第149話 公爵令嬢様は、俺がいない場所で初めての失敗をするらしい
王立学院へ向かう馬車の窓には、朝の薄い雲を透かした柔らかな光が差し込んでいた。昨夜のうちに雨が降ったらしく、屋敷を出るときに見えた庭の石畳には、まだところどころ濃い色の湿り気が残っている。車輪が敷石の継ぎ目を越えるたびに小さな振動が伝わり、向かいに座るリビアの膝の上で、学院から配られた資料の端がかすかに揺れた。
昨日、公開講習への参加が正式に決まった。俺もリビアも希望者の一覧に名前があり、放課後には参加者向けの準備説明を受けている。ただし、俺が希望した屋敷の管理者役も、リビアが希望した使用人役も、まだ割り当てが確定したわけではない。
それでも、昨日の説明で講習の目的は以前より具体的になった。役割ごとに与えられる情報が異なり、それぞれが自分の立場で判断しながら、必要な相手と連絡を取り合う。実際の屋敷の仕事をそのまま再現するわけではないが、誰が何を知っているかによって行動が変わるという点は、俺にも身に覚えがあった。
「セス、昨日の資料を読み直していて、一つ気づいたことがあるの」
リビアが顔を上げた。朝の光を受けたシルバーブルーの髪が肩の上で揺れ、彼女は開いていた資料の一箇所を指先で示した。
「ここに、講習中は担当者の指示に従って行動するように書いてあるでしょう? でも、指示が届いていない場合にどうするかは、詳しく書かれていないのよね」
「本当だ。昨日の説明では、勝手に学院の施設を使わないことや、危険な魔法を使わないことは言われていたけど、役割ごとの判断については、まだ全部説明されていなかったと思う」
「ええ。だから、もし使用人役になれたとしても、普段のお屋敷で見ている仕事を、そのまま真似するだけでは駄目なのだと思うわ」
リビアはそう言って資料を閉じたが、その表情には不安よりも期待があった。自分が知らない立場へ進もうとしていることを、彼女自身が楽しみにしているのだろう。
「俺も管理者役になれるかは分からないけど、どんな役割でも、まず自分に何が任されているのか確認したいな。できることが多いからって、全部やっていいわけじゃないし」
「ふふっ。セスがそう言うと、グレイヴが喜びそうね」
「父さんには、何度も同じようなことを言われてるからね。最近になって、少しずつ意味が分かってきた気がするよ」
俺が苦笑すると、リビアは嬉しそうに目を細めた。彼女は昨夜、別々の班になっても学んだことを話し合いたいと言っていた。今朝もその考えは変わっていないようで、隣に座れないかもしれないことを残念がるより、何を学べるかに目を向けている。
もっとも、俺としては同じ班になれたら嬉しい。リビアが知らない仕事に挑戦する姿を近くで見てみたいし、困っているときに手を貸せるならそうしたいとも思う。ただ、それが彼女の学ぶ機会を奪うことになっては、きっと本末転倒なのだろう。
(……リビアなら、俺がいなくても大丈夫だと思う。でも、だからって何も気にならないわけじゃないんだよな)
そんなことを考えていると、リビアが不思議そうに首を傾げた。俺が何でもないと答える前に、彼女は俺の表情を見て何か察したらしく、少し悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「セス。もし私が失敗しても、すぐに助けに来なくていいのよ?」
「……まだ何も言ってないんだけど」
「あなたのお顔を見ていたら、何となく分かったわ。もちろん、本当に困ったときには頼りにするけれど、まずは自分で考えてみたいの」
彼女は柔らかく笑いながらも、言葉を曖昧にはしなかった。俺はその真剣さを受け取り、ゆっくり頷いた。
「分かった。俺も、リビアが自分で考えたいときには待つよ。ただ、危ないことがあったら遠慮しないでほしい」
「ええ。それは約束するわ。セスも同じよ。自分だけで何とかしようとして、無理をしてはいけないわ」
俺たちは互いに頷き、馬車の窓から学院へ続く道を眺めた。朝の通りには商人の荷車が行き交い、店先では開店の準備をする人たちが声を掛け合っている。いつもと変わらない景色のはずなのに、今日の俺には、そこで働く人たちがどんな情報を受け取り、誰と相談しながら動いているのかが少し気になった。
◇
学院へ到着すると、教室の入口付近ではガレスとサザリーが何かを話し込んでいた。二人の間には昨日の公開講習の資料が広げられており、ガレスが指先で役割の一覧を示すたびに、サザリーが落ち着いた声で何か説明している。
「おはよう、二人とも。朝から熱心だね」
俺が声をかけると、ガレスが勢いよく振り返った。
「おう、セス! 聞いてくれよ。昨日の説明を家で話したら、親父に『商人役を希望したからって、商人のことだけ考えてりゃいいわけじゃない』って言われたんだ。そりゃそうなんだけどさ、実際に何を考えりゃいいのかって話になってな」
「ガレスのお父さんらしいね。商人役でも、相手が何を必要としているか分からなかったら、取引の話は進まないだろうし」
「そうなんだよ。だからサザリーに相談してたんだけど、こいつ、朝から細かいことまで考えててさ」
ガレスが笑いながら隣を見た。サザリーは少し困ったような顔をしたものの、手元の資料を俺たちにも見えるように広げてくれた。
「僕は記録に関わる役割を希望したけれど、もし別の役になったら、記録を取るだけでは済まないと思ってね。昨日の課題でも、同じ状況について全員が同じ情報を持っているわけじゃなかったでしょう?」
「うん。俺も、来客を迎える補助担当として考えたけど、案内担当者がいつ戻るのか分からなくて迷ったよ」
「僕が気になったのは、誰かが確認した情報を、次の人がどこまで信用していいのかということなんだ。記録があっても、何を確認した記録なのか分からなければ判断を間違えるかもしれない」
サザリーの言葉に、俺は昨日の授業を思い出した。器具の外観を確認したことと、動作を確認したことは違う。屋敷の荷物が予定どおり届いたことと、以前の予定外の立ち寄りの理由が分かったことも違う。似たような言葉でも、何を確かめたかによって意味が変わってしまう。
リビアも資料を覗き込み、サザリーへ微笑みかけた。
「その考え方は、使用人役でも大切になりそうね。自分が見ていないことを、誰かから聞いただけで確定したように扱わない方がいい場合もあるでしょうから」
「そうですね。もちろん、何でも自分で確かめようとしたら仕事が進まなくなるので、どこまで確認するかも考えないといけないと思います」
サザリーがそう答えると、ガレスは腕を組んで唸った。
「うーん。話を聞けば聞くほど、思ったより難しそうだな。俺は商人役なら値段の交渉とか、荷物の受け渡しとか、そういうことをするんだと思ってたんだけど」
「それもあるかもしれないけど、まだ正式な役割も内容も分からないからね。今は決めつけない方がいいと思う」
俺が言うと、ガレスは大きく頷いた。彼は難しいことを考えるのが嫌いなわけではない。ただ、思いついたことをすぐ試してみたくなる性格だから、まだ何も始まっていない状態で考え続けるのが少し苦手なのだろう。
そこへレオルが教室へ入ってきた。手にはいつものように折りたたんだ紙があり、俺たちに挨拶してから、公開講習の資料とは別の話を切り出した。
「図書館の北側にある案内表示のことなんだけど、先生から、今ある表示を勝手に動かさずに、迷いやすい場所だけ記録しておいてほしいって言われたよ。元の配置の理由は、まだ確認中らしい」
「そっか。じゃあ、すぐに直すわけじゃないんだね」
「うん。僕もその方がいいと思う。前に迷っていた下級生は、階段の手前で表示を見てから別の方向へ行こうとしていたけど、それだけで表示の全部が間違っているとは言えないから」
レオルはそう言いながら、紙に描いた簡単な通路図を見せてくれた。俺は以前、図書館へ向かう途中で道を尋ねられたことを思い出したが、そのときの経験だけで原因を決めつけることはできない。
彼の記録は、どこで迷いやすいかを整理するためのものだ。案内板を変える許可が出たわけでも、問題の原因が判明したわけでもない。俺たちはそのことを確認し、必要なことがあれば教師へ伝えるという方針で話を終えた。
始業の鐘が近づくと、教室のあちこちで椅子を引く音が響き始めた。俺たちもそれぞれの席へ戻り、午前の授業の準備を整えた。
◇
午前の授業では、複数の人物が関わる作業について、情報の伝達順序を考える課題が出された。教師が用意したのは、学院内で小規模な催しを開くという架空の設定で、受付担当、準備担当、案内担当がそれぞれ異なる情報を持っているというものだった。
ただし、実際に催しを開く許可が出たわけではない。教師は最初にその点を明確にし、今日の課題はあくまで判断の練習であると説明した。
俺の班にはガレス、サザリー、エミリアがいた。リビアは別の班で、レオルも違う席へ移動している。配られた紙を確認すると、俺たちの班には、準備担当が予定していた机の数を変更したものの、その連絡が受付担当へ届いていないという状況が示されていた。
「これ、受付の人が古い数を案内しちゃうかもしれないってことだよな」
ガレスが紙を読みながら言った。エミリアは頷いたが、すぐに別の点を指摘する。
「でも、机の数が変わった理由は書かれていませんね。準備担当の人が勝手に変えたのか、先生から指示があったのかも分からないです」
「そこは大事だね。理由が分からないまま元に戻そうとしたら、別の問題が起きるかもしれない」
俺が答えると、サザリーは資料の端に線を引いた。
「まず、変更が正式に決まっているか確認する。そのうえで、受付担当へ新しい数を伝える必要があるか判断する、という順番かな」
「でもさ、受付がもう始まってたらどうするんだ? 確認してる間に人が来るかもしれないぞ」
ガレスの問いに、俺たちは少し考え込んだ。受付が始まっているなら、来訪者への対応を止めるわけにはいかない。しかし、変更が確定していない情報を伝えるのも危険だ。
エミリアが手元の紙を見つめながら、ゆっくり口を開いた。
「受付担当の人には、机の数に変更があるかもしれないことだけ先に伝えて、確定した案内は確認が終わるまで待ってもらうのはどうでしょう。もちろん、誰に確認するかは決めないといけませんけど」
その提案に、ガレスが顔を上げた。
「なるほどな。何も知らせないよりはいいけど、まだ決まってないことを決まったようには言わないってことか」
「うん。そうすれば、受付の人も古い情報をそのまま使っていいのか考えられると思う」
俺はエミリアの言葉を聞きながら、昨日の昼休みを思い出した。公開講習に選ばれなかった彼女は、残念な気持ちがありながらも、今日の授業へ真剣に取り組んでいる。今の提案も、誰かが困らないようにするための具体的な考えだった。
(……エミリアは、相手が不安にならないように考えるのが上手いんだな)
俺はそのことを口に出して伝えた。エミリアは少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに照れたような笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。でも、私だけではそこまで考えられなかったと思います。ガレス君が受付のことを言ってくれたから、気づけたんです」
「おっ、俺も役に立ってたのか!」
ガレスが嬉しそうに笑うと、サザリーも小さく頷いた。俺たちはそれぞれの意見を一つの表へ整理し、教師へ提出する準備を進めた。
授業の終わりには、いくつかの班が考えた手順を発表した。どの班も同じ結論ではなく、先に受付へ連絡する班もあれば、変更の指示を出した人物を確認することを優先する班もある。教師はそれぞれの理由を聞き、状況に応じて判断が変わることを説明した。
俺はその話を聞きながら、屋敷の仕事でも同じことが起こり得ると思った。予定が変わったとき、全員へ一度に情報が届くとは限らない。だからこそ、誰が何を知っているかを確かめる必要がある。
授業が終わると、リビアが自分の班の資料を持ってこちらへやってきた。彼女の表情は明るかったが、少し考え込んでいるようにも見えた。
「セス、あなたたちはどんな手順になったの?」
「変更が確定しているか確認しながら、受付担当にも状況を伝えることにしたよ。リビアの班は?」
「私たちは、変更を決めた人へ確認することを優先したわ。でも、発表を聞いていたら、受付がもう始まっている場合のことを十分に考えられていなかったと気づいたの」
リビアは悔しそうに笑ったが、落ち込んでいるわけではなさそうだった。俺が何か言おうとすると、彼女は先に続けた。
「自分たちの考えが間違っていたとは思わないけれど、ほかの班の意見を聞くと、見えていなかったことが分かるのね。今日の授業は、とても面白かったわ」
「うん。俺たちも、ガレスが受付のことを言わなかったら、そこまで考えられなかったと思う」
俺たちは互いの班で出た意見を話しながら、昼休みへ向かった。まだ公開講習そのものは始まっていないのに、別々の場所で考えたことを共有する時間が、少しずつ増えているように感じた。
◇
昼食を終えたあと、俺たちは午後の授業まで少し時間があったため、中庭に面した廊下を歩いていた。窓の外では風が木々の葉を揺らし、遠くの訓練場からは木剣を打ち合わせる乾いた音が聞こえてくる。
リビアは俺の隣を歩きながら、午前の授業で考えたことを話していたが、途中でふと足を緩めた。視線の先には、廊下の掲示板に貼られた新しい連絡があった。
「セス、あれは公開講習の連絡かしら」
俺たちは掲示板へ近づいた。そこには、参加者向けの追加説明が貼られており、翌日の放課後に短い事前演習を行うことが記されていた。ただし、正式な役割と班の割り当ては、その演習の内容を踏まえて後日知らせるとある。
「事前演習……?」
俺が呟くと、リビアは掲示を丁寧に読み進めた。
「どうやら、実際の講習へ入る前に、簡単な役割体験をするみたいね。参加者は指定された教室へ集まって、その場で役割を渡されるそうよ」
「希望した役になるとは限らないんだね」
「ええ。それに、演習中はほかの参加者が持っている情報を、勝手に見てはいけないと書いてあるわ」
俺はその注意書きを読み直した。昨日の説明でも、役割によって知っている情報が異なると聞いている。事前演習では、その違いを実際に体験することになるのだろう。
そこへガレスとサザリーがやってきた。二人も掲示を見つけたらしく、ガレスは興奮した様子で紙を覗き込んだ。
「おお、いよいよ何かやるんだな! でも、正式な役割はまだ決まらないのか。俺、商人役の準備をしてきたんだけどな」
「準備してきたことが無駄になるとは限らないよ。ただ、演習では別の立場を経験するかもしれないね」
サザリーが落ち着いて答えると、ガレスは少し考えてから頷いた。
「まあ、そうだよな。商人役じゃなくても、何か分かることはあるかもしれないし」
リビアは掲示を見つめながら、何か考えているようだった。俺が声をかけると、彼女はゆっくり振り返った。
「セス。もし明日の演習で、私が使用人役になれたとしても、きっと思うようにはできないことがあるわね」
「うん。俺も管理者役になれたとして、全部うまくできるとは思わないよ」
「……それでも、少し楽しみなの。自分が知らないことを、実際に確かめられるのだから」
彼女はそう言って微笑んだ。その笑顔を見たとき、俺は朝の馬車で交わした約束を思い出した。リビアが失敗しても、すぐに助けようとしないこと。彼女が自分で考える時間を大切にすること。
(……明日は、俺もその約束を守れるようにしないとな)
俺は小さく息を整え、彼女へ頷いた。
「俺も楽しみだよ。どんな役割になるか分からないけど、せっかく参加できるんだから、ちゃんと学びたい」
「ええ。一緒に頑張りましょう。たとえ別の班になっても、終わったあとにお話しできるもの」
リビアの言葉に、俺は笑って頷いた。
◇
午後の授業を終えて屋敷へ戻るころには、空の雲が少し厚くなっていた。馬車の窓から見える街並みは夕方の光に包まれ、店先では人々が帰り支度を始めている。
屋敷へ到着すると、玄関では使用人が出迎えてくれた。俺は挨拶を返し、今日の搬入について簡単に報告を受けた。荷物は北門側から予定どおり運び込まれ、数量にも問題はなかったという。ただし、裏手の通路はまだ使用を再開しておらず、以前の予定外の立ち寄りについても新しい情報はない。
俺は報告を聞き、必要な記録が残されていることを確かめた。分からないことがあるからといって、毎回同じ確認を繰り返す必要はない。担当者が調べているなら、その結果を待つことも仕事の一つなのだろう。
リビアはその様子を隣で見守っていたが、俺が連絡表を返すと、少し嬉しそうに微笑んだ。
「今日は、いつもより早く確認が終わったわね」
「うん。必要なことは記録に残っていたし、まだ分からないことも、担当の人が調べてくれているから」
「そうね。あなたが全部抱え込まなくても、お屋敷の仕事はきちんと進んでいるもの」
彼女の言葉に、俺は頷いた。以前なら、気になることがあると自分でも調べたくなっていたかもしれない。けれど、今は任せられる相手がいることを、少しずつ信じられるようになっている。
そのあと俺は父さんへ学院での出来事を報告した。公開講習の参加者向けに、翌日の放課後に事前演習が行われること。正式な役割と班はまだ決まっておらず、演習ではその場で与えられた役割を体験すること。父さんは俺の説明を最後まで聞き、静かに頷いた。
「それはよい機会ですね。希望した役割とは違う立場になったとしても、その役割に与えられた情報だけで考えることが大切でしょう」
「うん。昨日の説明でも、ほかの人が持っている情報を勝手に見ないように言われたんだ」
「実際の仕事でも、立場によって知るべき情報は異なります。知っていることが多ければ、必ずよい判断ができるというわけではありません。必要な情報を、適切な相手へ確認することも重要です」
父さんの言葉に、俺は頷いた。屋敷では、俺が知らないところで多くの人が仕事を進めている。だからこそ、全員が同じことを知っているわけではないし、知る必要のないことまで聞くべきではないのだろう。
「それと、セス。演習では、普段のあなたの能力をすべて使おうとしないことです。学院の指導の下で行うものなのですから、まずは与えられた条件を守りなさい」
「分かった。自分ができることと、やっていいことは違うんだよね」
「ええ。その違いを理解できれば、管理する立場についても、今より深く考えられるでしょう」
父さんはそう言って、俺へ穏やかな視線を向けた。俺は礼を伝え、夕方の仕事へ戻った。
◇
夜、仕事を終えて自室へ戻ると、机の上には学院の資料と、今日の授業で使ったノートが並んでいた。窓の外では風が少し強くなっており、庭の木々が揺れる音がかすかに聞こえてくる。
俺は椅子へ腰を下ろし、明日の事前演習について考えた。正式な役割が決まる前に行う短い体験とはいえ、何を求められるのかは分からない。管理者役を希望したからといって、必ずその立場で考えられるわけでもない。
資料を読み直していると、控えめなノックが聞こえた。扉を開けると、リビアが薄い冊子を抱えて立っていた。
「セス、少しだけお時間をいただいてもいいかしら。明日の演習について、あなたと話しておきたいことがあるの」
「もちろん。俺もちょうど資料を見てたところだよ」
俺は彼女を部屋へ招き入れ、椅子を引いた。リビアは礼を言って腰を下ろし、持ってきた冊子を机の上へ置いた。それは学院から配られた説明資料で、いくつかの箇所に小さな紙片が挟まれている。
「今日、掲示を見たときに思ったの。明日の演習では、きっと私たちが普段していることとは違う判断を求められるのでしょうね」
「うん。俺もそう思う。希望した役割とは違う立場になるかもしれないし、ほかの人が何を知っているかも分からないから」
「……実はね、少しだけ不安なの」
リビアはそう言って、膝の上で両手を重ねた。彼女が自分から不安を口にするのは、珍しいことではないけれど、いつもより少し慎重に言葉を選んでいるように見えた。
「私は、学院ではそれなりに何でもできると思われているでしょう? 学問も、剣術も、魔術も、努力してきたつもりよ。でも、使用人の仕事については、見ているだけで分かった気になっているところがあるかもしれないわ」
俺は彼女の言葉を遮らず、続きを待った。
「もし明日の演習で、私が何もできなかったら……周りの方々は、どう思うのかしら。公爵令嬢なのに、そんなことも分からないのかと、思われるかもしれないわね」
彼女は苦笑したが、その目には少しだけ迷いがあった。俺は胸の奥がきゅっとなるのを感じた。リビアはいつも堂々としていて、誰の前でも落ち着いている。けれど、それは何も不安を感じないからではなく、不安があっても自分で向き合おうとしているからなのだろう。
「リビア。俺は、失敗したからってリビアのことを悪く思わないよ」
俺がそう言うと、彼女は顔を上げた。
「……ありがとう。でも、セスはそう言ってくれると思っていたわ」
「うん。だから、俺が言うだけじゃ足りないかもしれないね。でも、明日の演習は、できることを見せるためだけじゃなくて、知らないことを知るためにあるんだと思う。もし失敗しても、何が分からなかったのか考えられたら、それは無駄じゃないよ」
リビアはしばらく黙って俺を見つめた。やがて、少しだけ肩の力を抜き、柔らかな笑みを浮かべる。
「……そうね。私、失敗することばかり考えていたのかもしれないわ。失敗したあとに何を学べるかまで、考えられていなかった」
「俺も同じだよ。きっと明日は、思ってたより難しいことがあると思う。でも、それを全部一人で何とかしようとしなくてもいいんだよね」
「ええ。必要なときには、きちんと相談する。自分の役割を越えそうになったら、確認する。……あなたが最近、何度も考えていることね」
リビアはそう言って微笑んだ。俺は少し照れくさくなりながら頷いた。
「父さんにも、何度も言われてるからね」
「ふふっ。グレイヴは、あなたが少しずつ変わっていくことを、きっと嬉しく思っているわ」
彼女は机の上の資料を閉じ、俺の方へ手を伸ばした。俺がその手を取ると、リビアは指先をそっと重ね、少しだけ身を寄せた。
「セス。明日、もし私が失敗しても、すぐに助けに来なくていいわ。でも、終わったあとには、私の話を聞いてほしいの」
「うん。もちろん。俺も、うまくできなかったことがあったら、リビアに話したい」
「約束よ。お互いに、できたことだけじゃなくて、できなかったことも話しましょう」
俺は彼女の手を握り返し、ゆっくり頷いた。明日の演習で何が起こるかは分からない。俺たちが同じ班になるかどうかも、どんな役割を与えられるかも、まだ決まっていない。
それでも、終わったあとに互いの話を聞けることは、今ここで約束できる。
リビアはしばらく俺の手を握っていたが、やがて名残惜しそうに指を離した。俺は彼女を扉まで見送り、廊下へ出る前にもう一度声をかけた。
「リビア。明日、楽しみにしてるよ」
彼女は振り返り、少し驚いたように目を瞬かせたあと、嬉しそうに笑った。
「ええ。私もよ、セス。……たとえ失敗しても、きっと大切な一日になるわ」
その言葉を残し、リビアは静かに廊下を歩いていった。俺は彼女の姿が見えなくなるまで見送り、扉を閉めてから机へ戻った。
ランプの明かりの下で、明日の事前演習の案内をもう一度読み直す。そこには、役割の割り当ては当日伝えること、ほかの参加者が持つ情報を勝手に確認しないこと、判断に迷った場合は担当教師へ相談できることが記されていた。
(……明日は、俺が知らないリビアの姿を見ることになるのかもしれないな)
そう考えると、少しだけ胸が高鳴った。彼女が何でもできることを知っているつもりだったけれど、きっと俺がまだ知らない一面はたくさんある。失敗する姿も、迷う姿も、そこから自分で考えて進もうとする姿も、俺はきちんと見てみたい。
そして、俺自身も同じように、知らないことへ向き合わなければならない。
窓の外では夜風が木々を揺らし、遠くで雨の降り始める音が聞こえてきた。俺は資料を閉じ、明日の準備を整えてから、静かにランプの火を落とした。
公開講習の本番は、まだ先にある。
けれど、俺たちがそれぞれの立場で何を学べるのか、その最初の一歩は、もう目の前まで来ていた。




