実際に封筒を目の前にすると、少し緊張する。
「演習中に判断に迷った場合は、担当教師へ確認してください。また、与えられた役割を越える行動や、実際の学院設備を動かす行為は禁止します。今回使用する道具は、すべて演習用に用意されたものです」
説明が終わると、封筒を開くよう指示が出された。
俺は封を切り、中の紙を取り出した。
そこに書かれていた役割は、屋敷の管理者ではなかった。
来訪者の受付補助。
(……昨日の課題と少し似てるな。でも、今回は実際に人と話すんだよな)
俺は紙を読み進めた。
演習では、屋敷へ複数の来訪者が到着する予定になっている。しかし、受付を担当する者が持っているのは来訪者の人数と到着予定時刻だけで、案内先については別の担当者が情報を持っている。
俺の役割は、来訪者が到着したことを確認し、必要な相手へ連絡することだった。
ただし、来訪者を勝手に案内してはいけない。
俺はその注意書きを読み、少しだけ肩の力を抜いた。
自分が何をするべきか、そして何をしてはいけないかが、最初から明確に示されている。
けれど、実際に演習が始まれば、紙に書かれていないことも出てくるのだろう。
◇
第三班の演習が始まると、教室の一角に用意された受付台の前へ、教師が来訪者役として立った。
俺は受付補助として、相手へ丁寧に挨拶した。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。ご訪問の予定を確認させていただいてもよろしいでしょうか」
来訪者役の教師は、落ち着いた声で名前と予定時刻を伝えた。
俺は手元の一覧を確認し、記載されている内容と一致していることを確かめた。
しかし、案内先については俺の資料に書かれていない。
「確認いたしました。ご案内先について担当者へ確認いたしますので、少々お待ちいただけますでしょうか」
俺がそう伝えると、教師は頷いた。
俺は次に、案内担当者へ連絡する必要があると考えた。
第三班では、サザリーが案内担当者の役割を与えられていた。
「サザリー、来訪者の方が到着したよ。予定の名前と時刻は一致しているんだけど、案内先について確認してもらえるかな」
俺がそう伝えると、サザリーは自分の資料へ目を落とした。
「分かった。ただ、僕の資料には案内先の部屋番号はあるけれど、そこへ向かう通路の一部が使えない可能性があると書かれているんだ」
「……通路が使えない?」
「うん。でも、使用禁止が確定しているわけじゃない。確認が必要だと思う」
俺は少し考え込んだ。
来訪者はすでに受付へ到着している。
けれど、案内先へ向かう道が使えるかどうか分からない以上、勝手に案内するわけにはいかない。
「じゃあ、通路の状況を確認できる担当者へ連絡しよう。俺は来訪者の方へ、確認に少し時間がかかることを伝えておくよ」
サザリーは頷き、別の担当者へ確認を始めた。
俺は受付台へ戻り、来訪者役の教師へ事情を説明した。
ただし、通路が使えないと決まったわけではないため、断定した言い方は避けた。
「現在、ご案内経路について確認しております。お待たせして申し訳ありませんが、確認が取れるまでこちらでお待ちいただけますでしょうか」
教師は頷き、演習はそのまま続いた。
しばらくして、サザリーから連絡が入った。
通路は使用可能だが、一部に演習用の荷物が置かれているため、別の経路を使用する方がよいという。
俺はその情報を受け取り、案内担当者が来訪者を迎えに来るまで受付で対応を続けた。
演習が終わると、教師は俺たちの班へ簡単な講評を行った。
「第三班は、分からない情報を確認しながら進められていました。ただし、来訪者を待たせる場合には、どの程度の時間が必要なのか分からなくても、確認中であることを適切に伝える必要があります」
俺は頷いた。
今回は大きな混乱なく進められたが、相手が待っている間の不安まで十分に考えられていたかといえば、自信はない。
「また、案内担当者へ連絡したあと、受付補助が次に何をするべきか、少し迷う場面がありましたね。担当者へ任せることと、自分の役割を放棄することは違います」
その言葉に、俺は思わず背筋を伸ばした。
確かに、サザリーへ連絡したあと、俺は一瞬だけ何をするべきか迷った。
来訪者への対応を続けることはできたが、ほかに確認するべきことがなかったか、もう一度考える必要がありそうだった。
(……任せたから終わり、じゃないんだな。自分の役割でできることを続けながら、必要な連絡を待つことも大切なんだ)
俺は講評をノートへ書き留めた。
◇
演習が終わると、参加者たちはそれぞれの班で簡単な振り返りを行った。
俺はサザリーと話しながら、受付補助として考えたことを整理した。
「セスが最初に来訪者へ確認中だと伝えてくれたから、僕は通路の確認に集中できたよ」
サザリーはそう言ってくれたが、俺は首を横に振った。
「でも、俺も途中で少し迷ったんだ。案内先が分からないからって、全部サザリーに任せればいいわけじゃなかったし」
「そうだね。僕も、通路の情報を持っていたけど、実際に使えるかどうかまでは分からなかった。だから、別の担当者へ聞く必要があったんだ」
俺たちは互いの資料を見比べ、どの時点で何を知っていたのか確認した。
同じ状況に参加していても、最初から持っている情報は違う。
その違いが、実際に人と話すことでよく分かった。
振り返りを終え、俺はリビアのいる第五班の方へ視線を向けた。
彼女はレオルやほかの生徒たちと一緒に、担当教師の話を聞いていた。
ただ、その表情はいつもより少し硬い。
何かあったのだろうか。
俺は気になったが、まだ演習中の振り返りが続いているようだったため、近づくことはしなかった。
しばらくして、第五班の振り返りが終わった。
リビアは資料を胸元へ抱え、ゆっくりこちらへ歩いてきた。
「セス、お疲れ様」
「リビアもお疲れ様。どうだった?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ微笑んだ。
けれど、その笑顔にはいつもの明るさがなかった。
「……少し、失敗してしまったわ」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。
「失敗?」
「ええ。でも、危険なことがあったわけではないの。先生にも、演習だからこそ気づけたことだと言っていただいたわ」
リビアはそう答えたあと、少しだけ視線を落とした。
「……セス。帰りの馬車で、聞いてくれるかしら」
俺はすぐに頷いた。
「もちろん。約束しただろ? うまくできたことも、できなかったことも、ちゃんと話すって」
リビアはその言葉を聞き、少しだけ安心したように微笑んだ。
「……ありがとう」
俺たちは担当教師へ挨拶し、教室を出た。
廊下には夕方の光が差し込んでいたが、窓の外にはまだ雨雲が残っている。
リビアは俺の隣を歩きながら、しばらく何も言わなかった。
俺も無理に話を聞き出そうとはせず、彼女が自分から話し始めるのを待った。
◇
帰りの馬車へ乗り込むと、リビアは窓の外へ一度視線を向けた。
雨はほとんどやんでいたが、道にはまだ水たまりが残っている。馬車がゆっくり動き始めると、車輪が水を含んだ石畳を進む音が静かに響いた。
しばらくして、リビアが口を開いた。
「……セス。今日、私は使用人役を与えられたの」
「そうだったんだ。希望していた役割だね」
「ええ。だから、最初はとても嬉しかったわ」
彼女は少しだけ微笑んだ。
「私の役割は、屋敷の一室へ運ぶ予定の道具を準備することだったの。担当者から渡された一覧を見て、必要なものをそろえ、指定された場所へ届けるという内容だったわ」
俺は静かに頷いた。
「でも、途中で予定が変わったの」
リビアは膝の上で両手を重ねた。
「別の担当者から、道具の一部を先に別の部屋へ運んでほしいと頼まれたのよ。私は、その方が困っているように見えたから、すぐに対応しようとしたわ」
彼女はそこで少しだけ言葉を切った。
「……けれど、その道具は、もともと別の担当者が使う予定だったの。私が勝手に移動させてしまったことで、最初の部屋の準備が遅れてしまったわ」
俺は息をのんだ。
リビアは誰かを助けようとして動いた。
けれど、その判断によって別の人が困ることになってしまった。
屋敷でも起こり得ることだ。
「……そのとき、リビアはどうしたの?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ顔を上げた。
「最初は、何がいけなかったのか分からなかったわ。頼まれたことをしただけなのに、どうして別の方が困ってしまったのかと思ってしまったの」
リビアは苦笑した。
「でも、先生から、最初に任されていた仕事と、新しく頼まれた仕事のどちらを優先するべきか、確認していなかったでしょうと言われたの」
俺は静かに頷いた。
確かに、頼まれたことをすぐに引き受けるのが、いつでも正しいとは限らない。
その道具がほかの人にも必要なら、勝手に動かしてはいけない場合がある。
「……リビアは、そのあとどうしたの?」
「先生に、どうすればよかったのか尋ねたわ。そうしたら、まず自分が任されている仕事を確認し、新しい依頼が来たときには、必要に応じて責任者へ相談するべきだったと言われたの」
リビアはそこで小さく息をついた。
「私、セスが普段していることを、少し分かったつもりになっていたのかもしれないわ」
「……そんなことないと思うよ」
俺がそう答えかけると、リビアは静かに首を横に振った。
「いいえ。今日は、ちゃんと認めたいの」
その声は、いつもより少しだけ強かった。
「私は、困っている方を助けることが大切だと思っていたわ。もちろん、それは間違いではないと思う。でも、助けるために何を確認するべきか、そこまで考えられていなかったの」
俺は彼女の言葉を聞き、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
リビアは失敗したことを隠そうとしていない。
誰かのせいにすることも、自分は悪くなかったと言い訳することもせず、何が分からなかったのかを考えている。
その姿は、俺が思っていた以上に強く見えた。
「……リビア」
「何かしら?」
「俺、今日のリビアの話を聞けてよかったと思う」
俺がそう言うと、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
「……失敗した話なのに?」
「うん。だって、リビアが何を考えて、どうしてそうしたのか分かったから。それに、失敗したあとでちゃんと先生に聞いたんだろ? 俺だったら、最初からそこまでできたか分からないよ」
俺は少し照れくさくなりながらも、言葉を続けた。
「俺も今日、受付補助として少し迷ったんだ。案内担当者へ連絡したあと、何をするべきか分からなくなって。先生から、任せることと自分の役割を放棄することは違うって教えてもらった」
リビアは真剣な表情で聞いていた。
「……セスも、迷ったのね」
「うん。だから、俺たち二人とも、まだ知らないことがあるんだと思う」
俺がそう答えると、彼女は少しだけ笑った。
「……そうね。本当に、そのとおりだわ」
リビアは窓の外へ視線を向けた。
雨上がりの街並みが、夕方の光を受けて淡く輝いている。
「でも、セス。私、少し悔しかったの」
彼女は小さな声で続けた。
「今まで、何かを学ぶときには、できるようになることが嬉しかったわ。けれど今日は、できないことをはっきり知ってしまったの。頭では、それが大切だと分かっているのに、気持ちが追いつかなかったわ」
俺は彼女の横顔を見つめた。
リビアは普段、何でもそつなくこなす。
学問も魔術も剣術も、努力を重ねて高い水準へ到達している。
だからこそ、今日のように自分の判断で誰かを困らせてしまう経験は、彼女にとって大きなものだったのだろう。
「……悔しくてもいいと思うよ」
俺がそう言うと、リビアはゆっくり振り返った。
「えっ?」
「だって、ちゃんとできるようになりたいから悔しいんだろ? だったら、その気持ちまで無理になくさなくてもいいんじゃないかな」
俺は少し考えながら言葉を続けた。
「俺も、剣術の訓練で父さんに負けたときとか、魔術の制御が思うようにいかなかったときは悔しかったよ。でも、悔しいからこそ、次はどうすればいいのか考えられたんだと思う」
リビアはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと目を細めた。
「……セス。あなた、今日はずいぶん優しいことを言ってくれるのね」
「えっ? いつもとそんなに違う?」
「ふふっ。いいえ。いつも優しいわ。ただ、今日は少しだけ、私の気持ちを見透かされたような気がしたの」
彼女はそう言って笑った。
その笑顔は、演習を終えた直後よりもずっと自然だった。
俺は少し安心し、窓の外へ視線を向けた。
◇
パウリー公爵邸へ戻ると、雨は完全にやんでいた。
庭園の木々には水滴が残り、夕方の光を受けて小さく輝いている。玄関では使用人が出迎えてくれ、俺たちは礼を伝えて屋敷の中へ入った。
リビアは自室へ戻る前に、俺の袖をそっと引いた。
「セス。今日は、話を聞いてくれてありがとう」
「ううん。約束したことだからね」
「……ええ。でも、約束していたとしても、私は嬉しかったわ」
彼女は少しだけ頬を染めた。
「失敗したことを、あなたに知られるのが怖くなかったわけではないの。でも、隠したくなかったのよ」
俺は彼女の言葉を聞き、静かに頷いた。
「俺も、リビアにはちゃんと話したいと思ってる。うまくできたことだけじゃなくて、失敗したことも」
「……それなら、これからもお互いに話しましょうね」
「うん。約束するよ」
リビアは安心したように微笑み、自室へ向かった。
俺はその背中を見送りながら、今日の出来事を思い返していた。
彼女は失敗した。
けれど、その失敗を認め、何が足りなかったのか考え、自分から先生へ相談した。
俺はその姿を、すごいと思った。
できることが多い人ほど、できないことを認めるのは難しいのかもしれない。
それでも、リビアは自分の弱いところを隠そうとしなかった。
(……俺も、ああいうふうにできるかな)
そんなことを考えながら、俺は夕方の仕事へ向かった。
◇
仕事を終えたあと、父さんへ今日の演習について報告した。
俺が受付補助を担当したこと、来訪者への対応で迷ったこと、担当者へ任せたあとも自分の役割を続ける必要があると学んだこと。
父さんは最後まで話を聞き、静かに頷いた。
「よい経験になったようですね」
「うん。自分ではできているつもりだったことでも、実際にやってみると迷うところがあったよ」
「それでよいのです。演習は、失敗しないことだけを目的としているわけではありません。何が分からなかったのかを理解できれば、次につながります」
父さんは少しだけ微笑んだ。
「それに、あなたは最近、誰かへ任せることを学んでいますね。ただし、任せたからといって、自分の責任がすべてなくなるわけではありません。今日の経験は、その違いを考えるよい機会になったでしょう」
「……うん。まさに先生にも同じようなことを言われたんだ」
俺が答えると、父さんは満足そうに頷いた。
「ならば、その言葉を忘れないことです」
俺は礼を伝え、部屋へ戻った。
◇
夜、自室の机へ向かうと、今日の演習で使った資料が目に入った。
俺はそれを開き、受付補助として考えたことをもう一度読み返した。
来訪者の確認。
案内担当者への連絡。
待っている相手への説明。
担当者へ任せたあとも、自分の役割を続けること。
どれも特別なことではないように見える。
けれど、実際に人と話しながら進めると、思っていた以上に難しかった。
俺はノートへ今日の反省を書き込み、最後に一つだけ、別のことを記した。
リビアが、自分の失敗を話してくれたこと。
それは演習の記録とは関係ない。
けれど、俺にとっては、今日一番大切な出来事だった。
(……リビアは、俺が思っているよりずっと強いんだな)
俺はそう考え、ゆっくりと微笑んだ。
彼女は完璧だから強いのではない。
失敗しても、自分で考え、次へ進もうとするから強いのだろう。
俺も、そんな彼女の隣に立てるようになりたい。
公開講習の正式な役割と班は、まだ決まっていない。
けれど、今日の事前演習で、俺たちはそれぞれ違うことを学んだ。
そして、別々の場所で経験したことを、帰りの馬車で話し合うことができた。
それだけでも、参加してよかったと思う。
俺はノートを閉じ、明日の準備を整えた。
窓の外では、雨上がりの庭園が月明かりに照らされている。
今日の失敗が、明日の自分たちを少しでも成長させてくれることを願いながら、俺は静かに部屋の灯りを落とした。




