第148話 公爵令嬢様は、俺と違う班になっても笑っていられるらしい
朝の食堂には、焼いたパンの香りと、銀食器を並べる控えめな音が満ちていた。窓の外では薄い雲がゆっくり流れ、庭の石畳には昨夜の湿り気がまだ残っている。俺は食卓の端に置かれた花器を確認し、通路側へ枝が張り出していないことを確かめてから、準備を担当する使用人へ礼を伝えた。
昨日、いつもと形の違う花器について相談を受けたときは、配置の担当者が実際に置いて判断してくれた。今朝はその判断が記録に残されていて、別の担当者も迷わず準備を進めている。小さなことだけれど、誰かが確認した結果が次の人へ届いている光景は、俺にとって少し新鮮だった。
「セス、学院へ行く前に一つだけ確認しておきましょう」
食堂の入口に立っていた父さんが、手にした帳面を閉じながら声をかけてきた。俺が近づくと、父さんは廊下の奥にある連絡台へ視線を向け、屋敷の北側を通る搬入経路について話し始めた。
「今日も荷物は北門側から入れる予定です。裏手の通路は、地面の状態を見ている段階で、まだ使用を再開していません。あなたが学院へ出たあとに確認が必要になっても、こちらの担当者が対応します」
「分かった。昨日までの記録と同じように、到着した時間と荷物の数を残すんだよね」
「ええ。ただし、以前の予定外の立ち寄りについては、まだ理由が判明していません。今日の搬入が問題なく終わっても、別件として扱ってください」
父さんの言葉に、俺は頷いた。荷物が正しく届いたことと、以前の立ち寄りの理由が分からないことは、同時に成立する。ひとまとめにして安心してしまえば、残すべき記録まで曖昧になってしまうだろう。
「それと、学院の公開講習について何か通知があれば、帰宅後に聞かせてください。役割によっては、屋敷での経験を振り返ることも役立つでしょう。ただし、学院の講習は学院の指導の下で行うものです。こちらのやり方をそのまま持ち込むのではなく、まず説明をよく聞くことです」
「うん。参加できるかどうかも、まだ分かっていないからね」
そう答えると、父さんはかすかに笑った。期待しているからこそ先回りしたくなる俺の性格を、きっとよく知っているのだろう。
食堂を出たところで、リビアと顔を合わせた。シルバーブルーの髪を整えた彼女は、俺の姿を見るなり歩調を緩めたが、父さんが一緒にいることに気づくと、いつもの公爵令嬢らしい優雅な笑みで挨拶した。
「おはようございます、グレイヴ。セスも、おはよう。今朝は何か確認があったの?」
「おはよう、リビア。北門からの搬入のことを聞いていたんだ。裏手の通路はまだ使わないし、以前の立ち寄りの理由も調べている途中だって」
「そうなのね。今日も無事に荷物が届くといいわ。けれど、あなたが学院にいる間は、お屋敷の方々に任せてよいのでしょう?」
彼女が微笑みながら言うと、父さんも静かに頷いた。俺は二人の顔を見比べ、思わず苦笑してしまう。
「分かってるよ。今日は学院で、自分のするべきことをするつもりだから」
「それなら安心ね。もっとも、あなたが気になってしまうことまで責めるつもりはないのよ。ただ、気にかけることと、自分で全部引き受けることは違うでしょう?」
昨日の俺なら、そこから誰に相談するかという話へつなげていたかもしれない。けれど今朝は、リビアが俺を気遣ってくれていることだけを受け取り、ありがとうと伝えた。彼女は一瞬意外そうに瞬きをしたあと、柔らかく笑って俺の隣へ並んだ。
馬車へ向かう途中、庭園の端を歩く庭師が、湿った土の上に細い板を渡していた。花壇の縁を傷めないようにするためらしく、別の庭師が苗の籠を持ってその後ろを進んでいる。二人の作業を何となく眺めていると、リビアが俺の袖を軽く引いた。
「セス、今日は公開講習の掲示が出るかもしれないわね」
「うん。昨日も見に行ったけど、まだだったから。希望者が多いみたいだし、先生方も調整が大変なんだと思う」
「私は、もし希望した役割になれなくても、講習には参加してみたいわ。もちろん、参加者に選ばれればの話だけれど」
その言葉に、俺は少しだけ意外な気持ちになった。リビアは使用人役を希望している。俺が管理者役を希望していることも知っているから、同じ班になれる可能性を考えていたのだと思っていた。
「リビアは、俺と別の班でも平気?」
尋ねると、彼女はすぐには答えず、庭園の方へ目を向けた。少し考えてから俺へ視線を戻したその表情には、無理に平静を装っている様子はなかった。
「寂しくないと言ったら嘘になるわ。でも、セスと一緒にいるためだけに参加を希望したわけではないもの。私が知らない立場から仕事を見ることには、きっと意味があると思うの」
「……そうだね。俺も、管理する側の仕事を知っているつもりで、まだ分かっていないことがあると思う」
「それに、別々に学んだことをあとで話せるでしょう? 同じものを見たときとは違う話ができるかもしれないわ」
俺は彼女の横顔を見ながら頷いた。離れて過ごす時間を残念がるだけではなく、その先に何ができるかを考えられるところが、リビアらしいと思う。俺もそうありたいと感じながら、差し出した手で彼女が馬車へ乗るのを支えた。
◇
学院の教室へ入ると、いつもより早い時間なのに、窓際の掲示板の前に人が集まっていた。ガレスが人垣の向こうから俺たちを見つけ、大きく手を振りかけてから、周囲の生徒に気づいて慌てて腕を下ろした。
「セス、オリビア様! ちょうどよかった。公開講習の連絡が出たんだよ。だけど、まだ全部が決まったわけじゃないらしい」
ガレスの声に、俺は思わず足を速めた。リビアも隣を歩きながら掲示板へ目を向けるが、集まった生徒たちを押しのけるようなことはせず、空いた場所を待って前へ進んだ。
掲示には、公開講習の参加希望を受け付けた生徒へ向けた案内が書かれていた。まず参加者の一覧があり、その下に準備説明への出席時刻と集合教室が記されている。希望した役割については、正式な割り当てを講習当日の指導内容に合わせて決定するため、現時点では確定していないという注意書きも添えられていた。
(……参加できるかどうかは、これで分かるんだな。でも、役割も班もまだ別なんだ)
俺は一覧を上から確認し、自分の名前を見つけたところで、ようやく肩の力が抜けた。クルセス・シルフィール。間違いなく記載されている。隣からリビアが小さく息を吸う音が聞こえ、彼女が指先で別の行を示した。
「私の名前もあるわ。セス、二人とも参加できるのね」
「うん。よかった。希望した人が多かったから、どうなるか分からなかったけど」
嬉しさがこみ上げた一方で、掲示の前にいる全員が同じ気持ちではないことにも気づいた。名前を見つけて笑う生徒がいる一方、何度も一覧を確かめてから視線を落とす生徒もいる。選ばれなかった人がいるのだと、目の前の光景が静かに教えてくれた。
少し離れたところで、サザリーが掲示の内容を手帳に書き写していた。俺に気づくと、彼は手を止めて近づいてくる。
「二人とも参加できるんだね。おめでとう。僕も一覧には載っていたよ。ただ、今日の放課後に準備説明があるから、ほかの予定と重ならないか確認しておいた方がいい」
「ありがとう、サザリー。ガレスも参加するの?」
「もちろん! 俺の名前もあったぞ。レオルも載ってた。ただ、エミリアは今回は選ばれなかったみたいでさ……本人は、次の機会に向けて授業を頑張るって言ってるけど」
ガレスは途中で声を落とし、教室の奥へ視線を向けた。エミリアは自分の席でノートを開いており、近くの女子生徒と何か話している。こちらの視線に気づくと穏やかに微笑んだが、その笑みだけで本当の気持ちを決めつけることはできない。
「あとで、本人に話を聞いてみるよ。でも、参加できなかったことを何度も言うのは違う気がするから、普通に話せたらいいな」
俺がそう言うと、サザリーは頷いた。リビアは掲示の下部にある注意書きをもう一度確かめ、放課後の説明会は参加者のみが対象で、準備資料の持ち帰りや役割の確定については担当教師から指示があると読み上げた。
「まだ分からないことを、私たちだけで決めてしまわないようにしないといけないわね。今日の説明で何を聞けるのか、楽しみだわ」
その声には、素直な期待がにじんでいた。俺は頷きながら、彼女が自分の名前を見つけたときの嬉しそうな横顔を思い返した。婚約者として隣にいられることはもちろん嬉しい。でも、彼女が自分の学びたいことへ進んでいく姿を見るのも、同じくらい嬉しかった。
始業の鐘が鳴る少し前、掲示板の前にいた生徒たちはそれぞれ席へ戻り始めた。俺たちも通路を空けるために離れ、午前の授業の準備を整えた。
◇
午前の授業は、魔法実習に使う器具の点検記録を題材にした、記録と現物の照合についての講義だった。実際の器具を動かすのではなく、教師が用意した模型と複数の記録用紙を使い、どの情報が一致し、どの情報を確認し直すべきかを考える内容だ。
机の上に並べられた模型は、細い金属の輪と小さな台座を組み合わせたもので、魔力を通す構造は持たない。以前、学院の魔法器具の表示に遅れが生じた件を思い出したが、今日の教材がその調査と直接関係しているとは説明されていなかった。俺は勝手に結びつけないようにしながら、配られた記録を読み始めた。
「点検表には、器具の状態が良好と記されています。一方で、別の記録には、確認時刻が違うものがあります。皆さんは、この二つを見て、何が言えるでしょうか」
教師が問いかけると、教室のあちこちから小さな声が上がった。俺の隣のガレスは早くも手を挙げかけたが、サザリーが記録の端を指差すのを見て、もう一度用紙へ視線を戻した。
「……点検の時刻が違うだけなら、どっちかが間違ってるとは限らないよな。確認した内容も違うかもしれないし」
「そうだね。記録した人も違うから、まず何を確認した記録なのか見た方がいいと思う」
俺が小声で答えると、ガレスは頷いた。教師は数人の意見を聞いたあと、記録の時刻だけでは器具の状態を判断できないこと、記録の目的と確認した対象を照らし合わせる必要があることを説明した。
授業の後半では、班ごとに別の資料が配られた。そこには、同じ器具について異なる言葉で書かれた点検結果が並んでいる。「動作確認済み」と「外観に異常なし」は似ているようで、確認した内容が違う。俺たちはそれぞれの言葉が示す範囲を整理し、確かめられていないことを勝手に補わないように表へ書き込んだ。
「これ、見た目は問題なくても動くかどうかは別ってことだよな」
ガレスが模型を指差すと、サザリーは記録を手元へ引き寄せた。
「そう。だから、外観を確認した記録だけを見て、動作も正常だったと書いてはいけないんだと思う。逆に、動作を確認した人が外観の細かいところまで見たとも限らない」
「屋敷の荷物の記録にも似てるな。数が合っていることと、途中でどこに寄ったかは別の話だし」
口にしてから、俺は父さんに言われたことを思い出した。北門からの搬入が問題なく終わっても、以前の予定外の立ち寄りの理由は分からないままだ。記録を分けるという考え方は、学院の授業だけではなく、屋敷の仕事にもつながっている。
俺の言葉を聞いたサザリーは、すぐに結論を出さずに頷いた。
「そういう例があると分かりやすいね。ただ、その立ち寄りの理由を知らないなら、理由については書けないわけだ」
「うん。分かっていることだけ残して、分からないことはそのままにしておく。気になるけど、想像で埋めたら駄目なんだと思う」
教師が近づいてきたため、俺たちは表を見せた。教師は「未確認」の欄を設けたことに目を留め、知らないことを記録へ残す場合には、単に空欄にするより、まだ確認していないと明示した方が後の担当者に伝わりやすいと説明してくれた。
その助言を聞いて、俺は記録用紙の余白に小さく書き足した。知らないことを恥ずかしがるより、どこまで分かっているかを正確に示す。執事としても、これから必要になる考え方だろう。
授業が終わるころ、教室の空気は朝より少し落ち着いていた。公開講習の掲示を見たときの興奮が薄れたわけではない。ただ、参加が決まったからこそ、目の前の授業で学ぶべきこともあるのだと感じられた。
◇
昼休み、俺はエミリアの席へ向かった。彼女は昼食の準備をしながら、授業で使った資料を丁寧に鞄へしまっている。俺が声をかけると、いつものように穏やかな笑顔で顔を上げた。
「セス君、どうしたんですか? 公開講習のことなら、おめでとうございます。オリビア様も参加できるんですよね」
「うん、ありがとう。エミリアは……今回は名前がなかったんだよね」
言いながら、俺は言葉の選び方を間違えたかもしれないと思った。わざわざ確かめなくても、彼女はもう知っている。けれど、エミリアは目を逸らさず、小さく頷いた。
「はい。少し残念でしたけど、希望者が多かったですから。参加できる人たちがどんなことを学ぶのか、あとで聞けたら嬉しいです」
その声は落ち着いていたが、机の上で重ねた指先が一度だけ強く結ばれた。俺はその仕草に気づき、安易に次があると言ってしまわないよう、少し考えてから口を開いた。
「俺、参加できることは嬉しいんだけど、選ばれなかった人がいるってことも忘れたくないんだ。講習で知ったことのうち、話していい内容があったら、エミリアにも聞いてほしい。今日の授業みたいに、一緒に考えてもらえたら助かると思う」
エミリアはしばらく俺を見てから、ゆっくり微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、私のために何かしなきゃって思わなくても大丈夫ですよ。セス君には、せっかく参加できる講習を楽しんでほしいです。そのうえで、話してもいいことがあれば、ぜひ聞かせてください」
「……うん。そうするよ」
俺が答えると、エミリアは少し肩の力を抜いた。そこへガレスが昼食の包みを持ってやってきて、いつもの勢いで話しかけようとしたものの、俺たちの表情を見て声量を落とした。
「お、ここにいたのか。みんなで食べようぜ。サザリーが窓際の席を取ってくれてるんだ」
エミリアが頷き、俺たちは一緒に席を移した。リビアは先に座っており、エミリアへ自然に場所を空けてくれた。誰も必要以上に講習の話題を避けず、かといって参加者だけで盛り上がることもしなかった。
昼食の途中、レオルが図書館付近の案内表示について、教師からまだ正式な回答がないと話した。彼は自分が見つけた分かりにくい箇所を記録しているが、勝手に表示を動かすつもりはないらしい。
「今日も通りかかったけど、案内板はそのままだったよ。元の配置に理由があるかもしれないから、確認が終わるまでは触らない方がいいって言われてる」
「そうだよね。もし昔の通路の使い方に合わせた表示だったなら、今の人には分かりにくくても、勝手に変えられない理由があるかもしれないし」
俺が答えると、レオルは頷いた。
「そう。だから、今はどこで迷いやすいかを整理してる。実際に迷った人がどの表示を見たのか、そこが分かると話しやすいと思うんだ」
ガレスが「それなら俺も気づいたら教えるよ」と言うと、レオルは少し嬉しそうに礼を返した。サザリーは話を聞きながら、確認していないことを確定したように書かない方がよいと付け加え、午前の授業で学んだ内容がそのまま昼食の会話へつながった。
リビアは俺の隣で静かに食事を進めていたが、皆の話が一段落したところで、エミリアへ向き直った。
「エミリアさん。午後の授業で、先ほどの記録の続きを扱うそうね。もしよければ、私と一緒に考えていただけるかしら」
「はい、もちろんです。私も、まだ整理できていないところがあるんです」
二人は資料を取り出す時刻だけ決め、食事を終えるまではほかの話を続けた。俺はその様子を見ながら、リビアが相手を気遣うとき、必要以上に特別扱いしないことに改めて気づいた。相手がどんな気持ちなのかを決めつけず、今一緒にできることを自然に差し出す。俺にはまだ難しいけれど、見習いたいと思った。
◇
午後の授業が終わると、公開講習の参加者は指定された教室へ集まった。通常の授業で使う部屋より少し広く、前方には長机が二つ並び、教師たちが資料を整理している。窓際には移動式の掲示板が置かれていたが、そこに貼られているのは講習の目的と注意事項で、班の割り当て表ではなかった。
俺はリビアと並んで教室へ入ったものの、座席は受付順に指定されていた。俺の席は中央の列、リビアは窓側の列で、少し離れている。彼女は座席番号を確認すると、こちらへ小さく手を振ってから自分の席へ向かった。
(……同じ部屋にいても、隣じゃないんだな。でも、これも講習の準備なんだろう)
指定された席へ着くと、隣には見覚えのある男子生徒が座っていた。以前、俺とリビアの婚約について疑問を口にし、そのあとで自分の言い方を謝ってくれた生徒だ。彼は俺に気づくと一瞬姿勢を固くしたが、すぐに軽く頭を下げた。
「シルフィール君も参加するんだね。よろしく。……こういう場で隣になるとは思わなかったよ」
「こちらこそ、よろしく。俺も今、席を見て驚いたところなんだ」
俺が答えると、彼は少し笑った。以前のことを無理に持ち出すつもりはないらしく、机の上に置かれた資料を見ながら、講習の内容について話し始めた。
「僕は来訪者への案内を希望したんだ。けど、希望どおりになるかはまだ分からないんだよね。君は管理者役だったかな」
「うん。でも、ほかの役割でも学べることはあると思う。実際に何をするのか、今日の説明を聞いてから考えたいな」
「そうだね。僕も、希望と違ったらどうしようって考えてたけど、まだ決まっていないことで悩んでも仕方ないか」
彼はそう言って資料を整えた。俺はその横顔を見ながら、以前の気まずさがすべて消えたわけではないと感じた。それでも、今こうして同じ講習について普通に話せていることは、少し嬉しかった。
やがて前方に立った担当教師が、参加者へ向けて説明を始めた。
「今回の公開講習では、屋敷を模した環境を使い、複数の役割がどのように連携するかを学びます。希望した役割は参考にしますが、実際の割り当ては講習の目的に合わせて調整します。今日の時点では、誰がどの役になるかは確定していません」
教師の言葉を聞いて、教室のあちこちで小さなざわめきが起こった。俺も改めて資料へ目を落としたが、そこには役割ごとの説明と、安全上の注意事項が記されているだけだった。
「また、当日は最初からすべての情報を共有するわけではありません。役割によって知っていることが異なる状況を設け、必要な情報をどのように確認するかを考えてもらいます。相手が知らないことを責めるのではなく、何を伝えるべきか判断することが重要です」
その説明に、俺は思わず顔を上げた。役割によって知っている情報が違う。午前の授業で扱った記録の話とも、昨日考えた担当者同士の連絡ともつながる内容だった。
教師は続けて、講習中の行動には担当教師の指示が必要な場面があること、危険を伴う魔法の使用は予定されていないこと、実際の屋敷の使用人や管理者の仕事を単純に再現したものではないことを説明した。参加者には、役割に応じた判断を試すことが目的であり、知識の多さだけを競う場ではないとも伝えられた。
説明が終わると、参加者へ一枚ずつ紙が配られた。そこには短い状況文が書かれており、指定された役割の立場から、最初に何を確認するか記入するよう求められている。
俺に配られた紙には、屋敷へ来客が予定より早く到着した一方で、案内を担当する使用人が別の対応に入っているという状況が記されていた。ただし、俺の役割は管理者ではなく、玄関で来客を迎える補助担当だった。
(……希望した役とは違う。でも、だからこそ考えることがあるな)
紙に書かれた情報を読み直すと、来客が早く到着した理由も、案内担当者がいつ戻るかも分からない。俺が補助担当なら、勝手に客を奥へ案内するわけにはいかないだろう。一方で、ただ待たせるだけでは相手が不安になるかもしれない。
俺はまず、来客へ失礼のないよう到着を受け付けること、担当者へ連絡できる手順を確認すること、待つ場所について指示を仰ぐことを書いた。だが、書き終えてから少し迷った。相手へどこまで事情を伝えるべきなのだろう。
隣の男子生徒は別の紙を読んでいたが、鉛筆を止めてこちらを見た。
「……君の方も、難しい?」
「うん。書いていないことが多いから、想像で決めないようにすると、確認したいことが増えるんだ」
「僕の方は、道具の数が合わないって状況なんだ。でも、まだ使った人に聞いていないらしい。数が合わないだけで、なくなったと決めつけたら駄目なんだろうね」
俺たちはそれ以上、互いの答えを見せ合わなかった。教師から、まずは自分の役割で考えるよう指示されていたからだ。けれど、隣の生徒も同じように、分からないことを抱えながら考えていると知って、少し気持ちが落ち着いた。
記入時間が終わると、教師は数人の意見を聞きながら、正解を一つに決めることはしなかった。状況に応じて必要な確認が変わること、書かれていない情報を補ってしまうと判断が変わることを説明し、最後に全員の紙を回収した。
「今日の記入内容は、役割の割り当てを決めるためだけの試験ではありません。皆さんがどのような順序で考えるのか、講習の指導に生かすための資料です。結果を点数として発表することもありません」
その言葉を聞いて、教室の緊張が少し和らいだ。俺も息をつき、机の上の資料をまとめた。役割がまだ決まっていないことは変わらないけれど、講習で何を学ぶのかは、朝よりずっと具体的に見えてきた。
◇
説明会を終えて教室を出ると、廊下には夕方の光が差し込んでいた。窓の外では部活動へ向かう生徒たちが中庭を横切り、遠くから剣術の練習で使う木剣の音が聞こえてくる。俺は人の流れを避けて壁際へ寄り、リビアが出てくるのを待った。
ほどなくして彼女が姿を現した。手には説明会の資料を持っており、こちらを見つけると足取りを少し速めた。
「セス、お待たせしたわ。あなたの席からは、説明がよく聞こえた?」
「うん。リビアの方はどうだった?」
「私も大丈夫よ。それより、最後の状況を考える課題が興味深かったわ。私には、使用人が受け取った伝言の一部しか分からない状況が渡されたの。誰へ確認するべきか考えるのに、思ったより時間がかかってしまったわ」
リビアは少し悔しそうに笑った。俺は自分の紙に書かれていた状況を伝え、来客を迎える補助担当として何を確認するか考えたことを話した。
「同じ講習なのに、考えたことが全然違うんだね。俺は、来客を待たせるときの説明をどうするか迷ったんだ」
「私は、伝言を受け取った方がどこまで内容を理解しているか、そこが気になったわ。けれど、相手が知っているはずだと決めつけることもできないでしょう?」
俺たちは階段へ向かいながら、それぞれの課題で難しかったところを話した。答え合わせをするためではなく、違う立場から見えたものを知りたかった。リビアが朝に言っていた、別々に学んだことをあとで話せるという言葉が、思いがけずその日のうちに実現した気がした。
階段の踊り場で、彼女がふと足を止めた。後ろから来る生徒の邪魔にならないよう窓際へ寄り、俺を見上げる。
「ねえ、セス。今日は、同じ教室にいても席が離れていたでしょう。少しだけ寂しいと思ったのだけれど、説明を聞いているうちに忘れてしまったわ」
「俺も、最初は隣じゃないんだって思ったよ。でも、課題が始まったら自分のことで精いっぱいだった」
「ふふっ。それなら、お互い様ね。……こんなことを言ったら、あなたは寂しがるかしら」
彼女は悪戯っぽく笑ったが、その頬にはほんの少し赤みがあった。俺は窓の外へ目を向け、答えるまでに少し時間をかけた。
「寂しくないわけじゃないよ。でも、リビアが自分のやりたいことに夢中になってるのは、嬉しい。俺もそうだったから、同じなんだと思う」
言い終えると、彼女はしばらく黙って俺を見つめた。やがて、資料を抱えていない方の手を伸ばし、俺の袖口をそっとつまんだ。
「……そういうところ、本当にずるいわ。私が少し意地悪なことを言っても、あなたは私が嬉しくなる答えを返してしまうのね」
「そんなつもりはないんだけど……」
「ええ、知っているわ。だから余計に困るの」
彼女は小さく笑い、袖から指を離した。廊下の向こうではガレスがサザリーと資料を見比べており、俺たちに気づくと、帰りの馬車の時間を気にしているのかと声をかけてきた。リビアはすぐに姿勢を整え、いつもの落ち着いた声で大丈夫だと答えた。
俺たちは皆と挨拶を交わし、学院の玄関へ向かった。公開講習の正式な役割はまだ分からない。けれど、参加できることが決まり、どんな考え方を試すのかも少し見えてきた。その変化は、朝の掲示を見たときの嬉しさとは違う、静かな期待を胸に残していた。
◇
屋敷へ戻るころには、空の雲が夕日に染まり始めていた。馬車を降りると、玄関では使用人が出迎えてくれたが、俺が北門の搬入について尋ねる前に、担当者から連絡表が渡された。
「本日の搬入は予定どおり終了しております。荷物の数量も確認済みです。裏手の通路については、引き続き使用を控えるよう指示が出ています」
「ありがとうございます。以前の立ち寄りについては、何か新しい連絡がありましたか?」
「いえ。そちらはまだ確認中と伺っています。本日の搬入とは別に記録を残しております」
俺は連絡表へ目を通し、記載されている内容が報告と一致していることを確かめた。新しい問題が起きていないことに安心しながらも、以前の疑問が解決したわけではないと意識しておく。
リビアは隣で静かに待っていたが、俺が連絡表を返すと、嬉しそうに微笑んだ。
「今日は、あなたが自分から確認したのね。でも、必要なことだけ聞いて、あとは担当の方へお任せできたみたい」
「うん。学院の授業でも、確認できたことと、まだ分からないことを分ける話があったんだ。屋敷でも同じだと思ったから」
「それなら、今日の授業がもう役立ったのね」
彼女の言葉に頷いたところで、父さんが廊下の奥から姿を現した。俺たちが帰宅したことを確認すると、まずリビアへ挨拶し、それから俺へ視線を向けた。
「お帰りなさい。公開講習については、何か連絡がありましたか」
「うん。参加者の一覧が出て、俺もリビアも参加できることになったんだ。ただ、役割と班はまだ決まっていない。今日は準備説明があって、役割によって知っている情報が違う状況を考える課題をやったよ」
父さんは静かに話を聞き、俺が説明を終えると頷いた。
「それはよい機会ですね。役割ごとに知っていることが違うのは、実際の屋敷でも同じです。ただ、講習では与えられた条件に従って考えることが大切でしょう。こちらの仕事の経験だけで答えを決めないようにしてください」
「分かった。今日も、いつもと違う立場の課題が出て、思ったより難しかったんだ」
「難しいと感じたことを、そのまま覚えておくとよいでしょう。慣れている仕事ほど、知らないうちに判断を省いてしまうものです」
父さんはそう言い残し、夕食前の確認へ向かった。俺も自分の仕事へ戻ろうとしたが、リビアが少しだけ俺の袖を引いた。
「セス。今夜、もし時間があったら、今日の課題についてもう少し話さない? 私は、あなたが何に迷ったのかを聞いてみたいわ」
「うん。俺も、リビアが考えたことをもっと知りたい。仕事が終わったあとなら大丈夫だと思う」
彼女は満足そうに微笑み、自室へ向かった。俺はその背中を見送りながら、今夜はただ同じ時間を過ごすだけではなく、互いに持ち帰った問いを一緒に考えられるのだと思った。
◇
夕食後の仕事を終え、俺が自室で説明会の資料を整理していると、控えめなノックが聞こえた。扉を開けると、リビアが薄い冊子を一冊抱えて立っていた。昼間とは違う柔らかな室内着に着替えており、髪も肩のあたりで自然に流している。
「約束どおり、来てしまったわ。少しお時間をいただいてもいいかしら」
「もちろん。ちょうど資料を見直してたところだよ」
俺は机の上を片づけ、彼女が座れるよう椅子を引いた。リビアは礼を言って腰を下ろし、持ってきた冊子を机の端へ置いた。それは学院から配られた説明資料で、書き込みのある箇所には細い紙片が挟まれている。
「今日の課題で、私が一番迷ったのは、伝言を受け取った人が内容を正しく理解しているかどうか、どう確かめるかということだったの。相手を疑っているように聞こえたら、気分を害するかもしれないでしょう?」
リビアは紙片を挟んだページを開き、記入した内容を俺へ見せた。そこには、伝言を受け取った時刻や相手、伝える必要がある範囲を確認するという項目が、丁寧な字で並んでいる。
「俺だったら、まず伝言をそのまま聞かせてもらうかな。でも、それだけだと、相手がどう受け取ったかは分からないかもしれないね」
「ええ。だから、私なら『確認のために、私が理解した内容をお伝えしてもよろしいでしょうか』と尋ねるかもしれないわ。相手が間違っていると決めつけるのではなく、自分の理解が合っているかを確かめるの」
俺はその言葉を聞いて、なるほどと思った。相手へ正しさを求めるより、自分の理解を確かめる形にすれば、必要な情報を共有しやすい。もちろん状況によっては別の方法もあるだろうが、少なくとも相手を責めるような言い方にはなりにくい。
「リビアらしい考え方だね。相手がどう感じるかまで考えてる」
「そうかしら。私はむしろ、あなたが来客を迎える補助担当になったとき、何を優先したのかが気になるわ」
彼女に促され、俺は自分の課題について説明した。予定より早く到着した来客をどう迎えるか、案内担当者が不在のときに何を確認するか、待つ場所を勝手に決めないこと。話しているうちに、俺が書き損ねたことにも気づいた。
「……そういえば、来客が何を急いでいるのか、そこは考えてなかった。予定より早く来たからって、急ぎの用事があるとは限らないし、逆に何か事情があるかもしれない」
リビアは俺の言葉を聞いて頷いたが、すぐに答えを与えることはしなかった。
「それなら、来客へ失礼のない範囲で、どのようなご用件か確認することも必要かもしれないわね。ただ、補助担当としてどこまで聞いてよいのかは、講習の決まりによるでしょうけれど」
「うん。そこは担当者に聞くべきだと思う。今日の課題には書かれてなかったから、次の説明で確認できたらいいな」
俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに笑った。
「私たち、同じ紙を渡されたわけではないのに、似たところで迷っていたのね」
「そうだね。相手が何を知っていて、何を知らないのか。そこを勝手に決められないところが難しいんだと思う」
机の上には二人分の資料が並び、ランプの明かりが紙の端を淡く照らしていた。窓の外からは夜風が葉を揺らす音が聞こえ、廊下を通る使用人の足音が遠ざかっていく。俺たちはしばらく互いの書き込みを見比べたが、どちらが正しいかを決めようとはしなかった。
やがてリビアは資料を閉じ、俺の顔を見上げた。
「セス。朝、私が別の班になっても学びたいと言ったとき、あなたは少し驚いていたでしょう?」
「……うん。正直に言うと、俺と同じ班になりたいと思ってくれてるんだろうなって、勝手に考えてた」
「同じ班になりたい気持ちはあるわ。あなたと一緒に何かをする時間は、私にとって大切だもの。でも、それだけで決めたら、私が自分で希望した理由まで曖昧になってしまう気がしたの」
リビアは膝の上で両手を重ね、少し考えるように視線を落とした。いつも自信に満ちて見える彼女が、言葉を選ぶために沈黙する姿を、俺は急かさず見守った。
「私は、セスが執事として働く姿をずっと近くで見てきたわ。でも、見ていることと、その立場で考えることは違うでしょう? あなたの仕事を理解しているつもりになっていたら、きっと見落としてしまうことがあると思うの」
彼女の声は穏やかだったが、最後の言葉には確かな力があった。俺はその気持ちを聞き、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。彼女は俺のためだけではなく、自分自身の目で知らないことを確かめようとしている。
「……俺も、リビアのことを分かってるつもりにならないようにしたいな。今日みたいに、別々に考えたことを話すと、知らなかった一面が見えるから」
そう言うと、リビアは顔を上げ、しばらく俺を見つめた。やがて彼女は小さく笑い、机の端に置いていた手をこちらへ伸ばした。
「それなら、これからもたくさん話しましょう。あなたが知らない私のことも、私がまだ知らないあなたのことも、急いで全部知ろうとしなくていいのだもの」
俺は彼女の手を取り、そっと握り返した。指先から伝わる温かさに、昼間の教室で感じた緊張がゆっくりほどけていく。
「うん。講習で別の班になっても、帰ってきたら話せるしね」
「ええ。ただし、同じ班になれたら、それはそれで嬉しいわ。そこまで大人ぶるつもりはないもの」
リビアは少し照れたように笑った。俺もつられて笑い、彼女の手を握る力をほんの少し強めた。
やがて夜も更け、リビアは資料を抱えて立ち上がった。俺は扉まで見送り、彼女が廊下へ出る前に、今日の説明会で一つ気になったことを思い出した。
「リビア。役割によって知ってる情報が違うって、先生が言ってたよね。もし講習で俺たちが別の情報を持つことになったら、勝手に全部教え合わないようにしないといけないんだろうな」
彼女は一度立ち止まり、真剣な表情で頷いた。
「そうね。講習の決まりに従うことが大切だわ。知らないことを知ろうとするのと、教えてはいけないことを聞き出すのは違うもの。私たちなら、きっとその違いも学べると思うわ」
「うん。まずは正式な役割が決まるのを待とう」
「ええ。おやすみなさい、セス。今日は一緒に考えてくれてありがとう」
「おやすみ、リビア。俺の方こそ、ありがとう」
扉を閉めたあと、俺は机へ戻って資料を整えた。参加者に選ばれたことは確かだが、希望した役割になるかどうかも、リビアと同じ班になるかどうかも、まだ分からない。今日の説明で増えたのは答えよりも、考えてみたいことの方だった。
(……でも、それでいいのかもしれない。知らないことがあるから、講習へ参加する意味があるんだ)
ランプの明かりを落とす前に、俺はノートの余白へ一つだけ書き加えた。相手の持つ情報を、勝手に知っているつもりにならないこと。それは学院の講習だけではなく、屋敷の仕事にも、そしてリビアとこれから一緒に歩んでいく時間にも、必要なことのように思えた。




